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第四夜 Sister

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 可愛らしい装飾のデジタル時計が秒刻みで小さく点滅していた。時刻は七時三十分を少し回ったところだ。
 南條まどかはその時計を見ると、そろそろ家を出なければと机上に置いてある鞄を手にとって部屋を出た。
 自室の扉を閉じると、眼前にあるもう一つの部屋を見て思わず立ち止まる。“NODOKA”と書かれたプラスチックのプレートが掛けられた扉の先、そこはまどかの双子の妹である南條のどかの部屋だった。
 扉は閉じられている。ここ数日、まどかはこの部屋の扉が開くところを見ていなかった。
 まどかは少し迷った後、のどかの部屋の扉を数回ノックした。
「おはよう、のどか」
 朝の挨拶。しかしいくら待っても返事はなかった。まどかは言葉を続ける。
「私はもう学校に行くけど、のどかはどうするの? 今日もまた休むの?」
 その問いも、先ほどの挨拶と同様に返答はない。
 もしかしたら、まだ寝ているのかもしれない。と、まどかは考える。だとしたらこれ以上話を続ける意味はない。
「のどかの分もノートはちゃんと取っておくから。それじゃあ、行ってくるね」
 最後にそれだけ言うと、まどかは階段を下りて一階へ。リビングにいる母親に一言「行ってきます」と言うと、もやもやとした気持ちを残したまま玄関を出た。


 教室に着くと、まどかは鞄を机の横にかけて着席し、一息ついた。
 朝のホームルームが始まる数分前。生徒のほとんどがすでに教室に来ており、雑談に興じる彼らの声で室内はとても騒々しかった。まどかは後方の窓際にある席に座ってそんな室内を静かに見回していた。
 しばらくするとチャイムが校内に鳴り響き、遅刻にならないよう慌てて駆けていく生徒たちの足音が廊下から響いた。それに少し遅れて扉が開く音。教室に大柄な中年男性――このクラスの担任教師――が入ってきた。出歩いていた生徒たちは小走りで自分の席に戻る。
 担任が教卓の前に立つと同時に日直が「起立」と声を上げ、朝のホームルームが始まる。
 いつものように担任は名簿を開いて出欠確認を行う。教室に空席は一つだけ。担任も室内を見回してそれを確認すると、まどかに声をかけた。
「南條姉、妹の方は今日も欠席か?」
「はい、そうです」
「欠席理由は体調不良だったか。ここ何日も連続で休んでるが大丈夫なのか?」
「大丈夫……だと思います」
「そうか。みんなも体調管理はしっかりするように」
 はーい、という返事がまばらに聞こえる。その後、担任が諸連絡を淡々と伝えてホームルームは終わった。
 一時間目の授業が始まるまで、生徒たちは休み時間のように各々好きなことを始める。ほとんどの生徒は友人との雑談に興じていたが、まどかは一時間目の授業の教科書を用意して、授業が始まるまで窓の外をぼんやりと眺め始めた。
 そんな彼女の元に、数人の女子生徒が近づいてきた。
「ねえ、まどかちゃん」
 名前を呼ばれ、まどかはゆっくりと彼女らの方へと顔を向ける。声をかけてきたのはのどかと仲の良いクラスメイトだった。
「のどか、本当に大丈夫なの?」
「うん……大丈夫だとは思うんだけど」
 まどかは少し曖昧に答える。
「なんだか、のどかが何日も連続で休むなんて信じられなくてさ」
「メール送っても返事がないし、どうしちゃったんだろ」
「のどかがいないと何か静かっていうか何だか盛り上がらないよね」
「だよねえ。いつもうるさいけど、いないと物足りないよね」
 クラスメイトたちは楽しそうにのどかのことを口にする。その様子を見て、まどかは何とも言えない気持ちになり、少し戸惑う。
