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 夜間に参拝客などまずいないが、神社と続く参道には街灯が点いている。ただ、それも参道沿いと拝殿周囲くらいなもので、他の小さな社や人気のない社務所には灯りがない。また、神社を抱える山が有する湧き水が溜まり、「御神水」として汲める水場とそこに続く天然石の舗装路も同様だ。鱗道とシロの歩みは石造りの水汲み場を過ぎて、より暗い山中に入っていく。
 道を外れたとはいえ、人の手入れがされている山である。シロの鼻を頼りに進む道なき道であるが、木の大半は葉を落とし天も抜けていて視界は良好、満月も近い月明かりとなれば手持ちの光源でも充分歩けた。今は大変便利なもので、軽く小さくとも充分な光量を持つ電池式のランタンなど安く簡単に手に入る。ベルトやリュックに取り付ける為の金具がついているランタンを一つは鱗道が手に、もう一つはシロの首輪にぶら下げて山中を進む。シロの首輪にランタンをぶら下げたのは、鱗道がシロを見失わないようにである。シロの体は闇夜にもぼんやりと光って見えるが、それでも蛇神を降ろしていない鱗道にはようやく見える程度だ。シロの体の動きまでは分からない。首輪に灯りがぶら下がっていれば、シロが頭を振っても立ち止まっても体の向きを変えても、その逐一が鱗道にも見えている。また、今も頭上を飛んでいるクロが鱗道やシロの居場所だけでなく細かな動きや変化をより見落としにくくなる筈だ。
 クロには光源を持たせていない。飛んでいるカラスが灯りを持っていれば遠目にも悪目立ちするだろう。肉体的疲労のない、空を自在に飛翔するクロは、葉の落ちきった山ではもっとも機敏に動ける存在である。
『鱗道』
 クロの声に鱗道は顔を上げた。顔を上げたところでクロの姿を見付けることは出来ないが、鱗道の動作はクロに聞こえているという意味を伝えるためのものだ。
『報告をした枯死ですが、私が見たときよりも前進しています。手早く済ませた方が良いでしょう』
 クロの言葉に、鱗道はランタンを一度点滅させた。動作一回は「イエス」、二回は「ノー」という十年以上続くシンプルなルールは非常に便利だ。手段さえあれば山中で声を張り上げる必要がないのだから。
「シロ、何か感じるか?」
 鱗道を先導するシロの足は、距離が開きすぎると止まる。その度に水源を探し地面を擦るようににおいを嗅ぐ鼻をあげ、分厚い耳はあらゆる方向を向いて音を拾う。さらには、〝彼方の世界〟の感覚を全て使って感じ取っていることだろう。首にぶら下げたランタンに照らされる紺碧の目がギラリと光り、豊かな被毛は炎のように揺らめき続けている。長い尾などは、揺れる度に淡い痕跡を残していく。
『少しザワザワする。いるのは、やっぱり良くないのなんだね。なにかなぁ……知ってるにおいだけど、思い出せないや』
 精悍な顔立ちのシロの視点は一方向――海とは反対側であり、おそらくクロが言う前進する枯死の方向でぴたりと止まり、
『向こうは、僕たちに気が付いてるよ』
 口の端が引きつるように持ち上がり、真っ白な犬歯が剥く。鱗道は疲れを訴える足に鞭打って、シロとの距離を詰めた。シロは鱗道が傍らに来ても動かない。ウウ、と小さな唸り声を上げて一方向を睨み続けている。
 葉が落ちた山にある人工的な灯りは、遠目にも目立とう。相手が〝彼方の世界〟の存在であればなおのこと、こちらにいるのが〝此方の世界〟の人間と〝彼方の世界〟の犬であることも容易に知れるのかもしれない。蛇神の巣穴が大分狭まって感覚の鈍った鱗道では一切感じ取れないが、シロがザワザワするというのであれば、やはり相手は穢れや瘴気を孕んだものということだ。
「……さっさと済ませて山を下りよう。水源は、もうすぐそこだろ?」
 シロの頭に手を置いた。いつもならばひんやりと冷たい頭に、ぬるい熱が宿っている。ぬるいとは言え、霊犬であるシロが温度を持つということは、シロに巣くう熱塊の如き穢れが蠢きだしている証拠だ。熱を僅かでも散らすように、鱗道はシロの頭を掻き混ぜた。見覚えのある崖が、鱗道の手にしたランタンにも影を浮かばせている。鱗道はシロを促しながら、自ら歩み出した。
