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気狂いエンブレイス

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 名前を与えられていない携帯電話が鳴り真耶は一体誰からだろうと首を捻った。最近はあの掲示板に書き込みをしていないのでその電話を鳴らそうとする相手など思いつかない。
 基本的に誰の番号も登録しないため、ディスプレイの並んだ数字を見やると、確かに見覚えはあるのだが、誰かと特定するには至らなかったものの、彼は殆ど迷う事無く通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『……あの』
「はい?」
『一万円の人の、番号だよね、これ』
 その疑問に苦笑する。どうやら以前に願いを叶えた誰かである事は間違いないようだ。
 どうやら相手のほうもこの番号を登録していなかったようではあるが。
「そうだよ。で、君誰?」
『……ブラッドだけど』
「……ブラッド……あぁ、ブラッド、思い出した。君か」
 しばし考えて夜の公園で出会った人物の姿を思い出す。
「どうかした? 願い事を叶えてから連絡してくる人なんていないから少し驚いたよ」
『…………』
「もしかして、本当に高井藤吾が死んだか確認とかじゃないよな。ニュースでも流れてたはずだから死んだのは間違いないんだが」
『そうじゃなくて』
「じゃあどうした?」
 まさか殺し方が納得いかないなんて事を言い出すんじゃないだろうな、そんな風に思っていたが、
『……あの、願いをもう一回聞いてほしいんだけど』
 その台詞で真耶は眉間に皺を寄せた。
「あー、悪いんだけどさ。基本一回だけって決めてるんだよね。そういうの切りがなくなるし。どうしてもって言うんならもう一回掲示板に書き込みしてくれるかな」
『そんなの、次いつ取れるか分からない!』
「そういうもんなの。だから皆必死になって権利を取ろうとしてるの。それで俺は願いを叶える。それに」
『え?』
「俺はいつも言ってる。どうしようもない事にも力を貸してやるって。本気だよ。なんでも叶えてやろうと思ってる。だから相手も、本気の願い事を俺に持ちかけてくる。後になって他の願いにしてもらえばよかった、なんて思うような軽いものじゃない」
 だから今まで再度願い事を聞いてくれ、と持ちかけてくるような相手はいなかった。
 面倒くさそうに答える。あの公園での相手の態度を思い出す。
 自分の願いが一体どんなものなのかも分からないまま、ただ思い付いただけで軽く願い、そして人を殺した事。
 彼が一番興味を持てないタイプだった。
(……まさか今頃罪悪感を持ったとか言うんじゃないだろうな)
 自首しようと思うなんて言われたらたまったものではないが、かと言ってそれを止める手段もまたない。そもそもそれなら自分に連絡してきた理由が分からない。しかし例え彼女が自分の事を警察に口走っても捕まらない自信が彼にはある。
 だが相手にそういうつもりはないようだった。
『お願い。頼る人他にいないの。この願いだけ叶えてくれたらもうこれから連絡しない。今度は本気だから。ねぇ、お願い』
 必死だ。
 そう思える口調だった。
 それは見慣れている。今まで願いを叶えてきた者達と同じ藁をも掴もうとする姿勢。
(人を殺す事にも無頓着だった奴が、必死になるような願い事、ねぇ)
「今度は本気だから、って半端なやつはよくそういう事を言う」
『……そうだけど、でも今度だけは違うの! 本当に聞いてほしいの! お金ならまた払う! 一万円より高くてもいいから!』
 わざと神経を逆なでするような言葉にブラッドは過剰な反応を見せる。しかしその怒鳴る口調には「なにを言われても離さない」と言う焦りが透けて見える。
 参ったなぁ、と苦笑する。
 やはり、俺はヒーローにはなれない。
 こうやって助けを求めてくる相手を、追い込みたくなるようなやり方を楽しむような奴がヒーローな訳がない。
 そして、人を殺す事にも無頓着でいた奴が、取り乱してしまうほどの願い事とは一体どんなものなのだろう、と興味を抱くようなやつはそもそも善人ですらないのだろう。
「しょうがないな」
『え?』
「今回は特別って事にしておいてやるよ。あと一回だけ願いを聞いてやる」
『……本当に?』
「あぁ、けどその前に一つだけ聞くよ。その願いに一万円払う価値はあるかい?」
 しばしの沈黙。
 そして、ブラッドと名乗った彼女が答える。
『……うん、一万円なんか安いくらい』


「山田君、仕入れ間違ってたよ。発注多すぎ」
「え、あ、すいません」
 太郎は春日の指摘に素直に頭を下げた。
 確かに裏を見てみると必要ないほど大量に商品が届けられており、太郎は「やってしまった」と大げさに頭をかいた。
「まぁ、腐るものじゃないからよかったけど気をつけてね」
「はい、すいません」
 最近はミスもなくなっていたのに、と太郎は久しぶりの失敗にだらけているのかもしれないと反省しながら、もう一度謝った。普段はぼんやりとしている春日も仕事はきちんとこなす事を当然と思っているらしく、間違いを見つけるとすぐに指摘してくるが、押し付けるようなものではなく太郎はむしろありがたいと思っている。
 実際にそれ以上なにかを言う事はなく、店内をあらかた見回し簡単に陳列などを終えると二人でレジに突っ立っていた。
「暇ですねぇ」
「まぁ、いつもの事だしね」
「この前、駅前のコンビニ行ったんですけど忙しそうだったんですよね。さすがにあんなに忙しいと嫌だけど、やっぱり少しはお客さん来てほしいなぁ。あ、でもやっぱり店員の態度はちょっと雑でしたけど」
「山田君、真面目だね。別に忙しくても時給が上がるわけじゃないのに」
「いやぁ、なんか働いてる気がしないって言うか、これでお金貰うの悪いなぁって言うか」
「まぁ、そういうふうに思う事もあるかもしれないね。あぁ、それと今更なんだけど」
「はい?」
「敬語使わないでいいと思う。山田君僕より年上だったんだね、今まで知らなかったから僕も普通に話してたんだけど、本当は僕が敬語使うべきだった」
 そう言えばお互い自分の年齢を伝えていなかった事を思い出した。態度が大人びているものの、その姿を見れば年下かもしれない、となんとなく太郎は思っていたのだが本当に今更の話題だったので彼は噴出してしまった。
「いや、いいですよ、春日さんの方がここでは先輩ですし」
 とは言えそれより先輩である清春にはさすがに敬語は使っていないが。
「今から変えろって言われてもちょっと難しいし。今のままで春日さんが嫌じゃなかったらこのままでいいです」
「山田君がいいなら、僕はいいけど」
「はい、そうしましょう」
 それなら、と春日は頷いた。そもそも客側からすれば二人の言動を見なければどちらが先輩かと言う事など分かりもしないだろう。傍目にはどちらの仕事ぶりもそれほど大差はないように見えるし、むしろ太郎の方がテキパキとした動きを見せている節すらある。
 太郎は外をちらりと見やる。車道を走っている車は速度を緩める事無く虚しく通り過ぎていき、歩道を歩く人達は、既にその手に買い物を済ませたらしくビニール袋をぶらさげていた。
「来ませんねぇ」
「うん」
「春日さん、暇な時って普段どうしてます?」
「どうやって暇を潰すかって事?」
「はい、仕事中でも、それ以外でもいいんですけど」
「特にこれといってなにかをする事はないかな」
「そうですか。僕は色々考え事とかしてます。多分他の人から見たらしょうのない事とかを延々と悩んだりしてたりするんですけど」
「そう」
「あの、ずっと前に居酒屋に行ったじゃないですか、清春君と三人で」
 春日が頷くのを見て、太郎は続きを言おうかどうか迷ったが、ここまで切り出しておいて引き下がるのも勿体無いような気がして続ける事にした。
「あの日、タクシーで帰った時、春日さんこう言ったんですよね。他の人達が持っている感情のうちの一つが欠けているって」
 返事は返ってこなかった。それを無言の肯定だと太郎は思う事にした。
「それってなんだろうって、たまに考えるんです。別にあら捜しをしているって事じゃなくて、僕から見た春日さんってそんなにこれと言って――偉そうな言い方になっちゃうんですけど――問題があるようには見えないんです。けど春日さんはそうは思ってないのかなって」
 確かに、考え方に相違がない訳ではない。一見事なかれ主義に見える言動も、それ自体は大した問題ではない。
「なんなんでしょう。春日さんに欠けているものって」
「さぁ、自分でも分からないな」
「へ?」
 春日が肩をすくめていた。太郎は予想外の返事につい間抜けな声を出してしまった。
 彼は、太郎に向かい軽く首を振った。
「と言うより、僕はそんな事を言っていた? 覚えていない。酔っ払っていたし、なんとなくそんな事を言ってしまったのかもしれない」
「え、けど」
「まぁ、そう言われて考えてみると、自分は他の人に比べて行動力が欠けているかもしれない、とは思うかな」
「行動力、ですか?」
「そう、もうちょっと能動的に動いた方がいいかもしれない、と思ったりする事はある。その事を言いたかったんじゃないかな。少し変な風に伝えてしまったようだけど」
 嘘でしょう?
 思わずそう言いそうになったが、彼の様子ではどのみちそう言ってもそれ以上の反応があるとは到底思えなかった。
「はぁ、そうですか」
 しかしもしかすると本当にそれだけの事だったのかもしれないとも思いもする。今まで彼を観察するように見る事もあったが、その中にあの言動を感じさせるような出来事を見かけた事もなかった。
 なんだか酷い肩透かしをくらったようで、太郎はしきりに何度も首を傾げていたが、やがて自動ドアが開かれ、反射的に太郎は振り向いたが、そこにいた人物を見て太郎は「あれ?」と目を丸くした。そこにいたのは清春で、今日は休日のはずだが制服を着ている。
「あ、ちわっす。ちょっとジュース買いに来ただけなんすけど」
「あ、そうなんだ」
 その言葉通り長居する気はないようだった。彼はペットボトルをレジへと持ってきて、春日がそれを受け取った。
「今日学校? 休みじゃないの?」
「あぁ、いや、学校は休みなんすけど」
 春日が尋ねると、清春はなんだか言いにくいのか渋面をした。
「いや、まぁ、うちの学校の奴が死んじゃって。これから葬式行くんすよ。だから制服」
「死んだ?」
「まぁ、死んだっつーか、俺もよく分かってないんすけど」
「どういう事?」
「……自殺らしいんすよね。まぁ、別に俺も顔出さなくても本当はいいんですけど、色々あって」
「へぇ、なんか大変だね」
「そうなんすよ。つー訳なんでちょっと行ってきます。あ、そだ、太郎さん」
「え? なに?」
「あのー……前に俺結構愚痴ってたじゃないですか」
「え、あぁ、あったね、それがどうかした?」
「まぁ、改めて言うとちょっとこっぱずかしいんすけど、太郎さんが言ってくれた事俺結構感謝してるんで」
「……そ、そう。そっか。そう思ってもらえたらよかったよ」
「はい、んじゃ」
 そう言い残し清春の姿が自動ドアの向こうにも見えなくなる頃、太郎は自分でも気付かぬうちに「はは」と笑みを零していた。その理由は明確で、だけどあやふやで、それでも確かな事は、先程の清春の言葉に自分が喜んでいると言う事だ。
(そうか……そうか)
 僕は、役に立てたのか。そうか。よかった。
 体が軽くなったように、小躍りするような歩き方で太郎はどこに行くわけでもなく、左右をうろうろと歩き回った。
 僕は、変わった。きっと誰かがそうだと思わなくても、僕自身は僕にはっきりと言う事が出来るだろう。
 数年間の廃れきった生活はもう終わった。
 ゆっくりとした足取りでも、僕は生まれ変わって、前進を今しているのだ。
(……自殺か)
 そんな太郎を見つめながら春日は、ぼんやりと考えていた。
 どうして自殺なんてするのだろうか。
 そんなにも生き急ぐ理由を彼は見つける事は出来ない。しかし確かに生きる事に価値はないようにも思う。
 そう、例えばこんな風に新しい人間関係が形成され、何気ない会話を行っていく事が出来るような関係になっても、きっと自分達はお互いの本質に触れてはいないし、先程のように触れられようとしても自分はそれをやり過ごすだろう。
 友人には、なれるだろう。
 しかしそれ以上にはきっとなれない。
 しかし、それ以上とは一体なんだろうか?
