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『先程は失礼致しました、鱗道』
 斜面をどれだけ引き摺られたか、滑り落ちたか。山の殆どが枯れ葉で覆われていたことと冬で厚着していたことが幸いして、鱗道の体は削られずに済んでいる。斜面が緩やかになってからのクロは鱗道の襟を離して金具の壊れたランタンを掴んで併走し、鱗道は乾き枯れて喉に張り付くような呼吸がついに苦しく、木に寄りかかって足を止めた。体は削られていないが痛みはあるし、道中で木や岩にぶつかった手足には痺れもある。山を見上げても、シロのランタンは見えなかった。
「引き摺ったことか? なら、構わん。お前が考えたなら、それが最善だ」
 クロのランタンに照らされて、「御神水」の水場に続く石畳が見えている。そこをたどり視線を下ろせば、街灯に浮かぶ拝殿の朱塗り屋根が見えていた。呼吸を聞き苦しいと思うのは、鱗道だけだろう。クロはいつも以上に曖昧で聞き取りにくい筈の鱗道の言葉を聞き返さず、
『それは……どうでしょうか。私はあの鹿を前に――貴方に呼び掛けたのを最後に、思考停止していました。私は落下していたのです。シロの咆吼がなければ気が付けず、墜落していたでしょう』
 ぎしり、と嘴を擦るような音が上がった。クロの声は普段通りとは言えず、響きが明らかに弱い。鹿が接近してきた頃から、クロの声には軋みや絞るかのような響きがあった。視線や意識を向けるだけで心臓を抉られるような痛烈な感覚をもたらす鹿の影響を、上空を飛んでいるクロも受けてしまったのだろう。クロの頑丈な器も〝此方の世界〟の基準である。貫通してしまう程の〝彼方の世界〟の強い力の前に、クロには剥き出しの意思しか残されない。
 鱗道は呼吸を整えながら、クロの足からランタンを奪って左肩を叩いた。クロが躊躇いがちに足を着けてから、
「そこから立て直して、俺を助けてくれたんだ。やっぱり、お前は最善を選んだよ」
 鱗道が世辞や気休めを言う男ではないことを、クロは熟知している筈だ。クロが乗った左肩はいつもより重く感じたが、クロに押し付けられる左頬の感触は悪くない。甘えか、感謝か、細かいところまでは分からないが――
「それより、お前、今はもう大丈夫なのか」
『ええ。今はもう問題ありません。それで、鱗道。これからどういたしましょうか』
 クロの声はいつもの冷静な硬質さを取り戻していた。ならば、充分である。鱗道は痛む体を押して寄りかかっていた木から離れ、
「神社の境内まで下りよう。穢れを祓う空気に満ちてるし……依り代も効きやすくなるはずだ」
 クロに拝殿の屋根を指差してから、ゆっくりと歩き出した。山は静まりかえっている。なんの音もしない。何度か見上げた山中に人工的な光を見付けられず、痛みとは別の思いで足が止まりそうになった。クロが鱗道の肩から羽ばたいて、鱗道の手からランタンをかすめ取り、
『この場を退けたところで、街まで下りたりしないでしょうか』
 鱗道の意識を山から街へと引き剥がす。クロが揺らすランタンの足下だけを見ながら、
「街の方は、〝鯨〟用だが蛇神の力が多く移ってる。蛇神のにおいには気付いてたようだし、アイツは……シロや俺を見付けるまで丘陵を下りては来なかった。おいそれと街に下りてこない……と、思う」
 長くはない距離をやっとの事で歩ききり、玉砂利を踏みしめる。ふっと涼しい風が吹き抜けた感覚があった。よろけながらも少しでも境内に入ろうと歩を進め、歩ききれなくなると両手両膝が玉砂利に突いた。鱗道、とクロが鱗道の側に着地する。カラリとランタンが転がった。大丈夫だと手を振って見せたが、強がりであることはクロの観察眼で容易に見抜かれよう。
