02話:勇者の帰還
走行中の特急列車に向かって身投げした人間がどうなるかご存知だろうか。よくホームに投身自殺した人間の残骸集めを指してマグロ拾いなどというが、そんな生易しいものではない。銃弾並の速度で走る大質量の列車に肉体が接触すると、千切れたり砕けたりするのを通り越して「しぶき」になってしまうという。ちょうど水風船をバットで打って霧にしてしまうように、一人の人間の血肉が赤いしぶきになって電車の進行方向90度の範囲に飛び散るのだそうだ。その場に居合わせた人には同情の念を禁じ得ない。それを掃除する人にも。まぁ俺が轢かれたのは通勤快速だから関係ないんだけどね。
さて、それで俺はどうなったかというと、バラバラ死体にはなってない。そのうえ異世界に、すなわち聖地サンテステラに帰還を果たせたと胸を張って言えたなら良かったのだが、ちょっとその問題は保留にしよう。俺は今海の上にいる。
「ゴッポォ……どなたか~!あのー!!ドプォ」
海の上にいるというのはやや楽観的な表現だろう。より厳密に言えば俺は溺れかけている。異世界に戻れることがあればとこの10年間は様々な勉学に時間を使ってきたが、泳ぎの練習もしておけばよかった。
整理しよう。俺は電車に轢かれ、気づいたときには海の上にいた。最も望ましい推測では、この海は聖地サンテステラのいずこかの海であり、俺は異世界へ帰ってこれたということになる。だが人間の認識できる時間の連続性というのは極めて断片的な記憶どうしを補完した結果でしかないという前提に立てば、別の可能性を考慮する必要があるだろう。例えば実は俺は電車に轢かれておらず、ショックで気絶してホーム側に倒れた後に何かが起きて誰かに海に投げ込まれたとかだ。相当に酔っていたから自分から海に入った可能性もあるし、時空変調の特異点が出現した結果として物理法則が乱れて肉体が運動エネルギーから保護されたまま海まで飛ばされた可能性もある。
「ヴぉ、え”ぇぇぇ、、ヴぉえええ」
波が高く、必死に立ち泳ぎで姿勢を維持しても容赦なしに口に海水が入ってくる。10秒に3秒くらいしか水面上に顔が出ないのに、顔を出しても吐き気で息が吸えない。もう考えても仕方ないので異世界に帰還できた前提で話すが、これは非常にまずい展開である。来たばっかなのに勇者が事故死なんて想定できないだろ普通。
悪いことに、最初にして最大の生命の危機に直面しているのにも関わらず何の打開策も思いつかない。さっきから頑張って首を伸ばして周囲を伺っているが、全周囲で水平線しか見えない。息も絶え絶えで、すでに視界の四隅が暗くなってきている。人魚姫でも海上保安庁でも何でもいいから誰か助けに来てくれなきゃ死んじゃう。
突然いい考えが思いついた。潜れば良いんだ。今は生命の危機、俺は考えを検証する間もなく即座に実行に移した。頭を下に向けた瞬間、鼻からものすごい勢いで海水が入ってくる。鼻孔から耳まで侵入した海水を追い出すため、俺は思い切り息を吐き出した。ちょっと待て、俺はなんで潜ってるんだ。1秒前までは最良だと思えたのに、今は理由が分からない。肺は空っぽになり、目の前が暗く遠くなっていく。
きっと戻れたんだ、いいじゃないか。俺は消えゆく意識のなかでそう念じ、目を閉じた。
「望みは叶えられました。あなたは役目を果たすでしょう」
優しい声で誰かが言った。女だ。目の前に居るはずなのに、ぼやけて見えない。俺はせいいっぱい手を伸ばし、人影に触れようとする。自分のものと思えないほど手が重たい。指先が微かに、何かに触れた。柔らかく温かい触り心地。俺はあらんばかりの力を込めて腕を伸ばし、人影の女を掴む。全般では丸くて柔らかいが、先端に突起がある。不思議なもので、こうして触れていると心が癒やされるようだ。
女の人影は少し身を引くと、腕を上げた。こちらに手を伸ばすのかと思ったがそれは間違いで、手は振り下ろされた。と同時に右頬に激痛が走る――
