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「志工 香矢の決意」

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虫食い跡の両腕が古都の呼吸に合わせて僅かに上下している。ふらふらと立ち上がるとぼろぼろの両腕で自分を抱きかかえていた。古都のまぶたが自分の痛みに耐えているようにきつく閉じられている。

香矢は古都の姿から目が離せなかった。自分が今どういう状況にあるのかも忘れて古都に見入っていた。古都の姿は香矢の知っている古都のどれとも一致していなかった。

ふと士友の雰囲気が変わっていることに気づく。香矢と同じく古都の方へ視線を向けている士友は落ち着いている表情を作っている。しかし指先の脈動や、息づかいや、頬の紅潮具合などでかなり興奮しているようだ。

士友の身体全体が熱を持っているかのように。そしてその熱が士友を中心に広がっているようだった。しかし香矢の体はどんどん冷たくなっている。細胞一つ一つが活動を止めて静止しているようだった。同じ古都の姿を見ているのに、二人の感じていることが違う。

目の前にいる古都は古都で間違いないはず。だけど何かが違う。見た目では判別できない何かが古都の上を塗り替えている。そしてその雰囲気を香矢は知っていた。もう長らく味わっていなかったなつかしいものだった。

古都はまだ泣いている。水道の蛇口を閉め忘れているかのようにとめどない涙を流していた。古都の嗚咽が彼女の身体全体をがくがくと揺らしている。ぼろぼろな自分の体を気にせずに古都は足元に落ちている三角帽子をそっと拾って抱きしめた。慈しむような抱きしめ方をして古都はそれに顔を押し付ける。

「無理に起きちゃ駄目じゃないか」

にこやかに笑いながら士友が古都へと近づいていく。それだけなのに香矢の身体に電流が走った。立とうにも立ち上がれない。両腕と両足がむなしく地面を這っている。香矢は今までにない以上の焦りを感じていた。

古都は立ち上がるもののまだ足元がおぼつかないのかすとんと自分が寝ていたベットの上に座り込む。ただ帽子だけはぎゅっと握り締め続けていた。帽子で隠されていた古都の口元が現れる。その姿に香矢は一瞬だけ香の姿と重なってしまった。

頭を振って否定する。士友の言うことが正しくて、目の前にいる古都が本当に香だということを信じ込まされているということを必死で追い出していた。身体が動くなら古都を揺さぶっていたかもしれない。口が動くなら古都に呼びかけていたのかもしれない。

だけどそれができない。そうする気力も体力もないから。だから馬鹿みたいに目の前を否定するだけしかできなかった。香矢の思いとは裏腹に古都は帽子から手を放さない。自分のもののように。

「士友が話していた。夢見心地のままでそれを聞いていた。私のことを聞いていた。士友が知る最後の私」

古都の声色で、だけど口調は確かに違う古都の話し方に香矢は流されそうになる。古都の変化にたじろいでいる香矢は古都の雰囲気に呑まれていた。古都にはそのつもりはないかもしれない。だから古都は同じ調子でしゃべり続ける。

そして香矢の拘束はどんどんと強くなっていく。古都の姿がどんどんと香矢の知っているものとはかけ離れていく。

「ここと同じ場所。ほとんど同じ時間。けどいるのは私と士友だけ」

古都はかすれている声で呟いて辺りを見回す。温室の中にある一つ一つを全て懐かしむかのように唇をかみ締めたり、目を薄く開いたりしていた。士友は古都の仕草をじっと見続けていた。

「私は泣いていた。簡素なワイシャツと飾り気のないズボンをだらしなく履いて」

士友は黙ったままだった。古都のたどたどしいしゃべり方に相槌を打つだけ。

「士友はわたしの顔を見るなり『香矢の告白は駄目だったのか』って。ちょっとだけ、あくまでもちょっとだけ寂しげに。私はこくりと頷いた。私は『あなたが手助けしてくれたのにごめんって』そういって温室の中を見回した」

古都はまだ話し続ける。だんだんと早口になっていく。

「士友には感謝している。口下手で意気地なしだった私でも兄さんに伝え切れなかったことを伝えられた。奇抜な手段だったけど何もいえなかった私を士友が後押ししてくれた」

香矢はなんだか演劇のようなものを見ているような思いだった。目の前にあるものは自分にとって偽者のことである。だけど古都と士友にだけ関して言えば本気なのだろう。それが香矢にとって戦慄が走るほどに不気味だった。

二人の間でしか会話が成立していないことも、二人の間に香矢が入り込む余地がないことも、香矢にとっては信じられないことであり信じたくないことだった。そして自分の知らない香りのことを知っている古都がだんだんと怖くなる。

