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『十七』

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 のぞみが廊下を当てもなくさまよっているときは自分が取り乱しているとは思わなかった。だけどのぞみは谷川と出会ったとき、やはり一人だったときの自分はどこか落ち着いていなかったことを自覚した。落ち着きがなかった理由は知っている。だから今だって谷川の背中のすぐ後ろを歩いている。少しでも距離をとってしまうと谷川から遥かに離れてしまいそうだった。谷川は自分の背中をのぞみに預けてずっと前を進んでいる。のぞみとは何一つ言葉を交わすことはないけどその背中はとても頼もしい。この身震いの止まらない寒気のする場所に自分ではないもう一人の人間がいるということだけでも、自分の孤独感は音を伴って解けていくのが分かる。カツカツと機敏な谷川の足音にずるずるとした自分の足音が混じっていた。のぞみは谷川の背広を掴みながら自分が置かれている状況をもう一度おさらいする。あれは夜のそろそろお風呂に入ろうかという頃だった。こだまの携帯電話で学校まで呼び出されたのぞみは自分でも気がつかないうちに学校の廊下で歩いていた。困っていると変な歌声が聞こえてそして谷川が現れた。こうやって今谷川と連なって廊下を進んでいるということだ。自分が体験していることなのに改めて思い起こすと全然理解できない。やはりこだまが一枚噛んでいるのだろうか。そう谷川に聞いてみてもよかった。灰色の背広は谷川が前進するたびにすれて皺をつくっている。谷川なら何か知っているだろう。教師とはいえこの時間にここにいるのがただの偶然だとは考えられない。だが彼女と谷川が関係しているとは考えられなかった。のぞみは谷川がどこまで知っているのかその予想を立てることができなくて、結果として谷川の後ろで黙って廊下を進んでゆくしかできなかった。この廊下はどこまで続いているのだろう。窓の外は相変わらず同じ風景が続いている。照らされている月に夜風にあおられている木々はもう見慣れて何も感じなかった。だけどあの月はどこかおかしい。さっきからずっと変わっている気がのぞみの目からは見られない。勿論数分単位で月に差異が出るわけがない。だけど変化するものは目に見えるものだけではない。のぞみにはあの月から漂う目では感じられないものが少しも変わっていないように感じられるのだ。怖くなってのぞみは月から目を離す。あのままずっと月を見ていたら自分の中の何かが噛みあわなくなってしまいそうだったからだ。のぞみは再び谷川の背中を追うことにした。

「黙ってついてくるね。」

半分感心しているような、半分呆れているようなとても平坦な言い方で谷川はさりげなく呟く。それは独り言のように思えて、その言葉の矛先はのぞみだと気づくのにのぞみ本人はある程度の時間を要した。多分谷川が感心しているのも、のぞみのその能天気な振る舞いにあるのだろう。のぞみはというと谷川の質問に答えることができないまま、「はぁ」と一言返して谷川の失笑を買うぐらいしかできなかった。

「僕がなぜここにいるのか疑問に思っていないのかい?」

やっと谷川の考えを汲み取りのぞみはひゅうを息を吸い込んで、やや体を強張らせる。前から聞こえている歌声も続いてはいるものの、音量は少しも変化していない。小さくなることも大きくなることもせず前のように耳を引き止める程度にしか聞こえてこない。まるで永遠に遠くからしか聞こえていないよう……。
谷川の存在に疑問を持っていないわけではない。待ち構えていたと言わんばかりに都合よく颯爽と現れたこの教師を何かの王子様だとメルヘンじみたことを考えるなど寒気がする。だけど……のぞみはぎゅっと谷川を掴んでいる手に力を込める。震えているのはその腕だけではない。渇いたのどを無理やり動かしてのぞみは言葉をつないでいく。

「それは……知りたいといえば知りたいですけど谷川先生ならいつかは教えてくれるし、それに一緒に居るとほっとできるから。後谷川先生は私を助けてくれるためにここにいると考えていたので……」

