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第三夜 忌まわしき血

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 金髪の白人男性が○○町の歓楽街を歩いている。
 平日だというのに多くの人が行き交う中、白いスーツを纏った白人は一人だけ他とは違う雰囲気を漂わせていた。ただ人種が違うというだけではない。他の人間とは圧倒的に違う何かが、彼の外面からにじみ出ていた。
 時折、すれ違う様々な女性たちが彼の顔を見てヒソヒソと耳打ちをしていた。
「あの外人さん見た? 超しぶいの」
「目つきがかっこいいね。ギラっとしてる」
「やっぱ欧米の人ってかっこいいなあ」
「うちの旦那と同い年かしら。顔は全然違うけどねえ」
「ダンディっていうのはあの人のためにあるのかしらね」
「ねえ、ちょっと声かけちゃいなよ」
 どうでもいいな、と白人は心底思う。彼は日本語を理解できた。それに違和感なく喋ることもできる。
 どうでもいいな、と思ったのは容姿を称賛する言葉を聞き飽きているからだ。何十年もずっと、出会った女性からこのような言葉を聞き続けている。
 日本は、日本人女性は変わったな、良くない方向に。すれ違う女性たちを見て白人は幻滅していた。つまらない女ばかり。
 来日しておよそ二週間経った。だが彼が求めるような女性は少なかった。
 もう帰ってしまおうか。彼はため息をしながらそんなことを考える。足が少しふらつき、バランスを取ろうと下半身に力を入れる。
「そうそう。それでさあ、明後日に○○町でイベントあるみたいでさ。何か色々と準備してるの。うん、ライブ? だから――」
 ぶつかるな、と右前方で電話をしながら歩いている茶髪の女性を見ながら彼は思う。
「すまない」
 肩が女性に直撃すると同時に彼は謝った。「きゃあっ」という叫び声とともに女性は地面に尻もちをついて倒れ込む。携帯電話が彼女の手を離れて地面を転がる。
「大丈夫ですか?」
 白人は体勢を整えるとすぐさま倒れた女性に手を差し伸ばした。
「いったぁい」
 女性は差し伸ばされた手を取ると不機嫌な顔をして立ちあがった。
「怪我はないですか?」
 そう言って、白人は女性の顔を覗き込んだ。泣きぼくろが特徴的な顔だ。
 白人は女性の瞳をじっと見つめる。
「はい……大丈夫です」
 女の表情から不機嫌さは消えている。
「今時間は大丈夫ですか? よろしければお詫びにお茶でもごちそうしたいのですが」
「喜んで」
 間髪を入れずに女性は返事をした。


「また明日から一週間、仕事が始まると思うと憂鬱だね」
「私も。だから、今日もめいっぱい楽しまないとね」
 一組の男女が手をつなぎながら○○町の歓楽街を歩いている。社会人の恋人同士なのだろう。貴重な休日をデートで楽しんでいる。
「ま、今日も当てもないままぶらぶらするだけなんだけどね」
「それがいいじゃない。私、良太とこうしてお喋りながら歩いてるだけで楽しいよ」
「そう言ってもらえるとありがたいよ。八重子とのデートは頭抱えて必死にプランを考える必要がないからね」
「でも、たまには良太に色々と連れまわしてほしいかな。お洒落なお店を回ったり、映画を見たり。遊園地もいいかな」
「また時間があるときにな。それまで待ってて」
「はーい」
 他愛ない会話を続けながら歩き続けていると、二人は前方の人だかりに気づく。
「何かイベントでもやってるのかな。行ってみる?」
 良太は真横で身体を寄せている八重子に問う。
「うん、何やってるか見てみようよ」
 人だかりに近づくと、小さな特設のステージが見えてきた。大型のアンプやマイクスタンドなどが置いてある。
「何か書いてあるな。えーと……若手のジャズミュージシャンたちのミニライブらしい」
「まだ始まってないのに人が多いね」
「ライブ見ていく?」
「どうしようかな。人が多いし、立ちっぱなしなんだよね?」
「そうなるね。疲れそうだ」
「ここまでずっと歩いてたから既にちょっと疲れてたり」
「じゃあやめようか。そもそも僕は普段ジャズとか聴かないからなあ」
「私も聴かないなあ」
 二人は人だかりから離れてまた歩き出す。
「どこかで休憩しようか」
「この近くにスターバックスあったよね?」
「あそこを左に曲がったところだね」
 二人はすぐ近くにあるスターバックスへと向かう。
 休日の昼間だけあって店内には多くのお客がひしめいている。二人は中に入ろうとすると、八重子がすれ違った男性と肩をぶつけた。
「あっ」という男の声。その直後にコーヒーの入ったカップが地面に落ちた。あっという間に黒い水たまりが出来上がる。
「ご、ごめんなさい!」
 八重子は慌ててカップを拾い上げるが、中身はからっぽになっていた。
「いや、こちらこそすみません。よそ見していたせいで」
 八重子は改めてぶつかった相手を見る。長身で金髪の白人男性だった。日本人と謙遜のないレベルの流暢な日本語で謝る。
「あの、弁償しますからっ」
「いや、いいですよ。よそ見していた私が悪いので」
「そんな、よそ見してたのは私の方ですから。弁償させてください」
「まいりましたね……」
 八重子が弁償することを譲らず、白人は頭を抱えた。
「すいません、こうなったらこいつ絶対譲らないんで。弁償させてください」
 八重子の横から良太が頭を下げる。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただこうと思います」
 白人は八重子の瞳を見つめると、にこりと笑顔を向けた。


「なんというか、すごい外人だったなあ」
「日本語すごいペラペラだったね」
 テーブルで向かい合いながら、良太と八重子は談笑する。
「最初は日本人じゃないかと思ったよ。それくらい日本語が上手だった」
「それにすごいカッコよかったね。渋いというかなんというか」
「自分の彼氏を前にして他の男をかっこいいだなんて」
 ふざけながら泣いているような仕草をする。
「あはは。良太もかっこいいよ」
 それを見て八重子は楽しそうに笑う。
「でも、確かにカッコよかったな。デヴィッド・ボウイに似てる」
「だあれそれ」
「イギリスのロックスターだよ」
「へえ。私洋楽は聴かないから分かんないや」
「ま、その人に似ててカッコよかったってことだよ」
 良太はコーヒーを一口飲んで喉を潤す。
「八重子、あまりへこんでないみたいだな。以外だ」
「え?」
「いつもさ、些細な失敗で目に見えた落ち込み方するからさ」
「ううん、へこんでるよ。そう見えないだけでしょ?」
「そうだったの?」
「そうだよ。私も年相応に成長したの!」
「どうだかなあ」
「もう! 成長したってことでいいじゃない」
「はははっ。分かったよ。悪い悪い」
 相変わらず可愛い奴だ、と良太は思う。社会人なのにまだ子供みたいだ、と。
 もう一度コーヒーを飲もうコップを口元に持っていくが、中身はすでに無くなっていた。
「もう一杯飲もうかな」
「まだここでお喋りする?」
「そうしよう」
 良太は新しいコーヒーを買いに行く。こうして八重子とぐだぐだしながら話しているときがたまらなく幸せだ、としみじみ思いながら。
 ユウはとあるマンションの一室の前に立っていた。表札には渡部と書かれている。平日の昼間だ。周りに人の気配はない。
 ドアノブに触れて、ゆっくりと音をたてないように回し、そっと扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
 キッチンにバス、トイレ。さらに奥に扉が一つ。リビングに続いているのだろう。
 ユウはナイフを一本取り出すと、足音をたてないように駆け、扉を開けた。リビングは物が散乱しているが人はいない。昼間にも関わらずカーテンが閉まっており、室内は薄暗かった。
「ブレット?」
 リビングと隣接する寝室から女性の声が発せられた。ユウはすぐさま寝室に突入すると、ナイフを構えた。中にはネグリジェを着た女性が一人。先ほどの声の主だ。
「あ、あなた誰!?」
 見知らぬ男性が突如室内に入ってきたため、女性は部屋の隅に逃げる。
「お前一人か?」
 パニックに陥っているのか、女性は答えない。
「ここにはお前一人しかいないのかと聞いている」
 ユウはナイフの先を女性に向け、もう一度問うた。
「そ、そうよ……私しかいないわ。ブ、ブレットは帰ってこないんだもの……」
 ユウはナイフの先を向けたまま質問を続けた。
「そのブレットというやつの特徴を教えろ」
「な、名前の通り外国人よ……欧米の方の人、金髪で長身」
「他にはないのか」
「えっと……歳は聞いてないけど四十歳以上だと思うわ。青い目をしてる。でも、どうしてあの人のことを聞くの……?」
 ユウは女性からの問いを無視し、もう一つ質問を投げかけた。
「お前は血を吸われたか?」
 女性の表情が変わる。ユウはその様子を見て確信した。この女は血を吸われた、と。
 ナイフの切っ先を女性から逸らす。そして彼女に近づくと頭を掴んだ。
「きゃあっ」
「おとなしくしていろ」
 ユウは女性の首筋を見る。小さなものだが、吸血痕がしっかりと残っていた。
「部屋中のカーテンを閉め切っているのはなぜだ」
「痛いの……体中の皮膚が焼かれるみたいに……」
 女性は自分の身体を抱くようにして丸くなる。
「じゃあこれはどうだ」
 ユウはそんな彼女の腕にナイフの刃の側面を少し当てた。ジュウッ、という音とともに皮膚が焼けただれる。女性の叫び声が部屋に響き渡る。
「痛いのは嫌だろう。もう一度質問に答えてももらう」
 女性は涙を流しながら何度もうなずく。
「フレットの居場所はどこだ」
「わ、わわ分からないの! ほんとっ、分からないの! 昨日の夜出て行ったきりで……」
 女性はユウに掴みかかり、必死になって言う。まるで殺さないでと言わんばかりに。
「そうか」
 ユウはナイフを女性の胸に突き刺した。
「そん……な……ぁ……」
 ごとり、と彼女は床に倒れ込み、苦悶に満ちた表情で絶命した。
 泣きボクロが特徴的な顔だったが、それもすぐに溶けて灰になった。


「また振り出しか」
 葉子は携帯の電源を切ると、大きくため息をついた。
 追っている吸血鬼の手がかりが無くなっただけでなく、被害が出ることも防げなかった。また一人の人間が血を吸われて吸血鬼化してしまった。
「たった一人の吸血鬼にここまで好き勝手されると、狩る仕事をしてるこっちもメンツがたたないね」
 今追っている白人の吸血鬼の被害は日に日に被害が増える一方だった。以前葉子とユウが始末した潤と涼子から始まり、何人もの人間が血を吸われた。吸血鬼化したものは少なかったが、それでも記憶の処理をしなければいけない。
「こいつさえ始末できれば長めの休みが取れそうなんだけどねえ」
 連日仕事続きだった葉子は椅子にもたれかかりながら天井を見上げた。
 だがそう簡単に行かないと葉子は感じていた。巧みに存在を消し、普通の人間のように溶け込むターゲット。葉子の“能力”でもそう簡単に捕捉できない強敵。
 奴は「真祖」だ。葉子はそう睨んでいた。

