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『十六』

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 一歩、二歩、そして三歩歩いたときにのぞみはある違和感を感じた。立ち止まりのぞみは口に手を当てて考える。自分の頭の中にある時計が秒針を動かしていて、三回ほど動いたときにその原因をやっと理解できた。電気のついていない蛍光灯が何本も並んでいる。自分が立っている廊下だけではなく、扉一つで隔てられている教室も電気はついていない。扉にはめ込まれているガラス越しに見えた四角い暗闇は変化もなくいつまでも暗いままだった。おそらく太陽が昇るまでそれは変わらないだろう。夜の学校はこういう場所だ。人はおろか生物の気配は感じない。初めて来たがそれが想像通りであることにのぞみは少し驚いてしまう。だけど何よりもなぜ自分がここに居るのかということを素直に驚いていた。光がない建物の中から見上げる月は普通ならその下を素通りしてしまうのに、今だけは立ち止まってしまう。くりくりとまん丸のお月様は猫の瞳みたいでどこかかわいらしいとのぞみは考えていた。でもそれはこの状況を考えると現実逃避とも思える能天気な気分に陥っているためだろう。月から目を離すとのぞみはどうしても落ち着かなくなった。口が半開きになっているのに気づかず周りを何回かざっと眺める。そしてようやくのぞみの思考が乱暴に回り始める。学校に来たはずだ。ただし中ではなく学校の外である。そこまでは覚えている。のぞみは壁に寄りかかりその記憶の有無を確実なものにしていた。そして硬くなっている頭をゆっくりとほぐしつつ数十分前を回想する。なぜ学校へ向かったのだろう。それはこだまが呼んだからだ。それに答えるようにのぞみの脳裏にそのときの映像が蘇る。白い息で自分の両手を温めながら向かった学校は当たり前のように人の気配らしきものはなく、のぞみが来るのを拒んでいるようにその静けさが充満していた。しかし夜空の月光をスポットライトのように使い、外と職員室をつなぐ扉の前でこだまが立っていた。ずさんにコートを羽織り、まだセーラー服を着たままでいるのをみたときに私服で来た自分がなんだか場違いに思えた。その映像はまだ色鮮やかにのぞみの記憶に残っている。広げた自分の両手を見て軽くうなずく。だけどそこから先がない。気がつくと学校の廊下で一人歩いていた。そこまでの過程が落款しているのか少しも思い出せない。自分のことで分からないことがあるということはとても気持ち悪い。自分が自分でないようで、自分自身に疑いを持ってしまうと他人に対しても疑念を持ってしまう。なぜ学校の中にいるのだろうか。自分の意志でなのか。それともこだまがのぞみに何かしたのだろうか。他の選択肢も思いつけずその二つのどちらにも決められず、のぞみは廊下を当てもなくさまよっている。自分は今からどこに行けばいいのだろう。昼なら端まで見える廊下なのに、今は数メートル先も何があるか分からない。自分に伸びてくるような暗さにのぞみはそっと目を背け半歩後ろに下がる。自問が積み重なるばかりでそれらを消化することはいっこうにできない。ここで自分は何をすればいいのだろう。自問をしても何も解決しないことは目に見えているのにのぞみはそれを止めることはできない。自分の靴と床が音を出しながら擦れ、その音がのぞみに決断を迫らせている。自分の目的を決めろと脅されていた。不思議なことだがのぞみは帰るということは考えていなかった。自分がここに居るのは何か意味があるのかもしれない。こだまが携帯電話越しにしゃべった一言をまだ覚えていた。のぞみがここにいるのがひかりに何か関係するのならここから離れるわけにはいかない。どこに行けばいいのか、今は右も左も分からない状況だがこの意思だけは捨てるわけにはいかなかった。歩幅を長くする。スカートがのぞみの動作に同調する。適当に来ていたコートのずれを直してのぞみは歩調を速める。絞め殺されそうな錯覚に見舞われたけど気づかない振りをした。



