トップに戻る

<< 前 次 >>

六/君の降る夜

単ページ   最大化   

      (三十二)

 まぶたを開くと、見知らぬ空間にいた。
 上下左右、混沌とした色彩がどこまでもつづいている。
 朱鷺菜は自分がうつ伏せに倒れこんでいることに気がついた。手を動かしてみる。だが意識が内側から冴え渡っていくことはなく、その手の動きすら夢の中で夢を見ているような心地でひどく模糊としている。次に起き上がろうと、腰をうごめかせるが、
「な……う……?」
 どういうわけか姿勢を変えられない。金縛りにあったと言えばいいのだろうか。さらに激しく身を捩じらせたつもりだったが、金紗の髪が頬に落ちただけだった。
 そのまま悪戦苦闘をつづけていると、いつのまにか眼前に茶色いローファー並んでいた。視線を上方にずらしていくと――制服姿の季菜が黙ってこちらを見下ろしていた。
 驚いた。鏡の中以外で彼女(じぶん)の容姿を見るのははじめてだった。
「目が覚めたんだ」
 朱鷺菜は緋色の瞳でぐっと見上げる。「教えろ。ここはどこなんだ」
「それが、人にものを聞く態度なの?」
「知るか。私は教えろと言っている」
「……つまんないの」
 季菜は髪を掻き上げたあと、見渡しながら言った。
「ここは、トキナという女の子の精神世界なの。言うなれば、私とあなたで一緒に住んでいる家ってとこかな。なにもかもが共同で、同じ部屋にはひとりしか入れない、不便な家」
 わかったかな? 季菜は小首をかしげた。
 つまりは、ふたりの意識の母体みたいな空間らしい。そうなると、現実のほうのトキナは布団に入っている時間帯だろう。本体が無意識でなければ、ここで顔を合わせられるはずがないのだから。とはいえ、その母体で目覚めたことが問題である。人格交代は、瞬間的かつ徹底的な意識の接続とカットでしかないはずだ。このような曖昧な状態で存在したことはなかった――精神世界の構造に変化が現れているのだろうか。
 朱鷺菜は質問をつづける。
「……どうして私はこんな押さえつけられたみたいになっているんだ。おまえは自由に歩き回っているというのに。本当なら逆じゃないのか」
 精神的な支配力の差――それが逆転している。
 その奇妙な意識感覚は、茎也にぶたれたあと、部屋で気を失ったときまで遡った。
「答えろ。おまえはなにをしたんだ」
 季菜は事務的な口調で言った。「別に。なにもしてないよ」
「嘘をつけ。なにもしていないのなら、こんなことが起こるはずがない」
「嘘なんかついてない」
「それが嘘だ。おとなしく白状しろっ」
「うるさいなぁ」
 いきなり、頭をサッカーボールみたいに蹴り上げられた。硬いローファーの爪先だ。視界がぐるりと半円を描いたかと思うと、唇が切れて血の味がしていた。
「本当に私はなにもしていない。だけど――私がそうなっちゃったんだよ」
 言った直後だった。
 周囲のサイケデリックな色彩のうねりが、脈動しはじめた。同時に金縛りはさらに朱鷺菜の感覚を奪い、意識が蛍の光がごとく儚く揺れる。持ちこたえられそうにない。
(く、くそ……茎也……)
 そんな朱鷺菜とは相反して平気そうな季菜は、くいっとおとがいを浮かせながら、
「もうすぐ朝みたい」
 そう呟いて、どこかへと歩きだす。
 しかし途中で振り返って言った。
「ルームシェアは、もうおしまいにしようね」

                  ◇

 気づいたときには、とっくに十二月に入っていた。澄みきった空気が肌に痛い。
 茎也は奈緒希とともに教室に入った。彼女はバーバリーのマフラーを外して、ダッフルコートを脱いでいく。制服を着ているとはいえ、からだの輪郭が想起できてしまい、茎也の胸はわずかに騒いだ。肌を重ねたあの夜以来、彼女をよりいっそう近くに感じる。安らぎを与えてくれている。なくてはならない存在――そう言っていいのかもしれなかった。
 教室内は明らかに空気が重たかった。しかし、無理もない。ある机の上に白菊を挿した花瓶が置かれるようになってから、まだ一週間しか経っていないのだ。
 加瀬太一が登校してくる。彼は田邊の机の前で立ち止まり、じっと花瓶を眺めていた。茎也の中で罪悪感がもぞりと寝返りを打つ。すると視線に気がついたのだろう、加瀬は近づいてきて前の席に腰を下ろした。語りかけてくる声には抑揚がなかった。
「なぁ、嶋原。なかなか見つかんねえよな……田邊を殺した犯人」
「……ああ」動揺を表に出さないように言った。たぶん、茎也たちに背をむけている奈緒希も似たような感じだろう。手に持つ文庫本のページが止まっている。
「もし見つかったら……俺、そいつを滅多打ちにしてやりてえよ。場合によっては、殺しちまうかもしんねえ」
 でも、難しいらしい。加瀬はそうつづけた。
「俺と田邊の兄貴――和孝(かずたか)さんって言うんだけどよ――昔からの知り合いだから力になれればって、ちょっと情報分けてもらってんだ。本当はしちゃいけないことなんだけど、あの人も必死だよ。弟を殺した犯人捕まえるのに心血注いでる。……犯人は、廃ビルの死体と同一犯の可能性が高いらしい。まあ、まだ単なる予想の域を出なていないし、犯人像もつかみきれてないんだけどな。田邊が死んだ夜はすげえ雨だったから、足跡とか証拠になりそうなもんは消えちまったんだってよ」
「そうか、それなら犯人は――」
 見つからないかもしれないな、と言いかけたときだ。
「この髪」毛先を摘みながら、加瀬がだしぬけに呟いた。夏に野球部を引退してから髪を伸ばしつづけているが、にしたって伸びすぎな感がある。目が隠れるくらいだ。「この前までもうすぐ切ろうって思ってたけど、やめた」
「どうして」
「俺、田邊のぶんまで伸ばそうと思う。あいつの二倍には、まだちょっと届かない。こんなことしてどうなるんだって言われたら、返す言葉もねえんだけどよ。それでも、どんなかたちでもいいからあいつのこと覚えていたいんだ。少なくとも犯人の糞野郎をとっ捕まえるまでは切るつもりはねえ」
 茎也はあいづちを打つことさえできなかった。加瀬は顔を傾けてくる。
「なぁ、嶋原も手を貸してしてくれよ。田邊を殺した野郎をメチャクチャにしてやろうぜ」
 その瞳は、激情の矛先を探していた。


 朝の加瀬との会話以降、気分は急激に悪くなっていた。自分を置き去りにして目まぐるしく移り変わっていく事態に眩暈を起こしてしまいそうだったし、それと同時に、自分は置き去りにされているのではなく、むしろそれを望んでいるのではないかという思いが胸の中で奇妙な模様を描いていて、吐き気を催しそうだった。
 午後の授業をまともに受ける気にはなれなかった。一時間も机にむかって頭を漫然と回転させるのは苦痛にしかならない。茎也は保健室にいって気分を落ち着かせようと思い、教室に戻っていく生徒の波に逆らいながら廊下をぼんやりと歩いていく。
 すると角のところで、
「よお……っておい。無視すんなよっ」
 吉田歩美の彼氏である濱口靖夫に出会った。
 茎也に元気がないことは一目でわかったらしく、面白がるように胸を小突いてきた。「あんだよ嶋原、ゾンビみてえなツラやがって。バタリアンにもそんなヤツいねえよ」
「それはいいすぎだ……」
「案外そうでもねえぜ? つうか、どこいく気だ? オメーの教室はむこうだろ」
「いや、保健室で休もうと思って」
「ハァ? せっかく俺が授業に出てやろうってんのに、オメーはサボりかよ。……んだよ、しょうがねえな。だったら俺も付き合ってやんよ」
「別にいい。それ、濱口がサボりたいだけじゃないか」
「ぐだぐだうっせえな。こいよ。気分よくするなら保健室よりいいモンがあるぜ」
 これ以上なにか言っても無駄だろう。観念したほうが楽かもしれない。
 茎也は鈍い頭のまま、濱口のあとについていく。階段を上るあたりから感づいていたが、やはりやってきたのは教員棟の屋上だった。鉄扉を押し開いて、冬の曇り空の下に出る。
 ふたりは裏手の階段室の壁に背中を預け、腰を下ろす。濱口が学ランのポケットからくしゃくしゃになった煙草をとり出していた。銘柄はラッキーストライク。ブルズアイが目を引く。濱口は自分も一本くわえて、箱を差し出してきた。
「まあ一本吸えや。気分わりぃのなんか吹っ飛ぶぜ」
 保健室よりいいものとはこのことか。転校する前の高校でも悪友に勧められたことがあったので、茎也は遠慮なくもらうことにした。少しでも気分を変えられればそれでいい。濱口から借りたライターで、手とからだで風を防ぎつつ火をつける。口から白い蛇が抜け出て消える。
「嶋原ってさ、彼女のこともうちょっと考えてやんねえのかよ」
「は?」
 突然の、しかも思いがけない言葉に濱口の顔を見る。
「不退院のことだよ、不退院。俺がアイツと同じクラスなの忘れたんかよ」真剣な眼差しをむけてくる。「それとも、アイツがオメーの彼女だってことを忘れたんかよ」
「いや……」
「オメーさ、けっこう前から不退院のことほったらかしにしてるだろ。噂になってんぜ。そりゃひとりで草食べるみてえに弁当食ってたら、だいたいの予想はつくわな。でもよ、それだけじゃねえんだ。これは俺しか知らねえと思うんだが……前にたまたま、アイツの机に開いたまんまのノートを見ちまったときがあった。なにが書いてあったと思う?」
 オメーの名前が黒い塊になるまでページいっぱいに書かれまくってたんだよ――と濱口は言った。そして彼は、苦々しく煙草の火をもみ消しながら吐き捨てた。
「ったくよ、フザケんじゃねえっつーの」
 その科白は、不退院季菜という女子生徒だけではなく、もっと空漠とした――状況や背景といったものにも、ひいてはその原因となっている茎也にもむけられている気がした。
「……おまえになにがわかるっていうんだ」
 吉田と乳繰り合っているだけのおまえに――突いて出た言葉の醜さに、茎也は即座に自己嫌悪に苛まれた。正論を言われて気に障ったという幼稚な理由で、立場の違いをいいわけにして背をむけようとする愚者に対する嫌悪。
 しかし、そう思いつつも口は動く。「俺のことなんてわかるはずがないんだ」
「そういうのは楽でいいよな」
 濱口は無言で二本目の煙草に手を伸ばす。火を灯してからぽつりと言った。
 少し、遠い目をしながら。
「……俺さ、中学校のころだったかな。後輩の女の子と付き合ったことあんだよ。いかにも大人しいっつーか、自分ってもんが薄いっつーか、まあ不退院に似てた」
 季菜に似ていた? 茎也は耳を傾ける。
「岡山だったか奥山だったか忘れたけど、そんな子がいたんだ。とにかくいい子でさ、俺みたいなアホに尽くしてくれた。マジ、重いくらいだったけど。ストーカーまがいのこともたくさんあったけど。なんつーのかな、ああいうタイプって過激っつーか危ういんだよ。入れ込みすぎて、心を腐らせちまうんだ。俺が卒業して別れるとき――理由はむこうの親とか、まあ色々ってことで許せや――その子、死ぬとか言い出して大変だった。けど、それがなにでもいいから気を引きたいとか打算的な部分があるわけじゃなくて、痛いくらいに純粋だから怖かった。それがわかっちまったから、余計に辛かった。結局死ななかったものの、自分の首を切ったんだ。愕然としたよ。好きだっていう気持ちだけでそこまでいっちまったんだ、その子は」
 その行動原理は末期的な恋であり、絶望的な愛だった。
「そんで俺はもうウンザリしちまった。そういう女の子が、じゃなくて。そういう女の子をそんなところに突き落としちまう自分にウンザリした。だからまあ今の歩美は、こういっちゃなんだけどよ、楽でいいわ。逆に適当な感じでフラれそうなんだけどよぉ」
 そう言って笑う濱口の目元には、深い悲しみの翳りが滲んでいた。笑いも本物ではないみたいで、すぐに終息していった。茎也は煙草を吸う。胸の中でなにか重たいものが回る感覚はしかし、煙だけではないように思えた。
 濱口が言った。
「不退院、今――まずい状態だぞ」
「……? まずいってどういう」
 やっぱ見てねえのな、と舌打ちしてつづける。「ノートのこともそうだけど、アイツ最近おかしいんだよ。授業中にさ、いきなりシャーペンで机を突き刺しやがんだ。ガンッて。どうしたんだって先公に聞かれたら、蝿がいるんです、とか言うんだ。俺もそうなんかなって思ってたんだが、そのあとも何回か同じことが起きて気づいた。蝿がいる気配なんて、まるでしねえんだよ。そもそも、寒いから窓とか扉とかぜんぶ閉めきってあるんだぜ? 蝿が入ってこれるはずがねえ。みんな最初は不思議がってただけだけど、今じゃもう白けた目で見てんよ」
 それどころか迷惑そうなヤツが大半だ。妄想女ってあだ名がついてる。
「それと、アイツが髪の毛を黒く染めた日だっけ。不退院、高橋(たかはし)――クラスのうるさい女子な――を突き飛ばしただろ。そうとう根に持ってるらしくてさ、あいつとその仲間がつっかかってるんだよ。まあ、昔の不退院ならそんなことはなかったんだろうが、なんでかアイツ性格変わったみてえでさ、癇に障るようなことばかり言いやがるから、連中との仲がどんどん悪くなってる」
 知らなかった。そんなこと知りたくないと思っていた。茎也はどう反応したらいいのかわからずに、いつまでも吸殻を押し潰しつづけていた。
「黙んじゃねえよ。オメーが黙っててどうすんだよバカヤロー」肩をどついてくる。
「…………」
「だから、黙んなよ。オメーは不退院の彼氏なんだろ。好きだから付き合ってんだろ」
 さっきも言われたことだ。
 自分は季菜の恋人ということ。
 そうであるということ。
「クドイようだけどさ、ああいうタイプってのは良くも悪くも本気なんだ。どこまでも真面目で真剣なんだ。そこで自分(テメー)がすることなんて決まってるだろ」
「……でも、おまえは駄目だったじゃないか」
「あー、俺は確かにダメだった。逃げたよ。だからこんなクソみてえなナリしてクソみてえなことしてんだよ。……悪いのはぜんぶ俺だ。受け止めきれなかったのは俺だ。でもよ、オメーは違うだろうが。ぜんっぜん違うだろうが」
「俺も同じだ」
「バカ言うんじゃねえ――そんだけやつれてりゃ十分だ」
 最後は唾棄するように言うとしかし、すぐに優しく呟いた。
「オメーが守ってやらなきゃいけねえんだよ、不退院は」
 その“守る”という言葉に文字通りのものだけではない意味が込められていることは、茎也にもなんとなくわかった。
 と。
 後ろでガチャリと鉄扉を開く音がした。
「ヤベ」と濱口は慌てて立ち上がり、煙草を貯水槽のほうに投げ捨てる。屋上に入ってきた誰かはふたりに存在に気づいているらしい。迷いなく回ってきた。
「おい、なにをやっているんだ。授業はもうはじまっているぞ」
 姿を現したのは誘木征嗣だった。
 濱口は気だるげに頭を掻いて、
「スンマセン。すぐ戻ります。ほら、嶋原もいこうぜ」
「ああ、待て。嶋原には少し話がある。きみは先にいきなさい」
 濱口は意味がわからないといったふうに誘木を見たが、茎也が無言で頷くのを認めると腑に落ちない様子で階段を下っていった。彼の気配が完全に消えると、乾いた笑い声が聞こえた。誘木が教師の仮面を脱ぎ捨てて、嫌らしく唇を曲げていた。濱口ならまだしもこの男とマンツーマンか、と茎也は嘆息しそうになる。
「男同士で屋上で煙草とは。青春してるなぁ、嶋原」
 目ざとく吸殻を見つけ出して、誘木はまた喉の奥で笑う。
「それになにやら説教臭いことを言ってたなあ、あいつは」
「……盗み聞きか」
「盗み聞きもなにも、そこの壁は薄いからね。中からでも聞こえるんだよ。怪しい生徒がいたからあとをつけてみたら、案の定サボりだったわけだ。わかりやすくていいな」
「説明はいい。話とやらをさっさとしてくれないか」
 問うが、誘木はもったいぶるように煙草をくわえた。ラークだった。ジッポーライターで火をつけると、煙を吐き出し「きみも吸うかい」と指を伸ばしてきた。どうせならもう少し吸ってもいいかもしれないと思い茎也が指を近づけると、煙草がはねて火が茎也の指に当たった。「熱っ」手を引っ込める。誘木はつまらなそうに灰を落とした。
「きみは阿呆だな。大人が子どもに勧めるわけがないだろう」
 いかにもそのとおりだが、こんなことをされてすんなりと納得できるほど従順じゃない。恨めしく手を擦っていると、誘木は「それだけ阿呆だから、こんなところまできてしまったんだろうがね」と言った。あいかわらず人を小馬鹿にした顔だったが、少し違った。
「――ようやくトキナという少女の怖ろしさに気づいたようだな」
 遅すぎるよ、と言われた茎也は反駁できない。彼自身そうだと思っていたのだから当たり前だ。誘木の冷たい視線に耐えきれず、目を伏せる。
「きみは本当に無責任で卑怯だ。なにもわかっていないくせに。いや、なにもわかっていないからこそ、彼女を壊していくのか。まあ、さすがに久布白としてのトキナが覚醒してくるとは思っていなかったけど。……まったく僕の身にもなってほしい。警察やマスコミに手を回すのも簡単なことじゃないんだよ。彼女のことだって対策の練りようがない」
 無責任で卑怯――その揶揄は茎也の胸に突き刺さった。
 しかし反射的に言い返してしまう。「対策が練られないって、それでも監視員か」
「ああ、語弊があったね。正しくは、僕が直接できることがないってことだ」
 まるでほかの誰かがするべきとでも言いたげだった。
「それに、考えるべき問題はそれだけじゃない。てんやわんやさ」
「これ以上なにがあるっていうんだ?」
 誘木は質問に質問で返してきた。
「きみは最近、朱鷺菜に会ったか?」
「……いや」
 そういえば、季菜が髪を黒く塗り変えたときから、朱鷺菜と一度も接触していない。確かふたりの精神的な力関係は朱鷺菜のほうが上だったはず。不退院家と久布白家の本源的な血の力の差があるからだ――と思ったところで、
『今はもう――私のほうが、強いから』
 季菜が屋敷の中で言った科白が、脳裏に映像を介して浮かび上がる。もしかしたら、と考えはじめたとき、誘木が似たようなことを口にした。
「彼女たちの中で立場が逆転してきている、と僕は思っている。つまり、季菜の意識がどんどん強く、朱鷺菜の意識がどんどん弱くなっている。そして徐々に――混ざり合っているような気がしてならない」
「それは……どういうことだ」
「たとえば、水と油があるとする。それらは当然混ざることはないし、常に分離した状態で隣り合っている。しかし、その油が水に変わっていったらどうだろう。水と水があいいれないはずがない。結果、ひとつの水となる。簡単に言ってしまえば、融合という言葉が的確なのかな。融けて合わさっていく、そんな感じだろうね。そしてたぶん、その原因となるのは――“感情の一致”だ」
 誘木は一度唇をなめた。
「もしかしたら、それはかなり前から水面下で進行していたのかもしれない。それがなにらかの拍子に爆発的に表面化した。……そうか。それが今の彼女なのか」
「ま、待て。どうしてそんなことがわかるんだ」
 そこで誘木は、フンと鼻を鳴らした。軽蔑的な仕草だった。
「ずっと前にも言ったと思うんだけど、僕は彼女のことを知っているんだ。少なくともぽっと出のきみよりはね。そしてそのまま進歩しない、愚かなきみよりはね」
 誘木は煙草をスリッパの裏でしつこくすり潰すと、もう話すことはないというふうに鉄扉にむかって歩きはじめる。とっさに茎也は呼び止めた。
「俺は、俺はどうしたらいいんだ? 誘木」
 笑って返す。「僕からまともな答えが得られるとでも?」
「それは……」
「いちおうは教師だから、それらしく言うと『自分で考え抜いてみろ、嶋原』――無責任で卑怯な上にズルをしようだなんて、本当にどうしようもないな、きみは」
 言ってから、ふとして聞いてきた。
「もうひとつ問題があった。きみは四辻とも会っていないのか?」
 季菜に四辻の所在を聞いて、知らないと返されたことを思い出した。あのときはその後の惨劇に脳全体の容量を奪われてしまって、記憶することは不可能だったのだが、よくよく考えてみると、出入りの多い誘木までもが見かけていないというのは妙な話だった。彼女だって、あの屋敷からは迂闊に出られないはずなのに。
 茎也が首を横に振ると、
「……そうか」
 と短く残して、誘木は屋上から姿を消した。鉄扉の閉じる音がひとりになったことを強く示してくれる。風が勢いを増し、どこからか葉擦れの音が聞こえてきた。
 それから茎也は立ち尽くしたまま思っていた。
 誘木の言った“感情の一致”のことを。
 それが融合を引き起こす鍵となる理屈は、感覚的に理解できるような気がした。わざわざふたつの人格をひとつのからだに宿しておく意味がないのだ。同じ姿で同じことを考えていれば、それはすでに唯一の存在なのだから――ただ、重なり合いつつある感情がなんなのかという部分は、わからないままだが。
 茎也は遠くにそびえる黒い山影を見る。
 あのとき一筋の涙を流した、赤眼の少女の顔を想起していた。


