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「白崎 思織の視線」

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七子の震える指先にあわせて、注射器の針先も八の字を描くように揺れている。中に入っている人工的な青色をしている液体が一粒一粒垂れている。その液体のせいで、注射器全体がほのかに発光しているように見える。私の身体の前でゆっくりと動いている針先が私の肌を観察しているようにも見えた。

実際はたぶん迷っているのだと思う。刺すのかどうかというよりも、どこに刺せばいいのかといったことに。私は七子の顔と、その針先を交互に見交わす。

七子が泣いているのかどうかさえも私には分からない。背中に押し付けられている木々の硬さと、私を掴んでいる七子の腕の柔らかさに挟まれて私はただ来るべきときを待っていた。

七子の切羽詰った息づかいと木々のざわめきが面白いぐらいに調和している。そして梟は依然として同じ鳴き声を響かせていた。その鳴き声が私の神経を逆なでさせていく。梟が私を挑発している。

いつもずっとどこからか見ているのに、普段は第三者の瞳で私に口出しをしない。そのくせに時折いやというほど私を哀れんでくる。私を嫌というほどに干渉している。梟はその鳴き声に哀れみのような皮肉をのせている。

私はもうそれらには耳を貸さなかった。ただ深い息を繰り返しながら、ただ七子と見合わせていた。

「ねぇ。本当にいいの?」

私の返答を待つ前に七子は私の右肩に注射器をさしこんだ。その仕草はケーキにフォークを入れるようだった。女の子としては可愛らしく、そして高揚しているためかどこか乱暴さを重ね合わせていた。

いろいろとどこに刺そうか迷っていたようなのにやっぱりそこが一番なのだろうか。傷口にゆるやかに差し込まれていくにつれて、私のそこから滴り落ちる血の量が多くなっていく。そのたびに七子の顔色が暗くなる。しかしその指は注射器の蓋から離れない。

七子の親指はまだ注射器の蓋を押していない。私の沈黙に行動を起こせないでいる。七子は私との関係を取り戻したいのが本心だろう。だけどその裏側には影のように後悔が寄り添っている。

それを取り払えるのは多分私だけ。

「私は子供だから。なんとなく誰かと一緒にいなければ安心できないの。一人じゃとても不安だから誰かの体温をずっと求めている。そんな自分許せないと思った」

七子が今から行うことを、私が嫌がっているのではないかと七子はそれを恐れている。それが最後の抵抗なのだろう。それがよく分かる。相変わらず開いている私の傷口を前に七子は苦しそうに口を閉ざしていた。

七子の喉元は汗で濡れている。黒いぬめりを持ったその汗がじりじりと落ちる。その汗と共に七子の感覚は黒く落としているように見える。だけど私は何も恐れていない。恐れているとしたら七子が離れていってしまうこと。だから七子に言わなければいけない。

「けど私はどう頑張っても子供のままだから。誰かと一緒にいないと、つらい」

私と七子のどこかかみ合わない空気を断ち切るかのように一つ風が周りを走る。血なまぐさい匂いを全て振り払う。風の強さに一旦目を瞑る。前髪が私のまぶたを掠めていった。風はとても長い間私と七子の間を吹き荒れていた。

そして予兆もなかったくらい、その風はぴたりと止まる。私が目を開くと七子は柔らかい笑みを浮かべてくれた。

「思織は強いよ。私なんかより何倍も。私の願いを叶えてくれるもの。自分を犠牲にして」
「七子がそう思ってくれているだけでもうれしい。けど謝るのはもうやめて」

七子はそっと私を抱きしめた。七子の顔が私の顔の真横を通り過ぎ、私の首と七子の首が合わさる。七子の吐息が私の髪にかかる。私の背中に七子の手が回された。七子の身体が私を包んでくれる。その温かさが心地よかった。

