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「志工 香矢の本能」

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中学を卒業した春休みだったはずだ。親だけ旅行に行って香矢と香は家で留守番を担当する。香と二人きりだけの一日。そんな日が一日だけ会った。香矢としては何時もどおりの生活にただ両親が引かれただけだとしか考えていなく、それで過ごしづらいということはなかった。

寧ろやや神経質な母と香がよく衝突することが多かったので二人が引き離れたこの日は香矢にとって羽休めとなる日だった。いつもよりも身体が軽くなっているのもそういう認識があるからだろう。

とはいうものの香矢は羽根のように軽いその身体を持て余していた。春休みだから時間はあまるほどにあるのだけどそれの使い方を考え付かない。学校にも行く必要はないし、どこか別の場所に出かける気分でもない。一緒に時間をつぶしてくれるほど仲の良い友達もいないので香矢は結局家の中でぶらぶらしているしかなかった。それでも香矢にとっては過ごしやすい一日だった。

一日中自分の部屋の椅子で本を読む。それに飽きたらベットに寝転がって本を読む。またそれに飽きたら壁に寄りかかって本を読む。それをずっとくりかえしていて読み終えた本は机の上に数冊積まれていた。黙々と読み進め眼の中には本しか映っていない。窓の外では早送りのように雲が動いているが香矢はじっとして本の中にのめりこんでいた。

そして気が付いたときには時刻は夜直前になっていて、窓の外では空に赤い色がにじみ始めている。香矢はそれに気づいた瞬間に空腹を覚えた。そういえば朝に軽く食べただけでそれから何も食べていない。

読み途中の本を閉じいすから立ち上がる。対して動いていないのに体中が痺れている。空腹もあいまって軽いめまいがした。

腹をさすりながら台所に行く。夕食は冷蔵庫の中から適当に食べればいいだろう。そう気軽に考えていた。本を読み続けて活字で頭がいっぱいになっている。重たい頭に何がいいだろうかあれこれ思案をめぐり、眠たげな眼を擦って香矢は冷蔵庫までたどり着いた。

冷蔵庫を開ける前に気になるものが一つだけ眼に入る。自分と同じ背丈で、自分と同じ顔をしている自分の妹がエプロンをつけていた。香は香矢が隣にいるのを気づかないほどに神経を研ぎ澄ませ立っている。香矢はその姿に自分の空腹をとっくに忘れていた。

香は昼ごろにどこかに出かけると言ったきり帰ってきていない。と思っていたが気づかないうちに帰ってきていたらしい。台所の前に立つ香は何時もよりも鋭い目つきをしてまな板を睨んでいる。凄みを利かせているつもりなのかもしれないけど、逆に愛くるしくて笑いがこぼれ出た。

香矢の笑い声に香が反応する。香はちょっとたじろいだ後に恥ずかしげに顔を俯かせた。

「あっ……兄さん」

香の眼鏡がずれる。このときから香はたまに眼鏡をかけるようになっていた。初めは眼鏡をかけることを渋っていた香だが香矢が説得した甲斐あって渋々ながらもつけるようになっていた。

香矢はそれが香のためだろうと考えていたがたまに自分が困ることがある。眼鏡をかけた香を一瞬だけ香だと認識するのに遅れることがあるからだ。けどこっちが説得させたというのにまた戻せというわけにはいかないから香矢は黙っていた。じきに慣れるだろう。

香の前には色とりどりの野菜と新鮮な豚肉が濡れて置かれている。コンロまわりには考えられうる調理器具と鍋が並んでいた。香は包丁を片手にジャガイモの皮をむいている途中だった。

「夕食の用意か?」
「えぇ。さっき出かけたときに用意してきたんです」
「準備がいいな。俺のぶんもある?」
「勿論ですよ」
「そうか……それなら間食控えようかな」

香矢は冷蔵庫にかけていた手をそっと放す。香の表情にさっと明るい色がのった気がした。腕まくりをしている香の腕がすっと伸びる。無駄な肉が付いていない香の白い腕はジャガイモを掴む。香矢は香を見守っていた。

包丁を持ち、ジャガイモを掴んでいる香の姿はどこか家庭的で、おなじ中学生とは思えないかった。危なっかしい手つきをしているわけでもなくその姿に安心感さえ抱き始める。カメラを持っていたら一枚収めていたかもしれない。香矢は写真を撮る代わりに香の姿に見とれていた。

香がこのように食事の準備をするということはたまにある。だけど香矢はそのことを知っているだけでこうやって眼にしたことはなかった。だからその姿がとても新鮮な物に見える。