 山の斜面に急に現れる断崖である。滲んだ水が小さな滝のように岩石の崖肌を流れ、石造りの水場に溜まり、地中に作られた水路を通って神社の水汲み場に「御神水」が送られる。崖下の水場、「御神水」の源こそ、目的地の水源だ。
「あそこだ」
 断崖に面し、「御神水」が湧いているこの場所は長く伸びる木も植えられずに開けている。両手を空けるためにランタンの金具をベルトに引っ掛け、鱗道は手袋を脱いでコートのポケットに手を突っ込んだ。五枚の依り代が入っている小袋を、両手でぐしゃぐしゃと潰す。この水源に撒いてしまえば、あとは海を残すだけだ。荒神と思しき存在も鉢合わせにならず、街にも降りてこなければ〝鯨〟が去った後に対応を考えれば良い。
『鱗道!』
 岩肌から滲み流れる水場の側に鱗道が立ったとき、上空からの声は半鐘の如く頭に響いた。見上げようとした顔の動きを止める。それよりもクロの軋む声が言葉を発する方が早く、鱗道は己がすべきことを考えられたからだ。
『何者かが、貴方の方向に向かっています! 私にも見える程の何者かが!』
 鱗道は手早く小袋を開いて、中身を水源に撒いた。ランタンにさらさらと光る粉を最後まで見送ることはしない。もういい筈だ。充分だ。水は水場から溢れて滲んでいるし、地面はぬかるんでいる。全てが水源に落ちなくとも、地中の水に乗って街に流れていく。
「シロ!」
『分かってる』
 帰るぞ、という意味で呼び掛けた後、鱗道の振り返った目に映ったシロの姿は見慣れないものであった。片方の前足を伸ばし、頭を低く下げている。低い唸り声を上げる口は全ての歯を剥き出しにし、紺碧の目は白い体毛の奥でギラついている。分厚い耳は真っ直ぐに立って正面を向き、時折跳ねるのは特徴的な音を聞き取っているからだ。今更ながら、鱗道の耳にも聞こえてきている、素早く規則的な四拍子。枯れ草を踏み、石を踏み、ウマに似てウマよりも軽い蹄の音。シロは、音が迫る一点を見つめたまま動かない。
「シロ、いいんだ! 離れるぞ!」
『駄目。間に合わない』
 シロの声は、聞いたことがない程低い。穢れが浸食しているときとの声の低さともまた違う、落ち着き払った低さだ。鱗道の上げた声の方が余程震えて取り乱している。足音の拍子が変わっていた。二拍子。向こうは、大きく跳ねるように駆けている。
『もう、いる』
 ランタンによって漆黒の山から陰が浮かんだときには、鱗道にとっては手遅れであったろう。陰を浮かばせたランタンの持ち主――シロが居なければ、鱗道には為す術はなかった。
 鱗道にはシロの真っ白い体がウサギのように素早く横へ飛んだように見えた。実際には、シロは前方に飛びかかって陰の首に太い前足の爪を立てようとしたのだ。陰もシロの跳躍を避け、互いにすれ違い、飛び退いたシロの体が横に飛んだように見えたのである。陰は、シロがいた場所近くの枯れ葉や土塊を巻き上げていった。素早く体勢を直したシロが、陰に至近距離で対峙する。ランタンに照らされる細い四肢。闇の中に鉄錆色の双眸が浮かび上がった。
 一頭の牡鹿である。胴体は褐色の短い体毛、腹部や四肢端、尾は薄茶色か白の体毛が生え揃った体付きは動物園や野生化で見るシカと同じだ。だが、大きく違う点が二ヶ所ある。一つは身体の大きさだ。角があっても人の顔の高さを超えないニホンジカとは違い、目線が鱗道とほぼ同じ高さにある。北国に住む種類のシカにも匹敵する身体は、本州の野生化では有り得ない大きさだ。そしてもう一つ。それがこの鹿が〝彼方の世界〟の鹿であることの象徴している――墨を被ったかのような、純黒にして異形の角を有する頭部である。
 幾重にも枝分かれをした巨大な角からは、鱗道の目にも明らかに純黒の瘴気が滲み出している。いつぞやの呪物と化したペンダントから零れるものとは比較にもならない、量に濃度に粘度に密度を有した瘴気は角から流れて鹿の頭部と頸部をしとどに濡らしていた。純黒に濡れる頭部では、強い力が腐って穢れ、溶けた鉄程の熱を内包する鉄錆色の双眸が鱗道とシロを見据えている。