 それは特に必要のないもので、分からないままでもいいものなのだろうと彼は思う。
 神楽直子が首を吊って死んでいるのを見つけたのは母親だった。
 彼女は動転した頭で電話へと駆け寄ったものの、掛けた先が「110」だったか「119」だったのか、一体どんな事を自分が話し、相手がなにを言ったのかはもう思い出す事が出来ない。
「……崇、そろそろ行こうぜ」
「……あぁ」
 清春に声をかけられ、崇はそう言いながら走り去っていく霊柩車から視線を逸らせずにいた。
 結局、彼女はさっさと死んでしまった。集団自殺が出来ず、再び人を集めるのも面倒くさいから、もう一人でやる事にした、とでも言うように。
 彼女はどうして死のうとしたのだろうか。その理由を崇は結局知る事はなかったが、どうやってその理由はそんなにも簡単に命の重さを飛び越える事が出来たのだろう。自分はとうとうそうする事が出来なかった。
 その事に、今でも嫉妬を覚えている自分がいるのを自覚する。だがそんな考えに彼は首を振った。彼が自殺をしようとした理由である彼女の事を思い出す。そして本当に自殺したかった理由は彼女が原因だけではなかったのだろう、と彼は思う。
 追いかけようとして自殺をしようとしたのは確かだ。だが同時に、ただ、彼女がいない世界に耐えられなくてただ逃げ出したかっただけだったのが、本当の理由なのだったのだろう。
(……俺は、鈴がいない世界で生きていく事が怖かっただけなのかもしれない)
 今ではそう思う。
「あぁ、帰ろう」
 振り返り、そう声をかけた。
「おう、ほら……透も行こうぜ」
「……おう」
 清春は自分と同じ学生服を着ている透に声をかけた。だが、返事は嗚咽交じりでとても今すぐ歩き出せるようには見えなかった。崇はそんな彼にどう言葉をかけたものか分からずただ肩に手を置いた。その体が震えている。
 まさか、あの喫茶店でのデートの相手がこの透だったと言う事を後で知った時は驚いたものだった。どう考えても合いそうにない二人なのだが、彼の渡辺透と言う名前と、もうずっと以前に直子から聞いた「ノルウェイの森」と同姓同名の彼氏と言う相手と言うのが彼だったのだと言う事に気がついたのはその時だった。
 今日葬式に一緒に来てほしい、と清春に声をかけたのも透だった。幾ら同じ学校の生徒とは言え、クラスメイトでもない生徒の葬式に普段なら出向く事もないのだが、電話越しに聞いた彼の嘆願のような咽ぶ声に否定をする事は出来なかった。
 二人とは違い制服ではなくスーツを着ていた崇がネクタイに慣れないのかしきりに首元に手を伸ばしている。だがこんなところで緩めるわけにもいかず、もう一度肩を軽く揺すった。
「透、気持ちは分かるよ」
 静かにそう言う。
 きっと彼は彼女に恋焦がれていたのだろう。その彼女がこの世からいなくなってしまった事。
 その痛みは誰よりも理解出来る。そして理解出来るからこそ誰とも共有できないと言う事を分かっている。
 だけど、だからと言ってそれに触れない事が正しいのではないのだ。
 例え今は届かなくても、それこそずっと届く事がないとしても。その手を離すのは間違っている。そうしないと、誰もいなくなってしまう。誰かに触れようと思った時、誰も傍にいなくなっていたら、その時、本当に人間はダメになってしまう。
 だから今手を差し伸べる。無駄だとしても差し伸べ続ける。ただ待ち続けて。出来る事はそれだけだ。その手を取ってもらう日を辛抱強く待ち続けるだけだ。
「俺……先週、直子とデートしたんだよ」
「そうか」
「可愛らしいし、明るいし、いいなって思ってたよ……けどさぁ、そうやって二人でいると、ちょっとなんかこの子違うなとか思うところもあった」
 透はそれだけの言葉をとても長い時間を必要とした。
「ちょっと想像してたのと違うっつーか、なに考えてんのか俺にはわかんねーなってところもあって……でもさ、でも好きになってたんだよ。それでも俺あの子の事いいなって思ったんだよ。告白とかもしてないし、付き合ってた訳じゃないけど、けど俺はあの子の事好きだったし、これからも直子と一緒にいたかった」
 彼女も自分に期待外れを感じたのだろうか。想像していたような二人ではいられなかった事に失望したのだろうか。
 どうすればこの涙は止まるのだろう。
 どうすれば彼女は死ななかったのだろう。
 もし、自分が彼女にとって「期待通り」の存在であったなら、彼女が死を選ぶ事はなかったのではないだろうか? 言い換えれば彼女の死にたい理由に対して、自分が生きようとするそれ以上の理由になれていたとしたら――
「……彼女が死んだのは俺のせい――」
「――違うよ。透」
「…………」
「お前のせいじゃないよ」
 その声はとても穏やかで、透はようやく彼の方へとその視線を向けた。
「上手く、伝えられないけれど」
 あの女は、そういう奴だったんだよ。
 そう言う事も出来た。透とは違う視点から彼女を見ていた自分はそうやって表現する事も出来た。だがそれはやはりフェアではないように思う。あいつはちょっと狂った女で、お前がどうしようとしても死のうとする事を止められなかった、と言うのは容易いが、それは、透の中に存在する神楽直子ではない。
 だから自分が言えるのは。
「お前の彼女に対する気持ちが軽かったからとか、彼女になにもしてやれなかったとか、そんな事はきっとないんだよ。お前の思いが無駄だったなんて事は、絶対にない」
 彼の愛を認めてあげる事だけだ。
 なぁ、鈴。
 俺は生きるよ。お前の分も。そうして生きて生きてその先で、お前とまたいつか再会したなら――
 ほんの少しでもいいから、自殺した事を悔やんでくれたら、最期まで生きて、生き抜いた俺を見て軽く嫉妬でも覚えてくれたなら、俺はやっぱりそれを嬉しいと思うんだろう。


 道路の端で涙を流している直子の同級生らしい生徒の号泣している様子を、ヒッチコックはそこから更に離れた場所で見つめていた。
 彼女が死んでしまった事をあんなにも悲しんでくれる人がいる。
 それは彼女にとって幸せの事のように思えたし、自分自身も感謝を告げたいと思えた。
(直子、君は充実した生を送り、充実して死を迎える事が出来ただろうか)
 携帯電話を取り出す。そこにはおそらく首を吊る直前に送ったのだろうと思われる、彼女からの最期のメールが表示されている。
『お兄ちゃん、私今日死ぬ事にした。最後にお兄ちゃんに会いたいなぁ、と思ったりもしたけど(多分葬式には出られないだろうし本当にもう会えないね)やめとく。会って考えが変わる事はないと思うけど、お兄ちゃんの寂しい顔見てたら私悲しくなっちゃうから。うーん、やばい、最後のメールなのに言いたい事が思い浮かばないや。まぁ、今更改まるような事じゃないしね。でも最後のメールがこれだけって言うのもなぁ。あ、そうだ。お兄ちゃんさぁ、いっつもいっつも殴られてるじゃん。あれさぁ、やっぱやめたほうがいいよー、お兄ちゃんマゾだけどさぁ、かっこいいんだからもっと普通の人見つけられるって! どうせ言っても聞かないだろうけど、ね、妹の最後のお願いだと思って! 一回ちょっと普通の恋愛してみなよ。まぁ、私が言っても説得力ないかぁ。もし私が妹じゃなかったらお兄ちゃんの事凄く大事にするけどね! ま、お兄ちゃん相手してくれないだろうけどね! あ、でもそう思うと妹でよかったかな。お兄ちゃん私にはいつも優しくしてくれたもんね。お兄ちゃんがいなかったら私どうなってたかなぁ。小さい頃は私ずっとお兄ちゃんの後を追いかけてた気がする。お兄ちゃんがいなかったら多分私あのバカな親に振り回されてしょうもない人間になってたかもしれないね。今もしょうもないとかはなしで! うん、しょうもなくない。今の私が私は好きだな。ってなに言ってるか分かんなくなっちゃった。まー、要するにお兄ちゃんも幸せにならないとダメだよ。私みたいにね。ね! じゃ、お兄ちゃんバイバイ』
 絵文字が使われたその内容をきっと彼女は楽しそうに笑いながらうったのではないだろうか。
 そこにあるのは底抜けの明るさで、そして照れ隠しの混じった感謝だ。
(幸せに、か)
 携帯電話を仕舞い、先程の三人に視線を戻した。座り込んでいた学生服の男の子がスーツを着た――こちらも同い年くらいに見える――少年に支えられるように立ち上がり、ようやく歩き出そうとしていた。
(直子、君が死んだ事で、君の死を悲しむ人がいる事に喜んでいる今の僕は幸せだろうか、不幸だろうか)
 ――さぁ、でもそれってお兄ちゃんの不幸には全然関係ないよね。
 きっと彼女はそんなふうに言うのだろう。まるで自分の死で悲しむ事はあっても、残りの人生に不幸の影を落とす原因になる訳などないと悟りきったような顔をして。
 そうして付近に人の姿が見えなくなってくる頃にヒッチコックもその場から離れる事にした。住宅街を歩いて越え、開けた所に出ると止まっていたタクシーに乗り込んだ。運転手は黒いネクタイを締めた姿に気がついたからか、あれこれと話を振ってくる事はせず、静かにアパートまで車を走らせる。
 静寂の中、ヒッチコックは車窓から見慣れた街並みを見やる。
 見慣れた景色。雑踏。
 そこに直子を見つける事が出来ない。景色の中に直子の面影を見出す事が出来ない。
 家を出てから殆ど離れ離れだった。そうしてお互いの知らないところでそれぞれの生活を送り、そして各々の価値観を芽生えさせていった。
 それでも僕達は兄妹だった。
 直子、僕達はいつの日からか全く違う道を歩みだしたのだろう。時として擦違う事すらない正反対の道を。
 だけど、それでも僕は思う。あの日思ったように。今も変わらず。
 僕達はきっと正反対のようで、きっと同じ地平線に立ち、同じ光景を見ている。
「別れよう」
「え?」
「ここは元々君の家だ。僕が出て行くよ」
「ちょ、ちょっと待って。ヒッチコック」
「もう決めたんだ」
 アパートに戻ってきて、彼がこの家にやってきた時に持っていたバッグに荷物を詰め込んでいるのを見咎めた彼女にそう答えた。あの日から自分の荷物は殆ど増えておらず――彼女が買い与えた服などは必要ないので置いていく事にした――、短い時間でまとめ終えたが、彼女はそのバッグと背中にしがみついてきた。
「そんなのいきなりすぎるよ! 私なにかした!?」
「そういう事じゃない。もう君との生活を送るのをやめようと思っただけだ」
「な……なんで? おかしいよ。そうだよ、ヒッチコック妹さんが亡くなったからちょっと自棄になってるんだよね、ね?」
「そうだね、僕は少し自棄になっているかもしれない」
「そうでしょ? だから落ち着いてよ。悲しいけど――」
「だけどそれは妹に対する悲しみにであって。君とは関係がないものだ」
「……ヒッチコック! いい加減にしてよ!」
 そう叫んでも、彼が動じないのはいつもの事だった。
 それは彼女も分かっている。そしてそれからの行動も。
 ただ、殴る。
 そうしていつしかヒッチコックにその身を寄せる事になる。
 そうなればいい。そうしてこの意味の分からない唐突な別れ話もうやむやになってしまえ。
 そう思いながら手を振り上げた。だが、それがいつものように振り下ろされはしなかった。
 振り向いたヒッチコックがその手を払いのけた。その反動で彼女の体がよろける。片足が浮かび上がり僅かな距離を引っ張られるように後退する。それでも彼女が動転するのには充分だった。バランスを失った彼女の視線が泳ぎ、ぐらりと世界が揺らぐ。そしてそれを見越していたように、一体どうやったのか理解する間もなく、彼女の頬を目掛けヒッチコックの拳が振るわれた。
 多少の手加減はされていたかもしれない。だがそれでも彼女の体は床へと激しく転がされた。
(……え?)