士友が話したのは最後の香の記憶だとしたら、それは多分香矢が香を拒んだあの日に続く記憶なのかもしれない。その記憶を古都に話したのは何の理由があってだろう。士友の背中を見るが士友は香矢を完全に無視していた。古都に魅入っていると言い換えてもいい。

「士友は謝っていた。だけど兄さんのことには怒っていた。兄さんのことをさんざんなじった。そして『あいつじゃなくて僕と本当に付き合え』って言おうとしてすぐに撤回した」
「もう傷つくお前を見たくなかった。お前の望みは叶えたかった。それが僕の役目だと信じていた。だけど役目を果たすことができなかった。僕じゃだめなことぐらい分かっていた」

士友が始めて口を開いた。歯を食いしばる音が聞こえている。

「私は泣きじゃくりながらも、私は胸元を握り締めながら、私はそのまま士友から逃げた。夢の中で士友が話していたのはそれで最後。士友が知る香もそれでおしまい」

「あの後からずっと考えていた。僕があのときに香の手を掴んで離さなかったら、香は僕のそばにいてくれたのだろうかと。だけどそれはできなかった。あのときの香に僕は何も言葉をかけてやれなかった。そもそも言葉をかけられなかったから、僕は手段を与えたのに、その手段が通用しなかった。だから僕がしてやれることは何もなかった」

やつぎはやでしゃべっていた古都の後に士友が続く。まがりなりとはいえ士友が念願のものを手に入れようとしている。それも香矢から奪い取って。士友が古都を立ち上がらせる。古都の傷痕を一瞥して、士友は慈愛のまなざしを古都へと浴びせていた。

「けど今度はもう逃がさない。香」
「私が偽者でも?ただ士友が話したのはそれだけではない。私に出会ったときからの全ての記憶をこの脳に植えつけて、この身体を香のものにした。でも見た目だけは返ることができない。それでも?」
「もともと、僕は魔女という噂話、実体のないものを探していたんだ。見た目がどうこう言う気はない。それに共通するものもある。排他的で特定の人物にしか心を開かないその雰囲気。初めてみたときから香に似ていた。だからもうかまわない」

士友は自分の手を突き出す。士友の無骨な掌は汚れ一つなく、薄暗いこの部屋の中でもよく映えている。香矢はなんとか立ち上がろうにも地面についた掌がずるりと滑った。疑問に思って掌を見るとべったりと自分の血がついている。士友の掌とは違って汚れている掌が自分の掌だった。

「僕はあのときからやり直したいんだ」

士友は古都の腕を手に取るとそっと立ち上がらせた。踏み込むことのできない領域が二人を中心にして広がっているようだった。ぼろぼろの身体を動かして香矢はやっと立ち上がるが二人の姿を見て愕然とした。二人を邪魔することができない。一際強い風が苗木を倒しながら二人を包むように巡っていた。

だけどその雰囲気は二人が作っているのではない。歩けないのは香矢自身の意思だった。あのまま二人がくっつけばよいのではないか。古都がいなくなって困るのは香矢だけだった。香矢がまた古都と出会う前の一人ぼっちの頃に戻るだけで済むとしたら。それで全部解決するのではないのか。

そういう考えが頭を掠めたらパズルのピースがはまっていくように目の前のことが歪みなくすんなりと受け入れることができた。痛みも、怒りも、すぅっと静まっていく。冷静になっているのは自分の決心がついたからだろうか。香矢は黙りうつむく。

「私は香の記憶を知っている。士友から話されたから。そして士友がそれを話した目的も。私をどうしようとしたいのかも」

古都がふいに口を開いた。香矢もつられて顔を上げる。

古都の目つきが変わっている。士友によって塗り固められた雰囲気がひび割れていくようだった。俯きがちだった古都の顔が跳ね上がる。古都は半歩後ろに下がる。涙があふれている瞳の奥底にはまぎれもないまっすぐな光が輝いている。より強く三角帽子を抱きしめて、士友の掌は宙ぶらりんになる。

「でも私は香になれない。士友の知る香を話されても私は香になれない。記憶は受け継いでも、香であるという意志までは受け継げない」

風が強くなったのか苗木がざわめいている。まるで古都が起こした風のように古都の髪が巻き上げられて、服もはためいていた。古都のようで古都ではない。だけど香ではない。香矢はそんな奇妙な迫力を古都から伝わっていた。

「だって私には香がどうして香が逃げたのか分からない。今ある記憶だって士友から見た香でしかない。香自身のことを私は知らない」

それまで抱きしめていた帽子を古都ははらりと落とす。花びらのように帽子は舞い落ちていく。そして士友の傍を離れたがらないように足元に止まった。古都は帽子の行く先には気に留めない。