 鹿の右前脚が土を掻く。広い視野で鱗道とシロの両方を見ていた鉄錆色の目が焦点を一人に絞った。頭部を下げ、異形の角を突き出す姿勢を取ってなお視線の矛先は変わらない。鱗道を見ている。荒神に成りかけていたシロと目が合った時以上の、心臓を抉られるような敵意と破壊衝動が身に突き刺さる。
 鹿の駆け始めは酷くゆっくりに見えた。そんな筈がない、異形の角が突き立てられれば一溜まりもない、分かり切っているからこそ鱗道は直線上から外れようとする。だが、足下はぬかるみ、咄嗟に動くには年を取っていて――何より、鹿に向けられた眼差しが鱗道の足をもつれさせた。
 揃った前脚が地面を蹴って身体を浮かせ、揃った後ろ脚が推進力を生む。鹿の巨大な体も相まって、鱗道が認識したのは眼前に角の先端が迫ったその瞬間であった。それでも今、なんとか動き出した鱗道がぬかるみに足を取られながらも水場から離れられたのは、シロが鹿の胴体に真横からぶつかったからである。鹿の矛先は大きく外れ、崖に向く。鈍く重い音が上がり、振り返れば崖肌に角が抉った痕跡がひび割れのように深く刻まれていた。シロとぶつかった鹿は、崖肌を角で抉りながら自ら崖肌を駆け上がって衝突を避けたようだ。距離は、先程よりも少し開くが、鉄錆色の目から向けられる敵意は一切の緩みがない。
『鱗道、立てる?』
 鹿と鱗道の間に立ったシロは唸り声を絶やさなかった。白い被毛が熱気を持って炎のように揺らめいている。冷え固まった残雪の中に巣くう熱塊が目を覚まして動き出しているのだ。眼前にいる荒神と化した鹿に触発されてのことだろう。だが、鱗道に呼び掛けた声は依然としてシロのままだ。
 鹿を避けて倒れ込んだ体を起こし、鱗道は前に立つシロの体に触れた。
「ああ、立てる……大丈夫だ」
 触れていれば汗ばむほどの熱がシロの体に湧いている。穢れの熱塊が動き出しているのは間違いないが、まだシロが制御出来ているらしい。シロの胴体を二回、叩くように撫でてから手を離して鱗道は完全に立ち上がる。触れていたり後ろで座っていたりしたままでは、シロが動くのに邪魔になるからだ。
『ずっと妙にヘビ臭い場所だった。何か見付けたと思ったが、犬と人間でヘビはいないのか』
 頭に響いたのは、妙な甲高さのある男性的な声であった。鹿が角を誇るように頭を振り首を捻る。広い視野は鱗道とシロの両方を漫然と捉えていた。
『犬からは俺と同じにおいがするな。ただ、同じなだけで俺より弱い。お前も同じか、犬』
 ガラスを引っ掻く音に似た、不快を誘う声が鹿の声で間違いない。語りながら、鹿はゆっくりと地面を舐めるように頭を下げていく。挨拶などと言う礼儀正しいものではない。純黒の角の鋒がシロに向けられている。異形の角が軋みを上げながら、小枝の一本一本までシロを射貫く角度に捻れていく。
『なのに、なぁ、なんでお前、他のといるんだ』
 鹿の巨大な体を蹴り出したのは後脚である。低く鋭く跳ねた鹿の角が土を抉りながらシロに迫った。下からシロをすくい上げるように突き上げるつもりなのだろう。鹿の狙いはシロだ。だが、シロの背後には鱗道がいる。一直線だ。ここにいては駄目だと気が付いたが、鱗道はこの場にいる誰よりも判断が遅れてしまう。
 シロは後ろ足だけで立ち上がるようにして、鱗道の方へ倒れ込んだ。反応も行動も追いつかない鱗道を押し退けるためであり、自身に迫る角を避けてかつ狙いを定める為でもあった。咆吼が上がる。大きく開いた顎が鹿の角に食らいつき、浮いた後ろ足でバランスを崩した鱗道を蹴る。鋭く鈍く、硬く締まった物同士がぶつかり鱗道の耳と頭につんざいた。
 鱗道はシロに倒され、蹴り飛ばされた勢いそのまま、土の上を転がった。ランタンがガチャガチャと腰で騒ぎ、枯れ木に身体がぶつかってようやく止まる。シロは鹿の角に噛み付いていて、鹿はシロを払い落とそうと頭を振り回す。シロの首にぶら下がったままのランタンが、土塊と落ち葉を波のように巻き上げた異形の鹿を、神々しくとも禍々しくとも地面や崖肌に照らし出している。