私も七子を強く抱きしめる。七子との距離がなくなって私の口からは甘美なため息が漏れた。七子は一瞬びくりと肩を震わせたけど、それからは何も怯えていなかった。あんな荒ぶっていた息も今はとても穏やかなものとなっている。

何かが飛び去っていく。もう私と七子のことを見るつもりがないのかあたりからあの視線の気配を一切感じなくなった。この場にいるのは私と七子だけ。七子の顔は見えないけど彼女もそれに気づいたのか、そのまま七子の中にあった最後の抵抗がなくなっていく。

私の傷の中に何かが入ってくる。皮膚が裂けている痛みと共に微妙な温度を持ったものが私の血管の中に入ってくる。それと同時になんか眠たくなってきた。倦怠感が血の流れに乗って身体全体を巡っている。

私が七子の本心を知ったうえで七子の行動を止めてもらうのが大都井さんの目的だったかもしれない。彼女の悲しみをその胸に無理やり押し入れ、それに耐えている顔が簡単に想像付いた。

でもこれでいい。抑えてきた七子の欲求を解放できるのなら、それはそれで七子を救えたということになるのかもしれない。私一人どうなったところで誰も、何も思わないだろう。

暗闇の中で七子の身体を掴みながら、私は七子と共にいられる喜びを噛み締めていた。

「そんな選択にするから子供だといわれるのよ」

冷ややかな声が頭上からふりそそぐ。反射的に目を開いたその先ではおぼろげな誰かの姿が暗闇の中で浮かび上がっていた。それはすぐにはっきりとした像に変わってゆく。鮮やかな色の白衣が彼女の身体にぴたりと張り付いている。

まどろみに半身をうずめながらも私はその姿が誰かはっきりと分かった。平坂先生が口の端に煙草を咥えながら白い煙を吐き出して私たちの前にその姿を現していた。煙草のかすかなともし火がまるで人魂のようだった。

ーーーーーーー

平坂先生は私の顔を確認すると何も言わずにつかつかと歩いてくる。眠気がまぶたを重たくしているのに、ぼんやりと定まらない視界の中でも平坂先生の姿はありありとした存在感を持って、私の視界の中ではっきりと立っている。

そのくっきりとした先生の姿に、私はあいまいな印象を持っていた。先生が怖いということとは違う。そもそも怖いとも、怖くないともいうことのできない。それくらいあいまいな印象だった。

私は平坂先生が現れたことでどこか場の空気が変わったことを理解していた。それほどに平坂先生が言葉で表せない何かを持っているのは間違いない。私のにじんだ視界の中で平坂先生だけは今までと同じ輪郭を保っている。

だけど私は平坂先生に何も感じることができない。先生はここにはとても場違いだった。私と七子の前に現れる人ではない。それがあいまいな印象としてつながっているのかもしれない。

まだ先生が理解できないまま、私はただ七子をきつく抱きしめる。理解不能な事柄に対する恐れにそのまま身体が反応していた。七子は抵抗なく私の腕を受け入れていく。髪の毛から漂う七子の香りが強くなる。

七子は平坂先生のほうを見ているわけではない。平坂先生に背中をむけたまま動かない。平坂はそのまま私のほうへと近づいてくる。

平坂先生が理解できないように先生の行動も先が読めない。私は薄く口を開いたまま平坂先生と目線を合わせていた。それでも先生の意図がよく分からない。なのに先生は私が困惑していることを知っている。

平坂先生はそれを知っているから意味もなくにこりとした笑みを顔面に作る。そんな子供っぽい仕草が私の眼に焼きついた。

「白崎ってさ、眠いとき頬でもつねればなんとかなるタイプ?」
「え?」

平坂先生が何を考えているのだろう。それの答えは先生の言葉で返ってくることはなく行動で返ってきた。まだ赤い血が流れ出ている私の傷口に先生は躊躇いもなく自身の指先を沈め込めていく。