「えっと、のどかのこと心配してくれてありがとうね。私からもみんなが待ってるから早く治しなよって言っておくから」
「あと、ケータイもちゃんと見ろって言っといてね」
 そう言って、彼女たちはまどかの席を離れていった。
 彼女たちは別の席でまた雑談を始める。まどかはその様子を無意識のうちに眺めていた。
 のどかにはあんなにもたくさんの友達がいて、さらに昔から仲がよかったかのように打ち解けている。まどかと比べて、明るく社交的でクラスでも人気がある……それがのどかだった。
 まどかとのどかは、数ヶ月前にこのクラスに転校してきたばかりだった。慣れないうちは一緒にいた方がいいだろうという学校側の配慮で二人は同じクラスになった。
 しかし、その配慮ものどかにとって必要なかったのかもしれない。まどかはひっそりとそう思っていた。
 のどかは持ち前の性格ですぐにこのクラスに打ち解けた。転校して数ヶ月とは思えないほどに、のどかは多くの人間と仲良くなっていたのだ。
 一方、のどかは友達ができなかったわけではないが、のどかほど打ち解けるということはなかった。元々まどかはのどかに比べて内向的で、人付き合いというものがあまり得意ではなかった。転校する前の学校でも、のどかに比べれば友達も少なく、比較的目立たない部類の少女だったのだ。
 まどかにはのどかが眩しく見えていた。だから自分も彼女のようになれれば……という憧憬に近い感情をいつも抱えていた。それと同時に、のどかに比べてどうして自分はこんなにも魅力がない人間なんだろう……という自分を卑下する感情が一緒になって、まどかの心の中で静かに眠っていた。
 それはふとした拍子、ささいなきっかけ――先ほどのクラスメイトとのやりとりもそれに該当する――で目覚めて心の水面に浮上してくる。
 小さくため息をつきながら、まどかは再び窓の方へと顔を向けた。
 窓が鏡のように反射し、うっすらとまどかの顔を映し出す。
 肩に届くか届かないかという長さの少し癖のある黒髪。他人から色白とよく評される薄い色をした肌。くりっとした丸い目と決して高くはない鼻、赤みがかった唇。世間一般的には可愛いという部類に入るであろう造形。のどかと瓜二つの顔。
 血の繋がった姉妹なのに……まったう同じ顔をしているのに……私たちはこんなにも違うのだろう。まどかは自分の顔を見るたびにそう思ってしまう。でも、今はそれだけではない。
 どうして私と違ってあんなにも明るいのどかが、病気でもないのに引きこもり、人との関わりを断とうとしているのだろう。のどかが変わってしまってから、まどかはいつもそのことばかりを考える。



 とある昼下がり。雑誌のページをめくる音しかしない暗く静かな部屋に、電話の音がけたたましく鳴り響いた。
 ユウはページをめくる手を止め、テーブルを挟んだ先にあるソファで仮眠を取る葉子の方に目をやる。うるさいくらいの呼び出し音にも関わらず、葉子はピクリとも動かない。
 出なくていいのか? とユウが問おうとしたところで、目をつむったままの状態で葉子は口を開いた。
「ユウ、出ろ」
「俺の仕事は吸血鬼狩りで電話番じゃないんだが」
「この事務所にいる限りあんたは狩人兼雑用係だよ。上司の命令くらいしっかり聞きな」
「平日の真昼間からソファで惰眠を貪るような女を上司とは思いたくないね」
 と、憎まれ口を叩きながらも、ユウは気だるそうに立ち上がって受話器を取りに葉子のデスクへと近づく。
「うるさくて眠れないからどうでもいい電話だったら手早く済ませてちょうだい」
「本当、嫌になる上司だな」
 そう言って、ユウは受話器を取った。
「はい、もしもし」
『おう、もしもし。大藪だ。その声はユウか?』
 野太く、低い声が受話器からユウの耳に入り込む。電話の相手は葉子の古い友人で、同業者の大藪だった。