 唐突の事に頭がついてこず事態を把握できない。ただ左の頬が焼けるように熱い。その痛みを伴う熱さに触れてようやく彼女は自分がヒッチコックに殴られたのだと言う事に気がついた。
「ひ、ヒッチコック」
「君もそうだったんだろうけど」
 床に転がる姿を見下ろしながらヒッチコックは呟く。
「やっぱり殴ったってなにも得られないんだね」
「ま……待って」
 それ以上ヒッチコックはなにも言おうとせず、バッグを取り上げると玄関へと歩き出した。彼女は床に思い切り打ち付けられたため体中が痛みを訴えていたが、それでも這うように彼を追いかける。
「待って! 嫌だよ、ヒッチコック! どこにも行かないで!!」
「君に伝えたほうがいい事が、それなりにあるんだけど」
 全身が軋み、それでも手を伸ばした。
「でも、このまま気付かないでいるほうがいいかもしれない」
 指先がバッグへと届く。長すぎる爪ががり、っと不快な音を立てた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私が悪いの! 直すから! ヒッチコックが嫌いなところ直すから!!
 手が届いた。腕を回しひきつけるようにバッグを掴もうとする。
「謝るような事はないんだ」
「じゃあ、別れるなんて言わないで!」
「君は殴っても殴られても結局最後は同じ反応になるんだね」
 その言葉にはっとする。確かに今の状況は深刻さを覗けば殆ど同じものだった。唯一つ殴る側が変わったというだけで。
 彼女の殴る理由。彼が殴られる理由。
 それはいつもうやむやで、だが明確な事もある。それはそうする事によってより彼へと依存していったと言う事。
「そ、そうだよ! ヒッチコック!」
「…………」
「わ、私、嫌な事があったら、いつもヒッチコックを叩いたりしてた! それをヒッチコックはいつも優しく受け止めてくれて! 私それに凄い助けられてたんだよ! あなたがいたから私今まで頑張ってこれたの!」
「…………」
「だ、だからヒッチコック、ヒッチコックが辛い時は私を叩いたらいいよ! こうやって今みたいに! 私受け止めてあげるから! ね!? 辛い時はお互いにそうしよう!? ねぇ、ヒッチコック!」
「残念だけど」
 彼女が叫んでいる。
 だけど、世界は今どうしようもないほど静かだ。
「僕は君を殴ったところで、君のように救われた気にもならないし、さっき殴ったのも単なる自棄になった延長線上の行為でしかない」
 足を一歩踏み出す。ずるりとした重みが遠ざかっていく。
「さよなら」
 バタン、とドアが閉まる。振り返る事無くエレベーターに乗り込み、エントランスを越えて外へとやってくるとなんとなく右へと曲がりそのまま歩き続けた。
 さて、これからどうしようとまるで不透明な明日からの事を考える。
 バッグの重みを肩に感じながら、彼は困ったものだと、苦笑した。
 参った。彼女の事をもう思い出すこともないと思ったのだが、こうやってすぐに思い返すことになるとは思わなかった。
 なんだ、分かっていないにしろ、忘れてしまったにしろ、それは彼女だけではなく、僕も一緒じゃないか。
 一体、幸せとはどんなものなのだろうか?
 まさか、そこから始めないといけなくなるとは考えていなかった。
(まぁ、いいか)
 時間は幾らでもある。きっと妹の願いを叶える事は出来るはずだ。
 いや、きっと叶えてあげよう。
 彼はそう心に決め、バッグを抱えなおすと先程よりも歩幅を広げる。
 きっと自分のような人間がそうなるには、きっと無限とも思えるような時間がかかるかもしれない。
 それでも妹の最後の願いへと歩き続けよう。
「……幸せとは」
 ヒッチコックは、思い出すように小さく呟く。
「それが叶った時、きっと妹のためだけにそうなったと言う訳じゃなくて、僕が望んだものであるべきだろう。なぁ、直子?」
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 寂しい、と言う感情はどうすれば消えてなくなるのだろうか。
 今まで自分がやってきた事は間違いだった。今彼女はそう思う。
 寂しさを埋めようとして、それ以外の何かを切り売りしてきた。
 そうしてその代償として誰かと触れ合う事で、寂しさは埋められたと思ってきた。
(……けど)
 だが今心の中にあるのはどうしようもない空虚ばかりで、自分の存在はちっぽけなものどころか、他人にとっての害ですらあり、そしてそんな自分は誰からも本当に必要となどされていないのではないだろうか、と強迫観念にも近いものだ。
 彼女はまるで支えを失った振り子のように不安定にふらつきながらそれでも指定された場所へと歩き続けている。
 寂しさは、消えない。それを否定出来ない自分がいる限り。


 バイトが終わると春日はいつものようにまっすぐ帰路へと足を向ける。
 それほど長い距離ではなく、人通りも少ないため、付近はいつも静かだった。
 ズボンのポケットからマルボロとライターを取り出す。石の擦れる音と同時に昇る火に口元を近づけ、程なくして白い煙が吐き出された。
「あ」
 いつもそうしながら声をかけられるのだが、その日は珍しく背中から声をかけられた。最初春日はそれが自分に向けられたものだとは思わず、気にする事無く歩き続けていたのだが「春日君、春日君だよね?」と名前を呼ばれようやく振り向いた。
 そこにいる見覚えのある人物に春日は一瞬なにを言おうか悩む。
「久しぶり」
 なんとなく、そう言うと相手は少し照れるような、戸惑っているような表情を浮かべ、
「うん、久しぶりだね」
 と口元を緩めた。
 彼女――もう随分前の事になる出会い喫茶で一日だけのデートをし、一度だけセックスをした此花怜がそこに立っている。
「偶然だねー、春日君元気だった?」
 彼女はそう言いながら少しずつ二人の距離を縮める。
 確かに偶然としか言いようがない。人通りが少ないとは言え、無人と言うわけではないし、聞いてはいなかったが彼女もこの辺りに住んでいて、むしろ偶然今まで出会わなかっただけなのかもしれない。
「それなりにやっているよ」
「そっか」
「怜ちゃんはどこか行くところ?」
 名前を呼ばれ、怜はまさか名前を覚えているとは思っていなかったので驚き、同時に少し嬉しくなる。そういえば彼に自分の名前を呼んでもらうのは初めてのような気がする。
「ちょっとブラブラしてるだけ。てか、名前呼び捨てにしてよ。ちゃんってなんか気持ち悪い」
「そう」と短い返事だけが返ってくる。そう言えば彼は無口であの時も、彼から進んで話そうとはしなかった。こんな風に二人でいると聞き役になるのは自分のほうなのだが彼とだとそれが逆になってしまう。いつもなら自分から話を切り出すのが面倒くさいと思ってしまうのだけど彼の場合は不思議とそう思う事はなかった。
「春日君は? 仕事の帰り?」
「そうだね」
「ふーん、これからなにかするの?」
「いや、特にないよ」
「じゃあ、ちょっと私に付き合ってよ」
 肩に下げているバッグの位置を直しながら、こちらを見上げてくる。短くなった煙草をそれでももう一度口に運んだ。
 断る理由らしきものは特に見当たらない。だがそれよりも彼女のあくまで軽い口調なのだが、そのくせ首を横に触らせないような有無を言わせない雰囲気を感じ、春日は「いいけど」と頷いた。とは言え、その有無を言わせないほどの理由が自分にあるとはまるで思えなかったが。
「なにかしたい事ある?」
「別にないけど。春日君ちってここの近く?」
「うん、歩いてもすぐだけど」
「じゃあ、家行っていい? 春日君の部屋見てみたいし」
「いいけどなにもないよ」
「いいよ。そうだ、映画でも見ようよ。私さっきDVD借りてきたから」
 怜はにこりと微笑んだ。
 そこにどうして強張ったようなものが加わっているのだろう、と春日は疑問に思う。


 冷蔵庫を開けて、お茶とアルコールしかないと言うと未成年である彼女は「じゃあお酒飲む」と悩む様子もなく答えた。缶を二つ持ちリビングへと戻ると「本当なにもない部屋だね」と珍しいものを見たとでも言うように笑う。
「あまりゴチャゴチャするのが好きじゃないんだ。そんなに必要に思うものもないしね」
「私が一人暮らししたら、もっと色々オシャレしたいな。家具とかもちゃんと選んで」
「女の子はそうだろうね」
「男だってそうだよ」
「僕はあまりそういうのに興味がないんだよ」
「春日君ってなにに興味があるの?」
「さぁ、なんだろう」
「自分の事だよ?」
「自分が一番自分の事を理解出来る訳じゃない」
 そう言うと彼女はしばらく考え込んだ。
「そうかもね。私も自分の事よく分からないし」