 初めて体験する状況に立たされると自分の気づけなかった性質を見つけてしまうことがある。学校をさまよい始めてのぞみは認めたくないものに気づいてしまった。一歩足を進めるたびに膝頭ががくりと落ちて転びそうになる。さっきまでの威勢が嘘のようだった。見知っている場所のはずなのに、いつも歩いている場所だからこそ目の前とその記憶の差に恐怖を抱いてしまうのだろう。ペタリ、ペタリとけだるそうに足を引きずる。変わり映えしない音をのぞみは何度も聞いていた。床に縁取られている木々の影はその葉一枚さえ動いていない。不気味なほどに透明な窓ガラスの向こうにはさっきから変わりもしない月が浮遊している。月を見ているのではなく、月に見られているようだった。目頭が引きつる。のどが焼け付くようにいたくて、指先が霜焼けしているのかちょっと赤くなっていた。ただ歩いているだけでのぞみは苦しんでいる。一瞬だけ視界が暗転するがまた視界が復活する。暗転する頻度は時間がたつにつれて回数と時間を増してゆく。疲れているのだろうか。目をこすり頭を振るがそれでも体を縛る違和感を取ることはできなかった。自分がどこを歩いているかも分からない。学校はまるで異世界のようだ。いつも歩いている学校とは似ているようで少しも違う。自分が思っている勝手が違うのだ。のぞみはついに耐えきれなくなって足の力が抜けた。何でもいい。誰でもいい。一人でいるのはもう耐えきれない。ひかりも同じ気持ちだったのだろうか。月光を通していない真っ暗な窓ガラスには泣きそうなのぞみの顔がくっきりと映っている。ひかりのことが頭をよぎったのは自分があのときのひかりと同じ表情をしているからかもしれない。あのときにひかりの言うことを聞いて、自分の不安を打ち明けていたら今ここにはいなかったのだろうか。寂しさを押し隠そうとして隠しきれていなかったあのときのひかりの顔を見ることもなかったのだろうか。ひかりに関してはこだまがそばにいるからのぞみがいなくても変わらないだろうと思っていたのはただの楽観視だったのか。自問をしているようにみせかけてのぞみは自分で自分を追い詰めていた。暗闇に押しつぶされそうだ。このまま眠ってしまったらどれほど楽だろうか。濡れているような静けさがのぞみの感覚を麻痺させてゆく。しかしその静けさに終わりが訪れた。のぞみの頭上、学校の上の階からいきなり何かが聞こえてきた。今まで無音だっただけあって不意に聞こえてきたその音にのぞみは鳥肌がたつ。心臓が口から飛び出そうになる。声を上げなかったのが幸いだっただろう。辺りから何かが動くような気配や目立った物音はない。ここにいるのはのぞみ一人だけだ。だけど絶対に気のせいではない。雑音とは違う。聞くのを拒んでしまうような音ではない。鳥のさえずりのような言葉にはなっていないけど一定のリズムを持っている。しかし音源は鳥ではなく、人間であることは確かだ。鳥のさえずりのようだとのぞみが感じたのはその歌がかすかに聞こえるせいで何を歌っているのか分からないからだ。どこにいるのかは分からない。けれどこの学校のどこかから流れているのは確かだ。のぞみは壁に手をつけ立ち上がる。その歌を歌っている人はのぞみと無関係とは思えない。夜にここにいることがそれを裏付けている。しかしなぜ歌っているだけなのだろう。こちらから来て欲しいのだろうか。それとも深夜の学校に来てまで歌いたいのだろうか?しかしこんなところで脳天気に歌う人間がいることのほうがのぞみにとって怖かった。歌声はさっきから聞こえなくなることはない。何を歌っているのかはやはり少しも分からない。でも聞こえなくなることはなかった。釣り針の先を見せられているようにその歌い方はのぞみを引っ張ろうとしているようだった。歌声が綺麗であればあるほどのぞみは警戒してる。歌声が透き通るほどに自分の不安が厚くなる。その不安が歌声に奇妙な補正をかけ、その旋律には妖艶な含みがあるようだった。だがどうであれ歌声を響かせている人にあってみないことには始まらない。無駄に想像を重ねていくのは時間の無駄だろう。いつこの歌がかすれて、聞こえなくなってもおかしくないのだ。のぞみはその歌が聞こえる場所まで走ろうと足を上げ、何もないところでつまずき転ぶ。しかしそれはのぞみの注意が足りなかったからではなく、誰かがのぞみの手を掴もうとして掴み損ねたせいでバランスが崩れたからだった。