『いやあ、横矢の件では迷惑かけたな。久々に有望な新人を捕まえられたと思ったんだが、まだまだ若かったみたいだ』
「こんな仕事なんだ。有望な新人が簡単に出てきたら逆に恐い」
『確かにな』
 がっはっは、と大音量の笑い声だ受話器から響き、ユウは少し顔をしかめる。本当に謝る気があるのか、と言いたくなるがやめる。
『葉子は留守なのか?』
「いいや、だらしない格好で昼寝をしてるよ」
『ならよかった。すぐに変わってくれ』
「了解」
 そう言って受話器を顔から話すと「葉子、大藪からだ」とユウは葉子に電話を変わるように頼む。
「どうせ大した話じゃないだろう。いい居酒屋を見つけたから飲みに行こうだとか、その程度だ。適当にあしらって電話を終えてくれ。大藪の声はこっちまで響いてきて耳障りなんだ」
 迷惑だとばかりに葉子はそれを拒否。やれやれという言葉を飲み込み、ユウはまた受話器を顔に近づけた。
「あんたの声は耳障りだから聞きたくない、とうちの上司がおっしゃってるが」
『相変わらず面倒な女だな。果てしなく面倒くさい』
「まったくもって同意だよ。で、どうするんだ」
『代わりにお前に伝えるよ。ちょっとこっちの地区の手伝いを頼みたい。最近横矢の代わりが教会から派遣されてきたんだが、てんで使えない若造でな。あっさり死んじまいやがった。だから代わりにお前にこっちの仕事をやって欲しいんだ』
「俺は全然構わないが」
『今すぐ葉子に伝えてくれ。仕事の話なら飛び起きるだろう』
 大藪に言われた通り、ユウは今の話をそのまま葉子に伝える。すると、だらしなく寝転がっていたにも関わらず、異様な俊敏さで起き上がり「仕事の話だったらすぐに代われ」とユウに言ってそのまま受話器をむしり取った。
 葉子はそのまま受話器に向かって「いつの話だ?」「なんでもっと早く連絡を入れない?」「被害者が出たらどうする?」など次々とまくしたて始める。
 デスクを離れたユウはそのまま仕事の準備を始める。
 少しして、葉子は電話を終え、ユウの方へと向き直る。
「仕事だ。準備は……できてるね」
「さっきのぐうたらした態度とは大違いだな」
「無駄口叩いてないで、早く大藪の事務所に行きな」
 葉子の突き刺さるような視線を受けながら、ユウは杭の入った袋を背負うと「了解した」と静かに答えた。
 四人掛けテーブルの上には白米が盛られた茶碗とハムエッグが載った小皿、緑茶の入った湯のみがそれぞれ二つずつ置いてあった。
 座っているのは二人。まどかとその母親だ。父親は単身赴任により不在。のどかは今日も部屋から出てこない。テーブルの半分は何も置かれず、そして誰も座らず、まどかは何とも言えぬ寂しさを感じていた。
「のどか、今日も部屋から出てこないね」
 まどかは自分の対面で緑茶をすする母親に声をかける。
「ママはのどかから何も聞いてないの?」
 まどかの問いを受け、母は目を伏せながら箸を止める。
「部屋に閉じこもり始めた日に、もう何もしたくないって聞いてからそれっきり。のどかは私に何も話してくれないの。あとは自分の食事の他にもマルの餌も一緒に用意するように言われたくらいかしら」
 マルは南條家の飼い猫だ。のどかはマルと一緒に部屋に籠っていた。昔からマルを一番可愛がっていたのはのどかだった。傷心していると思われる今も、一つの心の拠り所として一緒にいるのではないか、とまどかは考えていた。
「パパにはのどかのこと話してあるの?」
「前に電話をしたけど、思春期にはよくあることだ、その内自分から話すだろうって。忙しいからってそれだけしか言ってくれなかったわ」
「ママはどうすればいいと思ってるの?」
「私は……」
 まどかの強い口調に、母は言葉を詰まらせた。少しの沈黙の後、母ではなくまどかが先に口を開いた。
「私はね、無理やりでも事情を聞いた方がいいと思う。のどかが引きこもるなんて、正直今でも信じられないよ。無理矢理でものどかを助けてあげないと……」