 しばらくしてユウが事務所に戻ってきた。
 懐から小瓶を取り出すと、葉子の机の上に置く。中には肉塊――吸血鬼の核が入っていた。先ほど殺した泣きボクロのある女性のものだ。
 ユウはソファに寝転がる。
「奴の気配はないか?」
「焦るな。まだないよ。そんなすぐに見つかるわけないだろう」
 葉子は小瓶の中の核に目を通す。
「出来たての核だね。吸血鬼化が始まったのは一昨日くらいか」
「吸血鬼化したから女を捨てたってとこか」
「そうだろうね。女が私みたいな“能力”を持った狩人に探知されて自分が巻き込まれたら面倒なはず」
「手慣れてる奴だな」
「おそらくターゲットは真祖だよ」
 ユウはソファから起き上がると葉子の方を向いた。
「吸血されて変化した吸血鬼とは別の純粋な吸血鬼、だったか。真祖というのは」
「そう。あんたはまだ遭遇したことなかったね」
 真祖――死から生まれた吸血鬼、あるいは吸血鬼の間で生まれた者のことだ。
 前者は死体がなんらかの変化を起こし、吸血鬼として生まれ変わった者を指す。蘇る過程で身体が完全に人間とは別物に変化する。力の強大さは吸血されて変化した吸血鬼とは比べ物にならない。また、死体が吸血鬼化する際の条件は未だに判明していない。
 後者は説明するまでもなく、吸血鬼同士の子供、百パーセント吸血鬼の血を引いた純血のことを指す。こちらも前者と同じく強大な力を誇る。
「今までの吸血鬼と比べてどうなんだ、その真祖は」
「強いね。身体能力だけじゃない。魔眼の力も強力だし、他にも馬鹿みたいな能力を持っている場合がある」
「何、ちょっと強いだけだろう。いつも通り殺せば問題ないか」
 ユウは再びソファに寝転がる。
「夜まで仮眠をとる。陽が暮れたら起こしてくれ」
「自宅で寝な」
「迅速に行動できるようにここで待機していた方がいいだろう?」
「口のうまいやつだよ」
 葉子はやれやれ、といったように笑った。


 土曜日の夕方。良太は自宅のベッドの上で寝転がりながら携帯電話を握りしめていた。
「それにしても遅いな」
 携帯で時刻を確認する。十七時二十分。今日は昼過ぎに起きてそれからまだ何も食べていなかった。腹の虫が先ほどから何度も鳴っている。
 メールの送信ボックスを開く。良太は自分が最後に送ったメールを見る。恋人である八重子宛てのメッセージ。『今日も夕ご飯よろしく! 何時にそっち行けばいいかな?』送信時刻は四時ちょうど。一時間以上経っているが返信はまだこない。
 良太は一週間の夕食の大半がコンビニ弁当や外食だ。平日は仕事が忙しく自炊をする暇がない。それを見かねた八重子が毎週休日だけは良太のために手料理を振舞っていた。
 今日も例外ではない。良太は八重子の家の夕食を楽しみにして、連絡のメールを送った。八重子と会うのは前回のデート以来約一週間ぶりだ。良太は夕食だけでなく、顔を見ることも楽しみだった。それだけ、彼女を愛している。
 それからベッドの上で返事を待ち続ける。
 着信音、すぐさま良太は携帯を開いてメールを確認する。着たのは八重子からの返信だった。時刻は十八時五分。良太がメールを送ってから二時間経っていた。
『ごめんね。今日か会社のお友達が来てるの。料理作ってあげられなくて本当にごめんね』
 はあ、とため息をつく。
「楽しみにしてたのにな……」
 これでは朝食――正確には昼食だが――を抜いて腹を空かせた意味がない、と落胆する。
『明日は会えるよね?』
 メールを作成。
 いつもは土曜日に八重子か良太の家で夕食。そしてお泊り。日曜日にデートだ。せめて明日は顔を見たいと願い、送信する。
 十数分後、八重子からの返信。
『うん。明日は大丈夫。いつも通り十二時にいつもの場所でいい?』
 よかった。良太は安堵する。そして自分が八重子に依存しきっていることに気付いた。
「しょうがないよな……好きなんだから」
『了解! 楽しみだよ』
 メールを作成。そして送信。
 良太はゆっくりとベッドから起き上がる
「さて、カップ麺は残ってたかな」
 頭をぼさぼさと掻きながら、ふらふらした足取りでキッチンに向かった。
14, 13

  

 翌日の日曜日。良太は予定の十二時より三十分早く待ち合わせ場所で待っていた。大きな噴水がある公園だ。日曜日ということもあり、若者――主にカップル――がたくさんいる。
 八重子は十二時ちょうどに駆け足で公園に来た。肩で息をしながら良太に「待たせてごめんね」と謝る。
「ちょっと座って休憩しようか」
 良太は八重子の手を引いて空いているベンチに座る。
「昨日はごめんね。ご飯作ってあげられなくて」
「いいよ、気にしなくて。昨日は自分でご飯作ったから」
「本当に? 良太が?」
「本当だよ。僕が作った」
「何作ったの?」
「えーと……野菜炒め」
 少し目を泳がせて、良太は言った。
「嘘ばっかり。どうせコンビニ弁当かカップ麺だったでしょう」
 八重子はそれをすぐに嘘だと見抜く。参ったなとばかりに良太は頭を掻いた。
「僕ってそんなに料理しないように見える?」
「うん。良太が料理してるところ見たことないもの」
「そうだったね」
 良太は笑う。彼は実際一度も料理をしたことがない。道具は揃っているが、極度の面倒くさがりなため、自分では一度も使わないまま生活してきた。
「じゃあ、今日は私がお昼ご飯を奢ってあげる。どこか食べに行こう」
 八重子はそう言って立ち上がると、良太に手を差し出した。
「じゃあ、八重子のオススメのお店とか連れて行ってほしいな」
 そう言って良太はその手を握って立ち上がる。
 しかし、今の言葉は本心ではなかった。本当は八重子の手料理が食べたいんだ。という言葉を飲み込む。
 せっかく八重子が奢ってくれると言っているのだ。良太はその気持ちを無碍にしたくなかった。
 それと、また断られたらどうしようという小さな恐怖。昨日までは夕飯作りを断られることがなかった。土曜日はずっと八重子の手料理だった。だから、昨日初めて断られたのが少しショックだったのだ。
 手をつなぎながら二人は歩いていく。
 また手料理はまた来週でいいか。良太は二人で過ごせる幸せを噛みしめながら思った。

 その後、二人は昼食を食べ終えると歓楽街を目的もなく歩きまわっていた。
 途中、映画館の前を通りかかり、今日はカップルデーで料金が割引されることを知り、時間もあるので映画を観ることにした。
 巷で超大作と言われているSFアクションをおよそ二時間にわたり堪能した二人は、再び待ち合わせ場所だった公園に戻り、映画の感想を言い合っていた。
「最後の突撃シーンは熱かったね。鳥肌ものだった。そのときの男性陣のセリフもすごいカッコよかったし」
「私は主人公とヒロインが最後に離れ離れになっちゃうところが印象に残ったなあ。途中まですごいラブラブだったからすごい悲しかった」
 良太は八重子の感想を聞いて、男女じゃ目を付けるシーンも変わってくるのかな、と思う。八重子は主人公とヒロインの恋愛面に対する感想が多かった。一方良太はアクションシーンや壮大なCGなどの感想ばかりを述べていた。
「とにかく、色々な方面で絶賛されてるだけあって面白かったね」
「そうだね。カップルデーだから安くなったし、なんだか得した気分」
 しばしの沈黙。映画の余韻に浸りながら、良太はふと空を見上げる。空には赤みがかかり始めていた。
 良太につらてて八重子も空を見上げる。
「もう夕方かあ……」
 ぼそりと八重子はつぶやく。良太はそんな彼女の横顔を見た。どこか、寂しそうな表情だった。
 そう言えば。そんな八重子を見て良太は自分が興奮していることに気づく。先週八重子の家にお泊りしたときからしてないから溜まっているな、と。
 時刻を確認する。まだ十八時にもなっていない。明日は仕事だが、ホテルに行く時間ぐらいはあるだろう。そう考えた良太は八重子を誘うことにする。
「あのさ、今から――」
 そう言いだすと同時に八重子がもたれてくる。
「なんだか、調子が悪いかも」
 良太の言葉を遮るように、八重子は言った。うかない表情で少し俯いている。
「そっか。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 八重子は良太の腕に抱きつく。
「好きだよ」
 小さな声で八重子は言う。
「私は良太のことが好き。好きだよ。愛してる。愛してるから」
 うわごとのように何度も八重子はつぶやく。
「うん、知ってるよ」
 優しい声で、良太は答えた。

 その後、二人は別れて自宅に戻った。どちらも社会人、明日からまた仕事が始まる。
 調子が悪いのなら家で休んだ方がいい。八重子のことを思い、良太はそう言った。本当はもっと一緒にいたいという思いを心の奥に押し込んで。
 時刻は七時。真っ暗な部屋で良太は寝転がっている。
「なんだかなあ」
 天井に向かってつぶやく。
 食欲はない。だが性欲はある。良太は自分がこんなに性欲旺盛だったのか、と驚く。
 ふと思い立ってパソコンを起動させる。
「今日は一人寂しくエロサイトでも巡るか」
 インターネットブラウザを開く。
「エロサイト見て一人でするのって以来だろう」
 空しさを感じながら、良太はキーボードに文字を打ち込んだ。


