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ビターチョコレート

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 「大事な話があるんだ。」


交際5年目になる修造からのそんな電話での呼び出しで私は少し緊張した面持ちで修造の家へ急いだ。
玄関で出迎えてくれた修造の服装はパジャマ兼部屋着のジャージ姿だった。彼女が家に来るのだから
それなりの装いをしてくれてもいいのではないかと思うのだけど、私はそこまで気にしなかった。
長い期間男女交際をする位に気の置けない間柄なのだから気にしないということがその理由の
ひとつだけど、それ以上の理由は気取らない自然体の彼の魅力に私が惹かれているからだと思う。
「早かったね。お疲れさん。」
彼は笑いながら私を見つめて、頭を撫でてくれた。頭のてっぺんから彼の手の温もりが伝わってきて
今日一日の仕事の疲れがその温もりに包まれてスーと身体から徐々に取れていくのがわかる。
「はぁ~~。……えへへ。」
ため息が声になって疲れと共に身体から抜け出ると、ついでに彼の家に来るまであった緊張も
なくなり、私の顔はほころんでいた。修造は今まで私の頭の上に乗せていた手を戻すと
また私に少し微笑みかけてからリビングへと踵を返した。私は片足を後ろに上げてハイヒールを
脱ごうとしていた時、ふとある違和感に気が付いた。今の彼の笑顔だ。口元は控えめに緩んでいた。
でも、目は笑っていなかった。私は見逃さなかった修造の少し淀んだ瞳を。
廊下を歩く修造の足音には何時ものようなスリッパが床に擦れるスパスパという軽快な響きがしなか
った。逆に私の表情から静かにほころびがなくなる筋肉のかすかな動きが聴こえてきた。


「あぁ、座ってなよ。今コーヒー煎れてくるね。チョコでも食べてて。」
修造に促され私はソファーにゆっくりと腰を下ろした。修造はチョコレートの中でもビターチョコレ
ートがお気に入りだ。甘いけどほろ苦い。その絶妙な味加減が修造にとってはたまらないらしい。
率直に言えば私にはそれが理解できない。もっとはっきり言うなら私はビターチョコレートが嫌いだ。
「あるぇ~?今日はやけに優しくない?まるで私お客さんみたいだね。」
「ぁはは…」
修造の笑い声はどこか乾いている。やはり何かが変だ。訝しげな顔をして私は台所へいく彼の大きな
背中を見つめた。でも、その後ろ姿は修造の普段とは違う様子の真意をうかがい知るには不十分な
思考材料でしかなかった。


「はい、はい、熱ーいコーヒーの到着ですよー。」
少しおどけた口調で修造は慎重にテーブルへと歩を進めながら銀色のトレイに乗せたマグカップを
持ってきた。調子はいつもと変わらないんだけど、その物腰には陽気さの隅にほんのりと哀愁を
漂わせている。何か無理して明るく振舞っているという印象だ。そう考え始めると、私の胸の中で
徐々にモヤモヤが曇りだしてきた。気分が悪くなりそうだったから私は修造にストレートに言った。
「どうしたの?なんか今日は修造変だよ。様子が。」
私の隣に座ってコーヒーをすすっている修造の手が止まり、マグカップのふちを口に付けたまま
修造の表情が固まった。そして、少しの間を挟んでから、修造はゆっくりとマグカップを
テーブルに置いた。修造の口の中に含まれていたコーヒーがゴクリと飲み干された。
ゴクリと鳴った修造の喉の音がはっきりと私には聞えた。
いつのまにかリビングは二人の間の緊張感を象徴するかのように静寂に包まれていた。


「大事な話があるんだ。」
「それは、さっき電話で聞いたよ。」
「そうだったね。」
「何?大事な話って。ねえ、何なの?」
私は焦っていた。早くこの居心地の悪い空間をぶち壊したかった。
だから、自然と私の口調には力が込められていた。
一方、修造の吐いた息は何故か震えていた。
そして、その震えた息に交じって次の言葉が修造の口から出された。
「別れよう。俺達。」


あぁ、そういうことか。
こんな時は思いっきり感情をあらわにするか、もしくはショックのあまり感情を引っ込めてしまう
か、どちらか一つだと思うけど、どうやら私は後者のようだ。さっきまで、胸の中にあったモヤモヤ
はすっかりと消え去っていた。すっきりしたはずなのに、なぜか悔しい。それは、走ることが嫌いな
中学生がマラソン大会の前日に明日は雨に
ならないかなと切に願っていたのに、当日はばっちり晴れてしまった。その晴れ渡った空を恨めしげ
に眺める中学生が持つ感情に似ているかもしれない。
傍目からはショックのあまりに放心状態に見える私に修造はまるで腫れものに触るかのように優しく
何かを話している。きっと、なぜ私と別れるのかその理由を話しているのだろう。
そんなことはどうでもいい。もういいのだ。
わかるでしょう。そんな話をされたら、大抵の女はどういう気持ちになってしまうのか。

「咲子、泣いてるの?」
修造はいつのまにか私の頬を伝う言葉になりきれなかった気持の粒を指でふき取ってくれた。
修造に伝えたい気持ちが言葉にならないのなら。
私は泣きながら修造の唇に言葉にできない気持ちを重ね合わせた。
修造は私の突然の行動にたじろぎながらも決して私の気持ちを拒もうとはしなかった。
お互いの舌を絡め合いながら、私は修造の口の中に広がるビターチョコレートの味に気が付いた。


それは、甘くてほろ苦かった。


修造と別れたその日私はやっとビターチョコレートを好きになれた。

   
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