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願う

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――屋根裏部屋に行くとね、梁のところにさ、いつも縄があったの。
 加奈は静かに、つぶやくようにしてそう言った。とぎれとぎれで、吹けば飛んでしまう枯葉のような、弱々しい声だった。
 加奈は手を皿の端に軽くそえて、もう片方の手で皿の上に乗ったコーヒーをスプーンでずっとかき混ぜている。さっきからずっとそうしている。時々カチャカチャという音が聞こえた。
 喫茶店の中はあまり繁盛していないのか客は少なく、聞き覚えのあるクラシック曲が流れている。落ち着いた感じの曲だったが、それでも彼女の細々とした声は、その静かな曲にさえかき消されてしまいそうで、ひどく聞き取りにくかった。
 彼女は顔をふせてコーヒーの渦の中心のあたりに視線を落としていたが、目はうつろで、どこかもっと遠くを見ているような、あるいはどこも見ていないといったような、そんな感じがする。
 加奈はコーヒーをかき混ぜながら話を続ける。話というのは彼女の祖母のことだ。加奈は自分のことも、家族や友人のこともほとんど語らなかったが、なぜだか祖母の話だけはよくした。
 祖母は四年前に亡くなったらしい。祖父は祖母が死んだ後痴呆が進み奇行が目立つようになったので、今は老人ホームに入っているそうだ。
 僕が彼女の祖父について知っているのはこれだけで、他には何も知らない。両親の話はされたことがないし、兄弟についてはいるのかどうかさえ聞いていない。彼女と付き合い始めて半年ほどになるが、結局彼女について知っていることなんてほんのわずかだった。
 加奈の祖母には一度も会ったことはなかった。顔も知らない。そんな人のことを聞くのは、なんだか覗き見しているような、妙な感じがした。
 ――縄はいつ見てもあったの。梁から吊るされてて、その先に輪っかがあって……。
 祖母は何度も自殺未遂を起こしていたそうだ。よく彼女の前で死にたいと漏らしていたらしい。そしていつからか屋根裏部屋には首を吊るための縄を見かけるようになったという。
 ――二階には両親の部屋と、屋根裏部屋があってね、わたしの部屋は屋根裏部屋のすぐそばにあったの。
 二階に上がり、ぎしぎしと音を立てる廊下を進むと、左側に加奈の部屋があり、突き当たりには屋根裏部屋がある。加奈はその前で立ち止まり、じっと扉を見つめる。
 ドアノブを回して扉をゆっくりと開けていくと、ギイイという鈍い音が鳴って、中からかび臭いにおいと、皮膚にまとわりついてくるような嫌な湿気が漂ってくる。
 部屋に少しずつ光が入っていき、使われなくなった本棚や壊れた時計などに少しずつ輪郭が与えられていく。顔を傾け、視線を上に向けると梁から首を吊るための縄がぶら下がっているのが見える。 
 加奈は入り口のそばに立てかけてある梯子を使ってのぼり、縛り付けられている縄をほどいた。
 ――縄は公園まで行ってゴミ箱に捨てたわ。毎日がそうで、ほとんど日課みたいになってた。
 加奈はあいかわらずコーヒーをかき混ぜている。でもね、と彼女は言う、いつ見ても縄があるの、いつ見てもだよ。
 加奈はスプーンを置きコーヒーを一口飲むと、皿に戻した。コーヒーはとっくに冷めている。加奈は顔を上げ、コーヒーに向けていた視線を僕に移した。光が届くことのない谷底のような、暗い目だった。
 加奈は少しの間僕を見つめた後、今度は顔を左に向けて窓の外を眺めた。そして忙しそうに通りを歩いている人の群れを、まどろんでいるような、眠たげな目でじっと見ている。
 そういえば加奈はよく眠る。休みの日は十時間以上寝るときもあるそうだ。以前こんなことがあった。大学で一緒に講義を受けているとき、加奈は始まってすぐに隣の席で寝てしまい、結局講義が終わるまでずっと眠っていた。机に顔をうつぶせて、時々何かつぶやくように口を動かしていた。講義が終わった後、なんか夢でも見てたのか、と聞くと、加奈はぼんやりとした顔で少し考えてから、暗闇の中で一人ぼっちでいる夢だった、と答えた。
 僕は加奈の横顔を見つめた。ガラス越しに差し込んでくる淡くやわらかな夕陽の中で、青白い顔がうっすらと赤みを帯びて浮かんでいる。
 目も鼻も細い顎も、どれをとってもきれいに整っていて、くっきりとした輪郭を保っているのに、全体を見るとどこかおぼろげで、すぐにでも光の中に溶けていってしまいそうな、そんな印象を受ける。
 加奈はテーブルの上に肘をのせて、頬杖をつき、ときどき右手で左手首をなぞるようにして擦りながら、店を出るまでずっと外を眺め続けた。
 