言葉を重ねれば重ねるほどのぞみの顔は熟していくように真っ赤になる。谷川を頼っているということを谷川に感づかれたくなくて今まで黙っていたのだろう。もちろんそれらのことは谷川はもう察している。のぞみが谷川を信用してはいないものの、疑っていないということも、のぞみが谷川を頼っていることもここに来る前から見透かしていた。しかし谷川はのぞみの元に現れるきはさらさらなかった。本当なら一人で行動する方が何倍もやりやすい。自分の目的を果たすためなら、本来は谷川だけで事足りる出来事だった。だけどそれでは黙っていない人間がこだまなのである。谷川が頭の中に思い描くその少女は映像とはいえ、なぜか皮肉げに自分の後ろ髪をなでおろしている。谷川の目的があるようにこだまにも目的がある。谷川にとって彼女の目的などどうでもいい。それはわずわらしささえ感じている些細なことにすぎなかった。だが事態はそう無責任なことを言っている暇ではない。クーライナーカはもう人を巻き込んでいる。そしてこだまの目的の延長線上に谷川の目的が来るということが起きてしまった。さらに言えばのぞみがここにいるということはこだまの意志なのだろう。初めから谷川とのぞみを合流させるつもりだったに違いない。だから谷川がのぞみを導いてやらなければこだまの目的も、谷川自身の目的も進まない。自分より弱者の手を借りるのはしゃくだがのぞみが谷川を頼っているように、谷川ものぞみを頼っているのである。もっともそれは「依存」ということではなく「利用」という意味に近い。谷川の脳内では事がうまく運んでほくそえんでいるこだまの姿が想像として描かれていた。それは限りなく実物に近い写像だろう。谷川はのぞみには感づかれないように口を広げてにっと白い歯茎を見せた。のぞみの危機感のない考えを笑っているようにも思えるが、そののぞみの思考回路をどこかうらやましがっているように目を潤ませている。谷川は結局それから何も言わなかった。のぞみも谷川に対する疑問はつきないはずなのに何も聞こうとはしない。大きさの違う二つの影が重なり同じ方向に進んでいた。二人は声を交わしはしないもののお互いの動きをしっかりと感じながら廊下を進んでいく。歌声に導かれるように、歌声に誘われるように。音量や音質にたいした変化はみられないものの、歌声ははっきりと聞こえていた。

 のぞみは学校にいる。それは間違いない。だけど学校が今自分が知る学校とは思えない。場所が違うというのではない。なんといえばいいのか……今まで見ることができなかった学校の一面を目の当たりにしているといった感じだ。ただ一面というにはとてもではないが想像もできない構造の学校になっている。廊下を進んで階段を下りた先にただの一枚壁が通路をふさいでいたり、不意に目についた教室の中にはなぜかありえないほどの量の椅子が詰め込まれていたり、あげくのはてには階段をあがりきった先には降りる階段が待っていてその降りる階段を降りたら始めに階段を上がった前の場所に戻ってきたときだった。だが慣れとは結構おもしろく、ありがたいことでそれらを体験するたびにのぞみが感じる驚愕の量は少なくなっていった。谷川はというとのぞみに比べてやややつれた顔を隠すことはせず、今の学校を前にとても息苦しそうに息を荒げていた。学校を巡回するかのように探索している二人を挑発するかのように歌が届いている。

「谷川先生はこの歌聞こえますか。」

黙りっぱなしなのもどこか気まずい。疲労感で考えることもおぼつかないのぞみはほんの思いつきで谷川に話しかけた。階段を上っていた谷川は歩きこそはしっかりしているが肩は大きく上下している。谷川もいっぱいいっぱいなのだろう。そのようなときにのぞみが振った話題は谷川の心の防壁をたやすく突き破った。

「歌……か?」

階段の上から振り返る谷川の目はとてもうつろだった。意識だけがどこかに飛んでいるようだった。ただ谷川の声色はとても低くくぐもった声だ。のぞみは身を引いて階段から落ちそうになる。唯一幸いだったのは暗かったおかげでのぞみがそれを知ることがなかったことだろう。こう見つめ合っている間もその歌は聞こえている。谷川はこの歌をどのような思いで聞いているのだろう。
「えぇ。」
おずおずと答える。もしかして聞いてはいけなかった話題だったのだろうか。だけどのぞみはちょっとだけ知りたかった。谷川とこの歌の関係はないことも考えられたけど、ここまで表に谷川の心情の変化が見られることはなかった。谷川は階段の壁に寄りかかりそっと目を閉じる。のぞみに何を言うべきか考えているようにも見えるし、その歌声に耳を済ませているようにも捕らえられる。沈黙が冷たい。誰かが歌う歌がその冷気を余計に激しくしていくような気がした。

