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 岩でも殴りつけたような反動が鱗道の両手に返ってくる。同時に、大きなガラスが砕けるような、ハンマーで岩を砕くような〝彼方の世界〟の破砕音が、打ち付けた拳の下――鹿の頭から鳴り響く。
『おお、おぉ、おおおお!』
 だが、一度ではやはり本当に砕き切るには足らなかった。振り下ろした両手を握り直し、鱗道は再度振り上げる。鹿は溜まらず頭を振り上げ抜いて、鱗道の体を絡めるように軽々と放り上げた。だが、鱗道が振り下ろした二度目の両手は、鹿の頭に確かに届いた。だが、先程のように角の間ど真ん中とは行かなかったようだ。感触が先程よりも軽く、角を一本、根元から叩き折ったにすぎない。
 鹿は頭から黒い破片を撒き散らしながら、耐えがたい痛みに四肢でたたらを踏み続けた。砂を踏めば踏むほど撒かれた柊が四肢に食い込み、暴れれば暴れるほど舞い上がった柊が瘴気が覆う頭部から胸部までは気に障る痛みを、それ以外には痺れを伴って与えてくる。
『クソが! 人間が! 人間ごときが、俺の角を!!』
 脳に根を張る穢れが、鹿の体を蒸発させん程の熱を持って膨れ上がる。頭のヒビや角のあった場所から、穢れと瘴気が混ざった赤黒い液体が血のように噴き出して鹿を濡らす。より一層、穢れに染め上げ、腐らせ、浸食する。全て全て、殺してしまえ死なせてしまえ、と。
 鉄錆色の眼が、角が折れたことで砂浜に振り落とされた鱗道をようやく見付けた。受け身を取れずに放られて、背中を強く打って転がったようだ。まだ立ち上がれてもいない。砂浜に這いつくばっている。こんな奴に、頭を割られ、角を折られたのだ。全身が大きく震え上がった。
 鱗道が砂浜に落とされた衝撃で、安物のランタンも限界を迎えたらしい。ちかちかと明滅を繰り返している。口の中に入り込んだ砂が非常に不快だが構っている暇もない。下手に顔を擦れば砂が目に入る。砂を掴むようにして、鱗道は立ち上がろうと足掻いた。明滅するランタンが、鹿の影を浮かび上がらせる。眼前、音を立てて穢れや瘴気を垂れ流す頭部。滴る瘴気の隙間から睨み下ろしてくる、橙色の熱量を帯びた鉄錆色の眼。残った一本の角がより鋭利に、より太く、より広くを貫けるようにと軋みを上げてさらなる異形へと化していく。
『人間が! 人間ごときが!』
 鹿は、両前脚を高く持ち上げた。後ろ脚だけで立ち上がり、顎を深く引いている。今までとは違い、頭上から振り下ろそうというのだろう。加え、前脚で踏み砕こうというのだろう。避けねばならない。分かっているが、まだ立ち上がりきれていないのだ。這いつくばっているよりは、転がった方が良いのだろう。それでも、距離も時間も稼げまい。更には振り下ろされる鹿の角と蹄を見据えることになる。だが、死ぬよりはいい。
 体勢を崩す。仰向けに転がり、鹿の直下から逃れんとする。鹿をたっぷりの依り代で殴りつけたことで、角が脆くなってやしないか――それは最早、運次第である。
『鱗道!』
 力強い羽ばたきを聞く。風を切る強い音は、今宵、一羽の海鳥もいないこの場所で唯一の鴉が立てる音に他ならない。だが、クロがこちらに向かっているのだとしたら止めねばならない。角を形成する高濃度の瘴気や猛り溢れる穢れは、クロの鴉の器を容易く貫通するだろう。それがなくとも、巨大な鹿の体躯をいくら頑丈とは言えクロが受け止められようはずがない。翼が折れる、足が折れる、それならばまだいい方だ。もしも胴体に亀裂でも入ったら。クロの意思が宿った液体金属が流れ出るようなことがあれば――
「クロ! 駄目だ、来るな!」
 身を起こす。姿を探す。街灯の方向から満月を受けて輝く強固な嘴がこちらに向かって来ているのが見える。見えてしまった。素早いクロは、間に合ってしまうかもしれない。
「クロ!」
 冬の冷たい風が一陣、クロの体を煽り舞い上がらせた。風はそのまま、鱗道の叫びと共に吐き出された白い息を巻き込んで、
『貫いて! 踏み砕いて!』
 安物ランタンが最後の最後に強く光って照らし出す、鹿の凶悪極まる影との間に、
『人間なんぞ、ゴミくずのように容易く殺してやる!』
 赤い光を湛える紺碧の眼と、吹雪が如く低温を引き連れた純白の獣として膨れ上がった。
 唸り声の一つも発さぬまま、太い前足が鹿の頭を抑え、頑丈な顎が鹿の首に食らいつく。前脚を上げていた鹿が、後ろ脚だけで首に食らいつく獣をぶら下げた体を支えることなど不可能だ。
『お前は! 犬か! あの犬か!』
