トップに戻る

<< 前 次 >>

-11-

単ページ   最大化   


 風呂場で確認した中年の体には不可思議なことが起きていた。体が痛む割には、体のあちこちにある痣も擦り傷も大したことがないのである。昨晩の出来事だというのに痣の大半は青いもので殆ど消えかけているし、擦り傷も赤みや掠れは残っているが流血の痕跡はない。真冬の夜で服を着込んでいたと言うのを差し引いても、蛇神の代理であって多少傷の治りが早かったとしても、いくら何でも奇妙だ。それに、逆を言えば傷らしい傷はないのに、体のあちこちに痛みだけは残っている。
 思い付くのは、あの黄色い花を付けた枝だろうか。シロの鼻先にも置かれていて、苦しげな様子も花のにおいを嗅ぐと落ち着くようだった。あの花はこごめが用意したものだろう。だが、当のこごめの姿は見ていない。所用で出ている、対処法は聞いている等とクロも言っていたし、クロとこごめの間で話は済んでいるらしいが、鱗道自身が聞きたいことが多すぎる。
 湯船に浸かって疲労を溶かしていくと、思考の霧も流れ出ていくようだった。湯に浸りながら聞きたいことや知りたいことをぼんやりと考え始める。とは言え、あまりに取り留めがないと起点すら見つからない。その為、鱗道は思い出せる範囲で、神社でこごめと出会って以降のことを思い出しながら考えることにした。

 こごめがシロを診ると言って、シロの周りを跳ね回ったり被毛の中に潜り込んだりとしているのを見ながら、どれ程経っただろうか。クロはどうしたかとふと気になった。クロ、と声を上げても返事はない。こごめに連れの姿が見えないことを告げて、少し探してくると言って立ち上がった。こごめから呼び止められはしたが、シロを頼むと言って歩き出す。当然、思い当たる場所などない。
 もし、鹿の穢れや瘴気に影響を受けて落ちてしまっていたら。いや、クロには身の安全を確保するように言いつけた。クロがそれを破るはずはない。カンテラを片手に歩き出して間もなく、神社の鳥居から参道の階段を見下ろすと真下に車が止まっているのが見えた。階段下は駐車場ではないし、深夜であるというのに。それに、止まっている車には見覚えがある。
『鱗道』
 硬質で静か、一定にして一律の声に、鱗道は浅く息を吐いた。階段の両脇に立てられた街灯の下を鳥の影が素早く上ってくる。鱗道の前で滞空したクロが再度、
『鱗道、ご無事ですか』
 と、問うた。鱗道は答えに窮して、黙ったまま呆然とクロを見ていた。自分は無事だ。体のあちこちが痛むし、擦り傷や打ち身などもあるだろうが無事ではある。だが、シロは分からない。
 クロに気を取られていたからか、鱗道は自分の目の前に人影が立っていることに気が付かなかった。気が付いたのはその人影が、
「酷ぇ格好だな、グレイ。死体でも埋めてきたみてぇじゃねぇか」
 と、低くも快活な声が軽妙に冗談を言ってきたからである。カンテラに照らされる男の顔には見覚えがある。だが、
「……猪狩、か?」
 そうだとしたら、何故ここにいるのだろう。思考は全く回らない。鱗道が取り落としたカンテラは、地面に落ちる前にクロが掴んで頭上へと運んだ。カンテラや街灯に照らされて、陰影も表情もころころと変わる男は三十路前であるかのように若々しい顔立ちをしているものだから、まるで――
「おいおい、人様をまるで幽霊でも見てるみてぇな目で見るんじゃねぇよ」
 幽霊でもなければ幻でもない、猪狩は肩を震わせて笑って肩を竦めている。
「まぁ、話は後回しだ。下に車が止めてある。肩を貸すぜ」
 猪狩が言ったときには既に、鱗道の右腕は引っ張られていて猪狩の肩に乗せられていた。クロは既にこの場にいない。シロを探しに行ったのだろう。
「……待ってくれ。シロが、まだ、いるんだ」
 肩を借りていると言うより引っ張り上げられている、もしくは半ば担がれているに近く、猪狩が階段を下りようとすれば鱗道は抵抗が出来ない。それでも、シロを置いていくわけにはいかなかった。側にこごめがいるとはいえ自分がここを離れるわけにはいかないと、胡乱な意識で必死に訴える。猪狩は一度足を止め、しばらくは鱗道の言葉を聞いていたが、
「分かった。分かったよ」
 と、雑に鱗道の言葉を遮って階段を下り始めた。鱗道が再度、訴えようと口を開く前に、
「お前がそのザマじゃどうしようもねぇだろうが。まずお前を車に押し込む。その後でシロを連れて来てやる。んで、お前等全員をお前ん家に運ぶ。それでいいだろ」
 ばっさりと言い切られた。いいだろ、と言いながらも異論反論は一切聞く気がないという言い方だ。だが、猪狩の言うとおりである。疲れや痛み、緊張からの解放で鱗道の思考は明らかに回っていないし、年齢相応の体は言うことを聞かない。引き摺られ続けて足がすり下ろされるのだけは避けるように歩くのも必死な有様だ。猪狩、とそれでも友人の名を呼んだ。カンテラはクロに持って行かれ、街灯の灯りだけに照らされる友人は、
「ここまでの惨状は、まぁ、想定外だがよぅ。大きく予想は外れちゃいねぇさ。そもそも、クロはお前らを運ばせるつもりで俺を呼んだんだろうしな」
 本当に、昔から変わらない笑みを浮かべている。
「……クロが? ……お前を?」
「まぁ、話は後で、つったろ」
 酷くぼんやりとしていたのだろう。気が付けば猪狩の車の側まで来ていて、一言一句宣言通りに鱗道は助手席に押し込まれた。一言も発する暇もなく扉は閉められて、猪狩の後ろ姿がまた階段を上っていく。鱗道は扉に手をかけたが、窓を開けるだけにした。車の助手席に座り込んでしまったら、立つ気力も体力もなくなってしまったのだ。それに、猪狩ならば言うことをたがわない。窓を開けたのは、クロやシロ、こごめの声は別として猪狩が何かを言ったときに聞こえやすいようにである。もっとも、あの快活な声は窓を開けなくとも明瞭に聞こえるだろうが。
 暗い車内を冬の風が抜けていく。しばらく経って、車が大きく揺れたことで鱗道は、いつの間にか微睡んでいた目を開けた。後部座席に顔を向けると、ぐったりとしたシロが寝かされていた。鱗道が開けていた窓からクロが滑り込んでシロの傍らに着地する。シロの体がもぞもぞと動いたと思ったら、そこから耳の先だけが黒い、こごめの小さな頭が覗いた。猪狩にはこごめの姿は見えていないだろうから、シロにしがみついて一緒に運ばれてきたのだろう。
 車が再び大きく揺れた。今度は猪狩が運転席に座り込んだのだ。アクセルが踏まれ、車がゆっくりと動き出す。猪狩、と鱗道は再度、友人を呼んだ。正面を見据えシートベルトを締めながら、猪狩は鱗道を見ずに、なんだ、と答える。
「すまん。助かった。有り難うな」
「どうってことねぇよ」
 如何にも猪狩らしい言い方に、鱗道はようやく笑って、それから――

