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五/孵化

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      (二十六)


「ねえ、茎也くん」
 前を歩いている季菜が言った。茎也はその後ろ姿に目をやる。歩き、肩を揺らすたびに金紗の髪が違う光の弾き方をするのは、見ていて飽きなかった。
 茜色の帰り道――そこは片側が切り立った上り坂の終わりで、田んぼいっぱいに広がった稲の海がそよ風になびいているのを見下ろすことができた。
「なんだ?」
 聞くと、まるで他愛ない世間話でもするかのように季菜の背中は言った。
「人を殺すのって、なんでもないことなんだよ」
「え?」
 聞き間違い――にしては性質(たち)が悪い。茎也は思わず笑ってしまう。まあ、季菜にだってたまには冗談を口にしたくなるときがあるのかもしれない。この際、センスには目をつむっておこう。人間、慣れないことをするとうまくいかないものだ。
 と。
「聞いてる? 茎也くん」
 季菜が足をとめた。風が絶え、なかば無音の状態になる。
「あ、ああ……案外そういうものだったりするのかもな」
「違うよ。“そういうもの”なんだよ」そう言いきって、季菜は切り立ったほうへと流れていった。通学用のボストンバッグを地面に下ろし、ガードレールに手をかけ、空にむかって身を乗り出す。「最初はちょっと怖いかもしれないね。どんな感じなんだろうって……でも、心配しなくていいんだよ? みんなが思ってるよりも、簡単に人のからだは破れていくから。特に茎也くんとか男の人は、意外と生命力がなかったりするんだよね……」
「ちょっと待てよ、季菜」たまらず、茎也は制止をかける。
「ん、なあに?」
「なんかさ、嫌じゃないか? 人を殺すとか、変な話……それに」
 それに――きみは、そういう子じゃないだろう?
「厭じゃないよ」
 季菜は優しく否定すると、ガードレールから手を離した。風が動きはじめる。耳周りの髪を押さえながら、彼女はくるりとからだを反転させて茎也にむき直った。
 そして。
「むしろ本領かな。だって、私……そういう子だから」

 その目は――鮮やかな真紅に染まっていた。

「な……」
 茎也は言葉を失う。
 そんなはずはない――季菜は、朱鷺菜じゃない。
 しかし、目の前の少女は確かに季菜だった。おとなしそうな目つき、仔兎を彷彿とさせる佇まい。そしてなにより、まとう空気が季菜以外のなに者でもなかった。ただ一点、ひどくあべこべでちぐはぐな瞳の色を除いては。
「なんで、眼が……」
「えっと、なんでって……茎也くんは知ってるでしょ? 不退院は妖魔の血筋だってことは前に話してあげたつもりだったけど」
「違う。そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」季菜は薄く笑った。幾度となく見た、彼女自身が持つ笑顔。それが今はどうしようもなくずれているような気がした。「茎也くんだって、ほんとはわかってるくせに。私はね、そういう子。そういう“血”の子なの。だからね、人を殺すのはなんでもないことなんだよ」
「そんなわけ、ないだろ?」
「ううん。ほら、たとえば……こういうことも、なんでもない」
 なにを思ったのか、季菜はからだを後方に投げ出して、スキューバダイビングの入水の仕方と同じように、頭からガードレールのむこう側へと消えた――そちらは、コンクリートで固められた人口の崖だ。侮れない高さがあり、へたをすれば命を落としかねない。
「と、季菜っ」
 茎也はあわててガードレールに駆け寄った。だが、覗き込んだところには灰色の地面が見えるだけで、赤く頭部を開放した季菜の姿はなく――
「自殺って、自分を殺すことなんだよね。けっこう面白いよね」
 くすくすと甘い声に振りむくと、季菜が立っていた。瞬間移動したみたいに。逆光で表情はうかがえないが、きっと笑っていると思った。こんなことで、彼女は笑っている。
 すると――急速に日が落ち、視界全体が深い闇に飲み込まれてしまった。おかしい。いくらなんでも、こんな完全な盲目の世界になるはずがない。
 茎也が唾を飲み込むのと、闇の中にふたつの赤い光点が灯ったのは同時だった。
 その昏い光が囁く。
「茎也くん、さっきから変だよ? なにを驚いてるの?」
 すると、別の場所にまた一対の赤い光が現われた。
「心配だな……熱があるんだったら言って?」
 他方に同じものが出現し、
「もう茎也くん、やっぱりとぼけてるんでしょ?」
 千尋の闇には次々と数えきれないくらいの赤い光点が連なっていき――
「私はわかってるよ」「なにもかも受け入れてくれた」「どうしたらいいの?」「なにも怯えなくていい」「茎也くんが好き」「殺されるわけにはいかない」「知らないんじゃない、知ろうとしないだけ」「その目はなにを見てきたの?」「せっかく言ってあげたのに、なんにも理解しようとしないんだから」「空っぽ」「正しいことは危ない」「あの子も所詮」「危ないことが正しいとは限らないけれど」「だったらわかるまで教えてあげるね。何十回でも。何百回でも。何千回でも。何万回でも」「死んでも」「茎也くんにはあんまり伝わらなかったみたい」「でも、悲鳴を上げるまで」「本性」「ねぇ」「知ってもらいたいな」「ねぇ」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「茎也くん」「もう一度言うよ」「茎也くん」「茎也くん」「もう二百五十三度目だよ」「茎也くん」「私はね――」

 ――人じゃないんだよ――

 気がつけば、世界が赤一色に覆われていた。
 隙間などない。この空間のすべてが眼光だと気づくのに、時間はかからなかった。
 そして。
 あとはもう、絶叫することしか茎也には残されていなかった。
 化物――と。

                   ◇

 それでも名を呼ぶ声が聞こえてくる。
 茎也くん。茎也。嶋原茎也。嶋原。嶋原――……。
「嶋原」
 茎也は瞬間的に目を覚ました。
 顔を上げると、国語教師がこちらを見ている。つづいて、クラス中の視線が自分に集まっているのがわかった。どうやら居眠りをしてしまったみたいだ。
「嶋原、次の漢詩読んでみろ」
「あ……」
 しばし思考停止していると、前の席の水木未来がそっと振りむいて囁きかけてくれた。
「教科書の百四十二ページだよ」
「わ、悪い」言われるままに教科書をめくり、席を立とうとしたときだった。彼女が自分の顔を凝視していることに気がついた。寝癖でもついているのだろうか。
「嶋原くん……どうしたの? すごい汗だよ?」
「え?」
 茎也は目頭から小鼻までを手で拭ってみた。嫌な汗が指に光沢をつくっている。
「それに顔も真っ青だし……やばいんじゃないの?」
「ん? なんだ、嶋原は気分が悪いのか?」教科書をいったん閉じて、近づきながら国語教師は訊ねてきた。「確かに辛そうだな……保健室にいってもいいんだぞ」
 茎也は逡巡したあと、言った。「じゃあ、いってきます」
 立ちくらみをこらえつつ教室を出る。渡り廊下から見上げた灰色の空からは、しとしとと線の細い秋雨が降っていた。ここ数日は同じような天気がつづいている。
「失礼します」
 保健室には誰もいなかった。電気が落とされており、雨空も手伝って昼間らしからぬ薄暗さがある。茎也はベッドにからだを横たえた。ひんやりとしていて、ちょっと黴臭い。
 天井を見つめながら、身体を休めることだけを考える。けっして目を閉じてはいけない。眠りに落ちてしまえば、先ほどの二の轍を踏むことはわかりきっていた。
 茎也は壁掛けカレンダーに目をやった。
 十月のなかば――あの悪夢を見るようになってから、二週間が経っていた。
 その発端を考えれば、廃ビルで久布白硯の他殺体が発見された週明けまで遡る。
 その日、不退院季菜が教室をざわめかせたのは、金紗の髪を披露した入学式以来のことだった。交通事故での被害を疑うレベルの重傷を負って登校してきたのだから、無理もないのだけれど――彼女は右手を三角巾で吊り、包帯を頭に絡ませ、左目には眼帯をかけていた。頬や膝などにもガーゼが当ててあり、制服の下も同様の惨状を呈していることは容易に想像できた。
 それでも、季菜の様子に変わったところは見られなかった。いつもと同じように誰とも目を合わさず席につき、ホームルームの開始を待っているだけだった。当の本人がそんな感じだから、誰も声をかけることができなかった。
 彼女の話は午前中に全校に伝播し、様々な尾ひれがついた状態で茎也の元へやってきた。中には恋人――つまり茎也――に痴話喧嘩のすえにやられたというものまであったが、その手の噂に耳を貸す必要はなかった。いや、耳を貸せたらどれだけよかったかと思う。彼女の負傷の理由も、その代償を払ってまで辿り着いたひとつの結果のことも、身が戦慄くほどに彼は知っていたのだから。
 そして終業後。無人の校舎に静寂が下りる中、茎也は三年三組の教室にむかった。引き戸の前に立つと、そのむこう側にかすかに人の気配があった。
 開く。
 彼がくることを予期していたのだろう。人格の交替を済ませていた朱鷺菜が、鮮やかな夕焼け空を背に机の上で足を組みながら待っていた。白い太ももがスカートから伸び、ひざ下はまっすぐに下りている。じつにふてぶてしい態度だった。
「朱鷺菜」
 名を呼ぶと、あいかわらずの人を食ったような顔で見返してきて、「なんだ」と言った。この状況を用意している時点で、茎也の言いたいことぐらい予見できているはずなのに。
「おまえ……本当に、久布白硯を」
「はっ、単刀直入だな。女に気遣いの欠片も見せないとは、男としてどうかと思うぞ。私はこんな木乃伊(ミイラ)みたいになっているというのに」科白をさえぎって、朱鷺菜は顔や右腕に手を滑らせた。じっとりと茎也に見せつけるように。
 茎也はそんな仕草に苛立ちを覚えざるをえなかった。
 どうせ人とは違う“血”ゆえにすぐ直るくせに、よく言う。
「おい、答えろ――」
「――ああ、殺した」
 茎也はかたまる。朱鷺菜の緋色の瞳は、旧花川公園での出来事を思い起こさせた。口腔内に鋏を突き入れたときのそれとまったく同じ、有無を言わせぬ冷酷な眼差し。
「それがなんだ。確かに私は久布白硯を殺した。だが――それが、なんだ」
「なにって……」
 なにを言っているんだ、この女。
「そのままの意味だ。殺人なんて珍しいものじゃないだろう? むしろ日常チャメシゴトだ」彼女は机から降り立ちながらつづける。「憎かったから殺した。肩がぶつかったから殺した。目が合ったから殺した。邪魔だから殺した。目障りだから殺した。耳障りだから殺した。そこにいたから殺した。殺したかったから殺した――そして私は、殺すべきだったから殺した。どうだ、ずいぶんとまともなほうだと思わないか」
「……まとも?」
「ああ。まっとうに、まともだ」
 なにか精神的な核が粉々に砕け散るのを、茎也は感じた。
「おまえは」
 たとえ殺すべきだったとしても。殺さなければならなかったとしても。
 ――人殺しは人殺しだ。
「おまえはまともじゃないっ! そんなもの……まともなわけがないだろうが! 人を殺しておいてなに言ってやがんだ、この――」
 と、突如。
 左腕が眼前に伸びてきたと思ったころには、朱鷺菜に胸倉をつかみ下ろされ、赤い瞳がすぐそこにあった。冷たい息が唇に触れるほどの距離だ。
「この――? なんだ、言ってみろ」
「くっ……」
「よぉーくわかっているじゃないか。おまえの言うとおり、私はまともじゃないんだ。生まれも、容姿も、血も、なにもかもだ。だから、ひょっとしたらおまえのこともなにかの拍子に殺してしまうかもしれないな。坂崎亜郎みたいに、喉を裂いて気道に溢れる血で溺れさせてやろうか。それとも久布白硯みたいに、大動脈を輪切りにして体内に血をぶちまけさせてやろうか」
 そう背筋の凍てつく声で言うと、朱鷺菜は茎也の体躯を投げ捨てた。机や椅子を巻き込んで静寂が砕け散る。そして身を起こす暇も与えず、こんどはしゃがんで、生乾きの血が油彩絵の具のように付着した諸刃の鋏を彼の鼻っ面に突きつけた。
 血――久布白硯の死の残滓。
 殺人の残り香。
「よく見ろ。よく嗅げ。よく味わえ。これが私――そしておまえだ」
 唇に刃をあてがわれる。恐怖に重ね、動物的な異臭や毒々しい命の色が五感に押し寄せてきて、茎也は込み上げてくる嗚咽を抑え込むに必死だった。胃酸の押しつけ合いは、いっこうに治まる気配を見せずにしばらくつづいた。
「はたしておまえに理解できるのかな。“これ”を」
 そう言い、朱鷺菜は身を引く。いまだに口を押さえている茎也には一瞥もくれずに、通学鞄を肩にかけてつかつかと教室から出ていこうとする――と、戸を開けたところで立ち止まったかと思うと、背をむけたまま口を開いた。
「おまえは勘違いしている。私は、私たちは、人間じゃないんだ」
 花(ひと)から蜜(ち)を啜る妖蛾の末裔だ――と言った。