 ちょうどその翌日だった。
 三年三組の教室に悲鳴が響き渡ったのは。
      (三十三)

 三年三組の雰囲気は、日に日に悪化している。
 昼放課を告げるチャイムがなっても、以前ならみな思い思いの時間をすごそうと動き出し、賑やかさは高まっていっていたのだが、今は言葉少なに昼食にとりかかるだけだ。
 その主因となっているものの正体は、全員が知っている。
 窓際の最後尾の席――そこにいる少女だ。
 不退院季菜はノートを束ねて机の下に入れる。しかしそのあとは、他の生徒と同じように弁当を広げようとはしなかった。なぜなら――この教室には蝿が大量にいるのだ。彼女の足元には蝿の死骸が何匹も転がっているはずなのだが、逆にどんどん増えているように感じていた。本当に、いったいどこからわいてくるのだろう。
 そして――どうしてみんな平気なのだろう。
 教室内を見渡してみた。蝿がうんうんと羽音を鳴らして飛び回っていた。黒い粒は人のからだを無遠慮に這い回り、食べ物に集っている。それでも同級生は、蝿が鼻の穴に潜りこんでも平然と息をし、中には蝿ごとごはんを口の中に運んでいる者もいる。
 異常だ。
 彼らから視線を外して席を立とうとすると、数人分の女子の足が並ぶのが見えた。季菜は内心で息を吐きつつ、顔を上げた。
「ちょっと不退院。あんた私らにガンつけてたでしょ」
 そう不機嫌そうに言ったのは高橋真紀子(まきこ)だった。
 彼女を首魁とするグループは、ほとんど毎日のように因縁をつけてくる。彼女たちには、以前から季菜に対して容姿や振る舞いに絡めて陰口を叩いてきた経歴がある。有り体に言えば嫉妬だろう。いや、それよりももっと下の感情かもしれない。しかしそれでも見方を変えれば、陰口程度で済んでいたのだ。それが積極的に絡んでくるようになったのは、やはり――
「……別に。あなたたちなんて見てないよ」
「ウソつけよ妄想女」季菜の言葉にはっきりと柳田(やなぎだ)が被せてきた。周りの仲間に賛同を求める。「絶対見てたよね。私、目が合ったもん」
「……柳田さんって自意識過剰だよね」
「はあ? それってケンカ売ってんの?」
「そういうわけじゃないけど」
 近藤(こんどう)が言う。「柳田傷ついたじゃん。謝りなよ」
「あーそうそうマジで心が痛いわ。謝れよ。あと――いいかげん真紀子にもさ」
 またその話か、こっちがいい加減にしてほしい。季菜は嘆息する。
 高橋を突き飛ばしたときのことは、季菜自身忘れていた。というより、そんなこと気にも留めていなかった。ただ邪魔だったから横に退けただけだ。それが誰であるか、男子か女子か、人であるかどうかすらも眼中になかった。