 同日。ユウはターゲットである真祖の吸血鬼を探して、以前女を殺したマンションの周辺を中心に、怪しいものはないかと探していた。
 本来ならば、吸血鬼は昼間に活動はできない。しかし、真祖の大半は日光に対し、ある程度の耐性がある。昼間から外を出歩いている可能性があった。
 普段は夜ばかりの活動だったが、今回の件に関しては連日昼間から探すことにしていた。
 相手の手がかりは殺した泣きボクロの女から聞いた長身で金髪、四十代以上の欧米人だということだけ。だがそれで十分だ、とユウは思った。この条件を満たす人物なら十分目立つ。なおさら日本という相手にとっての異国ならば、だ。
 そろそろ人通りの多い場所を探すか。ユウは今歩いている人通りのない道から出ようとする。だがその時、遥か先に白いスーツを着た金髪の男性が歩いているのを見つける。
 思わず歩調を早める。金髪の男性は途中で別の道に曲がった。ユウは極力足音がしないように駆ける。そして隠れながら相手を見た。
 長身で金髪。ここまではあっている。ここからでは後ろ姿しか見えないため、人種と年齢は分からない。
 確証がもてない、尾行だ。ユウはそう判断する。
 静かに距離を取って相手を追う。金髪の男がまた別の道を曲がる。ユウも静かにそれについていく。
「もしかして尾行ですか」
 金髪の男は急に立ち止まると、振り返りもせずに言った。
 予定が狂ったなと思いながらも、ユウは平然したまま言葉を返す。
「実はあんたに用があってね」
「あなたとは面識がないはずですが。用とはなんですか」
 金髪の男は振り返る。白人だ。女の証言の通り四十代以上と思われる初老の男。
 ユウはポケットから小さな銀製の十字架を取り出す。そして前に突き出すようにして見せつけた。金髪の男は不快そうに顔を歪める。
「ちょっとこれを受け取ってくれないか」
 そう言って十字架を金髪の男に向かって放り投げた。放物線を描き、十字架が彼の真正面に飛来する。しかし受け取ろうとする動作を一切しない。
 身体にぶつかる直前。その場から金髪の男の姿が消えた。正確には高速で避けたのだ。そしてその速度を維持したままユウに向かって接近、頭を掴もうと手を突きだす。だが寸でのところでユウは回避。背中の杭を袋に入ったまま持つと、金髪の男に叩きつけようとする。が、彼もすぐさましゃがんでそれを回避。ユウが追撃の蹴りを入れようとしたところで大きく跳躍し、二人の距離はまた離れた。
 ――ビンゴだ。ユウは確信する。間違いなくこの男は追ってる真祖の吸血鬼だと。
「さて、どうするか」
 ここで真祖を殺すのが本来の仕事だ。しかし今回に限って、葉子からは別の命令が出されていた。
「真祖をみつけたら、すぐその場で連絡しろ。殺してはいけない。戦闘になったら生け捕りだ」
 ポケットに手を入れて携帯電話に触れる。ユウはこの命令を守るべきか、僅かな間考える。が、自分の仕事はあくまで吸血鬼を“殺す”ことだ、と思い携帯電話から手を離した。
「君、狩人なのか」
 真祖はさきほどまでの敬語をやめた。そして凶悪な笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「今日は今日は一日中一人きりで暇を持て余していたところだ。喜んでお相手しようじゃないか」
 舌舐めずり。
「少し遅い昼食といこうか」
 再び真祖が急接近。しかし今度はユウが素早くナイフを投げて反撃。当然のごとく真祖は横に身体をずらして回避。だが、避けたずの真祖の目の前にはナイフが迫っていた。ユウは回避されることを読んで時間差でもう一本ナイフを投擲していたのだ。
 ナイフが直撃するかと思われたが、真祖は恐るべき反応速度でポケットから財布を取り出し、それでナイフを受け止めた。
 その隙にユウは杭を袋から取り出し、自ら真祖に接近。杭を突き刺そうとする。だが、ユウの眼前から真祖は消えており、杭は空を刺した。
「そうとうな腕前だ。私が出会った狩人の中でトップクラスかもしれない」
 ユウの真上から真祖の声。見上げると、数メートル上空に真祖がいた。先ほどの攻撃を高く跳躍して避けたのだ。
 空中なら避けられまいと、ユウはすかさずナイフを一本取り出して投擲。胴体目がけて一直線にナイフが飛ぶ。
 刺さる直前、真祖はにやりと笑う。サイフが刺さる。真祖もあっけないものだな、とユウは思う。――が、すぐさま前言撤回。ナイフの刺さった真祖が空中で霧消した。
 予想外の出来事に流石のユウも驚愕した。からん、とナイフが地面に落ちる音が鳴る。
 まずいな。ユウの中で狩人としての勘が、生物としての防衛本能がこの場から離れろと警告する。ユウはそれらを信じ、全力でその場から走り出し、距離を取ってから振り向いた。
「お見事だよ」
 何かを掴もうと腕を突き出す真祖が十数メートル先にいた。
「もう少し遅かったら死んでいたよ」
「……幻覚か」
 ユウは気づいた。自分が途中から見ていたのは真祖が作り出した幻だったのだと。吸血鬼の特殊能力。魔眼の力。
 しかしユウは魔眼の強力さを知っているから極力対峙した吸血鬼とは目を合わせない。
 先ほど杭を刺そうとした際に一刹那程度目が合ったかもしれないが、その程度の時間で魔眼の力が発動するとはユウには思えなかった。だが、相手は真祖。通常の吸血鬼よりも遥かに強い力を持つ怪物だ。
「君の言いたいことは分かるよ」
 余裕のある表情で真祖は言う。
「まさか、魔眼を使うほど長い時間目は合わなかったはずだ、と」
「だが、実際俺に幻覚症状が現れた」
「そういうことだよ。一瞬で十分なんだよ、効果時間は短くなるがね」
「バケモノめ」
「敵を褒めてどうする」
 真祖の高笑い。ユウは冷静に考える。このままではこちらが殺されてもおかしくない。
 ポケットから携帯電話を取り出すと、葉子に電話をかける。
「おや、敵を前にして電話とはずいぶんと余裕を見せるね」
 ユウは真祖の言葉を無視。数コール後、葉子が出る。
『どうした』
「君にそんな余裕はないと思うのだが」
 真祖が接近。ユウはその場から跳躍。その際にナイフを一本投擲。もちろん命中しない。
「真祖と遭遇した」ユウは早口で現在地を伝える。
 塀の上に着地。真祖がユウに接近。再びナイフを投擲。手元にあるナイフが残り二本になる。
『まさか交戦中か?』
 ユウは答える余裕がない。
『携帯で奴の顔の写真を撮りな』
 無茶を言いやがって。とユウは内心つぶやく。声に出す余裕はない。
『最悪逃げられてもかまわない』
 むしろこちらが逃げたいくらいだ。ユウは通話を切るとカメラ機能を起動させた。
「お喋りは終わったかね?」
 真祖がユウに肉薄する。掴もうとする手を振り払いユウは再び跳躍。少し離れた電柱に向かって飛ぶと取っ手を掴む。そしてぶら下がると遠心力に任せて身体を前に。そして手を離すと同時に身体を捻り電柱の方を向くと携帯を真祖に向けて写真を取る。落下が始まる前にギリギリ撮ることに成功。電柱を思い切り蹴り後ろ向きに飛ぶ。そして空中で一回転しながら着地。再び距離をとる。
 携帯の画面を確認。離れた場所から撮ったうえに宙に浮いた状態だったため、顔がはっきりと分からなかった。
 もう一度撮った方がいいか。ユウはもう一度携帯を構える。
「写真はあまり好ましくないね」
 真祖は少し不快そうな顔をする。
「狩人たちの間でその写真が出回ったら思うように行動ができなくなるじゃないか」
「気にすることないだろう。もうすぐ死ぬんだ」
「その携帯電話をよこせ」
「お前の首となら交換してやる」
 ユウはナイフを一本取り出し、右手で構える。左手には携帯電話。
 真祖は先ほど以上の速度で接近。ユウはナイフを投げようか悩むが、残りの数が少ないのでカウンターを狙うことにする。
 一瞬で肉薄。ユウはナイフを突きだそうとする。だが、一瞬で真祖は姿を消す。しかしユウは一切目を合わせていないので今度は幻覚ではない。
 真祖は人間離れした強靭な足でユウから見て右に飛んだのだ。そして塀を蹴って横から攻撃。左拳がユウの顔面目がけて飛んでくる。塀が砕ける音がする。
 ユウは頭を下げて回避。だが真祖はその拳をユウの頭上を通り過ぎた後、ユウの左腕を掴んだ。振りほどこうとするががっちりと掴まれて動かすことができない。空いている右手でナイフを刺そうとするが手の甲を弾かれナイフを落とした。
 真祖は腕を掴んだままユウを地面に叩きつける。
「さあ渡して貰おうか」
「ほらやるよ」
 すぐさま懐から最後のナイフを取り出し、逆手で突き刺そうとする。だが、右腕を簡単に掴まれ、その攻撃を封じられる。そして真祖はユウの右腕を地面に叩きつけ、足で踏みつける。
「ほら、もうおしまいだ」
 真祖はユウの携帯に手を伸ばす。
「おしまいなのはお前だよ」
 ユウがそう言うと同時に、携帯を奪おうとする真祖の右腕が弾かれる。そして血しぶき。次に胴体の三か所から流血。激しい痛みにうめきながら、右手を見る。血に染まった銃創が手のひらに。
 真祖が攻撃された方向を見ると、消音機付きの拳銃を持った女性がそこにいた。
「安心しな。弾丸はただの9mm弾だ。銀製じゃない」
 現れたのは葉子だった。拳銃を構えたまま二人に近づく。
「起きな、ユウ」
「分かってるよ」
 銃弾を受けて弱った真祖の腕を振り払うと、起き上がりざまに蹴りを一発。そしてナイフを突き刺そうとする。だが葉子が発砲し、ナイフを撃ち抜く。
「殺すな。そういう命令だろう」
「相変わらずでたらめな射撃精度だな」
 ユウは再び真祖に蹴りを放つ。しかし真祖はなんとか回避。
「ユウ、もういい」
 葉子はユウを制止すると、真祖に歩み寄る。
「真昼間に二人を相手にするのは少々きついものがあるな」
「夜なら勝てるみたいな口ぶりだな」
「吸血鬼だからな。さて、今回はここまでにして帰ってもいいかな?」
「駄目だ」
「拒否されても帰らせてもらうがね」
 真祖がそう言うと同時に葉子は発砲。至近距離からの銃撃にも関わらず、銃弾は真祖ではなく地面を撃ち抜いた。真祖の身体は消えていた。代わりに大量の蝙蝠がうごめいていた。一斉に空へ舞っていく。
 血に濡れた衣服だけがそこに残った。
 真祖と戦闘した翌日、ユウは葉子に呼び出されマンション内の事務所の扉を開けた。
 奥に行くと、葉子の他にもう一人の男がソファに座っていた。三十代後半ほどの無精髭を生やした中年男性。細身の長身で、ハンチング帽を被っている。
「またこいつに仕事を頼むというわけか」
 ユウは帽子の男を一瞥すると、携帯電話を取り出す。そして中からSDカードを取り出すと、葉子に向かって投げた。
「小さいものを投げるな。失くしたら面倒だ」
 きっちりと受け取り、葉子はカードの中のデータをパソコンの中に移す。そして一枚の画像をプリントアウト。
「犬養、探してほしいのはこの男だよ」
 葉子はプリントアウトした物を帽子の男――犬養に手渡す。それを見て彼はにやにやと汚い笑みを浮かべる。
「姉御よぉ。こんな目立つ人間、俺じゃなくてもすぐに見つけられるぜぇ」
 プリントアウトされたのは、ユウが撮った真祖の写真だ。
「早急にこの男の身柄を捕えたいんだ。仕事は早い方がいい。お前の腕を見込んでの依頼だよ」
 葉子は犬養の腕だけは信頼していた。以前から吸血鬼を探す際に、葉子の“能力”を使っても手詰まりになったときは犬養に依頼して探させていた。彼は個人で探偵をして生計をたてているのだ。
 しかし、彼も探す相手が吸血鬼だとは知らされていない。あくまで一般の人間だった。
「相変わらず口がうまいねぇ。確かに、ここらで俺以上に人探しに長けた奴なんざいないわなぁ」
 下品に笑いながら犬養は言う。しかし、彼が言っていることは事実だった。
「頼んだよ。ノーとは言わせない」
「おうおう恐い恐い。もちろん報酬ははずんでもらうがね。何、いつものことさぁ」
 犬養はメモ帳を取り出すと、ペンを走らせて要求金額を書く。そして葉子にそれを突きだした。
「これだ。びた一文まけたりはしねぇよ」
 葉子は少し不快そうに眉を寄せる。彼女がどうしても真祖を捕まえたいと思っていることを見抜き、犬養は普段の依頼より高めの金額を要求していた。
「あんたも随分と偉くなったもんじゃないか」
「依頼するのか? しないのか? 俺はどっちでもいいんだけどねぇ」
「分かったよ。この額で依頼してやる。ただし、早急に結果を出しなよ」
「流石だぜぇ姉御。仕事の相手は物分かりがいい人間に限る」
 犬養はブレットの写真を持って立ち上がると、部屋から出ていく。
「じゃあ早速仕事に取り掛からせてもらうわ」
 玄関が閉じる音。そして部屋のなかに静寂。
 ユウは客人が消えたため、どうどうとソファに寝転がる。葉子はそんな彼にSDカードを投げ返す。
「失くすと面倒なんじゃないのか」
「データを移し終えたから問題ないよ」
 ユウはSDカードを再び携帯の中に挿入。
「で、俺を呼びだした理由はこれだけじゃないんだろう?」
 ユウは目を閉じながら問う。画像データを渡すだけならメールに添付するだけでいいのだ。
「お説教だよ」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことか、じゃない」
 葉子はユウの正面のソファに足を組んで座った。
「昨日、真祖と戦闘になったとき、すぐに連絡を入れなかっただろう」
 ユウは無言。目を瞑っているため寝ているようにも見える。だが葉子は話を続ける。
「私の“能力”が真祖の反応を感知してから連絡が入るまで少し時間があった。アンタ、自分で奴を殺そうとして戦ったんだろう。そして、今の状態では勝ち目がないと分かったから私に連絡を入れた」
「……そうだ。その通りだよ」
「なぜ命令を無視して戦った」
「吸血鬼を殺すのが俺の仕事だからだ」
「またそれか。いつも同じ言葉ばかり」
 葉子は呆れたように言う。
「アンタ、自分が殺せる範囲の吸血鬼は全て自分で殺そうとしているだろう。命令を無視してでも」
「仕事だからな」
「感情がなくなっただけじゃなく、まだどこかおかしくなったところがあるみたいだね」
「どういうことだ」
「まだ、過去に縛られてる部分があるんだよ」
 ユウは目を開くと、葉子の方を見た。
「ただ仕事熱心なだけだよ」