 そしてその夜――夢を見た。
 それから毎日毎夜、同じ夢を見つづけている。
 それから毎日毎夜、同じ叫びを上げつづけている。

 もはや限界の日は近かった。
 何度経験しても慣れるということはない。目覚めが悪いなんてレベルはとうに越えていて、逆説じみてはいるが、目覚めとともに死んでいくような気持ちさえする。
 そして夢の中の言葉を反芻して、茎也は思う。
 本当に自分はトキナという少女のことを知っていたのだろうか――と。
 人あらざる者たちの真実を、彼女の正体を知ったつもりでいただけではないのだろうか。いや、その話すらも聞いていたつもりだったのかもしれない。頭のどこかに殻をこしらえ、そこに閉じこもっていただけなのかもしれなかった。
 実際は、知ることを放棄して顔を背けていたにすぎなかったのだ。
 その辻褄合わせが今起きている――こんなにもトキナに怯えている自分がいる。
 季菜と会うことはまったくと言っていいほどなくなった。眠りに巣食う赤い夢が牙を剥くたびに、足は彼女の教室から遠のいていった。遠のいていくほどに冷たく麻痺していく彼女への想いもまた、感じていた。
 ある日突然、季菜の目が真っ赤に染まってしまうような気がして怖かった。
 彼女の目が怖かった。
(ちくしょう……)
 気がつくと、空では明と暗が錯綜していた。からだを起こし、時間を確認する。終業時刻を大幅にすぎていた。眠らないようにと思惟に耽っていたのが裏目に出て、午後の授業を丸々潰してしまったみたいだ。
 汗は引いていた。しかし、長く息を吐き出すと頭に波紋に似た痛みが広がった。さすがにまだ回復したとは言えない状態だが、このままここにいるのと家で休むのとはたいして変わらない。「帰ろう」とひとり呟き、茎也は保健室をあとにする。
 渡り廊下から外にそれる。雲の隙間から飛び出した一条の射光が運動場の水溜りに光を溜めていた。吹奏楽部の演奏が音楽室の窓からもれている。長閑な風景――空も人もこの町に息づく魔のことを知らない。知りえる状況にいて知ろうとしなかった者に比べれば、ずいぶんと善良なのだろうけれど。
 がらんどうの校舎内に戻り、茎也は教室の扉を開けた。

 そこには――少女のシルエット。

「とっ……」茎也はとっさに身構えるが、
「あ、く、茎也くん」
 立っていたのは、長い黒髪をハーフアップにした奈緒希だった。
 一瞬、金髪の少女の姿を幻視した――自分はなにをしているんだろう、と茎也は思った。トキナと奈緒希は似ても似つかない。彼女はまぎれもない人間なのだ。
「ぐ、具合はどう?」おずおずと聞いてくる。「みんな心配してたよ」
「ああ……まあ、今はそんなに悪くないかな」
「そうなんだ。よかった」
「それはそうと、どうしてまだ学校に?」
「えっと……教室の前を通りかかったら、茎也くんの鞄がまだ机にかかってたから……」
「いや、そうじゃなくて」
 すると、奈緒希は言葉の意味するところに気づいたらしい。手に提げていた革製のケースを見せて可愛らしく笑った。「えへへ……受験勉強の息抜き。後輩の子たちにお願いして一緒に演奏させてもらったの。久しぶりだったからちょっと間違えちゃった」
 ――それは自身でも思ってもみないことだった。
 とくり、と。
 その花開くような笑顔を目にしたとき――茎也の心臓は揺れ動いた。
 さきほどまで停留していた頭痛が不思議なくらいに癒えていき、長い季節の中で忘れかけていたある感覚が徐々に息を吹き返しはじめる。
 闇や死や血などどこにもない。
 恐れるものなどなにもない。

 それは――“日常”という名の安らぎ。

 それを知った茎也の口は、ごく自然に動いた。「奈緒希ちゃん」
「ん?」
「今日、一緒に帰ろうか」
 奈緒希は驚いた表情の中に、かすかに朱を浮かべて彼を見た。
      (二十七)


 窓の外を見ると、木枯らしが吹いている。空気は熱気の靄を完全にとり払い、夜を越えるごとに冷たさを増していた。秋の終わりが近づいていた。
 昼休みだった。茎也、奈緒希、加瀬、水木の四人は机を寄せ集めて昼食を囲んでいる。加瀬は購買部のパン。奈緒希と水木は色とりどりの女子らしい弁当。茎也は例によって例のごとくの残り物の坩堝だ。それらをつつきながら、すぐに忘れてしまうような、けれどその一つひとつの集まりがいつか忘れがたい思い出になるような話をする。茎也にはそれが、懐かしくも新しい日々のように思えた。ずっと手の届く位置になかった“日常”が、今確かな温度をもって手のひらの中にあるような気がした。
 と、ふと思い出したように加瀬が言った。
「そういえば……廃ビルの事件ってめっきりニュースで聞かなくなったよな」
「それって、杖ついてた人のこと? 加瀬、町で会ったって話してたよね」
「ああ。だから気になってるんだ」
「それはそうだろうねえ」
 加瀬と水木の会話に、茎也は箸を止めた。
「過去の清算をしにきたって言ってたんだけど、事件と関係あったんかな」
 不退院に対する復讐のことだろうと思った。しかし、そのことを口外していいはずがなかったし、するつもりもなかった。誘木の忠告を受けるまでもなく、そう強く感じていた。
『暮東でまたも殺人事件』と銘打たれた事件は、はじめこそは大々的に報道されたものの、その後の続報はぱったりと途絶えてしまっていた。それは、不自然さを感じるほどに唐突だった。迷宮入りと言うには早すぎるし、被害者の身元もいまだに公表されていない――いや、公表できないのだ。誘木や政府の機関が、報道規制などなにかしらの手回しをしたに違いなかった。
「久布白……硯」
 誰にも聞こえないように呟いてから、箸を置いた――そのとき。
 ふいに、茎也は首筋に視線が触れるのを感じた。
 振り返る。開け放たれた教室の出入り口のむこうに廊下が見え、思い思いの時をすごす生徒たちのあいだに――季菜がぽつんと立っていた。どこか物欲しげな眼差しで、こちらの様子をうかがっている。そして目が合ったとたん、頭の深部から声が聞こえた。
 ――あの女は“非日常”だ――
 はっとしてにらみつけると、季菜はびくりと肩を震わせて、小走りで消えていった。
 近ごろ、似たようなことが場所や時間を変えて起きていた――気がつくとそこに彼女がいる。目立ったアクションもなく、じっと見つめてくる。それに反応して拒絶を瞳に表すと、失語症に罹ったみたいに口を閉ざして逃げていくのだった。
 茎也は、夢を見はじめてからずっとトキナを遠ざけていた。そうすればそうするほど、平和な日々がつづいていくような気がしていた。だが――それに比例して季菜の表情はしだいに乏しくなり、その薄茶色の目には神経衰弱の気があるように思えた。
 今のがまさにそれだった。
「おーい、嶋原」季菜から意識を切り離すと、加瀬が顔の前で手をひらつかせていた。「むこう見つめてどうしたんだよ。猫がしているのと同じだな。幽霊でも見てたのか?」
「いや……」
 似てないこともない――呟きかけた言葉を心にとどめて、茎也は弁当のほうに意識をもどした。だが、急に味気なくなった気がして、それ以上箸を進めることができなかった。
 そのまま胃に補給物資を送ることができずに午後の授業を終えると、無駄話に花を咲かせることもなく、茎也は奈緒希をつれてすばやく教室をあとにした。もはや最近では習慣になっていた。少しでも長居すれば、季菜が近くにやってくるからだ。
 下校に奈緒希を伴うようになってから、少なくとも一ヶ月はすぎていた――季菜から離れ、奈緒希に接近していくほどに恐怖や不安といったものが薄れていき、代わりにやわらかな光が胸の中に灯っていくのだった。同時に、完全に途絶えたとは言いがたいが、赤い悪夢を見る回数は格段に減少していっていた。
 奈緒希が口の中で呟くように言った。
「茎也くん」
「なんだい?」
 前をむいたまま応じる。坂の上にならんだ影法師は長く伸び、舗道は夕空の下で微妙な色合いに染まっている。眼下に広がる、茎也たちの家がある住宅地も同様だった。
「不退院さんとなにかあったの?」
 茎也は奈緒希を見た。真剣な眼差しが注がれている。
「なにって」
「前はいつも不退院さんと帰ってたのに……最近はその、私とばかり帰ってるから。学校でもふたりでいるところなんてめっきり見なくなったよね。先週の文化祭のときだって、ずっと加瀬くんたちと回ってたし。ねえ、いいの? 私が……ううん、私といていいの?」
 最後のほうはやるせなさも交じっているような感じだった。茎也はなんと答えればいいのかわからなかった。ただ、彼女にすべてを話すことはできない。してはならない。
「なんでもないよ。色々あるんだ。ただ、今は会いたくない」
「本当になんでもないの……?」
「ああ、奈緒希ちゃんは別に気にしなくていい。……これは俺の意思だから」
 そう言うと、奈緒希の口はもう次の言葉を紡いでくることはなかった。納得はしきれていないようだけど、そこから先の領域には踏み込めないみたいだ。加えて、茎也にもこの話題で話せるようなことは残っていない。自然、沈黙が広がっていく。
 すると、背後から軽トラックがふたりを追い抜いていった。きゃ、と勢いに押されて奈緒希がよろめいたので、茎也はとりあえずからだを支えてやった。
「大丈夫か?」
「あっ……だ、大丈夫っ」奈緒希は脱兎がごとく身を引く。
 そこまで慌てたふためいた顔をされると、なにか悪いことをしたような、軽トラックよりも迷惑なことをしたような気持ちになってくる。「ごめん」
「う、ううん……いいの」
 いいの、いいの。そう度自らに言い聞かせるようにこぼすと、奈緒希は頬をうっすらと赤らめながらも、意を決した様子で茎也の顔を見上げてきた。
「く、茎也くん」
「なに」
「あの……今日、茎也くん家いってもいい?」
「? どういうことだ?」
「い、いや、違くて……違わないけど……その、今晩のうちのおかず私がつくることになってて。よかったら茎也くんにも食べてもらいたい……かもって思って……」
「いいよ」
 茎也が二つ返事で承諾すると、予測していなかったのだろう、奈緒希は目を丸くした。
「うれしいよ。是非持ってきてくれ」
 茎也は薄く笑う。そしてその笑顔に応えるようにして「じゃあ、あとで持っていくね」と奈緒希は嬉しそうに微笑み、きっと自分でも気づいていないのかもしれない、そのまま少しだけ自然に肩を寄せてくるのだった。
 次の瞬間――茎也の脊髄を極細の氷柱で突き刺されたかのような悪寒を感じた。
 反射的に振りむく。しかし誰もいない。茜色の風が、そ知らぬ顔で頬を撫でていった。
「茎也くん、どうしたの?」
 奈緒希が不思議そうな顔をしていた。どうやら彼女はなにも感じなかったみたいだ。少し疲れているのかもしれない。茎也は首を横に振り「なんでもない」と歩きはじめる。
「今日も加瀬くんが言ってたけど、茎也くんって本当に幽霊が見えてたりするのかな」
「まさか。無茶言わないでくれよ」
 冗談交じりに奈緒希は笑う。茎也もおかしくなって笑う。
 ――そんなふたりの背中を、坂の上から見下ろす影があった。
(あの女……)
 不退院朱鷺菜の双眸には、静かな怒りが宿っていた。
(あの女――また邪魔をする気か)
 二学期がはじまってから、ずっと季菜の視点を通して見てきたけれど、北野奈緒希が障害となっていることは疑いの余地がなかった。学校生活のほとんどの場面で茎也のとなりに陣取り、あたかもその資格があるかのように笑顔を振舞っている。その光景は、八年前の夏に繋がるものがあった。病室の中に見たふたりの姿と重なるのだった。彼女は自分にないものをすべて持ち合わせていた。自分にできないことをすべてしていた――そう、あのときも、あの黒髪の少女は可愛い顔を見せていた。ありのままの姿で茎也に触れていた。
 するとフラッシュバックに連動して、赤い感情の閃光が当時の臨場感そのままに朱鷺菜の中に鮮やかによみがえってくる。
 ――ナオキ。
 一度ならず、二度までも。
 そうやって媚を売って、簡単に茎也の心に入り込んでいくのか。
 なら。
 きさまがその気なら。
 私にも――考えがある。