 ――そこから先は、もはや曖昧としすぎて思い出すことが難しい。車中では殆ど眠っていたような気がするし、「鱗道堂」に着いてからは乱暴に揺すり起こされて鍵を出すように言われたことは記憶にある。何度か車が大きく揺れたので、先に運ばれたのはシロの筈だ。クロの硬質な声と嘴の音、それから猪狩の快活な声が耳や頭に少し響くと思いながら、鱗道は自分で車から降りたような気がする。シロのことがずっと気になっていたからだ。少し経つと猪狩に半ば引き摺られるようにして家まで運ばれて、そこで完全に途切れている。次に目を開けたときに見たものは知っている天井と知らない花であった。
 そこまで思い返せた頃に、鱗道はようやく風呂から上がった。湯船に体を沈めている方が体は楽であったが、かなり気が緩んだからか疲労が少しでも流れ出たからか、空腹を強く感じ始めたのだ。風呂から上がって居間に戻ると、クロはシロの鼻先に座り込んでじっとその顔を見つめていた。ただ、ずっと見つめ続けていたわけではないらしい。ちゃぶ台の上には救急箱が引っ張り出されている。
『静かなシロというのは落ち着きませんね。普段は駄目な犬という意味で駄犬と言っていますが、これでは無駄な犬という意味での駄犬で――結局、駄犬であることになんら違いはないのですが』
 クロの言葉は辛辣そのものである。硬質で抑揚の少ない声であるが、普段にはない棘があり、クロ自身もその棘の処理に困惑しているようだった。
『騒がしい駄犬は好みませんが、退屈な駄犬はもっと好まないと知れました。ただ、対価に見合わない知見です』
 自分の中にある感情の揺れに戸惑い、表に出てしまう棘を鎮めようと平静を装う。強がるようなクロの頭に、鱗道の指先がようやく触れる。
「……お前には、本当に気苦労をかける。すまんな、クロ」
『鱗道、貴方から謝罪を言われる謂われはありません。謝罪は、無駄な駄犬が駄目な駄犬に戻ったときに、駄犬からきっちりとさせますから』
「それは……少し、加減してやってくれ。俺からの、頼みだ」
 何度も、何度もクロの頭を撫でてやりながら、鱗道は小さく微笑んだ。

87

赫鳥 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る