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 前脚が一本、折られている。通常ならば立てないはずだ。だが、鹿は立ち上がる。頭から湧く瘴気は体半分を覆い尽くそうとしていた。折られた前脚を瘴気が無理矢理に固めて立つことを強要したのだ。痛みはない。苦しみはない。痺れもない。鹿の思考は最早、あの犬や人間を――その他全てを殺し尽くすことしか考えていない。
『おのれ』
 だが、無理矢理に立たせている足である。先程までのように自在に駆け回り、跳ね回れはしない。頭蓋も砕かれ角も折られ、鹿の中身が全て流れ出てしまうかのようにだくだくと純黒の瘴気が湧き続けている。残された一本の角が、鹿の中身を吸い尽くすかのように歪に強く鋭くと伸びていった。
『おのれ』
 巨大な体の中でぐつぐつと煮えたぎり、我が身を溶かし腐らせる穢れの炉が、鉄錆色の目を通して橙色の光を強くする。周囲の僅かな光をも取り込んで、殺すべき相手を見付けださんと見開いた眼が、
『おのれぇぇえ!』
 目映く、強く、白んだ。嘶き上げた視界いっぱいに月はない。灯火はない。冬の雪、春の水面、夏の日差しよりも強く目映い白ばかり。否、時に青、所により緑を含んだ水のさざめきめいたそれは、鱗の連なりであった。
『やぁ、坊や――わたしを、角の飾りにしてくれるそうだが』
 風もなく振動もなく、長く太い鱗の連なりは空を地面をうねり蠢き、やがて街を一つ包み込むほどの巨大な蜷局を巻いた。蜷局の中心より伸ばされた、額に赤い一枚の鱗を持つ蛇の頭がずるりと砂浜を一舐めするように鹿の目の前を過ぎていく。月が二つ増えたかの如き金色の瞳は、瞳孔だけでも鹿を丸呑みするかの如く巨大。語りながらに開かれた朱漆の口内にあった氷柱のような二本の牙は、鹿の頭から尾先まで貫いてもなお余ろう。金銀混ざりの吐息を受けて、
『それにしてはお前の角、いささか貧弱すぎやしないかね』
 鹿は、一歩たりとて動けなかった。鹿を微笑ましげに、瞳孔を弓のように細めて一瞥終えた蛇神の鎌首はゆっくりと天上に向かって伸びていく。細かな鱗のざわめきは波の音をすっかりと掻き消してしまっていた。いや、波の音は、もっと前からなかったのではなかろうか。
『まぁ、好きにおしよ。お前の順序が来たならば、わたしとて無碍にあしらうなんぞつれない真似はせぬとも。ただ、まずは列に並ばねばな。なに、すぐに列には並べるともよ――ほうら、列の先頭は、すぐそこに来ているからね』
 棒立ちで動けぬ鹿に、ひたりと触れるものは海から来ていた。鹿の四肢に、胴に、首に絡むものは海水を滴らせている。だが、鹿はもはや首の一つを捻るも出来ず、広い視界に入り込む、黒い海をじっと見るほかがない。黒い、黒い海である。何も見えない。だが居る。そこに、居る。
 街を一つ覆うほどの大蛇に、月光による影が落ちている。それどころか、周囲が突然、満月を失ったかのように陰っている。残されたのは大蛇が持つ二つの偽の月だけで、誠の月は海から聳えた巨大なものが覆い隠してしまったらしい。
『――よぅ、よぅ、大蛟――今宵は焦らしてくれたじゃぁないか――こんなに寄らないと見せてくれないなんてよぅ』
 風が轟く音に似て、幾重もの声が折り重なって同時、あるいは少し遅れた山彦のように響き合う声。海より伸びた黒い腕が、鹿を愛でるように随所随所を掴んでいく。腕、とは言うが、それは人間の腕であり、ウサギの前足であり、鳥の翼であり、魚の鰭であり、虫の関節であり、見たこともない獣の前腕でもあった。一つの腕からまた別の腕が伸び、また別の腕が伸び、無数の腕の連なりに絡まりに、これまた――
『お前が――お前が死んじまったのかと思って――期待しちまったじゃぁないかよぅ――お前の肉を食らってやれるのかと――ちぃっとでも考えちまったよぅ――』
 ――数多にして多種の、色とりどりの眼が開いて鹿をぎょろりと見つめてきた。だが、そのどれもが焦点が合っていない。あちらこちらを向いている中に、鹿を含んでいるだけである。
『お前らしくない冗談だ。死んでもお前がわたしを食えるものかい。わたしは陸にいるのだからね』
 大地そのもの、海そのものが揺れて響き合う声に対し、蛇神の声は静かなものだ。それも、比較すればという話に過ぎないが。砂嵐のように乾ききった声は辛辣で冷淡なもので、砂浜に一匹取り残された鹿にとっては大差がない。元より、二つの真に巨大な存在の間に、鹿は居ないに等しかろう。