香と香矢はよく似ている。それは双子だからということだけではなく香と香矢が仲がいいからだった。二人ともお互い以上の仲を持つ他人を持っていない。それだからこそ二人の関係はより強く浮き彫りになって現れるのだろう。

香矢も香もその関係を喜んでいた。どこに行くのにも二人一緒だったし、持っているものも、言葉遣いも、見た目も、感情さえ一緒だと思うときさえあった。香矢はそれを意識するたびに香とのつながりをより強く感じていた。

だけどそれはもう昔のことである。平行線だったと思っていたがわずかに傾きが違っていた。まっすぐ伸ばしていくと大きなずれが生じ始める。その違いに気づいているのが今の時期だった。だんだんと香矢らしさや、香らしさが顕著になってくる。

香と香矢で違いが出てくることは双子だからこそ残念に思えてくるけど、それが普通なのだろう。料理をしている香の姿を見て香矢はそれを確信した。

「いたっ」
「香?」

香は持っていたジャガイモを落とす。まな板に血が一滴垂れて赤い斑点を作っていた。状況をいち早く察知した香矢は治療道具を持ってくる。立ち尽くしている香の手を掴んで様子を見た。

香の親指の付け根辺りからうっすらと血がにじみ出ている。量はそれほど多くないがすぐに止まるとは思えない。応急処置としてとりあえず絆創膏を貼ることにした。何もしないよりかはましなはずだ。

「それほど出血していないようだけど大丈夫か?」

香の掌はかすか充血している。香は俯いて何もしゃべらない。香矢の予想を反して深く切ったのだろうか?怪訝な表情を浮かべる香矢は応急処置を終えるとそっと香の掌を離す。だけどそれよりも前にもう片方の香の手が香矢の手を覆い隠した。

夕日が強くなってきたのか台所の影が暗くなる。真っ黒な影との境界をきっちりと引いている夕日の赤は黄昏を思い起こさせるような明るさだった。香矢のそんな思いに一切動じず換気扇はずっと回っている。耳障りなその音だけどそれよりも大きな音を聞いていた。

「香?」
「兄さん」

ほぼ同時に二人が呼び合う。香の顔が上がり、接近していたことを今気づいた。ずれた眼鏡の奥にある瞳はほぼまっすぐだけど上目遣いで見られている。みずみずしいピンク色の唇が震えていた。香のようで香ではないその顔つきに香矢は言葉を失った。世界が急速に狭まって香と香矢だけになる。

窓から差し込む夕日で香の頬が色づいているわけではない。香の頬は心臓の鼓動と同期して赤く染まっている。香矢はこのとき香の指先から伝わる脈動がとてつもなく激し感じた。

「じゃあできたら教えてくれ。邪魔しちゃ悪いしな。火には気をつけろよ」

そのままさりげなさを装って香矢は自分の部屋に戻った。香の顔は見なかった。見れなかった。あのときに香を香だと認識できなかったから。それは眼鏡だけが原因ではない。もっと根本的なものが香を変えさせている。

戻った後で自分の胸が高鳴っているのに気づいた。部屋の中でその音が膨れ上がる。落ち着きなく部屋の中を歩き回り、本棚から本を引っ張り出しては震える指でそれを捲った。だけど一ページも読まないうちにそれを放り投げる。内容が全然頭に入ってこなかった。

香のあの表情が頭から離れない。香のあのような表情を初めて眼にした。だけど香矢は知っている。なんで香があの表情をするのか本能で理解している。あの表情が香矢の本能に訴えているからだ。そのときに気づいた。香は香矢のことが好きなんだと。

ーーーーーーー

天井にいる梟と目が合った。香矢は一瞬だけ眉をひそめてその梟の存在に疑問を感じたがすぐに正気に返る。今自分がどこにいて、何をしているのかを察知して、忘れかけていたことに若干の焦りを感じた。

しかし起き上がろうとした結果香矢の焦りはさらに膨れ上がる。硬い感触が背中に当たるたびに背中にヒビができるような激痛が走った。背中だけではなく足も、腕も神経が通っていないかのように思い通りに動かない。

息をするたびに電流のような痛みが走る。口の中は血で真っ赤になっていて舌の先で鉄の味を感じた。体中が痛くてもうどこがおかしいのか分からない。覚えのない怪我の数々に香矢はやじうまのように群れている梟に対してどうしたらいいか混乱していた。

起き上がれなくてもがいている香矢の目線の先にすっと誰かの影が落ちる。それは士友だった。逆光で顔は見えない。だけどどういう表情をしているのかは本能で感じていた。士友は無言のまま香矢の胸倉を掴むと無理やり起き上がらせる。