 咄嗟に頭を抱えて身を丸めた鱗道の脇に、二つの影がもんどり打つように砂地に倒れ込む。大柄な二匹の獣が酷く重たい音を立てながら暴れ回り、鱗道の側から離れながら砂煙を巻き上げている。
『鱗道、鱗道――ご無事ですか!』
 クロの声と羽音を聞いて、鱗道は身を解した。クロが側に足を付く。光源から酷く遠い場所だが、満月であるのとクロが人工的に作られた材質で出来ているのが幸か不幸か、クロが酷く砂にまみれているのが見えてしまった。さては風に煽られたときに、砂に一度墜落したのだろう。
「……ああ、俺は、大丈夫だが……」
 側にいるクロに気を付けながら、鱗道はなんとか身を起こした。直後、太く強く頑丈なものが折り砕ける音が頭に響く。ランタンはもう影を照らさない。だが、純白の獣は自らがほのかに光を放っていたために、その顎に咥えた鹿の前脚をあらぬ方向に捻っている様を闇夜に浮かばせていた。鹿の悲鳴が鱗道の頭に残響としてこびり付く。言葉としては罵りや、苦痛を訴える言葉や、呻きの類いであるだろうが聞き取れない。それを黙らせるかのように、獣の太い前足は鹿の頭部を踏みつけ、暴れる鹿の胴体を後ろ足と体で押さえ込んだ。
 顎が開く。ぼたぼたとヨダレが垂れるのが見えた。太く鋭い牙が、僅かに黒ずんだ呼気の隙間で鈍く光っている。黒く濡れた頸部に差し掛かれば、牙はより一層鮮やかに、太く、鋭く――
「――シロ?」
 大きな音を立てて顎が閉ざされた。鹿の頸部に噛み付いてはいない。すんでの所で閉じたのだ。白く光る被毛が炎のように揺れている。大きな頭部にある紺碧の双眸は僅かな赤を孕んでいたがそれを、夜明けを告げる日差しのような光が塗りつぶしていく。
 大きな頭が天を仰いだ。音を立てて唾液を飲み込み、口が開かれると氷を含んだような白い息が野太い遠吠えと共に吐き出された。それから、舌っ足らずさが消えて――しかし、幼稚な響きを残した声が、
『君は忘れちゃったんだろうけどね、殺すのが簡単になったんじゃない。もっと、ずっと、最初から』
 紺碧の双眸が、鹿の鉄錆色の眼を真っ直ぐに、
『殺さない方が難しいんだ』
 ただ高きより、見下ろしている。
 再度、遠吠えが上がった。だが、それは子犬が親の真似をするような、随分と稚拙な遠吠えであった。折れた前脚を地に着けることも叶わずに足掻く鹿から離れ、振り返ることなく歩み出す。強い光を灯した紺碧の双眸の先には、鱗道とクロがいた。弛んだ口元から舌が垂れて、
『ああ、良かった、僕は出来たよ』
 舌っ足らずな言葉が、ひゃんというか細い子犬めいた鳴き声と共に紡がれると、鱗道達の側まで後数歩という所で――シロは、どさりと倒れ込んだ。
「シロ! おい、シロ!」
 慌てて立ち上がろうとすれば砂が足を絡め取る。砂に突っ伏しそうになった鱗道を、クロが飛びながら襟首を引っ張り上げることで留まらせて立ち上がるのを助けた。シロが歩けなかった数歩分を鱗道が近付いて、シロの体を揺さぶる。普段と同じ、ひんやりと冷たい体。鱗道やクロを見る目は紺碧であるが、瞼が重たく今にも眠りに落ちんばかりである。
「シロ、お前、なんで、ここに」
『少し肩をお借りします――ああ、やはり。ご無理なさって』
 鱗道の肩によじ登った花の香りが語り出したが、鱗道はそちらを見なかった。シロの体を掴んで、その顔を見続けている。本来不要の呼吸は浅く速い。時折、痙攣するように顎が閉じかけるのを、クロが嘴を挟み込むことで舌を噛まぬようにさせている。
 鱗道の肩を滑り降りたこごめがシロの頭から、長い被毛をススキの草原を掻き分けるように長い体をくねらせながら進み、時折止まっては瘴気が湧く傷口があるのを確認しているようだ。
「こごめ、シロは」
 鱗道の言葉に、こごめは被毛を掻き分け続けながら、
『穢れは落ち着いております。これは無理に動いたために零れ落ちているに過ぎないでしょう。それでも本来、動ける状態にはなかったはずなのですが、にわかに起き上がったかと思いましたら……申し訳ありませんでした。わたくしでは止めることも追い付くことも出来ず』
 語り終えると、こごめはシロの被毛から顔を覗かせると謝罪を含んだ金色の目を鱗道に向けた。鱗道は首を横に振って、こごめに気にしないで欲しいという意思を伝える。声に出なかったのは、昨夜から引き摺っている体の不調に鹿と真っ向から対峙した緊張感、怒りをぶつける行為としての殴打等と言った四十路の体には負担であったものが溶け出したように汗として流れ、喉の奥がすっかり乾いてしまっていたからだ。