「聞こえるような、聞こえないような。聞きたいような、聞きたくないような。」

それだけ言って谷川は階段を上がってゆく。



 言い表せないほどの数多な超常現象を繰り返し、谷川とのぞみが図書室の前に到着したときのぞみはとうに疲れ果て床に座り込んで肩で息をしていた。向こう一か月分は歩いた気がして、自分の足をさする。自分の足は考えられないほどに熱を持ち、自分の足とは到底思えなかった。肉体的にも精神的にものぞみは参ってしまい、ここに来て初めてこだまを恨んでいた。谷川はぴんぴんしていてその風体を見せびらかすようにのぞみの前で直立不動を貫いている。のぞみが歌の話をしたときに影響されていた動揺はもう克服したのだろう。

「なぜ僕がここにいるのか。」

図書室の扉と対面して谷川はまたふいにつぶやいた。図書室の扉の前で仁王立ちするように直立している。谷川は扉には手を触れない。触れるのを恐れるかのようにポケットに手を入れたままだ。谷川は誰を見ているのだろう。直感的に谷川は図書室の中で誰かを見ていることを理解した。考えられる可能性はこの場にいる第三者ということだけだった。そうすると考えられるのはこだまである。こだまはまだ学校の中にいる。携帯電話はつながらないけどのぞみを呼んでおいて自分だけのうのうと帰るようなこだまではないだろう。しかしなぜこだまがその先に居るのかがそれでは説明できない。こだまではないのだろうか。それなら誰が?結論を上手くつなぎ合わせることができずのぞみは座ったまま頭の上に疑問符を浮かべていた。谷川はのぞみの様子を確認しないまま次の句を告げる。

「そしてなぜ君がここにいるのか?」

谷川の声はどことなく説明臭さが滲みでている。しかしそれはのぞみに講釈を垂れているのではなく、自分に言い聞かせて目の前の事実を冷静に飲み込もうとしていた。しかしあふれ出る自分の感情を谷川は抑えていたがやはり声は震えている。両手をズボンのポケットに入れなおす。変な皺ができている背広の上着が谷川の苦悶を表してるようだった。谷川の動揺につられてのぞみは胸が詰まった。

「その答えは今見えている。」

震える足を無理矢理奮い立たせのぞみは立ち上がりふらふらと扉に近づく。谷川はのぞみに自分が今見ているものを見せるべきかどうかしばし逡巡したが横に一歩体をずらした。のぞみは今まで谷川の影になって確認できなかった図書室の扉を両めに収めた。若草色という他の扉とは違う点が見られるものの、その扉にはやはりガラスがはめ込まれていて図書室の中を覗くことができる。中に小さな光があるということもなく、やはり暗闇がどこかしこを占拠していた。本棚と床の区別ができないほどに真っ暗で何があるのかさえ分からない。のぞみはガラス越しで目をこらしてみる。ガラスに映る自分の顔の向こうでゆらりと何かが動いた。気のせいかと思いもう一度その動いた場所に視線を絞る。それはのぞみがよく知っている人物だった。しばらく見なかったから懐かしさを感じる。このような場所で出会わなければそれだけで終わっていただろう。懐かしさを感じたのもほんのひとときでその後巡ってきたのは自分の胸がやけどするほどの焦燥感だった。

「ひかり!!」

自分と同じくらいの背丈にすこし華奢な体つきの少女はどこか真剣な顔つきで図書室の中を歩いている。しっかりとしたあしどりでまっすぐ図書室で歩き回っている彼女の姿はのぞみが今まで見なかったそれであることに間違いない。ひかりはいつもの彼女からは思いもつかないような雰囲気を身にまといのぞみたちの前に現れていた。ひかりは自分しか見ていない。のぞみがいる方向へは顔を向けようともしなかった。

