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 開店当初から据えられている古い机は本当にただの古い机である。何のいわれもなく、思い入れもなく、〝彼方の世界〟が関わっているだとか拘りなぞもない。質屋を開きながら蛇神の代理仕事を行うにあたり、人目を避けられる作業場に誂えて見れば丁度良かっただけの物だ。繁盛もしていない質屋の、薄暗がりの奥まった一角。そんな場所に、店主である鱗道以外が座ることは今までなかった。
 その机に今、猪狩が座っている。店内の照明が届ききらない一角を照らす古い卓上灯。強面で派手な服の大男が不機嫌そうに座っている様は――
「俺を被疑者に見立ててんじゃねぇだろうな」
 鱗道は居間と店の段差に腰を下ろしたまま頭を激しく横に振った。考えていたことは図星である。ただ単純な被疑者――ドラマで見るような取調室のようだと思うには、猪狩の左手に嵌まった壺の異物感が凄まじい。事態は深刻である。承知している。だが、
『すっぽりだねぇ』
 クゥンという一鳴きに、感心めいたシロの一言が余計であった。鱗道は口元を手で隠しながら、頭を俯かせる。シロの鳴き声だけでは思い遣っているようにしか聞こえない――実際、シロには思い遣りもあるのだろうがそれよりは壺に対する関心の方が強いのである――猪狩が、シロの頭を撫でているのが複雑な思いを沸き立たせた。
 一方、クロはというとまだ羽根の乱れもそのまま机の端に立ってじっと壺を観察し続けている。猪狩から通訳を求められた後、鱗道はクロの言葉を復唱することを選んだ。その時にもう一度言ってくれ、と鱗道に頼まれ同じ言葉を寸分違わず繰り返した以降、クロにしては珍しいほどに押し黙っている。こうなると、付き合いの長い鱗道でもクロの感情は想像するしかない。なにせ、表情の他に殆ど動かないクロから表現されるものなどあまりに限られている。そして、その想像出来る感情も、鱗道には自信がなかった。気に病んでいるような、思い詰めているような、そんな気がするが確証はないし、何に対して、何故、というところも分からない。クロが乱れた羽根もそのままにしていることなど、鱗道の記憶では片手に余るほどしかないのだから。
 盛大な溜め息が聞こえ、顔を上げた。先程まで自身の左手を飲み込んだ壺相手に奮闘していた猪狩も、ぐったりと椅子にもたれ掛かっている。右手だけでは直せない髪があちこちに跳ねていた。首や顔にかかるのが不快なのか、頭を振っているのがイヌやクマのようだ。
「で……どうなんだ」
「どうもなにも、マジで抜けねぇ」
 鱗道の問いに、咳払いを挟んでから猪狩は口を開いた。深刻な事態であるが同時に好機でもある。人伝ではなく、壺の怪現象を目の前に、当事者から情報を聞き出せるのだから。聞き出される側の猪狩も、鱗道にとって好機であることは承知しているのだろう。すんなりと体感を話し始めた。
「痛くもねぇ、が……時々握り直さねぇと、手が解けかけてるときがあるんだよな。さっきも、これで盗られたわけだ」
「他に不調は」
「ねぇな。ま、〝藪〟ン時みてぇに、なんかされても気が付いてねぇって可能性はあるんだろうが」
「……一回、指輪を手放すってのは」
「絶対ぇ嫌だ」
 鱗道の言葉に被せるようにして、また歯を剥くほどの勢いで猪狩が断言する。僅かに上がった左手の壺が机に落とされてゴンと鈍い音を立てた。
「手放して謝り倒せば、って奴だろ? なんで盗られた側がやんなきゃなんねぇんだよ。それこそ最終手段だぜ」
 壺が机に落とされた後、クロが机上から飛び立った。猪狩の目はそれを追った後、自由の利く右手で髪を掻き上げながら額を押さえ、そのまま肘を突く。僅かな隙間からじっと壺を睨む目は鋭いが感情に乏しい眼差しであった。それが、鱗道に嫌な予感を想起させて、
「グレイ、トンカチ持ってこい」
 同時に、言葉が的中を知らせた。一段と低く発せられた声から自棄で放たれた言葉でないことは鱗道にも分かる。感情が高ぶりすぎると冷えていく男であるから、単なる無謀な思考に走っての発言ではないことも。が、当然、頷けようはずがない。
「岩に叩き付けても割れなかったもんが、どうにかなるとは思えんね」
 猪狩は鱗道に目もくれなかった。鱗道が首を横に振ることも、すんなりと同意するはずがないことも分かっていたからだろう。
「やってみねぇと分からねぇだろ」