「きっとそういうものなんだろう。深く考える事じゃないと思う」
「でも自分の事間違って理解してても、それなりに自分を分かっている事ってあるでしょ?」
「うん?」
「だから、ちゃんと理解出来てなくても興味がなににもないって言うのは変じゃない?」
 からかうようにそう言われる。確かにその通りだと思いながらもしかし改めて興味があるものと言われても、特に思い浮かばなかった。
「ないね」
「変なの」
「そうかな」
「でも春日君っぽい。変だけど悪いとは思わないし。映画見ようよ」
 バッグからDVDを取り出す。一緒にバッグも受け取り部屋の隅のほうに置いておく。
 パッケージに書かれたタイトルを見ると、数年前に流行った娯楽的な内容のものだった。なにをしてもついていない男が、一目惚れした女性に告白しようと奮闘するが、なにをしても空回りしてしまうものの、最終的には告白は失恋に終わるがかけがえのない友人を得ると言う事らしいが、春日は今まで見た事がなかった。
「面白いのかな、それ」
「見たくて借りたんじゃないの?」
「よく分からないけど、なんか楽しそうなの見たいと思って」
 どうやら彼女もよくは知らないそれを再生させる。始まってほんの数分で主役の男が画面に近づき、こちらを見ながら頭を抱え絶叫した。
「うわ、気持ちわる」
 正面の位置でテーブルを挟んで座っている怜が悪気もなくそう言い、小さく笑う。角を挟んで座る春日はまだ内容にピンと来ていないようで酒をちびちびと口に運んでいるが、話が進んでもやはりそんなに面白いと思わないのか、それとも元々静かに見る事にしているのかこれと言った反応が示される事はない。反対に怜はところどころで笑いを零し、またしばらくしては笑ってその映画を見ている。
「バカだよね、ああいう男って」
「僕にはどうしてああいう行動を取るのか理解出来ないね」
「受けるよね。ああいうの。一生懸命だけど」
「そうだね」
「うん」
 そこで少し彼女の声が小さくなった。残り時間が少なくなり、映画は少ししんみりとした場面になっているが、ふと春日は彼女の方へと視線を向ける。それに気がついたようで怜もこちらに視線を合わせてきた。
「ねぇ、春日君一生懸命ってさ、映画じゃなくても他人から見るとこんなふうにバカみたいに見えるのかな」
「どうかな、さすがにこれは過剰に演出しているものだしね」
「そうじゃない、とは言わないんだ」
「滑稽だ、と思う人も中にはいるだろうね」
「春日君は?」
「僕は本人がそれをいいと思うのなら、いいと思うよ」
「じゃあ、今私がバカみたいでも、春日君私をバカにしたりしない?」
「どうしたの?」
 しかし、彼女はそれには答えず口を噤んでしまった。言いあぐねているようで、春日はその沈黙によって生まれる間を潰すように煙草に手を伸ばす。
 彼女は彼が吐き出して天井へと昇っていく煙を見上げていた。掴む事のできないそこになにか答えがあるとでも言うように。
 映画はいつの間にか終わっていた。スタッフロールと共に陽気なBGMが流れているのだが、彼女には結末などさしてどうでもいい事のようだ。リモコンを取り、停止ボタンを押す。
「例えばの話なら」
「え?」
「君があまり興味のなかった映画をそれでも楽しもうとして笑っていたとしても、別に悪くはないと思うね」
「……そんなにわざとらしかった?」
「君の事をそんなに知っている訳じゃないけれど、違和感を覚える程度には」
「私愛想笑いってあんまりしないからさ」
「普段しないものを別に僕の前でする必要はないと思うけど」
「そうだけど、多分、春日君にしてたって言うより、自分に向けてしてたのかな」
 そうだろう、と内心で頷く。
 こちらから切り出してあげるべきなのだろうか。
 彼女はなにかを言おうとしている。ただ、すぐに切り出すと言う事が出来ないと思っているようで、ワンクッションを置くためにこの映画も借りてきたのだろう。
 しかしそうなってくると彼にはどうしても腑に落ちない点がある。
 どうして偶然出会ったはずの彼女が、タイミングよくそんなものを持ち合わせていたのか。どうやらレンタルらしいそのDVDをまさか自分に会うまで借り続け、常にバッグに携帯しているとは到底思えない。
 それとも偶然であったのが自分と言うだけで、誰でもよかったのだろうか。
 そう考えていると、彼女が口を開いた。
「あの、春日君に聞いてもらいたい事があって」
「僕に?」
「そう、春日君に」
「僕で聞ける事なら」
「別になにかしてくれって訳じゃないから」
 彼女が再び取り繕ったように笑った。無理やりにでも笑わなければ、なにも出来なくなるからと言うように。
「私今までなにも考えず生きてきたんだけど」
 テーブルの缶は殆ど口にしていないようで、水滴が纏わりついていた。
「私、殺しちゃった」
「殺した?」
「うん」
 その意外な一言にそれでも春日は落ち着いた声音で答えていた。
「人、殺しちゃった。私の、お父さん」


「一万円で願いを叶えてくれるって話知ってる?」
「ネットの? 話くらいは聞いた事ある。眉唾ものだと思っていたけど」
「そう、それ。それにね、頼んだの。お父さんを――高井藤吾って言うんだけど――殺してって」
「なんでそんな事を?」
「うちさ、離婚したんだよね、ずっと前に。お父さんは私とママを置いてどっか行っちゃったの。残されたママはそれでも頑張ってずっと私を育ててくれてたんだ。でも大変だったと思うの」
「そうだろうね」
「うん、私さ、そのせいでお父さんが大嫌いだったのね。て言うか自分の事もあんまり好きじゃなかった。自分勝手にママを見捨てたあの人も許せないけど、それよりさ、私がいなかったらママももっと違う人生があったと思うの。私が言うのもなんだけどママは綺麗だし、多分、私がいなかったら他に彼氏見つけてやり直すとかってのもありだったと思うんだけど、私がいたからママは私を育てる事で一杯一杯でさ」
 一度切り出すとその続きを言うのはそれほど難しくはなかった。それでもまだ頭の整理をうまくする事ができず、うまく言葉にする事が出来ない。
「私が死んだら、ママも好きに生きられるのかなって思った事もあったけど、多分ママ悲しむから、それはしないほうがいいんだろうなって思ってた。でもずっとなんかムカつくって思ってたのね。私さ、それお父さんのせいだって思ったんだ」
「そう」
「あいつはママと違って好き勝手生きてるのかもしれないと思うと凄いイライラしたの。あいつがいなかったらこんな事にはならなかったのにって。それで……その」
「一万円で願いを叶えてもらおうとした? 復讐をしたかった?」
「そう、そう言う事。死んじゃえばいいのに、って思って。あいつなんか生きてる価値がないって。でも私、あいつが今どこにいるかなんて知らなかったし、調べようもなかったから、どうしようもなかったんだけど……あの日、取っちゃったんだ、掲示板の権利」
「権利?」
「ネットでね、最初に書き込みをしたら、願い事を叶えてくれる権利をくれるの。私がそれを取ったんだ」
「それで、君は父親を殺してほしいと頼んだ」
「うん、本当に出来るのか分からなかったけど、あの人は本当に一万円で殺してくれるって言った。それから少ししてニュースで高井藤吾って人が死んだってやってた。最初は名前が同じだけで別人かもって思ったけど、その事で家に連絡が来たの。ママは驚いてたみたいだけど、私はそれであぁ、本当に死んだんだって」
「じゃあ、殺したのは君じゃなくて、その――男? と言う事か」
 だがだからと言って彼女に罪がないという訳ではないだろう。それは彼女も分かっているようだった。
「うん、なんかその人も言ってた。誰かに頼んで殺してもらっても罪は殆ど変わらないって。どうやって殺したのか知らないからばれるかどうかよく分からないけど、ばれたら私も捕まるんだと思う」
「そうだろうね」
「……バカな奴だって思うでしょ? 自分でも思うし」
「君の怒りがどれほどのものか僕には分からないし、僕は誰かを殺したいと思った事もないから、正確に君の心情を理解する事は出来ないと思う。だからなんとも言えない」
「冷たいね、春日君」
 久しぶりに見る彼の姿をじっと見つめる。あの日と同じようにその陶器のような表情からはなにを思っているのかを把握するのは難しかったが、果たしてそんな風に裏側を探ろうとする必要などあるのだろうかとも思える。
「その時、君は殺したかったんだろう?」
「うん……そうなのかな」
「それを君自身や、他の誰かが止められないものだったのなら、それはしょうがない事だったんだろう」
「人を殺したなんて最低だって思わない?」
 どうして?