先生の指は火箸のように熱く、そして見た目よりも何倍も太いものを押し当てられているような錯覚を感じた。きつく目を閉じてもその痛みは和らぐことはないと分かっているのに私はそれ以外の抵抗を知らなかった。

「んっ」

私をもてあそぶ先生の悪戯は容赦がない。えぐるように私の肉を切り裂いてくる。ただ私に苦痛を与えるだけの行為だった。それしか感じることができなくて、その行為がいつまで続くかも分からない。それどころか今どのくらい時間がたっているのかも分からなかった。

平坂先生の指先は衰えることを知らずにそのまま私の傷口をいじっている。彼女の軽い気分がその指先から伝わってくる。そして頃合を見計らったのか、それとも飽きたのか引き抜くときも案外あっけなかった。

額で脂汗がにじむが、それよりも他に気にすることがあった。視界が復活している。平坂先生は勿論として、それ以外の背景についていた残像も消えている。そしてはっきりしているのは視界だけではなくて、私の意識からも鈍さが消えていた。苦痛がそのまま眠気を吹き飛ばしたのだろうか。自分の身に何が起こったのがよく信じられないが私の前で七子が歯を軋ませていた。

「眠っているときじゃないと暗示が聞かないのに。何するんですか?」
「今眠らなくたってあなたが打ったものは数日間は有効なのだから文句言わないで頂戴」

七子は平坂先生と目を合わせない。簡素な声が私の耳の近くで聞こえている。平坂先生は七子の背後で私の血で濡れている指先だけを伸ばしてくるくるとそれを回している。人差し指の先端には私の血液が不気味に黒光りしている。

平坂先生は白衣で私の指先を拭いながら七子に話しかける。先生が何かを話そうとしている。私はもう考えることもしなかった。

「ねぇ。七子。もう一度考えてみる気にはなれない?」

平坂先生の発言は本当に予想通りだった。それがあまりにも可笑しくて、寸前で私は笑うのをこらえた。私の耳元で七子は吹き出していた。平坂先生が言ったことは七子と、私にとって愚問でしかない。もう決着が付こうとしていたことをいたずらに掘り返しているだけだ。

それに平坂先生の説得もなんとなく本気ではないように思える。いい加減なその態度に私たちが邪魔されていると思うと私はずるずると興ざめしていく。だから今この場には平坂先生はいらないとおもう。

しかし平坂先生はそれを承知のまましゃべりだす。私たちを茶化すような平坂先生の声が涼しく流れ出していた。

「何もやめろとは言っていない。七子がどうしてもやりたいというのなら私はもう止めない。でもね。今はすこし保留ということでちょっと待ってもらえないかしら」

いちいちしゃべり終えるたびに煙草を吸い続けているのはどこか居心地の悪さというものを打ち消したいと思っているのだろう。

七子は無言の圧力をじっくりと平坂先生に飛ばしている。私を抱きしめたままその背中で平坂先生を完全に拒絶していた。私が見ている平坂先生は自分の腰に両手を当てて背筋を伸ばしている。私にはその行為がとても無意味なように思える。ただ先生の気分が入れ替わるだけ。

「今ね。士友と志工君が温室で一波乱やってるの。それを見てからでも七子の願いを叶えることはできると思うよ」

七子は動かない。平坂先生の言葉に何も影響されなかった。平坂先生の方を見向きもしない。それでも先生は話し続ける。訴えるというわけではなく、先ほどと変わらない単なる棒読み。

「士友が今何をしているのは知っている。けどあの志工という人と、士友が何をしてようが私に関係ない。士友が昔の関係を取り戻したいのなら取り戻せばいい。それは私だって同じこと」

威圧的な七子の言葉が平坂先生に突き刺さる。その言葉と共に振り返り平坂先生をにらみつけた。森林のほんのささいな動きさえも七子の言葉で止められて、辺りは凍り付いているかのように急速に冷やされていく。

