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「志工 香矢の不明」

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目の前に居る士友が別人のように思えてくる。香矢は帽子をかぶりなおして軽く深呼吸をする。だけど自分が落ち着いているのか動揺しているのか、その境界があいまいすぎて香矢は少しも気分が晴れなかった。

香矢の眼前に立っている士友はどこか姿がぼんやりとしていて生気が体中からだだ漏れているように見える。いつものように自信に満ちた笑いをこぼしながら気持ちよくにたっている士友ではない。

だけど香矢はその姿にどこか見覚えがあった。いつだかは分からない。だけど士友のその顔を何度か見たという記憶だけは或る。士友のその表情を見続けていると、香矢は気分が暗くなってくる。心のうちに或る小さな亀裂がだんだんと広がっていく。そんな苦しみに香矢は胸が締め付けられるようだった。

まだ耳にぱりぱりとした音が残っている。もう苗木から目をそらしているがその気配はまだ背後から届いてくる。ごくりとつばを飲み込んでもそれから受ける圧迫感に首が締め付けられた。

士友は依然として弱々しい姿を見せている。それにも刺激されて香矢の息苦しさが加速していく。一番動揺しているのは士友の胸の内が読めないということかもしれない。香矢はマントの裾を握り締めてじっと士友をまっすぐ見据えた。

「まだよく分からない。この虫がそういう効果を持っているのは別にいい。そういうものなのだろ?だけどだ」

士友は黙っている。周囲から感じる気持ち悪さと、居心地の悪さと、逃走したい衝動などに耐えて香矢はしゃべり続ける。梟の鳴き声も相変わらず鳴り止まない。奴らの羽ばたきの動作に呼応して上から埃がぱらぱらと舞い落ちている。

士友が香矢を見る目つきは上手く表現できない。士友の両目は人間の眼球特有に見られるようなぬめりというようなものを感じることができなかった。それは香矢のことを見ていないようにも思える。

いや、もしかしたら士友は自身の感情を香矢に見せたくないのではないのだろうか。あんなに高飛車な顔をしているのに今はその欠片も残っていない。だけど香矢にはそう思えない。分からない。やっぱり士友が何を思っているのかが分からなくて、視界がぐにゃりと歪む。梟の鳴き声がより大きくなっているようだった。

今の士友の前では自分の調子が狂わされる。士友の真意を悟れないのがその原因だろう。それなら士友に吐き出させるまでだ。仕切りなおすように地面を踏みにじる。

「それをどうして俺に話す?初めからそうだ。士友はどこか俺を誘導しているようなふりがあった。だが俺にこれを知られることがお前にとって有益なこととは思えないのだが?」

こめかみあたりから汗が垂れ落ちる。少しずつ分からないものを消していけばいい。そうすればいつか士友が何を言いたいのか分かるかもしれない。香矢は全て言い切ったときに頭の中が真っ白になった。

香矢と士友との間に緊迫した空気と流体金属のような重たい沈黙が現れる。ただ香矢が感覚で感じている周囲のどの気配よりも、それは圧倒的な存在感を放っていた。それの前では梟も、苗木に巣食っている虫も煙のように消えてしまう。

士友は深い呼吸を繰り返す。ゆるやかな呼吸音がその沈黙にヒビが入っていく。ふと士友の動きが止まる。ぴたりと呼吸音が止まり香矢の緊張が高まっていく。いろいろと状況が変わっていくなかで、香矢と士友の状態だけは大きな差が開いていた。

士友はそのまま苗木に近づく。後ろにいる香矢に苗木の葉をつまみながら独り言のように語り始めた。

「見かけはあれだけど結構便利なんだぜこれ。暗示次第では人にどんなこともさせることができる」

指折り数えながら士友はいろいろなことを呟いていく。列挙していくたびに梟のざわめきが大きくなる。士友はそれらを忌々しげに睨みながらもう一度苗木に目を戻す。

温室の壁が揺れている。風が強くなったのか梟の羽ばたきに混じって、木々が悲鳴を上げていた。

士友は座り込んだまま語り続け、そして立ち上がる。そして振り返る。士友の野太い声が温室の中に響き渡った。士友の瞳が上下に揺れる。香矢の全身を捕らえて、そして自分の興奮を全身で表しつつにこやかな笑顔を見せた。