 水曜日。良太は清々しい気持ちで会社を後にした。
「こんなに早く帰るのは何日ぶりだろう。いや、何週間ぶりだろうか」
 時計を確認すると十九時ちょうどだった。
 こんなに早く上がっても時間を持て余してしまうな。そう思った良太は携帯を開くと、八重子に向けてメールを作成。
『今日仕事早く終わったんだ。よかったらこれから会わない? 近くのファミレスで待ってる』
 八重子は良太に比べてこのくらいの時間帯に仕事を終える場合がほとんどだ。だから、もしかしたら少しの間会って食事ができるのではないか、と良太は考えた。
 幸い、八重子の職場まで距離はさほどはなれていない。良太は返事もまたず意気揚々と歩いていく。
 八重子の職場の近くにあるファミレスに入り、返事を待つ。まだ仕事が終わってないんだな、と信じ込んで。
 だが、中々返事がこない。時間を確認すると二十時をとっくに過ぎていた。流石に空腹に耐えられなくなり、良太は食事を注文する。
 注文したハンバーグステーキを待っている間も返事はこない。食べ終わり、食後のコーヒーを二杯飲み終わったところで、携帯が振動。メールを着信する。
『返事遅くなってごめんね。メールがくる前に仕事終わって家に帰ってたんだ』
 はぁ、とため息。だが、すぐさま返信メールを作成。
『そっか。こっちこそ急にごめん。また時間があるときに会おう』
 送信。そして携帯を閉じる。
「今日は帰ってすぐに寝ようかな」
 意気消沈しながら、伝票を持って良太はレジに向かった。

 翌日も良太は仕事が早く終わり、時間を持て余していた。
 元時刻は十八時三十分。昨日よりも早い。
「今日はいけるかな」
 どうしても八重子に会いたい。良太はそう思っていた。
 日曜のデートのときから何か違和感を感じていた。八重子が心配だった。彼女の顔を見たい。彼女の話を聞いてあげたい。そんな気持ちが頭を満たしている。
 昨日と同じようなメールを作成。ただ、文末にどうしても会いたいと付け加えてある。わがままかもしれない、だけど会いたい。そういう気持ちを込めて。
 再びファミレスへ。ドリンクバーを頼み、ひたすら返信を待つ。
 だが、中々返信がこない。最近メールの返信がやけに遅いことも、良太の不安を増幅させていた。
 メールを送信しておよそ一時間が経過した。相変わらず返事はこない。
 店内の客も増え騒がしくなってくる。良太の隣のテーブルにも数人の女性客がお喋りを座り始めた。
 ちらっと横を見ると、何人かは見覚えのある顔ぶれだった。八重子の会社の同僚だ。良太は何回か会ったことがある。
「あの、すいません」
 思わず声をかけずにはいられなかった。
「八重子の同僚の方々ですよね?」
 突如話しかけられて、女性たちの会話が止まる。気まずい空気になりかけたところで、一人の女性が「あ!」と声をあげた。
「八重子の彼氏さん?」
「あー、どこかで見たことある顔だと思ったら」
「奇遇ですねえ」
 良太の顔を思い出したのか、次々と声があがる。
「あの、八重子はいないんですか?」
「え?」
「みなさん八重子の職場の方々ですよね。八重子はどうしたのかなと思って」
 まさかいじめられていて女性陣からハブられているのでは……と嫌な予感が頭をよぎる。
「八重子は今日仕事休みましたよ」
「今日だけじゃなくて最近ずっとだよね」
 その言葉に良太は動揺を隠せない。どういうことだろう、と頭の中で色々な考えがぐるぐる回る。
「あの、大丈夫ですか」
 良太の様子がおかしいとおもったのだろう。同僚の一人は心配そうな声をあげる。良太はそれで我に返る。
「え、ああ。すみません。それで、八重子はいつから休んでるんですか?」
「先週の半ばくらいから有給とってこなくなっちゃいましたよ」
「じゃあ、もう一つ」
 これも聞いておかなければならない。良太は覚悟を決めて口を開いた。
「先週の土曜日は八重子の家にあなた方の内の誰かが遊びに行っていると思うんですけど」
 女性陣が少しざわつく。
 あなた行った? ううん。あなたは? 言ってない。あなたは? そのような会話が何度も繰り返されている。
「あの、誰も言ってないみたいですよ」
 最悪の答えだった。
「そもそも、八重子は急用で実家に戻らなきゃいけなくなったって休むときに言ってたから……」
 じゃあ、日曜に僕とデートしたのはおかしい。疑惑ばかりが脳みそを支配する。
「ありがとうございました」
 それだけ言うと、良太は伝票を持ってすぐさま会計を済ませて店を出た。
 全力で駅まで駆けていく。その間、八重子に電話をかけ続けたが出ることはなかった。
 電車に飛び乗ると、数駅先の八重子の住むアパートへ。電車を降りてからもう一度電話。やはりでない。
 全力で走り続ける。疲れなどもはや一切感じなかった。
 そして到着。眼前には三階建てのマンション。八重子の部屋は二階の一番隅だ。
 はやる気持ちを抑えて部屋の前まで進む。インターホンのボタンを押そうとして、指を止めた。
 八重子の声が外まで聞こえてきたのだ。何を言っているのかはよく分からない。はっきりとした言葉なのかどうかすら分からない。
 良太は耳をすませる。それは喘ぎ声にも感じられた。
 ドアノブに手をかけ、回す。鍵はかかっていない。良太は思わず音を立てないように開けた。
 扉が開いたことにより、中から聞こえる声が大きくなる。間違いなくそれは喘ぎ声だった。
 自慰をしているのか? だとしてもこんな大きな声は出さない。僕と抱き合っているときでさえこんに大きな喘ぎ声は出さない。ということは……。良太の考えは悪い方へ向かっていく。
 忍び足。リビングへの扉を静かに開ける。寝室から八重子の激しい声。そしてそれとは別に低い男の声も聞こえた。疑惑は現実に変わった。
 吐きそうになりながら、寝室の扉を静かに、少しだけ開ける。そして中をのぞき見た。
 ベッドの上には二人の男女。八重子と金髪の男性。激しく絡み合い、互いの身体を貪りあっている。
 言いようのない不快感が良太の全身を駆け巡る。どうして見てしまったのか、と。だが見ずにはいられなかったのだ。自分の目で確認せずにはいられなかった。
 目を伏せる。しかし八重子の喘ぎ声は嫌でも耳の中に入ってきた。
「ねえお願いっ……早くぅ……っ」
 八重子が男に何かを懇願している。
「早く吸って……吸ってぇっ」
「いいだろう」
 男は答えた。
「ちょうど、扉のすぐそばに見物客もいるようだし、見せつけてあげようじゃないか」
 そう言って、男は良太の方に顔を向けて、にやりと笑う。
 良太は驚愕する。男に気づかれていたこと、そして彼に見覚えがあったことに。
 八重子とカフェでぶつかってコーヒーを落とした白人男性だ。
「え、嘘……っ」
 驚愕したのは良太だけではなかった。八重子も良太が見ていることに気付いたのだ。
「やめてっ……もうやめて! 離れてぇ!」
 先ほどまで身体を密着させ、絡み合っていた男を必死に引き離そうとする。しかし、男の強靭な力でそれはかなわなかった。
「お望み通り、吸ってあげようじゃないか」
 男は八重子の首筋を舐めると、ゆっくり歯を沈め、吸血をはじめた。
 ビクン、と身体をのけぞらせ、八重子は再び喘ぐ。これまでにないほど顔を紅潮させ、表情が羞恥と悦楽に満ちていく。
 人間とはここまで快楽に乱れるものなのか。これは現実なのか。良太は自分のほおをつねる。痛みだけが残る。ほおをはたく。痛みだけが残る。ほおを殴る。痛みだけが残る。
 積み重なる痛みが、目の前の光景が現実であることを証明し、良太を絶望の淵に追いやった。
16, 15

  

 事を終え、八重子は身体を解放された。気だるさを堪えて大急ぎで衣服を纏うと、どうしてこうなったのかと思考を巡らせる。
 寝室の扉でうつむいている良太。そんな彼と涙で顔をぐしゃぐしゃにする八重子を交互に見てはにやにやといやらしい笑みを浮かべる金髪の男。
 ああ……。金髪の男の表情を見て、八重子は思う。この男と出会った時点で、こうなることは決まっていたのではないか、と。