「きゃっ。」

床の冷たさが二の腕から伝わる。倒れた衝撃が肩をしびれさせてのぞみは顔をしかめた。ざわざわと外で生えている木々が大きく揺れて、空中をビニール袋が飛んでいる。轢かれた蛙のように床にへばりついているのぞみを嬉々としてからかっているようだった。

「のぞみさん。大丈夫ですか。」

差し出される手の厚さやぬくもりに一瞬身を強張らせるけど見知った顔が目の前にある。のぞみは何も言えなかった。小さな口を丸く開き起き上がることも忘れている。のぞみの気を目覚めさせるためか谷川がにこやかに笑う。なぜここに谷川がいるということを疑問に持つ前に人に会えた安心感でのぞみの胸は熱くなる。


なぜ自分はここにいるのだろうか。茫然自失同然で廊下に立ち尽くしているあさひはそのようなことを考えていた。そのようなことを考えることに意味はない。しかし何か考えていないと自分が空っぽになってそのまま倒れてしまいそうだった。まず初めに浮かび上がったのがこだまの顔だった。目はまっすぐこちらを見据えて小さな口を上下に動かしている。こだまがあさひへ向けた言葉に思った以上に揺り動かされていた。しかしそれだけだろうか。タールのような疲れがあさひの中でどろりと動く。冷気で体が急速に冷やされて、皮膚がとても張り詰めている。精神だけではなく身体も苦しいこの状況であさひは忘れている何かがあることを思い出した。頭の映像の中のこだまが何か言いたそうに口を動かしている。本当は何か言っているかもしれないがあさひには聞こえていない。だけど脳内に映る彼女の必死さに影響されてあさひはこだまから連想することを指折り考えていた。
無愛想。生意気。クラスメート。七不思議。今日話した唯一の人物。
目を見開いてはっとする。制服の後ろポケットをまさぐると予期していた確かな手触りを感じた。汗ばんで上手く動かせない指を苦労して動かしそれを広げる。こだまからもらった紙切れを広げあさひは笑う。疲れているから死にかけの表情のようになっているが確かにあさひは笑っていた。内容をもう忘れているわけではない。ただこの状況を打破できる刺激にでもなればよかった。それに時間がたてば前に気づけなかった何かに気づけるかもしれない。どうせここのまま走り続けてもこの状況から脱出することはできないだろう。だからあさひは紙の存在を思い出すとすぐさまポケットからそれを取り出した。月明かりがその紙切れを照らす。青白く変化した紙を指でなぞり、あさひは廊下の端に座りこんだ。ゆっくりとあさひはその紙を読み始める。