「極論を言えば、葵君を香と思い込ませることもできる」

士友が言い終わるとあたりはうそのような静寂に包まれた。何も変化がない。士友は笑っているのに、香矢はその笑いにたいして微笑み返すことができなかった。士友の言葉が単なる文字列としてでしか受け止められなかった。

香が帰ってくるというものなのだろうか。泣きじゃくりながら香矢の目の前から消え去っていった香の顔が一瞬よぎる。しかしその瞬間に香矢は小さな期待というよりも、大きな恐怖のほうが強かった。

士友はまだ苗木を見つめている。その目ははかなげな光を見つめているもののまぶしいくらいの期待をそれらに投げかけている。うっすらと笑みをこぼしている士友は戦慄が走るほどに不気味だった。

そのときにようやく香矢は思い出した。今の士友は香が消えたときの士友にそっくりだった。身体の芯を抜いているような、まるで生ける屍のようなもの。そして士友はゆっくりとこちらへ振り向く。士友は病的なほどに蒼白で、目は想像の範疇をこえ、ぎらついている。

「そんなの……。机上の空論だ」

腕を振って香矢は士友を否定した。否定することしかできなかった。そうしないと士友から感じる不気味さを消すことはできなかった。士友は一瞬だけ黙り、そしてもう一度香矢の姿まじまじと眺める。セーラー服の上にマントと帽子を身につけている香矢の姿を嘗め回すように見つめていた。

そのまま何も言わずにふっと香矢から離れていった。苗木の間を縫うようにその姿を消していった。香矢は後を追う。士友の狙いもそれなのだろう。


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まるで幽霊を追っているような気分だ。目の前を進む士友の姿にまずそういう感想が頭に浮んだ。

目の前の士友の姿はおぼろげにしか見えない。苗木に隠されて士友の身体の少ししか見えなかった。士友との香矢の距離は短くもないし、長くもない。そんな絶妙な距離を置いて士友は温室の中を歩き続け、香矢は懸命にその後を追い続けた。

温室の中は思った以上に広く、温室の向こう側を見ることはない。結構歩いているつもりなのに。香矢は地面が傾くような奇妙な感覚と蒸し暑さに視界が定まらないが、香矢はそれでも歩き続け士友の後を追った。

自分が考えているよりもこの温室は広い。そして予想以上にたくさんの梟が集まっている。屋根にはまだ梟がその不気味なほどにかわいらしい瞳で香矢を見下ろしていた。あまりにも数が多すぎるので夜空を拝むことは叶わなかった。

がさがさと苗木を掻き分けて香矢は直進していく。苗木のことなど考えることはやめることにした。

時折肩にあの虫がこびりつくこともある。身体ではじいた葉の上で虫が飛び舞い、地面に落ちたものを踏み潰すことも或る。苗木の葉で肌に赤糸のごとく傷がつくこともある。香矢はそれらに目もくれずに黙々と士友の姿だけを見失わないように注意していた。

虫を無視しているのだが、それは無意識ではなく確固とした自制を持ってのことだった。そこまでしてまで、香矢は虫を見るわけにはいかなかった。生理的に気持ち悪いということも或る。しかし認めたくはないがもう一つの理由が香矢の中で生まれ始めていた。この虫に一旦目を奪われるとそれから目をそらせそうでそらせない。

この虫を利用すれば香が帰ってくる。何度も士友の言葉が頭の中で反芻される。その言葉が見えない手となって香矢の顔の向きを変えているようだった。だけどそれは絶対行ってはいけない。道徳的にということではなく、古都を失うことに躊躇いを感じているということだ。

でも、もしノーリスクで香が帰ってくるとしたら自分はどう決断を下すのだろう。頭の中でどう想像してもそのときの自分を思い描くことはできなかった。

やはり自分は香を取り戻したいのだろうか。だけど士友の言うとおりなら古都を失うことになる。それではなにも変わっていない。それでもこれらの虫は香矢にとって禁断の果実のような魅力を秘めていた。