 先々週の日曜日。良太とのデートを終えてからも、たびたび八重子の頭の中で金髪の男の顔が浮かんでいた。一度飲み物を弁償しただけ。ただそれだけなのにどうして彼のことが頭から離れないのか。八重子は不思議でならなかった。
 それを気にかけたまま生活をしていた八重子の元を一人の男性が訪ねてきた。金髪の男性だった。
 平日の夜、不意の来訪だった。なぜあの時不用意に玄関の扉を開けてしまったのか。今でも八重子は分からない。
「お久しぶりです」
 金髪の男は柔和な笑みを浮かべて言った。何か不気味だ、と八重子は警戒する。
「何の御用ですか?」
「失礼ながら一晩泊めさせていただきたいと思いまして」
 何を言っているのか。八重子は彼の神経を疑った。ほとんど他人に近い女性の家を突然訪ねて泊めさせてほしいとは常識ある人間が言うことではない。そもそもなぜ八重子の家を知っているのか。
「ごめんなさい、そういうのはちょっと……」
 相手の頼みを断って扉を閉じようとする。だが、当然のように男は扉の端を掴んで制止した。八重子の力ではこれ以上扉を閉めることはできない。
 どうすればいい。八重子は数瞬思考し、大声で助けを求めることにする。大きく口を開く。が、金髪の男の手のひらに覆われてしまい声が出せなくなる。
「ほら、私の目を見るといい」
 金髪の男は八重子に顔をぐっと近付けると、その瞳を凝視した。
 何かが瞳を通して脳内に入り込む感覚。次第に八重子は頭がぼうっとしてきてはっきりと思考できなくなる。
「部屋に上げてもらっていいかね」
「……はい」
 気づけば自分で物事を判断できない状態になっていた。魔眼の力は確実に八重子をむしばむ。だが当の八重子はそんなこと分からない。
「ずっと会いたいと思っていた。初めて会ったときから君は最高の女性だと思っていたんだ」
 金髪の男は部屋に入るなりベラベラと饒舌になる。だがそのほとんどは八重子の脳内に正確な情報として入ってこない。
「ここで別れるのは惜しい。だから僕は君にマーキングしたんだ。一度目を合わせれば君は僕を忘れられなくなるし、私も君の居場所をある程度知ることができる。これも私が吸血鬼であるが故の能力なのだがね」
 八重子はぼうっと金髪の男を見ている。
「おっと、済まない。好みの女性の部屋にあがれたので年甲斐もなくはしゃいでしまった。私が何を言っても君は半分も理解できないのだったね、今の状態では」
 金髪の男は八重子に身体を寄せる。そして再び見つめ合う。
「これは覚えておいて貰いたい。私の名前はブレット。君は?」
「ブレット……。私は柊八重子」
「八重子か。素敵な名前だ」
 ブレットはそのまま八重子に口づけをする。舌を差し込み、口腔をかき回す。
 八重子はなされるがままに抱かれていく。

 激しい自己嫌悪だった。
 眠りから目覚めると同時に催眠が解けたように自分の意思がはっきりとする。そして脳内に焼きついた昨夜の記憶が八重子の精神を蝕んだ。
 自分には恋人がいるのにほぼ見ず知らずに近い男を自分の部屋に入れた挙句、そのまま犯されたのだ。なぜあの時の自分は抵抗しなかったのだろうと八重子は自分を責める。
 横では八重子を抱いた外人――ブレットがすやすやと寝ている。忌々しいはずなのに、憎悪の感情があまり湧き出てこないことを八重子は不思議に思う。
 なぜこの男を嫌いになれないのか。自問自答しても答えは出ない。それがまた八重子を苦しめる。
 これはブレットの魔眼により催眠をかけられたように魅了されていたからなのだが、八重子はそんなことに気づけるわけが無い。
 八重子は時計を見る。今日は平日、会社に行かなければならないのだがどうしてもその気になれなかった。だがブレットと同じ場所にいたらまた犯されてしまうかもしれない。
 八重子は急いでに着替えると、食事もとらず逃げるように家を出た。今日だけは頑張って、明日からは有給を取ろう。そう思いながら。
 その日の夜、仕事を終えた八重子はどこに行こうか迷いながら街を彷徨っていた。
 このまま家に戻ってもブレットがいる可能性がある。最初は良太の家に行こうとも考えたが、ブレットに犯されたことに対する罪悪感がそれを否定した。
 実家は遠いし、友人は明日も仕事があるだろうからきっと迷惑になる。結局八重子はネットカフェで一晩過ごすことにする。これからのことはそこで考えればいい。
 そう思った矢先、ブレットが八重子の目の前に現れた。
「帰りが遅いから迎えに来たよ」
 ブレットは優しげな笑みを浮かべる。が、八重子はそれが不気味なものにしか見えなかった。
「いやっ」
 すぐにその場から駆け出す。だが腕を掴まれてしまったため逃げることは叶わなかった。
「どうして逃げる。昨日はあんなに悦んでいたじゃないか」
 その言葉に苛立ち、八重子は思わず睨みつける。だが、ブレットは笑顔で八重子の目を見つめ返す。彼の目が怪しく光る。
 八重子の意識が急速に鈍っていく。
 意識がはっきりと戻る頃、八重子は自宅に連れ戻されてブレットに服を脱がされていた。抵抗しようとするが身体に力が入らない。
「お願い……本当にやめて……っ」
「この状況、やめてと言われてやめる男は世界に何人いるのだろうね」
 ブレットは慣れた手つきで八重子の服を全て脱がす。彼自身はすでに全裸になっていた。八重子の身体を舐めるように見回すと、ゆっくりと愛撫を始める。
 静かな部屋に上がる嬌声。嫌なのに意に反して反応する自分が情けなくなる。だが八重子は何もできない。ただ、なされるがままに身体を貪られている。
 このままでいいのだろうか。半ば諦めていた八重子だったが、ブレットの男性器が自分にあてがわれたとき、脳裏に良太の顔が浮かぶ。いいわけがない。
 再び抵抗。右足でブレットの身体を蹴り飛ばす。先ほどまで身体に力が入らなかった八重子だが、なんとか蹴りを入れることができた。
「まだ抵抗するのか。ちょっと魔眼の力が弱かったかな」
 にやけ面のブレットに八重子は何度も蹴りを入れる。しかしすぐにその足は受け止められてしまった。八重子の力では振りほどくことができない。
「まあいい。今日は別の方法で君を虜にしてみようと思う」
 ブレットは八重子に再び覆いかぶさると、顔を近づける。キスをされるのだと思い、八重子は顔をそらす。だがブレットの顔は八重子の首筋に近づいた。舌を伸ばし、すぅっと舐める。
 何をされるのか分からなくなり、八重子は怯える。それを察したのか、ブレットは優しく言った。
「安心したまえ。私は上手だからね。痛いのは最初だけさ」
 ブレットは口を開く。唾液で濡れた鋭利な犬歯が白い首筋にあてがわれる。そして、ゆっくりと皮膚の下に沈んだ。
「……っ」
 八重子は最初に小さな痛みを感じた。しかしそれはすぐに引いていき、痺れるような感覚が噛まれた場所から広がっていく。
 血液がブレットの口内に吸い込まれていく。それと引き換えに吸血鬼特有の犬歯からの分泌液が八重子の体内に入っていく。
 八重子は身体をビクンとのけ反らせた。今まで感じたことの無い激しい快感が身体を走り抜けたのだ。
 吸血鬼の犬歯から分泌される特殊な液体にはモルヒネのような鎮痛効果があるのだが、その鎮痛効果にオーガズムに似た感覚が伴うのである。
 吸血の仕方が下手な場合、うまく分泌液が体内に入らず効果も薄いが、ブレットのように手慣れていて、なお且つ真祖で分泌液の効果が通常よりも大きいため、八重子は非常に激しい快感をその身で味わうことになったのだ。
 八重子は突然の快楽に意識が染められていく。脳裏に浮かんでいた良太の顔はあっという間にかき消された。

 翌日、八重子は昼過ぎに目を覚ました。いつもよりだるい身体をなんとか起こす。
 台所から物音がするため向かってみると、ブレットが料理をしていた。そこで八重子はまた昨夜のことを思い出す。吸血の快楽に乱れた自分。ただ、与えられる快楽によがり狂った自分。
「おはよう。昨日は少し血を吸い過ぎてしまったよ。申し訳ない」
 ブレットは八重子が起きてきたことに気づき、声をかけた。
「今日は手料理をふるまおうと思ってね。何、材料は私が買ってきたよ」
 確かに部屋の中にはおいしそうな匂いが充満していた。八重子はテーブルに置かれた料理を見やる。レバニラから始まって鉄分が豊富な食材を使った料理が並べられていた。
「寝起きでこんなに食べられません……」
「ああ、それもそうだ。つい張り切ってしまった。何、残してもかまわないよ」
 ブレットは最後の料理を皿に盛り付けると椅子に座った。
「さあ、食べよう」
「…………」
 八重子は返事をしなかったものの、ブレットの対面に座る。そして料理に手を付けた。
 なぜ、彼の言うことに従っているのか。なぜ、嫌なのにここから逃げ出さないのか。八重子は食べながらずっと考えていた。しきりに話しかけてくるブレットの言葉も頭に入ってこない。
「聞いてるかね?」
 見かねたブレットが八重子に手を伸ばし、自分の方を向かせた。
 目と目が合う。
 ああ……。
 八重子は気づいた。この目が私を――

 それからセックスばかりの日が続いた。
 吸血はされなかったものの、八重子はもう抱かれることに抵抗がなくなっていた。ただ、その身で快楽を貪る。
 全部あの目が悪い。そんな言い訳じみた思いがどこかにあった。こうして抱かれるのは私の意思じゃない。あの目に惑わされたから。ずっと、そう思いながら抱かれ続けた。
 そして土曜日。
 八重子は携帯電話を手に持ちながら俯いていた。画面には一通のメールが表示されている。良太からのものだ。
『今日も夕ご飯よろしく! 何時にそっち行けばいいかな?』
 土曜日は八重子が食事を作って良太と食べるといういつもの約束。
 会いたい。今まで良太のことなど頭の隅に追いやって快楽を貪る生活を続けていた八重子だが、このメールをきっかけに良太に対する想いが戻ってくる。
 会いたい。罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、お腹をすかせながら返事を待つ良太を思い浮かべる。
「ねえ、お願い」
 八重子は部屋でくつろいでいるブレットに言った。
「彼氏のところに行かせて」
「どうしてかね?」
「どうして? 自分の恋人のところへ行くのに理由が必要なの?」
「散々私に抱かれておいて他に恋人がいるだなんて、都合の良いことを言うね」
「やめて!」
 八重子は叫んだ。 
「あなたの目のせいでしょう。あなたがその目で私を惑わすから……!」
「言っている意味が分からないが」
 ブレットは鼻で笑いながら言った。
「私が目を使って催眠術でもかけているとでも言うのかね。自分に都合の良いことを言う。その根拠は?」
「それは……」
 八重子は黙ってしまう。
「そんな言い訳みたいなことを言わずに、もっと正直になればいい」
 ブレットは八重子に近づくと、首筋に顔を寄せた。
「それが一番気持ちいいだろう?」
 犬歯を突き立て、吸血を始める。数日ぶりの激しい快感が八重子の身体を駆け巡る。
 が、それも少しの間だけだった。ブレッドはすぐに口を離すと、傷口をそっと舐めた。八重子は突然のことで少し戸惑う。
「おや、どうした。物足りないとでも言いたげな表情だが」
「そんなこと……」
 そんなことない。そう言いきることもできない。八重子は首の、身体の疼きを抑えようと必死になる。
「彼氏のところに行きたければ行くといい。その代わり、続きはなしだ。もし行かないと言うのなら――」
 ブレットは八重子の顎に手を当てる。
「一晩中、楽しもうじゃないか」
 八重子は目を瞑って歯を食いしばる。そしてブレットの手を振り払うと、もう一度携帯電話と向き合った。
 返信用のメールを作成し始める。
 私は……私は……
 指の動きが止まる。少し間を空けた後、八重子は送信ボタンを押した。