 ゆっくりと首を横に振る。
「僕に言えるのは、事実として君が考えた末に殺すと言う決断をしたのだと言う事だけだ」
 春日さんも狂っているんですよ。
 笑いながら神楽直子はそう言った。きっとそうなのだろう。
 だがそれはなんの意味ももたらさない。
 自分の判断によって、世界になんらかの影響があろうとなかろうと、そんなものは二次的な要素でしかない。
 彼にとっての正常とはつまりそういう事になる。
 狂気と正常は、共存している。そう、彼女のように。
「高井藤吾を君が殺したいと思う理由が存在していた。その理由は殺さないでおくと言う選択肢を外すほどの事だった。それだけの事なんだろう。もしかすると、僕もいつか君に殺してやりたい、と思われて、実際に殺される事になるのかもしれないけれど、それでも、別にそれを否定するつもりはない」
「春日君にそんな事しないよ」
「そうだね、僕もそう思うよ。別に君が誰彼構わず気に入らなければ殺そうとするような子ではないと思う。要するに、そう言う事なんだろう。他人の中に一人くらい本気で殺したい人間がいたと言う事だ」
「けど、一人でも殺したら犯罪だよね」
「君は僕に悪い事をしたと言ってもらいたいのか?」
「分かんない。でも私は悪い事をしたんだって思ってる」
「君がそう思うならそれもいいし、それに同意をしてくれる人間は僕以外の人を探せば幾らでも見つかるだろう。自首をしろと言うかもしれないし、罪を償えと言うかもしれない」
「春日君は?」
「君が自首する気がないのなら、それはしょうがないね」
「する気、ない」
 自分を卑下するような口ぶりで、それでも彼女ははっきりとそう言った。
 その理由は自分が捕まったらママは悲しむ、と言う到底身勝手なものだが、彼女にとってそれはどうしても許せる事ではなく、そしてそれ以外の理由は存在しない。
「それに正直、今になっても実感ないの。あの人が死んだ事に」
「妙だな」
「え? なにが?」
 ふと今まで平坦と話していた春日の口調がどこか釈然としないようなものに変わった。
 彼はその疑問を自分の中で整理しようとするかのように新しい煙草に火をつける。
 先端が赤く染まり、それが今度は白くなると彼は尋ねるようにして口を開いた。
「いや、僕は君がてっきりはっきりと明確な意思を持って父親を殺したと思っていた。そしてもしそうなら、例え直接殺した訳じゃなく、死体を見た訳でなくても、死そのものに関心を惹かれない訳がないと僕には思えるし、もし実感がそれほどに希薄なら、君が僕に事実を告げようとしながらもああも言いよどんだ理由が分からない」
「……それは、やっぱり殺人って大事だし」
「いや、君は大事だと思っていない。だから実感を得ていないんだよ。それに僕が感じていた違和感の正体もそう言う事なら理解出来る」
「違和感?」
「君の人を殺した理由が軽過ぎると言う事だ。もしかすると君は殺してくれ、と頼んだ時それがどういった事なのかよく分かっていなかったんじゃないのか? 人が死ぬ、と言う事がどう言う事かを分かっていなかったと言ってもいい」
 まるで見ていたかのように言い当てられ、怜は返す言葉を失っていた。もっともそれはなによりの肯定である事に他ならない。
「だけど今は違う。君は死と言うものの存在をはっきりと認識している。命を奪う事を悪だと認識しているし、死と言うものを恐れているかもしれない。だけどその認識は、君の父親の死によって生まれたものではなく、その後に全く関係のない事から生まれたんじゃないのか? それとも……」
「……それとも?」
「もしくは、死への概念などどうでもよく、それ以外の事が君を悩ませていて、実はこの話もそこに至るまでのワンクッションでしかないと言う場合」
 命より大切なものはあるか?
 もしそう問われたらイエスともノーとも答えられるだろうと春日は思う。
 大切なものなど、この世には存在しない。それは命もそうだ。全ての事は横並びで、自分――おそらく自分以外の殆どの人間はそうではないのだろう――はそれを眺めながらその時の気分で選びたいものを選ぶと言うだけの繰り返しでしかないのだと彼は理解している。当然、感情もそこに含まれる。
「君の寂しいと言う気持ちは僕には分からない」
 だから、そう言う事しか彼には出来ない。
 彼女の寂しいと言う気持ちが、ただ一人ぼっちから来るものではなく、誰かから心から必要とされたいと言うものだと言う事を聞かされても、自分にはないそうした感情を、彼女にとって「どう受け取っても好ましいものとして伝えられる事」は決して出来ない。


「怜は酒はあまり飲まないの?」
 再び黙り込んだ彼女にそう尋ねると、彼女はこくんと頷いた。それを聞いて立ち上がり、グラスにお茶を注ぎテーブルに置くと彼女はそっと手を伸ばした。よっぽど喉が渇いていたようで、グラスの半分ほどを一気に飲み干してしまう。
「……ごめんね」
 しばらくの無言が続き、ようやく出てきた彼女の言葉がそれだった。
「どうして?」
「こんな話に付き合わせちゃって」
「気にしないでいい。あまり誰にでも話せる事でもないし」
「うん。私ね、どうしても春日君に会って、聞いてもらいたかったんだ」
「僕に?」
「うん、春日君はちゃんと聞いてくれる気がしたから」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど、生憎君が気に入る返事を出来そうにはない」
「ううん、そう言う事じゃなくて多分私が言いたい事を本当に理解してくれるのって春日君だけだと思ったから」
 彼女がそう言うならそうなのだろう。そう思う事にした。
「だけど、僕に会えるかどうかなんて分からなかっただろう? 今日こうやって出会わなかった可能性もある」
「それはないの。春日君が今日バイトで。帰りにあの道を通る事は知ってたから」
 自分が今バイトをしていると言う事を彼女に教えた記憶はなく、春日は眉根を寄せた。
「頼んだの。春日君の事探してほしいって。もう一回一万円払って」
 それならば彼女がDVDをタイミングよく持っていた理由も理解できた。だが自分の素性が探られていたと言う事には多少驚きを覚える。彼女との接点はあの出会い喫茶だけで、個人情報などせいぜい名前程度しか彼女には伝えていないのだが、それだけで自分を探し当ててしまうとはよほどの情報収集力が必要なのではないだろうか。
「信じられないな」
「私も。お父さんの事もすぐに見つけたみたいだし」
 その点には彼女も同感のようでしみじみと頷いた。
 もう一度お茶を飲み、ほぼ空になったグラスをテーブルに置く。
 そして、一度大きく深呼吸をした。
「なにから話そうって思うんだけど」
「うん」
「私、不倫してたの。春日君と会う前から付き合ってたんだけど」
「あの時、特定の相手はいないと思っていた」
「私も相手も別に愛し合ってたわけじゃなかったから。ただお互いに都合がよかったって言うか」
「君はその相手に寂しさを埋めてもらおうとしていた?」
「うん、そう。でも本当言うと私その人の事全然いいと思ってなかったの。ただ後腐れがなさそうってだけで。向こうもそんなに入れ込んでた訳じゃなくて、適当に遊んで適当にエッチするって感じ」
 淡々と彼女は述べる。
「やっぱりフィクションだって思ってたんだと思う。多分、都合が悪くなったらすぐに終わる関係で、そうなったら何事もなかった事になるんだって。それにあの時春日君が言ってたでしょ、役割は自分で付ければいいって」
「あぁ、そうだったね」
「あの人の役割は、暇潰しでしかなかったな。恋愛相手には絶対ならなかったし、寂しさを埋めてくれる人にもならなかった」
 自嘲気味に言って、彼女はテーブルから体をずらすと、両手を上に伸ばして「うーん」と背伸びをした。「大丈夫?」と尋ねると彼女は「うん」と頷く。「結構落ち着いてきた気がする」しかし、その暇潰し程度の存在でしかなかった男が一体なんだと言うのだろう? そう思うが春日は急かせる事もなく、彼女の話をゆっくりと待つ。
「それでも離れられない自分がいたんだよね。そこにずっといるのはその時はあの人だけだったから。その内もっといい相手が出来たら私から離れる事もあっただろうけど」
「今はそうでも、これからは違うかもしれない」
「そうだけど、もうその人とはそういう事ないの」
「なぜ?」
「その人奥さんが殺しちゃったの。まぁ、私のせいなんだけど」
「浮気がばれていたの?」
「多分。疑われてるって言ってたし。適当な人だったから私も気にしてたんだけど」
 怜が「ちょっと前にニュースでもやってたよ」と言うが、春日はどれがその事件だったのかは判別しかねた。怨恨での殺人事件によるニュースなどそれほど毎日のように流れていていちいち記憶する気にもなれない。
「それでね、私思ったの。怖いなって」
「殺される事が?」
「うん、それもある。もしかしたら私も殺されてたのかもしれないじゃない? 浮気の原因は私なんだから。恨まれるのも当然だと思うし。あの人が死んだって聞かされた時、あぁ、死ぬって怖いんだな、誰かが誰かを殺す事って恐ろしいんだな、って思ったんだけど、それより」
 それより。
 死よりも怖い事。
 その怖い事に怯えて思わず彼を求めた事。
「私さ、お父さんを殺す時、あんな人はこの世に必要ないって思ったんだよね」
「だから死んでも構わないと思った?」
「うん。あいつは人間として最低で、生きていてもしょうがないし、多分私以外の人間もそう思ってるって思ったの。あいつの事をいいと思う奴なんているはずがないし、死んだって悲しむ人なんかいる訳ないって。だって殺したいって思われるような奴だもん」
(……あぁ、要するにそういう事か)
 春日は、ようやく彼女がなにを言おうとしているのか、彼女が恐れたものとは一体なんだったのかをようやく理解した。
 それは、きっと彼女だけが知る恐怖だ。言い方を変えれば、彼女だからこそそれは恐ろしい。
「じゃあ、奥さんに殺されるかもしれなかった私は? 殺してやりたいと思われていた私は? やっぱり生きていてもしょうがないのかな。私はそうやって恨まれるような人間で、誰も私の事本当に必要だなんて思ってくれないのかな。私が寂しくて、誰かに一緒にいてほしくても、私の事を本当に思ってくれたり、愛してくれる人なんてどこにもいないのかもしれない。ただ都合のいい時だけ優しい顔をしてもらって……そういう事なのかなって」
 彼女が恐れたのは、死ではない。
 生きる事だ。
「私、今までずっと寂しかった。誰かに構ってほしくて、でもその度にうまくいかなくて。なんでだろうってずっと思ってたの。分からなかった。でも、そう思った時、こう思ったの。しょうがなかったんだって。だって私は元々誰からも必要とされる存在じゃなかったんだって」
 誰からも必要とされず、それでも生きるという事。 
「私耐えられないよ。ねぇ、春日君、私ね、自分でも分かってた。私に近づいてくる人達は私の事を愛してくれていないけど、私も愛していなかった。でも、私だってずっとそうだった訳じゃないんだもん。私だって、ちゃんと人を愛してた事あったもん。でも裏切られて、それが悲しくて、そんな思いもうしたくなかったから、楽な関係に逃げてた。でも、本当はやっぱり愛されたい。私も、本気で人を愛したい」
 涙。
 その透明な雫はその中になにを含んでいるのだろう。
 きっとそれは体内に留めようとするとなにもかも焼き尽くしてしまうような熱だ。
 その熱は時を問わずくすぶり続けている。まるで踊り狂う事を待ち侘びているように。
「怜、君の寂しいと言う気持ちは僕には分からない」
 誰かはその熱に飲み込まれる。
 そして誰かはその涙に救われもするのだろう。
 たったそれだけの事。
「だから僕が言える事は君にとっていい事とは思えないかもしれない」
「……え?」
「君が言っている事は僕は間違っていると思うね。誰かが君を拒んだからと言って全員がそうだと言うのは早計だと思う。もしかすると君はこう思っているかもしれない。例えば母親は思ってくれているかもしれないが、もし父親を殺したのが自分だと分かるとそうではなくなるかもしれない。更に言えばそう言う事になっても母親は理解してくれているかもしれないと君は思っているのかもしれないが。もしそう思うのなら君の中での寂しさはあくまで母親を除いたものなんだろう。だけどそれは咎めるような事ではないと思うね。どうしてもそういう存在は切り離して考えてしまうものだ。いつかは親から子は旅立つものだと言う考えがそうさせるのかもしれない」
 べらべらと、喋った。
 思う事を、喋った。
「その上で言おう。関係ないね。ある特定の個人の思考なんてものは集団においてなんの意味も価値もない。個人にあるのは感受性と言う名の判断だ。君は今他人の死と感性をそういうふうに受け取った。そう、そういう事だと思ったのは、誰かじゃなく君だ。君がその事をそういうものだと思っただけだ。人はよく集団生活に飲み込まれるというけれど、実際にそんな事は欠片としてない。もし本当に飲み込まれているのなら、この世に人と人との間に生まれる問題の殆どは起こりすらしていないだろう。結局そこにあるのは無数の個人の個性であり、なにかある度に問題が起こるのは得てして能動からではなく、受動からだ。要はある現象に対しての様々な反応が歪みを生じさせる。今の君もそうだ。君はきっと寂しいという事、誰かに必要とされる事、その事に関してとても繊細なんだよ。だからそういう解釈をしてしまった。だけどね、君の目の前にいる僕と言う他人は、君の話を聞いた上でこう思う。それは、君の存在を否定するような事じゃない。僕はそう思う。例えそれが自分の身に起こった事だとしても僕はきっとそういう判断をするだろう」
「……私は――」
 ――今の私でもまだ必要としてくれる人はいるの?