古都は手首を返しながら自分の腕をまじまじと眺める。その動作がちょっと緩慢としていて、古都は胸元を握り締めて小さくため息をついた。古都はゆっくりと胸元のボタンを外す。虫食い跡の腕が震えている。古都は上着の襟を掴んだまま動けなかった。

だけど着崩れた胸元からぐいと自分の右肩を出す。傷がひどくて少し赤い両腕とは違って薄い肌色をしている古都の肩にあるものがどくん大きく波打った。それを見せ付けられたときに香矢の中で何かがぐらりと揺れた。

「この腕の傷だって私を何度も香にしようと頑張って失敗した証拠なのでしょ。私が入寮したその日に士友さんたちがここに連れてきた。そして私にこれを入れた。初めてだったのかどこに入れたらいいのか分からなくて、何度もやり直しているうちに在庫が切れた。私はその隙にここから逃げた。だけど梟が……。おぼろげだけど私は取り戻している。あのときの記憶が私を古都であると証明している」

士友を見る古都の顔は人形みたいに形だけあって、その中身を感じさせなかった。士友を哀れんでいるようでもなく、士友を憎んでいるわけでもない。ただ士友はその表情に覆すことのできないものを感じているのか固めている拳をぶるぶると震わせていた。古都は士友をまっすぐ見返してそして話す。

「だからどんなに頑張っても私は香にはなれない。私は古都のままで誰も香の代わりにはなれない。ごめんなさい。坂堂先輩」
「なれるかどうかは関係ないんだよ。なるんだから。葵君にはそれでも足りないのかい?」

ぴしゃりと士友が古都の言うことを遮る。士友がポケットをまさぐると同時にもう片方の手が古都へと伸びる。ポケットをまさぐっていた士友の手には線のような細い注射器が握られていた。香矢は動こうと思っても動けなかった。それにもう手遅れだった。

「あっ」

古都が短い悲鳴を上げた。自然と後退するも、そこには寝台がある。それに引っかかり倒れる。すぐ上に士友が覆いかぶさった。注射器の針の先から一滴何かがこぼれた後に鈍い光が香矢の目にまで届く。

香矢の中で何かが蠢いた。古都のあの姿を見たときからだった。内側から膨れ上がって張り裂けそうになる。

香矢の頭の中では古都の声が反芻していた。消そうとしても消せない。そしてだんだんと大きくなる。香矢を責めているわけでもないのに。いや香矢は香矢自身を責めている。香となった古都が士友と結びつく。それで全部解決すると考えていた自分の性根を責めていた。

何も解決するわけがない。偽りの香が作るであろう結末は本当に士友にとっても、香矢にとっても幸せだといえるのだろうか。答えは古都が話してくれた。古都が話してくれたことを自分がむげにしていいのだろうか。

自然と足が動く。いままで縛り付けられたかのように動けなかった足が羽根のように軽い。梟がこちらを見ている。あれほど集まっていた梟が今は半分ほどになっていた。だけど残りの梟の瞳は香矢に向けられている。

士友の肩を掴んで引き離す。士友と香矢はそのままもつれ合いごろごろと転がる。そして香矢が士友に馬乗りになった。士友は無表情だが香矢は顔が真っ青だった。けど肩で息をしているという点では同じだった。

「やっと分かった。お前に反対する本当の理由」

とぎれとぎれに話す。口を動かすたびに口の端から血が滴り落ちて香矢の手の甲を濡らす。士友は抵抗できるはずなのに、無言のまま香矢を睨みつけていた。ちらりと振り返って古都の姿を確認する。古都は寝台に寝かせられたままだった。香矢の気配には気づいていない。

「さっき起きたのが奇跡だったんだ。眠っていればよかったのに」

士友がそういうように古都があの時起きたのは本当に偶然だったのかもしれない。だけど古都からしてみれば香矢に伝えたいという意思が導いた必然だった。だから香矢は古都から伝わったものを士友にも伝えなければいけない。そのための義務がある。

「あのときの古都は香に似ていた。見間違えるかと思うくらいに。見た目とかは全然違うはずなのに香かと思った」

寝かされていることの姿がぼんやりとにじむ。多分士友が初めに言ったとおりに古都の姿だとはいえ香にもう一度会えたのを心のどこかで喜んでいた。古都がいなくなるという喪失と香が戻ってくるという期待がずっと揺れて、香矢全体を揺さぶっていた。