 その夜。
「お母さん、私の風呂敷どこ? あの花柄の……」
「食器棚の下にないの?」
「あ……あった」
 奈緒希は、まだ温かい夕食のおかず――今日特訓したのは無難に肉じゃがだ――のつまったタッパーを風呂敷で包んで、よしっ、と胸の前で小さくガッツポーズをした。玄関へと駆けていき、戸口の横の姿見で淡いベージュのキュロットスカートの上にチェックシャツという格好の少女を確認したあと、多恵にむかって言う。
「じゃ、じゃあ……いってきます」
「はいはい。おいしくできてよかったね、奈緒希ちゃん」
 奈緒希はなにも言わずに、頬を桜色に染めながら家を出た。ここから茎也の家まで百メートルほどだ。包みを胸に抱き、その温度を感じながら彼女は思う。
(――やっぱり、茎也くんは不退院さんとなにかあったんだ)
 本人は気取られまいとしているみたいだが、茎也の態度を見ていれば薄々見えてくるものがあった。秋口ぐらいから季菜を避けつづけている彼は、彼女に負の感情を抱いている。その原因となっているのがなにかはわからないが、自分にできることがあればしたいと奈緒希は思っていた――私の力なんて微々たるものだろうけど、気休めにもならないかもしれないけど、相談に乗ってあげたい。それぐらいなら許されるはずだ。だって、私は茎也くんのいとこなのだから。
 だが、その半分は建前であることも認めていた。残りの半分は、茎也のそばにいたいという気持ちに満たされている。胸の中のタッパーは、その気持ちの表れだ。季菜から彼を奪おうとは考えていないけれど、それでもやはり現実に後ろめたい部分があるから、説得力に欠けるのはいたしかたない。もやもやとした嫌な気分だった。
 と。
 夜道のむこうに人影が見えた。
 奈緒希と人影のあいだには街路灯が立っており、その真下、円形の光に人影は近づいてくる。するとしだいに輪郭が鮮明になっていき――金色の輝きがあらわになった。
「……不退院さん?」
 彼女は制服姿のままだった。俯いた状態で、ゆらりゆらりと近づいてくる。思わず奈緒希はあとずさった。なにか本能的な警告音が耳奥で鳴っていた。
「ど、どうしたの? こんな夜中に」
 彼女は問いに答えずに言った。他人のような声質だった。
「茎也から離れろ」
 口調さえも違う。奈緒希の不安は膨らんだ。
「どういうこと……?」
「きさまはずっとそうだ。そうやって悪びれもせずに茎也に忍び寄っていく。あのときも、今も。どうやって茎也を絡めとった。女狐め。それとも売女か。どちらにせよ薄汚いことに変わりはないが。きさまは知らないはずがない。茎也は“私”の恋人なんだぞ」
『あのとき』という言葉が気になりかけた奈緒希だったが、それは横に置き、言い返した。「うん、それはわかっている。不退院さんの言いたいことはわかるよ。でも……」
「……口答えか?」
 ギロリと睨まれたような気がした。一瞬、唇が凍りつきそうになる。だが、奈緒希は引き下がらなかった。引き下がりたくないと思った。いつのまにか、胸の痞(つか)えに立ちむかおうとしている自分がいた。
「く、茎也くんは」
「……黙れ」
「茎也くんは、不退院さんとは会いたくないって……っ」
「黙れッ!」
 そう怒号を放ったとき、一陣の風が吹き抜けた。奈緒希の髪はもちろんのこと、彼女の金紗の髪もヴェールを開くように舞い上がる。顔が街路灯の光にさらされて――奈緒希は息を呑んだ。
「不退院さん……なんで、目が」
「っ……!」
 彼女の瞳は真紅に染まっていた。あわてて乱暴に前髪を掻き下ろして両目を隠そうとしているのが、見間違いではないことを裏付ける。
 奈緒希が驚愕のあまり動けないでいると、突然、金髪の少女は黒い鋏をとり出した。刃が内側と外側できらめいている、見たこともない不気味な鋏だった。
「不退院、さん? なに、それ」
 ふふっ、と笑い――朱鷺菜は言った。「掟に触れてしまったか。それはそれで、ちょうどいいかもしれない。きさまを排除する口実ができたと思えば」
 鋭利な刃先がむけられる。危害を加えるつもりだというのはわかったが、奈緒希の足は震えるばかりで動こうとはしなかった。鋏が肉食獣の口腔のように開き、肌に迫ってくる。
(助けて――茎也くん!)
 そう、なす術もなく目をつむった瞬間だった。
「奈緒希ちゃん!」
 茎也が朱鷺菜をドンと押しのけて、奈緒希を背に庇(かば)うようにして立ち塞がった。そして迷うことなく、ありありと敵意のにじんだ目つきで朱鷺菜を見すえる。その口からもれてきた言葉は怒りに満ち満ちていた。
「……どういうことだ」
「く、茎也」朱鷺菜はあとずさる。
「奈緒希ちゃん迎えるために縁側にいたら声が聞こえた。彼女と、おまえの声だ。駆けつけてみたら、これはいったいどういうことだ。どういうつもりなんだ。なんでおまえは奈緒希ちゃんにその鋏を突きつけているんだ……」
「違う。私はただ、あの子のことを思って。あの子は、今」
「――殺すのか」
 朱鷺菜の表情がこわばる。胸に、水銀のようななにか重たい液体が垂れ落ちてくるのを彼女は感じる。殺すのか――なんて、本当はそんな気持ちはない。適当に怖い目に遭わせて、それで奈緒希が茎也から離れてくれれば、それでよかった。それだけなのに。
「こうやって、久布白硯のように――おまえは人を殺すのか」
 誰が売り言葉に買い言葉なんて言ったのだろう。
 耐えきれなかった。
「っ……ああ! 殺してやるさ! おまえが見てきたのと同じように、私はその女を殺してやるつもりだった! なにも違わない、はじめから殺してやるつもりだったんだッ!」
 パン――と夜の住宅地に風船の割れるような音が響き渡った。
 当初、朱鷺菜にはなにが起きたのかわからなかった。ゆっくりと頬に手を伸ばすと、痺れに似た熱さがあった。平手でぶたれたことを認識するまでに時間を要した。
 一方で、手を上げた茎也は、やってはいけないことをしてしまったと思った。急に頭に血がのぼって、気づいたときには振り抜いていたのだ。
 頭が冷静さをとり戻していく中で、殺されると感じる。
 こんなことをしたのだ。あの朱鷺菜が許すはずがない。
 間違いなく、例外なく、前例に倣い、殺される。茎也は思わず目をつむった――が、予想した殺意はやってこなかった。おそるおそるまぶたを開いてみる。怒り狂うどころか、朱鷺菜は鋏をむける素振りさえ見せていなかった。茫然と手を頬に当てているだけだ。
 そして次の瞬間。
 つう、と――彼女の切れ長の目の端から、なにか透明な光が流れ落ちた。
(まさか……涙?)
 そう思ったとたん、朱鷺菜は背をむけて、闇の中へと跳び去っていった。なにをどうしようというわけではないのに、呼びとめようと彼は身を乗り出す。だが、すぐに後ろに重心が引っぱられた。振り返ると、奈緒希が上着の裾をつかんでいた。いかないで、と言うように黒い瞳が揺れている。
 からだの内側から力が抜けた。「大丈夫だったか?」と今さらながらに訊ねる。
「く、茎也くん。不退院さんどうしちゃったの? 人が変わったみたいに怖くなって」逡巡するように区切ってからつづけた。「目が真っ赤になってて、ふつうじゃないよ……」
 彼女は見てしまったのか。禁忌の色を。鬼の瞳を。
「いや、あれは……なんでもないから」言いわけすら思いつかないのかと思う。
「そんなわけないよ。ねえ、教えて。不退院さんはなんなの。あの目は……茎也くんが彼女を避けているのと関係があるの? それに、また殺すのかってどういうことなの?」
 茎也は拳を握りしめたまま黙っていた――もう誤魔化せそうにない。なら、奈緒希にすべてを話すのか。無理だ。そんなことできるはずがない。彼女を、自分が潜り込んだ暗渠(あんきょ)の流れの中に引きずり込むような真似はしたくない……いや、遅い。すでにもう手をつかみ下ろしかけているのかもしれない。そっと押し戻してやらなければならないのかもしれない。
 しかし――茎也は、奈緒希に己が抱え込んでいるものを吐露したいと思っている自分がいることも知っていた。重苦しい事実の数々をずっと胸のうちにしまってきたけれど、それが今決壊しかかっている。
「お願い、教えて」
「でも……」
「いいから。私、茎也くんの力になりたい」
 力強い言葉。決壊を導くのには十分だった。
28, 27

  

      (二十八)