 その言葉を彼女はどうやら口にしていいものか迷っているようだった。
「そう思えないような理由はどこにもないと、僕は思うね。君がやり直せばいいだけの事だと」
「本当に?」
「本当に」
「だって私、人殺しだよ」
「ばれなければいいと思うし、ばれても気にしない人もいると思う」
「嘘だよ、そんな人いる訳ないじゃん」
「実際に僕は気にしない」
「なんで?」
「僕は普通の人なら誰もが持っている感情の一つが欠けていると思う」
 罪悪感。
 春日は彼女にそう答えた。
「許されない事なんてないと言ってもいいけど、それ以上に許せない事なんてないと思う。誰かを傷つけても、誰かを欺いても、その事で誰かが悲しんでも、そんな事はどうでもいい事なんだ。僕にとっては」
「じゃあ、私の事本当に気にしないの?」
「そうだね。僕は日々がスムーズなものであればそれでよくて、そうなるなら多分――それ以上面倒にならない程度に――なんでもするだろうね」
 だから、といつものように縦なのか、横なのか、判断しかねる角度で彼は首を振った。
「さっきの僕の言葉に君が傷ついたとしても、僕はそれならそれでしょうがないと思うし、もっと優しい言い方をすればよかったと申し訳ない気持ちになる事もないね。ただ、先に言っておくけど罪悪感がないからと言って適当に言ったつもりもないし、本心からそう思ってる」
「……なんかいいのか悪いのかわかんないよ、それ」
「君が好きに解釈をすればいい」
 そうして彼女はしばらく考え、どうやら好意的に解釈する事に決めたようだった。
 怜にお茶をもう一杯もらえるか、と言われ、頷き冷蔵庫まで戻る。ついでに自分の分のアルコールも取り出し、リビングへと戻るとその間になにやら考えていたようで、彼女は腰を下ろした春日に首を傾げてみせる。
「でもさ」
「なに?」
「よくよく考えたらさっきの話おかしくない? スムーズにいくのがいいんでしょ? だったら私が悪いように受け取ってたら面倒くさくなってたかもしれないわけでしょ? だったらやっぱり私が絶対いいと思うような事を言った方がよかったんじゃないの?」
「あぁ、なんだ。そんな事か」
「そんな事って」
「ラブホテルで僕が言った事覚えてる?」
「どの事?」
「君の事、いいと思う。そして僕がいいと思った君は、多分僕が言った事をいい事として受け取ってくれると思っていたから、無理をして君が好む台詞を選ぶ必要はないと思った」
「……え、え?」
 その思いもよらない言葉に怜の頬が少し赤く染まった。それを見ながら春日は缶の口を開ける。プシッと言う音がして柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐる。そうしている間も彼女は硬直し切っていて、パクパクと口だけが動いている。
 その様子に春日は、なんとなく微笑んだ。
「乾杯」
 テーブルに置かれたままのグラスに、勝手に缶を軽く当て小さく音を立てた。置いてきぼりを食らったかのような怜は少し頬を膨らませながら、拗ねたようにグラスを取ったものの、
「私も、春日君の事いいと思う。多分会った時より」
 と小さく呟いた。そして愚痴るように「だったらあの時番号教えてくれたらよかったのに」とも。
58, 57

  

「ねぇ、春日君」
「ん?」
「私、春日君の事――」
 そう言いかけた時、それをくじくようなタイミングでインターホンが音を立てた。ふいと玄関の方に視線を向けられ、怜はその続きを言えなくなってしまう。春日がドアを開けるのを恨めしそうに見る。小さく話し声がこちらにも聞こえてきて、どうやら女のようだとすぐに気がついた。
「いよっう」
「やぁ、どうしたの?」
「別に用はないんだけど暇だったから。前は一緒に飲めなかったし。今日どうかなって」
「今、人が来ているんだ」
「え? 春日君ちに人が来るなんて珍しいね」
 声だけを聞くと余り自分と変わらない年頃のようだった。内容もなんだか日頃から打ち解けているような、そんな素振りを感じさせられて、思わず胸にちくりとした痛みを覚える。
「あれだったら三人で飲むとか」
「……ちょっと聞いてみる」
 誰?
 戻ってきた彼に視線で訴えようとするが、どうやら正確には伝わりきらなかったようだった。
「隣に住んでいる人なんだけど」
 なんだけど。私が知りたいのはその続きなんだけど。
「一緒に飲まないかって言っているんだけどどうだろう? 嫌なら別に断ってもいい」
「私が決めるの?」
「どちらでもいいの?」
 確認するように首を傾げられ、彼から見えない場所でぎゅっと掌を握り締める。
 春日君が、今は無理なんだ、って言ってくれればいいんじゃないの?
 そう言いたくなるけれど、しかし彼らしい言動だと言うのも確かで、彼女はその嫉妬と嫌味がごちゃ混ぜになったような感情を押さえ込めようとする。
 せめて、と言うように彼女はわざとらしい溜め息を一つ吐いた。
「いいよ、別に」
「そう」
 再び玄関へと戻る彼の後ろ姿を見ながら、ならせめてその親密そうな関係の女が一体どんな顔をしていて、どんな性格の持ち主なのかみておいてやろう、と考える事にした。それはほんの少し片思いに近い相手が親しくしている人間を観察したい、と言う可愛らしいものでもあるし、そんな相手だからこそけちをつけてやりたい、と言ういやらしさも混同している。
「あら」
 だけどそんな風に考えていた彼女に対し、顔を見せた女は自分以上にこちらをまじまじと見つめてきた。
「はじめまして」
「……どうも」
「若いのね、ビックリしちゃった」
 あまりに見つめられるので、つい視線を逸らしてしまう。その反応を楽しがっているのか、彼女は笑いながら勝って知ったる我が家のように腰を下ろした。
「春日君って、年下が好きなんだ?」
「別に年はそんなに気にしないよ」
「あ、そだ、私奈菜って言うの、怜ちゃんって言うんだね、よろしくね」
「あ、別に怜でいいです」
 なぜか使い慣れない敬語で答えてしまった。自分とは雰囲気が違うが、綺麗な人だと素直に思う。
「あの」
「ん? なに?」
「奈菜さんって春日君の、その、彼女……ですか?」
 それは軽いかまかけで、どう答えるにしろ何かしらの反応がある筈だった。怜はその言葉の裏に隠された反応を探ろうとする。ほんの少しでも迷うようならそれは完全な否定ではないと言う事だし、大げさに否定を言えばそれはそれで本音を誤魔化している場合もある。
 だが返ってきたのは、まるでそんな質問をされるなんて想像もしていなかったと言うような「ぷっ」と噴出すような吐息で、彼女は「あはは」と笑うと胸の辺りで手をひらひらと振ってみせた。
「違うよ、春日君とは友達」
 それ以上言う事はない、と言うような彼女の素振りはなんの動揺も後ろめたさも感じさせられない。余りにあっさりしすぎていて拍子抜けすら覚えたが、その割に彼女はまるで彼氏の部屋にやってきたように勝手に冷蔵庫を開けて中身を確認しだすと不満の声をあげた。
「春日君、飲もうって言う割にはあんまりお酒残ってないじゃない」
「あぁ、一人だとそんなに飲まないから」
「えぇ、足りないよー、これだけじゃ」
「じゃあ、買ってこようか。適当に買ってくるから二人は待っていてくれればいいよ」
 そういう春日に「じゃあ、私も行く」と怜は言おうとしたが、奈菜が「分かった、じゃあ怜ちゃん、それまで待ってよ」と何故か隣に腰掛けてしまい、断る事が出来なくなってしまう。
「すぐ帰ってくるよ」
 財布だけを取りサンダルをつっかけた。
 少し離れた場所から、人見知りと言うものをしらないらしい奈菜の明るい声を聞きながら外へと出るために玄関を開ける。
 多分、自分が戻ってくるまで彼女のペースに振り回されるだろうが、それはそれでいい事のようにも思う。
 彼女の事を言葉にするのは少し難しい。だがありていに言えば彼女がそこにいると、そこに澱むような負の空気はまるで浄化されていくように濃度を薄くしていく。今、怜に必要なのはそういう彼女の存在のような気もしたので尋ねてきたのは少しラッキーだとも思う。
 ただし、それはあくまで彼女がいる時だけなのだけど。
 街灯のない暗い夜道を歩いていると、時折方向感覚を失いそうになる事がある。とは言え、それは一瞬の事なので、自分が進むべき方向を見失うと言う事はない。そういう感覚になるのは、いつもぼんやりとしすぎてしまった時で誰とも関わりを持たない時の事が殆どなのだが、その日は思わぬところで声をかけられたためだった。
 コンビニまでの道のりの途中に小さなバス停がある。ただベンチが置かれているだけの簡素なもので、普段から利用客はそれほどいないようだった。今はもう最終便の時間も過ぎている。
 その暗がりに飲み込まれ、遠目からはそれがそこにあると言う事にすら気付かないベンチに一人男が座っていた。男は足元に数本の煙草を転がしていて、今も口元には新しいものが咥えられている。
「もてもてだな、瀬名春日」
 そう声をかけてきたのは、そうして座っている男の存在に気が付き、それでもそのまま素通りしようと通り過ぎたところだった。
 名前を呼ばれた事に一瞬ぽかんとなる。やや遅れて自分の立ち位置を思い出し、そうしてゆっくりとした動作で首だけを後ろへと戻した。
 この暗闇の中でも目立つ金髪姿の男が、こちらをにやにやとして見上げている。彼は煙草を指で挟んだまま、挨拶するように手をこちらに向けて振りながら、ゆったりとした動作で組んでいた足を組み替えた。
「君は……」
「はじめまして」
 そう言われた。やはり初対面のようだ。確かにどれだけ記憶を深く掘り下げても、そこに彼を見出す事は出来なかった。
「誰だ?」
「眉唾物の噂でなら、お前も知ってる」
「……君が一万円で願いを叶えている男?」
「そう。来生真耶だ。よろしく。ちょっと座ってけよ、話したい事があるんだ」
 短くなった煙草を地面に落とすと、彼はその他の吸殻と一緒にまとめてじゃりっと音を立てて足で遠くへと転がした。春日はそれをなんだか陳腐なドラマでも見ているような錯覚を覚えさせられる。それはその男の眉目が整っているからと言うのもあるし、そしてそれ以上に、彼の雰囲気がそうさせるのだ。まるでここまでの事は全て脚本によるもので、今この時もその続きであり、自分もその中にいつの間にか参加させられているのだ、と言うように。