「ひかり!!」

もう一度のぞみが叫ぶ。やっぱりひかりは振り向かない。谷川は黙って二人を見つめている。のぞみがしていることの無意味さをよく理解しているから何も言わないのだろう。ひかりはのぞみのことを完璧に無視して暗闇の中へともぐりこんでゆく。のぞみは両手で図書室の扉を叩く。のぞみはひかりに気づいてほしくて夢中で叩くがひかりは振り向きさえしない。バンバン響くけたたましい音も今ではやるせなさしか伝わってこない。しかしまだのぞみは諦めきれなかった。この扉を開いてひかりの肩をつかめばいい。こんなに簡単なことを今まで気づけない自分を恥じて、のぞみは取っ手を触れ全体重をかける。ひかりは今にも視界から消えてしまいそうだ。早くしなければ。一秒でも時間が惜しかった。後ろで谷川が冷ややかな視線を飛ばしているのに気づく暇もなく、のぞみは扉を開こうとする。どれほど力を込めても、どれほど体重をかけても無情にも扉は開いてくれない。強力な接着剤で貼り付けられているかのように扉はぴくりとも動いてくれなかった。のぞみは狂ったように扉と格闘するが今の扉には何も効かない。こうしている間にひかりの姿はほとんど見えなくなっている。ちりちりとのぞみの頭が熱を持つ。手のひらには汗がべっとりと粘りついていて扉のガラスには手形がついていた。今のひかりには声はおろかのぞみたちの姿さえも届いていないのではないのだろうか。まるでのぞみは映画を見ているようで、ひかりにどうしても覆せないとてつもない距離感を感じていた。そして万策尽きたのぞみは扉に張り付いているだけとなった。図書室の奥へと進んでいくひかりをのぞみは呆然と見つめている。そしてひかりはいなくなった。開いたままの手はしおれるように曲がり、カリカリとガラスの面をひっかく。そのままずるずるとのぞみは腰を落としぺたんと座り込んだ。のぞみの声も、姿も、ひかりには見えていなかったように思える。ただのぞみには見えていた。あそこにいたのはひかりであることに間違いない。しかしのぞみが知っているいつものひかりだったと言うと、のぞみは閉口してしまう。あのどこか思いつめているような顔をしていた少女がひかりとは普通信じきれない。のぞみが見たこともない彼女の顔つきに彼女が普通ではないことがひしひしと伝わってきた。あの様子はまるで別人だ。だがもう一つ気になるところがある。それはひかりが松葉杖をついていないことだった。足はまだ治っていないはずである。それなのにどうして普通に歩いているのだろう。

「それは彼女がもともと普通だったからだ。」

のぞみの後ろで谷川が答える。ひかりを見る谷川の目つきはどこか険しく、のぞみは谷川のそのような瞳を初めてみた。普通?普通ということはひかりの体調はのぞみやこだまなどと違ったところはなく、いたって普通の健康体だったということを言いたいのだろうか。つまりひかりは元々骨折などしていなく、ただ演技をしていたということなのだろうか。

「ひかりは怪我人を装って私たちを騙していたということですか?」

自分でもこのようなことを口にしたくなかった。ひかりがそのようなことをする人間だとは思わない。動機もその欠片さえ考えられない。ただ……もしそうならひかりがのうのうと松葉杖をついていたときにのぞみを縛り付けていた苦痛や辛酸は何のためにあったのだろう。谷川は答えてくれない。首を振ることさえしてくれなかった。嫌な予感が黒い蛇となってのぞみの体を這い回る。のぞみは谷川に答えて欲しくてずっと下から谷川を見続ける。その視線に激昂や、悲哀や、虚無さは感じない。のぞみはただ谷川を見ているだけだった。谷川は観念したのか大きなため息をとても長くついた。

「骨折させられていたと思わせられていたのだろう。」

ひかりの骨折は紛い物だったらしい。だがひかりが故意にやっていたわけではなかったようだ。のぞみが騙されていたようにひかりもまた犠牲者だった。だけど安心するとまた別の疑問が生まれる。