「危険すぎる。もし……もしもだ。万が一割れたら、お前の手がただじゃ済まん」
「手の一本くらい安いもんだ」
「正気か? 本気で言ってるとしても、俺には高すぎる」
 我の強い言い合いはそこで途切れた。猪狩がしかめた顔を上げてようやく鱗道を見たかと思えば、頑なな表情を見てすぐに顔を逸らす――そう受け取ったのは鱗道に依るところが多く、実際には、
「おい、シロ。お前、トンカチ分かるか? どこにあるんだ」
 右手に支えられた顔はシロを見ただけ、だったのかもしれない。シロは猪狩の顔を上目遣いで見ながら、
『ダメだよ。分かんないんだもん。鱗道の言う通り、危ないもの』
 と、キュンキュンと鳴いた。当然、猪狩にはただの鳴き声しか聞こえていないが、その鳴き声が猪狩に対する反対意見を述べていることは十二分に伝わろう。
「ちっ、協力は仰げねぇか。所詮はシロもグレイのイヌかよ」
 舌打ち混ざりの言葉に、シロが不思議そうに首を傾ぐ。どう言う意味かと尋ねる意図で猪狩に鼻を寄せたが、素っ気なくあしらわれてしまうばかりだ。自力で探すなどと言い出さないかと考えていた鱗道の真横を羽音が抜き去っていく。クロは居間にいたらしいが、その足が掴んでいる物を見て鱗道は思わず声を上げた。
「クロ!」
 既に鱗道の横を抜けていたクロを捕まえる術などない。鱗道が立ち上がった頃には、クロはすでに机上に着地している。卓上灯の袂、壺の真横に両足に掴んだトンカチと共に。クロが嘴を猪狩に向けたが、当の猪狩ですら目を丸くしていた。猪狩も、クロに頼るという選択肢は持っていなかったに違いない。クロは「鱗道堂」で一番猪狩の味方をしない筈だからだ。
 猪狩がトンカチを手に取らないからか、クロは嘴を開いた。鋒は猪狩に向いているものの、言葉は鱗道に向けられている。
『鱗道、私も検証の余地とその必要性があると判断致しました。猪狩晃が自ら構わないと言っているのですから、私が反対する理由はありません』
「検証? 何を検証するって言うんだ」
 クロが嘴を開いたのは、鱗道がクロの言葉で気になった物を繰り返すだろう事を見越したものである。あるいは、トンカチを持ってきたクロが嘴を開いたというだけでも猪狩が何かを解釈し、内容を察すると期待したのもあろう。クロの目前で、猪狩が見開いたばかりの目を鋭く細めた。そして、右手はクロが運んできたトンカチを握り込む。
「お前、見てんのはそこでいいのか」
 おい、と鱗道が上げた声は双方の耳に入っていないようだ。クロは嘴を閉ざすと猪狩の邪魔にならず、間違ってもトンカチが振り下ろされない位置――鱗道にしているように、猪狩の左肩に飛び乗った。制止に動いていた鱗道の歩も言葉も、栓がされたようにぐっと詰まる。
『シロ、貴方も見ていてください。私や猪狩晃では見付けられない物を貴方は視認する可能性があります。ただ、貴方の安全には重点を置くように』
 クロの開かれた嘴は、鱗道と同じく危ないのだからとヒャンヒャン鳴いて猪狩の足を掻き始めていたシロに向いた。クロの言葉を受けて、シロはクゥンと困ったように一鳴きする。そして猪狩の足から離れて、壺が見えるようにぐっと頭を伸ばした。クロの嘴が閉ざされ、硬質な音が一度だけ鳴った。シロに対する忠言が終わったのだと判断したのだろう。猪狩の右手は素早くトンカチを振り上げる。鱗道は止めるも叶わず、祈るも願うも叶わず、トンカチが振り下ろされた瞬間には思わず目を閉じることしか出来なかった。
 陶器が砕ける音が響く。音がしてから少し経過して、鱗道は恐る恐る目を開けた。シロの耳は真っ直ぐピンと立っていて、クロは猪狩の左肩から首を伸ばしており、猪狩に握られたトンカチは完全に壺に接している。そして、壺は割れていない。凹みすらしていない。音がなければただ乗せただけだと勘違いしそうな光景である。
「……手応えがねぇな」
 猪狩の表情は冴えず、硬いままだった。壺が割れなかったことに――誰も負傷しなかったと言うことに、鱗道は安堵して大きく溜め息を吐いた。机に歩み寄る足下がおぼつかないのは、心的な疲労が原因である。
「本当に割れんのだな」
「手応えがねぇのは右手じゃねぇ。左手だ」
 鱗道の目前で素早くトンカチが振り上げられた。今度は目を閉じる暇もない。振り下ろされたトンカチが上げた音は先程よりも軽かった。割ってやろうという一振りではなく、
「全然、左手に響いてこねぇ。むしろ、右手には割った感覚があるんだよなァ」