 高橋真紀子の苛立ちは膨らんできていた。
 そういうふうに自分を破裂しきれない風船のようにしているのは、目の前の女子生徒のいけすかない態度だった。
 一年のときも二年のときも、彼女は今と似た所業を繰り返してきた。つまり、気に食わない女子をクラスの中で見つけては言いがかりをつけて玩具にするのだ。肉体的にも、精神的にも。たいていは一学期あれば出来上がりで、被害者たちの青褪めた笑顔ほど笑えるものはこの世にないと高橋真紀子という少女はそう思っていた――だから、それが見られないことほどむしゃくしゃすることはこの世になかった。
 不退院季菜は異例だ。卑屈な笑みを浮かべないし、強気に反抗してくることもない。ただただその瞳が曇ったガラス玉を相手にしているみたいで、なにかが欠落していると感じさせられる。薄気味悪い――そう思うこともしばしばあった。
(……本当にいけすかない)
 高橋は絶対に後悔させてやると思っていたし、その自信もあった。
「ごめんなさい」
 平板に言い、季菜はこれで済んだといわんばかりに席を立とうとした。しかし高橋は彼女の肩を突き倒し、再び椅子に座るかたちに戻させる。歪な黒髪が慣性に揺れる。
「なに言ってんの。そんなのダメに決まってんじゃん。ちゃんと誠心誠意心の底から言ってくれないと。知ってる? 真紀子の肩ってまだ痛むんだよ」
 むろん、痛みなんて一分もすれば消え去ったのだが、ここは柳田のつくりかけた流れに乗ることにする。「痛たたたた、なんかもうすごい痛い。外れてるかも」
「ごめんなさい」
 もう一度謝って、季菜は立ち上がろうとする。それをまた突き倒すと、後ろの仲間から忍び笑いがもれはじめた。痛いと言っているほうの腕でやっているのだからなおさらだ。
 季菜は前髪を軽く整えてから、無言で腰を浮かせる。
 倒す。浮かせる。倒す。浮かせる。倒す。
「なにこのもぐら叩き」柳田がせせら笑う。「学習能力なさすぎ」
 すると季菜は勢いよく立ち上がった。その眼差しには、かすかに苛つきのような光がうかがえた。やっときたか、と高橋はひそかにほくそ笑む。そこに感情があれば、どんなふうにしてでも楽しめる。卒業までにどんな顔にしてやろうか。適当に拉致させて、知り合いの男どもの中に放り込んでやるのもいいかもしれない。
「どいて。私いかなきゃ」
 季菜は高橋たちのあいだをすり抜けようとするが、すぐに捕まってしまう。
「おいおい? どこにいくつもりなのよ」
「茎也くんのところにいかなきゃ」
「そんなの知らないし」
「茎也くんのところにいかなきゃいけないの。茎也くんが私を待ってるからいかなきゃ」
 いかなきゃ、いかなきゃ―――その後も繰り返される言葉がどこか呪詛みたいに聞こえ、高橋は気味が悪くなって、季菜のからだを投げ飛ばした。
「うるせえってのっ」
 椅子を巻き込んで、季菜は壁に叩きつけられる。鈍い金属音が響く。
 さすがにやってしまったか、と高橋は振り返る。クラスメイトも、これでは見て見ぬふりはできない。しかし、彼らのほとんどは白けた表情で季菜を見ているだけで、彼女を助けようとする者はいなかった。……当たり前か。蝿がいると言う季菜の奇行のせいで迷惑をこうむってきたのだ。これぐらいのことは自業自得だろうという雰囲気が漂っていた。
 季菜は床にずり落ちていた。俯いて動かないのは気にならないこともなかったが、玩具にする足がかりをつかめた、ある種の達成感のほうが勝っていた。
 高橋は近くにあった箒を手にとり、虫の骸を探るように季菜を突く。経験上、直接的な攻撃よりこういう間接的な遊びじみた行為が自尊心を傷つけるのには効果的だ。そして、それに追い討ちをかけるとすれば――羞恥。彼女は唇を曲げながら、柄の先端を季菜の太もものあいだに通すと、スカートに引っかけてめくり上げた。
 季菜のからだが小刻みに震えているのに気づく。きっと恥ずかしさに動けないのだろう。長らくご無沙汰していた愉悦が、ふつふつと湧き上がってくる。柳田や近藤も、笑いを潜める気などとっくに失っているみたいだった。
「ちょっと男子。不退院のパンツ拝めるチャンスだよ。しかも丸見え。卒業前の思い出にはうってつけでしょ。今夜使えるんじゃないの?」
 調子に乗った近藤が声を上げる。男子は互いに見合うことはするが、注意しようとはしなかった。女子も同様に、ひそひそと話をするだけで季菜を擁護する動きはまったくない。教室という名の閉鎖空間の空気は、どこか異様さを醸し出している。
 柳田がきゃははと笑った。「うわー。こんなの見たら、彼氏も幻滅するだろうね。はしたないとかそういう話じゃないし。むしろ変態でしょこれ」
 教室全体でくすくすと笑いが漂う――しかし、それらに交じって違う声を耳に感じたのは高橋だけだった。怪訝に思い、季菜に耳を澄ます。羞恥に縛られているはずの彼女の口から這い出てくるのは「いかなきゃ、いかなきゃ」という機械的な呟きだった。
(えっ?)
 変わらない。局面の変化はなんの意味もなさない。
 ――この女は、この状況になにも感じていないのか?
 皮膚がざわめくのを高橋は感じた。
「そういやあさ、不退院の彼氏で思い出したんだけど。そいつと今、全然会ってないらしいじゃん。ていうか不退院が会ってもらえないんだって? そういうのマジで笑えるんだけど。しかもそいつ、最近は同じクラスの女と学校きてるみたいだしさ」
 柳田が、いいことを思い出したというふうに並べ立てる。そのとき――へたり込んだ少女の前髪の下で“なにか”が柳田にむかってギョロリと回転した。しかしそれに気づいたのはやはり高橋だけで、他の仲間は誰ひとりとして感じとっていなかった。
「それってやっぱりアレだよねえ。不退院は彼氏に捨てられて、その女に鞍替えされたってことになるよね。あーあ。マジで惨め。未練がましくなんか言ってさ、いいかげん気づけよ。アンタは捨てられたの。彼氏はもうアンタのことなんか好きでもなんでもな――」
 ちょっと待って。高橋がそう言おうとした瞬間だった。
 ぶれるようにして――柳田の頭が消えた。
 なにが起きたのかまったくわからなかった。床に音が響いて、ようやく彼女が季菜に押し倒されたのだということに理解が至る。
「なっ、なによ不退院っ。離しなさいよっ」
 柳田は押し返そうとするが、びくともしない。逆に彼女は胸ぐらをつかむと、がくがくと揺らしながら言った。開放しきった瞳はどこを見ているのかわからない。
「嘘をつくな。でたらめを言うな。そんなの嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。茎也くんはそんな男の子じゃない。勝手なこと言って。勝手なことを言って。違う違う違う違う違う違う」
 手が止まりかけると、季菜の視点は柳田の首のあたりを不安定にさまよい、ある一点で固定された。鎖骨の上、カッターシャツの襟がめくれた部分だ。彼女は“まるでそこになにかがとまっているかのように”視線を注ぎながら唇を動かす。
「柳田さん――蝿がいる。蝿――柳田さんがいる」
 さきほど机から転がり落ちたシャープペンシルをつかみ。
 そして。
 季菜は真上に腕を振り上げて――蝿は殺さなくちゃ、と言った。
 彼女の肩から縦に残像が走る。
 ズグチュッ……と血腥(ちなまぐさ)い音。
「ぃ、痛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああいいいぎ、ひぃい!」
 絶叫が教室に響き渡る。季菜が握っていたシャープペンシルを手放し、そしてそれが柳田の肌の上に“立ったままである”という事実を確認して、ようやく、遅すぎるほどにようやく、近藤が長い長い悲鳴を上げた。
「きゃああああああああああっ!」
 男女の怯えた声が入り混じり、みな一斉に季菜から距離をとろうとする。だが、高橋真紀子だけは一歩前に踏み出した。怒声ともに箒を振りかぶる。
「不退院てめえっ」
 鈍い音がした。
 季菜の左手の中から。
 流れるように箒を奪う。高橋は息をつめる。これでもかと握っていたはずなのに、泥鰌(どじょう)のように手から滑り抜けていったのだから無理もない。
 だが、彼女に素直に驚いている時間はなかった。棒状の影が顔に落ちるのを感じておもてを上げると、こんどは季菜が自分と同じように振り上げていた。
 彼女は黒髪のあいだから淀んだ瞳を覗かせて。
 高橋のこめかみを柄の先が打ち砕いた。
「あっ……、……!?」
 その一撃は的確に意識を剥ぎとり、高橋は床に崩れ落ちる。
「うわああっ」
「いやぁぁぁぁっ」
 なまじ理解できる暴力を見せつけられたことで、教室の混乱は爆発した。季菜はそんな周りの様子など目もくれずに、再び箒を振りかざす。次の叫喚にむけてクラスメイトたちが息を吸い込んだ――その一瞬の静寂のさなかだった。
「おいっ、不退院、やめろ!」
 騒ぎを聞きつけて教室に戻ってきた濱口靖夫が、季菜にむかって突進した。邪魔な机を飛び越え、華奢なからだに飛びつく。両脇を空けていた季菜ともつれ、箒が床に落ちた。彼は転げ回りながら、なんとか後ろから羽交い絞めることに成功する。
 つづいて怒号を放った。「おいテメーら、なにぼさっと突っ立っていやがる!」
「えっ……?」
「手を貸せっつってんだバカヤロウ!」
 弾かれたように男子たちが駆け寄ってくる。太ももを抱え込み、腕を捻りとって、数人がかりで季菜を強引に床に組み伏せた。さすがにここまでされては手も足も出ないのだろう。彼女は氷のような無表情の中に、微妙にもどかしそうな色を浮かべていた。
 さらに濱口は、高橋グループの女子に目をむけた。
「近藤! テメーらは先公呼んでこい、保健室からもだ!」
 首の近くとはいえ、叫ぶぐらいの元気があるかぎりは、柳田の刺傷はそこまで重大ではないだろう。むしろ高橋のほうが危ないかもしれなかった。脳震盪……まずい場合は脳挫傷を起こしている可能性だってある。
 近藤たちが泣きそうな顔で教室を飛び出していく。すでに廊下には人だかりができあがっていた。その中に嶋原茎也の姿はない。濱口は床に頬を擦りつけている季菜の空虚な横顔を見て、ちくしょう、とうめいた。その唇は確かに、くきやくん、と動いていた。中学時代の恋人を思い出して、ちくしょう、ちくしょう、と彼は呻きつづけた。


 その後――茎也が事件の知らせを聞いたのは、季菜から身を隠すのを終え、教室に戻ってきてからだった。三組にかけつけるも、すでに教師たちによって処理がなされていた。
 なので、掲示板での事後報告というかたちでしか情報は得られなかった。内容としては、高橋らに非があるのは生徒の証言から認められたものの、二名の生徒にけっして小さくない傷害を負わせた不退院季菜の責任はどうしようもなく重く、最終的な裁断として二週間の停学処分が言い渡されたとのことだった。高橋と柳田も停学となったが、実際は療養にあてられているだろうと思えた。どうやら、学校は生徒どうしの喧嘩ということで終わらせたいらしかった。
 そして。
 季菜が失踪したという連絡を誘木から受けとったのは、その翌日のことだった。
34, 33

  

      (三十四)

 茎也はすぐに家を飛び出して夷越山にむかった。自転車を山の入り口に捨て置いて、ライトを片手に上っていく。二十分ほどで屋敷に辿り着いた。
「誘木、状況を説明してくれ」
 そう放ってから、茎也は驚いた――誘木の横に不退院四辻が座っていた。彼でさえも居所をつかめないでいた彼女が、ひょっこりと現れているだなんて思わなかったのだ。いったい今までどこに隠れていたというのか。
「久しぶりね、嶋原くん」
 弱々しげ言ったかと思えば、ふいに辛そうな仕草を見せた。
 誘木が問いかける。「四辻? 痛むのか」
「え、ええ……少し」
「よくわからないんだが、なにがあったんだ? 誘木」
「嶋原、ひとまず座れ」
 はやる気持ちはあるが、おとなしく腰を下ろした。
「これからきみの要求に応えてやりたいところなんだが……今回の話は彼女のほうがうまく説明できるだろう。僕は茶でも入れてくるよ。四辻、茶葉はどこにあったかな」
 棚の一番下の引き出し、と四辻が戸惑い混じりに答えると、誘木は立ち上がって廊下に出ていく。その後ろ姿を四辻は不思議そうに見送る。正直、茎也も同じだった。誘木征嗣という男は、自分から四辻や茎也に茶を入れるような人間ではないと思っていたからだ。
「あの人って、変な人ね」
 四辻はわずかに頬を緩めたが、すぐに引きしめる。茎也も姿勢を正した。
「その……四辻さん」
「わかっているわ。あの子のことでしょう」
 すると彼女はいきなり着物をはだけさせて、肩の細い曲線を見せてきた。茎也はまたもや驚いた。四辻の行為に――ではない。肌にくっきりと轍(わだち)のような縄の痕跡が残っていたのである。さらに、着物に縦横に寄ったしわを見ればかなり執拗に縛られていたことがわかった。おまけに右足首には包帯が巻かれている。
「散々だったわ」四辻は襟元を直しながら、そう語りだした。


 ――数時間前。
 四辻がまぶたを開けると、床板が間近に広がっていた。
 もうどれくらい経つだろうか。この光景は見飽きてしまっている。
 彼女は物置に監禁されていた。
 猿轡(さるぐつわ)をはめさせられ、全身を縛り上げられている。さらには逃げられないように念を押され、右足のアキレス腱をぶっつりと切られていた。そこから下はもはや飾りと成り下がってしまっているが、それにしても、当分は鋏を自分で使う気にはなれないと思う。見ただけでこの痛みを思い出しそうだ。
「んぅ……ふむぅっ」
 激しくからだを波打たせると、縄の締めつけが弱くなった。日々継続してきた賜物だ。ここから抜け出せるかもしれない。さらに力を振り絞ると、縄は半分ほど千切れてずるずると解けていく。当然、彼女にだって不退院の血は確かに流れているのだ。身体能力の高さは常人と比べるまでもない。
 自由になった手で猿轡を解き放ち、投げ捨てる。
 戸にむかって立ち上がろうとするが、
「あっ、あっ」
 がくりと膝をついてしまう。アキレス腱を切られていたことを忘れていた。四つん這いになって戸を開けると、廊下に青白い光の幕が張られていた。今は夜みたいだ。
 ギシ、という音が聞こえ縁側にむかう。
 辿り着き、視界を滑らせると――奥のほうに季菜が立っていた。
 制服のブレザーの上に、丈の短いコートというかフードジャケットを羽織っている。彼女の目は少しだけ丸く驚いているように見えた。
「……ふぅん、出てこれたんだね」
 その声は、最後に聞いたときよりもさらに生気が欠けていた。眼差しも昏く濁っている。季菜のという少女がどんどん“悪化”していっているのをひしひしと感じた。その身に宿した久布白としての異常性が、彼女自身と共鳴している気配があった。
「せっかく閉じ込めておいたのに、面倒くさい」
「……まさかあなたに監禁されるなんてね。思いもしなかったわ」
「私の邪魔をするからだよ」
「あなたの様子が変だったからよ」
 ――どうしてこんなことをしているのか、と自嘲気味に笑ったこともあった。四辻は、様子のおかしくなりはじめた季菜のことを最初は静観していたが、しだいに口をはさむようになっていた。朱鷺菜が出てこないことが気になったのだ。
 そんな四辻をひどく疎ましく感じたのだろう。ある日突然、洗い物をしていたら頭部に衝撃を残して意識が途切れ、そして次に目を覚ましたときには物置にいたというわけだ。
「……嶋原くんも大変ね。こんなかわいそうな子を恋人にしちゃって」
「かわいそうって誰のこと。その年になって相手も子どももいないのに、なに言ってるの」
「子どもならいるわ」
 あなたよ――そう言うと、季菜は黙った。
 四辻は縁側に柱を支えにして立ち上がる。
「養母のつもりなんてまるでなかったのにね。いつのまにかその役に溺れていたみたい。情が移ったなんて言ってしまえば簡単なんでしょうけど、少し違うのね」
「じゃあなに……」
「どうしてあの春の日、幼いあなたを守ろうとしたのか、ときどき考えていたわ。あなたなんか死んでしまえばいいって思ってたはずなのにね。両家のために守るべきだったから? 違うわね。それじゃあ……赤兄兄さんが悲しむから? それもちょっと違う気がする」
 きっと――あなたが、あの女の娘だったからよ。そう言った。
 季菜の目が疑問に曇った。
「たぶん、私は嬉しかったんだと思う。赤兄兄さんを奪われた憎しみは本物だったけれど、それでもどこかで私は嬉しかった。あんなふうに人と話すのははじめてだったから。あの女……蔀が声をかけてくれて、一緒に料理をつくって、裁縫をして、山を歩いたりするのが楽しかったのよ。それに気づいたのは、彼女が死んでからだったけれど」
 それにね、と四辻はつづける。
「あなたをここまで育てたのは、私の意志じゃないの。赤兄兄さんが……言ったのよ」
 赤兄が自殺する前、『きみは、蔀じゃない』と彼は言った。けれど、そのあとにこうつづけたのだ。そのときだけ、四辻の好きだった心優しい青年に戻ったように。
「『きみは蔀じゃない。きみは、四辻ちゃんだ。蔀はもういない。だから、きみにあの子のことを任せたいと思うんだ。たったひとり、相手をしてくれたきみなら安心だから』……ってね。それであの人が死んだあと、しばらく放心状態の日々がつづいたけど、ある日私は気づいたわ。あの人は私に未来を託したんだって。もう終わりかけていたあの人の未来は、トキナ、あなただったのよ。その日から希望のなかった私の目に、あの人と同じ光が見えた。蔀がその胸を満たした愛情の深さを知った。あなたといると、蔀や赤兄兄さんと三人で育てているような気持ちになれたわ。あなたを囲んで、しりとりとかをして遊ぶの。……時間の中を生きているのは私とあなただけだったけれど、私たちの中にはちゃんと未来があったのよ。あなたの髪のように、金色に輝く未来がね」
 でも――と四辻は柱から離れた。痛みが走るが、なんとか重心の操作で立つ。
 その姿は、面前の少女に立ち塞がるかのようだった。
「でも、今のあなたには未来が見えない。黒く、塗りつぶされているわ」
「…………言いたいことはそれだけ?」
「ええ、それだけ。あなたじゃ彼とはいられない。とうてい無理な話よ」
「……無理なんかじゃない。ふざけたこと言わないで」
「じゃあなんであなたは今ひとりなのよ。あなたの横には誰もいない。左手に握っているのは彼の手でもなにでもない、ものを切り裂くことしかできない鋏じゃないの。冷たいだけの鉄の刃物じゃないの。そんなものを持っているかぎり、あなたは彼と幸せになることなんかできない。あなたたちはもう、壊れて――」
「うるさいッ!」季菜は叫んだ。鋏を手に、凄まじい形相で四辻に詰め寄る。「なにも知らないくせに! なにも知らないくせに! 私のこと、なんにも知らないくせに!」
 季菜の足はしだいに疾駆するかたちになる。四辻は、身構えようにも踏ん張りがまるできかないので、季菜の突進をもろに受け止める結果になった。かろうじて鋏で貫かれることは回避するが、下腹部に衝撃が集中し、庭に転げ落ちる。
「ああ……そうか」追って降り立った季菜は、鋏を開く。「そうだったんだ。あなたが茎也くんに変なことを吹き込んだんだね。今みたいなわけのわからないことを言って、茎也くんを騙したんだ。みんな、みんな、みんなそう。学校の人たちも、町の人たちも。みんな私と茎也くんの邪魔したいんだ……ゆるせない、ゆるせない……」
 だったらこれは天罰だね。妖しげに呟いて、鋏を急所に振り下ろそうとしたときだった。
 パンッ! と乾いた破裂音が響いて、季菜の背後にあった柱が大きく削れた。彼女は庭のほうに眼球を回す。トレンチコートを着た誘木征嗣が、小口径の拳銃を構えたままにじり寄ってきている最中だった。おおかた、様子を見にきたら緊急事態に遭遇した、というところだろう。
 季菜はぐちりと目を歪め、舌打ちをした。「本当に、邪魔をするう……」
「四辻から離れろ。今度は当てるぞ、季菜っ」
 すると、季菜は納得したようにゆらりと上半身を引いた――かと思えば、次の瞬間には縁側の上を走り出していた。逃げる気だと瞬時に理解し、誘木は太ももあたりを狙って引き金を引くが、障子を穿っただけだった。思った以上にすばしっこい。
 三発目を撃つ気にはならなかった。誘木は季菜を追うことよりも、倒れている四辻を助けることを優先した。監視員――抑止力としての任務に徹したとしても、完全に姿を消してしまった彼女はつかまえられないと判断したのだ。
 四辻を背中から抱き起こす。
「大丈夫か、四辻」
「……あなた、拳銃なんて使えたのね」
「悪いかい。いちおう、警察官やら消防士やらが身につけるほとんどの技術は備えているつもりだ。誘木家の義務さ。教員免許だってそういう過程で手に入れたものだからな」
「あの子はどこにいったの……?」
「わからない。町のほうかもしれない。でも今はきみのほうが先決だ。見たところ無事とは言いにくそうだぜ。立てるか?」
「そうしたいのは山々だけど、右足がこんなだからね」
「……しかたがない。ちょっと尻を浮かせろ、四辻」
「え、こう?」
 四辻がふとももを持ち上げるようにすると、誘木は、よっと気合を入れて彼女のからだを抱え上げる。四辻は恥ずかしそうな声を上げたが、彼は無視した。少しして「ありがとう、ごめんなさい」という声が聞こえた。彼は「順番が逆だろう」と短く答えた。