「誰がそのようなことを。そしてどうして?」

「ひかりさんに対する君の見方を返るためだろう。」

谷川はぽんと肩を叩く。谷川なりの励ましの仕方かもしれない。体躯の良い谷川にはややスマートな手がのぞみの肩を包んでいて、すこし熱すぎる。のぞみはその疑問に対する答えはうすうす気づいていた。この冬に自分はひかりに何を感じていた?ひかりが松葉杖を携えて姿を現したときのぞみは罪悪感のようなものを感じていた。それが足かせとなってひかりから離れてしまった。どれほど小さなものだとしてもささいなずれは大きな亀裂となる。それが何を引き起こす?それから先は容易に想像できる。そしてその「それから先」はもう今に起こっている。ただそれは知りたくない。知ってしまった自分に何が押し寄せてくるのかを知るのが怖かった。

「おそらくひかりさんを孤立させるために。」

谷川はそのことを言うのをすこし恐れているような口ぶりだった。のぞみを気遣っているのが如実に現れている。ただその優しさはとてものぞみにとってちくちくと突き刺さっていく。自分が優しくしてもらう権利などないことを谷川の言葉で知ってしまった。胸が圧迫される。押しつぶされそうな圧迫感がのぞみの胸を縛りつけ、嘔吐感がこみ上げてくる。痛みに目を閉じようにも自分の体を思い通りに操れなかった。体が拒否している。自分の罪を受け入れることを。のぞみはここに来てひかりがどれほど寂しかったのかをありのままに見せられた。そしてそれらをすべて引き起こしたのは間違いなく自分である。谷川がのぞみの背中をぎこちなくさすっていた。無理をするなと目が語りかけている。だけどこれだけは飲み込まなくてはいけない。首を振ってのぞみは手を口から放した。ひかりだって同じような苦しみをのぞみから受けていたに決まっている。そう考えればこの苦しみも受け入れることができる。そしてのぞみは谷川に笑いかけた。顔面蒼白で呼吸が荒いが時がたてば回復するだろう。谷川はのぞみを見据える視線を和らげてほっと息をついた。

「どうする?」

図書室の扉によりかかりながら谷川はのぞみに尋ねる。のぞみは谷川のほうへと顔を向けたが谷川はのぞみを見ていなかった。天井で死んでいる蛍光灯を見つめてどこか涼しい顔をしている。

「ひかりさんを追うのも、このまま帰るのも君の勝手だ。どうする?」

そう聞いてくる谷川の表情は全くといっていいほど無関心だった。谷川はのぞみがひかりに不器用な気遣いを施していたことは当然存じている。のぞみの思いも同情できる。だがやはりひかりとのぞみと谷川は無関係であってひかりをどうするか自分が決める気はない。眠そうに目を細めている彼の顔を見ると、のぞみは腹の底からぐつぐつとしたものがわき上がってくる。

「決まっているでしょ。」

立ち上がりのぞみが吠える。図書室の扉がひとりでに開く。

54, 53

  


 あさひの前を走るつばめはまるでこの場所の地図でも持っているのかと思うくらい迷いがなかった。すいすいと自分のペースで走るものだからあさひはただ後ろを雛のようについていくだけしかない。だがこのままつばめについていって大丈夫なのかとときどき迷ってしまうことがある。つばめの動きがいかにきびきびしているとはいえ、つばめの動きはめちゃくちゃに走り回っているようにしか見えなかった。つばめは無言のまま生徒会室を飛び出すとそのまま右に向かって走り出したと思ったらいきなり左に向かって走り出した。そして唐突に振り返るとまた右に向かって走り出す。あさひはそれが取り立てて意味のない行動に見えてつばめの意図を少しもつかめなかった。