 さきほどの出来事がまるで幻だったかのように、暮東の町には静けさが漂っている。
「茎也くん。それって本当なの?」
「嘘をついているように見えるか……?」
 ひとまず自宅の縁側に腰かけて、茎也は奈緒希にこれまでのことを話した。
 社会科準備室でのこと。坂崎亜郎のこと。二重人格のこと。旧花川公園でのこと。夷越山のこと。不退院という人あらざる一族――誘木のことだけは伏せておいた――のこと。赤い眼のこと。久布白硯のこと。そして、彼女を朱鷺菜が殺害したこと。
 それらを、奈緒希はずっと俯いたまま聞いていた。茎也も俯いたまま語っていた。だが言葉と一緒に、胸の奥で蟠っていた感情の澱が外に吐き出されていくのを彼は感じていた。そこにあるのは安堵以外のなにものでもなかった。それが共有と言うのもおこがましい、奈緒希に押しつけるようなものになっているとしても。
「これからどうするの?」
 奈緒希が覗き込み言った。茎也は「わからない」と掠れた声で答える。背を曲げて、両手で頭を抱えた。「どうしたらいいのかわからないんだ。ただ、怖い。くそ……俺はなに言ってんだろうな。きみのほうがもっと怖い思いをしているのに」
 奈緒希はその背中を見つめた。大きいはずなのに、とても小さく見える。
 そのとき、茎也が発熱して看病した日のことを思い出した。今と同じ丸い背中。それを後ろから優しく包み込みたい衝動に駆られた。あのときは、手が足がからだが、悲しいほどに動かなかった――そうするほどの勇気が備わっていなかった。
 でも、今は違う。
 そっと腰を浮かせ、茎也のうしろで膝をつく。
 今は違う――だって、私は茎也くんのいとこだけじゃなく、理解者になりたいから。
 彼女はからだを茎也の背に預け、優しく抱きしめた。
「……茎也くん……」
 奈緒希がそう呟くと、彼の指先が彼女の白い手に触れた。


 茎也にぶたれた。
 茎也に――ぶたれた。
 それを理解した瞬間、心の中のなにかが割れた。ただ一発平手で叩かれただけ。あんなものは痛くもなんともない。廃ビルの中で比べものにならないくらいの劇痛を耐えてきたつもりだった。けれどその些細な痛みは――胸が引き千切られそうなほどに、痛かった。
 そして気づいたときには、涙が流れていた。
 けっして繰り返すまいと誓ってきた、八年前と同じ涙が。
 そのまま立っていたら、その場で泣き崩れて一歩も動けなくなってしまいそうな気がして、朱鷺菜は反射的に茎也の前から姿を消したのだった。
「はぁっ、はぁぅ……はぁっ」
 彼女は嗚咽を噛み殺しながら、夜の暮東を駆け抜け、山奥の屋敷へと帰ってくる。自室に雪崩れ込み、四つん這いになる。畳にむかって息を切らしていると、こらえきれなくなった涙が溢れてきた。止めようと思っても、ぼろぼろと透明な想いはこぼれ落ちていく。白砂が迎えた指のあいだをすり抜けていくように。
 自分は変わっていない――八年前のあの日からなにも変わっていない。
 茎也のことを想えば想うほど、運命の歯車は無情にも流れを変えていく。傷つけ傷つけられ、ひとりきりで悶え苦しむ様を誰かが嗤って見下ろしている。人じゃないくせに人と交わろうとするからこうなるのだ、と指を差して。
 こんなのはいやだ。こんな自分はいやだ――そう思い、からだを起こしたときだった。
 ドクン、と。
 朱鷺菜はえもいわれぬ感覚の襲撃を受けた。とめどなどないと思っていた涙がぴたりと枯れる。今まで体験したことのない脳の圧迫感に戸惑いながら、額に手を添えた。
 ドクン、と。
 まただ。無理やり舞台から引きずり下ろされるような、暗い海の底に引き込まれていくような意識の薄れを感じる。そんなことを思っているあいだにも次々と謎の鼓動は重なっていき、視界が霞みはじめる。
(まさか、これは、あの子が……?)
 それが彼女の最後の思考だった。
(茎也――……)
 カクンと、少女の首が椿の花が落ちるように折れた。しばしの静寂のあと、からだがぴくりとわずかな動きを見せる。なにかが憑依したみたいに。そして彼女は両手で顔を覆い、ゆっくりと自らの意識を確認するように下ろしていき、
「……あーあ、やっと起きれた」
 指の下から現われた両眼は――薄茶色に染まっていた。
 季菜だ。
 彼女は億劫そうに金髪を掻き上げると、視線を床に這わせた。すぐに畳の上で月光を反射する黒い鋏を、茎也との関係を切り裂く鋏を、発見する。おそらく朱鷺菜が這入ってきたときに投げ捨てたのだろう。彼女はそれを拾い上げ、しげしげと見つめたかと思えば――突然、自らの手首に刃先を突きつけた。
「どうしてあなたなんかがいるの?」
 先端が初雪のような肌を刻む。プツ、と切れたところから血が湧く。
「黙らないでよ。あなたが私の中にいるから、おかしくなっているの。あなたさえいなければ、もっと私は茎也くんといられるはずなのに。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ」
 季菜は淡々と呟きながら、切り傷に切り傷を重ねていく。一見、それはただの自傷行為に見えてしまうかもしれない。だが、彼女の目には映っていた。その身体の中に眠る、季菜(じぶん)とは違うもうひとりの朱鷺菜(じぶん)の姿が。
「邪魔をしないで」
 最後に言いきって、季菜は鋏を手放した。畳に落ちて赤い滴が飛ぶ。ふぅ、と清々したかのように息を吐き出してから、かずかな笑みを浮かべつつ鏡台へと近寄っていき、制服のスカートに折り目がつかないように正座する。鏡のむこう側には整った自分の容姿がある。それを虚ろな眼差しで眺めながら言う。「私はあなたと違う、れっきとした人間なんだもの。茎也くんだってわかってくれているよね。……でも、やっぱりそれっぽくしないといけないのかな。どうしよう」
 くしゃくしゃと金紗の髪を弄んだ。血がつくのも構わない。


 週明けの月曜日。
 茎也は奈緒希と一緒に教室に入った。
 彼女の手は、ささやかに茎也の指をつかんでいる。先週末の出来事から、二人のあいだにはいとこ同士という関係以上のなにかができあがりつつあった。それに名前をつけるように言われても、はっきりと表せられる言葉はないだろう。親類でもない、友達でもない、恋人でもない。ただ名もないひとつの繋がりだった。
 気がついた水木未来がやってくる。奈緒希の手がするりと指から離れた。
「おはよー、北野さん。嶋原くんも」
「ああ、おはよう」
 そう返すと、水木は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「ね、ね。嶋原くんってさ、不退院さんとなにかあった?」
「え……」
 なにか。
 なにかとは。
 確かに朱鷺菜の頬をぶってしまったけれど、それはこの学校におけるトキナではない。そもそもあのとき、周囲には誰もいなかった。水木はなにも知らないはずだ。
「あれ、記憶にない? ま、いいけどさ。ちょっと三組にいってみたら? 不退院さんがまた教室をざわめかせているよ」
「あ、ああ」茎也は曖昧に頷いて、とりあえず荷物を下ろしてから教室を出ることにした。その間際に軽く奈緒希と目配せし、廊下に踏み出す。
 三年三組の前には小さな人だかりができていた。この一二ヵ月ほど忌避しつづけてきた場所に近づいていくことには少なからず抵抗があったが、しかし足を止めるわけにはいかない。生徒たちの隙間から教室内を覗くと、最後尾の窓際の席に、見覚えのある小柄な女生徒の姿があった――だが、彼女の髪は窓から射す朝日を弾いてはいなかった。
 黒。
 黒。
 黒。
 そこに金紗の髪はなく、ひどく人工的な黒髪があった。
「ついに先公の説教に折れて戻したってことか?」
 近くにいる誰かが言った。
(違う……)
 戻したんじゃない――彼女は、髪の毛を黒に染めたのだ。
 とはいえ、完全に一色というわけではなかった。はじめてのことだったから、うまくいかなかったのだろう。ところどころに地の金色が見え隠れしていて、歪な模様として頭部を彩っている。蛾か蝶の幼虫の警戒色がそうであるように。
 自席に座っている季菜の周りには、驚くべきことに数人の女子が立っていた。今まで、彼女が教室の人間に話しかけられている場面など見たことがなかったのだ。彼女はいつも独りだった。女子たちは、ずっと頑なに金髪を守りつづけてきた彼女が、突然それを捨てた理由に興味が湧いたのだろう。知性の欠片もない顔でなにかしら喋っているが、当の季菜は反応らしい反応を見せていない。あさっての方向をぼんやりと眺めているだけだ。
 すると、彼女の目が茎也の顔をとらえた。
 音を鳴らして席から立ち上がる。かと思えば、囲んでいた女子のひとりをドンと横に押しのけた――というよりは突き飛ばした。「きゃっ」と悲鳴が上がり、みな意外そうに息を呑む。だが季菜は、それを気にするふうでもなく歩み寄ってくる。突き飛ばされた女子が彼女の後ろ姿を憎らしそうに睨めかけているのが、相対する茎也のほうから見えた。
「茎也くん」
 淡い笑みを湛えて言う。神経衰弱の目元を静かに緩ませて。
「と、季菜……」
 茎也にはどう接すればいいのかわからなかった。いや、どんな感じで季菜と接していたかが思い出せないのだった。約一ヶ月半ぶりにまともに会った彼女は、どこも変わっていないように見えたし、どこもかしこも崩れているようにも見えた。
 困惑の中に立っていると、朝礼のチャイムが鳴った。救いだ。茎也は「チ……チャイムが鳴ったからいくよ」と早口で残して、教室に戻るかたちで逃げ出した。
 しかし――それは一時的な避難にすぎなかった。
 やがて昼休みになり、いつもどおり奈緒希たちと机を囲もうとしているときだった。急に喧騒のボリュームが下がった。なんだろう、とクラスメイトの視線を追ってみると、出入り口のところに季菜が立っていた。
 彼女は近づいてきて、奈緒希や水木に平坦な視線を流すと、茎也をこくりと見上げた。金色と黒色が綯い交ぜになった髪が、肩のあたりで揺れた。
「どうしてこんなところにいるの? 待ってたのに」
「待ってた……?」
「だめだよ。茎也くんは私とお昼をすごすんだから。他のことしたら、だめ。ね、ふたりきりになれる場所にいこうよ。こんな人たち、どうでもいいから」
 どうでもいいって、なんだよそれ。
 言い返しそうになる。しかし、腕を引っぱる季菜の手は万力みたいに固かった。反抗らしい反抗も見せられず、彼は廊下へと引き摺り出されていく。
 ふたりが去ったあと――加瀬と水木が首をかしげ合う中で、奈緒希は唇を震わせていた。なんだろうあれは。なんだろうあの眼は。赤く染まっていたときとは違う、別の怖ろしさが今の彼女にはあった。でも、喩えることができない。当てはめるべき表現がない。
 それが、それこそが、怖い。