  こだまへ。親愛なる友達より。
 この紙はたぶんこまちも目を通してしまうかもしれないね。でもあいつはいつも鈍いから気づくのに時間はかかるでしょう。でもこれを読むかもしれないからこまちにも言っておくわ。私に会いたかったら私の命よりも大切なものを探りなさい。それだけ助言をあげる。後はあなたで察しなさい。さてと、こんなことを伝えるためにこの紙を書いているわけではないの。だけどまず何から話せばいいかちょっと迷うわね。
 じゃあまず私が今ここに居る場所について一つ講釈を垂れてあげる。私が今どこにいるかというと学校の生徒会室よ。ただね……一般人みたいなのが気安く入れる生徒会室ではないわ。勿論私の生徒会室も気軽に入ってこられると困るのだけど……私が今いる生徒会室は入ろうと思っても入れない場所にあるの。内装はほとんど同じだわ。絨毯、パソコン、電気ポットにテレビ。多分この生徒会室は私のものを複製したものだと思うわ。
 よく分からないと思う。でも大丈夫。私もよく分かっていないから。説明しようとしても説明できない。感じることでしかこの場所を理解できないと思う。不思議ね。こういう空間があればいいと思っていたけど実際その場所に行き着くと不気味さでしり込みしてしまう。
 この場所は……予想にもつかないことが起きている。右を向いているのにいつの間にか左を向いていたり、沸騰していたお湯がいきなり冷めたりするの。今だって生徒会室から外を出たらどうなっているのか分からない。無限に広がる迷路に迷い込んでいるようだわ。もう困っちゃう。でもその中を自由自在に走り回っている人物が一人居る。それがクーライナーカだわ。この迷路もクーライナーカのためにある。いやクーライナーカがこの場所を作ったのではないのか。ただなぜこんなものを作ったのかは不明ね。一から十まで私に求めないで。
 谷川からそっちの様子をたまに教えてもらっている。私は居なかったことになっていることは予想できていた。でも私の後釜に座り生徒会長を名乗っている奴をほおって置くわけには行かないわね。この一軒が終わったらゆっくりそいつに話を聞いてみようかしら。
谷川は私に予想よりもよくしてくれるわ。でも何を考えているのかよく分からないわね。谷川の目的は谷川しか知らないから私たちとは無関係だけど。
 それにしてもよい偶然だわ。目安箱がこっちとあっちにつながっていると気づいたから私がそこにも記録を残してこれる。こっちに残るものは何もないからね。だから奮発して五千枚ぐらい複製しといてあげる。たまには目安箱もびっくり箱ぐらい兼任すればいいでしょ。
じゃあね。
あっそれから私に会いたかったら生徒会室に来なさい。以上。
51, 50

  



無意識のうちにあさひは生徒会室の扉に顔を向けていた。みていると目が回るような幾何学的な装飾が刻まれていることをのぞいてはただの扉であさひが出て行ったときと特に目立った違いはない。絶え絶えになる息を必死に整えながらも、あさひはその扉が生徒会室へ続く扉であることを確認していた。ひやりとした冷気があさひを取り巻く。汗が急速に冷えていき、頭も落ち着きを少しずつ取り戻していった。疲れはまだ体から離れないけど不安感などは綺麗に流されてゆく。あさひはある場合を思いついてあさひはごくりとつばを飲み込んだ。生徒会室の中には誰か居るかもしれない。あさひが出て行った後に誰かが入ってくるということもあるだろう。それにつばめという人物は生徒会室にいると書いてあった。しかし出口もないこの廊下に入り口などあるのか。そもそも夜の学校に人はいるのだろうか。中には誰も居るわけない。それで当然のことに決まっている。それを裏付けるかのように生徒会室の扉はあさひが飛び出した時と違いはない。それをよく分かっていてあさひは立ち上がり生徒会室の扉を開いた。扉が開く音ではなさそうな重低音がなぜか緊迫した雰囲気を作る。廊下よりも暗いわけではないのにすごく暗いと感じてしまうのはカーテンが締め切られているからだろう。教室の広さほどないが特別な教室では広いほうなのに閉塞間が肌を叩くのは目の前に置かれている長机のせいに決まっている。床のカーペットの感触がこの部屋が特別であることを歩くたびに教えてくれる。それほど観察したわけではないが谷川が居たときと変わっていない。しかしそこには人が居た。電気ポットがこぽこぽと沸騰した音を立てている。前にはなかった生活感が浸透していた。その人は谷川が座っていたときよりもえらそうような姿勢で座っている。椅子に座り自らの足は机の上にのせていた。すらりと伸びた細い足が机の上で絡まっている。たぶん女性だろう。彼女はそのままの姿勢で机の上の半分を占めているパソコンでキーボードを打ちつづけていた。彼女は一瞬だけこちらを見る。めがねの向こうにやや横に伸びている平坦な形の目の真ん中に碁石のように黒光りする彼女の瞳がある。あさひを一瞬だけ見るとまたすぐパソコンに目を戻す。ダダダと激しい音が彼女の十本指から生み出されるのをあさひはただ黙って聞いていた。彼女が叩くキーボードの音は聞き続けられるものではないが張り詰めていたあさひの神経は少しずつほぐれている。彼女がいるということをその音で確かめているからだろう。やはり生徒会室にくれば人に会えた。しかしさっきまでここに誰も居なかったはずなのにどうして彼女はいるのだろう。狐に包まれたような感覚を味わい、そんな確信と疑問にもてあそばれてあさひは絶句していた。

