トップに戻る

<< 前 次 >>

黄昏スーサイド

単ページ   最大化   

 黒崎奈菜。彼女はふしだらな生活を望む。
「うーん」
 その日もいつもと同じように彼女は情けないか細い悲鳴を上げながら目覚めた。
 よろよろと起き上がり、隙間なく閉じられていたカーテンを開けてみる。
「……うわ」
 日差しを浴びて彼女は、それを嫌がるように目を伏せた。外は晴れ渡っていて人によっては思わず出掛けたくなるような穏やかな日和だが、彼女にとっては最悪の天気だった。
「やんなるなぁ」と愚痴りながらシャワーを浴び、ある程度身を整えるとベッドにもたれるように床に座り、ハイライトのパッケージから一本抜き取った。肺に入り込んでくるその深い苦味と、どことなく感じる甘みが好きだったのだが、はたとそれが最後の一本である事に気がつく。奥に引っかかっていないかと逆さまにして振ってみてもやはり出てくる事はなく買い置きも底をついていた。
「最悪」
 時間を確認しようと時計を見ようとしたところで携帯電話のランプが点灯している事に気がつく。そちらで時間を確認しようと見てみると昼を過ぎているが、夜になるにはまだ時間を要すようだ。メールの送り主は彼女の恋人である杏里からで、用件自体は取り立てて気にするようなものでもなく、簡潔に――とは言ってもあくまでも恋人向けらしい装飾めいた事を施してはいるけれど――返信すると、まもなくして携帯が音を立てた。
(…………)
 そうやってメールを見ている彼女の内心を一体どのように表現すればいいのだろう?
 きっとなにも考えていない。
 ただ彼女は最後の一本を短くなるまでゆっくりゆっくりと吸いながら、テキパキとした動作でボタンを幾度も押し続けているが、そこに黒崎奈菜の思考を見出す事は出来ない。そこにあるのは脳の中に刷り込まれた「杏里」と言う人間に対する記憶への、適切な反射のようなもので、それはまるで自動的に計算され解を算出しているコンピューターのようですらある。
(…………)
 送信。
 誰かが彼女にメールの内容を問いかけたとして、彼女はきっと内容がどんなものだったのかと言う事にはすぐに答えられるだろう。しかしその内容を一体どんな言葉を使ったのかと言われると、彼女はきっと返事に詰まるはずだ。
 外面ばかりよくした言葉は世界中に溢れている。内面がまるで空っぽだと言う事に気付いているというのに。そのうえ、人は自分を棚に上げては他人の言葉にのみ敏感で、一々難癖をつけたがる。
 彼女もまた同様だ。
 だから彼女は言葉に意味を見出さない。難しい話は好きになれない。
 結局求めているのは、言葉の立派さではないと、彼女は思う。求めているのは内面に触れてくれる、空っぽの言葉にでも存在する事は出来る「気持ち」程度の存在だ。
 そしてその「気持ち」と言うものは彼女にとってはシンプルで、ありふれたもので、思わず悩んでしまうようなものなんて事はなく「あてにならない」と言われる血液型占いや正座占いのように――そこまで大雑把な区分けとは言わないが――枠組みは出来るものだ。
 だから彼女は考えない。
 ただ状況に応じた選択を、今までの記憶が勝手に答えてくれるのをただぼんやりと眺めている。
 その経験と言う記憶の答えは、触れてほしい内面に漏らさず触れてあげる、と言う事だけに集約される。
 携帯電話を足元に置いてから、煙草を灰皿に押し潰し、彼女は再び思考を取り戻した。
(煙草買いにいこ。夜まで我慢出来ないし)
 部屋を出ると、白い肌が陽射しに触れられるのを嫌うようになるべく日陰を歩いた。やってきたコンビニはどうやらまた新人が入ったようだが、あまり真面目なタイプではないようで「ハイライトのワンカートンください」と言うとすぐに袋に入れたそれをこちらへと寄越した。
「ハイライト、重くないすか?」
 そう声をかけられ、彼女はそこで初めて店員の顔をまともに見る事になった。軽薄そうな男で、年もさほど変わりないように見える。
「慣れるとべつにそう思わないよ」
「前もここで買ったでしょ。その時にちょっと驚いて。彼氏のかと思ったけどやっぱり自分のなんだ」
「あはは。よく覚えてるね」
「珍しかったから」