士友は眼前の香矢を前にしてこれ以上ないくらいにこやかな笑みを作る。士友の白い歯が印象的だった。香矢はこのときにやっと自分の傷が誰につけられたのかを理解した。

「俺のかけがえのないものを手に入れる。これほど快感だと思ったことは後にも先にもないだろうな」 

士友の後ろでは古都がまだ眠っている。そしてその近くには香矢が被っていた帽子が落ちていた。帽子も、古都も香矢の手に届かない場所に位置している。香矢は虚ろな瞳でそれらを交互に見ていた。

士友と香矢の辺りは突風が通ったかのように散乱している。数多くの苗木が倒れ、割れた植木鉢からは土とその根が突き出ていた。苗木に張り付いていた数多の虫たちは地面に振り落とされもがいている。滑稽な動きをしている虫だが香矢に囲まれているという認識をさらに強くさせていた。虫たちが不気味な動きを見せれば見せるほどなおさらだった。

温室の外では風が強くなっているのか木々が暴れている。慟哭のような木々の音が鼓舞の役目をしているのかどんどんと敵が増えていく。だんだんと自分の姿が小さくなるようだった。じょじょに抵抗する気力がそがれていく。そして士友の存在をのりこえられない壁のように錯覚する。呆然と見つめる香矢の視線に士友は軽く舌打ちをすると香矢を突き飛ばす。

「なんか言いたいことがあるのじゃないのか?俺に殴られっぱなしで黙っているお前じゃないだろ?」

士友が掴んでいたから立っていられたものの、その支えを失った香矢はまた倒れても可笑しくない。しかし香矢は倒れないでいた。風に流されるようにふらついているがそれでも香矢は立っていた。香矢を立たせるのは意志ではなく意地に他ならないだろう。

「俺だって香が戻ってきて欲しい」

香矢の思いを茶化すように梟は鳴き続けていた。いつか古都に言われたことが頭をよぎる。女装をするのは香に近づきたいからということ。士友にさっき指摘されたとおり香が恋しいからということ。

がくがくと笑っているひざをまっすぐ立たせる。痛みの限界はもうとっくに過ぎていて香矢を立たせているのはもはや気力だった。スイッチが入ったり切れたりして暗転を繰り返す意識を必死でつなぎとめる。

香が戻ってきて欲しい。その叶えられない願いの妥協として自分が香の姿をしている。それはもう揺るぎのないことだった。だけどそれと香を恋しているというのは違う。それにやはり……。

「だけど古都は関係ないだろ?こんな方法間違っている。古都を巻き込まないで欲しい」
「なぜだ?」

その言葉がずしんと重たく響いた。香矢が抵抗する理由は香矢自身も上手く言葉に表せられない。一言で言えばいやだった。だけどそれでは香矢自身も満足できない。だんだんと重たくなる士友の簡単な言葉が香矢の身体をきしませた。

士友の向こうで眠っている古都の姿を見ようとするが士友で遮られて見えない。だけど頭の中には走馬灯のように古都の記憶が蘇ってくる。初めて会ったときや不良から助け出したとき。古都の家についていったときや香矢の部屋に来たとき。

それらを思い出して香矢は顔を上げた。

「古都は……あいつは俺を利用している。古都は俺のことを必要としているんだ。俺にしかありのままの自分を見せられない」

息をするたびにあばらが悲鳴を上げていた。香矢はもう自分が何を話しているのか分からない。だけどしゃべり続けた。かすんでゆく視界の中で古都が見えている。香矢が不良から助けたあのときの姿のままで、虚無感と孤独感を内包させてじっと耐えていることの姿が見えている。

「古都がいなくなると俺が困る。利用されているとしてもそれでいい。古都がいなくなると俺はもう誰からも必要とされなくなる」

士友のことなど考慮していない。独りよがりな考え方だ。だけどもう何も失いたくない。だから正直に話した。視界が前髪で隠れて士友の顔が遮られている。ひりひりする腕で髪を分けた。

士友は香矢を見ることなく振り返り、古都のそばによる。士友が古都をどのような目つきで見ているのか想像できなかった。

「それがお前の答えか……。お前の中でそれほど彼女が大きくなっていたのか。香以上に」

士友は一旦黙る。士友だけではなく、木々も、梟さえも音を立てなかった。時間が進んでいないかとさえ思う。やがて香矢に向けている士友の背中と肩が徐々に大きく、上下に揺れ始めた。そして高らかに笑う。梟の笛の音のような鳴き声とは違って、士友の笑い声は地響きのように身体の奥底まで響いていた。