 体が痛むが、中身――感覚はかなり楽になった。鹿の視線を通して向けられ、注がれていた穢れの残滓が払い落とされていくような感覚がある。何度も深呼吸を繰り返しながら、鱗道は――もう何度目か、山を見上げた。灯りが揺れているのが見える。山を下りてきている。シロの首に提げたランタンだ。
 ランタンは、大きく、静かに揺れている。
『鱗道』
「分かってる」
 クロの声には緊張があった。鱗道は視線を自らの手元に落として目を閉じる。見開いた視界いっぱいの玉砂利に、汗がぼたりと滴り落ちた。両手足に力を込めて立ち上がる。コートのポケットから予備で持ってきていた依り代の袋を取り出し、袋の上から潰して粉々にして、それを、
「お前は上にいて、アイツが境内に入ったら袋を破いて撒いてくれ。その後は――お前が安全な範囲で、好きにしていい」
 クロに差し出した。手の平に小袋を乗せた右手が震えている。それを抑えるようにと繰り返す呼吸は速く浅く不規則であった。息苦しい。鼓動も安定していない。
『鱗道』
「いいか。お前が安全な範囲で、だ。それは絶対に譲らんぞ」
 鱗道、と再度呼び掛けるクロに視線を向ける。玉砂利の上に立つ、表情のない鴉。転がったランタンに照らされて、赤い鉱石の目が瞬きするように明滅している。
「もう、絶対に譲れん」
 鱗道の掠れた声に、クロは返事をしなかった。黙して飛び上がり、小袋を両足で掴むとあっという間に上空まで飛翔する。それでいい、と鱗道は一人で呟く。空になった右手が、痛みや気持ちを抑え込むように何度も胸の上を掻き毟ってから、首の後ろに回りようやく触れたところで、
『クマを殺したときが今までで最高だった』
 蹄鉄を付けたウマとは全く異なる蹄の音に、鱗道は振り返った。木々の隙間に鉄錆色の目が笑うように細まっている。漆黒の山に、純黒の鹿の頭が生首のように浮かび上がった。灯りが、鹿の頭を上から照らしているからだ。ランタンは、鹿の頭を上から照らしている。
『あんなデカい奴を角でぶっ刺して、ぐちゃぐちゃに混ぜてやった時なんかは身震いが止まらなかった。雌とつがうよりも何倍もいいんだ。信じられるか?』
 鹿は、両角に巨大な白い被毛を被っていた。風もなければ炎のように揺らめくことも、闇夜にぼんやりと光ることもない、ランタンが下げられた被毛だ。赤い舌が垂れ、土や葉で汚れた白い被毛は複雑で鋭利な角に貫かれて誇示の為の飾りにされている。
『何度でも、最高だ。気持ちいいんだ。この犬も、なかなかの刺し心地だったなぁ』
 鹿が首を傾ぐと、だらりと舌を垂らした獣の顔が鱗道に向いた。半眼に日差しのような光はない。ただ安っぽい灯りを受けて、乾いた反射をするのみである。
「――シロ」
 静かにゆっくりと山を下りてくる灯りで、覚悟はしていたはずだった。だが、目の当たりにして冷静でいられるような冷血漢ではない。それでも気持ちに対して体は追い付いておらず、まだ山中にある鹿に向かおうとした足は滑って一向に進まなかった。
 にやつく鹿が再び蹄を進める。土から玉砂利に足下が変わると、鹿は笑みを消して歩を止めた。前脚だけを踏み込ませてじっと動かない。神社の境内に満ちている空気が、穢れや瘴気を拒絶し清め祓うものだと察したのだろう。
 鹿の頭が大きく振られ、角を飾っていたシロの体が鱗道へと放られた。鱗道の数歩先で、落下したランタンが割れる。その数歩を、鱗道は倒れ込むように歩み、
「シロ。おい、シロ」
 膝をついて、輝くことも揺らめくこともしない体を掴む。はっきりと角に貫かれていた体であるが、大きな傷口も流血もない。シロは霊犬である。〝彼方の世界〟の犬だ。だからこそ、傷口も流血もないから無事である、とは言い切れない。現に、シロは鱗道が触れてもピクリとも動きやしなかった。