 彼は言い訳するようにそう言った。もしくは「君に興味があるから覚えていた」と言う事を誤魔化しきるつもりではないと言外に含んでいるようでもあったが、奈菜はその前と言うのがいつの事なのかは分からなかった。
「君さ、名前なんて言うの?」
「奈菜。じゃあ、またね」
 そう言って手を振った。彼は自分の名前を名乗るきっかけを失った事で残念そうな顔をしていたが、それでも悪くない反応だと思ったのか、取り繕うように笑うと同じように間抜けな素振りで出て行く彼女に手を振った。
 外に出ると、彼女は早速カートンから一箱取り出し、煙草を口にくわえた。そうしながらもう少し話してみてもよかったかな、とぼんやりと思う。
 彼女はふしだらな生活を好む。
 コンビニ店員といつの間にか結ばれる事も、それはそれで面白いかもしれない。
(でもあんまり好みじゃないしなぁ。次からコンビニ変えようかな)
 ふと隣人のコンビニ店員を思い出した。とは言え、彼とはもうずっと前から結ばれていて、その職業が二人の間になにかを生まれさせた訳でもないし、ああいうタイプは決してお客に声をかける事はしないだろう。
「……あ、でももう春日君とはセックス出来ないかもしれないなぁ」
 思い出したようにそう道端で呟いた。
 家まで戻ってくる頃には太陽がその姿を遠くのビルの陰によって隠されようとしている。彼女はそれにほっとしながら、コンビニの袋を玄関の脇に置くと、もう一度外に出て段差に座り込んだ。一緒に買っておいた缶ジュースを開け、風に掻き消されるまでどこまでも波打つように上っている白い煙を見上げながら、彼女はいつものように翳っていく世界を静かに見つめていた。


『お前いつまでバイトでいる気だ』
「しばらくはそのつもりです」
『しゃらくせぇ。いいか、前も言ったがちゃんと就職をだな』
 電話越しでも相変わらずけたたましい太陽の説教だが、それを涼しい顔で聞き流していると、その隣でなにが面白いのか冬馬がにやにやと笑っていた。
「なにがそんなに楽しかった?」
「いや、話には聞いてたけど、確かにすごい剣幕だなと思って」
「あぁ、羽田さんは面倒見がいいんだよ」
「俺だったら余計嫌になるだろうな。よく平然としてられるよ、お前は」
「話してみるといい人だよ」
「いい人と思えるまで話し続ける気力がもたないよ」
 通話を終え、昨日春日の家で散々飲んでいつの間にか寝入ってしまっていた冬馬の方を見ると、彼は感嘆するかのように肩をすくめて見せた。床で寝たために髪はぼさぼさで服も皺まみれだが一向に気にしていないようだ。
「今日大学は?」
「あー……もう昼からでいいや。どうせ今から行っても無駄だし」
「相変わらず後先を見ないな」
「ま、なんとかなるって」
 気だるそうに体を伸ばしている彼に、水を一杯渡した。春日自身はそれほど飲んでいなかったので特に倦怠感のようなものはなく、彼を通り過ぎて閉じていたカーテンを開いた。
「うお、まぶし」
「いい天気だね」
「二日酔いにこの日差しはきついわ」
「外の景色で変わるようなものかな」
「変わるよ。お前が興味ないだけで」
 確かにそうだが、体調は興味に左右されるものでもないだろう。そう思うが、言ったところで争うほどの事とも思えないので「そういうものかな」と曖昧な返事に留めておいた。
「お前も相変わらず何事にも無頓着な奴だなー」
「今更言う事じゃないだろう」
「確かに」
 苦笑しながら彼は煙草を探しているらしくきょろきょろと辺りを見回したが、どうやら見つからないようで、マルボロを持ち上げると「一本貰うわ」と勝手に取り出していたが、普段はそれより軽いものを吸っているので、喉に不快感でも覚えたらしく渋い顔を浮かべた。
「あー、だりぃ」
「飲みすぎだよ」
「あ、そうだ、今度合コンやるんだけどさ、お前も来ない? 可愛い子来るんだけど」
「いや、僕はいいよ」
「なんでだよ。そんなに合コン嫌いか?」
「そうじゃないけど、ちょっと今は行くと怒られそうだから」
「は? なに、お前彼女出来たの?」
 驚いたようにそう言われ、春日は僅かな沈黙の後首を斜めに振った。
「まぁ、まだよく分からないんだけどね」
「なんだよ、それ。まいいや。その子可愛いの? よかったら俺に誰か紹介してって言っておいてよ」