「ははっ。俺の思ったとおりだ。お前に一つ道具でも与えてやれば香がいなくなってふ抜けたお前が少しは立ち直るかと思ったがこうも上手くいくとは思わなかった。それならそれで好都合だよ。お前の大切なものを奪って俺が取り返すからな」

笑いながら士友はそのまま首だけを振り返る。その眼は喜んでいた。自分の思い通りにいっていることを心の底から湧き上がらせている。だけどその喜びよりも激しい憎悪が燃え盛っていた。香矢はもう士友を説得できないのではないかと考えていた。士友を無理やり止める方法はもう一つだけある。それに賭けるしかないのか?

「だけどな。俺だって香とは離れたくなかった」
「お前も香にとってただの道具にしかすぎないのにか?」

自分で言っていてこの言葉にはものすごく嫌悪感を覚える。香矢が士友に対して一番言いたくなかった言葉だった。だけどもう言わざるを得ない。士友を言葉でねじ伏せることはおろか、説得することも自信がない。香矢が頼るのはこの香を取り戻しても士友には振り向かないということを教える最悪な手段だけだった。

士友は開いた手を閉じる。じっと拳を握り固めてなにかをふっきるように息を吐いた。士友の中で何かが解放された瞬間だった。香矢の言葉に微塵も動じていない。香矢の顔が驚愕に染まる。

「それは分かっていた。俺がどんなに頑張ったところで香は俺のことを本気に好きになってくれない。だけどそれでよかった。それで香が満足するなら俺は香に思う存分利用されてやると誓った。だけど現実はどうだった?香は俺という道具を持ってしても望みを叶えられなかった。なぜだ?」
「その望み自体……めちゃくちゃだったからだ」
「違う。お前が拒んだからだ。お前が香を受け入れてやれば香はいなくならなかった。お前は常識とかいうつまらないものに縛られ続けたせいで何もかも壊した。お前が間違わなければ、正しい答えを選んで入れば香はいなくならなかった。お前が悪いんだ」

だんだんと士友の声が大きくなる。その迫力が香矢を呑みこむ。

「香の代わりにお前がいなくなればよかったんだ。お前がいなかったら誰も悲しまなかった」

士友の鉄拳が香矢の腹に突き刺さる。士友のどす黒い敵意が香矢を毒づかせている。それが自分の心の厚皮をはがしていく。

お前がいなくなればいいといった士友の言葉が頭の中で何度も反芻していた。ひざをついた香矢の頭に横から士友が蹴りを入れる。香矢の一色を根こそぎ奪うような鎌のような蹴りだった。

香矢は地面をすべり倒れる。小石がやすりのように香矢の身体を削る。だけどそれよりも香矢の心のほうが磨り減っていた。口の中で苦い味がする。こんな味を感じるのも久しぶりだった。

そんな思いを長い間味あわなかったのは自分が強い証拠だと思っていた。誰にも負けない腕っぷしを持っているからこんな惨めな思いをしないと思っていた。だけど香矢はどこも強くなっていない。それどころか弱くなっていた。決心が付かない優柔不断な自分を見ない振りをしてそれから逃げるように拳を振り回していたのを強いと勘違いしていただけだった。

目の前には眼鏡ケースがある。けられた拍子にマントの内ポケットから飛び出たのかもしれない。香矢はそれを拾う気に離れなかった。見上げた先には士友がいる。自分に止めを誘うとしていた。香矢はもう抵抗する気力さえ残していなかった。

「やめて」

温室の中に香矢でも士友でもない声が響く。士友は香矢を踏み潰そうとした足を止めて振りかえる。香矢は起き上がれないけど士友と同じものを見ようと必死に眼を凝らした。

痛みで見ているものが何かはっきり分からない。だけど誰かは分かる。士友の後ろで古都が立ち上がる瞬間だった。

「古都?」
「香」

古都はおぼろげに歩いていたがバランスを崩して地面にへたり込む。顔を上げないことの地面にはぽつぽつと雫が垂れていた。士友も香矢も古都を見て同じことに胸の動悸を抑えられなかった。今の古都は古都でいいのだろうかと。

古都は顔をふるふると動かし、もがくように手を泳がせる。たまたま近くに落ちてあった帽子にそれがあたった。古都はそれに反応して顔をあげる。涙で濡れた顔とまだ涙があふれている瞳でその帽子を何度も見ていた。香矢はその動作にはっとした。そして自分というものが停止したように感じた。
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