「そんな……季菜が。それじゃあ、前に俺がきたときにはもう」
「ええ、あなたの大きな声もしっかりと聞こえていたわ」
 茎也は俯いた。季菜はこれで、田邊幸宏を殺害し、同級生の女子二名に傷害を負わせ、四辻を監禁していたことになる――日を追うごとに彼女は狂気に呑まれていく。そんな、静かに闇に染まっていく彼女の後ろ姿を思い描いて、ひそかに拳を握りしめた。
「嶋原くん、これからどうすればいいと思う?」
 茎也はおとがいを浮かせた。「……なにか策があるんですか」
「行方がわからなくなったとはいえ、おそらく、あの子がこの町を出てよそへいくということはない。そして、必ずあの子はあなたの前に姿を現す。それだったら、この屋敷で様子を見てみるのもいいんじゃないかしら」
 確かに、それは良案かもしれなかった。ここには四辻も誘木もいる。言い方は悪いが、迎撃するつもりなら申し分ない環境だ。
 しかし。
「却下に決まっている」盆に湯のみを三つ乗せて戻ってきた誘木が言った。「そんなことをしてもなにも解決しないじゃないか。いいか、匿うってことはかばうということだ。かばうという行為は、甘えを生むんだ。とびっきりに腐敗した甘えをね。そうなればきっと、そいつはなにもしようとしない。なにも考えようとしない。なにも変わらないんだ。嶋原、ひとつ言っておく――出ていけ。わざわざきてもらって悪いが、ここにきみの居場所はないよ」
 誘木はもう喋る気がないのだろう、煙草に火をつける。四辻はそんな彼をじっと見つめていたが、賛同するように湯のみに口をつけた。茎也は緑茶をずっと見下ろしていた。すべてを見透かされているみたいで、動くことができなかった。

                  ◇

 夜は、年の瀬を控えた、なにかが終わりを告げていく冬の冷気に満ちている。
 彼女は、フードジャケットのポケットに突っ込んだ腕をからだに密着させ、熱を逃げさせまいとした。さらに赤くなった耳を、黒髪を掻き下ろして包み込む。
 そうしていると、目の前からふたり組の女子高生が歩いてきた。
 電車を乗り継いだ先の私立校だろうか、見たことのない制服だ。意匠がこらされていて、彼女の地味なブレザーとは正反対である。ふたりは彼女とすれ違うとき、なにかおしゃべりをしていたが、それを止めて無言で交差した。その沈黙の意味は、色々と想像に難くない。
 完全に背をむけ合ってから、彼女たちはおしゃべりを再開した。
 黄色い声で片割れが言う。
「でさあ、その人がすっごいかっこいいの。背が高くて、男らしくて――」

 彼女の足が止まり、ぐるりと振り返った。

 右側の少女がそう言ったことがわかった。
 背が高くて。男らしくて。かっこいい。
 それはまるで――彼のことのようで。
 見つめていると、ふたりは丁字路のところで手を振りながら別れた。左側は比較的明るいほうへ曲がり、右側のほうはそのまま暗い夜道を直進していく。
 一寸置いてから、彼女は直進した女子高生のあとをつけはじめた。歩調が速まっていくにつれ、白い息が小刻みに出て、ポケットの中で×××を握る手に自然と力がこもっていく。彼女のくすんだ瞳は女子高生の背中を追いつづけた。
 しだいに距離が縮まってくると、女子高生がちらりと振り返ってから、心なしか歩みを早くした。気づかれたかもしれない。彼女はさらにスピードを上げる。女子高生は明らかに早足になる。そして最終的にはお互い追いかけっこをしているみたいなかたちになり、ついに彼女の伸ばした手が女子高生のマフラーの端をつかんだ。
 女子高生は小さく悲鳴を上げて身を翻した。
「なんなのさっきからっ。やめてよ。気色悪いのよ、このストーカーっ」
 彼女は女子高生に聞いた。
 いや――聞いたという表現はふさわしくないかもしれない。
「さっきのこと」
「……え?」
「背が高くて、男らしくて、かっこいいって」
「そ、それがなによっ」
「茎也くんのことでしょ」
 はあ? と間の抜けた声をもらした女子高生は、クキヤなんて名前聞いたこともないといったふうに彼女を見る。しかし――彼女の目は、女子高生のその表情の中に“見抜かれたときのような動揺が走った”のを見逃さなかった。
 彼女はぽつりと唇を開いた。「やっぱり……茎也くんのことなんだ。みんな私の邪魔をするんだ。ほかの学校の人まで私と茎也くんの仲を引き裂こうとする。あなたは茎也くんを私から奪うつもりなんだ。その容姿で、甘い言葉で彼を誘惑するつもりなんだ。汚い」
 意味不明なことを淡々と口走る女――女子高生にはそう見えたことだろう。
「誰それ。そんな男知らないわよっ」
「とぼけないでっ」
 彼女は女子高生の両肩をつかんだ。
「知らないって言ってんでしょっ。離してっ」
「隠したって無駄なんだから。嘘吐いても無駄なんだから。薄汚い女、ゆるせない。私は知ってる。私にはなにもかもお見通しなんだよ。絶対茎也くんのことだ。茎也くんのことだ。茎也くんの。ことだ。茎也くんのこと。とだ茎也く。んのこ。と。だ茎。也くんのこと。だ茎也ん。のこと。だこと。だ。茎也。くんのこ。と。ことだ。茎。茎。茎也くんの。ことだ。くんのことだ。茎也く。んの。だ茎。也くんのこ。とだ。茎也。く。んの。こと――――――――――――――――――だ」
 女子高生の肩を潰すような勢いで鷲掴みにする。開かれる瞳。うるさい。とりあえず×××を思いっきり振り下ろす。わずかな抵抗であとはすんなりと入る。絹を裂くような悲鳴。もう一度×××を振り下ろす。女子高生とは違う誰かの狂った声。泣く女。逃がさない。なにかを言っているみたいだけど聞こえない。聞こえない。振り下ろす。濁った音が絞り出される。×××がぬるぬると滑る。まだ足が遠くへ動こうとする。×××を振り下ろすのがうまくなる。寸分違わず狙ったところへ。鮮やかな上半身。声はもう聞こえない。×××を振り下ろす。×××を振り下ろす。魚みたいに跳ねる。×××を振り下ろす。女子高生の可愛い顔がこちらを凝視している。見ないで。×××を叩きつける。駄目。可愛い顔をしていたら駄目。やめてください。奪わないでください。奪わないでください。駄目。そこは駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。細くてすっきりとした鼻は駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。瞳の大きな丸い目は駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。小さくて形のいい耳は駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。さらさらとした長い髪は駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。ぜんぶ駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目――茎也くん。私。駄目だよ。
      (三十五)

「殺しだそうだ」
 ハンドルを握っている先輩の安浦(やすうら)が言った。
「ああもう。いつからこの町は殺人の名所になっちまったんだよ。坂崎亜郎と合わせて、今年でもう七人、捜査が中断されたやつも含めると八人だ。マスコミとか、課長のぼやきとかめんどくせえなぁ。俺たちはまた無能扱いだぜ――っておい、聞いてんのかよ」
「あっ、はい。聞いてます。そうですね」
 ほんとかよ、と文句を垂れる安浦から視線を外して、田邊和孝は窓の外を眺めはじめた。弟が何者かに殺されてからというもの、胸にぽっかりと穴が空いているような心地がある。悲しみもやるせなさもその穴に吸い込まれていき、ただ執念だけが生き残っていた。
 しばらくすると現場に着いた。先に現場入りしていた刑事に安浦が声をかける。
「ガイシャの身元は?」
「はい。被害者のものと思われる鞄の中から生徒手帳が見つかりました」
 わかったからさっさと言え、と安浦。
「被害者の名前は牧村ゆかり(まきむら)。女。十六歳。私立高校の二年生です。詳しいことはおいおい判明していくと思いますが、どうやら帰宅途中に襲われたみたいですね。それといちおう、ご遺族の方にも確認はとれたことはとれたのですが……」
「とれたけど……なんだ」
「それは、ご自分の目で確かめてみてください」
 そうビニールシートの囲いを指差すと、刑事は青白い顔を崩した。安浦はそんな彼の姿に思うところがあったのか、くわえかけた煙草を箱に戻して、一歩踏み出す。
「田邊。おまえの弟を殺した奴が犯人かもしんねぇんだ。気合入れてけよ」
「……はい」
 中に入ると、鑑識課やらが立っていて、その中心には毛布をかけられた被害者の遺体が横たえてあった。端から伸び出ているのは、白いソックスを履いた少女の足だ。
 安浦はまず遺体の横に膝をつき、合掌する。和孝も後ろで立ったままそうした。
 黙祷を終えると、安浦はおもむろに毛布をつかみ、少女の遺体を朝日の中に呼び覚ましていく。しかし、半分ほどめくったところで動きが止まった。どうしたんですか、と訪ねても返事はなく、安浦は毛布を戻していってしまう。それからむき直った彼は、呆れ返ったような、心底うんざりしたかのような顔をしていた。
「田邊」
「は、はい」
「おまえ――つるつるの、花瓶みたいな死体を見たことあるか?」
 俺はねえ、と安浦は言った。


 その事件はかなり猟奇的なもので、センセーショナルだった。
 発覚の口火を切ったのは“本体”の発見ではなく、その“部分”の発見だった。
 牧村ゆかりの遺体が見つかる少し前――飼い犬に餌をやろうと庭に駆けていった小学生の女の子が、銀皿の上にすでになにかが置いてあるのに気がついた。犬が身を引いたあとに見てみると、そこにあったのは切断された人間の鼻だった。
 女の子が母親にそれを知らせ、通報したころから次々と町内で悲鳴が上がる。
 左右の耳がマンションの郵便受けの中に投函されていたり、中学校の校庭のど真ん中に頭皮の一部と血のついた髪の束が敷かれていたり、くりぬかれた両の眼球が駄菓子屋のガチャポンの台の上に無造作に置かれていたりした。特に眼球に関しては、そのかたちが容器に似ていたからか、昼前まで誰も気がつかなかったらしい。
 だから、牧村ゆかりには――起伏という起伏はなかった。
 鼻がなく、耳がなく、目がなく、頭髪さえもなくなっていたのだから、それはやはり一言でいえば流線だけの花瓶のようで――そして一目でわかる惨殺死体だった。
 秋からはじまった一連の殺人事件は、この死体が出現したことで『暮東に殺人鬼再来か』という見出しで新聞に掲載された。坂崎亜郎が逮捕されたにもかかわらず、またほかの通り魔が出現したという噂は寒風に乗って広がり、人々を震撼させるのだった。

