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 大型の犬と友人に踏み台にされた痛みの余韻を鱗道が引き摺ることを、奥まった一角から上がった音が許さなかった。実に様々な種類の鈍い音が混ざった大きな音で、鱗道は体を上げる。狭い隙間ではシロが、
『うわぁ……ど、どうしよう……』
 と、嘆きの声を上げて狼狽えていた。
 古い机は狭苦しい棚と壁の間で椅子共々倒れていた。コードが引っかかった卓上灯は落下を免れ、あらぬ方向を照らしている。どれ程の勢いで突っ込んだというのか、猪狩の上半身は完全に机と椅子の下敷きになっていた。
「おい、大丈夫か!」
 己の背中よりも大惨事である。鱗道は店内に下りると、シロを避けて急いで奥に向かった。椅子を退かし、卓上灯のコードを引いて椅子の上に置き、としたところで、
「……痛ぇが……大丈夫だ……」
 と、呻き声混ざりの返事がある。はぁと息を吐いて、鱗道は机に手をかけた。
「いくら何でも、向こう見ずにも程があるぞ」
『鱗道。責は私にあります。この件に関して猪狩晃を責めないでください』
 苛立ち混ざりの鱗道に対して、クロの硬質な声は意外そのものであった。それに、声はしてもクロの姿は見えない。クロの姿を探すために黙った鱗道の理由を猪狩は知ることも出来ずに、
「悪ぃな……が、見逃せってのは出来ねぇからよ」
 クロが庇ったことなどつゆ知らず、言い訳を並べながら机の下から覗く猪狩の足がばたつきだした。椅子が退かされたことで、多少自由が利くようになったのだろう。が、足は不格好に足掻くばかりで裏から机を持ち上げようだとか、這い出ようということは出来ないらしい。
「……自力で出られんのか?」
「ちょっと難しいな……クロを抱えちまってんのと、肩がはまっちまって……もうちょい机、持ち上げられねぇか?」
 姿の見えないクロは猪狩と共に机の下敷きになっているらしい。先程のクロの声が普段通りで、猪狩の抱えているという言葉からもクロは無事であるのだろう。
「ちょっと待ってろ」
 引き出しが幾つも備わっている木造の机であるが、引き出しの中は重たいものは入っていない。斜めに倒れこんでいることや側面からと言う不利もあるが、鱗道が全力で引き起こそうとすれば机は持ち上がりだした。机の下で重たい音が一つ上がった後に、猪狩と机の隙間から羽根の向きが乱れたクロが姿を現した。そして、入れ替わるようにシロが出来た隙間に体をねじ込んでいく。クロとは違い、大型犬の体躯に豊かな被毛だ。机の下はぎゅうぎゅうに詰まってしまうだろう。
「うぉっ、冷てぇ! くすぐってぇ!」
『怪我はなさそうだねぇ! 良かったねぇ!』
「おい! 顔を舐めんな! 今、それどころじゃねぇんだよ! 分かるだろ!」
 ヒャンヒャンと跳ねるような鳴き声と猪狩の大声で机の下が賑やかになった。抱えられていたクロが出てこられたと言うことは机と床の間にはまった肩は外れたのだろうが、まだ足が足掻いているばかりであるのを見るに自力で出るには足りないらしい。が、机を直すには側面からだけでは限界がある。足場も状況も悪ければ、一応、色々なものに踏み台にされた背中も痛むのだ。
「シロ、中から支えられんか」
『やってみるけど、猪狩を踏んじゃうよ?』
「猪狩、シロに中から支えて貰って完全に机を起こすから、ちょっと踏まれてくれ」
 鱗道の足下では、羽根の向きも直さずにクロがまっすぐ立っている。一言も発さず、無駄な動きもせず見守る様からは心配な様子が窺えた。
「踏むって、ちょっ――痛ぇ痛ぇ痛ぇ! 脇腹は痛ぇ!」
 鱗道が引き上げようとしている机に、下から持ち上げられるような力が加わる。シロが頭か体で持ち上げようとしてくれているのだろう。側では猪狩の足が一層激しくばたついているが、なんとかこのまま机を元の状態に直せそうだ。