平坂先生は煙草を指でつまむ。煙を吐き出しながらぼそりと呟いた。きつい匂いだけを残して煙は空中へ離散していく。煙草の煙と同じくらいかすかな言葉が私の耳に届いてくる。

「七子は……士友じゃないから。士友と同じやり方は通用しないと思うけど?」

平坂先生の七子を見る目は先生という形式を捨てていた。そして七子を生徒というレンズで通しているわけでもない。あくまでも一人の人間として七子にその言葉を投げかけた。歯切れが悪そうにしている平坂先生は煙草を咥えなおす。

しかしどこか味わえなかったのか。軽くうなった後で別のポケットから出した携帯灰皿にその煙草を押しつぶす。七子はその平坂先生の挙動をずっと見ていた。私を抱いたままで七子はずっと先生を見ていた。

平坂先生はその視線に対して強がるように身震いをするとそのままはにかむ。煙草をもう一本取り出そうとして上手く取り出せなかったら、そのまま煙草を咥えることもなく私たちから離れていった。

七子の目は平坂先生が現れてからも何も変わっていなかった。七子は平坂先生を軽蔑することもせずに私と一緒だったときの視線と何も変わっていない。そして七子の目と中で抱えていることは平坂先生がいてもいなくても変わっていないと言える自信が私にある。平坂先生が離れていくたびに私と七子が織り成していた雰囲気が徐々に戻ってくる。

けど七子は満足げが足りないようにため息をつく。そして私に寄りかかる。七子の体重をより強く感じているのに私は自分の傷から流れ出る血が七子についてしまうということを心配していた。

「どうせ今から思織が眠れないのなら、平坂に付き合ってあげる」

七子は私に巻きつけていた腕をそっと離した。私の手をそっととるとそのまま平坂先生の後をついていった。七子は何も言わなかった。だけどつないでいる私と七子との手からなんとなく七子の思考が伝わってくる。

七子は考えを改めていない。だけど温室で繰り広げられていることに興味があるのだと思う。それを見てから、七子は自分の選択が正しいことを改めて認識するのかも知れない。

私も温室で何があるのか気になっていた。誰がいるかはもう知っている。だけどそれで私の決意が変わるとは思えなかった。ただ士友が何をしているのかが私の興味を引いていた。そして香矢が何をしているのかも。

79, 78

  

ーーーーーーー

平坂先生は後ろからついてくる私たちを見向きもせずに枝葉を乗り越えて森の中を進んでいた。私と七子はその後をずっとついてく。私の手をとる七子はずっと平坂先生の背中を食い入るように見つめていた。

私も同じように平坂先生の背中を見つめていた。木の枝に足をとられそうになっても、はらはらと舞い落ちる葉が髪の毛に引っかかっても、見つめていた。

七子が平坂先生の背中を見ていて、平坂先生は私たちを見向きもしない。今度は逆の状況になった。七子に手を取られて私は平坂先生の動く背中をただ見つめている。

平坂先生と私たちの間にはほんの少しの距離しか開いていない。けど平坂先生の肩に手をかけることも、言葉をかけるつもりもなかった。だけど前もって香矢が何をしているのか知っておきたい。

七子が私に使ったものが温室にあるということは知っている。士友の昔の関係がどういうことなのかも分かる。けど今の私には現地で繰り広げられていることを目にして、そのまま状況が飲み込めるほど頭が回る自信がなかった。

もうここには香がいないのに士友は何を望んでいるのだろう。香がいないのに香矢と何を争っているのか私には検討がつかなかった。私の知らない別のことで二人が争っている?そんな気がしない。昔の香に対する士友の妄信を見ていたらそんな気はしなかった。

打ち付ける風の冷たさに目を何度もまばたきをする。足がもつれそうになって視界が回りそうになる。

けど視界が断続的に切れるのも、視界が一回転しそうになるのも別のことが原因。押し出した波が返ってくるように眠気が舞い戻ってきた。さっきよりひどいものではないけど頭を使うことを一切制限されるみたい。