「なぁ。どこに向かっているんだよ?」

正直かなりいらついていた。実際あさひの神経が張り詰めているためか今の声もかなり高く音程がばらついている。別につばめの行動にけちをつけるのではなく、つばめが自分の真意を話してくれないことに憤りを感じていた。それを知ることができないとこの行動などただの時間を無意味に殺しているようにしか感じない。しかし今はつばめについていくことしかできないのは分かっていて自分が何もできないのも十分思い知っている。つばめから目的地を聞いたところでそれで自分が気づけることはないかもしれない。だからつばめがあさひの質問に完全に無視したって何も文句は言えないだろう。あさひがそこまで考えたところで、つばめは上体だけを翻しあさひへと顔を向けていた。すぅっと月が雲に隠される。あさひの顔も、つばめの顔も黒く染まった。それでも彼女がどのような顔をしているのかは分かる。めんどくさそうにこめかみに指を当てて極限まで細めた彼女の目からわずかにだが瞳孔が姿を見えている。だがにんまりと大きくつりあがった唇はその瞳に反して飛び上がっているようだ。もしかしたらあさひの質問を今まで待っていたのかもしれない。

「あんたSTGやったことある?」

「いや……ない。」

そのことをばかにされるのかと思ったがつばめは妙に納得したそぶりを見せた。なんだかそれはそれであさひを挑発しているようだ。

「ふーん。どおりりでここから抜け出せないわけね。」

弾んだ声はピンポンだまのように跳ね回っていた。つばめの振る舞いは飴玉を与えられた子供ではないがそれと大差はないだろう。よくここまで無垢な笑顔ができるものだ。つばめはあさひが感じたとおり、ちょっとうんちくをさらけ出して見たかった。ただ自分から話し始めるとそれを悟られてしまうだろう。あさひは洞察力はないが、勘がいいというのがつばめから照らしたあさひの評価だった。だからあさひから疑問を持ってくれるまで、つばめは待ち続けた。あさひがあまりにも黙ってついてくるものだから、わざと遠回りを繰り返したりして時間を稼いでいたのは秘密である。つばめはもったいぶったようにみをくねらせると壁に寄りかかった。つばめの影が伸びるとそれは壁を伝い天井まで伸びる。その影は自立しそうなくらい面白い形をしていた。

「こういうものにはね、パターンというものがあるの。だからそれをすばやく見つけて、それに沿って移動することがクリアへの近道ね。この場合クリアというのは脱出ということを意味するわ。そのために必要なのが洞察力と行動力、そしてある程度の度胸ね。これは私の持論だけど。」

そしてあさひの前を歩きだす。リノリウムの床の上で踊っているような足取りを見せていた。彼女は右手の人差し指を天井に向け、まだ意気揚々と語っている。それはいつのまにか今いる空間の説明ではなく、STGの魅力や、弾幕パターン、シングルショットの美学などかなり突っ込んだ内容になっていたのであさひは聞いている振りをしていた。つばめの解説を脳のそばに置いて、あさひは最初につばめが語ったことに首をかしげていた。粗はとくにないもののなんだか素直に受け入れられない。数学の公式を説明されている気分だ。それでもどこかつばめの言い方には説得力を感じた。つばめは人に物事を説明するのに慣れているのだろう。生徒会長を努めていただけはある。それにつばめの無理に筋道を押し通す強引さも備わっている。まさに鬼に金棒である。こまちの言うとおり前代未聞、空前絶後な生徒会長だったに違いない。あさひは妙に納得してしまい、それとともに彼女が本当に生徒会長をしていたことをやっと信じきることができた。なぜだろう。つばめの言葉は飛躍していることがときどきある。それでもそれを納得してしまうのは本人の人柄と、そして決して嘘をついていないことに見られるのかもしれない。つまり彼女はめちゃくちゃだがそれよりもまず真面目であるのだ。あさひは決して声には出さないが反論もせず従順につばめを追う。しゃべるのに飽きたのか、つばめは先ほどと同様黙って廊下を行ったり来たりしている。つばめの言葉を借りるなら、彼女の動きにある程度のパターンがあるらしいのだが、あさひはそれがなんであるのか少しも分からなかった。だけど自分の周囲がゆるやかな変化を遂げていることにうすうす気づいたとき、つばめとあさひの前に階段が現れた。あさひはしぼんで瞳孔で階段まで詰め寄る。丸い形の手すりや一段一段の淵に滑り止めのゴムがつけられているところが自分の記憶にあるものと見事に一致している。ずっと昔から待ち望んでいた景色が目の前で待っていて冷えていた自分の体が急にほてり、汗が噴き出る感覚を覚えた。あさひは小さくなった瞳孔でまじまじとその階段を見つめた後につばめの顔色をうかがう。つばめは見たとおりのまま得意げにほくそえんでいた。今頃彼女は自分の頭の中で自画自賛を繰り返しているのだろう。自分ができなかったことをあっさりやられたことであさひは軽くうなだれる。