                  ◇

 季菜の消息は依然不明だった。
 今どこにいるのか、なにをしているのか、どんな格好をしているのか、どんな表情をしているのか――それらすべてのことが、茎也にはわからないままだ。
 だが。
 彼女が牧村ゆかりを殺したことは、疑いようのない事実としてあった。警察から極秘に情報提供を受けた誘木が言っていたのだから、間違いではないだろう。ともかく、これでまた犠牲者が増えた。加速度的に進行する狂気は、彼女を坂崎亜郎のような殺人鬼へといざなっていく。いや、もはやその領域にいるのかもしれない。ひとりきりの放課後の教室で、茎也は頭を抱えた。
 心には、いまだに誘木の言葉が突き刺さっていた。
 そしてそれを抜いてはいけない気がしていた。
「無責任で、卑怯……だよな」
 低く呟いたときだった。誰もこないはずの教室の扉の開く音がした。奈緒希が入ってくるところだった。茎也の姿を認めると、どこか切なそうな微笑をむける。
「……図書室にいってたのかい」
 彼女は予備校などには通っておらず、学校の図書室で受験勉強をしていた。
「うん。赤本を忘れてきちゃったから、帰るついでにとりにきたの」教室の後ろに並んでいるロッカーのひとつを開きつつ聞いてくる。「茎也くんは帰らないの?」
 それは、一緒に帰ろうということなのだろうか――今までと同じように。それまでとは違うように。ある少女を突き放し、その代わりに自分が招き入れたように。
 茎也は一寸間を置いてから答えた。
「……いいや。奈緒希ちゃんは先に帰ってくれていいよ」
「どうして?」
「考え事をしているんだ」
「不退院さんのことでしょ」
 図星だった茎也は、すべき返答を見つけられない。すると奈緒希は窓際最後尾の椅子に歩いていって、腰を下ろした。そこは本来、彼女の席ではないけれど。
「不退院さんがいつも見ていた景色って……こんな感じだったんだね」
 金髪の少女がいた教室の果て――いつも日の光を弾いていた場所。
「ここからは誰の顔も見えなくて、ひとりだけ切り離されたような気分になりそう。窓の外には黒い山がそびえていて、いつも私を見下ろしている。……でも、この景色は彼女にとって、この席で見るだけのものじゃなかったんだね。不退院さんはいつも、誰の顔を見ることもできずに、黒い山に見下ろされて生きつづけてきたんだよ、きっと」
「……そうだろうな」
 人とは違うゆえに、人とはあいいれずに。
 人ではないゆえに、黒い山から逃れられずに。
 そうやって彼女は生きてきた――籠の中の金糸雀が、空を見て怯えるように。
「でも、不退院さんは茎也くんと出会えた。茎也くんと、出会えたんだよ」
 そこにどれほどの意味があったのだろう。そこにどれほどの奇跡があったのだろう。誰とも交わらずに、ひとりで生きていくことを命とされた少女――その宿命に背いてまで守りたいと願った想いを、空を見上げた金糸雀の羽根を震わせた意味を、嶋原茎也という少年はどれだけ拾い集めることができたのだろう。
 奈緒希は両の手のひらで頬を支えながら、静かに目をつむっている。
 茎也はいつのまにか、その姿に季菜を重ね合わせていた。少し物憂げな佇まい、小さな横顔、きらきらと射光を散らすあの美しい金紗の髪……。行方をくらましたはずの彼女がそこにいるような気がした。しかし、思わず腰を上げて、そのからだに触れたいと思ったのも束の間――奈緒希がまぶたを開いて言った。つかみかけていた季菜の像が、光の粒に弾けて消える。
「――私、不退院さんのことが少しわかるような気がするんだ」
 奈緒希は茎也のほうを見て、そんな顔しないでよ、と苦笑をもらす。
「最初は理解できなかったよ。理由はなんであれ人を殺してしまうなんてこと、絶対におかしいって思ってた。それは今も変わっていなくて、人殺しはしちゃいけないことだけど、本当に少しだけ……不退院さんがあの鋏を手にする理由がわかったような気がするの」
「たとえば、どんな」
「私ね、不退院さんがちょっと羨ましいかも」
 誤解しないでね。羨ましいっていうのは、殺人にむいてしまう思考のあり方じゃなくて、殺人を厭わない想いのあり方――とつけ加える。
「彼女には、誰かを殺してまで守りたいものがあったんだよ。そういうふうに壊れてしまうまで抱きつづけた気持ちがあったんだよ。すごいよね。だから、私は不退院さんのことが羨ましいの。私はきっと、そこまでひとりの人のことを想うことなんてできないから……」
 奈緒希は鞄を持って立ち上がって言った。
「きっと、不退院さんは怖いんだと思う。茎也くんという存在を、時間を、場所を、感情を、感覚を、その一つひとつの断片の中にある一人ひとりの自分自身も、失ってしまうことがなによりも怖い。そして、なによりも狂おしい」
 ――茎也くんは不退院さんのなにを見てきたのかな?
 その言葉は、痛みをもたらしつつ耳朶に溶けていった。季菜のなにを見てきたのか。正気を失った瞳を、狂気にとり憑かれた凶行を、見てきた――けれどそれらよりもっと前に目にして、もっと強く大きく感じてきたものがあるのではないか。
「私は先に帰るね。茎也くん、じゃあね」言う口の下から、奈緒希は教室をぱたぱたと出ていく。無人の廊下に足音が吸い込まれていき、あとには静寂だけが残った。
 茎也はそれからも座りつづけていた。今すぐ学校を出たら、なにかの拍子に奈緒希に追いついてしまうかもしれないからだ。彼女が先に帰ると、ひとりで帰りたいと言った以上、そういう再会は避けるべきだと思った。
 茎也は窓の外を見る。町は異様なほどに静かだった。今みたいな夕刻は、以前なら人の気配はところどころに感じられたのに、今や全体が死んだようになっている。
 逢魔刻(おうまがとき)――第二の通り魔殺人鬼の餌食にならないように、極力外出を控えている雰囲気が、人々の怯えや不安感が、目に見えるようだった。
 壊れていると感じる。この暮東のなにもかもすべてが壊れている。
 もう時間なんてない。
 不退院季菜という少女から背をむけることはできない。
 いや、違う――背をむけたくないのだ。
 窓際の最後尾の席にいた彼女の幻が、気づかせてくれたことがあるから。
 きっとあのとき、彼女は本当に戻ってきてくれたのだと思う。幸せな日々が永遠につづいていくと信じていた、金紗の髪を春の風になびかせていたころの彼女が、いつかと同じようにその場所で自分の足音が近づいてくるのを待ってくれているような気がしたのだ。
 自分はもうずいぶんと長いあいだ、彼女を待たせてしまった。
 その心が音もなく故障していく様から目をそらしていたときも、鮮烈に孵化した黒い感情に恐れおののいていたときも――たぶん、季菜は待ってくれていたのだろう。ただひとつだけ切なる願いがそこにはあったのだろう。けれど自分はなにもしてあげられなかった。教室と教室というたった数十メートルの距離を渡ることができなかった。
 彼女の心は、ずっと独りぼっちだったのだ。
 だから――今こそ、本当の意味で迎えにいかなければならない。
 そして。
(守ってやらなきゃなんない、か……)
 屋上で濱口靖夫に言われた言葉が、脳裏によみがえってくる。
 季菜を“守る”ということ。
 茎也は手のひらを見つめた。握り、開く。なにかをつかみ、なにかを手放す。たったこれだけの動きの中に、彼女を守る術はあるのだろうか。そもそも彼女を守るということは、いったいどういうことなのだろうか……。
 再び外を見やると、すでに空は宵の色に染まっていた。冬は日の回るスピードがはやい。そうなるとじきに頃合いかもしれない、と思う。あくまで推測だが、季菜は夜間に町に降り立つだろうと踏んでいる。返り血のついた服では白昼堂々と出歩けないはずだし、すべての事件がその時間帯に発生しているという事実も、頭の中にあった。
 季菜に会うのなら――今だ。
 茎也は立ち上がった。その目には、冷静な光が宿っている。
36, 35

  

      (三十六)

 加瀬太一は例外だ。
 現在の暮東で、いつどこにあるかもわからない死の影に怯える住民とは正反対に、その顔は異様な活力に満ち満ちている。親友を殺された憎しみは、時とともに薄れていくようなことはなく、むしろだんだんと色を濃くし、彼の原動力になっていた。夜道を歩いている今だって、囮として犯人をおびき出すことができるかもしれないと思っているほどだ。
 危険は承知の上だった――けれど、それを思うとふいに水木未来の顔が浮かんでくる。
 先日のことだ。彼は教室で嶋原茎也にこう話しかけた。
「なにか手がかりでも見つかったか?」
「は……?」
「手がかりだよ手がかり。田邊を殺した野郎を見つけ出すんだろうが」
 やや一方的な感じは否定できないが、確かに頼んでおいたはずだ。茎也を仲間だと思ったからこそ言えたことでもある。しかし、彼は思いもよらぬ返答をしてきた。
「いや、なにも見つからないが……それより、報復なんてやめたほうがいいんじゃないか。きっとなにも生み出さないと思う」
 逃げるような言い草に腹が立った。「……なんだよ。なんだよ、それ。なにふざけたこと言ってんだよ。もしかしてビビってんじゃねえだろうな」
「ふざけてなんかないし、挑発にも乗らないぜ」
「やめるって、おまえのことは諦めるって、もう忘れるって、田邊の前でそんなことが言えるのかよ。おまえには友情ってもんがないのかよっ」
「や、やめてよ、加瀬」
 あいだに入ってきたのは水木だった。引き戻すように加瀬の肩に手をかけて言う。
「嶋原くんの言うとおりだよ。やめたほうがいいよ」
「おいおい……なんだよ。水木もチビり野郎だな。パンツの代えは持ってきたか?」いつもなら怒髪天を突くレベルの暴言だったが、彼女の目は悲しそうに細められるだけだった。調子が狂ってしまう感じがして、ぼそりとつけ足す。「手を離せよ」
「やだ。だって加瀬、なんか変なんだもん。私やだよ。田邊くんのことで悔しいのはわかるけど、そんなことをしたって田邊くんが戻ってくるわけじゃないでしょ? それに……加瀬が危険な目に遭う可能性だってあるんだよ?」
「おまえになにがわかるんだよ」
「わからないよ、こんなばかなことしてる人のことなんて。でも……心配なんだよ」
「いい子ちゃんぶってんじゃねえよ。離せって」
「できないよ。加瀬……もうちょっと考え直して。私も相談に――」
「離せっつってんだろっ!」
 水木の腕を薙ぎ払った。体重の軽さを考慮しなかったために、彼女は思いのほか強く飛ばされて机を巻き込み倒れる。派手な音が響いた。
「くあ……いっ」その際に強打したのだろう、背中を押さえて涙をこらえながら、ショックを受けた顔で加瀬を見上げた。すっと今までは、ケンカをしてもこういう直接的な暴力を振るわれたことはなかったし、振るうような人間ではないと思っていたからだ。
 それは加瀬も同じだった。自責の念が生まれかけたがしかし、引っ込みがつかないという思いのほうが大きかった。くそ! と吠えて通学鞄を机からひったくると、学校から逃げ出した――逃げ出すことしかできなかった。
「マジで、ばかじゃねえのかよあいつ……」
 かぶりを振って思い起こさないようにする。
 それからしばらく歩くと、目的地が見えた。中流家庭然とした一戸建てだ。
 インターホンを押すと、若い青年が玄関を開いてくれた。彼の目は二重で凛々しく、鼻筋もくっきりと通っている。本当に似てない兄弟だな、と思う。
「こんばんは。和孝さん」
「やあ、きてくれてありがとう。上がってくれよ」
 田邊和孝が「話がある」と電話で連絡を寄越してきたのは、二十分ほど前のことだ。面とむかって言わなければならない用事らしかった。夜は危ないから今日じゃなくてもいいと断ってきたのだが、加瀬はすぐに会えるよう頼み込み、上がらせてもらったのだ。
 リビングには田邊の母がいた。疲れたような笑顔をむけてくる。
「いらっしゃい。太一くん、髪伸びちゃったのね。おばさん、短いころしか覚えてないからなんだか見違えちゃった」
「すいません、おじゃまします」
「和孝? お茶とかいるかしら」
「あ、俺はいらないっす。すぐ帰りますんで」
 和孝が答えるよりも先に、加瀬は手を横に振った。
「ということみたいだね。母さん」
「わかったわ」
「じゃあ太一くん、こっちにきてくれ」
 呼ばれて入ったのは和室だった。仏壇が置いてあり、生前の田邊の屈託のない笑顔が写真立ての中におさまっている。線香の先から細い煙が伸びていた。
「それで、話なんだけどさ」和孝はあらたまって言った。
 加瀬の心は期待に跳ねた。いったいどういう話だろう。犯人に繋がる有力な手がかりが見つかったのかもしれない。それなら、自分もよりいっそう操作に力を入れなくては。
 だが、和孝の口から告げられたのは――そんな思いを裏切るものだった。
「太一くんは……もう、幸宏のことを手伝ってくれなくてもいいよ」
「え?」
「別に忘れてくれなんて言っているわけじゃない。きみが幸宏を親友だと思ってくれて、忘れまいとしてくれて、ぼくは本当に嬉しい。父さんや母さんだって、ありがとうって言ってる。でも……それだときみのためにならないんじゃないかと思うんだ。きみにはまだ先の人生がある。立ち止まってほしくないんだ。だから母さんたちとも相談して、今回のことを――」
「なに言ってんだよ、和孝さん」
 加瀬の眼差しに和孝は言葉を失った。
「俺は立ち止まってなんかいねえよ。田邊の道を、進んでるんだ」
「それは違う、そんな道はないんだよ」
「ある」
「やめておくべきだ。きっと誰もが言うぞ」
 水木の顔がよぎった。「それがどうした、関係ねえだろっ」
「でも」
「でももへったくれもねえ! 口出しは認めねえ、俺は諦めねえぞっ!」
「太一くん……」
 気まずい沈黙が流れる。加瀬は失望感に包まれながら呟いた。
「……もういいよ、和孝さん。少し田邊と話がしたい。ちょっとでてってくださいよ」
 和孝はしばし潜考したみたいだったが、襖を閉めて出ていった。ちょっと時間を置けば冷静になると思っているのだろう。
 加瀬は焼香を捧げたあと、壁に目をやった。学生服の上下一式が新品がごとくハンガーにかけてある。親友の形見は、母親が綺麗にしてやっているのだろう。おふくろが身なりにうるさくて困る、と田邊が愚痴っていたのを思い出した。
 ふらふらと近づいていく。「なあ、田邊……俺、どうしたらいいんだろうな」
 返事はない。当然のことがひどく悲しい。。
「なんでみんな同じことばっか言うんだよ。おまえだって報われてないはずだろ。まだなんにもしてねえだろ。そんなの悔しいだろうがよ……」
 そううめくように言って、俯いた――そのときだった。
 偶然目に入った袖の金ボタンに、なにか細い糸のようなものが絡まっているのが見えた。それは一本の髪の毛だった。しかも田邊より明らかに長い――女の髪の毛。
 加瀬は驚愕に目を見張った。どうして警察はこんな重要な証拠を見落としたのだ。どうして田邊の母親は制服の手入れをしているときに気づかなかった。ともかく、これは僥倖だ。これがあれば凶悪殺人犯の正体を暴けるかもしれない。
 よく見てみようと、その髪の毛を左右に張り、明かりに透かしてみる。
 ――加瀬の呼吸は止まった。
 半分以上が黒い色素の部分だが、わずかに金色の輝きが線状にこぼれていたのだ。
 殺された田邊幸宏が最後に会っていた人物は、黒色と金色が綯い交ぜになった髪の毛を持つ女。そんな奇抜な髪の色をした女は、この暮東の町にはひとつしかいない。そいつは女子高生で。自分たちと同じ高校に通っていて。同じ学年の、ふたつ離れた教室の生徒で。
 そいつの名前は――
 そいつの恋人は――
「――――……ッ!」
 加瀬は襖を開け放った。全員がなにごとかという顔をむけるが、それを無視してずかずかと台所に入っていく。目当てのものはすぐに見つかり、勝手に拝借する。
 和孝が正気を疑うみたいに言った。「そんなものどうするつもりだ?」
 それも無視して玄関へとむかう。
「た、太一くん。どうしたんだいったいっ」
 もはや加瀬には、和孝と協力する気はなかった。なぜなら、彼は自分を裏切った。なにが諦めろだ、なにがやめたほうがいいだ。和孝さんもおばさんも水木も、どいつもこいつも裏切り者だ。裏切り者にはもうなにも期待しない。自分でカタをつけてやる。
 さあ――最大の裏切り者はどこにいる?
 外に出た加瀬は、夜風に逆らって駆け出した。
 