自分にとって何が大切なのだろう。香が傍に居て欲しいのか、それとも居て欲しくないのか。香がいなくて寂しいのかそうでないのか。しかしそれでも、香のことを思い出すとなぜか恐怖が体からにじみ出てくるのだけど、自分はその恐怖さえ感じる資格がないことは分かっている。

そしてその恐怖の裏返しには必ず香にあえる喜びが潜んでいることも香矢は知っていた。やはり香が戻ってきて欲しいのだろうか?

考えている最中に士友との距離が縮まっている。士友は背を向けたまま歩いている。香矢は唇をぎゅっとかみ締めた。苗木を乱暴に掻き分けて、それらが倒れても完璧に無視する。口で息をしたまま香矢はその先へと進む。

そこは士友とここで出会ったときと同じくらいの広さで間が開いている。ただ一つ違っているところは空間の一方が温室のビニールに阻められていることだろう。ビニールの壁には肩で息をしている香矢がおぼろげながらも映っている。

周囲は温室の端にあるということもあるのか、さっき居た場所よりも若干薄暗い。だけどこの一帯だけは以上に明るい。そしてこの辺りの明るさはある距離を持ってぴしゃりと遮断されている。明暗がはっきりしているこの空間に立っていると香矢はまるで手品でも見ているような気分だった。

そして中央には場違いな寝台が一つだけ設置されていて、その上に古都が寝かされている。数日だけ見なかっただけなのにそれが長年かのように思えてくる。待ちわびた古都の姿を見つけて、胸が熱くなった。

眠っている?香矢はその疑問が否定されることを恐れたが古都の胸が上下しているのを見てひとまず安心した。しかし振り返ると士友が居ない。香矢の背後にいると思っていた士友は古都の近くに歩み寄っていた。

はやる気持ちを抑えて周囲を観察する。古都の健やかな寝息に調子を崩されそうになった。一応無事みたいだ。こっちがいくら心配していたかなど一切関与していないかのように眠りこけている。

何気なく古都まで歩み寄り、そして自身が気が付いたことに、さっきまでの安心感が吹き飛んだ。古都の両腕が見えている。包帯で隠されていないありのままの古都の腕を初めて目の当たりにした。

寝台の下で薄汚れた包帯が落ちている。それに一旦目を落として、もう一度古都の姿に胸が締め付けられる。古都の両腕は無数の穴が開いている。機械的に開けられたようなものではなく、何かに引きちぎられてような穴。

それはまるで腐り果てた木の幹を思い浮かべる。古都の寝息が健やかすぎて、その傷が余計に生々しくなった。香矢はその傷を見て、それから屋根の上の梟に目を上げ、最後に士友をにらみつけた。

「初めに聞かれた質問に答えようか?どうしてこんな話をするということだ」

外を見ている士友の声が一瞬だけ聞こえ、そしてまた背筋を伸ばしなおす。心臓の音が一際大きく聞こえている。固唾を呑んで香矢は士友の次の言葉を待った。

ビニールの壁に士友の姿が映っている。だがその表情を香矢の立ち居地から見られなかった。士友の顔には黒い霞がかかっているように見える。ぎりぎり見える士友の口が含みがあるような形をして、口が開いた。士友の白い歯の光沢がまぶしすぎる。

「香矢がこれに反対するとは思えない。それだけだ」

士友の後ろでビニールの壁が勢いよくはためいている。ざわめいている木々の音よりも雨音がだんだんと強くなっていく。ビニールの壁に当たって、いくつもの水滴が垂れ落ちていた。

その前で、士友は古都を挟んで立っていた。ゆっくりと振り返ったときに士友は香矢の表情を見てにんまりと微笑んだ。腹の底からこみ上げてくる笑いをこらえきれずにくぐもった笑い声をあげていた。耳障りする音なのにそれを拭いきれない。

