近所のじいちゃんがぼけた。
夕飯の時間に、母さんからそんなことを聞いていた。
でも、そのじいちゃんにはここ数年会っていないから、顔がなかなか思い浮かばず、実感というか、ショックとかそういうのは感じていなかった。散歩の帰り、僕が手にしているリードに繋がれたリアム(6歳、柴)の入るべき犬小屋に寄りかかって座り、ぶつぶつと呪文を唱えている男の顔を見て、ああ、そういえばこんな顔だったな、と思った。
「おじいちゃん、どうかした?」
とぼけたような、きょとんとしたような目で、ぼけたじいちゃんは僕を見た。
「いや、家がどこか、わからんようになりまして」
そう言って、手に持っていた雑草と土を払った。丸まった爪の間には、粘土質の土が詰まっていた。リアムの小屋の横には小さな穴が出来ている。僕の後ろ側でうろうろしているリアムは、自分の埋めたものが掘り返されないか不安で仕方が無いらしい。
「えぇと、とりあえず家の人に連絡したほうがいいですよね」
じいちゃんは急にばたばたと魚みたいに慌てて、ポロシャツの胸ポケットから紐のついたカードを取り出した。
「電話番号と、名前と、住所が書いてあります」
申し訳なさそうに、そのカードを僕に渡した。
「ご迷惑をかけて、ほんまにすいません」
泣きそうなじいちゃんを、僕は長く見ていられなかった。
「明道さんのお宅ですか。……はい、そうです、僕です。……今、おじいちゃんが僕の家に来てるんです。…はい。迷ったって。…怪我は、してないみたいです。……なんでしたら、僕がお宅まで送りますよ。…いえ、そんな。ちょうど暇ですし。じゃあもう少ししたら伺います」
電話の向こうの声は、数年前に聞いたばあちゃんの声とあまり変わりなかった。ただ、何かをあきらめたような疲れた声だった。じいちゃんは外でリアムと遊んでいる。
「おじいちゃん、家まで送るよ」
リアムは頭を乱暴になでられて、嫌そうな顔をしている。僕の声に振り返ったじいちゃんに手を離され、ようやく安心したような顔をした。
「いや、申し訳ない」
じいちゃんは立ち上がろうとするが、なかなか腰が上がらない。犬小屋に手をついて、鈍重な動作でやっとのことで立ち上がったが、手が離せないでいる。
「膝、すりむけてる」
さっきは気がつかなかった。深緑の綿ズボンは穴が開いていて、赤黒い色が滲んでいた。
「いやいや、たいしたことたぁないです。ほら、もう血は固まっとりますから」
犬小屋から手を離し、ふらふらしながら歩き出そうとするじいちゃんの肩を、半ば強引に担いだ。じいちゃんは、朽ち木みたいに軽くて、拍子抜けした。
じいちゃんの肩を担いで、街の中を歩く。
何年か前の夏祭りの日、たくさんの人の中で、明道のじいちゃんは親とはぐれた僕を見つけてくれた。半べその僕を肩に乗せて、家まで送ってくれた。その時の視界に、僕の身長は近づいた。僕はもう、あの日みたいに人ごみの中で迷うことはないだろう。
あの時、大きくて、頼もしかったじいちゃんは、ずいぶんと軽く、小さくなった。しわくちゃの手のひらは、あの日のようにあったかい。この手が冷たくなる、そう遠くないであろうその日のことを考えた。考えなければよかった。
じいちゃんの家と僕の家は、そう離れていない。そのほんの少しの距離、僕は泣かないように必死だった。本当は、呼吸が止まるくらいまで走りたかった。弱々しいじいちゃんを置いて走りたかった。
「ほんま親切に、ありがとうございます」
僕の肩に体重を預け、よろよろと歩くじいちゃんは、他人行儀に言った。
きっと、僕を僕だとわかっていないんだろう。覚えていないんだろう。
でも、昔半べそをかいているところを助けてもらった男が、今また半べそをかいているということを知られなくて済むならのなら、それはそれでいいのかもしれない。