 茎也が連れられてきたのは、三階と屋上とを繋ぐ階段の踊り場だった。冬が近く外気が冷たいためか、屋上に出入りしようとする生徒はおらず閑散としていた。
「やっとふたりきりになれたね」季菜は茎也の腕を放した。その“やっと”という言葉が、ついさっきのことを表しているのか、茎也が彼女を遠ざけ続けていた時間のことを表しているのかはわからなかった。それだけならまだしも、感情さえも読みとれない。
 季菜は茎也の視線に、ふわりと小首をかしげて応えた。
「ん、どうしたの?」
「いや……印象が変わったな、と思って」
 髪を指先でいじりつつ、小さく笑んでくる。
「そうだね。茎也くん、どうかな。私……似合ってる?」
 ふとそのとき、茎也は以前耳にした季菜の言葉を思い出した――あれは夏の始まりのころだったか。彼は、その金髪のせいでクラスに溶けこめないのなら、みんなと同じ色に染めようと思ったことはないのかと訊ねたことがある。すると季菜は「そう思ったこともたくさんあるけど……これはお母さんとお父さんからもらった大切なものだから」と言った。それは、彼女の両親がとっくの昔に鬼籍の人になっていることを考えれば、とりわけ似た境遇の茎也にとっては納得のいく言葉だったし、彼女のそういう意志の在り方を好ましく思ってもいた。
 なら。
 大切だというのなら。
「……どうしていきなりそんなことしたんだ」
「そんなことって?」
「髪を黒く染めた……」
「茎也くんのためだよ。茎也くんは私の髪のことを綺麗だって言ってくれたけど、それは本当に嬉しかったけど、やっぱりあのままだと、私も茎也くんも色々と煩わしいことがあると思うの。だからみんなと同じにして、邪魔が入らないようにしたかったの。ほら、これならふつうの女の子でしょ?」
 茎也は黙ってしまった。
(ふつうの女の子? みんなと同じ?)
 なんだそれは。そんな理由で金紗の髪を捨てたのか? そもそも、それぐらいのことで自分がなんの変哲もない一般人になったつもりでいるのか? お門違いだ。トキナがなにをしたって、人間でないことに変わりはないのに。
「私、茎也くんにふさわしい女の子になってるよね」季菜は踊り場をそれこそ踊るように移動してから、言ってきた。「……ね、今日私の家にきて?」
 それはすなわち、不退院の屋敷に再び足を踏み入れるということ。
 あの寂寞の枢に。
 鬼の棲み処に。
 正直に申せば、茎也は極力避けたいと思っていた。しかし、一種のチャンスでもあった。なぜいきなり季菜は変わってしまったのか――ふたりきりで話すことでその真意を解き明かせられればいいし、たとえそれが困難でもあそこには四辻がいるのだから、季菜の様子を聞き込みして情報収集にあたることができる。虎穴に入らずんば虎子を得ず、なのかもしれない。
「きてほしいな」
「……ああ」茎也はゆっくりと頷いた。「わかった。いくよ」
 階下から響く日常の喧騒が、ひどく遠ざかって聞こえた。
      (二十九)


 放課後はすぐにやってきた。
 迎えにきた季菜とともに昇降口に差しかかったとき、同級生の田邊幸宏と出くわした。ふたりを見ると思いつめた顔をつくったが、声をかけてくることはなく、俯いて通りすぎていってしまう。どうしたのだろう。ふたりを見るや否や茶化してきた彼にしては珍しい。思えば、しばらく前から彼は様子が少し変わっていた。教室内でも茎也に近づいてくることが目に見えて減り、話したとしてもどこかよそよそしい感じだった。それについてはあまり深く考えてこなかった、というか、そちらに思考を割く余裕がなかったのだが――
「茎也くん」
 呼ばれ、彼は思い直した。そうだ、今はこっちのほうが大事じゃないか。
 高校を出て暮東の町を歩いていると、季菜が言った。
「ねえ茎也くん、手を繋ごうよ」
「あ、ああ」無下に断ったりして機嫌を損ねるのはいただけない。左手を伸ばして、小さな右手をつかまえてみる。「こんな感じで大丈夫か?」
 すると彼女のは無言で、親密に、ともすればいやらしく指と指を絡めてくる。それからしばらく前をむいて歩いていたが――突然、右手に冷たく粘着質ななにかがまとわりついてきて茎也は感覚を疑った。見れば、季菜が木工ボンドを繋いだ手に大量に注入していた。おそらく鞄から取り出したのだろうが、意味がわからなかった。
「な、なにしてるんだっ」
 振りほどこうにも、彼女の手は離してくれず、白濁液は惜しみなく注がれていく。まずい、このままでは凝固してしまう。茎也は近くの公園の水飲み場まで走り、蛇口を全開にしてジャバジャバとボンドを洗い落とした。手荒い所作だったのはしかたがない。おかげでふたりの手は離れたが、皮膚に違和感は残ってしまった。
「季菜、なにを考えてる! かたまってたら大変なことになってたぞ!」
 ボンドを没収する。しかし大型にもかかわらず、すでに中身は空だった。どれほどの量を使用したのかと思うと、背筋を薄ら寒いものが走る。季菜は茎也の剣幕に、なんで怒るのか心底わからないというふうに返した。
「茎也くん、手を繋いでいいって言ったよね?」
「だからってこんな……ボンドで固定するなんてっ」
「ずっと一緒にいられるんだから、いい方法だと思うんだけどな」
 言葉を失ってしまった。もしかして、彼女は本気であのまま生活するつもりだったのか。片腕をなくしたような状態で、常にとなりに誰かがいて、息遣いや独り言がすべて聞こえていて、食事も風呂も睡眠も学校もぜんぶ――そんなの拷問と同じじゃないか。「後先考えない」で済ませてはいけないレベルだ。
「残念だけど、まあいっか」季菜はそう言って歩き出す。
 茎也は、以前の彼女ならこんな行為に出ただろうかと考えるが、想像がつかなかった。昼休みの決断に早くも後悔の念が押し寄せてくる。しかしまだ様子を見たほうがいいのかもしれないと感じ、とりあえず距離をおいてついていくことにする。
 夷越山の中腹に辿り着くころには、ほとんど日は落ちかけていた。屋敷の中に入るとさらに光は弱まり、夜の気配すら漂わせていた。季菜の部屋に通される。電球が点けられ、室内がぼんやりと照らされた。鏡台の上に黒の染髪剤が転がっている。
「そういえば、四辻さんはいないのか?」
 茎也は聞いた。あまり人前に出ない人だとは思うが、面識は十分にあるのだから挨拶ぐらいはしにきてくれるだろうと予想していたため、不審に感じたのだ。
「…………………知らない」
 不自然な間が気になりかけたが、
「ちょっと待っててね。すぐ戻ってくるから」
 そう残して、季菜は部屋から姿を消す。
 ひとりきりになった茎也は、にじみ出る不安感を紛らわしたくて、室内を見渡してみる。すると、机の上に一冊のノートが置いてあるのが目に入った。タイトルはない。手にとって開いてみると、それは日記というより様々な所感を綴ったものらしかった。
 内容としては、茎也のことがほぼ全面を占めているみたいだ。身長や体重、血液型や誕生日。好きなもの。嫌いなもの。温かい気持ち、印象に残ったことなどなど――。すべては会話の中で生まれたものだった。話した覚えのないことまである。とにかく、そこには季菜の想いが溢れんばかりに綴じられていた。
 付き合いはじめのやわらかい記憶が、古い映写機を通したようにゆっくりと瞼の裏に映し出されてくる。だが、それはあくまで白と黒の朧げな映像にすぎなかった。その中にある心までよみがえることはなく、茎也の感情は冬の湖面のようにひっそりとし、波打つことはない。彼はふと思った――あのころの自分はいったいどこにいってしまったのだろう、と。
 その後も愛くるしさを感じさせる想いがつらつらと流れていく――しかし、あるとき突然「知られてしまった」という記述を最後に、彼女の声は途切れてしまっていた。
(どうなっている?)
 白紙のページが何枚かつづく。
 ようやく文字列を発見する。だが、そこから先はどこか異様だった。

 不安。茎也くんと会う機会がない。忙しいのかもしれない。私とは違うのだ。茎也くんも大変なんだ。少しだけの我慢、我慢。まだ会えない。茎也くんと一緒に食べたいからお弁当に手をつけないで待っていたら、いつのまにかチャイムが鳴っていた。今日も一人。いやだな。たまには私から迎えにいってみようか。他の教室に入るのはちょっと怖いけれど、それがいい。びっくりするかな。茎也くんはクラスの人と楽しそうにしていた。私に悪いところがあったのだろうか。いや、あの人が関係しているに違いない。今日、茎也くんに睨まれた。くるしい。私は違うのに。くるしい。教室がうるさい。一人でお弁当食べるのが寂しいだなんて知らなかった。意味がないからトイレで吐く。会いたい。会いたい会いたい。本当に教室がうるさい。静かにしてほしい。学校は蝿だらけだ。どうしてみんなは平気なのだろう。もうい。やだ。こんなに。も好きなのに。蝿。蝿。蝿。蝿。は死。ね。ね。茎。也く。ん。大好……………………(判読不能)……………………最近目覚めがいい。生まれ変わったみたいだ。私が私であるのが感じられる。わかった。きっと茎也くんは悪い夢を見ているだけなんだ。私と同じようにすぐ覚める。そうしたらまた茎也くんは。狭くても綺麗なところ。[男]祐一、和樹、琢磨、航平、清、信吾、光弥、孝明、圭司、健太郎、充、明義、敏夫、英介、弘幸、誠[女]真実、翔子、遥、雪乃、春江、晃子、由佳利、菜々、美沙都、彩華、梢、早紀、喜美子、静香、広美、怜奈、千夏………………………………………………………………………(判読不能)………………………………………………………。

