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13.シュートチャンス

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 夏祭りにいきたい、とカガミが言い出したので、俺は俄然やる気を出した。
 洋服なんて糞喰らえだ。日本人は日本人らしい格好をするべきなのだ。
 世の中は、浴衣さえあればよろしい。
 だから、目の前に出された紺色の浴衣を見下ろして、俺は膝を揃えて呆然としていた。カガミがそれを手にとって広げてみせる。どことなく得意げに見えた、俺には。
「きっと似合いますよ、天馬に。どれだけ似合っていたか、あとで日記に書いておいてあげましょう」
 そうじゃない、そうじゃないんだ、と呟いたが、俺は有無を言うことさえ許されず、ひん剥かれて浴衣を身に着けた。
 芥川龍之介みたい、とカガミはいってくれたが、俺は人間を失格した覚えはない。酒を飲めて酔えるだけ幸せものだろう。
 俺は昔、一度だけ缶ビールを口にしたことがあるが烈しい頭痛に襲われてウンウン唸る羽目になった苦い思い出がある。
 俺は生涯、きっと酔えない。


 鈴虫が鳴く夜道を、袖を引かれて歩いた。太鼓の音が聞こえる。
 近所の公園で毎年、八月第一週の土日に催されるこの夏祭りに俺が最後に顔を出したのはもう十年以上前のことだ。それ以来、一度も来ていない。友達いなかったし。
 中央に組まれたやぐらの上に、鉢巻姿の男が立っている。その下で、見るに耐えないジジババが盆踊りを演じている。
 俺は袂に手を突っ込んで、それを斜めに見やった。
「どこにいきたい。どこでもいいぜ」
 カガミはきょろきょろと辺りを見回し、露天にふらふらと吸い寄せられていく。
 そのたびにたこ焼きやらお面やらアタッチメントが増えていく。
 俺はやつが買ったじゃがバターを強奪して食ってやった。熱かった。
 最初はがっかりした俺専用浴衣だったが、意外と着心地がいい。
 制服ほど堅苦しくなく、私服ほど周りの哀れみの視線を受けずに済む。夏はこれで通そうかと思った。
「私も浴衣を買えばよかったかもしれません」とカガミは首元に手をやって、うちわでパタパタ風を吹き込んだ。俺の背がちょっと伸びる。
「そうだろ。なんで制服なんだよ。なんてことをしてくれたんだ」
 浴衣姿の夢を粉砕してくれた一世代前の海兵隊は皆くたばればよろしい。
「だって、校則に学校外でも制服の着用が望ましいと」
「誰の望みだよ。俺の望みを優先してくれよ」ホントに楽しみだったんだぞクソ。ハネマンをタンヤオで蹴られた気分だ。
 麻雀のことを思い出したのがよくなかった。
 射的屋の前でラムネを飲んでいたら、白垣の長方形ヅラに出くわした。砂糖水が一気に辛くなる。
「金持ちは去れ。そして死ねッ!」
「ひどいなァ。この間は助けてやったろ?」白垣はニコニコしている。
「てめえのおかげで面倒事を背負う羽目になったぜ」
「そうだろうね、そのために雨宮と君をぶつけたんだから。――じゃ、結果報告を楽しみにしてるぜ」
 ひらひらと手を振って去っていく白垣に舌を出していると、景品を抱えたカガミと目があった。
「……何をしてるんですか?」
 こいつに不審そうにされるのが一番こたえる。
「……筋トレ」
 俺は胸を張って答えた。すべった。