『そうさな、そうさなぁ――こんなに膨らんだ体じゃぁ、陸に上がるもできんわなぁ――けれどよぅ――陸なんてもんを潰しちまえば、叶うんじゃぁないかねぇ』
 鹿の真横にまた別の、そして様々が絡んで連なる濡れそぼった腕がびしゃりと並ぶ。それが一本ならず、二本、三本と並んだのを蜷局から解いた蛇神の白い尾が冷然と払った。
『およしよ、〝鯨〟。お前はそんなのを望んじゃいないだろう。わたしが顔を見せたんだ。少し遅れたかもしれぬが、今宵もそれで満足おし』
『儂はよぅ――大蛟よぅ――お前が不憫で成らんのよ――陸に残したお前がよぅ――人間に裏切られて今は眠るお前がよぅ――』
『分かっているよ。お前の優しさは分かっているのさ。お前が顔を見せに来てくれることは嬉しいし、わたしはそれで充分だ』
 蛇神は鎌首を更に上へ上へと伸ばした。海の〝鯨〟の姿を見たのか、瞳孔は細まり、そのまま伸びた首は、
『お前は――今でも、やはり素敵だよ、〝鯨〟』
 海の上を一撫でしながら、元の蜷局へとゆっくりと戻って行く。言葉と共に金銀を含む吐息が、悲しげに海と砂浜に降り注いだ。鹿に纏わり付く腕のありとあらゆる目が、降り注ぐ金銀に眩しげに目を細める。
『そうだな――儂は体がでかすぎたよ――いくら他を食らおうと、なかなか儂の体を満たしてくれんものなぁ――お前に食らって貰うことも出来なんだ』
 蛇神に語りかける〝鯨〟の轟く声は、辛く苦しく愛おしげであり続けた。尾に払われた腕達は、船の碇のように波打ち際で砂を掴んでいる。
『ところでよぅ、大蛟よぅ――お前の委任はまだ終わらんのかい? いつまで巣穴に籠もっておるんだ――そろそろ終える頃合いだろう――儂が来るのに、鹿の一匹では寂しいのぅ――細やかすぎやせんかねぇ』
 蛇神の吐息が去って、再び数多の目が開く。ぎょろりぎょろりと開く目には、鹿にも覚えがある目があった。クマだ。クマの目が、こちらを見ている。
『今代の代理も腕がいいのさ。よく整えてくれるもんだから、お前に食わす分がない。その鹿も――少し時期がずれればここには並ばなかったよ。鹿一つあるだけ良いと思うことだね……そうだ。どうしても足らぬと言うのであれば、また、わたしの溶かし残しを食っていくかい? 付喪神の目ん玉だがね、少し硬くて難儀している』
『寄越しな――寄越しなぁ、お前は体を大事にしなくちゃなるまいよぅ――貰ってやるから、儂に寄越しなぁ』
『わたしが吐き出ぬのは知ってるだろ』
『分かってるともよぅ――抜いてやるから大人しくしろぃ』
 風も振動もなく、蛇神の頭が砂浜まで下りて海に向かって、牙を上顎に貼り付けたままの口を開いた。その口に海から伸ばされたのは真っ白の、毛むくじゃらの腕である。真珠のように輝く五本の爪を生やし、水晶のような短い毛で覆われた肉厚の腕は躊躇いなく蛇神の口の中へ、その体内へと伸びていく。
『ああ――見付けた――確かに、こいつは難儀だなぁ』
 ずるずると蛇神の体内へと伸びていた腕が、今度はゆっくりと引かれていく。蜷局を離れている蛇神の頭部近くが丸く膨らみ、えずきと共に引き出されたのは表面が溶けた巨大な眼球であった。眼球にはすぐさま黒い腕が群がっていく。無数の目玉が湧いていく。白い腕はというと、酷く静かに、水音一つ立てずに海中へと沈んだ。
『――犬の、においがするなぁ――おい、大蛟よぅ――穢れた犬のにおいがするぞ――お前が食った目玉からだ――お前、荒神を食ったのかい?』
 鹿ほどある眼球も、多種の腕と多様な目玉に覆われて丸い形しか残っていない。鹿の体も角も、潮風に晒されているところなど殆どなかった。鉄錆色の目がかろうじて、多種の腕の隙間から蛇神と〝鯨〟のやり取りを覗ける程度だ。それすら覆われてしまった方が、幸であったか、楽であったか。
『ああ……そんなのが居たような気がするが、忘れたね』
『穢れのにおいはするが肉のにおいがしないのよ――蛟ぃ、おい、蛟よぅ――隠し立てしても得はねぇぞぅ』
 ばしゃりと、碇と化していた腕が再び波を壊して砂浜を上る。巨大な体を引き寄せようとしているのか、海底を擦る振動が砂に伝わり広がっていく。砂浜に上った腕からは、また多種の腕が生えて伸び、まるで蔓のようにざわざわと砂浜に広がっていった。砂浜を覆い尽くすのも時間の問題であっただろう。されど、海辺には不自然な空木の枝に触れる直前に、
『お久しぶりです、〝鯨〟殿』