「まずこまちを迎えに行く。」

張り詰めた口調でつばめが階段を飛び降りる。階段の途中で着地し、立て続けに立ち幅跳びの要領でまた飛び出すとあさひが一段も降りないうちにもう下まで到達していた。

「全く。余計な手順を増やすなんて……だめな書記ね。」

腰に手を回しやれやれと悪態をつきながらつばめは曲がり角の先を見据え何度目かのため息をついた。階段を降りたあさひがひょいを顔を傾けつばめの視線を盗み見るとその先には予想を裏切らない形で廊下が続いていた。外の様子も至って変わっていない。あさひはこの先にこまちがいるのか懸念する。つばめは別に動揺したそぶりを見せていない。いつ見ても余裕さをあふれ出している。あさひにとっては決して抜け出せない迷宮に見えているが彼女にとってはただの一本道の廊下に過ぎないのだろう。

「ところでこまちの居場所を知っているのか?」

そう訪ねるあさひのそばをつばめは横切る。つばめは何も答えてくれないのは答えられないのではなく、答えるのがめんどくさいというのがつばめの気持ちだ。それにあさひが心配する必要もない。横切ったときに垣間見た不敵に笑うその顔が何を意味するのかは言葉以上に分かりやすいはずだ。しかし居場所を知っているのならなぜあさひが来る前にこまちに会わなかったのだろう。あさひのそんな素朴な疑問はつばめに打ち明けないまま、二人は校舎をつなぐ渡り廊下を通る。そのことを尋ねたとしても適当にあしらわれごまかされそうである。まさかあさひを待っていたというわけではなさそうだ。つばめがそんな考えを抱くということを考えるだけでもおかしさを通り越して寒気がする。下に降りたつばめは次に何をするのかというと今度はまっすぐ進んでいる。ただときどき立ち止まったり、歩いたり、走ったりと歩調が一定していない。まぁそれも彼女しかしらないパターンが絡んでいるのはよく分かっているが、なんとなくあさひもまねする気にはなれなかった。つばめのやや後方から生暖かい瞳で見守っているだけにしておこう。体を弾ませているつばめの影はスキップしているように軽いステップを踏んでいる。

 つばめの歩みは何かに似ていると考えていたら、塀の柵に止まっているつばめの歩き方にそっくりだ。柵に止まっているつばめとは、勿論鳥のことを言っている。踵を打ち鳴らし、足先で緩急をつけ、その音がどこかただの音には聞こえない。軽く耳をすませるだけでもほんとうに鳥のさえずりに聞こえるから不思議だ。そのままずっとこの廊下を歩いていくのかと思ったらつばめが織り成すリズムが突然途切れた。なぜかと思ったらつばめが立ち止まっていた。その先には扉がある。駆け寄りあさひもその扉を確認した。今までも壁に扉も見たことはあった。しかしつばめの目の前にある扉は平凡な扉とはどこか違っていた。扉の上のプレートにはかすれた文字で何か書いてある。かろうじて資料室と読むことができた。