 翌日、良太との待ち合わせ場所まで歩いていた。何も余計なことを考えず、ただ純粋にデートを楽しみにしながら。
 昨夜、良太から『明日は会えるよね?』という返信メールが来たため、八重子はブレットに泣きながら頼んだ。明日だけはどうしても自由にしてほしい。変なことをせずに、明日のデートに行かせてほしいと。
「別に今も行くなと強制したわけではないが……まあ、いい。私も鬼ではないからね。いや、吸血鬼ではあるか。はっはっは」
 泣いている八重子と対照的に、ブレットは楽しそうに笑う。
「まあ、好きにしたまえ」
 ブレットはそう言って八重子に自由を与えた。
 そして今朝、ブレットは家を出ようとする八重子を引きとめると、彼女の目を見つめた。魔眼による一時的な記憶の改竄。ブレットに関する記憶だけを思い出せないようにした。
 結果、八重子は後ろめたさや罪の意識を感じることなく出かけることができた。
 八重子はいつも通りのデートを楽しむことができた。食事に行き、映画を観て、公園でだらだらと喋る。よくある、何気ないデート。
 公園のベンチに腰掛けながら映画の感想を言い合う。空は赤みがかってきており八重子はそれを見上げる。
「もう夕方かあ……」
 ぼそりと八重子はつぶやく。もっと良太と一緒にいたい。そう思った瞬間、彼女は頭の中で何かが外れるような感覚を感じた。
 そしてブレットに関する記憶が流れるように戻ってきた。魔眼の効力が切れたのだ。
 どうして……どうして忘れていたのだろう……。ぐるぐると色々な考えが八重子の頭の中を巡った。
「あのさ」
 そんなことは露知らず、良太は八重子に声をかけた。
 あ……。この声、雰囲気は……。きっとホテルに誘う。八重子はそう勘づいた。長く付き合っているからこそ分かることだ。
「今から――」
 八重子はとっさに良太の肩に寄りかかった。そして遮るように言った。
「なんだか、調子が悪いかも」
 実際は悪くない。ただ、この状態で良太とホテルに行くなど、できるわけがなかった。
「そっか。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 八重子は良太の腕に抱きつく。
「好きだよ」
 小さな声で八重子は言う。
「私は良太のことが好き。好きだよ。愛してる。愛してるから」
 うわごとのように何度も八重子はつぶやく。
「うん、知ってるよ」
 優しい声で、良太は答えた。
 罪悪感と情けなさで八重子はどうにかなってしまいそうだった。必死にそれを表情に出さないように気をつける。
 誰か、この場で私を殺して。そう思いながら。

 帰宅後、八重子は泣き崩れた。
 出会ったばかりの男に身体を許しているのに、平然としながら良太とのデートを楽しんだ自分を呪い殺してやりたい、と八重子は思った。
 そんな彼女の背後に何匹もの蝙蝠が現れた。それは密集し、そして人の形になる。ブレットだった。ユウと葉子の元から去り、この部屋に戻ってきたのだ。
「どうして泣いているんだ」
 ブレットは八重子を後ろから優しく抱きしめる。彼は知っていた。デートの途中で八重子の記憶が元に戻ったことを。彼は最初から狙っていた。デートの終わり際で記憶が魔眼の効力が切れるように調整し、彼女の中の罪悪感を増幅させることを。
 ブレットは、そこにつけこむ。
「君は悪くない。悪いのは全部――」
 首筋に顔を寄せる。
「私だ」
 ゆっくりと歯を立て、吸血を始める。

 また翌日からセックスばかりの日々が続いた。お互いの身体を貪っては眠る、そんな日々。
 だが、日曜以来血は吸われていなかった。ブレット曰く、「いくら気持ちよかろうと毎日吸血していたら身体がもたないよ」ということだった。
 だが、八重子の中では確実に吸血されたいという欲求が高まり続けていた。セックスによるオーガズムでも敵わないほどの快楽。八重子の身体は自分の意思とは裏腹に吸血行為の虜となりつつあった。