 腕の一つに、小さな花が一つ二つと咲いた。黒い腕に直接触れるのを避けて、僅かな隙間を二度、三度と跳ね回ってからすらりと背を伸ばした白鼬――こごめの姿を、腕に湧いた目玉が見付けると、
『おぅ――おぅおぅ、まさか――まさか、鯨飲かぃ? こごめかぃ? まさかお前なのか――随分と懐かしい顔ぶれじゃぁないか――蛟とは今も仲良くやってるのかぃ――やってなけりゃぁ、こんなところにいやしないかぁ』
 〝鯨〟の声はいっそう大きく轟いた。単純に懐かしみ、喜んでいるばかりの声であるが、やはり周囲を大きく轟かせるのかこごめのヒゲがビリビリと揺れている。こごめにも見境なく、黒い腕は伸びていくが、こごめは軽やかにその腕を避けながら跳ね回って見せた。
『鯨飲に顔を出されちゃぁ、〝鯨〟と呼ばれる儂は恐ろしいよ――恐ろしいよぅ――ははぁ、そうかい――つまり、お触り禁止ということかぃ?』
 〝鯨〟は愉快そうに一笑いをした後、子どもの戯れを見守るように黙りこくった。そうこうしているうちに、腕はこごめを追うのを止めて、ざらりと砂を掻きながら引き摺られだした。砂浜を覆い尽くさんとするほど広がった黒い腕の群れ全てが、ずるりずるりと海の中へと引きずり込まれていく。
『まぁ、いいさ――構わんよぅ――潮目が変わった――流されっちまう――こごめよぅ、鯨飲よぅ、お前の顔も見れて嬉しいよぅ――蛟ぃ、蛟、大蛟――儂の一番の心配事の蛟よぅ――次にお前に会うときは、お前は巣穴から出ているかねぇ』
 潮の流れが変わったことで、〝鯨〟の体が沖へと流れ始めたのだ。ありとあらゆる腕が砂浜に爪痕や砂紋を残していくが、それも風に洗われて程なく全てが消えるだろう。海へと引き摺られるのは、腕だけでなく、
『さぁね。海を漂うお前は潮目次第であるから。そもそも、お前の流れがここに向くまでに、お前が完全に穢れて荒神に成り果てているかもしれぬし、別の一柱に食われているかもしれぬし』
 表面の溶けた眼球も、腕に捕らわれきった鹿もまた、砂に消える痕跡だけを残して引き摺り込まれている。鹿は足掻こうとした。このままではいけないことだけは分かっている。海の中にあるものは荒神である鹿を消しも残しもする者だ。どちらか一方ならまだ救いがある。だが、このまま海に引き摺られれば、両方ともを味わう羽目になる。周囲を殺すも叶わず、消えてしまうことも叶わない。列に、並ばされる。
『まぁ、わたしが食える程度に色々な奴に食われておいで。お前とも長い付き合いだ……最後くらいは看取らせておくれ』
 鹿の目はまだ、腕に覆われていなかった。足に波がかかる。鹿は懸命に足掻いたが、全ては徒労だ。ずるずると海は鹿を飲み込んでいく。そして、鹿は〝鯨〟と呼ばれ続けるそれの全貌を、ようやく広い視界いっぱいに収めた。
『さらばよ、〝鯨〟』
 月がない黒である。月を覆い隠して、曲線を描く巨体の一部を海に聳えさせた黒である。ようやく見ることになった〝鯨〟の輪郭は、すぐにばらりと解けてしまった。無数にして多種の腕、足、胴が絡まって出来ていたらしい黒い体半分が解けたことで、巨大な口がゆっくりと開く。喉の奥まで無数の歯牙が並び立つ口だ。草食も肉食も雑食も関係なく、ぐちゃぐちゃに生えた歯牙が鹿より先に眼球を、それを包む腕ごとぷちりと呆気なく噛み潰した。
 波が〝鯨〟の体を揺らす。揺れて露わになったのは、僅かな月明かりを色鮮やかに乱反射させる短くも美しい白い毛皮を纏った残り半分だ。海水を弾く毛は一つ一つが水晶のように煌めき、月光の届く範囲では海中に虹を描いている。先程伸びた腕は、この白い体半分から伸びた腕だろう。
 その白い体には、海中に沈んでいるものの太陽のような強い輝きを持つ金色の目がついていた。黒い体を成す数多の部品が解けて開くと、今度は口だけではなく鉄錆色の血走った目も露わになった。鉄錆色の眼の奥は、赤々とした炉がくべられ続けているように溶けた岩が混ざり合うように蠢き続けている。
 黒い体半分の口に、黒い腕ごと鹿は押し込まれていった。悲鳴の一つも上げられない。自身に絡み付く多種の腕に湧いた多様な目玉の中に、同種のシカの眼球を見付けた。鉄錆色に染まる前に己も持っていた眼球だ。ああ、そうだ。己はシカであった。群れの中にいた。また群れに戻るのか。ちがう、ただ、列に並ぶだけである。同種の眼球に見つめられながら、鹿は無数の歯牙にぷちりと押し潰された。

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