さっきと変わらない士友の瞳の上には自信が込められている。香矢を覗き込んで、その全てを見透かしている。そして得た香矢の胸中に絶対の自信を持っているようだった。
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隙間風が砂埃を巻き起こしている。香矢は開いた口がふさがらなかった。士友は香矢の考えなど顕微鏡を通してみているようにお見通しだと思っている。だが士友が自信を全身からみなぎらせて話したことはあまりにも的外れているものだった。

「は?」

士友を軽蔑するつもりはない。だけど肩透かしをくらって平常を保っていられるわけではない。士友はいきなり吹き出して顔を手で覆う。すがすがしい士友の笑い方のまえで香矢はただ困惑するしかなかった。

顔の部分で唯一見えている士友の口は閉じることはない。もう一方の手は自分の腹を押さえている。香矢が呆然としていることがそれほどに可笑しいのだろうか。士友の笑い声に今までとは違った印象を受けるのは士友の笑い方が違うということのほかに、その笑っている理由が不明だからだろう。

士友の声は容易に香矢の耳に入り込み、体の中で反響している。何倍も音量が大きくなるような錯覚に頭がくらくらしてくる。四方八方から、身体のうちからも士友の声が聞こえていた。他に何も聞こえなくなって、香矢が見ているのも士友の笑っている姿だけだ。自分がどこにいるのかも分からなくなって、士友の影が香矢の全身をすっぽりと覆い隠しているような気がした。

香矢は何も言い返せないまま士友をただ見つめて、そしてぴたりと士友の笑い声が止まる。目にはうっすらと涙を浮かべて息絶え絶えになりながら士友は香矢を指差した。

「お前だって香が戻ってきてくれてうれしいだろ?」

つばを飲み込んだのどが焼け付くように痛い。気づいていないうちに拳を握り締めて、帽子が頭から垂れ落ちそうになった。かみ合わせている歯がきりきりとなる。

簡単に述べられると、香矢自身がそんな単純な男のように自分の中の鏡に映る。だが香矢は何も言い返せなかった。他にもいろいろと思ったところはあるが、その気持ちも感じているのは確かである。

しかしそれが本音ではない。

古都は香とは似ていない。似ていないとかいう問題ではない。古都と香は別人だ。それに香が戻ってくるとしたら、古都は消えてしまう。

「香が戻ってきてくれたら素直にうれしい。だけど古都は香じゃない」

そして無関係な人間を巻き込むわけにはいかない。いろいろと香のことを古都に打ち明けたことはあるが香の問題は自分だけの問題である。

まだ静かに眠っている古都の顔を一瞥すると香矢はその言葉で士友を突き放した。全て言い終えたときに香矢のなかで空虚な穴が開いたような気がしてもそれは自分の中でいつもあるものだ。

士友はもう何時ものあいつに戻っている。だが最後に一回だけ士友は口を歪ませると古都の腕をそっととる。傷だらけのことの腕を慈しむかのようにそっとなでると無感情の目で古都の顔を横目で見る。

「別にいいじゃないか。人が減るわけではない。一人減って一人増えるだけだ」

士友の声はさっきから抑揚がついておらず、そして自信もつける気がないように涼しい顔をしている。外と温度差が激しい温室の中で暑苦しい顔をしているのは香矢だけだった。そして多分その暑さと同じくらい動揺しているのも香矢だけだろう。

士友の涼しい顔のせいで香矢の体感温度と同様が加速していく。士友がさも当然のように言い放ったのが香矢の心をありえないほどに揺さぶられていた。士友の言い分は間違っている。

だけど士友はそれを信じている節を微塵にも感じられていない。士友は信じきっている。自分が正しいのだと。

では自分が間違っているということなのか。そのようなわけではない。そのとおりだ。やはり士友は間違っている。香矢は士友の目の前で帽子を深くかぶると自問自答を重ねていた。

「本気でそういっているのか」

士友が頷く。その動作で香矢の中の何かが紐解かれた。もう香矢は考えることもせずに思い浮かべた言葉を乱暴に投げつけていく。士友は古都の顔を元に何かを想像しているような目つきをしながら香矢の言葉に耳を貸し、そしてそれを受け流していく。