「待ってみましょう」
 母は目を伏せながら小さく言った。
「もう少しだけ、もう少しだけ待ってみましょう。のどかが自分から話してくれることを」
 まどかは母から目をそらすと、彼女の言葉に返事をすることなく、まだ少し食べ物が残っている茶碗と皿を片づけて自室へと戻った。
 部屋の机上には昨夜の内に準備をしておいた鞄が置いてある。時計を見ると、いつも家を出る時間よりも少し余裕があった。
 まどかは一度自室を出てのどかの部屋の前に立つ。そして昨日と同じよう、扉を数回ノックした。
「おはよう、のどか。今日も休むの? クラスのみんなが心配してたよ」
 やはり返事はない。
「メールだって返してないんでしょ? ダメだよ、ちゃんと返事をしないと」
 まどかの言葉に対して、返ってくるのは沈黙だけ。毎朝まどかはこうして声をかけているが、何も変わらない。
 ――もう少しだけ待ってみましょう。
 つい先ほど聞いた言葉が母の顔と一緒にまどかの頭の中に浮かぶ。少し目を伏せてまどかは歯を食いしばる。そして覚悟を決めたのか、右手を部屋の扉へと伸ばした。
 ドアノブを回す。そして少しだけ力を込めて開けようとするが、案の定扉は中から施錠されており開かなかった。
 もう一度ノックをしようか、と思ったのとほぼ同時に部屋の中から扉に向けて何かが叩きつけられた。その音にまどかは驚いて一歩後ずさってしまう。
 あまり大きな音ではなかたから叩きつけられたのは枕やぬいぐるみといった柔らかいものだろう。だが、叩きつけられた物自体はどうでもよかった。その行為自体に、まどかはのどかからの拒絶の意思を感じ取ってしまった。
 小さな覚悟は簡単に砕けて消えた。
「ごめんね」と小さく謝ると、まどかは逃げるように自分の部屋に戻り、鞄を取ると階段を駆け下りていった。
 先ほどの音が聞こえたのだろう。階段を下りた先には母が立っていた。何か言いたそうな表情を浮かべていたが、まどかは彼女に目を合わせずに「行ってきます」とだけ言って家を出ていった。


「今日ものどか休みなんだ」
 教室に着くや否や、昨日と同じ女子たちがまどかの元へと寄ってきた。
「うん。ごめんね」
「まどかちゃんが謝ることじゃないよ。ねえ」
 彼女らは次々と頷く。
「あのさ、お見舞いに行っちゃ駄目かな?」
「えっ……えっと……」
 まどかは言葉を詰まらせる。もし彼女たちがお見舞いに来てものどかは絶対に部屋から出てこないだろう。だからここは断るべきである。しかし、どういう理由で断らせるか、まどかは思いつかなかった。
「来てもいいけど……のどかは出てこな――」
 何を言ってるのだ、とまどかは思い直し、勝手に動いていた口を止めた。馬鹿正直に言ってどうするのだ、ちゃんと理由を考えろ。のどかの現状をみんなに知られるわけにはいかないのだ。のどかのためにも。
「行っていいの?」
「……ごめん、やっぱ駄目。まだ調子悪くてずっと寝続けてるんだ」
「そんなにひどい状態なの?」
「うん、私も詳しいことは分からないんだけど……。で、でも来週にはきっと学校に来れると思うから」
 根拠は何もなかった。その場しのぎの言葉だ。今のままでは来週になってものどかは引きこもったままだろう。まどかや母が何もしようとしない、今のままでは。
「だから、ごめんね」
「そっか。のどかに早く体調良くしろよーって言っておいてね」
「うん、ちゃんと伝えるね」
 まどかの返事と同時に教室の扉が開く。担任が入ってきたことに気付き、クラス中の生徒が自分の席に戻っていく。
 朝のホームルーム。昨日のようにまどかは姉の欠席を伝えた後、担任が諸連絡を伝え、ホームルームが終わる。が、今日は少し違った。