「気が向いたら伝えておくよ」
 はっきりとしない返事でも彼はすでに了承を得たかのように軽く肩を叩いてきた。
 結局もう大学に行く気もなくなってしまったのか、その後もだらだらと会話をしている内に昼を過ぎてしまっていた。冬馬に比べると極端に口数が少ない春日だが、もう二人ともそういう付き合い方がすっかり板についてしまっている。
 気が合う、と言う事なのだろう。と春日は思う。およそ自分とは正反対のようにも思える彼だが、きっと根本的などこかでは似たなにかがあり、それが上手く二人を繋がせているのだと思える。
「……と、もうこんな時間か。そろそろ帰るかな」
「よかったら家まで送ろうか?」
「マジで? 頼むわ」
 元々は昨日の内に帰る予定だったようで自家用車ではなく、タクシーでやってきていた彼にそう言うと喜んでいた。
「そういえばさ」
 車内で思い出したように冬馬が口を開いた。
「なに?」
「最近奈菜ちゃんと会ってないな。元気してる?」
「相変わらずだよ」
「そっか」
 それ以上は特になにもなく、彼を送り届けると元来た道を寄り道する事もなくまっすぐ走り出す。
 途中横断歩道で手を挙げている小学生を見かけ、春日はブレーキを踏んだ。小さな男の子はこちらを見て笑顔で「ありがとうございまーす」と大声で言いながら道路を横切り、駆け出していく。
 ふと自分にもあんな頃があったのだ、と思うが、うまくその頃の事を思い出す事は出来なかった。
(…………)
 空白だ。
 過去も現在も未来も。自分にとってどの時間の殆ども空っぽな空白に包まれている。
 その空白とは一体なんなのだろうか。
 果たしてその白ですらない透明を、別の色に染め替えようとする行為は必要なものなのだろうか。
 彼は分からないし、考える気にもならない。
(…………)
 ただ、思う。
 透明でも、それは決して無ではなく、そこに存在しているのだと。
「や」
「やぁ」
 車から降りたところで声をかけられ、春日は短くそう答えた。
 黒崎奈菜が部屋の前の小さな段差に腰掛けていて、その手にはまだ長いままの煙草を持っている。
「どっか行ってた?」
「冬馬が来ててさっき送ってきたところ」
「そうなんだ。よかったらちょっとお話しようよ」
 彼女はにこりと笑った。
「で?」
「なに?」
「なに? って分かってるくせに、怜ちゃんと付き合うことにしたの?」
「あぁ、その事。いや、まだちゃんと付き合いだしたわけじゃない」
「えー!? なんで?」
「なんでと言われても、まだちゃんと話していないからとしか言いようがないね。遅かれ早かれそうなるとは思うけど」
「春日君のせいで遅くなってるんじゃないの?」
「そう言われればそうかもしれないけど」
 彼女は心の底から楽しそうだった。
 少なくとも春日にはそう思える。
 彼の恋愛話に、他の誰とも変わりない興味を持ち、ふがいないと目くじらを立て、そして、どうやら本心から応援しているらしい。
「春日君、調子に乗ってない?」
「どういう事?」
「怜ちゃんが春日君にべた惚れだからって自惚れてると他の男にあっさり取られちゃうかもしれないよ。あんなにかわいいんだから」
「それは困るな」
「でしょ。だったらさっさと告白でもしたらいいじゃない」
「いいタイミングが見つからなくてね」
「だったらこうがばっと襲っちゃえば? 好きな人に襲われても嫌とは思わないし雰囲気でいけるかも」
「それはだめだよ」
「なんで?」
「彼女がセックスが先に来る繋がりはもう嫌だと言っていたから。そういうのが逆効果になると思う」
「真面目だね」
「彼女も変わろうとしてるんだろう」
「いや、彼女じゃなくて春日君」
 そう言われ隣に座る彼女を改めて見つめた。彼女はなんだか自分の発言がよっぽど意外だったのか、怪訝そうな顔をしている。
「私の時は、すぐにエッチしたのに」
「君は嫌がっていなかっただろう」
「そうだけど春日君ならそれもありかな、って言うかもと思った」
「僕もそれなりに気くらいつかうさ」
 ねぇ、奈菜。
 僕と君は違う。
 マルボロに火をつけた。風が吹いたのか焦げた臭いが鼻先をよぎる。
「ふーん、そっかぁ。でも初々しい感じでいいかもね」