 そんな中での――崩壊だった。

 最愛の人である良太に、彼をないがしろにして肉欲に狂う姿を見られてしまったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 そんな言葉しか八重子の口からは出てこなかった。
 良太はただ床に俯いているだけで八重子の言葉が耳に届いているかどうかすら定かではない。
「君は彼女の恋人だったね。今では彼女は私のものだが」
 ブレットはにやけ面で良太に言った。そして彼に近づくと髪の毛を掴んで顔を上に向けた。良太の顔は涙と鼻水でくしゃくしゃに歪んでいた。必死に歯を食いしばっている。
「はっはっは、汚い面だ」
 良太は自分の髪を掴むブレットの腕を掴むとそのまま突進する。ブレットは勢いに押され床にあおむけになる。良太は馬乗りになると思い切り殴りかかった。が、ブレットの顔を狙ったはずの拳は床を殴りつけていた。
 痛みに呻きながら下を見る。自分が馬乗りになっていたはずなのに、ブレットはそこから消えていた。あたりには蝙蝠が数匹飛んでいるだけ。
 それらが良太の後ろで密集し人型、ブレットに戻った。
「情けなくないかね」
 哀れな家畜を見るような目で、ブレットは良太を見下ろした。
 その様子に耐えられなくなった八重子はブレットを押しのけて寝室を飛び出し、台所に向かった。そして包丁を持ち出すと、それをブレットに向けた。
「私を刺すのかい?」
 八重子は何も言わない。ただ、鬼のような形相でブレットを睨んでいる。
「やってみるといい。君に私を殺せると思えないがね」
 ブレットは挑発的に言う。八重子は刺そうと腕に力を入れるが足に力が入らない。動こうとしてくれない。
「やめておけ。あいつの言うとおりあんたじゃ殺せないよ」
 突如、開きっぱなしの玄関から別の男の声が発せられた。八重子とブレットはその方向に振り向く。
 黒いコートを纏った黒髪の青年が立っていた。土足で部屋の中に上がると、八重子の腕を掴む。そして無理やり包丁を奪い取ると、それを流し台に放り込んだ。
「おや、この前の狩人君じゃないか」
 ブレットは黒コートの男――ユウに向かって言った。
「また私を殺しにきたのか? 君でも私は殺せないと思うがね」
「残念ながら、今夜お前を殺すのは俺じゃない」
 そう言って、ユウは玄関の方を向いた。
 カツカツ、という靴音と共にもう一人スーツの女性が現れた。
「うん、死人はいないみたいだね」
 女性は部屋の中を見回す。
「おや、君も日曜にあった狩人だったね」
「そ。尻尾巻いて逃げた糞ビビリさん」
 女性――葉子はブレットを挑発しながら、睨みつけた。
 犬養の迅速な仕事により、ユウと葉子の二人は八重子の家にブレットがいることを嗅ぎつけたのだ。
「ユウ、そこの女の確認」
 葉子は首を叩きながらユウに指示する。
 指示通り、ユウは八重子の首を見る。吸血痕に気づき、今度は銀ナイフを取り出す。
 八重子は怯えて後ずさるが、ユウはすぐに腕を掴んで引きとめた。
「安心しろ。刺すわけじゃない。お前が吸血鬼になっていなければね」
 そう言ってユウは刃の表面を八重子の腕にあてがう。しかし、何の反応もない。
「問題ない、白だ」
「オーケイ」
 葉子はうなずくと、数歩前に出ると、ブレットに言葉を投げかける。
「ねえ、ちょっと二人でお茶でもしないか」
「嫌だと言ったら?」
「お前は女性からの誘いを断る阿呆じゃないだろう」
 葉子は拳銃を取り出す。
「来たまえよ」
 ブレットは目にもとまらぬ動きで窓に寄ると、それを叩き破り外に飛び出した。葉子もそれに続き彼に引けを取らない動きでそれについていき、割れた窓から真っ暗な夜に消えた。
 八重子と良太は呆然としながらその様子を見ていた。
「こっちもやることを終わらせようか」
 ユウは二人に向かって言う。
「あなた……あなたたちはなんなんですか……」
 良太はユウに向かって問う。
「あなたたちも、さっきの外人も……一体なんなんですか……僕は何も分からない……」
 拳を握りしめながら、良太は俯く。
「別に教えるのは構わないよ」
 ユウは応える。良太は顔を上げた。
「まあ、すぐに忘れることになるがね」
 そう言うと同時に数人の黒服の男たちが部屋に上がり込んできた。
 吸血鬼は夜の生き物だ。真祖の吸血鬼であるブレットは化物じみた動きで――実際に彼は化物なのだが――夜の街を縦横無尽に駆け抜ける。日光という制約がなく、人の血を吸った直後のブレットはまさに最高のコンディションと言えた。
 しかし、葉子もブレットの動きにピッタリとついてきていた。様々なものを足場にし、飛ぶように駆けるブレットを後ろから同じ場所を足場にして追尾する。完全に化物と同じ動きだった。
「私をお茶に誘うだけはあるじゃないか」
 ブレットは余裕の表情で葉子を煽る。葉子はそれに対して言葉ではなく銃弾で返す。だがブレットは最低限の動きでそれを避けた。
 外れた銃弾が何か別のものに着弾し、音を立てる。
「少し目立つか」
 拳銃に消音機はついているが着弾時の音までは消せない。葉子は周囲を見渡し、人がまばらにいるのを確認すると一度拳銃をしまった。そしてナイフに持ち替え、追尾を続ける。
 葉子は急加速をしてブレットに接近。空中で格闘になる。ナイフによる鋭い攻撃を繰り出すがブレットはそれ難なくそれをいなし、再び葉子と距離を開ける。
「もう少し落ちついた場所でお茶をしたいものだが」
「どこかいい場所でも?」
「たった今、よさげな場所を見つけたよ」
 ブレットは強く地面を蹴ると、小さなビルとビルの間に飛び込んでいく。葉子もすかさずそれに続いた。
 こんな狭い場所がいい場所だと――葉子はそう言おうとしたが口を閉じた。真っ暗な隙間の中に入ってもブレットは動きを止めずに大きく跳躍。両面にあるビルの壁を蹴って上に昇っていく。
「どうだね。早くついて来たまえよ」
 ブレットは葉子を見下ろすと得意げに言う。
「なるほどね」
 葉子はそれの様子を見てにやりと笑う。そしてブレットに続き跳躍、同じようにビルの壁を蹴っていく。
 右に左に、異常な脚力で軽々と宙に浮き、空に近づいていく。まるでアクションゲームのような動きを二人は平然とやってのける。そして僅か十数秒ほどでビルの屋上へと辿り着いた。
「確かに良い場所だ。誰にも見られないし邪魔されない」
 葉子は周りを見回しながら言う。明かりが灯る建物の群れが夜景となって広がっていた。地上よりも強く冷たい風が二人の身体を撫ぜて通り抜ける。
「まだ建物の中に人がいるようだが、少しくらい物音をたてたくらいでは気づかないだろう」
「そんなことより、全裸で寒くないか? 見たところ女を抱いた後のようだったが」
「なあに。先ほどの追いかけっこで身体は温まっている。それに、裸の方が戦いやすい」
 恥じるそぶりを一切見せずにブレットは笑った。
 その隙をつかんとばかりに葉子は拳銃を取り出し、すぐさま引き金を引いた。だがそれはブレットの身体を貫くことなく後ろにあった扉の横の壁に着弾した。
 ブレットは一瞬で身体を無数の蝙蝠へ変化させたのだ。そのまま蝙蝠は一斉に拡散。一部の蝙蝠は拳銃を持つ葉子の右腕に集まっていく。
 葉子はすぐさま左手に持っていたナイフで蝙蝠を切り裂くが、数が多すぎて完全に対応が遅れてしまう。蝙蝠たちは葉子の手を噛み、拳銃を落とさせた。
 葉子はすぐさま後退。一瞬でスーツの上着を脱ぐと前方で群がる蝙蝠たちに投げ、被せる。そして上から容赦なく何度も踏みつぶす。ぐちゃり、と肉がひしゃげる嫌な感覚が葉子の足裏に伝わるが、彼女は顔色一つ変えなかった。
 攻撃から逃れた蝙蝠が他の蝙蝠と合流。まとまって矢のように飛びかかる。葉子はナイフを構えて迎撃の構えをとった。
 葉子は小さい動きでナイフを突き出す。だが蝙蝠たちは二手に分かれて急激に方向転換。左右に分かれてナイフでの攻撃を回避。
 葉子はどちらを追うか一瞬考え、自分から見て右側に避けた蝙蝠たちの方を向く。それと同時に葉子の眼前の蝙蝠たちが形を変えてブレットの右半身に変わる。そして素早く右腕で殴りかかった。葉子は圧倒的な反応速度で飛びかかる拳を左手で受け止める。
 右半分だけになっているブレットが口元を吊りあげる。同時に葉子の後ろから拳が飛んでくる。そして彼女の後頭部を殴りつけた。先ほど左側に避けた蝙蝠たちがブレットの左半身に姿を変えていたのだ。
 葉子はそのまま地面に倒れて転がる。だが同時にブレットのうめき声がビルの屋上に響いた。葉子を殴りつけた左手の甲に銀ナイフが刺さっていたのだ。倒れている葉子の右手には先ほどまで握っていたナイフはない。
「明らかに人間の反応速度ではない……」
 ブレットは半身を結合して元の人型に戻ると忌々しげに言った。ナイフの刺さった左手はどろりと溶けて手首から下が原形をとどめていなかった。
「そっちがのろまなだけじゃないのか?」
 殴られた場所をさすりながら葉子は起き上がる。さほどダメ―ジはないようだった。新しくナイフを取り出し、右手に握る。
「貴様……同族か?」
 ブレットは葉子も吸血鬼なのではと疑っていた。彼女の異常な身体能力を目の当たりにしたのだからそう思うのは当たり前だ。
 目に力を入れて、葉子の目を真っ直ぐに見つめる。ブレットは魔眼を使い、真偽を確かめようとする。
「一緒にしないでもらいたい。私は人間だよ」葉子はそれを睨み返す。ブレットの表情が変わる。「半分は」
 葉子とブレットの間の空気が一瞬震える。そしてブレットは大きな声で笑った。
「はっはっは。なるほど、混血か。通りで私についてこれるわけだ」
「そういうこと」
「その身体能力には納得だ。だが――」
 ピタリとブレットは笑うことをやめた。静けさがビルの屋上を支配する。ブレットは表情を憤怒に塗り替え、言い放つ。
「私の魔眼を相殺したのはどういうことだ」
 先ほどの空気の振動はブレットの魔眼が葉子の魔眼で相殺したときの衝撃だったのだ。
 ダンピール、吸血鬼の血が半分だけ流れている葉子の魔眼が、真祖の魔眼と互角の力を有している。そのことがブレットのプライドを傷つけた。
「ダンピールの魔眼ごときが私を止めるなどあり得ない……あり得てはならないはずだ……ッ」
 ブレットは完全に取り乱していた。真祖として生きてきて、ここまでプライドを傷つけられたのは初めてだったのだろう。
 葉子はその隙を見逃さない。一瞬でその場から動き、先ほど地面に落した拳銃を拾う。そしてすぐさまブレットに構え、撃った。
 だがブレットも驚異的な反応速度で銃弾を回避。再び殺し合いが始まる。それがブレットの頭を冷静にさせた。
 縦横無尽に動き回り、葉子を撹乱しながらブレットは思考する。そして一つの仮定を導き出した。
「真祖と人間の混血児か……?」
 それでも魔眼の力は純血である真祖には劣るはずだ。ブレットは自分の出した仮定に納得することができない。
「そのことで聞きたいことがあるのさ」
 高速で動き回るブレットを確実に目で追いながら言う。
「ジェラルド・グラハム」
 ブレットは葉子が発した名前に過剰な反応をする。動きが少し遅くなる。
 葉子はその隙をついてナイフを二本投擲。当たりはしなかったものの、ブレットの動きを一瞬止めた。即座にブレットに接近、拳銃を近距離で突き付ける。
「この男について知っていること、洗いざらい喋ってもらおうか」
「まさかその名前を聞くとはね」
 ブレットは拳銃を突きつけられているにも関わらず一切焦ることなく言葉を返す。
「悪いが、余計なことに関わりたくはない」
「何か知っているんだな?」
 葉子の目がぎらりと光る。
「吸血鬼にも黙秘権はあるだろう」
 引き金一つ引くだけで死ぬかもしれない、という状況でもブレットは飄々と言う。
「話せ」
「断る」
 葉子は拳銃をブレットの腹部に向けた。殺しはしないが確実に痛めつけるつもりなのだろう。引き金に指を乗せる。
 その瞬間、葉子の眼前に二匹の蝙蝠が横から飛び出した。一瞬ではあるが葉子の視界が完全に塞がれる。引き金は引いてしまっていたが、ブレットの身体を貫くことはなかった。
 葉子の視界が戻ったときにはすでにブレットの首から下は無数の蝙蝠に分散してなくなっていた。頭だけが不気味に浮いている。
「ジェラルド・グラハムが君の父親ということでいいのかね? そうすればその戦闘力と魔眼にも納得できる」
 再び葉子は銃弾を撃ち込む。だがそれよりも先にブレットは頭も蝙蝠に変えて避けた。
「自分から話す気はないのか?」
 葉子はブレットの問いには答えず、ただジェラルドという男の情報だけを求める。
「私は静かに楽しく生きていたいんだ。彼だってそうさ」
 葉子を囲む大量の蝙蝠の中の一匹が言う。
「そうか……分かったよ」
 葉子は素早く拳銃をリロード。そして再び構えた。が、どこかを狙っているようには見えない。
「時間がもったいない。そろそろお開きにしよう」
 拳銃を構えたままそっと目蓋を閉じる。ゆっくりと息を吐く。静寂があたりを包む。
 葉子が何をしてくるのか、ブレットには予想することができなかった。互いに何もしない状態が続く。葉子が目蓋を閉じてから次の行動を起こすまでおよそ二秒だったが、ブレットにはその何倍もの時間に感じられた。
 拳銃を構えているだけあって、葉子の次のアクションは射撃だった。完全に動きを止めていた状況から一転、無数の蝙蝠の中から一匹にだけ狙いを定めて、銃弾を撃ち込んだ。
 着弾。撃たれた蝙蝠が地面に落ちる。その瞬間、他の蝙蝠たちも地面に落ち、激しく暴れ始めた。まるで激しい苦痛に悶えるような、そんな暴れ方だった。
 蝙蝠たちが身体を引きずりながら撃ち落とされた蝙蝠に近づいていく。そして形を変え、人型に戻った。胸の中央部に風穴が開いており、どろどろと溶け始めていた。
「忘れたのか? 私はダンピールだよ」
 葉子はブレットの腹部を右足で踏みつける。
「ダンピールは吸血鬼を探知する能力に優れているんだ。お前も知ってるだろう」
「私の核を……」
 ブレットは息絶え絶えになりながら言う。葉子は自身の探知能力でブレットの核に当たる蝙蝠を狙い撃ったのだ。
「かすった程度で直撃はしてないはずだ。銀弾一発だけならすぐには死ねまい。仮にも真祖だ」
 葉子はブレットに馬乗りになると、左手を彼の頭に伸ばす。そして髪の毛を掴むと無理やり顔を自分の方へと向かせた。
 苦しさと悔しさと怒りがごちゃ混ぜになったような表情でブレットは葉子を睨む。葉子はそれを睨み返すと、両目に力を入れた。目の色が不気味に変わる。
「知っていること全て吐きな」
 魔眼を発動。相手を支配する力が視線を介してブレットの目に、脳内に入り込んでいく。
 撃たれた苦しみに耐えながらもブレットは魔眼による強制自白に抵抗する。声にならない声を上げながら身体を震わせていたが、力尽きたのかゆっくりと話し始めた。
「あの人は……平穏を求めている。今では……数人の仲間以外の誰とも関わろうとしない。隠居だよ……」
 そこまで言ってブレットの目が急激に見開いた。同時に魔眼による支配の力が解ける。そして彼の両腕が再び蝙蝠と化していく。弱っているからか変化の速度は今までよりも遥かに遅い。
 葉子は冷静にナイフを取り出すと、全身が変化して逃げられる前にブレットの首に突き刺した。
「真祖の底力か。やれやれ、化物め」
 飛び立った蝙蝠たちが落下し、その衝撃で灰となった。ブレットの身体も急速に灰化し、完全に息絶えた。
「この程度か……」
 葉子は小さな灰の山を見て呟く。中に手を伸ばして漁ると核を取り出す。通常の吸血鬼よりも一回り大きく、鮮血がそのまま丸く固まったかのような色。もう死んでいるにも関わらず、ヒダのようなものが蠢いていた。銃弾がかすめたために一部分が抉れている。
 葉子はそれを小瓶の中にいれるとポケットにしまった。そして代わりに携帯電話とタバコ、ライターを取り出す。
「もしもし」
 まだ八重子の部屋にいるユウに電話をかける。
「終わったよ」
『こっちも後片付け終えた。記憶の処理もあんたの指示通りにな』
「了解。掃除屋をこっちによこしてちょうだい。場所は……」
 自分の居場所を伝え、葉子は通話を切る。携帯電話をしまう。
 月明かりが照らすビルの屋上。夜風に吹かれブレットだった灰がさらさらと山を崩して広がった。
「何が――」
 葉子はタバコを一本取り出し、火をつける。
「何が平穏だよ」
 それを口にくわえると、屋上のフェンスを背もたれにして座り込んで夜空を見上げる。ふぅ、と一息。葉子の視界の中で、紫煙が月をゆらゆらと包み込んだ。