「痛っでぇええ!」
「どこば触ってらんだ!!!」
少女の渾身の一撃で目が覚めた俺は、自分が横たわっていることに気づいた。砂浜だ。徐々に感覚が戻ってくる。目も鼻の奥も耳さえも、首から上全部を塩素消毒したみたいなガビガビした痛みが突き上げてくる。そうだ、俺は海で溺れていたんだ。気づいたところで横に目をやると、大小の魚が横たわって銀色の目を空に向けている。俺はたまらず飛び起きる。
「うぉっ、……えっと、ここってどこだか分かります?」
「こーのふしだら者が!」
状況が状況なのでいちおう所在の確認を試みたが、どうやらこの少女は怒り心頭のようで、有益な答えは得られそうにない。また殴られそうなので怖くて聞けないが、さっき俺はどこを触ってたのやら。
「おおー、目ば覚ますたが」
背後からの声に振り向くと、一人の中年男性がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。男性のさらに背後にあった帆立の小舟が俺の気を引いた。少女と男性はそれとなく顔が似ていて、親子だろう。両者とも何とも着ているものは洋服のシャツとズボンだが、仕立てや装具が明らかに現代のそれと異なっている。俺の心は一気に高鳴る。
「旦那さん、大丈夫だが?……ってセリア!おめ旦那さんの事ば殴ったびょん!」
「だってこのふとがおいの胸ば触ったはんで」
どうも俺の右頬にはくっきり分かる張り手の跡がついてるらしい。でもこれは俺が悪いわ。とにかく情報を聞き出さなければいけない。疑問を正さなければ。
「いやお父さん、これは私が悪いんです。本当に申し訳ない、故意ではないんですが」
「本当さ?そうだば、まぁ…」
「すたはんで言ったでねの!」
「セリアさん?も申し訳ない、どうかこの通り…」
こちらに恨みがましい視線を向けてくるセリアと呼ばれた少女に合掌で謝意を伝えると、俺はさっきから気になって仕方ない本題に切り込んだ。
「それでお父さん、ここはどこですか?」
尋ねられた父親はきょとんとしている。意図が伝わっていないのだろうか。俺としてはこの津軽弁でしゃべる親子が、ただの変な格好の青森県民でないという確証が一刻も早く欲しかったので、追って質問を重ねる。
「お二人はどこに住んでらっしゃるんですか?」
こちらの質問は明瞭に伝わったようで、すぐに答えが帰ってくる。
「そりゃ旦那さん、わんどはモーフェ村さ住んでら」
モーフェ村……モーフェ村ってどこだよ。知らねえよそんな地名。
この時点で俺は重大な事実に気付く。今俺がいる場所が10年前に来た異世界だったとして、10年前に現地で見聞きした地名を俺はほとんど全部忘れているから何聞いても確証が取れないのだ。ましてあの時は戦乱の真っ只中で、移動も都市から都市だったから村々の名前なんぞ一つも知らない。なんという誤算。モーフェ村というのも北海道の難読地名か何かなんじゃないかと思えてきた。
「それより旦那さん、身体は何どもねのが?わんどが網で引ぎ上げだ時は血色も悪ぐでたげ生ぎでらようには見えねがったげど。自分がどごがら来だが言えるが?」
網で引き上げたって?奇跡かよ。どこから来たかはちゃんと言えるつもりだけど。いや待て、そうそれだ。ここが異世界か確認しても埒が明かないなら、ここが現実でないことを確認すればいいのだ。
俺は力をこめて、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「私は日本から来ました。日本の東京という場所です。ここは日本ですか?」
父親と娘はキョトンとしている。そう、その反応だ。
「むほんってどごだが?」
「ジャパン」
「ざばん」
「東京」
「どーぎょ」
海水にさらされヒリつく目頭に厚いものがこみ上げるのを感じる。俺は来たのだ、異世界に。聖地サンテステラに――!