 傷口も流血もない代わりに、黒いシミがシロの体に何ヶ所も浮かんでいる。その黒いシミからは、鹿の角から垂れ落ちるのと同じ、粘度の高い純黒が湧いていた。半端に閉ざされた目は、朱と鉄錆色に浸食されきり、体には不自然な熱がある。側にいるだけで汗ばむほどの熱。瘴気そのものと言える鹿の角で貫かれ、シロの体内の穢れが蠢いてシロを浸食しだしているのだろう。皮肉なことだが、それ故にシロがまだ殺されきっていない証拠でもある。
『そいつから、俺と同じにおいがしてる。穢れだろ? 強い力だ。なのに、殺してねぇなんて、バカだよなぁ。せっかく簡単に殺せるようになったのによぅ』
 甲高さが気に障る声が、シロに縋る鱗道を見下ろし嘲笑をあげる。一度は境内の空気を気にした鹿であったが、その蹄と穢れの衝動を止めるには至らなかったようだ。鹿の全ての蹄が、玉砂利を砕きながら鱗道に歩み寄ってくる。
『だからよぅ、俺が殺してやるのよ。そのバカに代わって』
 粉雪のような輝きがランタンに照らされている。鹿の身体が全て境内に入ったことを確認したクロが、鱗道が頼んでいたとおりに小袋を破いて依り代を撒いてくれたのだろう。
「お前如きが」
 それ故に、ではない。もし依り代が撒かれなかったとしても、鱗道は口を開いただろう。深く息を吸い、シロに縋る手に反して、全く震えを持たない、乾ききって枯れた低い声で、
「シロを笑うな」
 怒りも苛立ちも隠さぬ声で、穢れに突き動かされているだけの鹿に、言いたいことを言うためだけに。
 鱗道の手の下で、白い体が大きく跳ね上がった。太い前足が玉砂利を蹴散らしながら足掻き、上体を起き上がらせる。開いた口からヨダレと高濃度の瘴気がボタボタと垂れ落ちた。残された一つのランタンに照らされる獣の目が――ランタンがなくとも煌々と輝く朱と鉄錆色で淀んだ目が、急速に鮮やかな紺碧を取り戻していく。
 咆吼はイヌでもオオカミでもない、クマでもライオンでもない、野太く低い獣のもの。地を這い、地の底から響くかのように放たれた。下半身は妙に捻った体勢のまま立ち上がり切れておらず、高濃度の瘴気は体のあちこちと口内から湧いて溢れて止まらず、咆吼はあれど言葉はなく、満身創痍の紺碧の目を目の当たりに鹿はその歩みを止めた。
『――また、ヘビのにおいだ』
 クロが撒いた依り代は、当然、鹿にも降りかかっている。
『さっきから、においだけやたらとさせやがって、鬱陶しいな』
 鹿は天を仰いで、疎むように頭を振った。鹿は蛇神のにおいに気が付いていても、依り代が細かい粉末として撒かれていることには気が付いていないらしい。頭を振ったところで散るはずもなく、余計に依り代を纏わり付かせる行動だ。そして、結果、ぱきりと小さなひび割れが、鹿の角から確かに上がる。
「鬱陶しい? お前は避けるように丘陵を来たんだ。お前が感じてるもんが恐れだってことは気付いてるだろ」
 上半身だけを起き上がらせたシロを抱え込むようにしながら、鱗道は鹿を見据えた。
「この地は、お前なんぞ足下にも及ばない、一柱たる蛇神が治める領地。お前のような荒神に成り果てたもんが足を踏み入れていい場所じゃない」
『蛇神? ヘビの神? それがどうした! ヘビなんて、散々踏み潰してやったぞ!』
 鹿はいななくように頭を振り、両前脚を高く上げて己の角を主張する。それでも近付き進もうとはしてこない。角に入ったヒビを知らぬ存ぜぬと無視を決め込むことは出来ないのだ。再び四肢を地に着けた鹿は、角を低く下げて、
『その蛇神とやらを連れて来い! 今すぐ俺が、その犬同様にこの角の飾りにしてやる!』
 玉砂利をすくい上げ、空を切って撒き散らす。枯死を見付けたクロが、なぎ倒したりなぎ払ったりして荒れた形跡があると言っていたのは、鹿が今と同じように地面を掘り返したからだろう。見える敵か、見えない敵か。見える獲物か、見えない獲物か。そのどれかに対して、今と同じように角を振るい、力を振るい、自らを鼓舞し誇示するように。
