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Iris

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 冷たい夜風の感触。不思議となつかしく思えた。気持ちいい。
 月と星が、すぐ近くに浮かんでる。ゆっくり、ゆっくり、遠ざかっていく。
 あぁ、また、落ちてるのね。
「……サキュバスって、皆、勝手なんだから……」
 胸に、両手を添えた。心臓の音。生きてる音。
 すごく悲しくて、嬉しかった。まっさかさまに、落ちてるのに、目を閉じた。
 気持ちいい。どこまでも、落ちてしまいたい。この気持ちのまま、楽になってしまいたい。
 なにもかも忘れて。眠り続けていたい。
 想いが、すべて溶けて、一つになってしまえばいいのに。
 一晩ぐらい、いいんじゃないかしら。そういう気持ちになったって。
「――今日は星が綺麗ね」
 眼をとじたまま、片手を伸ばす。夜の闇の一部が、すぐそこにあったから。
 黒い尻尾を掴んでやろうと思ったのに、するりと交わされた。
 仕方がないから、蝶々が躍るみたいに、手をひらひらって、する。
 ここにいるよ。捕まえて。そうしたら、
「願いごと、一つだけ、叶えてあげる」
「流れ星じゃ、ないんですからね……」
 捕まった。そのまま、一緒に落ちていく。どんどん。落ちていく。
 優しい匂い。色とりどりの花畑。
 舞いあがる。たくさんの気持ちを込めて。風に流され飛んでいく。きれー。
「夢ですか? 幻ですか? さっきゅん、幻覚症状の末期患者ですか?」
「どれがいい?」
「どれも嫌ですっ!」
 涙がこぼれ落ちたキスの味は、深くて、甘かった。
 
 十字架で作った小さなお墓がある。花畑の中に、ひっそり、眠るように、添えられている。
「――小さなご主人様のお墓です」
「うん」
「お優しい方でした。笑った時のお顔がとってもかわいくて、ご主人様とは、大違いなのです」
「うん」
「お花、私が植えたんです。綺麗ですか?」
「うん」
「お花は、食べられないんです。でも、綺麗なんです。だから好きです」
「――うん」
「綺麗な物を見るのは、幸せです。ご主人様が、笑ってくれるから、幸せなのです」
「――うん」
「すべてでした。あの子が、本当に、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ……! でも、もう、どこにも、いないんです。どれだけお願いしても、キスしても、目を覚ましてくれません。おはようって言って。お願いだから。わたしを見て、笑って。お日様の下で、一緒に手を繋いで歩きましょう。お腹が空いたら、湖で、一緒にパンを食べましょう」