「奈菜のほうはどうなんだ?」
「私? 杏里のこと? あんまり変わりないよ。ちょっと前にデートしてきた」
「彼女に言うつもりはないのか? 君の事をまるで愛してなんていないと」
「そうだね。面倒だし、私も独り身はちょっと寂しいし。悪いとは思うけど」
 だけど、その罪悪感が君の欲求や、本能に勝る事はきっと永遠にないのだろう。その申し訳なさはいつまでも単なる感慨のようなものでしかなく、渇望の前に消え去っていくのだろう。
「ねぇ、奈菜」
「ん?」
「僕達の話をしようか」
「うん、いいよ」
 こうやって切り出す事を彼女は分かっていたのかもしれない。
 彼女はにこりと微笑んだだけだった。
 これからなにを話すのか、もう全て分かっていて、それでも彼女はにこにこと笑っている。
 決して無理やりなものでも、やせ我慢でも、偽りでもないそれ。
「君とはもうセックスしない」
「うん、まぁ、当然だよね」
「以前のように君を軽々しく家に入れられなくなると思う」
「えー、それはやだ」
「怜が嫌だといえばそれもしょうがない」
「怜ちゃん、私の事信用してるから大丈夫だよ、だって今もこうやって応援してあげてるしさ」
「彼女がどう思うかは今は分からない。そういう可能性もあるけど、いつか君に不信感を持つかもしれない。そうなった時、彼女がノーといえば、僕も君にノーと言う」
「えー……分かった。こっちでなんとか怜ちゃんを説得する。春日君は気にしないでいいよ」
「奈菜」
「なに?」
 その微笑になんと言えばいいのだろう?
 間違っているのだろうか。
 しかし、ならどの表情が正しいと言うのだろう。
「僕は誰よりも自分を優先する」
 君もそうだけど。だけど、君とは違う。
「だからはっきり言うけれど、君との関係は終わりにしないといけない。それはセックスだけの話じゃない事は君の方が分かっているはずだ。もう、僕は君の欲求そのものに付き合えなくなる」
「なんか欲求って言うといやらしい」
「言い方はなんでもいい。もう僕は君の退屈と言う感情に付き合えない。だから君は僕の代わりを探さないといけない。そんな事は君も分かっているんだろう。怜と付き合いだせば自然とそうなると言う事くらい。これは僕と怜の問題じゃなくて、君の問題だ。だから君がするべき事は怜にあれこれ言う事じゃなく、僕の知らないところで、君に付き合ってくれる僕の知らない誰かを探す事だと思う」
 奈菜はゆっくりとその話を聞いた。無理についていこうとすると彼がなにを言おうとしているのか分からなくなってしまいそうだったからだ。そうして何度か自分の中で租借を繰り返し、彼女はその言葉を再構成し、理解をする。
 そして、苦笑する。
「参ったなぁ。ホント、春日君って私の事分かってるなぁ。ねぇ、春日君、嫌じゃなかった? 自分がただ退屈しのぎにされてるって思っても」
「いや」
「そうだよね。私も春日君が分かってるとは思ってたし、それでも付き合ってくれてるとは思ってた」
「君がしている事が珍しいと言う訳じゃない。誰だってそういうところはある。ただ、君の場合は誰にでもそうで、君が特別と思うような相手がこの世にいないというだけだ」
「特別な人か。うん、そうだね。これからも現れるとは思わないなぁ」
 誰かを愛する事などない。誰かを想う事など欠片もない。誰かを想って泣く涙など持ち合わせてもいない。
 そして退屈な時に、いてほしいと思うのは、名前を持たない誰かと言う誰でもない他人でいい。
「私さ、誰の事も好きじゃないんだよ。代わりに自己愛が激しかったのかな。自分が楽しかったらそれでよくて、その延長線上にAさん、Bさんがいるって感じ。杏里もそうだし、うん、春日君もそう。好き嫌いはあるけど、それ以外はどうでもいいかな。その人の人生とか、考え方とか興味なんて全然持たないし、好きにしてればいいって思う。ただ、私の退屈に付き合ってくれればそれでよかったし、逆に相手の欲求に付き合うのは大嫌いだった。そういう時はなにをしてても退屈で、はやく終わればいいってばっかり思っちゃうの。だから春日君は私にとって凄く理想的な「誰か」だったよ」
「だけど、もう僕はその理想に沿う事は出来ない」
 そう確認するように呟いた。