 一度、高校から帰宅した茎也は黒電話を手にとった。相手は誘木だ。彼の携帯番号は緊急用として教えられていて、メモを保管していた。二回目のコールで繋がった。
『誘木だ』
「俺だ、嶋原茎也だ。伝えておきたいことがある」
『なんだいきなり』
「俺は今から季菜を探しにいく。これ以上被害者は出させない」
 むこうで混乱する気配があった。突然も突然なのだから無理もないが。
『待て。とりあえず、きみは今どこにいる? すぐ合流するから――』
「そう言うと思ったさ。だから連絡した」
『なに?』
「俺が伝えたいのは、あんたは介入しないでくれってことだ。俺ひとりでいきたい。いや、俺ひとりでいかなきゃいけないんだ」
『……そうか』誘木はあきれたように、しかし背を押すように言った。『だったらきみに任せてやってもいい。せいぜい惨殺されないように用心するんだな』
「ああ、恩に着る」
 通話を終了する。それからすぐに二階の自室へと駆け上がった。邪魔な荷物はここで留守番をしてもらうことにし、鴨居からブラックのダウンジャケットを引っぱり下ろして、勢いよく羽織る――と、なにかが畳の上に転がった。どうやら裾が当たったみたいだ。
 拾い上げようとして、止まる。
 それは、暗い星のような輝きを持つ石だった。
 捨てようと思っていたことを思い出す。手にとると、また少し頭痛がした。それは、朱鷺菜とはじめて出会ったときに襲われたものと同種の痛みだった。しかし、そもそもどうしてあんな嵐が頭蓋の中で巻き起こったのか、いまだにわからないままだ。
(……朱鷺菜……)
 彼女のことは、ずっと胸に引っかかっていた。
 季菜が髪を黒く染め上げる前、最後に目にした彼女の姿――その、涙。
 あのとき流れ落ちた一筋のきらめきが、心に澱を残していた。
 その澱は。
 その澱は――ふいに茎也を突き動かした。
 彼は小石をじっと見つめた。すべての頭痛が同種のものであるのなら、朱鷺菜との出会いとこの小石が一本の線で繋がれているとするのなら、彼女と彼女にまつわる頭痛の原因についてなにかわかるかもしれない、なにかが見えてくるかもしれないと感じたのだ。
 ズキリ、と痛みはギアを入れ替えた。とたんに頭痛は回転を増していく。
 ズキン、とさらに歯車は変動する。焦点がぐらつきはじめる。
 それでも茎也は、耐えろ耐えろと命令しながら見つめつづける。かつての目をそらしてしまう段階は、とうの昔に過ぎていた。頭痛に間隔はなく、感覚はもうない。ただ、頭の奥底から異物が引きずり出されていく、そんなイメージだけ明滅しつづけていた。
 そして――最終的に、すべての思考が飛び散りかけたときだった。
 なにかが開いた。
 茎也の網膜に、淡い夏の陽射しが広がった。

 赤/い/眼。

 金/紗/の/髪。

 鮮/烈/な/夕/暮。

 ――彼/女/が/く/れ/た/石。

 ぴたり、と。
 跡形もなく頭痛が消えた。
 そして――全身を揺さぶられるように、感情が動いた。
 即座に階段を駆け下りて、玄関に飛び込む。戸締りを点検している余裕などない。誰でも入ってなんでも盗っていってくれればいい。自分には失うものなどなにもない――失いたくないものがあるだけだ。靴紐をしっかりと結び、夜空の下に身を投じる。
 走り出してすぐだった。
「茎也くん」
 呼ばれて振りむくと、そこには奈緒希が立っていた。
      (三十七)

 親戚というものが、いとこというものがなんなのか理解する前から、好きだった。
 北野奈緒希にとって嶋原茎也は、長い休みになるとなぜか一家でやってきて歓迎されている男の子で、恥ずかしいけれどしかたなく一緒に遊ぶ遊び相手で――気づいたときにはもっと一緒にいたいと思っている、初恋の人だった。
 血が繋がっているという彼との関係を知ってからも、その想いは変わらなかった。むしろ禁断の恋に身を焦がす少女漫画の主人公になったような気がして、胸は熱くなった。教師に結婚のしくみを教えてもらった日の夜には、自分で家系図を描いて、いちにいさんよんと親等を数えては赤くなったり、無意味にベッドを転がってみたりした。
 だから――八年間の空白を経て再会を果たしたときには、あふれ出しそうになる涙をこらえることに四苦八苦した。本当に嬉しかったのだ。これからまた、いつかのように素敵な思い出をつくっていけると、一緒にいられるんだと、そう夢心地に思った。
 けれど、すぐに夢は覚めた。結局それは、ひとりで見るものでしかなかった。
 不退院季菜――茎也は彼女と出会い、因果の糸で繋がれたように惹かれ合っていった。膨れ上がっていた想いは、同じ大きさの……いや、それ以上の苦しみへと変貌した。ふたりに対して、荒んだ想像も汚い未来予想もした。だが、それは空しさを生むだけだった。
 初恋は実らないもの。そういう風説を無理やり心に押しつけて、なんとかしようとした。現に、なんとかなろうとしていた――そんなときだった。茎也が自分を求めたのは。
 とても非情なタイミングで、とても残酷なチャンスが回ってきて。
 そして自分は、踊らされることを選び、夢から覚めるのだ。
 消えることを自覚している、ひとりきりで見る明晰夢から。
「……いくんだ?」
 奈緒希が言うと、茎也はゆっくりと口を開いた。
「ああ。考えはお見通しみたいだな」
 彼はそのままじっと、黒髪をサイドポニーに結んだ彼女の、小さな顔を見つめる。自分を好いていてくれた少女――自分は、どれほど苦しませていたのだろうか。ただ仮初めの安楽を得られる場所が、現実を忘れられる時間がほしかっただけで。
 彼女の想いを、温もりを、利用した……使用したのだ。
 まるで玩具で孤独を慰めるように。
 だから、彼女の存在に依存した未来も過去もない停滞の季節は、終わりを告げなければならないのだろう。ほかの誰でもない、奈緒希という大事ないとこのために――なんて。
 そういう牽強付会(こじつけ)の下に終わらせる。
 一方的に。どこまでも自分勝手に。限りなく身勝手に。
 本当に、最低のクズ野郎としか言いようがない。
 だから――どうか。
 絶対に、許すな。
「……奈緒希ちゃん」
 茎也は口を開いた。奈緒希は、うんと小さく頷いた。
「俺はずっときみに甘えていた」
「うん」
「きみに、不安とか焦りとか恐怖とか……嫌なものをぜんぶ押しつけてた。それで俺は季菜から逃れられた気になって、現実から目をそらしていたんだ。もしかしたらきみのことだって、見ていなかったのかもしれない……」
 三回目の頷きを見せてから、彼女は言った。
「知ってたよ。茎也くんは私に甘えてるんだって」
「えっ」
「だって……わ、私が茎也くん家に泊まったとき、抱かれながら思ったの。ああ、この人は私に甘えたいんだなって。茎也くん、子どもみたいだったんだもん。あのとき、私の言葉に返してくれたら……とか考えていたけど。やっぱり違うんだよね。違うんだよ」
 自らに言い聞かせるように、そう彼女は言った。
「それにね、私はもっと前からわかってたよ。実は茎也くんは甘えん坊さんなんだって」
「そうなのか? 自分じゃあ気づけないけど……」
「覚えてないかな。幼稚園の年中さんだったころ、一緒に公園で遊んでたら茎也くんが転んでひざを擦りむいちゃったの。そのときは茎也くん泣かなくて、私はすごいなあって思ったけど、おばあちゃん家に帰ったら一直線に伯母さんのとこまで駆けてって泣きつくんだもん。私、思わず笑っちゃったの覚えてる。あとね、茎也くんってさ、疲れるとすぐに伯母さんの膝枕で眠りたいって言って寝てたんだよ。私はそれを真似してお母さんのひざの上で眠るのが好きだった。伯母さんとお母さんは姉妹だから、同じようにして寝てると、茎也くんと繋がって寝てるような気持ちになれるのが好きだったの」
 そんな昔の出来事まで覚えてくれていたのかと思うと、茎也の胸は熱く締めつけられた。罪の意識に耐えきれずに、ある言葉がこぼれ落ちようとする――やめろ。
 それは、許しを請う言葉だろうが。
「……ごめ――」
「――やめて?」さえぎられ顔を上げると、奈緒希が切なげに微笑んでいた。「駄目だよ、茎也くん。謝らないで。謝られたら私、きっと『いかないで』って言っちゃうから……」
 はっとして口をつぐむ。すると、彼女は一歩だけ近づいてきた。
「そのかわり言わせて」
 表情からはなにもうかがえなくて、どうするつもりだろうと思ったのも束の間。
 奈緒希のからだが跳ねて、茎也に重なった。
 そして首筋に柔らかな蕾の感触――彼女は小さなキスをした。
「な……っ」
 不意打ちに成功した彼女はくすりと笑んで、なにごともなかったかのように離れた。
 そしてよく透る声で、笑顔で言い放ったのだった。
「ばーかっ! 茎也くんなんかどこへでもいっちゃえーっ!」
 言葉の余韻があたりを包む。
 その中で茎也は、ゆっくりと表情を引きしめていった。奈緒希の睫毛が、なにかを押さえ込むかのように震えているのに気づいてしまったから。
 ならば、ここでぐずぐずしていてはいけない。彼女のことを思うのなら、かけがえのない存在だと思うのなら、彼女が望んだ方法で別れなければならないのだろう――北野奈緒希が、甲斐性無しの甘えた男を振るという終わり方で。
「ああ……いってやるよ」
 茎也は駆け出し、背後を振り返ることはなかった。
 強引にでも季菜のことに頭を切り替え、闇雲に走りつづける。
 しかし、高校、公共団地、市民病院の周辺をはしごしていくうちに息が切れてきた。運動部に所属していればまた違ったかもしれないが、無精者が四の五の言ったところでしかたない。足を止め、こめかみの汗を拭った。
 夜空を見上げるが、黒ずんだ雪雲のせいで星はひとつも見えない。あらためて、この闇の下のすべてで季菜を探さなければならないと思うと途方に暮れそうになったが、そんな弱音など吐いていられるはずもない。
 絶対に見つけ出すのだ。そう決意しなおして再び走り出すと、やがて十字路に着いた。
 人の気配はない。
 だが。
 人ではないものの気配なら――あった。
 十字路の対面方向から、黒い人影が歩いてくる。あの小柄なシルエットは、間違いなく彼女だろう。茎也と八メートルほど距離を置いて立ち止まった。
 茎也は瞠目する。
「……朱鷺菜……」
 彼女の眼窩は――緋色の光芒を閉じ込めていた。
「……茎也、か」
「季菜はどうしたんだ」
「あの子は今、かろうじて私が押さえ込んでいるところだ。まったく手の焼ける子だ。やっと意識を覆すことができたと思ったら、この有様だものな。……まあ、でも、ここにいられるだけでもよしとするか……。おまえと出会えてよかった」
 すると、朱鷺菜の切れ長の目は鋭さを増した。懐から黒い鋏を引き抜いて、柄に通した指の動きで刀身を器用に回転させてから、先端を茎也へと突きつけた。
 殺意を――むけた。
38, 37

  

      (三十八)