「時々、ちっちゃい鳥がきて、パンを啄んでいきました。私は追い払おうとしたんですけれど、ご主人様は、平気で自分のあげちゃうんですよねぇ。お腹ぺこぺこのはずなのに。どうして、そんな風に笑えるのか、不思議でした。どうして私まで笑っていられるのか、不思議でした。
 パンは、街に行って盗んでくるしか、ありませんでした。石とか、ナイフとか、剣とか持って追いかけられます。でも平気でした。ご主人様が笑ってくれたら、それだけで良かったから。だから、泣かないで欲しかったんです。痛いの嫌って言われても、こまります。
 自分の怪我じゃないから、安心して。お願いですから、追いかけてこないで、って言いました。そうしたら、もうパンなんていらないから。一人にしちゃイヤって、我儘を言うんです。その時、思いました……あぁ、私が、パンを作れたらいいのに、って。
 あったかそうなスープとか、綺麗なお召し物とか、作れたらいいのに。私には、わかってましたから。身を飾る宝石がなくったって、ご主人様よりきれーな人、いないって。
 貴女が好きです。世界で一番大好きです。……今日みたいな、綺麗な夜の日に、約束しました。
 小さなご主人様は「うん」って言ってくれました。
 その時、はじめて、生きてるって、こういうことなのかなぁって、思いました。
 嬉しかったです。嬉しかったのに、なんでか、たくさん、泣いて。手を繋いで、眠りました。
 その日が最後でした。
 言いたかったこと、言えなかったこと、まだまだ、いっぱいあったのに……!」
 アイリスが泣きじゃくる。想いを全部吐き出すように、彼女の物語を綴っていく。
「怖かったんです。一人は、嫌でした。だから街に行きました。もしかしたら、新しいご主人様がいるかもしれないって、想ったから」
「うん」
「でも、やっぱりご主人様は特別なのです。ご主人様の代わりなんて、いませんでした」
「……うん」
「さっきゅんは、やっぱりヒトじゃないんです。ヒトがご飯で、ご飯がヒトなんですぅ。あーーーん、ほっぺにちゅーまでしか、らめなのにぃ~!!」
「うん、言いたいことは分かるから。思わず殴ってしまう前に、さっさと続きを喋りなさい」
「はぅあっ! そんな目で見られたら……あっ! ごめんなさいごめんなさいっ! 調子に乗りましたっ! あぁ! そこだめ! 尻尾はダメーーーーーーーッ!?」
「お話は、終わりかしら?」
「え……えぇとですね。そのうち、なんでこんな力を持っているんだろうって、嫌になっちゃいましてぇ、自分の紅い目が、とっても嫌になってきました。ほじくり出してやろうかなーって」
「ダメ」
 頬に手を添えて。その上に一つ、キスをした。
「そんなのダメ。許さないから。アイリスのきれいな紅い眼。好きなんだから」
「……ありがとう、ございます……」
 涙で汚れた顔。だけど笑ってくれた。アイリスらしい、馬鹿正直な笑顔で。
「……小さなご主人様にも、同じことを言われました。だから、出来ませんでした」
「とっても賢明な判断ね。感謝しておきましょう」
「はい……それから、ですね。ヒトと私の関係は変わりませんでしたけど、少しずつ、覚えていきました。パンの作り方とか、お掃除とか、お料理とか。でも、一人なのは変わらなくて、やっぱり、寂しかった。気がつけば、あきらめていました。きっと私は、これからもずっと一人なんだって」
「今は、違う?」
「はい。少し前、この場所で、一人で星空を見上げてた時に――――声が、聞こえたんです」
「貴女みたいな変態が欲しかったわけじゃ、ないんだけどね?」
「そんなこと言わないでぇ。あの真っ暗闇の中、ほんとに怖かったんですよー。もうらめぇ~とか思ってたら、手を掴んでくれて、とっても嬉しかったです」
「偉大な賢者の、生涯最大の失敗として、語り継がれるでしょうね」
「ひどいですぅー……あのぅ、今日は、お迎えに来てくれたんですよねぇ?」
「気が変わらないうちに、素直に頷いておきなさい」
「―――はぁい!」
 甘ったるい声で、ぺったりと身を寄せてくる。ゆっくり、押し倒された。
 下草の匂いと、冷たい夜の風。
 綺麗な星の中に、熟した花の香り。
 紅い瞳で、私を縫いつける。
「一緒にお家に帰ります。でも、急がなくても、いいですよね?」
 ゆっくり、頬にキスが落とされる。
 指がしなやかに動いて、留めていた服が、落ちていく。
 両腕を回して、それを迎え入れた。
「頬までしか、ダメなんじゃないの?」
「……フィノは、特別です」
 はじめて名前を呼ばれた。そっか、使い魔じゃ、なかったんだっけ。
 もう、彼女のご主人様じゃ、ないんだ。
「貴女のこと、アイリスって呼ぶから。一番好きな花の名前を、貴女にあげる」
「……大好き……」
 顔が火照った。耳の先から、手足の指先まで。どうしようもなく、求めてる。
「と、ところでっ! ここからどうやって帰ればいいの?」
「内緒です。知っていても、教えてあげません」
「一緒に帰るんじゃなかったの?」
「はい。でも、ずっとここにいてくれても、いいんですよ?」
 返事の代わりに、花畑にある、白い花を摘み取った。そっと触れさせる。
「それならもう、勝手にどこかへ行かないで。今度手間かけさせたら、今度こそ捨てるからね」
「……約束します。もう二度と、絶対、離れません」
「……うん」
 花びらが、掌からこぼれ落ちていく。花畑の海の中に、飲みこまれてく。
 彼女が迫る。ゆっくりと、淫らな唇が落ちてくる。
 眠るように、瞳を閉じた。












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