「そうだ、最後に一つ。最近、このあたりで動物が殺される事件が何件か立て続けに起きている。何かに噛まれたような傷が残っているらしく、犯人は人間ではなく野良犬のような動物の可能性が高いそうだ」
 突然の猟奇的な事件の話に、教室が少しざわつく。
「夜中、人が寝静まった頃を狙うようなので、ペットを飼ってる家庭は、夜のうちは家の中にペットを入れるなどをして対応するように。いやあ、恐いもんだ。それじゃ、ホームルームは終わり」
 ざわつきが残ったまま、ホームルームが終わる。クラスの話題は今の事件の話でもちきりとなった。
 うちはマルがいるけど、ずっとのどかの部屋にいるから大丈夫かな、と他人事のように――実際他人事だが――まどかは考える。
 それよりも、のどかのことをどうするか、それを考えなければ――。まどかの意識は一日中そちらへ向くことになった。



 夜の闇に溶けながら、ユウは携帯電話を片手に住宅街を駆けていた。
 葉子の吸血鬼探知能力を頼りに、ゆっくりとだが着実にターゲットへと近づいていく。
『だいぶ近づいきたね。気を付けな、敵は複数いるよ』
「いったい何人だ? 両手で数えきれないほどの人数だったら銃器が欲しい」
『安心しな。片手で数えきれる程度だよ』
「なら問題ない」
 ユウの基本装備は銀のナイフ複数個と止めを刺すための木の杭だけ。基本は白兵戦となる。いくら戦闘能力が吸血鬼に匹敵する高さのユウでも大人数の相手は避けたいところだった。
 状況の変化に備えて通話は続けたまま、しかし無言でユウは駆け続ける。対吸血鬼の狩人として鍛え上げられた身体は息一つ乱していない。
 突如、女性の悲鳴が聞こえた――かと思うとすぐにそれは消失した。まるで途中で口を押さえられたかのように。
「戦闘に入る」
 ユウは携帯電話を切ると、ポケットにしまって代わりにナイフを取り出し、悲鳴が聞こえた方へと全速力で向かう。
 曲がり角を曲がると、前方に路地裏へと引きずられる女性と吸血鬼と思われる男性数人を見つける。
 ユウは気配を消してナイフを構えると、相手を見極める。女性の足を持つ小太りの男の口がニヤリと開き、伸びきった犬歯を目視する。その瞬間ユウはナイフを投擲、閃光のように飛ぶ凶器が男の右腕に突き刺さった。
 男の醜い悲鳴が響き渡る。仲間の吸血鬼が一斉に路地裏から出てきた。肩まで伸びた髪が特徴的な長身の男、岩のような顔をした坊主の男、逆立った金髪と眼鏡の男、ナイフを刺した男を合わせて全部で四人だ。
 ユウはさらに二本のナイフを投擲。腕を刺した男とは別の二人、長身の男と坊主の男を狙う。二人の胴体に吸い込まれるように飛んでいたナイフは金髪眼鏡の男が手に持っていたレンチで弾き返された。
「お、おい。また狩人じゃねえか」
「前のやつより強そうだぞ」
 ナイフで狙われた二人は、早くも恐怖にとらわれ、後ずさり始めている。
「おい、何ビビってんだ!」
 金髪眼鏡の男が二人に叱咤する。が、効果は薄かった。
 長身の男が傍らに倒れている小太りの男を見る。右手の肘から下が溶け、灰と化していることに気付き、表情が完全に引きつる。そして前方でユウが新たに取り出したナイフが街灯に照らされて光ったのを見ると、その場から逃げだした。それに続いて、坊主の男も後を追いかける。
「おいてめえら!」
 金髪眼鏡の男が叫ぶが二人は止まらない。憎々しげな表情を浮かべると。彼は倒れている小太りの男の頭を掴んで自分の方へと向かせる。
「てめえはもう捨てる。時間稼ぎでもして最後くらい役に立ちな」
 小太りの男の目を数瞬見つめると、金髪眼鏡の男もその場から逃げ出した。
 ユウは高速で接近しながら三度ナイフを投擲。しかし金髪眼鏡の男は完全に見切っているのか、それをまたレンチで防ぐと、風のように駆けていく。
 ユウは一瞬で思考を巡らせ、ナイフで小太りの男の足を刺して行動不能にしてから残りの三人を追うことにする。