 最後のほうはほとんど判読できなかった。胸のざわつきはなにかの警告か。気味が悪くなって茎也が机にノートを捨てるのと、部屋の外で床板が軋んだのはほぼ同時だった。
 とっさに振りむく。なにかが息を殺している。わずかに開いた襖の隙間から、薄茶色のまなこがひとつ覗いていた。ジ――、と定点カメラみたいな眼差しだった。
(見られた?)
 瞬時に焦りを覚えるが、季菜は触れることなく「お待たせ」と言って部屋に入ってくる。そのまま茎也のほうに近寄ってくると、爪先を上げ、彼の肩口に両手を添えて、突然唇を重ね合わせてきた。奥手な彼女からは想像もできないような行動。
「ン……はぁん……」
 季菜の舌先がぐちょりと唇のあいだに捩じこまれてくる。歯列をなぞるように動いたかと思えば、一気に奥にある舌端を絡めとられる。舌同士が抱き合うような動き。彼女の舌は一方的にうねりながら、唾液の交換に勤しんでいた。淫らな水音が耳を溶かし、熱い吐息が鼻腔を包む。貪るように、というのは比喩にはならなかった。貪る。彼女は貪る。本当に、そのまま魂さえ吸い出されてしまいそうだった。
 しばらくして季菜にも限界がきたのだろう。彼女は熱気を解き放つように唇を離すと、息を弾ませながら、「あは……茎也くんの唇、乾いてる」と言った。
「それは」――こっちの科白だ、と言葉にはできない。
 季菜はこう切り出した。静かに、わかりきったように。
「ほら。最近なかなか会えなかったよね。変な人が茎也くんにまとわりついてて……うるさい女の子とか、うるさい男の子とか、いとこの子なんか特に変。いくら血が繋がってるからって馴れ馴れしくしないでほしいよね。茎也くん優しいから、邪険にできないだけなのにね」語尾が馬鹿にしたように揺れる。彼女のそんな喋り方は聞いたことがなかった。「だから、今日は誰の邪魔も入らないところでゆっくり話がしたかったの。あ……もし遅くなっちゃったら、泊まってってもいいよ」
 そうどこか嬉しそうな声音で言うと、
「ん……もういっかい」
 再び爪先を張って、色白の顔を持ち上げてくる。しかし茎也の中には、先ほどの強引な口づけに対する嫌悪とでもいうべき感情が生まれていて、季菜のからだを拒絶の意思がはっきりと読みとれるくらい強く押し返した――押し返してしまった。
 距離ができ、少しして彼女は言った。
「……どうして?」
 瞳の中に、一瞬だけ悲しげな光が流れる。茎也は、その目を直視することさえも拒んで、視線を下にそらした。静けさがなによりも息苦しい。
「ねえ、なにか言ってよ、茎也くん」
 だが、口を開こうとはしなかった。開いたところで、なにかが好転するような見込みはまるでない。彼女を拒絶した理由。そしてその根底にあるトキナという存在への恐れ。それらをここで洗いざらい打ち明けることは、自らの首を締め上げるのと同義だった。不退院の屋敷でふたりきりという状況は、よくよく考えてみれば、あまりにも危険すぎる。
 すると季菜は左手を自分の胸に添えて――そこにいるなにかを指し示すようにして――アルカイックに微笑んだ。
「そっか……そういうことだったら心配しないで、茎也くん。“あの人”のことは私にまかせてくれていいよ。なににも怖くないから。今はもう――私のほうが強いから」
 疑問に釣られて顔を上げる。
(強い? 強いとは、いったいどういうことだ?)
「それにね、話せないなら話さなくてもいいよ。私は無理強いはしないの。だって、茎也くんの気持ちを確かめる方法はほかにもあるもの」
 こっちにきて。季菜は言った。
 移動した先は見覚えのある一室だった。その場所から茎也の日々は歪みを加速させていった。そこは初夏、誘木に不退院家の秘密を告白された部屋だった。
 茎也は中央の囲炉裏の内部を見て、思考がしばし宙を彷徨った。赤い炎が底で揺らめいている。その上では分厚い壷のような器があり、熱湯がこれでもかと沸騰している。
 これはなんだ?
 茎也は季菜を見る。彼女はアルカイックな微笑みを絶やさずに、
「盟神探湯(くがたち)って知ってる?」
 そう言った。
 盟神探湯――古代における裁判方法で、いわゆる神明裁判の一種。真偽正邪を裁くのに神に誓って手で熱湯を探らせ、正しい者の手は無事に終わり、邪な者の手は爛れるとする。
 それぐらいのことなら、茎也は知識として有していた。だが、どうして季菜はこの状況でそんなものの名を挙げたのだろう。
 整えられた場は瓜二つ。
 それはまるで――
「……っ」まさかという表情を浮かべる。
 彼女は素直な声で、とてもとても素直な声で、言った。
「茎也くんに、してもらいたくて」
 ゾワッと全身の毛穴が開ききったような気がした。
「『不退院さん――俺は、きみが好きだ』茎也くん、言ってくれたもんね。私のことを嫌いになんかなったりしない、ずっと一緒にいてくれるって。あの言葉を信じているから。茎也くんに証明してもらいたいの。茎也くんが私と同じ気持ちなら、手が茹でられることなんてないんだから。茎也くんなら絶対大丈夫だよね。わかってるよ?」
 なにを言っているのだろう彼女は。
 熱湯に手を差し入れたら精神の如何にかかわらず大火傷をすることは当然だ。まさか本気でこんな迷信にもならない昔話を信じているというのか――と考えて、茎也は戦慄した。
 木工ボンドの一件を思い出せ。彼女は至極真面目に変態じみた行動をとっていたじゃないか。あの思考回路が今回のことを現実にする可能性は、肯定に余りある。
「ほら茎也くん大丈夫だよ。なにも怖くないから大丈夫」
 がしり、と季菜は茎也の腕をつかんだ。そして、ゆっくりと多彩な躍動を見せる熱湯へといざなっていく。一瞬で無理やりやらせる気だとわかった。
「ゃ」
 やめてくれと言いたかった。けれど唇がうまく動かない。着実に手と熱湯の距離は縮まっていき――残り数センチとなったときだった。
「ふざけ、るな」
 本能が身の危険に対して荒ぶった。
(ふざけるんじゃない、イカレてんのか、この女!)
 凄まじい力で季菜の腕を振り払う。しかしその拍子に彼女の手が器にぶつかり、転落すると同時に一斉に溢れ出した熱湯が、小さな手を焼いた。じゅぅぅぅぅ、という料理でしか聞いたことがないような音とともに、季菜のからだがガクンとかしぐ。
「あ、あひあ、があがが……」
 ねっとりとした汗の玉が落ちる。右手は見る間に赤く爛れた様相を見せはじめ、五指が小刻みに震えていた。途方もない感覚に神経が驚愕しているのだ。
 完全にやってしまった。
 茎也はよろよろと後ずさる。思考はまとまるわけがなかった。
 すると、季菜は首を茎也のほうに動かす。黒い前髪のあいだから覗いたその眼は――確かな狂気をもって、ギョロリと茎也のほうに剥かれて。
「ひっ……!」
 茎也の足は動き出していた。彼女とは反対方向へと。
 広い屋敷の入り組んだ構造と焦りで、どこにむかえばいいのかわからない。ひとまず逃げ込んだ部屋の物陰に身を隠す。気配を断ち切ろうと尽力するが、静めなければならないと思えば思うほどに、呼吸は散り散りに乱れていく。駄目だ。こんなことでは“見つかってしまう”。
 怖い。
 怖い。怖い。
 茎也は震懼(しんく)に突き動かされながら思った。
 ――彼女はおかしくなってしまった。
 考えてみれば、怪しいことはたくさんあった。髪を黒く染めたこと。急変した言動。それ以前にだって、予兆は確かに存在していたのではないか。気づかなかった、いや、気づいていてもなお無視しようとしていた。愚鈍としか言いようがない。
「……そうだ」
 そして、それにも増してある重大な事実があったことを彼は思い出した。
 忘却してはならない。失念してはならない。
 旧花川公園で四辻が言ったことを。
『久布白だって所詮は人間の類似品よ。姿形は限りなく人に近いけれど――似ているということは、どこかが決定的に違うということ。護国十家という時点で、認識を改めるべきだわ』
 思い出せ――トキナは不退院と久布白の混血という異端の子。
 それは一目で人外とわかる朱鷺菜のみならず、茎也自身ふつうの人間だと思っていた季菜でさえ、久布白という異常性を孕んだ存在だったということ。なんて甘いのだろう。なんて間が抜けているのだろう。理解していたつもりでいて、基本的な認識を誤っていた。
 季菜は、確かに護国十家で、確かにヒトであって人じゃない。
 彼女は本来的に、根源的に、正常ではいられない宿命だったのかもしれない。
 と。
 ギシリ――と廊下が鳴った。
 茎也は反射的に思考を打ち切り、必死で息を殺した。
「茎也くぅん」
 きた。“久布白季菜”がやってきた。
 よくよく考えてみれば、穿ちに穿った見方をしてみれば、盟神探湯などという古代の儀式を展開しようとしたことも、久布白家のもともとの特性が関係していたのかもしれない。神事や祭祀に携わってきた、遺伝子とでも言うべき系譜の記憶が。
「茎也くぅん、どこにいるの」
 声が間近に聞こえ、季菜のシルエットが障子に黒く現われる。火傷を負った右手を、ぶらんぶらんと虫篭のように垂らしながら横切っていく。薄い紙を一枚だけ隔てたむこう側に彼女がいるという現実に、内臓が急降下していくような錯覚を覚える。
「出ておいでよ、茎也くん。そんなに罪悪感を持たなくてもいいよ? 手が滑っちゃったんだよね? 私も怒ってなんかいないから。ちょっと火傷しちゃったみたいだけど、全然へっちゃらなんだから。ほら、平気だよ。ほら。ほら。ほら。ほら。ほら。ほら。ほら」
 そう言いながら、季菜は右手をあたり構わず叩きつけはじめた。火傷はちょっとどころのはずがないし、その上に打撃を加えるなんて、伴う苦痛はさながら拷問を受けているようだろう。にもかかわらず彼女はやめない――正常をアピールしようと、異常な行動をとる。
 すると耳元で建具が揺さぶられ、茎也はつい短く声をもらしてしまう。
 まずいと思ったときには遅い。
「茎也くん?」季菜の影が部屋の前で立ち止まっていた。「そこにいるの?」
 焦りと恐れがからだを支配し、団子虫のように丸まることしかできない――しかし、それが功を奏したのか、季菜はしばらく佇んでいたが、ここにはいないと判断したのだろう、ゆっくりと動き出しす。足音が遠ざかっていき、最後まで静寂が戻りきったのを十分確認してから、茎也は立ち上がった。
(いちおうはやりすごせた、のか……?)
 ともかく、こちらの所在をつかまれていない今のうちに脱出しなくては。
 障子を開けて廊下に出る。季菜が消えていった左手の方向は誰もいないみたいだ。よし、と思いそのまま反対方向を確認しようとして――

 右手の、すぐ触れられるような位置に、季菜がいた。

「――ッ!?」
 激しく狼狽する茎也。
「茎也くん。そんな顔しないで」季菜は上目遣いでかすかに唇をしならせる。「私、茎也くんにはいつも笑っていてほしいの。だから、こんなことで笑顔を失ってほしくない……ほら、こんなのなんともないから。この手を見て。笑って」
 伸びてきた右手を見て、不覚にも心の片隅で笑ってしまう。細かい描写なんてしたくもない。ただ、火傷の上に打撲やら擦過やらを重ねたそれは、一言でいえば“変”だった。
 その“変なもの”は茎也の頬に触れようと近づいてくる。
 頭の中で――神経がひとつ違える音を聞いたような気がした。
「ふざけるなっ! 笑えるわけがないだろうが!?」
 同時に茎也の足は、逃げろと本能の命ずるままに回り出す。つづけて叫び散らした声は、自分でもなにを言っているのかわからなかった。けれどそれが、きっと本心であろうことはわかっていた。
「もう、正気じゃない……! はじめから気づいていればよかった! “ふつうの女の子”だなんて嘘だっ。そもそも人じゃないんだよ、おまえはっ!」
 遠ざかっていく季菜の表情は、闇に覆われて見えなかった。
「くそ、くそ、くそ……っ」這うようにして、なんとか玄関まで辿り着くことに成功する。靴も履ききらない状態で外に出た。今が何時かなんて知らない。見上げれば、煌々と月が銀色の光を放っているだけだ。目の前では、夷越の森が夜風にそよいで蠢いている。
 夜の山道を無事に下れないことは百も承知だったが、恐怖に背中を押し出されるかたちで茂みの中へと飛び込んだ。とたんに視覚は失ったも同然になり、木々に身体をぶつけ、枝葉が皮膚を切りつけていく。それでも茎也は走りつづけた。すぐ後ろまで季菜が追ってきているような、そんな強迫観念に囚われていた。事実の有無にかかわらず、そんな気がするだけで十分だった。
 闇の中をどこまでも転げ落ちていくようだった。
「うわっ……!」
 根っこかなにかにつまづき、本当に転げ落ちた。
 地面に背中を叩きつけるが、バックパックが緩衝材みたいな役割を果たし、痛みはそれほどない。茎也は落ちた勢いそのままに起き上がり、再び駆け出そうとして――立ち止まった。
「……ここは……」
 暮東の町を一望できる小高い丘みたいなところだった。朽ちかけた四阿が建っている。茎也が覚束ない足取りで崖のほうへと近寄っていくと、下から冷たい風が舞い上がり、額の汗をひんやりと落ち着けてくれた。
(……なんだろう)
 この場所……どうしてか、ひどく懐かしいような。もしかして、俺はここで誰かとなにかをしていたんじゃ――
「あ、ぐぅう」
 茎也は頭を押さえてよろけた。まただ。またこの頭痛。記憶の洞を突かれるような痛みが沸き上がる。すると、「キャハハハ……キャハハハ……」と無邪気な子どもの笑い声が耳の内奥で去来した。四阿から聞こえたように思え、振り返ってみるが、当然のことながらそこには誰もいない。でも確かに、誰かがあそこにいたのだ――
「ぐああっ」
 さらに強烈に、頭蓋の中で火花が散った。
 この類の頭痛で少し前から感じていたのは、考えることを強制的に阻止しようとしているみたいだ、ということだった。想起してはいけないものがあるから、脳が自動的にそこに至らせないようにしているのではないか。なら、その到達してはならない領域とはなんなのだろう。そこにはなにがあるのだろう。
 だが――今、そんなことに割いている時間はない。早くいかなくては。
「ちくしょう……どうしてっ」
 茎也はうめいて、もう一度森の中に身を投じた。
 山を下りきったあとも、頭痛はなかなか治まらなかった。
30, 29

  

      (三十)


