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 祭り囃子を締める太鼓が山から町に反響する。子ども神輿と山車の列が、練り歩きの終着である神社まで辿り着いたのだろう。子どもの歓声も散り散りになり、町は少し静かになった。夏は海水浴客で賑わうS町であるが、金曜日からの三日間、町全体が活気づく夏祭りを迎えた。商店街や参道には提灯がぶら下がり、そこかしこに屋台が出ている。二日目か三日目には小規模ながら沖合から打ち上げ花火もあるのだ。その為、初日の今日は活気も賑わいもまだ序盤である。
 夏の太陽はようやく山向こうに陰ろうかという気の長さだ。祭り囃子も子どもの歓声も遠のいて、ツクツクボウシが聞こえ出す。夏の終わりを感じさせるノスタルジックな鳴き声と評されもするが、今の鱗道には煩わしさのみが染み付こうとしていた。原因は昼頃から飛び込んできた急な仕事である。蒸し暑い店の奥で眉間に皺を寄せている鱗道の頭からは、毎年の楽しみ事などは片隅に追いやられてしまっていた。

 元々が古い空き家である。質屋を営むにあたり色々と改修もしたが、一階の店舗スペースには空調が入れられなかった。店の東側は一面のガラス戸であったし、梁の高さや物で溢れることを考慮すると冬ならまだしも夏となれば効率が悪いという結論に至ったからである。その分、店舗と居住空間の境は段差のみで扉を作らず、ガラス戸と居間の窓を開ければ風が通るように考慮して作られた。暑さが苦手な鱗道は夏の大半を二階の寝室で過ごしているし、客の相手くらいならば扇風機ととある秘策によって鱗道は乗り切れるのだ。
 が、古い机と古い卓上灯が押し込められ、大人二人がすれ違うにも窮屈である奥まった一角だけは別である。主に〝彼方の世界〟に関わるやり取りを行うときに通行人や急な来客の視線を遮るように設けたので、風通りもなくなってしまった。夏となればくたびれたTシャツにステテコ、サンダルというスタイルであっても汗ばむほどの熱気が滞る。扇風機のコードも居間からここまでは届かない。となると、秘策頼りになる。
 腰掛ける鱗道の足の間に秘策はどっしりと据えられていた。豊かな被毛、紺碧の眼、机に両前足と顎を乗せているのはシロである。シロは霊犬だ。既に死んでいるイヌであり、ただ顕現しているだけならば体温はない。腹には蠢き出せば熱塊となる穢れを抱えているが鎮まってさえいれば、膨れた被毛の見た目に反し年がら年中ひんやりと冷たいのだ。その冷たさは足下にシロを侍らせて置けば真夏真っ昼間の日向でもない限り、鱗道が客の相手をしている間も汗を掻くこともない程である。まさしく、鱗道にとっては秘策であった。
 鱗道はシロの冷たい体を抱えるように腹を密着させて、耳の間に顎を乗せていた。初秋の夕方となれば寒気を覚えることもあるが、現在では快適この上ない。急な仕事にも集中出来ようというものである。

 古い机の上には一つの壺が置かれていた。壺のすぐ側に立ち、首も足も伸ばせるだけ伸ばして壺の中を覗き込もうとしているクロの目が届かない様子から、高さは三十センチ程。直径の最大はそれより少し短いくらいか。全体的には煤竹色をし、細い口から乳白色の釉薬が垂らされている。見た目にはただの、なんの変哲もない壺である。が、確実に〝彼方の世界〟が関わっている壺であった。
『壺というものは実に厄介です。この形では壺の口にしか足をかけるところがないのですから』
 鱗道から、壺の口に足をかけないようにと注意されているクロの声は普段通り硬質にして淡々と、しかし口惜しげに語り、
『一回、倒しちゃおうか』
 ひゃんと小さな鳴き声に幼稚な言い方が抜けないシロは、両手足を前にぐっと伸ばして壺に爪先を引っ掛けようとしている。鱗道がシロをたしなめようか迷っているときに、店内に足音が増えた。風通しを考えてガラス戸は開いているが「閉店」の札がぶら下がり、店内の明かりは落とされている。そこに何の挨拶もなしに入ってくる人物など鱗道は一人しか知らない。当然、シロもクロも知る人物である。足音より先に気が付いたらしいシロの尻尾が鱗道の足を打ち始めた。一方で、壺に集中していたクロは反応が遅れている。
