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第二話「ヘンリー・ダーガーになれなかった中谷」

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「これ、ちょっと見てくれない?」
 中谷の机やロッカーに残されていた遺品を整理していた日高に呼び出された。手渡されたのは、びっしりと文字で埋められた一冊の黒いノートだった。職員室ではなく、臨時教員のために用意された居場所、人気のない図書準備室で日高は授業のない時間を過ごしている。正式にこの学校の教師となるために必死で努力している証拠があちこちに散見された。教師たちの人間関係相関図や、僕らのクラスの生徒たちの特徴をメモした紙が、わざと見せつけるように置かれていたが、僕は触れることはしないでおいた。里崎の欄には「深刻な家庭の事情」と記されていた。

「何ですかこれ」
「中谷君の私物。狩野君は確かお父様が作家さんだったよね」
「父ではなく叔父です」
 教室でいる時よりもリラックスしている日高は白いブラウスの胸元をいつもより広く開けている。
「遺書とも言えるかもしれないから、遺族の方に渡そうかと思ったんだけど、どうも気が引ける内容だから」
 強い筆圧で書かれた文字で綴られたその馬鹿長い小説は、どうやら大半が少女、というよりも幼女と呼べる年齢の女たちへの異常な執着を著したものらしかった。ぱらぱらとめくっただけなのに大量の卑猥な単語が読み取れた。全裸の幼女の絵が時折挟み込まれている。時には彼女らの体中にびっしりと、小説の続きが書き込まれていた。これだけのものを書ける根性があったから、カッターナイフ一本で首筋をかき切れたのだろう。

「要約すると、中谷君を投影したらしき主人公は、自分の想像した少女たちと戯れているだけでは飽き足らず、現実の少女たちに手を出してしまうかもしれないというところまで思い詰めていた。だけど愛する彼女たちを自分が傷つけてしまうことになるかもしれない、ということが許せなくて、死を選んだということみたい。小説の方では美少女百人に囲まれながら死んじゃってるけど」
「よく読めましたね」
 文字の書かれていない余白まで薄汚れているのは、文字が手でこすれたからだけではないようだった。唾なのか精液なのか、ところどころに一度濡れてから乾いた跡があった。
「教師だからね! それぐらい当然!」やっぱり嬉しそうだ。
「で、現実問題として、中谷家の近所で最近、五歳の少女が行方不明になっているの。それを契機にして彼の思想が変転したのか、それとも彼そのものが犯人なのかはわからないけれど」
 たとえ中谷が犯人だったとしても既に死んでしまっている。
「家族の人には渡さない方がいいですね。真相はともかく、きっと誰も幸せにはなりません」
 少なくとも僕は、目の前で中谷が死んだ時よりも気分が悪くなった。

 自分を殺せる奴は他人も殺せるのだろうか。それとも既に誰かを手にかけていたから、自分を殺すことに躊躇いがなかったのだろうか。中谷の死からまだ二日しか経っていないのに、僕はもう彼の顔を忘れかけている。
「このノートだけど、私が勝手に処分するのは気が引けるから、君の叔父さんに資料として進呈するというのはどうだろうと思って」
 厄介物を他人に押しつけ、なおかつ僕と叔父に恩を売ろうという魂胆が見え透いていた。
「わかりました、でも叔父がこれを何かのネタに使うかどうかは保証出来ませんよ」
 作家という職業が何か誤解されているなあ、と思いつつも、断ることも面倒だった。
「いいよ、君の叔父さんは私の生徒じゃないし」
 生徒たちのことしか頭にない振りをしながら、きっとこの人は自分以外に大事なものなんてないのだ。生きるために、職に就くことに執心出来るその姿勢を少し羨ましくも感じた。

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