 机の脚が床を擦り、起き上がった机の下から真っ先に顔を出したのはシロであった。やりきった、と言わんばかりの顔で舌を垂らしている。鱗道もすっかり汗だくになっていた。普段から運動などもしないものだから、机一つを動かしただけで息が上がっている。猪狩の足はすっかり静かになっていた。シロに踏まれていたことが堪えたのだろう。
『鱗道』
 静まりかえった猪狩の様子を見に、シロが再び机の下に潜っていく。それを見ていた鱗道の視界に、クロが割り込んだ。直されたばかりの机上に飛び乗り、自身の羽根にはまだ手を着けず、嘴を開いて、
『決定的な瞬間は私も見逃しているのですが、非常に不可解な事態が発生しています』
 と、硬質な声で告げた。凜として涼やかな声を聞くだけでも、涼を感じる気がしてもう少し喋り続けて欲しいと思ったが、クロの変わらぬ声に反して言葉や語調は深刻さを訴えていた。
「不可解?」
『あっ』
 鱗道が問う前に、机の下からシロの驚嘆の声が上がる。そして、
『鱗道! 大変! 凄く大変!』
 と、クロと全く同じ内容が全く異なる声と語調で伝えられ、シロが机の下から飛び出してきた。机が起こされて空間を得て、シロが抜け出たことで重しもなくなった猪狩が呻きながら起き上がってくる。
『壺が、壺がね!』
 ひゃんひゃんと鳴き喚くシロは、鳴き声も言葉も要領を得ない。説明はクロに頼みたいのだが、クロは猪狩が起き上がってきたのを確認すると、
『百聞は一見にしかずと言いますので』
 と言ったきり、黙ってしまった。動きまで落ち着かなくなってきたシロを宥めていると、机の上にゴンと重たい音を立てて壺が置かれた。猪狩も机に手を突いて、重々しく息を吐き、すっかり乱れた髪を右手で掻き上げている。
 シロを宥めていた鱗道の手が止まった。止まらざるを得なかったし、何かを言いかけた口まで開いたままで止めてしまった。シロが色々と単語と感情で語っているのだが、内容は見事に頭に入ってこない。クロの凜として硬質な声を、鱗道はこの短い間に酷く待ち望んでいたのだが、鱗道が一見したことを確認するまでクロは口を開かないつもりらしい。ただ、確かにいくら状況を説明されようとも、鱗道は理解しなかったであろう。
 なにせ、大人の手は窄めなければ通らないような大きさしかなかった壺の口は、猪狩の左手を手首まですっぽりと飲み込んでいるのだから。
「……猪狩、お前、その、壺」
 結局、鱗道もまたシロに似たり寄ったりの、単語と不明瞭な声でしか言えず、
「俺が聞きてぇ」
 猪狩も、右手で頭を抱えたまま重苦しい声で言い終えてしまう。
『事態を悪化させた原因は私です。鱗道』
 思考停止の鱗道の脳味噌に差し込まれたのは、硬質な声――
『猪狩晃は正体不明が壺に引き込むより早く指輪を掴んだのです。指輪を掴む手と壺がぶつかり、体勢を崩していた猪狩晃は壺と机と共にあの惨状となったのですが』
 待ち望んでいたクロの説明である。開かれたクロの嘴を見て、猪狩もクロが鱗道に説明中であることを知っただろう。無言のまま右手で壺を押さえ付け、左手を引き抜こうと奮闘している。
『壺の口は猪狩晃の手を飲み込めるほどの大きさはありません。間近で見ていたので間違いないでしょう。従って、このように断言が出来ます』
 あまりにも淡々としたクロの声は、
『壺は確実に変形しました。しかし、決定的な瞬間を見逃していますので、そのメカニズムは一切不明です。正体不明に関して不可解な情報が増えてしまいました』
 自身が口にした内容の不完全さを口惜しみ、嘆いているのも要因らしい。そこで、クロは嘴を閉ざしてしまった。発言終了の合図である。それを見た猪狩は当然、
「おい、クロはなんて言ったんだ」
 と、通訳を求めてきたが、鱗道はすぐに返事が出来なかった。鱗道の言葉で説明するにしてもクロの言葉と内容を咀嚼する必要がある。クロの発言をそのまま復唱するにしても、クロにもう一度発言を頼まねばならない。ただ何よりもまず、悪化した現状と壺の謎が増えた現実を飲み込まねばならなかった。

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