 不退院の屋敷での出来事は、茎也に後悔しか残さず、恐怖しか植えつけなかった。真意を探ろうなどと考えていたことがばからしくなる。あんな支離滅裂で盲目的で狂疾じみた思考を誰が理解できるというのか。
 茎也は、あれからずっと孤独な学校生活をすごしていた。以前は、奈緒希や加瀬たちといるだけで季菜と境界線を張れていたのだが、今はもう通用しないだろう。放課となれば迷いなく接触してくるに違いない。そしてまた事件が起こるのだ。
 それならば、いっそのことひとりで行動したほうが身軽だし、季菜から身を隠しやすくなる。誰とも極力話さず、一箇所に留まらず、まるで脱獄囚のようだが、これしか方法は考えつかなかった。少なくとも間違いではないはずだ。
 この日の昼休みの避難所としては、進路指導室を選んだ。奥まった場所で資料を読み耽り――ただし最低限の注意は維持したままで――約五十分を潰した。もうそろそろ教室に戻ってもいい頃合いだろう、と扉を開けるとそこには、
「……よ、よお」
 たまたま通りかかったところだったらしい。こんなふうに声をかけられるのは久しぶりの気がする。田邊幸宏がそこにいた。
 彼はひどく思いつめた顔で黙っていたが、
「なあ、覚えてるか……?」
 意を決したみたいにそう言った。
「なにを?」
「……秋口に発見された、廃ビルの変死体のことだよ」
 茎也の瞳孔が開いた。
 廃ビルの変死体――久布白硯の他殺体。
 田邊の口からそんなことが出てくるとは思わなかった。それはもはや、報道がされないせいですでに風化しつつある、人々が風化させようとしている事件だ。彼はいったいどういう目的で、そんな話を持ち出してきたのか。
「俺さ、見ちまったんだ。あの夜……杖の女と不退院が廃ビルのほうに歩いていくのを」
 なんだと、と大声を出しそうになるのを茎也はこらえた。代わりに、押さえ込んだ感情かが震えとなって四肢に伝わる。
「……俺、わかんねぇんだ」田邊の表情は心苦しげに歪められていった。「ニュースを見たときは信じられなかった。というより……信じたくなかった。そのあと、大怪我を負って登校してきたっていうのを聞いても繋げたくなかった。階段で転んだりしたんだろうって思おうとした。おまえの彼女だからな、不退院は。だから、この一二ヶ月ずっと迷ってたんだ。兄貴に言うべきかどうかわからなかった。夜だったから見間違えたのかもしれない、遠目だったから勘違いしたのかもしれない。そう思って、そう思いながら、他の誰かが犯人として捕まってくれればいいと願ってたよ。それでもやっぱり、あの夜に見た金色の髪はあいつのものとしか考えられなかった。その輝きが目に焼きついて離れなかったんだ。あいつは夢にまで出てきて、俺を責めるような目つきで見てきた」
 茎也は息を呑んだ。田邊も自分と同じように彼女の夢に魘されていたのか、と。
「そうこうしているうちに事件はどこにも載らなくなって、兄貴のほうも捜査が突然打ち切られたりしたらしくて、俺は少しずつ現実に引き戻されていった。そんなときだった。あいつが、不退院が……」
 金紗の髪を黒く染めた。
「……驚いたよ。実はさ、俺ってちっせえころから不退院とは同じクラスになったりしてたんだ。小学生のときも中学生のときも、あいつはなに言われたって金髪を変えようとはしなかった。理由を聞いても、困ったみてえに笑うだけだった。それがあっさりと黒色にしちまったんだから、当然だろ? それで、その姿を見た瞬間だったと思う。俺は疑っちまったんだ――不退院は、髪色を変えて逃げ延びようとしてるんじゃないかって。そこからはもう悪い想像しか浮かばなかった。一度疑念を持っちまった、ていうのもあるけど……あいつの目が夢で俺を見てきた目とそっくりだったんだ」
 そう言葉を切ると、「なあ嶋原、おまえは不退院の彼氏なんだろ。あいつはなにか言ってなかったのかよ。おまえにしかわかんねえことだってあるんじゃないのかよ、なあ」詰め寄ってきたが、ふいにトーンを落として恥じ入るようにつづけた。「……いや、おまえだって、おまえのほうこそこんな話されてたまんねえよな。考えなしだった。それに、怒る資格が俺なんかにあるわけねえ。わりぃ……」
「田邊……」
「とにかく、不退院のことは頼んだ。俺にはどうすることもできねえからさ。……おまえならなにかできそうな気がするんだ。ひょっとしたら、あいつも事件に巻きこまれて困っちまってるだけかもしんねえしな」
 そう無理やりに笑んで、それ以上田邊の口から言葉が紡がれることはなかった。
 ちょうど、午後の授業の予鈴が鳴った。どこか遠い世界の音のように茎也の中に響いた。田邊は「じゃあ俺は先に教室に戻るわ」と言って背をむけ、渡り廊下のところを折れて消えた。
 しかし――茎也はまだ動き出すことができなかった。
 どうすればいい。どうすればいい。よりによって田邊に目撃されていただなんて。言葉の上では最後こそああ言っていたけど、あの顔を見るかぎり、すでに心裡では季菜が犯人ということでかたまってしまっているのかもしれない。おまけに告発する相手は家庭という超至近距離にいる。田邊の兄貴は警察の人間だ。言うなればそれは、最初の一手が詰みの一手。最悪だ。本当にまずい。耐えきれず接触してきたぐらいだから、きっと悠長な時間は残されていない。どうすればいいんだ。おまえならなにかできそうな気がするだって? 無茶苦茶なことを言わないでほしい。あんな女、誰だってどうすることもできやしない。
「くそっ」
 文科系の部室などに溜まっていた生徒たちが、教室に舞い戻ろうと階段を下りていく。スリッパの重奏が茎也の近くを通りすぎていき――それに紛れてしまったのだろう、田邊がいった渡り廊下とは別の階段の防火扉の陰から、ぱたり、ぱたり、と仄暗く跳ねる足音が階下まで響いていくのを、彼は気づくことができなかった。

                  ◇

 さすがに夜になると息が白っぽく見える。
「さみい……最近急に冷えこんできやがったな……」
 学校から隣町の予備校へと直行し、授業を受け終わって帰途につくころにはゆうに夜の九時を回っていた。独りごちた田邊幸宏は、温かい缶コーヒーを懐炉代わりにしながら、少しだけ歩調を速くする。さっさと家に帰って本格的に温まりたい、というのもあるが、ぼんやりと歩いていたら先日の一件のことが意識の水面に浮かんできそうだった。
 金紗の髪を失った彼女のこと。そして嶋原茎也に打ち明けたこと。
 彼を譴責するような形になってしまったかもしれない。それはなぜかと問われれば、理由は自然と己が胸の内に集約されていくわけだが、田邊はそれ以上のことは考えたくなかった。わざと大きく息を吐き出して、思考をリセットしようと試みる。再び白い靄が透ける。
 と。
 差しかかろうとした公園のベンチに、小さな人影が座っているのを見つけた。電灯から広がる光に、紗が掛かったように照らされている。人影の肩まで伸びた黒髪はしかし、ところどころで金色の微光を弾いていた。
 間違いない――彼女だ。
 田邊はいくかいくまいかたっぷり悩んだあげくに、彼女に近づいていった。元々その公園は帰路として毎日横断しているし――彼女の真意を知りたいというのもある。
「……よう、久しぶり。一年のとき以来だな。こんなところでなにやってんだ?」
 すると、彼女はいつか見たように困ったみたいに微笑んだ。だがそれはあくまで似ているだけで、どこかが違って見えたけれど、それでも田邊の鼓動を早めるには十分だった。話の接ぎ穂を探すのに少々手間取る羽目になる。
「そ、そういえば。どうして髪を黒くしちまったんだ? びっくりしたよ。中学のころだったっけ。おまえってば気ぃ弱いくせにそんな髪の毛してっから、色んなやつに絡まれてたよな。それでも変えなかったのにさ……いやほんとびっくりした」
 早口で言い終えると、彼女は立ち上がり、ようやくその桃色の蕾は言葉を口にした。
「…………茎也くんのためだよ」
(嶋原のため? どういう意味だ?)
 彼女はそれ以上つづけず、無言で見つめてくる。まるで痴呆のように。気まずくなり、寒いなと等間隔に呟いていたが、田邊はふと上着の中の缶コーヒーをのことを思い出した。寒いと言うわりには懐が温かかったからだ。
「あ……そうだ。冷えるだろ? 特に女子なんか足出しっぱなしだもんな。これ飲めよ。さっき買ったばっかだからまだ温かいと思うぞ」
 彼女は、ありがとう、とささやいて両手を差し出す。その片方の手――右手を見て、田邊は目を疑った。包帯が手袋みたいに巻かれていたのだ。専門的ではなく、素人なりに処置したのだろう、巻き方も止め方も不恰好だった。よく見ると、膿のようなものが黄色く染みている。あきらかに人為的な攻撃の痕。
「おい……どうしたんだよ、その手」
 彼女は右手を見やってから言った。
「…………茎也くんに虐めてもらったの」
 また――嶋原。
(あいつはいったい、なにをしているんだ)
 憤りとともに、あらぬ思考が湧き上がってくる。
 もし――彼女が死んだの女といたのを目撃した夜、そこに嶋原茎也という因子が入り込んでいたのだとしたら、話はまったく違ってくる。事件に関連して、彼女に大怪我を負わせることで心身ともに服従させ、それでは飽き足らずに彼女をいいように、こんなふうにしていたとしたら? あのとき流れた噂は真実だったのかもしれない。右手そのものを壊した男だ。性的にも虐待を繰り返している可能性がある。
「ふざけるなよ……」
 すべてが繋がった、そんな気がした。
 たとえそれが、ただの独りよがりな推測にすぎない妄想であったとしても。そこに自らのうちに秘めたものが混交してしまい、認識を捻じ曲げてしまっていたとしても――田邊は彼女をどうにかしてあげたい、助けてやりたいと思った。
 そして。
 そう思った次の瞬間には――田邊は目の前の少女を抱きしめていた。
 小柄なからだはすっぽりと手中に収まり、その細さと軽さに驚く。全身に心地よい弾力があった。彼は少女の名を呼び、後頭部と背中を押さえつけるように手を伸ばす。
 彼女のからだを、心を、そこに留めておきたくて。
「――……田邊くん」
「頼む。なにも言わないでくれ」彼女の後ろ髪を掻き上げるようにし、さらにきつく抱く。「ただ聞いてほしい。俺はおまえに味方になりたい。俺は――」