「香は一人しか居ないし香の代わりになる人間なんて誰も居ない。悪いが。お前のくだらない計画に付き合う気にはなれない。古都を連れていく」
「香矢にこのことを打ち明けたのは香矢ならのってくれると思ってくれたからだけどな」
「何度も言わせるな。お前のくだらない計画に付き合う気など毛頭ない」

香矢はもうはじけてしまいそうだった。士友の言い分は前から変わることはなく、二人の言い争いは平行線を辿っている。香矢はもうこんな不毛な言い争いに辟易していた。

香矢が腕を振り払いながら叫ぶ。その動作で香矢の帽子が吹き飛ぶ。帽子はくるくると回転しながら空中を泳ぎ、地面にUFOのように着地した。その帽子の姿で見えなかった士友の上半身が一旦隠れ、そしてまた姿を現す。

士友はためいきをつく。大きく息を吸い、そして大きく息を吐く。力のない士友が息を吐く音が間の抜けた雰囲気を伴ってずっと聞こえていた。その目は士友が他人に向けるものよりも乾いている。無関心ではなく、香矢を完全に失望していた。

「そうか。なら……」

士友は古都の手を放す。支えを失った古都の腕は寝台の上へと落ちる。

「力ずくで止めてみるか?」

香矢は答えなかった。答える代わりに士友のそばまで疾風のようにかける。マントが大きく翻り、その先から香矢の拳が現れる。矢のように一文字の軌跡を描き士友の顔へと伸びていく。そうなるはずだった。

しかし香矢の腕が士友の寸前で止まる。そのことが予想外だったのは誰でもない香矢だけだった。香矢は驚愕していた。ちゃんと打ち抜くつもりだったのに士友を殴ることができない。どうしてもあと少しだけ腕を伸ばすことができなかった。

士友は頬を触りながら香矢の拳に視点を集中させている。

「やっぱり迷っているのか?俺の話しにそれほど惹かれているのか」
「違う」
「ならどうしてその服を着ているんだ。それはお前の趣味ではないことは俺が一番知っている。お前がその服を着ている理由を教えてやろうか」
「違う」
「お前は香が恋しいんだよ。香の姿を忘れたくないからその姿をしている。だからそのために声を変える技量まで学んで香になりきろうとしたのだろ?」
「それは……」
「一度は拒絶したのに、いざいなくなるとその姿を追い求める。それが叶わないと知るや否や別の人間に鞍替えする」

士友の言葉は香矢が時折考えていても、胸の奥底にひっそりと隠していたそれを見事に射抜いていた。梟が余計にざわつく。それに連動してか温室のビニールが乱雑にはためいていた。周りに存在する全ての気配、音が香矢の敵のように思えてくる。

士友の、一つ一つの言葉が重苦しく響く。否定したくても否定できない。香矢の腕が曲がる。顔面めがけて突き出された香矢の拳が士友によってゆっくり下ろされる。香矢はそれに抵抗する気力はなかった。

「本当に勝手な人間だな……。本当は香に会いたいのだろ。だけどお前に香は渡さない。そしてお前の大切なものも返しはしない。お前はここで自分の望みを気づいたまま、全部失うんだ」

士友の顔つきが徐々に変わる。燃え上がっているような、まるで鬼のような形相になり、今まで蓋をしていた自分の本音を初めてさらけ出していた。その感情は純粋なまま香矢に向けられる。真っ赤な憎しみが香矢を焦げさせていた。

士友は香矢の拳を押し出す。よろよろと後ずさりをする香矢は状況が理解できないまま勢いを殺せなかった。近くができる最小限の時間が止まったように香矢は頭が追いつかなかった。香矢を押し出した士友がいつの間にか目の前にいる。

士友の目と香矢の目が合う。香矢の目は焦点を失ったまま屋根、壁、苗木、そして古都へとおぼろげなまま動きそしてもう一度だけ士友の顔に目が移った。士友は何も変わっていない。それに対して自分は脆弱な顔のままおぼろげな顔をしている。

士友の拳が眼前に迫っていた。
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