だけど私は眠りたくなかった目をこすりながら七子の手を強く握る。

ちらりと七子の顔が目に入った。早歩きのように平坂先生の後ろを辿っていく七子の髪の毛は自身の移動で後ろ向きになびいていた。細い髪の毛の間からちらちらと七子のうなじが見えていた。

そういえば七子は士友の名前を知っていた。そうなると二人は知人ということになるのだろうか。意外な関係に私は今更ながら開いた口がふさがらなく、そして私の疑問を解く糸口を目の前に見つけることができた。

「温室は香矢と士友しかいないの?」

私が香矢の名前を出したとき七子は私の手を強く握り締めた。不機嫌なのがうすうすわかる。けどそれはどうして?七子の後姿は私にその問いを返すべきかどうか迷っているみたいでそして私の疑問を風に流すように歩幅を広くした。

だけどそれはすぐに元の歩幅に戻った。そしてそのまま七子は止まる。逡巡している七子を見るとやはり香矢のことでふきげんになっているのがよく分かった。七子はまた歩き出す。歩き出したのが七子が答える決心が付いた表れなのだろう。

「うん」
「じゃあ士友は何をするつもりなの?香はもういないのに。どうして?」
「分からない。士友はよく昔のことを話していた。それでも士友の目的は漠然としたことで説明を止めていた。だから私には分からない。分からないけどただ……」

だんだんと七子の歩く速度が速くなる。私を掴む腕も、舞い上がる自身の髪の毛も激しさを増していた。平坂先生は立ち止まっている。だから急ぐ必要なんてないのに、七子の歩調は足早なままだった。

「思織と志工という人のことも知ってる。どう付き合って、どう別れたのかも。思織がその人にどう見られていたのかも」

七子は振り返る。やはり七子は不機嫌だった。無表情の裏に敵意が青く燃盛っている。

「だから志工という人あまり好きじゃない」

私と七子は追いつく。息を整えながら顔を上げる。

一瞬開けた場所に出たと思ったけどそれは間違いだった。私の足の前には地面は続いていない。山の斜面にそって今まで通ってきたものと同じような自然が下方に続いている。そしてその斜面の一部分にそれがある。

不規則な自然の中にぴしりと設置されている温室は誰が見ても不自然だった。

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あれほど空が隠されていたのにはるか頭上には月と星がその姿を現している。まだ夜の時間なのにさっきとは明るさが段違いに違っていた。太陽に比べて弱々しいと思っている月光が私に頼もしさを降らせているみたい。

上を見ている私の隣で平坂先生が下に指を向けている。私は導かれるままに下を見る。斜面の下には少しの平地があって、そこには温室があった。ここに来る途中に何回も話しに出されていたそれが、ビニールの壁のなかに暗闇を閉じ込めている。

温室があるところは一瞬盆地のようなものを連想したけどすぐにそういうものではないことが分かる。温室があるところは急な崖の一部を直角に切り出して一部平面にした場所なのだろう。そんな地形がここにあるということはまさに自然が作り上げた奇跡のようなものかもしれない。

感無量のように声が出せない私の隣で七子も何もしゃべらない。ただ胸中を乱されている私とは違っている。ただ七子は冷静というのだけではなく、ここの雰囲気にもう慣れているといったほうが正しい。

そして平坂先生はなんだか疲れた顔を浮かべて木の幹に寄りかかっている。何度も指先を震わせていた。

「ねぇ。先生はどうして邪魔をしたの?」

平坂先生が疲れているということは分かる。白衣の裏に隠れている肩が上下に揺れていた。先生の荒い息の音が遠くでも聞こえている。だけど平坂先生が疲れているのは肉体だけではなく神経だと思う。