 俺は人ごみが嫌いだ。
 好きなやつなんているんだろうか。まァ、常に人がいるってことは少なくともその瞬間は孤独ではないわけで、その空気を味わうのも個人の勝手だが。
 だから俺がこんな祭りに来てやったのは、ひとえに隣でわたあめに顔面を埋めるようにして食っているやつのためだ。それだけ。
 狭苦しく込み合った露店通りは橙色の照明で溢れかえっている。
 子供の嬌声、威勢のいい店員の呼びかけ。
 まァでもこんな騒ぎも、悪くないと思ってやってもいい。
「おいしい」とカガミが雲海から顔を上げた。
 暑いせいか、頬がやや桃色に染まっている。
 目の下に綿菓子の名残が貼り付いていたから、俺はそれを摘んで食った。途端、襲いかかる衝撃。俺は膝を追って、その場に倒れた。
「痛ァッ! なにすんだよ!」
 カガミはぶすっとしている。
「しゅ、シュートチャンスだと思って」
「何がどうチャンスなの? 俺の足をおまえはどこにゴールさせる気だったの?」
 マジでそのまま吹っ飛んでいってもおかしくない威力だった。人の身体のもろさについてきちんと話し合う必要がありそうだ。
 闇世界の組織に――といってもその正体が白垣の馬鹿親父の娯楽供給機構だと判明してしまった今は複雑な気分だが――属するカガミにとって、平穏な日常というやつは物珍しく、光り輝いて見えるらしい。
 つい先日まで、俺はその逆で、もっと烈しい闘いの世界こそ自分の居場所だと思っていた。
 まったくやつと正反対の願望を持っていた――はずだった。
 今は違う。空になったラムネのびんをつまんで、振る。エメラルド色の光が、びんの中を跳ね回っていた。
 俺は闘えない。それがわかった。少なくとも、戦士としては二流だ。
 もう闘えない――引退だ。そのことだけが、焼印のように俺の脳裏に刻み付けられてしまった。あの夜に。
 麻雀を、あれから打っていない。牌を握ると頭痛がするのだ。徹夜どころか半荘が持たない。
 もう二度と打てないかもしれない。それもよかろう。
 実を言うと、ある考えが俺にはあった。新しい、いや、ひょっとすると最初からそれがあるべき姿だったのかもしれない――考え方。
 あとはそれを選ぶだけだ。
 だが、クリア直前のゲームで、セーブしたままそれきり二度と起動させない時のように、俺は足を踏み出せずにいた。
 カガミに蹴られた勢いで進めればよかったが、あいにくその足は俺の心についているのだった。
「――どうかしたんですか。顔色が優れませんが。どこかで休みましょうか」
「ん。いや、なんでもない」
 カガミが見上げてくる。綺麗な目だと思った。その目に俺の陰鬱な顔が映っているのが見えて、俺はとっさに顔をそむけた。
「天馬?」
「ケータイ」
「え?」
「鳴ってるぜ」
 カガミのスカートの中で、携帯電話がぶるぶる振動していた。
 通話に出たカガミは、沈黙したまま相手の声に耳を傾けている。その顔はいつの間にか、見慣れた無機質なものに摩り替わっていた。
 俺はそれが、気に入らない。
 電話をしまったカガミは、その場に立ち尽くして、ローファーの爪先を見つめていた。
「仕事だろ」
「……ええ」
「いってこいよ」
「今回の仕事は……長くなるかもしれません」
「わかった」
 ごめんなさい、と一言残して、カガミは歩み去った。
 俺はラムネのびんをゴミ箱に投げ捨てて思った。
 謝られてしまったが、はて、カガミはどんな悪いことをしたろうか。
 俺にはよくわからない。
 もし謝られるとしても、俺はあいつに謝ってほしいんじゃねえ。
 怒鳴り声が聞こえてきて、俺はラムネのびんがびん捨ての中で砕け散っていることに気づいた。
 走って逃げた。今でも反省している。