 手応えの有無や左右差を確認する為のものであったようだ。
「……そんなことがあるか?」
「そりゃ、俺が聞きてぇよ……カミサマ沙汰ならあり得んのか?」
 鱗道の呟きは小さい物だが、猪狩にも聞こえたらしく、猪狩もまた不可解そうに首を傾いだ。壺の口は手首に食い込んでいるのではないかと思うほどしっかりと嵌まっている。壺に衝撃があれば猪狩の左手にも当然伝わるはずだ。右手に割った感覚があるというのであれば、尚のことである。
 カミサマ沙汰――〝彼方の世界〟が及ぼす影響は、殆どが人間の理外にある。常識で考えて叶わぬことも、〝彼方の世界〟が関われば可能な事象に易々と転ぶ。あり得るか否かで問われれば、あり得ると答えよう。問題は、どのようにして可能となったか、である。そればかりは蛇神の代理とは言え人間である鱗道には、事象の原因を見るか原因から話を聞くかせねば答えが得られない。
 猪狩がトンカチを手放して首を傾いだ方向が左であったからか、単なるタイミングの問題か、猪狩の肩からクロが離れて二つの羽ばたきの後に壺の上に飛び移る。クロの閉ざされたままの嘴はまず、じっと壺を見ていたシロに向けられた。
『シロ、貴方は何か見ましたか?』
『壺、凹んだ気がする』
 少し悩む間を持って、シロが小さく鼻を鳴らす。あまり自信はなさそうだ。シロがいくら大型犬ほどの体格があろうと、机の横から首を伸ばしたところで真横からしか見えなかったからだろう。
「凹んだ?」
 鱗道の問いに、シロが鱗道を見上げてうん、と頷く。多分、と気弱な返事が続いたが。シロに問うたクロは、鱗道と猪狩が並ぶ方に全身の向きを変えた。今度は嘴を開いて、
『私も壺が凹む――厳密には歪むのを目撃しました。もっとはっきりと証言するならば、この壺はすでに割れているようです』
 と、語り終えると音を立てて嘴を閉ざす。閉ざされた嘴はじっと壺の口を見つめていた。鱗道も倣うように腰を折って壺をまじまじと観察する。シロやクロが言うとおり凹むようにも、またクロが言うとおり割れているようにも見えはしない。壺の表面は多少の傷は見受けられるもつるりとしていて、老紳士が語り指差した釉薬の欠けも見付けられない。が、机上に置いて観察したときと違って不自然に見える箇所が一つだけあった。壺の口である。
「おい、グレイ。コイツらはなんて言ったんだよ」
 老眼鏡を取り出して壺の口を観察する鱗道に、猪狩が通訳を催促する。ああ、と曖昧な相槌を挟みながら、
「クロもシロも、壺が凹んだのを見たそうだ。しかもクロは壺はすでに割れてる、と」
 自身が聞いた言葉を殆どそのまま口にする。壺の口は、置かれていただけの時より明らかに広がっていた。大人の手首が入る大きさではなかった記憶は鱗道にもあるし、クロも証言している。明らかに不自然な形は――妙な凹凸が壺の口を繋いでいるが故に形成されているようだ。
 白い釉薬の色と壺の形を真似た継ぎ接ぎの形跡が見て取れる。凹凸は接着剤や漆継ぎの痕跡のようだった。が、当然この短時間で継ぎ接ぎなどされていないし、接着剤や漆継ぎとは違って周囲の僅かな色の変化まですっかり真似ているのである。
 鱗道の通訳を聞いた猪狩はふぅんと声とも息ともつかない返事をし、壺の口をじっと見つめているクロを見下ろした。そして、
「まだ検証してぇんだろ? 遠慮はいらねぇから、思うとおりにしていいぜ」
 と、笑みを浮かべて軽々しく言葉を放る。親が遠慮している子供に言うようでも、気遣う初対面にリラックスを促すために言うようでもある親しげな語調であった。クロはその言葉を待っていたか――もし、猪狩が言い出さねば鱗道を介して頼むつもりであっただろうが――頭をもたげ、赤い目でしっかりと猪狩を見る。それから、ゆっくりと頭を垂れた。礼ではない。壺の口を覗き込むように逆さになった頭は、開いた上嘴を壺の口と猪狩の手首の間にねじ込んでいく。鋭い先端は肉に突き刺さらぬよう細心の注意を払われていたが、僅かな隙間を食い込み押し退けながら進む。猪狩は顔をしかめはすれど、痛いなどと呻きの一つも口にしなかった。クロはねじ込んだ嘴を閉ざして頭を上げようとしている。壺の端を捲り上げようか、持ち上げようかとしているようだ。出来るはずがない。本来ならば。

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