「ばぁーか」

 懐のあたりで、チャキ、という鉄の音。
 すぐに、なぜか両腕が土くれみたいに動かなくなった。彼女の背中から落ちていく。わけがわからない。どうして力が入らないのだろう。自分は彼女を守りたいと思っていたのに。もっと抱きしめてあげていたいのに。温もりを教えてあげたいのに。
 そう信じたはずなのに――
「ぐっ、ああっ……!」
 ぐりぐりと内側が深く抉られる感触。いよいよ全身が言うことを聞かなくなり、田邊の視界には夜空が下りてきた。違う。自分が倒れたのだ。喉の奥底からなにかがせり上がってきて、彼の唇の周りで一気に赤黒い花が咲く。
 手を熱い腹部に持っていくと、制服がじわじわと濡れていくのがわかった。少女のほうに視線を起こせば、彼女の手には黒い×××のような物体が握られており、その先端からは水よりも重い液体がぽたぽたと滴っていた。
「はっ……ははっ……」
 思わず田邊は笑ってしまう。
 ――なんだ。結局、おまえだったのかよ。
 すべては自分勝手な幻想で、すべては現実に起きていたなんて。
「……私と茎也くんの恋路の邪魔しないで」
 口封じ、ということなのだろう。
 彼女は夢で見たのとまったく同じ眼差しで、田邊を見下ろしていた。
 少女らしい光などいっさいない、廃れた瞳。
(……ばかばかしい)
 自分もそうだが、頭上の少女も相当だ。本当に、悲しいくらいにばかばかしい。
 人を刺しておいて――こんなもののどこが、恋路と呼べるのだろう。
 ぽつり、と田邊の頬で冷たい雫が弾けた。どうやらこのまま雨が降ってくるらしい。どうせなら血塗れのからだを綺麗にしてもらいたい、と思いながら彼は言った。
「……なぁ。俺、おまえのことが好きだったんだぜ……?」
 それが今までの迷いの元凶。
「たぶん……中一で同じクラスになったときからだ。異性をぐっと意識しはじめるころだよな。あ、だからって顔に惹かれたわけじゃないぜ。なんつーのかな……雰囲気だ。俺、おまえの雰囲気が好きだったんだ。でも……同じ高校に行くって知っていたからかな、逆に変な余裕ができちまって、告白できず終いだった。それがダメだった……高一、高二ってあとはずっとおまえのことを横目で見てるだけだった。怒らないでほしいんだけど、それでたくさん抜いた。おまえは泣いてた。どうしても、嬉しそうな顔っていうのが想像できなかったんだ」
 そこで田邊は長い息を吐く。瀕死のくせに言葉は意外と滑らかに出てくる。もしかしたらたいした傷じゃなくて、案外大丈夫なのかもしれないと思いたいが、どうやらそんなうまい話はないみたいだ。目の前が黒く明滅してきていた。
「……そんなときだったな」
 嶋原茎也という転校生がやってきた。
「あいつってば、ずりぃよ。俺より背ぇ高ぇし、かっこいいし。おまえの髪が生まれつきみたいだって、俺のほうがずっと前から思ってたのにあっさり言っちまうんだもんな。それで気がついたらおまえと付き合ってるだなんて……ほんとに、憎たらしい野郎だよ。いや、違うな。俺がどうしても想像できなかったおまえの笑顔を、あいつは現実に見ていた。正直、憎かった。でも……俺だってずいぶんと情けねぇや。おまえと嶋原を茶化すのが……精一杯の意地悪だったなんてよ……」
 口から血が溢れた。からだからなにかがごっそりと失われたような感覚がある。やっぱりこれは“マジ”らしい。田邊は彼女に手を伸ばしたつもりで、唇を動かした。
 どうせなら、今がいい。
「なぁ。俺はおまえが……好きだったよ。おまえは……どう思ってくれていた……?」
 もう横目で見ることもできないのなら。
 彼女は答えを寄越した。
「うん。私も、田邊くんがすき」
 そして。
「すきだよ――こうやっておとなしく死んでくれる、田邊くんが」
 と言った。
 田邊の胸部はやがて動かなくなる。対照的に、雨はしだいに勢いを増していき大降りの様相を見せはじめる。これなら、ある程度の証拠は洗い流されてしまうだろう。
 彼女は夜空に顔をむけて、茫漠と思った。
 この、背に翅が生えたような気持ちを、思った。
      (三十一)

 雨戸には、雨水が毛細血管のようにしきりに流れていた。ひどい雨みたいだ。
 二階の自室にいる茎也は、窓の外にむけていた視線を室内に戻した。するとちょうど棚の上の暗い石にいき当たってしまい、目をそらす。頭痛はもうたくさんだった。
 最近、そもそもどうしてあんなものを持っているのだろう、と思うようになっている。いつからか所有しているが、そこに至る経緯も、そこまで大事にする理由もわからない。確かに不思議な色をしていて綺麗ではある。だが、それだけだ。原因不明の頭痛を引き起こすことを考えれば、もはや捨ててもいいものなのかもしれない。
 そう思って机にむき直ったとき、家の電話が鳴り出した。
 この家の電話はダイヤル式の黒電話だ。ジリリリン、ジリリリン、とうるさい。こんな時間に誰だろうか。茎也は階段を下りて、受話器をとった。
「もしもし?」
 奇妙だった。
 相手の背後からは、ざあああという雨の重奏が聞こえていた。聞こえ具合からして、屋内とは考えにくい。公衆電話かそこらだろう。かすかに震えている息遣いは、雨に打たれて濡れそぼった相手の姿を容易に想像させた。しかしそこにはどこか興奮の冷めやまぬ、熱っぽい響きが含まれているようにも思えた。
「……もしもし?」
 茎也は怪しみを滲ませて繰り返す。すると、
『く、茎也くん。私、私』
 聞こえてきたのは季菜の声だった。全身がかっと熱くなる。
「おい、季菜か。どうしたんだ。なにか――」
『わた、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私、私』
 ふつうの精神状態ではないことは明白だった。
『茎也くん。私やっつけたよ。やっつけたから。もう大丈夫だよ茎也くん』
「やっつけたって……なんだ。なにをだ」
『これでもう心配することはなくなったからね。私がやっつけたから。嫌な人を。私はなにも悪くないのに。悪くない。のに。私を陥れて私たちの仲を引き裂こうとしてくるんだもん。だからやっつけ。てやったの。茎也くんに。安心してもら。えるように』
 直感だった。その名は口からするりと抜け出た。
「まさか……田邊か?」
『知らない。とにかく、やっつけたよ。やっつけたんだから』
 即答だったが、逆に知らないはずはないと強く思った。田邊自身、季菜とは長い付き合いだと言っていたからだ。しかし、それよりも気になったのは『やっつけた』という曖昧な表現だった。嫌な予感がした。予感では済まないこともどこかでわかっていた。
「季菜……まさか田邊を、殺したのか」
 そう訊ねたとたんに沈黙に切り替わった。息を呑んだわけでも、とっさに言葉を選んでいるわけでもない、そういうのとは違う無言。
「おい、答えろっ。田邊を殺したのかおま――」
『ぎゃびゃひゃみゃぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅびゅびょぎゃひゃみゃびゃぎゃぐぇぢゅぎょびゃぢゅげけぢぇぎゅみゅぎゅびゃひゃみゃぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅびゅびょぎゃひゃみゃぎゃぐぇぎょびゅぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅびゃぎょびぇみょみゅぎゅびゃぎゃぎゃぢゅびゅびょぎゅぎゃりゃぢゃぎょぢゅげけぢぇぎゅみゅぎゅびゃひゃみゃぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅみゃびゅきゃきゃびゅぎゃびゅびゅびゅぎょびゃぢゅげけぢぇぎゅみゅぎゅびゃひゃみゃぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅびゅびょぎゃひゃみゃぎゃぐぇぎょびゅぎゃりゃきゃぎょみゃびゃぎぇきゃびゅびゃぎょびぇみょみゅぎゅびゃぎゃぎゃぢゅびゅびょぎゅぎゃりゃぢゃぎょぢゅげけぢぇぎゅみゅぎゅびゃひゃみゃぎゃりゃきゃぎょびゅびゅ』
 豪雨の影響で電波が乱れたのかと思ったが、そうではない。甲高い不気味な音の羅列は、かろうじて人の発するものだった。しばらくして、それは突然ぴたりと止まった。
 唖然としていると、少し戸惑いの滲んだ声が聞こえた。
『……茎也くんどうしたの。さっきなんて言ったのかな』
「…………」
 ふつうなら、とぼけるなと怒鳴ってしまうかもしれない。だが茎也には理解できた。彼女はとぼけているわけではない――前後の記憶を、反射的に脳から消し飛ばしたのだ。膨大な負荷をかけてブレーカーを落とすように。この場合だと、田邊の名を出したころが着火点だろう。そして、そこから推知できることは破滅的な事実だった。
 すると唐突に電話は切れた。公衆電話の通話時間が底をついたらしかった。
 茎也はその場にへたりこんだ。
 彼女は田邊を殺した――季菜という人格のまま。
 一線を越えた、その途方もない感覚だけが胸の中で渦を巻いていた。トキナという少女は二重の意味で、本当の意味で、人殺しになってしまったのだ。
 確かに田邊の告白には衝撃を受けた。どうにかせねば、と強く念じたことも認めよう。しかし、こんなことになるなんて考えてもみなかった。あのときどこかに季菜はいたのだ。そして今回のことを知ったとしか考えられなかった。
 状況は絶望的だった。逃げ道などどこにもなかった。それでも必死で逃げ道を探そうとしている自分を、茫然と心の深層で認識していた。
 暗闇の中で雨音が狂っている。時間の感覚が溶解していく。
 奈緒希の顔が浮かんだ。


 田邊幸宏の通夜はしめやかに行われた。
 茎也はいくべきではないことを十分知っていたが、いかないわけにもいかなかった。埃ほどでも、なにかしらの疑念をむけられることは避けたい。糞みたいな保身だ。
 葬儀のほうは親族だけで静かに行いたいとのことで、田邊の家で開かれた通夜にはクラスメイトの面々が集っていた。奥には田邊の家族がいた。むせび泣いているのは母親だろう。その横に座っているがたいのいい青年が彼の兄であることは、加瀬から聞いていた。マスコミの人間らしき者もちらほら遠巻きに認められた。殺人事件だからだ。
 みな、しくしくと涙を流している。加瀬や水木はもちろん、宮内も沼田も吉田歩美も。この場で悲しみを抱えていない者は誰ひとりとしていなかった。
 ただ――茎也を除いて。
 その目からは涙は伝っていなかった。両親のときも祖父のときも出なかったのだから、しかたがないといえばそうなのかもしれないが、今は悲しみを吐き出すよりも、罪悪感を押さえ込めるのに全力を注いでいただけだった。
「茎也くん……」
 気がつくと、奈緒希がそばにきていた。支えを求めるように、指先が茎也に触れる。
「田邊くん、どうして死んじゃったのかな……」
 茎也は答えることができなかった。ただ、すまない、と口の中でうなった。
 通夜が終わり、それぞれ帰路につくことになった。こんな夜にひとりになるのは不安だったのだろうか、奈緒希は茎也の家までついてきた。
「茶でも出すよ」居間に通したあと、彼は台所にむかおうとする。が、
「待って、茎也くん」
 立ち止まった背中につづける。
「もしかして、田邊くんの死と不退院さんは関係しているんじゃないの……?」
 茎也は惨めな気持ちで振り返った。本当は、奈緒希がここにきたいと言ったときから薄々感づいてはいた。茶云々は、時間を引き延ばしたかっただけだった。
「お願い、茎也くん。私言ったよね。茎也くんの力になりたいって……」
 隠し通しきれないと思った。すでにトキナのことを知られているのもあるが、自分の精神力の弱さによるところが多かった。茎也は訥々と語った。声を出すたびに、これは正しいことなのかという疑問が脳裏に響いたが、そうでもしないとこの暗澹たる現実に押し潰されてしまいそうだった。
「そうなんだ……その、こっちの不退院さんが田邊くんを……」
 話し終えるころには、ふたりは寄り添い合うかたちになっていた。奈緒希はひたすらに、嶋原茎也という少年を全身で受け止めてくれていた。
「大丈夫……茎也くん。私がいるから」
 そしてその夜、茎也と奈緒希はした。不安や恐怖、罪悪感を慰めるかのように彼は汗ばむ肢体(からだ)を抱いた。彼女もそれに応えた。脳裏にはいまだに先ほどの疑問が燻っていたが、茎也はそれを無視した。冬だというのに二階の寝室には熱気が籠もり、汗の匂いが充満していた。苦しげな呼吸の中でかすかに聞こえた、好き、という言葉を茎也は聞こえなかったことにした。答える言葉が見つからなかった。絶頂感をすぎると、瞬時に最悪の気分になった。しかしそれを拭う努力もせずに繰り返す。本当に、糞みたいだ。
32, 31

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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