 鹿が頭を振り続ければ、シロの方は噛み付いていられない。遠心力で飛ばされたシロだが、空中で身体を捻り事もなげに着地する。四肢の全てに力を込めて、姿勢を低く保ち、唸り声を上げながらゆっくりと鹿の周囲を歩み始めた。
『ははははは、いるだけじゃなく、まさか、守ろうとでもしてるのか』
 異形は神秘とも畏怖とも取れよう。が、鹿の声と語調は邪悪一色に満ちていた。あらゆる物を見下し、踏み潰し、蹴散らす対象としか見ていない、攻撃的で排他的な意思に染まりきっている。鉄錆色の目は鱗道を一瞥した後、シロに意識を向けたようだ。鱗道の側に寄ろうとしていたシロの足が止まる。鹿の興味はシロに向けられていた。鱗道にくれた一瞥は、人間などいつでも貫けると言い捨てる代わりである。
 シロは鹿に返事をしない。いつでも、どの方向にでも駆け出せるように力を込めたまま、耳を引いて力を溜めている。口吻に皺を寄せ、全ての牙を剥き、ヨダレを垂れ流し――紺碧の目に泥のように粘度の高い朱色が混ざり始めていた。
『鱗道、貴方は、逃げるべきです』
 振り絞ったようなクロの声に鱗道はランタンでの返答をする余裕はない。先程のクロの声が普段はない軋みを持っていたことも気になっているのだが――鹿の意識はシロに向いていても、その広い視野から鱗道が外されたわけではない。見られているという感覚が、心臓を抉られるような痛烈な感覚が、全身を剣山で引っ掻かれているような感覚が一時も剥がれない。
『鱗道』
 クロの呼び掛けにランタンでの返事はやはり出来ず、自分がぶつかった木に手をやって斜面を下りるように足を運ぶ。せめて、これが見えていて返事代わりになると良いのだが。背を向けて逃げることは出来ない。そんなことをしても鹿は鱗道よりも素早く――それこそ、鹿の一瞥通り、簡単に鱗道を角で貫くだろう。
『変な奴だな。お前、他のといるのもそうだが、守ろうってのが変だ』
『それのどこが変なの?』
 クロが鱗道に離れるように告げたことも、鱗道がそれに従って退こうとしていることも、シロは気が付いている。鹿がシロに興味を向けている今が絶好の機会であることもだ。シロが返事をしたことに気分を良くしたのか、鹿が角を大きく振った。角から溢れる瘴気があちこちに飛び散り、シロの顔にも数滴跳ねる。黒いシミは、白い被毛の中にゆっくりと溶けた。
『全部だ。俺と同じなんだろ? なら考えてもみろ、お前、他のものなんざ――おや、おやおや、そうか、お前、もしかして、まだ何も殺していないのか?』
 鱗道はゆっくりと体を斜面に降ろしていく。姿勢を低くし、極力音を立てないようにゆっくりと。鱗道の動きはクロにも見えているだろうが、短い呼び掛けを最後にクロからの声はない。軋むような、振り絞るような声が気に掛かる。荒神の攻撃性や破壊衝動に満ちて強い力と意思は声や側にあるだけで、液体金属に意思のみを持ち力が届けば無防備なクロの頑丈な器を貫通してしまったのだろうか。直接的でないにしろ、クロに影響を与えてしまったのだろうか。だが、空に居るはずだ。居てくれるはずだ。落ちてきた音は聞こえていない。呼び掛ければ返事はきっと返ってくる。だが、鱗道は声を出さなかった。出してはならない、と分かってもいる。だがそれ以上に、ずっと何かに喉を締め付けられていた。
『君は……何を言ってるの?』
『まさか、まさかまさか。そうか、そうなのか。羨ましいなぁ』
 シロは唸り声を上げたまま、鹿と睨み合っている。鹿はまるで遊ぶかのように前脚で地面を掘っていた。鱗道は体の大半を斜面に移している。体の痛みを無視すれば、転がり落ちることも滑り落ちることも出来よう。
『羨ましいな。そうか、まだお前、殺してないのか、そうか、そうかそうか、うん、初めては気持ちいいぞぅ』
 ぼたりと鹿の頭から、油のように瘴気が垂れ落ちた。ぐるりと鹿の首が捻れ、鉄錆色の目が斜面から僅かに出ている鱗道の頭を急速に捉えた。
『羨ましいから、こいつは俺が殺していいよな』
 首に纏わり付く何かが、一気に締まる。