 ――生きてたってしょうがないやんか。みんなおばあちゃんのこと嫌ってる。死んだほうがええて思うてる。
 祖母は顔をうつむけて、つぶやくようにして言った。今にも消えてしまいそうな、か細く、弱々しい声だったが、加奈の耳にはやけにはっきりと聞こえた。
 外は雨が降っていた。それほど激しく降っているわけではなく、微かな雨音と湿った空気が二人を包んでいた。
 加奈は何も答えずに、ただ黙って祖母と同じようにうつむき、膝の上で握られた手の辺りをじっと見つめた。祖母もまたそれきり口を閉ざしていたが、やがて顔を上げ、加奈のほうに少しの間視線を向けた後、窓の方を眺めた。
 加奈も同じように窓の方を向き、雨音に耳を傾けていたが、頭の中では祖母の言葉が壊れたラジオのように奇妙な調子となって、何度も何度も繰り返された。
 ――でもね、本当は誰もおばあちゃんのことを嫌ってなんかいなかった。おばあちゃんもそれを知っていたの。でもおばあちゃんはそう思い込もうとしたんだ。そのほうが楽だったから。
 喫茶店を出て僕の住んでいるアパートに向かう途中、加奈はそんな話をした。もうじき春がくるとはいえ、外はまだ肌寒い。空を覆う雲を紅い夕陽がぼうっと滲ませている。
 ――本当は理由なんてなんにもなかったんだ。そういうのは生きるときに必要なんであって、死ぬのにはいらないの。
 彼女の話はいつも断片的で、どこか矛盾しているところもあって、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか、何が言いたいのかもよくわからない。ただ僕は黙って聞いてやるだけだった。
 ――屋根裏部屋に行くのは、すごく怖かった。ドアを開けたらおばあちゃんがいるんじゃないかって。でも開けずにはいられなかったの。
 でも加奈は、いつからか屋根裏部屋に入るのをやめたという。加奈は手を後ろに組み、僕の少し前を歩いている。ゆるやかな風が彼女の長い髪を静かに揺らしている。加奈は顔を上に向け、燃え残ったような紅が残る薄暗い空を見上げながら話を続ける。
 ――怖かったの。でもそれはおばあちゃんが死ぬことがじゃなくて。いつからかわたしは、おばあちゃんが死ぬことを望んでいたの。さっさと死んじゃえばいいと思ってたんだ。何度も何度もそう思った。そして縄を見ているときにそんな自分に気づいたの。
 僕は少し歩をはやめて加奈に追いつくと、彼女の手を握った。加奈の手首にはいくつもの傷痕がある。自分で切った傷だ。どうしてそんなことをするのかいくら尋ねても、わからない、と答える。
 僕は加奈の白く細い手首に刻まれた傷を思い、彼女の手を強く握った。加奈の体が微かに震えるのを感じた。加奈は顔を下に向け、自分の足元のあたりを見つめながら、人って思うだけで呪いをかけることができるの、とつぶやいた。
 何度も何度も強く思えば相手に届くのよ、と加奈は顔を上げて僕の方を振り返り、だからおばあちゃんは死んじゃったの、と笑った。