「はじめまして。生徒会室にようこそ。」

ふいに話しかけられる。あさひのことなどいないかのように振舞っていたからそのことにとても驚かされた。おもわずあさひはつられてはじめましてと呟いてしまった。あさひと彼女を阻む暗闇のおかげで彼女がどのような表情をしているのかは分からない。

「いつも私のこまちがお世話になっております。生徒会長の捺科つばめと申します。」

口調だけは礼儀正しい。ただ態度と相反するためなのかあさひはそれに好感は持てなかった。だからといって彼女に嫌悪感を抱いたということではない。あくまでもマイペースを貫くという彼女の意志を体現しているようだった。あさひはまだ我に返れないでいる。つばめがあさひの混乱を消してくれることはなく、寧ろ余計に困惑させてしまったようだ。つばめが当たり前のようにここにいることがあさひには解せない。さっきまでいなかったのにもだ。あさひの疑問に彼女も気づいている。だけど気づいているだけだった。つばめは立ち上がりショーウィンドウからフラスコを取り出す。

「体面はこれくらいで良いかしら。これくらいやれば十分でしょう。」

訳が分からなくて頭はおろか体さえ動かせないあさひを完全に無視して電気ポットから注いだお湯で紅茶を飲み始めた。優雅に紅茶を楽しんでいる彼女とあふれ出る疑問に縛られているあさひの対照はどこか滑稽なものだった。比べている二人の姿にはこの状況で動じていないつばめと、この状況を知りたくてもがいているあさひという対照も含まれている。あさひはそれをつばめに嫌というほど感じさせられていた。

「お前何者だよ。」

昔からこまちが言っていたことがあさひの耳奥に押し寄せる。うすうすと彼女の正体には感づいているのだけど、ありもしないことについていけなかった。彼女が生徒会長だと聞かされ続け、実際目にしているのにもかからわず実感がわかない。これほど自分が目にしていることを疑いたくなるのは初めてだろう。目を閉じながら紅茶を堪能しているつばめだったがあさひの一言に過敏に反応した。片目だけを器用に開きあさひはまぶたの裏に隠れていた瞳を見た。宝物を扱うかのように両手でフラスコを机の上に置く。注意深くコマ送りのようにゆっくりと。しかしそこからの動作はあっというまであさひが身構える時間さえなかった。さっきまで真面目な顔をしていたつばめは口を尖らせてあさひへと向かってくる。あさひは何が彼女を不機嫌にさせているのか分からなかった。ただおそらくだがこれが彼女の本当の顔なのだろう。あまりにも表情が自然に変化したからあさひはそれだけ分かった。つばめは生徒会室の真ん中に置かれている長机に飛び乗るとあさひの胸元を掴んだ。身長差を覆され上からつむじを見られる。

「だから生徒会長だといっているでしょ。あんた聞いていなかったの? 」

管楽器から流れる軽やかな音色のような声は天から降ってきた隕石のような迫力を持っている。激しく燃え上がるつばめの瞳の真ん中にはうろたえっぱなしのあさひが映っていた。つばめの口調よりも、動作よりも、何よりもその瞳が語っている。つばめは生徒会長であることに絶対の自信を持っている。そしてあさひの言葉に本気で起こっているのは同じことを二回言うからではない。彼女が生徒会長であることにゆるぎない自信を持っているからでそれを疑ったあさひのことを許せないのだ。あさひの細胞の一つ一つが悲鳴を上げる。ここは謝っておいたほうがいい。そうでないと手がつけられない結果になる。数万、数億の細胞が振動してはあさひの神経を刺激する。あさひは枯れているのどからやっとこさ声を絞り出す。