「だけど古都が口にしたように、どんなに香の記憶を持ち、香としての情報を他人に移しても香らしく振舞えるのだろうか。香にも香だけしか知らないことがある。自分だけの秘密を無視して香は戻ってくるのか。そして古都が知っているのは士友が知っているだけの香だ」

ぐっと士友は何か言いたげに口を歪ませたが沈黙を貫いた。代わりに梟の鳴き声が辺りを支配する。ホーホーという単純なそれが、士友を焦らせているようだった。士友の表情から香矢は確信していた。士友も自分がやろうとしていたことが間違っていると気づき始めている。

目の前には悔しそうなこいつの顔がある。悔しいのは香矢に抑えられているからではなく、そのことに気づいているからだ。そしてそのことを他人に指摘されたからだ。

「だからあれは香ではない。士友しか知らない香だ。お前は自分にとって都合のいいように香を変えているだけなんだよ」
「僕の知っている香が本当の香に決まっている」

「自分だけが香を分かっているような口を聞くなよ」
「じゃあお前は分かるのかよ。香が何を思っていたのか。全部分かるのか?どうしてあのとき逃げたのかも、香がどうしてお前だけを見ていたのかも。香の全部知る術があるのか?ないだろ?あるわけないじゃないか」

士友はどんと自分の拳を地面に叩き付けた。そこから空気の波が広がり、全てを黙らせる。何度も士友は自分の拳を叩きつけて、そのたびに士友の身体と香矢の身体が上下に揺れる。士友の悔恨が直接伝わってくる。そして香矢の悔恨と同調していた。

士友の問いに答えられるわけがない。自分よりも親身に、そして心から接していた士友にでさえ分からなかったことだ。ましてや香矢は香を拒絶した。表面上に現れるそれさえ受け止めなかったのに、どうやって内面まで知ろうとすることができるのだろうか。士友は冷静さを失ってずっと地面を叩きつけている。

見ていられるものではない。自信に満ち溢れてにやけ笑いをこぼしている平常時の士友が微塵にも感じられなかった。自分の無力さにただ打ちひしがれて、その苦しみをどうすることもできずにわめくことしかできない。その姿が香矢をどんどんと追い詰めていく。こういう士友を作ったのも香矢のせいだった。

同情するつもりもない。だけど……。

「分からないけど俺はこうする」

士友から離れて立ち上がる。士友の思惑は全部崩れて、古都も無事だ。このまま全部終わってもいいかもしれない。だけどそれが本当に正しいのだろうか。結局士友は自分の無力さの呪縛から抜け出ていない。香矢だって香に対する未練が残っている。そのようなものを抱えたままではまた思織みたいに古都をないがしろにしてしまうかもしれない。

結局何も変わっていない。その元凶は?何が原因でこうなった。

古都は気を失っているのか寝台の上で前と同じように健やかな寝息を立てている。さっきまで起きていたのが嘘みたいに。

そっと頬をなぞる。そのままさらけだしている古都の右肩にそっと指を当てた。どくんとあれが蠢いているのが分かる。その鼓動が自分の心臓と程よく合わさっていた。そのまま腕の傷を見て、香矢は一歩離れる。

古都の姿を見ると本当に喉がしめつけられそうだった。古都がかわいそうだと思うのに何も励ませられない。その励ましを言うのがこの口だと思うと喉が詰まりそうになる。自分がいたから古都を傷つけていた。本当は交わるはずのないことを巻き込んでいたのは完全に香矢のせいだった。

「古都。ごめん」

地面に落ちていた帽子と自分が羽織っていたマントを古都にかぶせる。香だったもの。自分を香らしくさせていたものを全部落とす。憑き物が落ちたように自分の体が軽くなった。それほど自分が空っぽだったのだろうか。

そんな空っぽの自分が引き起こしたものはとても多い。香も、士友も、思織も、古都もみんな香矢が巻き込んで、そして自分のせいで傷ついていった。悪いのは全部自分だった。何もかもが全部自分のせいだった。

温室から出る。すぐ右手を見た。驚くほど静かだった。何時もは枝葉に隠れている梟の鳴き声や視線さえ感じない。

ここに来るときに目に付いた斜面だった。絶壁とまでは行かないがまぁ大丈夫だろう。目の前には暗闇が広がっている。飲み込まれたら二度と戻れないようなぽっかりとしたのが開いている。何時も先が見えない暗闇だが香矢は別に何も感じなかった。

不安も、焦燥も、苛立ちも、悲哀も何もかもあの帽子とマントに置いていったかのようだった。そしてそっと目を閉じる。何も思い浮かばない。目を開いたときと同じで先の見えない暗闇が待っていた。

目を開く。思ったよりも早く決心がついた。

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たに 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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