「……もう、あの子が産み落とす悲劇を終わらせる方法は、おまえを殺すしかない。おまえがいなくなれば、あの子が人を殺す理由はなくなる。おまえが死んだあと、あの子がどうするのか、どうなるのかはわからないが、私にはこの方法しか思いつかなかった。……おまえをこの鋏の最後の錆にすることにする。私はこの鋏で、おまえというしがらみを裁ち切ってみせる」
「そうか」茎也は静かに言うと、近くの廃材置き場から、一本の鉄パイプを拾い上げた。軽く具合を確かめて、下段の構えをとる。
「……抵抗する気か」
「みすみす殺されるわけにもいかないからな」
「いい度胸だな。そういうところは、認めているぞ」
 朱鷺菜は上体をすっと沈み込ませる。
 くる、と思った次の瞬間には――間合い近くにまで彼女が迫っていた。
 躊躇なく飛んでくる刃先を、とっさに受け止め、その勢いのままあとずさる。手元を見るとあまりの衝撃に痺れていた。なんだこれは、と思った。こんな世界に朱鷺菜はいたのか。一瞬の隙が死に直結するような世界に。いざはじまってしまうと、やはり緊張で心臓が止まりそうになる。彼女の鋏を防御できたのだって、運がよかったにすぎない。あんな幸運がそう何度もつづくとは思えなかった。というより、そもそも朱鷺菜と闘うこと自体が正気の沙汰じゃないのだ。
「……いい気になるなよ、茎也っ」
 常にギリギリの判断を強いられる。
 繰り出される蹴りや掌底、そして鋏。
 肉薄に次ぐ肉薄。瞬間と瞬間の連続――並の人間がいつまで持つかはわからない。
 それでも茎也は、どこか朱鷺菜の動きに違和感を覚えていた――直感的に感じる、彼女本来の動きではない、意識と肉体がうまく接続していないかのようなぎこちなさ。
 が、それがこちらに有利に働くかと問われれば、そうでもない。根っこの部分での性能の差を忘れてはならない。いくら朱鷺菜が本調子ではないとしても、茎也はそれよりはるかに鈍いのだ。そして、その悖(もと)りようのない事実は、最終的な決定を下す。
 それは時間の問題であり、必定だった。
「……くっ!?」
 懐へと潜り込まれたことを認識したときには、遅きに失した。
 突然の浮遊感と――直後に背中の痛み。
 十字路の真ん中に、茎也は仰向けに押し倒され、その上には朱鷺菜が馬乗りになった。ふたりの吐く白い呼気が、互いを求めるように溶け合って霧散していく。
 朱鷺菜は両手で鋏を握った。八年前の夏の夕暮れと現在が、重なって脳裏に広がる。あのときも茎也にまたがり、扼殺しようとした。小学生だった。そして今、高校生になった自分は高校生になった茎也を刺殺しようとしている。
 ……どうして、繰り返さなければならないのだろう。
 朱鷺菜は、あの日と同じ逃げ出したい衝動に駆られた。呪い尽くしたはずの時の意思を再び呪いたいと思った。でも、そんなことをしていてはなにも変わらない。今以上の不幸が降りかかるだけなのだろう――八年前のトンネル事故と同じように。
 なら――私は変わる。
 これが正しい選択なのかはわからないけれど。
 茎也を殺して、私は変わる。
 茎也を殺して、私は終わる。
 握った鋏に無理やり力を込めた。
 しかし――どうして。
 その手は。
 その手は、震えるだけで動こうとはしなかった。
 早く振り上げて、ありったけの力を注いで、この広い胸に突き立てなきゃいけないのに。なにもかもを投げうって、すべてを断ち切るつもりだったのに。
 どうして、どうして――。
「……っ?」
 知れず俯いていた朱鷺菜は、びくっと肩を揺らした。それは、茎也の手がゆっくりと顔に伸ばされてきたからだった。冷えきった頬に添えられ、次に目じりに指が這い、親指と中指の動きでまぶたを押し広げられる。彼は優しく笑った――すぐにでも殺されてしまうかもしれないのに、眠りから覚めたあとのような穏やかな表情で。
「あのときもこんな感じだった」
 茎也は思う。
 この瞳は、血を吸ったような禍々しい色ではなく。
 ルビーみたいに真っ赤に輝いて――見惚れてしまうぐらいに綺麗だ。

「……きみだったんだね――――ときちゃん」

 それは、とても可愛らしかった女の子の名前。
 あの夏、確かにいた友だちの名前。
 ときちゃん――朱鷺菜のからだは、寒さではないなにかに震えた。
「……く、茎也。おまえ……思い出して……」
 そう――彼は思い出したのだ。
 あの暑い夏の出来事を。そして、両親がフロントガラスに磨り潰される瞬間を。
 記憶を失ったのは、事故の衝撃のせいではなかった。その脳は、網膜に飛び込んできた悲惨な映像から自己の人格を保護すべく、一瞬にして記憶を意識の手の届かないところに葬ったのだ。その前後――ひと夏の思い出を巻き添えにして。
 茎也は思い出せなかったのではなく、思い出さなかった。記憶を喪失していたのではなく、封印していた。頭痛は、朱鷺菜という八年前の夏の断片に触れた脳が、その記憶を呼び起こさせないようにするために発信した警告信号だったのだ。
 鮮やかな事故の映像に、父と母を同時に失った悲しみに、茎也は打ちひしがれそうになった。確かにそれは、思い出してはいけないことだったのかもしれない。しかしそれ以上に思い出さなくてはならないことが、あの太陽の下であったのだ。両親の死はもうどうすることもできないが、彼女のことはまだ間に合う。
 あの夏の日に――自分は帰ってくることができる。
 茎也はもっとよく顔が見えるように、朱鷺菜の髪を耳の後ろに掻き上げた。
「ちょっと大人っぽくなったのかな。でも、あんまり変わってないな」
「く……茎也、本当に……」彼女の中で様々な感情が掻き混ぜられているのがわかった。
「きみも覚えていてくれたんだな」
 茎也は、こぼれ落ちてきた髪をもう一度掻き上げようと、さらに手を伸ばす――だが、落ちてきたのはそれだけではなかった。どさり、と腕に小さな頭が乗った。
 わずかなタイムラグのあと、知る。
 朱鷺菜は――倒れた。
「と、朱鷺菜っ」
 抱えた彼女は、まるで性質の悪い熱に犯されているようだった。
 なにかが彼女の中で脈打っている――。
「……茎也。これはあの子だ……」
「あの子って、季菜のことか? おい、しっかりしろっ」
「ああ……あの子に取り込まれていくのがわかる」
 茎也は息を呑んだ。
 感情の一致による人格の融合。
 この状況から見るに、水に変わる油は朱鷺菜だということなのか。
「おかしな顔をしているな、茎也。私のほうがあの子より上にいるんじゃなかったのか、そう言いたそうだな」
 茎也は胸の中で頷いて、次の言葉を待った。
「……確かに私のほうが主導権を握っていた。意思ひとつで人格は交替できた。でも、それは初期設定での話だ。徐々に自由さは失われ、高校生になって以降は、めったなことでは出られなくなっていった。たとえば――頭上からがらくたが落下してきたときとかな」
 社会科準備室でのこと。あのとき、瞬間的に生まれた意識の空席に、朱鷺菜は滑り込んだのだろう。いや、収まってしまったというべきか。
「だが……考えてみれば当然のことなのかもしれない。回らない仕組みは錆びていく。使わない道具は劣化していく。時が流れるのは、当たり前に残酷だ。トキナの長い社会生活の中で、人としての属性を持たない私の人格は弱まり、あの子の人格は大きくなっていった。必要とされない私に与えられたのは、抗いようのない孤独だけだった……。世界が私を受け入れてくれるなら、私も授業を受けてみたかった。給食を食べてみたかった。学芸会や運動会で……めいっぱい、心とからだを動かしてみたかった。本当に、寂しかったんだ。それでも、そんな私でも……生きている意味を感じられる季節がひとつだけあった……――茎也。おまえに出逢えたあの夏は、本当に楽しかった。命なんてあってなかったような私に、おまえは命をくれたんだ」
 そう言って、朱鷺菜は弱々しく、けれど満足そうに微笑んだ。そこにはいつもの不遜さはなく、小学生くらいの女の子のような健気さが浮かんでいた。
「おまえは私を受け入れてくれた……この赤い瞳を、金紗の髪を、そして私自身を受け入れてくれた。おまえといると、嬉しくて、温かくて……ドキドキして胸が苦しかった。でも、私はつまらない思い込みからおまえを殺しかけた。おまえは気にしていないと言ったけれど、私には会わせる顔がなかった。それは八年経っても変わらなくて、だから、私が最初に目覚めたときも、かけるべき言葉が見つからなかった。なのにおまえときたら、久しぶりと言うどころか、私のことを覚えていなかった。悲しくて、どうすればいいのかわからなかったけれど……いつしか、それでいいと思えるようになった。おまえは忘れたままでいい、私ひとりが抱えていればいい思い出だと思ったんだ……」
「でも! 俺は思い出したぞ。きみのことを思い出したんだぞっ」
 揺さぶるが、特に反応はない。
 すると――朱鷺菜は小さく呟いた。
「……冷た、い」
 同時に、茎也の首筋に小さな冷気の粒が染み込む。
 夜空を見上げる。いつしか、暗雲の底から粉雪が降ってきていた。きっと降り積もることはないであろう、小さな結晶の数々。それらは、自らが消えゆく地面を嫌うかのように落ちてくる。その一粒が朱鷺菜の頬に舞い降りて、仲間だと思ったのかもしれない、そのときだけ雪は、還る場所を見つけたかのように彼女の白い肌に溶けていった。
 その顔はただ小口を開いて目をつむり、それはあたかも眠っているみたいだった。
「あ……っ」胸一面に焦りが広がる――なぜなら朱鷺菜にとって眠りは、次に迎える意識の切断は、彼女の終わりを意味しているに違いないから。「眠るな。眠っちゃ駄目だ。せっかく会えたのにあんまりだろう!」
 彼女は動かない。
「か……感情の一致が原因なんだろう? それなら、季菜が俺を待ってくれていたのなら、きみだって同じだったはずだろう? だったら俺を嫌いになってくれ。そうすれば感情の一致は止まるんじゃないのか、おい……なにでもいいから、俺を嫌いになってくれよ。言ったじゃないかよ、俺のことなんか嫌いだって。嫌いになれよ……」茎也は思いつくかぎり罵倒の言葉を放った。「ばかっ。あほっ。とんまっ。あばずれっ。サ――サカサホタル!」
 するとようやく目がうっすらと開いた。
「……おい、今のはさすがにカチンときたぞ……」
 そう言う朱鷺菜は笑っていた。
 笑おうと――していた。
「……おまえの気持ちはうれしいが、たぶんもう無駄だと思う。もう、この流れは止められないんだ。自分のからだのことだからよくわかる。それに、それ以前に――私がおまえのことを嫌いになるだなんて、無理に決まっているだろう……?」
 それでも茎也は嫌だと思った。抗いたい、駄々をこねたい、そう思った。
 朱鷺菜は、その思いが徒労に終わることを知っているのだろうか、
「まあ、でも……最後にひとつだけ、してもらいたいことがある」
 小さな願いを紡ぎ出した。
「私をぎゅっと、抱きしめていてほしい……寒くて、たまらないんだ」
「わ、わかったっ。すぐする。すぐするからっ……」
 茎也は慌てて、彼女を構成するすべてを取りこぼさないように起こす。脱力の極みにあるその肉体は想像以上に重たくて、悲しいくらいに軽かった。背中から押し上げていって、言われたとおりに抱きしめる。彼女の髪からは、枯葉に似た冬の匂いがした。マネキンを抱いているような反応の無さとは裏腹に、彼女の体温は熱いくらいに茎也の胸に染み渡っていく。そのときになって――やっと茎也は、彼女の言った『寒い』の意味を思い知った。もはや自らの体温もわからないくらい、感覚がなくなってしまっているのだ。にもかかわらずそう言ったのは、寒さを口実にしなければ抱いてくれと言えない、彼女らしい照れがあったのだろう。
「……茎也、抱いてくれたか?」
 そんなこともわからなくなっているのか、と叫びたくなった。けれど言葉を呑み込んで、代わりにさらに強く朱鷺菜の背中に腕を回した。それでほんの少しでも、彼女の望む感覚が伝わればいいと思った――けれど。
「ああ、抱いたよ。しっかり、抱いている」
「そうか……それなら、よかった。あたた、かい……」
 そんな嘘を吐く少女が、茎也にはとても愛おしく思えた。
 朱鷺菜は、ぽつりぽつりと呟いていった。まるで宝物を並べていくみたいに。
「茎也……ずっと、抱きしめていてくれ。そうしていてくれるのなら、私は大丈夫だから。笑って終われると思うから。おまえが言った、この赤い瞳の美しさも、金色の髪の輝きも、出会えた理由(わけ)も、命の意味も……信じられる。私は、信じていける。たとえ――結ばれなくても、おまえは私の運命の人だから……」
 その運命からどんな仕打ちを受けても、どんなに辛く悲しい目に遭っても、信じられると彼女は言った。閉じていくその表情で、なにも感じることのできないからだで、信じていけると彼女は言った。そのすべてを思って、茎也は朱鷺菜を抱きつづけた。今この瞬間にも、彼女の中から魂と呼ぶべきものが散り散りになって逃げていくのを、防ごうとした。
 けれども――それは無駄と言うほかなかった。
「ときちゃん……」
 どれだけ守ろうとしても、逃がさまいとしても、“彼女”はこぼれおちていく。
 そして朱鷺菜は言った。
 最後に。
 最期に。
 八年前に伝えられなかった想いを伝えられることを、幸せそうに微笑んで。

「茎也……―――本当に、好きだった」

 彼女は静かに目を閉じて、その端からこぼれた光の一筋が頬を流れていった。
 その直後だった。茎也にはわかった――朱鷺菜のからだから力が完全に消えていくのを。彼女がまとう色彩や気配といった、その他いっさいのものが過去になっていくのを。
 そして――彼女はここにいるという確かな感覚が、腕の中に欠片も感じなくなるのを。
 不退院朱鷺菜は死んだ。
 それでも茎也は、彼女の矮躯を抱きしめることをやめなかった。そうしていると、あの夏の日々のもっと細やかなところまで記憶がよみがえっていくのが感じられた。
 あの長い金紗の髪の輝きが。
 あの赤い瞳のすばやいまたたきが。
 一緒に走った、あの手足の細さが。
 そして――朱鷺菜の言葉が。
 頭上から舞い降りてくる粉雪のように、茎也の胸にしとやかに降り積もっていった。

「私は、朱鷺菜」
「私は、おまえが嫌いだ」
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
「思っていたよりも、静かだな」
「なんだ茎也。私の顔は見世物じゃないぞ」
「決まりだな。覚悟しておけよ」
「そこにいるのは、誰か」
「やっ……なっ、なにをする!?」
「お、おまえは、私のこの目を気持ち悪く感じないのか……?」
「ば、ばかを言うな。私はひとりでも寂しくないっ」
「わかった……しかたがないから遊んでやる」
「茎也、茎也、茎也……覚えた」
「ばか。そんなことしなくても私は……私が、ちゃんとおまえに会いにいく」
「私は、人に見えるか? それとも、それ以外に見えるか?」
「いつまでも着たきり雀だと思うなよ」
「おまえをころす」
「すぐにやむ……そう言っただろう?」
「その子名前――なに?」
「嘘吐き」
「く、茎也」
「茎也」
「――茎也っ」

 その言葉の一つひとつが、朱鷺菜だった。茎也は、このまま彼女の胸の中で深い眠りに落ちていきたい欲求に駆られた。世界が許すかぎりずっとこうしていたいと思った。
 しかし、世界はその無慈悲さに歯止めをかける気はないみたいだった。
 ざり――と。
 背後から足音が聞こえ、ゆっくりと振り返る。
 加瀬太一が立っていた。
      (三十九)