 その日の夜、加奈は僕の部屋に泊まった。
 加奈の体を抱いていると、心が落ち着いていくのを感じる。
 時々彼女が目の前にいても、本当にそこにいるのか不安になるときがあった。ほんの少し目を離した瞬間に、そのままどこかに消えていってしまいそうな、そんな存在の希薄さみたいなものが、彼女にはあった。
 こうして素肌を重ね、彼女の体温や匂いを感じているときにだけ、彼女は確かにここにいるんだ、と思うことができた。
 加奈の体はやわらかく、見た目よりもずっと豊かに感じた。
 彼女は細い腕を僕の首にからませて引き寄せると、ねえ、と耳元でささやく、わたしが手首を切るの、おばあちゃんのせいだって思ってるでしょ。
 僕は何も答えなかった。なぜだか心臓が高鳴って、体から汗が滲み出た。それが加奈に悟られないか不安に思った。
 ふふ、と加奈が笑った。
心臓の鼓動がまた早まるのを感じた。違うの、と彼女は言う、そんなんじゃないの。
 ――きっと原因なんかどこにもないんだ。多分これは不安でも恐怖でも何でもないの。だってそのうしろなんにもないんだから。だから誰にもどうすることもできないの。

 古びた木製の扉が、目の前にあった。
 ドアノブがひとりでに回り、扉は鈍く重い音を立ててゆっくりと開く。薄暗い空間に淡い光が差し込むと、埃が空中をくるくると舞うのが映し出される。
 扉が開いていくと部屋の中の様子がぼんやりと見えてくる。何か大きな影が浮かんでいるのが見え、それが光によって輪郭が与えられていくと、人がぶら下がっているのだと気づく。
 体つきから女だとわかった。両手をだらりと下げていて、首にはぼろぼろの縄が巻きついているのがうっすらと見える。顔はまだ薄闇に包まれていて判然としない。光が女の足元から上へ上へと照らしていく。やがて光は女の顔まで昇ってくる。女の顔は……。

 目が覚めると、天井にある染みが目に飛び込んできた。僕は体を起こして胸に手をあてた。鼓動が早まっているのを感じた。汗が体中にまとわりついていて気持ち悪かった。嫌な夢だったな、と思った。
 横で寝ていた加奈が、どうしたの、と尋ねる。僕が黙っていると、悪い夢でも見たの、とまた聞いてくる。僕は何も答えずに、カーテンから漏れてくる朝日に照らされた加奈の髪にそっと触れた。やわらかい感触が指先から伝わる。きれいな髪だな、とあらためて思った。加奈はねむたげな目を僕に向けて、どんな夢だったの、と問いかけてくる。
 僕は少し考えてから、暗闇に一人でいる夢だった、と答えた。加奈はじっと僕の目を見つめた後、そう、とつぶやいてふたたび瞼を閉じて、そのまま眠ってしまった。
 ――何度も何度も強く思えば相手に届くのよ。
 僕は加奈のその言葉を思い出していた。
 そしてすやすやと寝息をたてる加奈のあどけない顔をながめた。加奈がなぜ苦しんでいるのか僕にはわからない。彼女を苦しめるものには何の原因も理由もなくて、ただ「ある」だけなのかもしれない。彼女の言うように誰にもどうすることもできないのかもしれない。
 だからせめて僕は彼女のために願おうと思った。彼女の苦しみが消えるように、笑っていられるように。
 それは言葉にするとひどく陳腐で安っぽく思えた。口に出しただけで全部嘘になってしまう、そんな気がしたから、僕はただ心の中で思うことにした。加奈のために、この願いが届くように、何度も何度も強く願った。
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