 こごめが再び、シロの体に埋まりながら傷口を探している。柊はなくともこごめ自身が触れることで瘴気を祓い清めてくれているのだろう。シロの顎の痙攣じみた動きが落ち着き始めていた。瞼は変わらず重たげであるが、呼吸もゆっくりと深いものに変わりつつある。
『シロ殿は、人々に護られた故に、その後も人々を護り続けました。御身が穢れを孕もうとも、己の社を守ろうとし続けておりました。守ることこそ、シロ殿の本分なれば――』
 こごめの声を聞きながら、クロ、と小さい声で鱗道はクロを呼んだ。シロの舌を守っていた嘴が離れ、鱗道の頭の下に顔を出す。シロの体から離した片手でクロの身体を掴み、何かを言いかけて言えずに飲み込む。口が震え、喉が締まって、何も言えなくなってしまったのだ。クロは、鱗道の顔を見上げたまま、普段は雄弁な言葉の一切を閉じている。
『あのまま、神に到れていれば、良き守護の神となれたでしょうに』
 こごめの花の香りを纏う言葉には、優しさと労いのみがある。それは、承知していた。承知した上で、
「そんな言い方はしないでくれ」
 鱗道が上げた、掠れて震える声に咎めの意図は一切ない。それでも無様としか言いようのない声であるが、それは領地を治める一柱を持って追いつけなかったと言わせしめ、己より巨体の荒神を捩じ伏せ無力化し、それら全てを鱗道やクロを守る為に奮った犬を、シロを、
「シロは、いいんだ。この、シロで」
 誇る響きを失うことはなかった。
 頬を垂れる一滴が雪解け水のように冷えている。
『――左様でございますね』
 シロの体を診終えたこごめが、するりとシロの体から抜け出した。微笑む顔は声と同様、やはり、どこまでも春めいて柔らかく甘いものである。
「……クロは、無事なのか? いやに静かだが……」
『ええ、鱗道。シロと思しき突風に煽られ、すっかり砂まみれではありますが、貴方に掴まれて飛べない以外、何も問題はありません』
 じっと鱗道に掴まれているのを耐えていたクロの言葉に、鱗道はようやく手を緩めた。クロは後退することで鱗道の手から抜け出し、力強い羽音を立てて飛び上がる。それを追うように見上げて気が付いた。
 暗い。
 静まりかえっている。風が止んでいる。波が止んでいる。
 海に居る。来ている。
 あの〝鯨〟が。
『クロ殿は空木の縄をお願いします。鱗道殿、あの鹿からは離れねばなりません』
 クロは既に飛び上がり合図を送った街灯の側に置いておいた、こごめに編んで貰った空木の縄を取りに行っている。こごめの言葉に従い、鱗道も海から離れようとした。だが、ぐったりとしたシロを持ち上げられない。引き摺ってでも、と考えた矢先にシロが酷く軽くなった。シロの体の下に入り込んだこごめが、小さな両手でシロの体を持ち上げている。
『〝鯨〟は近い。急ぎ、我が友を降ろされませ』
 こごめはシロを持ち上げたまま、地を這うように鹿から離れて防波堤側へと向かっていった。残された鱗道にも唖然とする暇はない。なんとか立ち上がって、海に背を向けて走り出す。何度も足をもつれさせる鱗道が間に合う距離を見計らったこごめは、適当な場所でシロを下ろし、空木の縄を持ってきたクロに、
『シロ殿がいらしたのは想定外ですが、わたくしも直接手を貸せますから円は一重で構いません』
 と、クロが降ろした縄でシロを囲うように整えていく。クロがシロに『可能な限りコンパクトかつ貴方にとって楽な姿勢を取ってください』と小難しい注文を付けると、シロは四肢を投げ出していた姿勢からなんとか伏せた姿勢を取って頭を砂地に着けた。ようやく追い付いた鱗道は手袋を脱ぎ捨てて、シロを跨ぐようにして立ち、
「クロ、悪いがシロの横にいてくれ。肩は貸せん」
 空木の縄を置き終えたクロに言いながら、海の方を向いた。両手の平をぴったりと、胸の前で合わせる。黒い、黒い海が視界いっぱいに広がっている。ああ、目眩がしそうだ。目の前にあるのは本当に海だろうか。実は眼前に黒い板でも貼られているのではなかろうか――その証拠だと言わんばかりに、月は半分に欠けている。
 くぅん、と子犬のような鳴き声に足下に視線を向ける。白い雪だるまのような犬の頭に寄り添うように砂まみれの黒い鴉が座り込んでいる。顔を上げた。海を見据える。
『皆様、必ずこの円より出ませぬよう。それと、可能な限り音も立てられませぬよう』
 こごめが空木の縄の両端を結び、数度、結び目を跨ぎ跳ねた。ほのかに、花の香りが潮のにおいを遠ざける。こごめの力で、縄の内側を見えにくく隠した、ということだろう。
 鱗道は深く息を吐いて、吸い、合わせた両手をぐるりと捻った。
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