「随分と暗ぇと思ったら、仕事か? グレイ」
 奥まった一角まで迷うことなく辿り着き、ぬっと顔を覗かせた猪狩は机上から飛び立ちそびれたクロを見て、珍しいなと口笛を鳴らした。派手な模様のアロハシャツ、麻のサマーパンツに雪駄。健康的に焼けた肌に首の上で纏められた緩いウェーブの茶髪と、頭上にあげたサングラス。同い年の夏姿であるが鱗道との格差があまりに大きい。
「ああ……まぁな。お前は、見回りが終わったのか」
『猪狩だ! いいにおいがすると思ったら、猪狩だった!』
 シロの興味は壺から猪狩に移っている。鱗道の足の間を身悶え抜けて、ひゃんひゃんと鳴きながら猪狩の足下に走り寄ってしまった。涼の源に去られた鱗道は落胆しつつ、椅子から立ち上がって猪狩に向き直る。逃げ遅れて机上に留まるクロの間に立って屏風の代わりにでもなろうとしたのだ。
「おう。俺の当番は終いだ。明日はちょっろっと顔を出すだけ。明後日は仕事だが、ま、楽なもんよ」
 猪狩はにっこりと子どもっぽく笑って見せた。今日、猪狩は保護者会で祭りの子ども達を見守る役割に駆り出されていた筈だ。子ども達は夏休みであるが、大人は平日の金曜日。見守り要員も土日より金曜日の方が人員の確保が難しい。猪狩は休みに自由が利く方だからと、金曜日丸一日と土曜日の半日を当番として受け持ったと聞いた。その当番帰りに、顔を出したのだ。
「そうか。ご苦労さん……で、何か用か」
「おいおい、つれねぇ返事じゃねぇか。例のブツを持ってきてやったってのによ」
 例のブツ、と首を傾げる鱗道に猪狩が手に提げた大きなビニール袋をこれ見よがしに掲げてきた。仕事に奪われていた思考ではビニール袋の中身がすぐに思い付かない。見回り、祭り、夕方近く、シロの言ういいにおい――と、順繰りに考え出してようやく、片隅に追いやられていた年に一度の楽しみに辿り着く。欲するままに袋を受け取ろうと歩き出す前に背後をちらりと見やった。クロは卓上灯の届かぬ机の隅に移っていて、影と一体化することで猪狩をやり過ごすことに決めたらしい。それで充分だろう、と鱗道も思った。机のある一角は大人二人がすれ違うにも狭い程だ。猪狩も必要がなければわざわざ入ってこないし、今はその足下にシロが絡み付いている。猪狩は机まで、そして机上のクロまで届きようがない。
「一応、壺を見といてくれ」
 鱗道がクロに言えば、クロから静かに『了解しました』と声だけが返される。嘴を開く動作も音を立てないのも、影に潜みきっているからだろう。
「あー! ったく、シロは暑苦しいんだよ! 寄ってくんな!」
 猪狩は足下を纏わり付くシロを避けながらも、動物好きを隠さず満更でもない口調で言う。シロは一切を気にせずに、猪狩が鱗道に見せつけている右手とは反対の、背中に隠すようにしている左手を追うようにぐるぐると纏わり付いていた。
「俺には丁度良いんだがな……シロ、猪狩は暑苦しいそうだぞ。こっちに来い」
 猪狩を避けてサンダルを脱ぎ、居間に足をかけて手を叩いたが、シロは鱗道に尾を向けたままである。肩を落とす鱗道に苦笑いを浮かべた猪狩は、
「イヌで涼を取ってんのはお前ぐらいだろうぜ。まぁ、ほら、これで機嫌を直せよ」
 シロを迎えるために差し出した鱗道の手に、ずっしりと重たいビニール袋を乗せた。
 袋の中身は、焼きそば、お好み焼き、フランクフルト、たこ焼き、焼き鳥等々の屋台飯がぎっしりと詰まっている。今日の祭りで神社の参道や商店街に並んだ縁日から買ってきたものであろう。
「随分とまぁニヤつきやがって。チョロい野郎だぜ」
 猪狩が言うほど、鱗道に表情の変化はない。古い友人であるからこそ分かる程度の薄らとした笑みである。が、笑みは笑みだ。鱗道はそのまま猪狩の顔を見た。
「ビールが冷えてるが、どうする?」
「随分と浮かれてやがるな。まぁ、昔からお前、なんやかんやと祭りや屋台飯が好きだよな。ガキの頃も、夜にはお前から言い出すぐらいにはよ」
 猪狩の言葉に鱗道は肩を竦めるばかりである。何せ、猪狩の言葉は一部であるが正しいのだから。