 公園を駆け去り、えんえんと続く住宅街に出て、俺は膝に手を当てぜいぜい息をした。
 あのおっさん足速すぎんだろ。いや、俺がトロイのか。
 自販機の灯りが、夜空の月のように周囲を照らしている。
 そこに女がいた。小銭を入れ、ごとん、とウーロン茶のペットボトルが転がり落ちる。
 彼女はそれを俺に投げてきた。
 ヒバリだった。礼をいって、一息にお茶を飲み干す。
 ヒバリがむっと頬を膨らませた。
「それ、僕も飲むつもりだったんだけど」
「ん? 悪いな。先にいえ」
「反省は?」
「してねえ」
 当たり前だ。ちゃんといわないやつが悪い。俺は自身の人の悪さにちょっと気分をよくした。
 はぁ、とヒバリが重苦しいため息をつく。今度は俺がむっとする番だった。
「ため息つきてえのは俺の方だぜ。家ん中にいろって言ったろうが」
「あの押入れの中にずっといろって? 無理言わないで欲しいな。僕は暗いところも狭いところもダメなの」
「俺んちに、おまえを匿ってやれる場所はあそこしかねえ。妹に相談するわけにもいかねえし」
「ああ、やだやだ。文句ばっかり。雨宮のところに帰りたいなァ」
 帰って欲しいのは俺だって同感だぜ――俺はあの夜からうちに住み着いた居候を睨みつけた。
「ま、許してあげよう天馬クン。僕らの共同生活も、今日で終わりだからね」
 ヒバリがつつ、と近寄ってきた。浴衣を着ている。
 彼女は雨宮から生活資金を受け取っているので、俺は彼女に関して何も負担していない。
 その浴衣姿が、長い黒髪と相まって、一瞬カガミとダブって見えた。
「さ、例のもの、ちゃんと持ってきてくれたかい?」
「忘れた」
 ふてぶてしい態度をとりすぎたらしい、ヒバリのコメカミに血管が浮かび上がった、気がする。
「君は人の話をちゃんと聞いていたのかい」
「いいや、ぜんぜん? ちっとも? ――わかった睨むな、冗談だよ。でも取れなかったのは本当だ」
「どうして」
「まだ決心が……つかねえから、かな」
 ヒバリは俺の内心を探るような目つきになった。
「そんなに不安なら相談してみればいいのに。嫌とは言わないと思うよ」
「そりゃあな……そうだが。だが、フェアじゃねえ気がする」
「フェア?」
「俺のわがままを、やつの同意で誤魔化したくない」
「君は頭が固いな。それじゃ生きていけない。どうして君に、雨宮は負けたんだろう」
 わざとだからだ、と俺はあえて口にはしなかった。やつはこのヒバリを俺に提供する段取りとして、あの勝負を吹っかけてきた、それだけだ。
 あの局――雨宮がテンパイしていれば俺をハコテンにできた南三局。
 きっとやつはテンパイしていたろう。
 そう聞いたわけではないが、そうだと俺は思った。
 そこまで考えてから、ヒバリが言っている勝ち負けが、三ヶ月前の春のことを指しているのだと気づいた。
「どうするんだい、天馬クン。このまま何もしないの? 僕らに任せておく? それがいいかもね、君は頼りないから」
 好き放題に言ってくれるが、ヒバリがそう言うのも無理はない。
 やつからすれば俺はやるやる詐欺をしているに等しい。有言不実行もいいところだ。
「おまえじゃあ力不足だ」
 俺は夏の夜を見上げた。星は見えないが、やらねばならないことはわかった。
「明日の朝、追いかけよう……もう一晩だけ、考えてみる」
 ヒバリは頷いた。
「わかった。ま、時間はたっぷりあるからね。いくらでも挽回できる。お好きなように。――じゃ、帰ろうか」
「は?」
 ヒバリが袖をつまんでくる。
 悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げてこられると、背筋がぶるっと震えた。
 薄い唇がささやく。
「だって、僕たち、ひとつ屋根の下に住んでるんだろう?」
 そうだった。そうなのだった。あの夜から、こいつは俺の同居人だった。
 だが、俺はヒバリの小さな手を振り払った。



 知らないやつに触られるのは、嫌いだ。
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