「僕になんの用が?」
 そう言いながら、彼の隣に腰掛ける。
「いや、まぁ、別にそんなに絶対話さないといけない事はないんだけどさ」
「じゃあ、僕の方から聞いてもいいかな」
「あぁ、いいぜ」
 そう言うと、彼は耳元からイヤホンを外した。春日はその時まで気がつかなかったがどうやら音楽でも聞いていたらしい。よく見るとコードが足元にあるバッグまで伸びていた。
「彼女が人を殺そうとした時、止めようとは思わなかったのか?」
「願い事の是非を問うのは俺の管轄外って事にしている。面倒だろ? 願い事を聞かされてからいちいち、これは出来る、それは出来ない、とか考えるの」
「随分と現実的なんだな。やっている事は夢物語のようなのに」
「願い事そのものにはあまり興味がないんだ」
「じゃあ、どうしてこんな事を?」
「俺さぁ、ヒーローになりたかったんだよ、ガキの頃から」
「ヒーロー?」
 一体今やっている事のどこがヒーローだと言うのか。そう思いもするが、確かに「困っている人を救う」と言う事だけを極端に取り上げれば「そうではない」と言い切る事も出来ないのかもしれない。
「まぁ、確かに此花怜みたいに人を殺す、なんて血なまぐさい事じゃなくて単純にいい事もした事はあるよ」
「それでヒーローに実際になったと」
「いや、それはないな、結局俺はなれそうにない」
 自嘲気味に彼は苦笑した。一体彼がなにを思いこんな事を続けているのだろうとも思うが、尋ねようと言う気にまではならなかった。
 ふと沈黙が訪れる。
 真耶はその間にもう一本煙草を取り出し、セブンスターのパッケージをこちらに差し出してきた。そこから一本抜き取ると、見計らったようにジッポの火も添えられた。
「俺さぁ、宝くじ当てたんだよね」
「へぇ」
「三億円。大学生の時。ビックリだよ。その時の俺さ、自分で言うのもなんだけど顔がいいだけって奴でさ。それなりにちやほやされてたけど、なんか物足りないとか思ってた。ないものねだりだったけど、それが急に大金を手にしたわけで」
 一体なんの話をしているのだろうと思いながらも黙っていた。
「でそういう噂ってすぐに広がるんだよな。まぁ、その時のダチに漏らした俺が悪かったんだけどな。酷かった。今まで以上にちやほやされるようになったよ。内面が透けるくらい。今思い出しても醜かったなぁ、って思う。どうにかしてそのお零れにあやかろうって魂胆が見え見えで、どす黒くて、そのくせ、その感情は俺になんて一切向けられてなかった。金にだけ向けられてたもので、俺は怖くなって大学を辞めて、そこから逃げた」
 数百円の煙草の煙を彼は噛み締めるように吐き出した。
「金ってさぁ、凄いと思うよ。それで人の心を動かせちまうんだからさ。多分俺も、俺じゃなくて俺の周りの誰かがその三億円を手にしてって聞いたら目の色変わっていたんだろうなって思うね。だから今は凄く運がよかったと思うよ。俺が当たってくれて。そうじゃなかったら、俺は人じゃなくて金に感情を向ける人間になってただろうから」
「よく分からないけれど、それで逃げ出してから君はどうしたんだ?」
「韓国に行った。そこで、安いアパートを借りて半年程これからどうするか考えた。豪遊してもよかったけど、きっと俺がおっさんになるころには空っぽなっちまうだろうし、そうなった時俺自体が空っぽになってるなんてのは絶対に勘弁してほしかったから、有効に使うべきだって思った」
「随分計画的だね。そんな大金を手に入れたらもっとはしゃいでもいいと思うけど」
「周りがはしゃぎすぎて冷めちゃったよ。それに人生をやり直すチャンスだと思ったんだ。俺は自分の事が死ぬほど嫌いだったんだ。当時の俺は中途半端で、これと言って褒められるところなんて特にない奴だった。見た目がいいからもてたけどね。そういうのって別に俺の魅力じゃないとも思えたし。周りはどいつもこいつも俺より優れたものを持っていて、その優れたものをちゃんと見ているような人間は俺なんかを相手にもしないし」
「贅沢な悩みだ。見た目だって個人の特徴だと思えばよかった」
「まぁ、今はそう思いもするけど」若気の至りもあった、と言うように彼は頷いた。
「あの頃の俺は自分の事を好きになりたいとばかり考えていたよ。それで考え抜いた結論が結局ヒーローと言う訳だ。ま、別の言い方をすると、誰かに頼られるような人間になりたかったって言うそれだけ」
「それで?」
「他人のために生きてみようと思って。そう思うと三億円じゃ足りないかもしれないって思った。なんにでも金っているんだよな。どこかに行くにも、なにかを調べようとしても、必要な物を調達するにも。とにかく金だって思って、金を稼ぐ必要があった」
 聞いているだけで呆れてしまうような話だが、若かった頃の彼はきっと大真面目だったのだろう。もしかすると今でもその考えは変わっていないのかもしれない。
「でも俺にそんな何億とか稼ぐ能力はなかったから相棒が必要だと思った。それで、探偵みたいなのを雇ったんだよ。今思うとあれもっとブラックなところだった気もするけど」
「人を集めて会社でも作ったのか?」
「そんな面倒な事しないよ。それに人が多くなると目的が金になって面倒になる。俺はもう金に振り回されるの嫌だったから。探してもらったのは、頭が抜群によくて、けどちょっと人間性に問題があって、到底社会に適応するなんて無理で、金に執着心がない奴」
「……そんな人間を探してどうするつもりだったんだ?」
「ほら、株取引とかFXとかさ、韓国って日本よりそういうの進んでたんだよ。俺と同い年くらいの奴がネットで俺より金を稼いでいる奴とかいて、俺もそれに乗っかってみようとしたんだ」
「なるほど」
 まるで興味がない話題に春日は生返事をするのが精一杯だった。
「で、見つかったのがツェンって奴で、マジ驚くくらい頭いいんだけど、ぶっとびすぎてて全然それを活かせてない奴だった。株とかも全然知らなかったし、両親と一緒に住んでて大学行く以外は家で引きこもっているような奴だった」
「そして君が白羽の矢を立てた」
「そう。俺は二億円渡した。失敗してすっからかんになってもそれはもう諦めようと思った。そうなったらそれが俺の運命で身の丈にあった人生を送れ、って事なんだろうと。ツェンは最初は興味なかったみたいだけど、自分の状況は分かっていたみたいで、家にいて金を稼げるのおいしい話だとも思ったんだろう。まぁ、結局はうまくいった。ツェンはその日から毎日新聞を読みだしたし、経済紙が毎月何冊も家に送られるようになって、二年程でもう俺はツェンがどれくらい稼いでいるのかさっぱり分からなくなった」
「凄いな」
 素直に感嘆する。
「だけど、そんな人間をよく説得出来たね。君の話を聞く分にはそうやって稼いで金にもそんなに興味を持っていないんだろう。そんな人間が今後の生活の事だけでよくそこまで出来るものだ」
「ま、あいつの場合もう一個条件があったから」
「条件?」
「あいつ、アニオタなんだよね」
「アニオタ?」
「日本のアニメが大好きなんだよ。で、俺がツェンが見たい奴金を稼いでくれたらDVDでもブルーレイでもなんでも揃えてやるって言ったらもうすごく食いついてくれた。それまではなんかネットで見てたけど画質が悪いとかなんとか言ってたな」
 下らないだろ、と言うように肩をすくめられる。
 確かに話の規模に対してその内容は子供じみていて、春日は彼と同じように肩をすくめてみせた。
 金なんてどうでもいいが、アニメを見るには金がいる。そしてアニメが見られればそれ以上の金などいらない。とてもシンプルで分かりやすい回答だった。
「現実の女もいいって言うんだけどね。なんだっけ、さんじげんには興味ないそうだ」
「ずばり君が望んだ相手と言う訳だ」
 現実に興味がなければ、最低限の金以上などまるで興味を惹かれないだろう。
「それで、俺はそうやってツェンが順調に金を稼いでいる間、体を鍛える事にした。何事も体が資本かなと思ったんだけど、まぁ、これはどうでもよかったかな。根性は無駄についたけど」
「そうか」
「そう。で、もう充分かなと思ってツェンを――日本の方が早くアニメが見られるからって理由だけでついてきたんだけど――連れて日本に戻る事にした。それからかな、掲示板に書き込みを始めたのも」
「それで?」
「ん?」
「その話を聞かせて、なんの意味があるんだ?」
 僕にも、君にも。
 だが真耶の返答は逆に問い返すようなものだった。
「いや、俺が聞きたいな。なんでお前に話そうと思ったんだろうな。こんな話、誰にもしてないんだけどしたって事は話してもいいと思ったんだろう、けど全く意味が分からないな」
「なにが言いたいのか、なにを言ってほしいのかも分からないな」
「まぁ、俺の話はどうでもいいんだよ。それに、ちょっとよく分からなかった」
「なにが?」
「お前に話すとなにかあるかと思ったんだ」
 じろりと、まるで見定めようとしているかのように睨んでくる。
 だがそれはやがて落胆したかのように溜め息へと変わった。
「なんもねーな。別にお前に話してもいい事も悪い事も」
「どういう事なんだ?」
「此花怜がお前と会ったのは一回だけ。なのになんでそんなに会いたがったのかな」
 やれやれと思いながら彼は夜空を見上げる。
「お前の事調べたけど特にこれと言って注目するような事はない。そんなに深く調べた訳じゃないから、もっと昔になにかあった可能性はあるけれど。以前勤めていた会社でも目立つところはなかったし、親しい友人もいないし、今はコンビニと家の往復を繰り返すだけのフリーターと来たもんだ」
 流れ星が走ってすぐに消えた。誰かちゃんと願い事を言えた人はいるだろうか。その速度に置いていかれるような事はなかっただろうか。自分もあの流れ星のようなものなのかもしれない。
「でも彼女にとっては特別らしい。人を殺すよりも、お前を見つける事に必死になってしまうほど。そうして会ってどうするのかと思えば殺人の事までベラベラと話してしまっている。お前に言ってなにがどうなるって訳でもないのに」