 彼女もきっと分かっていて、今までの関係が終わり、他人になる事を分かっているのだろう。
 そう理解して、彼女は笑っている。
 そう思っていた。
 その予想が間違っているなどとは思ってもいなかった。
「春日君って優しいよね」
「そうでもない」
「そうだよ。だって結局あれでしょ? この話って、春日君と怜ちゃんのためって言うより、私のためにしてるんだよね。本当は私といると怜ちゃんが怒るかもしれない、なんて話はあんまり考えてなくて、もう自分は前みたいに構ってあげられないから早く代わりを見つけろって教えてくれてるんだよね」
「君がそう思うならそれでもいい」
「うん、そう思う。だって春日君は私と違うから。春日君はさ、私と違ってちゃんと他の人の事を好きになれるんだよ。普通の人に比べると――好みが狭いからかは分からないけど――その人数は凄く少ないかもしれないけど、ちゃんと誰かの事を想う事が出来るんだよね。その中に私も入ってたりしたのかな。そうだったら嬉しいな」
 そういう彼女に言葉を返す事が出来なかった。
「ねぇ、春日君」
「なに?」
「一つだけ、春日君私の事勘違いしてる」
「どこ?」
「別にさ、私もセックスがしたい訳じゃないし、セックス以外でも退屈を潰せるってとこ」
「…………」
「春日君は私がそれじゃ物足りないと思ったのかもしれないけど」
 彼女に見つめられて、以前の彼女の事を思い出してみようとした。
 それでも記憶はやはりおぼろげで、今の彼女と違うのかどうかちゃんと判断する事が出来ない。
 だけどやはり違うような気がする。例えば、以前の彼女の目はもう少し潤んでいたようにも思う。
「友達になろうよ。セックスもしないし、キスもしない、友達」
「どうして僕を選ぼうとする?」
「君の事好きじゃないって言っておいてなんなんだけど、でもいいって思うから」
 春日は彼女の笑顔の理由にようやく気がついた。
 そして、今こうやって並んで座っている二人の距離が少し離れている事にも。
 肩が触れ合う事もなく、その隙間を埋めようと彼女がその身を寄せようとする事もしなくなった距離が、今二人の間に既に出来上がっていた。
「今までの私達の関係も友達だったかもしれないけど、また違う友達になろ」
 そう。今までの繋がりを彼女はいまあっさり棄ててしまった。
 僕達の「今の関係」は終わった。彼女からすれば、もうとっくに整理されてしまっていた。
「君を、前の春日君の代わりにする事は出来ないけど、埋め合わせくらいは出来るでしょ?」
 酷い話だ。
 そう思う。
 だけど、
「そうだね」
 と春日は頷いた。
 彼女の言っている事を許されない事だ、などとは思わなかった。
 そして、それと同時に、彼女が自分の事をなんとも思っていなくても、自分は彼女の事をやはり好いているのだ、と言う事実だけがそうさせた。
「ねぇ、奈菜」
「なに?」
「愛、とは違うけれど、僕は君の事が好きだよ」
「ありがと」
 彼女に好意を口にしたのは初めてだったように思う。
 きっとそれに対して、彼女の返答がつれないものになると分かっていたから。そして今でもそれはなんら変わりないものではあるけれど。
 けれど。
 それは少し、柔らかくて暖かさを持つ。
「ねぇ、春日君」
「なに?」
「私達ってさ。生きてる意味あるかな」
「さぁ、どうだろう」
「私さ、時々思うんだ――」
 空を見上げた。
 青でも黒でもない、赤い夕暮れの空が広がっている。
 オレンジにも近いその色は、それに反してどこか茫洋としていて、穏やかさと同時に、どうしようもないほど寂しくさせられるような憂いを帯びている。
 誰かと言う「あなた」は空になにを見出す?
 春日はぼんやりとそれを見つめた。
 なにもないけれど、彼女と並んでそれをじっと見ているうちにまるで時間が止まってしまったかのような錯覚へと陥っていく。
 多分、死への途中なんだよね、今の私達は。
 生きてるんじゃなくて、死ぬ途中なんだよ、きっと。
 うん、だから結局私達って。
 ゆっくりと自殺をしてる最中なんだよね、今。
63, 62

秋冬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る