だけど、それでも私は同情できなかった。平坂先生はどこかつまらなそうだった。そのような先生に七子と私の邪魔をされたのが気分的に最悪だった。

平坂先生は深呼吸交じりのため息をつく。平坂先生の挙動に反応したのは私だけで七子は顔を落として温室から目をそらすつもりはない。平坂先生は両手の掌を何度か擦り合わせ、ため息の代わりに低い声を吐く。

「別に……。だけど私ね。いつも別の方法を考えちゃうの」

平坂先生は両手を広げて笑う。

「大人だからさ。逃げ道とか、保身とかを何時も頭の片隅に止めているのよ」
「よく意味が分からないですけど……」
「あの温室の中にあるものを管理していたのは私で、士友と七子は私から借りているという。そう考えてもらえばいいわ」
「生徒に渡していいものなのですか?」
「あれは私のものだからね。実質害もない。そう思っていた」
「そう思っていた?」
「白崎さんちょっと前に倒れたじゃない」
「授業中のこと?」

平坂先生が頷く。私はまだ温室に何があるのかも分からない。だけど先生がいわんとしていることは分かる。平坂先生は七子の顔をうかがうと私にそっと耳打ちをする。

「多分それは副作用。あれの外液でアレルギーでも起こしたのかもしれない」
「証拠もないのに?」
「あのときの白崎さんの右肩が熱でも持っているかのように熱かった」
「でもそれだけで……」
「可能性は徹底的につぶしておきたいのよ。ありの巣から堤防が崩れるというじゃない?何事も油断は禁物なの」

平坂先生はそこで一旦区切ってまた七子の顔をうかがう。七子にはあまり聞いて欲しくない内容だったから私もそのまま七子に注意を配る。でも平坂先生が恐れていることはあの温室の中にあるものに害があったことではなさそうだ。

もっと利己的で卑怯な理由が先生の中に根付いていそうだった。それを肯定するかのように私の推測に平坂先生は相槌を打った。

「私としてはあれを手放すのは惜しい。けど士友と七子があれをばら撒いて、そしてまた別の人に白崎さんと同じ災難が降りかかるかもしれない。白崎さんよりも重度か、軽度か知らないけど。でもそれが原因であれが世に知れ渡るということになるのはちょっと……。だからこれ以上士友と七子に渡したくないのね。そろそろ危ないおもちゃは取り上げる時期かな」
「私たちを邪魔したのは要するに自分の財産を守るためということですか」
「さっきからそう言っているじゃない。ただ……」

平坂先生はもう一度だけ幹に深くよりかかる。ためらいもなく自分の体を支えたいがための行為から先生が一回りも二回りも小さくなったようだった。本当に疲れているような重苦しさが先生の顔色を暗くしていた。

「ただ七子には士友と同じ選択してもらいたくないから……なんてね」

けらけらと笑っている先生はちょっとばつが悪そうだった。先生の言葉も動作も関係ないのか七子は挙動らしい挙動を見せず、私と平坂先生の間に微妙な空気が流れている。だけど先生はその些細な間の雰囲気さえも肌が合わないのか小さく舌をだして無理やりにでも紛わしている。

「それにしても真っ暗ね。明かりをつけてないのかしら?」

平坂先生が上半身を乗り出して温室を眺めている。私もそこは気にかかっていたところではある。あの中に士友と香矢がいるはずなのに私たちが来てから温室は暗いままだった。それに温室の暗さに何か違和感を感じていた。

温室の中の暗黒はよく分からないけどうごめいているような……。まるで生きているようだった。平坂先生が疑問視しているとなるとこれが普通ではないみたいだ。

七子は何も言わずに温室を厳しい視線で見つめている。噛み切るぐらいに唇とぎゅっとかみ締めている。訝しがる私と平坂先生の目線の先で一羽梟が飛び立った。そして飛び立った後では明かりが漏れている。暗闇を切り裂くように一筋の光が温室から空へと伸びていった。なんとなく温室が真っ暗だった理由が分かった。
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