自分では感涙に咽っているつもりだったが、海水に漬け込まれて脱水した身体からは一滴の涙も流れ出なかった。
俺個人の願望を言えば一刻も早くこの世界の首都に行ってみて、かつて救った町並みが今はどう復興しているかを拝みたかったのが、自分で思ってるより身体の衰弱が激しいようなので数日は例のモーフェ村でお世話になることになった。
モーフェ村は村というか、漁民の集落という感じの場所だった。藁葺き屋根の丸太材の小さな家や倉庫が数棟、海にほど近い浜辺に立ち並んでいる姿は俺の知る中世の生活そのものだ。三角帆を張った小舟が数隻浜辺に留めてある様がいっそう漁村情緒を掻き立てる。悪いところを挙げるなら、家が吹きさらしというところか。、床に臥せっていても海風が吹き込んでくる立地は普段なら心地いいかもしれないが、溺れて死にかけた後では有り難くない。
真水を浴びるように飲んでは出し、というのを一日やっていると調子も少し戻ってくる。立てるようになると、俺は村人たちを手伝うようにした。何宿何飯の恩義というやつだ。
「んだ、そごば開いで切るんだ」
この村では単に魚を獲って自給自足する以外に、近隣にある王都に魚を行商しに行くことでも生計を立てているそうだ。近隣にあると言っても王都ルプノープル(そんな名前だったかなぁ)までは1日がかりの道のりなので、真冬でもなければ鮮魚は傷んでしまう。まして王都は広く、末端の消費者まで届くには流通過程でさらに1日以上かかるとかで、この辺りにある漁村では王都に卸す海産品は保存しやすい状態に加工してから売りに行くことが殆どだと親父さん(ドーザという名前だそうだ)は教えてくれた。
「旦那さん、魚捌ぐのめぇねえ」
「いやぁ、何ででしょうね。初めてなんですけどねぇ」
そういう訳で俺も魚をさばく手伝いをしているのだが、不思議なことに俺には魚を捌く才能が備わっていたらしい。日本に居た頃は魚なんか触ったこともなかったが、板前でもやっておけばよかったかもしれない。
魚の保存と言えば第一に思い浮かぶのは塩蔵だが、この村は立地が悪く塩が流通で入手できなく、また塩田も作れない地形なのもあってだいたいは燻製にするという。初めて見た時に倉庫だと思った大きい小屋は、建物の半分は魚を燻すための炉だった。
燻製炉の梁に魚を吊るしながら、俺はドーザ氏に尋ねる。
「そういえばドーザさんは俺のこと旦那さんなんて言いますけど、何で旦那さんなんです?」
「そりゃ旦那さん、立派なべべ着で溺れでだら、こごらではアドラシオの商人の方だよ。旦那さんもそうだびょん?」
アドラシオ?どこだっけ。何か聞いた覚えもあるが、思い出せない。それはそうと立場を勘違いされているのはよくないから一応正しておこう。
「いや俺は商人ではないんですよ(商社勤務だったけどな!)。昨日言った日本とか東京って場所はこの世界とは別の場所でして、俺はそこから着たんです」
「はえぇ……珍すいね、そいだば旦那さん来訪者だ!」
ドーザ氏は手を止め、目を丸くして俺の方を見る。氏曰く、来訪者というのはサンテステラ以外の世界から迷い込んでくる人間のことで、数十年に一回あるのだという。俺みたいなのが他にもいるんだな。ひょっとしたら会えるかもしれない。来訪者は王都で王宮府?という行政機関に対して身柄を登録する義務があるとかで、なおさら王都に行く必要が増したわけだ。
その日の夜、夕食の席でドーザ氏は明日王都に行く事を俺に告げた。俺は体はまだ本調子とはいかなかったが、二つ返事で承諾した。まぁ、常道から言って最初の村でいつまでも時間を潰してる訳にはいかない。それに、溺れて死にかけたのにこの上海産物ばかり食うのもしんどくなって来た頃合いだしな。とはいえ、初日に衝撃的な出会い方をしたセリア嬢ともう会えなくなることは惜しいな。あれからすっかり打ち解けていい感じだったのに。
その流れで俺はずっと聞きたかった事を聞くことにした。
「実は自分は10年前にも一度だけこの世界に来たことがあるんです。この村には来なかったんですが、その時この世界は各地で戦火に飲まれて大変な騒ぎだったのを覚えています。その時お二方は大丈夫でしたか?」
自分が勇者だったことは敢えて伏せた。いやもちろん、「もしかして旦那様があの時の!?」というような流れを期しているのではなく変な気遣いをさせないためだが、想像したら顔がニヤけてきた。そういう感じになっても全然OKです。
「一〇年前だが?その時わっきゃ王都の学校さ居だばって、戦争なんてあったんだが?」
何だって?いや、ひょっとしたらこいつらが10年前の戦争について何も知らないんじゃないかというのは想定していた。田舎暮らしだしな。でも今ドーザ氏は王都に居たと言った。俺はもう一度確認する。
「10年前の、王都ですよ?丘の上にあって、白い城壁の…」
「城壁さ囲まれだ街はこの世界には一づすかね。旦那さ、なっきゃほんとに10年前にもこの世界さ来でだのだが?」
背中を棒で撃たれたような衝撃が走った。俺は、もしかして前と違う世界に来ちゃったのか。それとも前回の冒険は俺の錯覚で、本当に鹿児島まで歩いて帰ってきただけだったのか。急に身体が重くなり、目の前が暗くなっていく。
いいや、そんなはずはない。大部分は忘れても、今でも思い出せることはある。あの日この世界に連れてこられた俺が最初に降り立った王都正門の眺めは、あの家具や建材で補強された崩れかけの城壁は、救いを求める人々の表情は、あれが錯覚などということがあるだろうか。何かあるはずだ。確かめる方法が。