 ここまで走ってきたのだろうか、加瀬の息は上がっている。
 しかし、まとう空気は――鬼気そのもの。
「加瀬」
 茎也は薄々感づいていた。彼がどういう目的でここに辿り着いたのか、ぐらい。
「どういうことだよ、これ」加瀬が掲げた手に握られているのは、一本の毛髪だった。瞬時にその意味が理解できた。茎也だからこそ、見間違えるはずのないこと。「この髪の毛は田邊の制服から見つかった。……おまえの彼女の、不退院のものじゃないのかよっ」
 確かにそれは、田邊が季菜に殺される直前、彼女を抱きしめたときに金ボタンに引っかかったものだった。篠突く雨に打たれても流されることはなかったのだろう。
「ああ、そうだな……季菜の髪の毛だ」
「ふっ――ざけんじゃねえぞ! そこにいるの不退院だろ!? おまえまさか、匿ってたとかぬかすんじゃねえだろうなっ」
「違うぜ。俺もついさっき発見したところだ。今まで彼女は行方不明だった……行方をくらましていたと言ったほうがいいかもしれない」
「それはやっぱり、不退院がこの一連の事件の犯人だってことか?」
「そういうことになるな」
「おまえはそのことを知ってたのかよ」
「……知っていたよ」
 加瀬は怒りをほとばしらせた。
「てめえっ、知ってたんならどうして言わなかったんだ! 不退院が犯人だって知ってて、必死こいて犯人を捜そうとしてた俺を笑ってたのかよ! ふざけやがって、一番の裏切り者はてめえだ! 俺を……田邊を裏切りやがった、てめえは最低のクズ野郎だ!」
「すまないと思っている。でも、どうしても言えなかった。いや、それ以前に俺は考えることを拒絶していたんだ。彼女に……季菜に、背をむけていた。ただ恐怖に囚われて、なにも見ようとしていなかった。確かに、俺は最低のクズ野郎かもしれない」
 すると、加瀬は低く笑いはじめた。
「加瀬……?」
 彼が握っているのは、刃渡り十五センチほどの出刃包丁だった。田邊家の台所から持ち出してきたそれを、両手で突き出してくる。刃先は震えていた。
「だったらおまえには不退院を裁く力はねえよな……。あるのは俺だけだ。田邊の復讐をすることができるのは俺だけだ。どけよ、嶋原」
「それはできない相談だな」ぐったりとしたトキナを横たえさせ、立ちふさがる。「俺はもう彼女から逃げない。ちゃんとむき合いたいんだ」
「つべこべうるせえ! どけ!」
「俺がなんとかする。信じてくれないか」
「どけって――」表情が歪む。もはや制御のきかない感情に支配された神経系は、加瀬のからだを突っ込ませた。「――言ってるんだよおおおおおおおおおおおおおっ!」
 茎也はどかなかった。
 ドンとぶつかり合い、静寂が訪れる。先に声を発したのは加瀬だった。
「はあ、は……あっ」
 泣きそうな声であとずさる。手放した出刃包丁は自由落下することなく――茎也の腹部に留まっていた。彼はひざをついたがしかし、その口元には笑みがあった。
「加瀬……いいんだ……気にしなくて、いい」
 自ら包丁を抜く。激しい痛みが襲ったが、悲鳴を精神力で抑圧する。刀身を濡らしている血を学生服で拭いとり――そして、茎也は震える手で柄を握りしめた。
「し、しまばら?」
 加瀬は聞く。その行為は、指紋を上書きしているようにしか見えなかった。
「おまえも、田邊も……本当に辛かったよなあ。だから、これは罰なんだ。なにもしないでみんなを苦しめた、俺への罰だ」
「なんで……」
「大丈夫だから、いけよ」
「なんでだよおっ」
 なんでおまえなんだよお――涙と嗚咽を噛みしめながら、加瀬はそううめいた。
 本当は、事実を知ったときから打ち砕かれていたのだ。犯人を見つけ出すという執心も、嬲り殺したいという衝動も、偽物などではなかった。実際、相手が赤の他人だったらどうなっていたかわからない。しかし、嶋原茎也ということ、不退院季菜ということ、彼もまた大切な友人であるということ、その恋人であるということ、そしてそれを知っているということ――そのすべては、どうしようもなく胸を溢れさせた。
「たのむからいってくれ……加瀬」
 弾かれたように彼はあとずさり、走り去る。
 茎也は唇の血を拭い、呼吸を整えようとした。不思議と心身ともに冷静だった。ここで終わるわけにはいかないと強く思う。曲がりなりにも季菜のことは任せろと誓約したのだ。一方的に告げた言葉は、だからこそ果たさなくてはならないのだろう。
 それは――後ろの少女に対しても。
 抜け殻だった彼女のからだに、新しい意識が目覚めていくのを感じた。
「……茎也くん?」
 朱鷺菜の人格をとり込み、トキナという唯一無二の存在となった少女。
 季菜にむかって振り返る。
「私どうしてたのかな」
「悪い夢を、見ていたんだよ」
「そっかぁ……じゃあ、もう覚めたのかなぁ」
 答えなかった。座っている彼女に合わせて、正面から抱きしめる。それからゆっくりと右手をもたげた。そこには、さきほどの出刃包丁が逆手に握られており――鋭利な刃先は季菜の背中にむけられていた。
 これは、心に決めた終焉。
 ずっと考えていた――彼女を守るということ。
 それは、加速していく彼女の崩壊を止めてやるということだった。
 このままなら、彼女はきっと奈落の底まで堕ちていくだろう。そこに救いはなく、彼女の心も、生きる意味も、そこにいたという事実すらも、どこまでも穢されていくのだろう。
 なら、彼女が彼女であるうちに、彼女のままで終わらせてやらなければならない。
 茎也の導き出した結論は。
 彼女を守るということは。
 せめて――彼女を、この手で殺してやるということだ。
 と。
 後方に、チャキという冷え冷えとした鉄の響きがあった。季菜も自分と同様に黒い鋏を構えたのだろう――もはやまともな認識ができなくなって、殺されそうになっているから殺そうとしているのか、それとも心中を想定しているのか、わからないけれど。
 どちらが先に動くかによって結末は大きく変わる。
 いつだったか――正しいことは危ない、と坂崎亜郎の母親は言った。
 今の自分は、もしかしたら彼女と同じなのかもしれない。
 でも、だから。
 ――過ちつづけた俺たちは、最後に正しい選択をしなければならないのだろう。
 茎也は包丁をつかむ手に力を込めた。彼女の柔らかな肌を、振り下ろされた刃先が突き破っていく様をイメージする。手の震えが治まるまで、何度でもイメージする。自分はこれから、その想像を現実のものにするのだから――と。
 カランカラン……と金属の落下する音が響いた。
 はっとして茎也は手元を見た。しかしそこでは凶器が血を味わう瞬間を待っているだけで、ならばそれは、季菜が鋏を手放したということ。
 彼女は。
 いいよ、と言った。
「茎也くんは……私を殺してもいいよ……」
 硬直した。季菜は今なんと言った?
「わかってるよ。茎也くんが、自分が正しいと思うことを、その人にとって正しいことをちゃんとしてくれる人だって。ずっと見てきたんだもん……わかるよ。私は、どうなるのかもう自分でもわからないの。自分が、怖い。だから茎也くんは……私を助けてくれようとしているんだよね」
 どうして、と茎也は口の中で呟いた。
「茎也くんが守ってくれるのなら、私は殺されても、あなたに大事にされてる証拠だよね。だから……お願い。やるときは、ひと思いにね。痛いのはやっぱりいやだから」
 どうして。
 どうして。

 どうして――殺さないで、と言ってくれないんだ――……。

 茎也の手のひらから殺意が滑り落ちる。そして生まれてきたのは、むせぶ声だった。
「……と、季菜……とぎな……どぎなぁ……」
 小さなからだを荒々しく掻き抱く。
「茎也くん」と春の日射しのような声が返ってきたのは、そのときだった。その声音は、いつか聞いていた、温かい笑顔を咲かせていたころの彼女と同じ響きだった。
 茜色の帰り道、商店街のスーパーマーケット、図書室で交わした秘密の会話、昼食を一緒に食べた学校の中庭――小さな世界の中で紡いだ小さな記憶の連なりが、にじんだ視界を鮮やかに横切っていき、その一つひとつに茎也は涙をこぼした。
 自分は本当にばかだ。
 赤い眼の少女との思い出を忘れていたばかりか。
 可愛い恋人との日々すら、忘れようとしていたのだから。

 ――俺はやっぱり、季菜のことが好きなんだ……。

「大好きだよ、茎也くん……」
 季菜のほうも抱き返してくる。もはや茎也に包丁を拾い上げる気力は残っていなかった。ただひたすらに泣きつづけていたが、少し経つと嗄れきった声で呟いた。
「死のう」細い肩をがっちりとつかんだ。「季菜、一緒に死のう」
 彼女以外のものが世界から消えてしまったかのように、まっすぐに見すえて言った。
「一緒に生きて、一緒に死のう」
 今の彼女はある種の小康状態にあるのかもしれない。が、いまだに燻る災いの火元――再び久布白の血に染まってしまう可能性のことを考えると、このまま野放しにするわけにはいかなかった。この、未来を失った状態のまま。
 ならば。
 未来がないのなら、未来をつくる。
 光がないのなら、光を与える。
 きっとその光は――自分自身が望むものと同じだろうから。

「結婚しよう、季菜」

 茎也は、四月のこと、季菜に告白したときのことを思い出していた。倣うべき定石も守るべき順序も知らず、ただその想いを頼りに季菜にむき合った。きっと自分は今、あのときと同じ気持ちで、彼女にもう一度告白(プロポーズ)をしているのだ。
 すべてての始まりで、ひとつの終わりだったあのころのふたりを。
 すべてての終わりで、ひとつの始まりにするために。
「……茎也くん」季菜は口を開き、思いがけないことを呟く。「私を刺して」
 そして頬を桜色に染めながら、瞳を潤ませて言ったのだった。
「――もし、これが夢じゃないんだったら、すっごく痛いはずだから……」
 全身がかっと熱くなる。茎也は季菜を再び抱き寄せた。
「夢じゃない。夢じゃないんだ、季菜。俺はきみと一緒にいたい。ずっと、ずっとだ」
「ほんとう?」
「本当だ」
「ほんとうに、ほんとう?」
「こんなことで嘘はつけない」
「前科があるくせに?」
「それでもだっ」
「わざと大きな声出して」少し悪戯っぽく笑ってから、頭を預けてくる。自分という存在の素粒子をすり込むかのように身を寄せたあと、薄桃色の唇を開いた。「約束だよ」
「約束だ」
 ――こんな女、もう二度と出逢えはしない。
 茎也は季菜に唇を重ねた。唇と唇を重ね合わせるだけの、特別な着色などなにもない、真っ白な、けれどそれゆえに特別な意味を持った長いくちづけ。
 彼女の閉じたまぶたの裏から、涙が流れ星のように頬を落ちる。茎也は、その時間をできるだけ鮮明に覚えておこうと思った。いつでも思い描けるようにしておこうと思った――なぜなら、自分たいはこれで終わりではないのだから。ここからはじまっていかなくてはならない。そのためには、絶対に避けてはならない道があるのだ。
「季菜、聞いてくれ」。


 その後、ふたりは町の中心部にある活気のある通りを歩いていた。ここだけは、ゴーストタウンと化してしまっている暮東の例外だ。いきかう人々は、肩をかすめた少女が連続殺人事件の犯人だと思いもせずに笑い合っている。
 すると一際明るい光が視覚を覆い、茎也は顔を上げた。通りの真ん中にそびえていたのは、大きなクリスマスツリーだった。幻想的なイルミネーションが樅(もみ)の木をきらきらと彩り、夜空を舞う粉雪を浮かび上がらせている。
 そういえば、今日は十二月二十四日――クリスマス・イヴだ。
「きれいだ」
 思わず呟いていた。そのままほかの楽しげな恋人たちと同じように眺めていたかったが、そうしていられるほどの時間はなかった。呼吸は荒くなり、足がふらつく。アドレナリンの分泌が切れてきたのだろうか、加瀬に刺された傷が存在感を増し、意識を削りはじめていた。学生服が黒色でよかったと思う。血の色が目立たないからだ。ちなみに、ダウンジャケットは季菜に羽織らせていた。男物だから、かなりオーバーサイズだが。
 しばらく歩くと、前方に目的地を発見した。角ばった建物で、屋上からは交通安全を呼びかける垂れ幕が下りており、入り口には赤いランプが目印として灯っている。
 警察署。
 そう――それが、ふたりにとって絶対に避けては通れない道。
 危うくも正しい選択。
 贖罪という名の茨の道。
 もし、あのままどこかに駆け落ちするようなことになっても、きっと幸せにはなれなかっただろう。ようするにそれは、季菜の犯した罪から逃げ惑うということで、問題の解決はおろか解釈にもなりはしない――正しい未来は、歩んできた足跡とむき合うことで、はじめて手に入れることができるのだから……とはいえ、罪を償うことはできても、その罪自体はけっして消えないのなのかもしれない。季菜の罪過は常に彼女にまとわりつき、未来永劫、かたちを変えては苦しめつづけるのかもしれない。
 それでも、清算は必要なのだ。
 茎也と季菜はもちろんのこと、すべての人々が二本の足でしっかりと立ち上がり、前を見て歩いていくために――そうなろうと、思えるように。
「季菜、いこう」彼女の手を引く。

                  ◇

 クリスマスでも、厄介な事件のせいで今年にかぎってはそうも言ってられない、と同僚たちは口々にこぼしていたが、今のところは例年通りである。つまり、暇だ。
 窓口では、若い警察官があくびを噛み殺しながらラジオを垂れ流していた。マライア・キャリーの『恋人たちのクリスマス』が小さく時を刻んでいる。すると出入り口の扉が開いたので、彼はラジオのつまみを回して音を切った。
 雪を払いながらやってきたのは、高校生らしい男女だった。
 少女のほうと目が合った――合ったはずなのに、視線を交わしている気がしない。精神の異常をにおわせる、どこか奇妙な感じがして、こんどは少年に目をやった。
「なにか御用ですか」
 問いかけると、彼は言った。
「自首しにきました」
 警察官は面食らって、再び問う。「それは、なんで?」
「彼女が人を殺しました」
 えっ、と予想外の答えに驚く。
 少年は少女の肩からダウンジャケットをとり上げた――次の瞬間、腰を抜かしかけた。
 鈍い照明に照らされた少女の制服には、かなりの量の赤々とした染みが飛び散っていた。見ただけでわかる……それは、返り血と呼ばれるものだった。
「ちょ、ちょっと整理させてくれ」
 警察官は両手で待てのかたちをつくると、話を咀嚼していった。
「わかった。その子が殺人を犯したんだな? なら、きみはどういう……」
「俺は」
 少年は笑みさえ浮かべて――そうであることを誇るように、貴ぶように。
 言いきったのだった。

「――――俺は、彼女の恋人です」

 そして、直後に崩れ落ちた。
40, 39

池戸葉若 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る