 確かに鱗道は昔から屋台飯が好きだった。屋台によっては値段相応だと思えないときもあるが、少なくともS町の祭りは大半がボランティアや町内会による出店だ。採算など二の次で、量が多いか子どもの小遣い程度かのどちらかである。それでいて味が濃いめのジャンクフードであることには変わらない。旺盛な食欲を抱えた時期には非常に助けられた。
 猪狩の言葉で間違っているのは、祭りが好きであるということである。子どもの頃から祭りの喧噪に入ることも、夏の暑さに参りながら神輿を担ぐのも山車を引くのもうんざりしていた。が、夏の終わり際にある祭りの、日が落ちてから潮風が吹く中を、気心の知れた友人達と練り歩く屋台は好きだった。たわいない話をしながら橙色の明かりの下で、普段ならば引かないくじを引いたり、食べ盛りの腹を屋台飯で満たしながら、花火が上がるまでの間を砂浜で騒いで過ごす時間は好きだった。今でも味が濃いめを好んでいるが、何より思い出もあって屋台飯は鱗道にとって年に一度の楽しみである。
「お前が初めて麗子を誘ったときは少し遠慮してやっただろ。見事にフラれてたが」
「おい、その話は止めろ」
 友人には分かる程度に浮かれている鱗道の声に対し、猪狩の声は傷心を抱える真剣なものであった。鱗道はビニール袋をちゃぶ台に置きながら軽い謝罪を口にする。鱗道にとっては程よい青春の思い出であるのだが、猪狩の傷は最終的に麗子を射止めた今現在も癒えていないらしい。それでも猪狩は舌打ち一つで区切りを付けたらしく、鱗道が振り返った頃には店と居間の段差に腰を下ろして、ずっと左手にぶら下げていたものをシロの鼻先に突き付けていた。
「ほれ、シロ。お前の土産だ。食うんじゃねぇぞ」
『わぁ! わぁ!』
 シロの紺碧の目がキラリと一際強い輝きを溢れさせた。猪狩が左手にぶら下げていたのはビー玉やおはじきなどが入った袋と、数匹の金魚が泳ぐ金魚袋である。
『お魚! お魚だ! ちっちゃいねぇ! かわいいねぇ!』
「おい、本当に食うんじゃねぇぞ」
 猪狩が念を押すのも致し方ない。シロは猪狩の膝に前足をかけたり、千切れんばかりに尻尾を振り回したり、飛びかかるのを堪えるように後ろ足をばたつかせたりと落ち着かないからだ。
 山育ちで近くに大きな水場がなかったシロは海や池などの水場を大いに好んだ。更には小さな水槽や店先の生け簀、果ては魚屋に並ぶ商品など、やはり縁遠かった魚を見掛けると十中八九足を止めて時間が許す限り眺めている。それを知った猪狩は祭りで金魚すくいが出ていると数匹を土産に持ってくるようになった。数日は鱗道が世話をしてひとしきりシロを満足させた後は、猪狩が引き取って子ども達の観察日記に使われるのが通例である。なかなか長生きさせることは難しいが、夏休み明けには小学校に持ち寄られて飼育係に預けられているそうだ。小学校の水槽には数年を生きて随分と大きくなった金魚もいるらしい。
 自分の喉も渇いていたのもあって、鱗道はグラスを二つ取り出すと麦茶で満たした。一つはその場で飲み干し、もう一つは猪狩へと持っていく。
「おう、ありがてぇ」
 麦茶と引き換えに、シロの代わりに金魚や玩具を受け取った。シロはようやく店から居間に上がり、鱗道の手に移った金魚の後を追う。シンクには昔ながらのガラス製の金魚鉢も準備してあるのだが、クロが調べたところによるとすぐに金魚を移し替えるのは色々と問題があるらしい。細々とした手順は冷蔵庫に貼られたメモに書いてあるが――金魚には今しばらく袋の中にいてもらうことにした。倒れたり零れたりしないようにタライの中に寄せて置く。
「そいつは余りモンだとよ。家のガキ共も、さすがにビー玉なんぞで遊ぶ年じゃねぇからなァ」
 猪狩が言ったのはビー玉やおはじきの方だ。鱗道が貰ったところで使うあてもないが、クロとシロは時々、妙に単純な遊び――コイン弾きやカードめくりなどをすることがある。二人ならば何かの遊びに使うこともあるかもしれない。それも、今は金魚の隣に寄せておくことにした。

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