 よく晴れた休日の午後。良太と八重子は手を繋ぎながら歩いていた。
「避妊してたはずなんだけどなあ」
 良太は頭を掻きながら言う。嫌がっていると言うよりはまんざらでもなさそうな表情だ。八重子はそれを見て優しく微笑む。
「俺もとうとうパパか。信じられないや」
「私も信じられない。来年の今頃は赤ん坊を抱きながら二人で暮らしてるのかな」
「結婚……かあ」
 良太はにやけながら言う。その表情を八重子に見られないよう天を見上げる。

 産婦人科からの帰り道だった。八重子の妊娠が分かり、二人は幸せな気持ちに包まれながら歩いていた。
 あのときの悲劇の記憶はない。ユウが呼んだ掃除屋<スイーパー>に記憶の封印をほどこされ、何事もなかったかのように二人は日常に戻された。
「私としては、良太からロマンチックなプロポーズをされて結婚を決めたかったんだけどねぇ」
「恥ずかしい台詞を考えずにすんで助かったかな」
「別に妊娠した後でもプロポーズしていいんだよ?」
「まあ……そのうち……ね」
「絶対だよ?」
「うん……ええ……はい」
「なんか信用できないなあ」
 良太はさっと顔をそらす。それを見て八重子は声を出して笑った。
 誰がどう見ても幸せなカップル。そんな二人を、少し離れた公園のベンチに座りながら見ている女性がいた。しかし良太と八重子はそれに気づかない。
 二人が公園の入り口に近づくと、ベンチに座っていた女性が立ち上がり、同じく公園の入り口へと速足で歩みを進める。
「ちょっといいかな」
 女性は二人の前に立ち、声をかけた。
「なんですか?」
 良太が一歩前に出て答える。
「用があるのは君じゃない。柊八重子、君だ」
「え……?」
 八重子はきょとんとしながら女性を見返す。
「八重子、知り合い?」
「ううん。初対面だと思うけど……」
 戸惑う八重子に女性は言う。
「ちょっと話があるんだ。少しの間二人きりで話せないかな」
「な、なんでですか?」
「大事な話なんだ。早めに話しておかなければならない」
「え……初対面なのに大事な話ですか?」
 八重子が女性を見る目が怪しい人を見る目に変わっている。良太も同じだった。
 それを察した女性は八重子に近づくと、肩に掴んで逃げられないようにする。そして口を耳元に近づけると、小さな声で何かを呟く。そしてすぐに八重子から離れた。
 八重子の表情が一瞬で変わる。そして少しの間呆然と立ち尽くす。
「もう一度言う。大事な話があるんだ。私と君、二人だけで話したい」
「……分かりました」
 八重子は小さく頷く。
「大丈夫なのか八重子……」
「うん。度忘れしてただけで、この人は知ってる人」
 良太の顔を見ずに八重子は答えた。
「行こうか」
 女性は先ほどまで自分が座っていたベンチを指さして言った。

「全て思い出したか?」
「……はい」
 二人は並んでベンチに座る。八重子は先ほどから俯いたままだ。
「あのとき、私の部屋に来た人ですよね。すぐに……あの男を追いかけていなくなってしまったけど」
「ああ」
「どうして、どうして私はあのことを忘れてたんですか? あなたは何者なんですか? あの男はどうなったんですか?」
 八重子は静かに、しかし早口でまくしたてる。
「君の記憶はそういうことができる人間に依頼して封印した。一定のキーワードで思い出すように。私は分かりやすくいうなら吸血鬼ハンター。あの男は殺した」
 女性は八重子の質問一つ一つに同じく早口で答えた。八重子と違ってその声に感情はあまり感じられない。
「あの男は……死んだ……」
 八重子は安堵したのだろうが、記憶の復活による混乱がまだ続いているのか、表情は色々なものがごちゃまぜになって複雑なものになっていた。
「質疑応答はこれくらいにして、早速本題に入っていいかな」
 八重子は頷く。
「単刀直入に言う。お腹の子供は産まない方がいい。……いや、産まないでほしい」
「え――」
 硬直。女性の言葉に八重子は追い打ちをかけられたように衝撃を受ける。
 女性は少し八重子の様子を見ていたが、時間がもったいないと思ったのか、話を続けた。
「君には悪いが、続けて言わしてもらう。そのお腹の子供は」「あの男の子供、なんですね」
 女性の言葉を遮り、はっきりと八重子は言った。
「その通りだ」
 女性は表情を変えず、感情のこもらない声で肯定した。
「おろしません。そう言ったらどうしますか」
 先ほどよりも僅かながら声に落ち着きが戻り始める。
「いくら男の子供でも、私はおろすなんてできない」
「なぜ?」
「命だから。私の中に確かに宿ってる」
「優しいね」
「じゃあ、産んでもいいんですね」
「いいや、ダメだよ。何としても産ませないために私は話をしにきたんだから」
 そう言って、女性はポケットからタバコを取り出した。「吸ってもいい?」
「ダメですよ。お腹にいるんですから」
「どうせおろすことになるんだから」
「おろしません」
「分かったよ」
 と言いつつも女性はタバコに火を付けた。美味しそうに吸い、ゆっくりと息を吐く。
「……彼氏のところに戻ってもいいですか」
「戻れるのか? 記憶がよみがえった状態で、今まで通り彼氏と過ごそうって?」
「それは……」
「とりあえず、私の話を聞いてほしい」
「じゃあタバコをやめてください」
「おろすんだから」
「私自身タバコの煙が苦手なんです」
「分かったよ」
 女性はタバコを地面に落とすと、ゴシゴシと踏みつけた。
 少しの沈黙の後、女性が口を開く。
「ダンピールって知ってるかい?」
「知りません」
「吸血鬼と人間の間に生まれた子供のことだよ。つまり、そのお腹の中の子供だ」
 女性は八重子の腹部を指さす。
「そう言えば、なんで私のお腹の子があの男の子供だとあなたが分かったんですか?」
「ダンピールにはね、吸血鬼あるいはダンピールを探知する力が備わってるんだよ。着床したそばから分かるくらいの力がね」
「じゃああなたも……」
 女性は頷くと、話を続けた。
「ダンピールは生まれたらすぐに教会に引き取られる。例外はない。親が拒否しようとも必ずだ。記憶の処理をほどこされてその子供は社会から抹消される。生まれてすぐに、だ」
「教会?」
「ああ、君の知ってる教会と私の言う教会は別物だがこれは大事なことじゃないから省略する。とにかく、その子供を産んでもすぐに君の手元から離れていく。そして君の記憶から子供は消える」
「そんなことさせません」
「無理だよ。簡単に吸血鬼の餌食になった君に何もできないよ」
 返す言葉が無いのか、八重子は少し唇を噛む。
「でも、おろすよりは……」
「続きを話そう。教会に引き取られたダンピールは最初、普通の子供として育てられる。早い段階から勉強をさせられるが、それ以外は極めて普通に、だ」
「なら……」
「最初の転機は二次性徴が始まる頃だ。それくらいからダンピールは吸血鬼探知能力などの特殊な力が発現し始める。だが、中には能力が発現しない者、また能力が無いに等しいほど微弱な者もいる。そういった“落ちこぼれ”はある日を境に全員処分される。殺されるんだ。普通の人間社会には戻してもらえない」
「嘘……」
「嘘じゃない。その後、処分を免れたダンピールは一流の吸血鬼ハンターとなるべく戦闘技術を叩きこまれる。扱いは人間のものではなくなり、吸血鬼専門の殺人機械として育て上げられるんだ。あくる日もあくる日も、地獄のような訓練が続く。しばらくすると肉体あるいは精神が壊れる者が出てくる。完全に壊れた者はそこまでだったと処分される」
「なんでそんなことを……」
「吸血鬼を撲滅するためだよ。そのために教会はダンピールを吸血鬼狩りのエリートとして育て上げる」
 気がつくと、女性の声には強い力が込められていた。迫力すら感じられる。
「十八歳になる頃には完璧な対吸血鬼の殺人兵器が完成する。だが、そこまで生きていられるダンピールは全体の一割にも満たない。大体は能力が発現しないか、しても訓練の途中で壊れて処分される。
 だが、無事生きて訓練を終えることができても、ほとんどは人ではなくなってしまう。感情や意志が無くなった、さっきも言ったような機械になってしまう。まっとうな人としての人生は絶対に送ることはできない」
「嘘だと言ってください」
「嘘でも嘘だとは言えないね。今言った地獄を見てきた私には絶対に言えない」
「あ……」
 八重子は改めて女性の顔を見る。彼女は自身をダンピールだと言った。この話が嘘でなければ彼女も地獄のような日々を送った人間なのだ。
「数えきれないくらい死にたいと願ったよ。監視された生活の中では舌を噛むことすらできなかったが。そして、いつからか死にたいは“生まれなければよかった”に変わった。でも、人間は自分の意思で死を選ぶことはできても、生まれることを拒否することはできない」
 再び、女性はタバコに火を付けた。八重子はそれを咎めることができない。
「もう一度言う。お腹の子供は産むな。君の優しさという自己満足で不幸な人間を産みだすな」
 そう言いきると、女性はタバコを加えて沈黙した。答えを待つということだろう。
 八重子は目に涙を浮かべながら俯き、考え続ける。
「私は……」
 唇が、身体が震えている。
「この子を、産みません」
 その言葉を聞くと、女性は少しだけ、口元を緩めた。
「あとは、彼氏の説得を頼むよ。大丈夫、私は口出ししないから、お腹の子供の親が吸血鬼だということも隠せばいい。彼氏の記憶は君みたいに蘇らないから」
 女性はゆっくりと立ち上がる。そして一枚の名刺を取り出すと、八重子に手渡した。
「私の事務所だ。もし、全てを忘れて吸血鬼に狂わされる前の生活に戻りたいのなら、ここに来るといい。助けてやる」
「……はい」
 八重子の返事を聞くと、女性はそのまま歩きだす。そして小さく手を振り、いなくなった。



「仕事はないのか」
 ソファに寝転がりながら、ユウは言う。
「ない。邪魔だから自宅待機していたらどうだ」
 葉子は書類に目を通しながら返事をする。
「すぐに仕事が入るかもしれないだろう」
「吸血鬼を殺すのがそんなに楽しいか」
「楽しいとか楽しくないとか、そういうことじゃない」
「分かってるよ」
 二人が無駄な言い合いをしていると、それを邪魔するように呼び鈴がなった。
「珍しいな」
 ユウは寝転がったまま呟く。
「よかったな、仕事が入ったぞ。客人を出迎えな」
「俺の仕事は吸血鬼を殺すことだけだよ」
 そう言いつつも、ユウは起き上がり玄関口へと向かった。
「うちはアフターサービスが良いんだよ」
「何のことだ」
 廊下を歩きながら、ユウは言う。だが葉子は答えない。
 扉を開ける。ユウは客人の顔を見ると「ああ、なるほどな」と呟いた。



 第三夜  END
18, 17

山田一人 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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