「誰にも言えなくても、誰かに言いたい事はあるさ」
「それだよ。そこで、彼女はお前を選んだ。なんでかな。お前になにがあるんだろう――愛? いや、違うね。愛だけじゃ彼女の真実を伝える動機を与える事は出来ない。愛にそこまでの力はない。なら、力があるのはやっぱりお前なのかな。そういう事なら、お前は「そう」なのかもしれないな」
 ぶつぶつと呟いている。
 もう何度目になるだろう。「一体なにを言っているんだ」再びそう思った時、真耶は目を見開いた。
 研ぎ澄まされたナイフのようなその鋭い眼光はまるでこちらを射抜こうとしているようだったが、しかしそれ以上の事はなく、代わりに彼は舌打ちをするだけだった。
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 そして「あーあ」と言いながら先程のイヤホンを持ち上げた。
「ところでさ。俺、怜からお前とどういった話するかとか聞いてないんだ。意味分かる?」
 なぞなぞでもしているような口振りだ。春日はしばらくはそれがどういう事なのか分からなかったがしばらく考えてはっとする。彼がついさっき言ったばかりだった。
 殺人の事までベラベラと話してしまっている。
「聞いていたのか?」
「最近の盗聴器って本当性能いいよな。まぁ、さすがにやりだしたらさすがに聞くのはやめようと思ったけどね」
 そう言いながら、真耶は彼にイヤホンの片方を差し出してきた。それを受け取り耳にはめると、確かに鮮明に聞きなれた声が聞こえてくる。
『春日君遅いね。なんかあったのかな』
『……連絡してみようかな』
『まぁ、もうすぐしたら帰ってくるんじゃない?』
「……随分と趣味の悪い事をする」
「趣味じゃなくて興味があったんだ」
 大して変わりはないだろう、と彼を睨むがそれに動じる様子はないようだった。
「あの子バッグを持ってただろ? その底についてる。戻ったら外してやればいい。防水加工はしてないから水につければすぐに壊れる」
「一体なにをそんなに聞きたかったんだ?」
「特別扱いされる男と、特別扱いする女のやりとりかな」
『ねぇ、怜ちゃん』
『なに?』
 どうやら待っている間に怜はもう敬語を使うのをやめてしまったようだった。
『怜ちゃんこそ春日君の彼女とかじゃないの?』
『……ち、違うよ』
『そうなの。春日君が女の子家に連れてくるなんて珍しいからてっきりそうだと思ってた』
『……あの、けど』
『怜ちゃんは好きなんだ』
『あ……うん』
『へー、そっか、春日君も隅に置けないなー、まぁ、でもあいつかっこいいもんね』
『奈菜さんは?』
『へ?』
『奈々さんは、春日君の事好きじゃないの?』
『好きだけど、恋愛って意味では違うかな』
『本当に?』
「ふーん。彼女の事も調べたけど俺もお前に好意を抱いていると思ってたよ。残念だったな」
「いや、彼女はきっとそういうだろうと思っていたよ」
「そうなのか?」
「そうだね、彼女はそういう人だから」
 からかうような真耶の口調に、春日はそれでも淡々としたものだった。その言葉通り落胆している様子もない。
 彼女のそんな気持ちなど改めて言葉にする必要などないと言うように。
 たとえ、広義では愛し合っていても、それはやはり、広義なのだと言うように。
『応援するよ。怜ちゃんの事』
『本当?』
『ホント』
 イヤホンを外し返すと、真耶もそれをバッグの中へとしまった。どうやら女二人の会話にはあまり興味がないらしい。
「彼女にとってはお前がヒーローなんだろうな」
 自分がヒーローと言われてもまったくピンと来ないが、いちいち否定する事でもない。
「参るよなぁ」
「なにが?」
「俺の前では白けたツラしてたのに、お前の事となると我を失うんだぜ、あいつ。傍から見たらなんの取り柄もなさそうだし、願い事を叶えてやったのも俺なのにさぁ」
「皆から愛されたいならヒーローよりも博愛主義者を名乗ればいい」
「冗談じゃねえよ。でもヒーローってなんなんだろうな」
「さぁ、僕はそういったものに興味がない」
「俺も部分的にはヒーローみたいなんだ」
「ならそれでいいんじゃないか?」
「寂しいじゃん、それだと。結局さぁ、敵がいないとヒーローなんて価値がないんだよな。ヒーローは平和を願っているんだけど、でも本当に平和になったらヒーロー自身には居場所がなくなってしまうんだな。それを寂しいと思う俺は結局ヒーローに向いてないのかもしれないな」
「そんな心配はいらない。平和はきっと永遠にやってこない」
「確かにそうだな。なぁ、俺お前の事を殺したいと思うって言ったらどうする?」
「それなりに抵抗はするけど」
「別にお前がヒーローである事自体はどうでもいいんだよな。俺がお前に今嫉妬してるのは、結局俺がヒーローになれたのは金の力で、お前はそれを得なくても今ヒーローになっていて、もし、当時の俺が金を得ていなくても、お前みたいになれたかって思うからなんだろうな」
 彼はそう言うと立ち上がった。
「でも個人的にはやっぱりお前の事は嫌いじゃないみたいだ。お前、人徳があるのかもな」
「僕の事を嫌う人間もいるさ」
「まぁ、そいつらにも他にヒーローがいるんだろう。今度飲みにでも行かない? ちなみにお前の電話番号はもう知ってる」
 呆れて「好きにしなよ」と言うと彼は「奢ってやるよ」と言いながら胸元にかけていたサングラスを手に取る。
「じゃあ行くわ。盗聴器は悪かったな」
「いや、別に気にしないでいいよ。彼女の事を誰にも話さなければ」
「他人にも罪悪感を求めないってか。俺にはそれだけは理解できないな。大丈夫、口は堅いんだ」
 じゃあ、と言うと彼は振り返る事もなく歩き去っていった。
 春日も再びコンビニへと歩き出す。きっと今頃二人は遅い帰りに呆れかえっている事だろう。
 世界は今平和だろうか。
 多分、誰かの隣には誰かがいないと、平和にはならない。
 だから彼はずっと戦い続けるのだろう。
 春日には想像も出来ないほどの無数とも言えるほど誰かの隣に彼はこれからも立とうとするのだろう。
 そして時には敗北をする。
 いつか、その敗北の前に彼が全てを諦めてしまう日が来るのだろうか。誰かの隣に立つ事をやめてしまう日が来るだろうか。
 それはきっとないだろう、と春日は思う。
 彼もまた、誰かの隣にいる事を望んでいるから。
 来生真耶が望むのは一万円でも、願い事を叶えてあげる事でも、それによって救われる事でもないのだから。誰かの心に触れる事なのだから。そして触れてもらう事だから。
 そう、思う。


「ただいま」
「遅いよ」
「ホント、遅いよ」
「ちょっと人に会ってた」
 そう言いながら袋を床に置くと、先程部屋の端に寄せてあった怜のバッグを手に取った。彼女が不思議そうにこちらを見てくるがなにも言わないので、そのまま持ち上げて裏側を見ると、確かに長方形の小型の機械が繊維に絡みつくように取り付けられている。おそらくここへやってくる直前にでもつけられたのだろう。言われない限り普段底など見ないので気がつく訳もないだろう。
 それを取り外し、真耶が言ったとおり蛇口を捻り流れた水につけた。電源をしめすランプなども付いていないので本当にこれで機能が失われたのかどうかは判別できそうにもなかったが、嘘を言っているようには見えなかったのでそのままゴミ箱へと放り込んだ。
「ねぇ、春日君。私思うんだけど」
「なに?」
「春日君、恋人とか作らないの?」
 三人で酒を飲みだしそれなりに酔いが周った頃、奈菜が唐突に切り出し、怜がそれを聞いて咽返った。あまり強くないと言う彼女は今もジュースを飲んでいて、素面だったので聞き流す事も出来なかったようだ。
 先程の盗聴器で聞いた会話の事を思い出すが、なにも知らない素振りで平静と言い返す。
「なに、いきなり」
「春日君みたいな子がさぁ、いつまでも一人でいるってよくないと思うの」
「とっと奈菜さん、酔いすぎだよ。なに言ってんの?」
「酔ってないよー」
 必死に誤魔化そうとする怜だが、どうやら奈菜にそれが通じる様子はなかった。
 それどころか彼女は怜の肩をぐっと抱くと、見せびらかすようにこちらへと押し出してくる。
「ほら、ここにこんな可愛い子がいるのにほうっておいていいの?」
「別に私可愛くないって!」
「いや、可愛いと思うよ」
「……え?」
「そうそう、そうでしょー……ええ!?」
 どうやら自分がいない間に二人はすっかり打ち解けてしまったようだった。
 その二人が自分の発言に揃ったように驚いている。
 そんな二人のうち、まず目前にいる怜を見ると、彼女は照れてしまっているのか、しきりに俯いてはもぞもぞとしている。
 そしてその後ろで、まさかそんな風に素直に答えるとは思っていなかったようで、こちらを見て口をパクパクしている奈菜を見ると、視線が重なり合った。
 どうなると、思う?
 視線でそう尋ねるが、彼女はどうやらそれを理解はしていないようだった。
 奈菜。僕と君の関係は一体なんなんだろうか。
 友人だろうか。だけど杏里と一緒で、怜もまた君と触れ合った事を知ればそれを素直に受け入れる事は出来ないだろう。今のように距離を近づければ近づけていくほど。
 だけど、君はそんな考えを抱く事はきっとないのだろう。
 そして僕も薄々とは分かっているつもりだ。
 きっとその答えを出せば、僕達の今の関係は終わるのだろう。
「怜の事は僕はいいと思ってるよ」
「えぇ!? 春日君ってそんな積極的だったっけ!?」
「……ねぇ、春日君」
「なに?」
「それって私と付き合ってもいいって事?」
 僕は。
 ねぇ、奈菜。
 今から僕が言う事は君にとっては全く別の意味を持つのだろう。
「そうだね、そうなったら僕は嬉しいと思うよ」
 さようなら。
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秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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