 鱗道は深く深く息を吸い込んだ。シロを抱え込み、庇うようにして目を閉じる。鱗道は所詮、その一柱たる蛇神の代理である。〝此方の世界〟と〝彼方の世界〟の橋渡しもすれば、蛇神自身の意向を伝えるのもまた仕事。鱗道が開いた口腔内は細かなヒダが喉の奥まで続く朱漆に覆われ、
「――明日、夜、海辺」
 声は淡々――貫かれたシロを見たときとも、笑う鹿に嫌悪を向けたときとも全く異なる、抑揚の薄い平坦な声はまさに、
「〝わたし〟を飾りにしてみせるというのなら、楽しみにしているよ、坊や」
 さざ波、砂摺り、鱗の擦れ――巨大な蛇がうねるかの如き、音である。鱗道の口より発せられた明らかに異質な声に、鹿が強く明確に猛った。前脚が玉砂利を掻き、角が低く地面を擦る。後は後脚が体を跳ね上げれば、満身創痍の犬共々、気に入らない人間を貫いて混ぜてやれるはず、であった。
 花の甘いにおいに鱗道は目を開け、顔を上げた。俊敏な白く細長い体が鹿の頭上を軽やかに跳ねて駆け巡っている。角の隙間を縫うように走り終えたしなやかな体は、音もなく鹿と鱗道達の間に降り立った。胴体だけならば三十センチ前後の鼬である。耳と尻尾の先端だけが墨をさしたかのように黒い一匹の白鼬の目は、円らながらに爛々と金色に輝いている。
 白鼬の胴体に匹敵するほど長い尾が、鞭のようにしなって玉砂利を打った。音に合わせて砕けたのは玉砂利ではなく、鹿の角である。鹿は首を大きく逸らせ、数歩と退いて白鼬を見下ろした。両者の間で砕けた角が、玉砂利に落下してより一層粉砕されて霞のように消えていく。
『犬に、蛇に、鼬か! ここは随分と喧しい場所だ!』
 白鼬は鹿に返答をしない。涼やかな目でじっと見据えるだけである。鹿がまた一歩後退した。
『明日――明日の夜、海辺だな』
 鹿の鉄錆色の目が鱗道を向いた。歯をむき出すような表情は笑みなのだろう。がばりと開いた口からは、高濃度の瘴気が零れ落ちた。鹿の蹄は返されて、軽い足音が山中へと入っていく。姿はすぐに見えなくなったが、足音がしばらく残っているような気がした。その足音すら振り切ったのは、シロの体がついに全ての力を失ったように崩れ倒れたからである。
「シロ!」
『無理に起こさずに。さてはあの荒神の角で突かれたのでしょう? 危うい状態に違いありません』
 語れば静か、若芽が触れるかのような柔らかい響き。白鼬が近寄れば花の甘い香りが一層強くなる。白鼬は滑るようにシロの体を駆け上がり、小さな手でシロの瞼をそっと閉ざした。大きく息を吐くように、シロの体が膨らむ。すぐさま、噎せるような咳にあわせて唾液に混ざった瘴気が散った。白鼬にも跳ねた瘴気だが、触れるも汚すも叶わずに消えてしまう。祓われてしまう。
『大丈夫とは言えませんが、わたくしが診ましょう。いえ、診させていただきます』
「アンタは――」
 花の香りに、柔らかな語調。小さな体に爛々と輝く金色の目。清く、強く、しなやかな存在を忘れられようはずがない。
「――こごめ、なのか」
 それは、かつて重傷を負った蛇神を庇い治療した恩人にして友人、そして東北の山に領地を有する一柱の白鼬の名である。鱗道に名前を呼ばれた白鼬――こごめは綻ぶように微笑んだ。
『ええ。その通り。急ぎ参った次第、分身の姿でありますが、こごめでございます。我が友蛇神の代理の君、鱗道殿。久方振りでございます。いえ、十年程で久方振りとは、少し大袈裟でございましょうか。ともあれ、このこごめ、あの時のご恩をお返しに参りました』

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