「いやいい。さっきのは失言だった。」

つばめはそれだけで満足だったらしい。手をあさひの胸元から話すと机から飛び降りる。まだ苦い茶を飲んでいるときの顔のように渋い表情をまだ崩しはしなかったがぴりぴりする雰囲気をもう感じなくなった。フラスコを取ってくるとつばめは長机の淵に座ると足と腕を組む。あさひには目もくれずに紅茶を飲みながら足の先で椅子をいじっている。いちいちえらそうな態度をとらないと落ち着かないのだろうか。

「あんたが廊下でまごまごしている間ずっとこの体制で待っていた私の身にもなってもらいたいわ。」

「それは俺に文句を垂れたってしょうがないじゃないかよ。」

あさひとしては当然のことを述べたつもりなのだけどつばめにしては痛いところを疲れたようだ。椅子をいじるために伸ばしたり縮めたりしている足の動きを止めそっぽを向く。あさひからはつばめがどのような表情をしているのかは見えないがあさひには分かっていた。だがそんなことで終わるつばめではない。あさひに後頭部を見せていたのも数刻のことで、つばめはふりかえるとさっきよりも尖った口調でつばめはあさひに吼える。こころなしか口からちらちらと見える歯の中で犬歯の先がとても鋭角のような気がした。

「うるさいわね。少しは私に感謝ぐらいしたらいいのじゃないの?残りの人生全てはたいて廊下でマラソンしたかったの?」

感謝って……つばめは別段あさひのことを助けるために具体的な行動をしていたわけではない。というより何もしなかった。つばめはただこの部屋で時間をつぶしていただけではないか。そのことを完全に無視してつばめは騒いでいる。あさひはそのことを指摘してもよかったのだけど、それで自分が優位に立てるとは思わなかったのであさひは黙認することにしておいた。鉄板も綺麗に切り裂けそうなつばめの視線を横に流しあさひはできるだけ弱弱しい声を出す。

「それは……分かったよ。あんたに会えてすこしほっとしている。」

「あんたじゃなくてつばめ。」

「はいはい。」

「はいは一回。」

「はい……」

つばめはあさひがしぶしぶ返事をするとやや不機嫌そうに自分の髪をかき乱した。肌色がよくわかるつばめの指に挟まれた髪はすこし茶色みが見える。

「とにかく。さっさと事を進めるわよ。紅茶も飲んだことだし。」

つばめは飛び出す勢いで立ち上がった。その無駄に荒い動きで長机の傍にある椅子が倒れたが彼女は気にするそぶりも見せない。空になったフラスコを片付ける。不敵に微笑みながらあさひに近づくと下からあさひを睨む。値段を考えているような視線を飛ばしていた。それには文句の何もないがつばめの瞳の真ん中には何事にもひるまない太陽よりも輝いている光を閉じ込めていた。

「確かあさひだったわね。私についてきなさい。」

あさひの了承も得ずにあさひの服の裾を掴む。いきなり命令されると何か口答えしてしまうのが性質としてあさひの中にあった。しかしあさひは開きかけたその口をすぐに閉じる。つばめがこちらに近づいてすぐさま飛ばした視線はあらゆる反論を無視する頑固さを持っていたからだ。そのまなざしで睨みつけられまだ口を挟む勇気を持っている人物は多くはないだろう。あさひはつばめが行った極小の動作でつばめの人格の一端を垣間見た気がする。つばめはおののいたあさひの挙動に気づいたのか、あさひに背を向けたまま得意げに笑う。そして軽やかに一歩一歩と踏み出すつばめの足音はあさひにはとても重たく聞こえる。つばめは大きく生徒会室の扉を開け放った。ほんの少し前は廊下に一人で飛び出したが今度はもう一人ついてきてくれている。たったそれだけだがあさひはそれだけで前と同じ結果にはならないと確信していた。
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