 破壊と死滅を招く意思――と、蛇神は穢れについて語った。それにまみれて破壊と死滅を撒き散らし、成って果てたのが荒神である、と。鱗道の目の前にいる一匹の牡鹿。異形の角、異形の体躯、腐って穢れた力と意思に染まった鉄錆色の目。会話が出来、意思疎通が出来、なのに理解が出来ず、破壊と死滅に必ず行き着く――十年以上前に成りかけていたシロとは全く違う。たった今、鱗道の目の前にいるこれこそが荒神である。
 歪な首の曲がり方から動き出したとは思えない程、鹿は素早く体の向きを変えた。鹿の角が再び地面に突き立ち、ブルドーザーのように抉りながら迫り来る。シロが天高くオオカミのような咆吼を上げた。鱗道は恐怖と戦きもあって斜面に身を投げ出している。それでも転がり落ちるのが早いか鹿の角が届くのが早いかは紙一重であった。オン、とはっきりとしたシロの鳴き声が発せられた時には、目の前は純黒一色である。他に味方がいなければ鱗道の体はやはり、鹿に貫かれていただろう。
 翼を畳めば風を切り裂く流線型――金属と鉱石で作られた体の落下速度を一切落とさず加減もせずに、クロは鱗道の襟首に飛び込んだ。補足も頑丈な足でコートの襟を掴む。クロの重たい体が落下で得た速さや力をそのままに鱗道の体を斜面に引き摺った。鹿を振り切るほどの早さがあったわけではない。が、クロの勢いが乗った故の変速と予測不可能であった動きに、鹿の目測がズレたのだ。鹿の鉄錆色に煮えたぎる目は、鱗道をすぐに捉え直す。
 鱗道の腰にぶら下がっているランタンが照らしたのは――そして鹿の背後に飛び上がった人工的な灯りが映し出したのは、鹿の背に爪と牙を突き立てんと躍り上がった白い獣の姿である。白い体毛は膨れ上がり、燃え上がる炎のようであった。紺碧の目は半分以上が朱色に浸食されている。鹿の体をよじ登り、引き倒そうとしながら獣の顎が大きく開かれた。鹿の太い首に牙を立てんとするが、鹿は獣を振り払おうとするように大きく体をしならせ跳ねた。
『なんだ! 犬! やはりお前の獲物か! そうだよな! 取られるのは惜しいか!』
 獣の体が鹿から引き剥がされた。キャンともギャンとも言い切れない鳴き声が上がり、獣は空中で身を捻って足を付く。その右後ろ足にべったりと黒い粘液が絡み付いていた。悲鳴は、鹿の角が貫いたか掠めたかしたのだろう。だが、獣はすぐさま低い姿勢で鹿に躍りかかった。蹴り上げられては一溜まりもない後脚にはけっして近付かず、太い胴回りには不要に顎を開かず、獣の狙いは首もしくは前脚に限られている。目が大きく見開かれ、朱色と戦い抑え込もうとする紺碧の目が、
『鱗道はそんなんじゃない! そんなんで一緒にいるんじゃない!』
 ひゃんと鋭く鳴いた。
『そんなの――君は、もう、分からないの?』
 シロ、と鱗道が呟いてもクロは翼を羽ばたかせ続けた。鱗道を引き摺り斜面を駆け下るためである。躍りかかったシロは再びはね除けられたが、シロは木を蹴り鹿の頭上を飛び越えて立ちはだかる。鱗道達には尾を向けている。シロの首に提げられたランタンが明滅しながら、純黒の鹿の異形を膨らませて浮かばせる。が、鱗道の腰に付けられたランタンは、白く光り輝くような被毛を炎のように揺らすシロの後ろ姿を照らしていた。
 荒涼とした社で鱗道の前に立った猛々しい白い獣。目にも留まらぬ早さで脇を駆け抜け、崩れた鳥居に上り詰めて、周囲を見渡すあの姿。疾風を引き連れた冷気と熱気。今でも時折夢に見るものと全く同じ後ろ姿である。ただ、当時と違うのは、
「――シロ! 先に下りてるからな!」
 鱗道がその獣の名前を知っていることだ。
 クロが羽ばたきを強め、鱗道の体を僅かに持ち上げる。クロの助力を受けて鱗道は立ち上がると、シロを振り返らずに走り出した。途中途中の木々にしがみつきながら、無様に不格好に歯を食いしばって山を駆け下りていく。背後に、ひゃんとワンの中間じみた子犬の鳴き声を確かに聞いた。

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