「資料室か。」

「資料室よ。」

つばめとあさひは共に口ずさむ。しかしその言い方には一方が疑問でもう一方が返答という顕著な差異が見られた。この学校に入学してから今まで足を踏み入れたことのない場所の中の一つだ。こまちの口からも資料室の言葉を聞いた覚えはない。こまちはこの中に居るのだろうか。疑問とも不安とも違いがつかず軽い胸騒ぎがした。自信満面なつばめが背後からあさひを見守っている。違う。見守っているのではなく、さっさと開けろと命令しているのだろう。その視線に操られるようにあさひは扉に手を伸ばした。開いた先にある四畳半ほどの空間はほとんど金属の棚で占領されている。その中で座っている数々の資料は綺麗に並べられていたり、横に倒されていたり、棚の中で広げられていたりしてまるで人間社会のような扱いの違いを表しているかのようだった。部屋の隅にはダンボールが何個も積み重なっていて、ここになければそれらはごみ同然の扱いしか受けられないだろう。日光が入るのを防ぐためのカーテンが意味をなさないこの時間、カーテンを閉めているのは資料室の気味悪さを助長しているだけだった。この場所には人が足を踏み入れることはない。それがよく分かるほどこの場所は汚れていた。棚の引き戸にはめ込まれているガラスにひびが入っていて、応急処置のようにセロハンテープが断続的に貼られている。この場所がどれほど見放されているかが如実に表れている。あさひと共に入ってきた空気がその中で対流する。それは埃を巻き上げる。そのあまりの量にむせてしまいそうだった。埃が入ってしみる目を擦りながらあさひは資料室の全体を見渡す。つい前まで人が訪れたような形跡もないこの場所でこまちは何食わぬ顔で立っていた。あまりにも自然に立っていたからあさひはそれが幻覚なのかと疑ってしまいそうだった。こまちはあさひと最後に会ったときのままで黒いタイツに足を包み、少し大きめの制服から細い指が見え隠れしていた。右手は資料室の棚を指差したまま止まっている。そして一人でやっとこ差持ちきれる量の資料を左手一本で抱えていた。こまちも、あさひもまだ状況をうまく察知できないのか目を点にして供に見詰め合っている。こまちの腕から紙束が流れ落ちて床に広がるがこまちはそれを拾うどころか気づいてさえいない。

「探したぞ。」

さりげなく声をかけ、あさひは床に散らばった紙束を拾い集めて、こまちに渡す。こまちはおずおずとそれらを受け取った。目を点にして、何か言いたそうに小さな口を震わせている。まだ平静を取り戻していないようだがこれで行方知れずだったこまちに出会うことができた。暫定的な達成感にほっと息をついた。これで一つは目的を達したわけだ。あさひの顔が安堵の形に変わる。しかしつばめが背後で険しい顔をしているのにはまだ気づいていなかった。こまちはいまいち状況を理解できないのか真顔のままいぶかしげにあさひの背後に居るつばめを見ていた。そして最後にあさひへと助けを求めるような潤ませた視線を放つ。

「あさひさん。後ろにいるのは誰ですか?」

こまちの口ぶりに嘘は見られない。そして今は冗談を言う場合でもないだろう。だからこまちがなぜこのようなことを言うのかあさひには分からなかった。こまちは持っていた紙束を綺麗にただしてそれらを大切にぎゅっと抱きしめる。空気の悪いこの場所はただでさえ居心地の悪いのに、気分まで害されそうだった。こまちの一言はそれくらいの影響を与えていた。つばめはというと軽く舌打ちをしただけだった。その音にこまちはびくりと肩を震わせた。その目はとても弱々しく、誰かに頼ってなければ生きていけないと代弁していた。

「何ってお前が探していた生徒会長だろ?」

「生徒会長は僕だ。」

カミソリのような声が三人の場を切り裂く。今まで資料室の棚が作っていた死角から黒い影が躍り出た。すこしずつその輪郭がはっきりしていく。つばめが全員に聞こえるようにもう一度舌打ちをする。つばめがどのような気持ちでいるかは、その身になって感じることはできる。だけどあさひはつばめを励ましたりはできなかった。下手なことをするとこちらまで噛みつかれそうだ。現れた人物はどこかで見た顔だった。どこにでも居る、背景と同化しそうなその体のつくりだがあさひは何度も見たことがある。とことん融通の気かなそうな頑固っぽい顔に自分にしか自信を持っていないしゃべり口調。そうだ。彼は生徒会長だ。ただしあさひがつばめに会うまでそう思っていたまでの生徒会長である。つばめの椅子を奪った偽者にすぎない。あさひがこまちへそう言おうとしたとき、つばめが一歩大きく前に出る。生徒会長は自分のめがねをわざわざかけなおし、しかもご丁寧にめがねの面を光らせている。つばめがえらそうならこちらは自分に陶酔して格好つけることしかしない。つばめも、偽者もにらみ合っている。背中に各虎と龍を背負っているのが見える。つばめは腕を組んだまま黙っていた。指先は神経質のように震えている。



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たに 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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