 小太りの男にナイフを突き出そうと手を振り上げるが、先ほどまで倒れていた場所から彼が消えたことに気付き、動きを止める。その直後、ユウは下から突き上げるような衝撃と共に大きく吹き飛ばされ、地面を数回跳ねて転がった。
 ユウは腹部を抑えながら体勢を整える。眼前には右腕を失った小太りの男。ラグビー選手のように低く構え、戦闘態勢を取っている。先ほどまで痛みに顔を歪めていたのに、今の彼は荒い呼吸を繰り返しながら、無表情でユウを見据えていた。
 手負いの状態から、あのようなタックルを繰り出せるとは思えない。ユウはナイフを構えながら考える。しかし、腹部の痛みが思考能力を鈍らせる。
 小太りの男は小さなうめき声を上げると、再びユウに向かって突進する。その体型に見合わぬ瞬発力とパワーでユウとの距離を一瞬で詰める。
 ユウは慌てて右方に飛んで避けようとする。しかし、予想外の速さと腹部に残る痛みが判断力を鈍らせたのだろう、右方へ飛んだのは完全なミスだった。
 小太りの男は唯一空いている左手で、避けようとするユウの左手首を掴んだのだ。左方に飛んで避けていれば掴まれることはなかっただろう。ユウは舌打ちをすると、数瞬後に来るであろう衝撃への覚悟を決めた。
 怪物じみた腕力でユウは振りまわされ、地面に叩きつけられる。学生時代の体育の授業で少しだけやった柔道の受け身を思い出して実践した。痛みが軽減できたのかどうかユウには分からなかったが、意識があり身体はまだ十分動くことを確認すると、ナイフで小太りの男の手首を切り裂いた。
 小太りの男の手が溶けてユウは解放される。すぐに起き上がるとナイフをしまって代わりに気の杭を取り出す。
 眼前に立つ男は手首を切られた痛みすら意に介していないようだった。両目は虚ろで、相変わらず荒い呼吸を繰り返している。
 ユウは木の杭を右手で持つと、静かに小太りの男を睨んだ。男が再び猛牛のように頭から突進してくる。
 今の男は相手を掴む手がない。さらに、相手の動きに多少慣れたことにより驚きで動きが鈍ることもない。あるのは身体の痛みだけ。ユウはそれに耐えるだけでいい。
 二人は肉薄。だがユウは寸でのところで左方に飛んで避ける。眼前には電柱。ユウはそれを思い切り蹴ると高く跳躍、上空から男を見下ろすと、その背中に向かって木の杭を突き刺す。
 全体重と重力を乗せた一撃は、易々と男の背中を貫いた。切っ先は心臓を容赦なく抉り抜ける。
 男は動きを止めると、そのまま生命活動が停止。傷口からゆっくりと溶けていき、血と灰だけになった。
 ユウは灰の中から核を拾い上げて一息つくと、そのまま地面に座り込んだ。


 掃除屋が後始末をしている後ろで、ユウは先ほどの戦闘で得た情報を葉子に伝えていた。
「発見した吸血鬼は四人。確かに片手で数えられる人数だった。内一人を殺して残りは逃げられた」
『そうみたいだね。反応が一つだけ消えたのが分かったよ』
「逃がした三人のうち一人は強力な魔眼を持っていた。催眠と脳のリミッターを外す能力だと思われる」
 ユウは先ほどの小太りの男が、仲間の金髪眼鏡に魔眼で操られていたことに気付いていた。
 またその能力を戦闘を通して推測していた。怪我により戦意を喪失していたにも関わらずユウに襲いかかったことから一種の催眠能力、そして怪我の痛みを無視して外見に伴わない瞬発力と腕力を発揮していたことから脳のリミッターのようなものを外して限界まで身体を酷使させる能力の二つだ。
『なるほどね、中々厄介だ。残りも一人でなんとかなるか?』
「まあ、大丈夫だろう。三人程度なら問題ない」
『あっ、言い忘れてたんだが残りは三人じゃないよ』
「どういうことだ」
 ユウの表情が変わる。
『お前が見つけた集団の他にもう一人』
「奴らの被害者、か」
 運の悪い被害者が――血を吸われた時点ですでに運が悪いのだが――吸血鬼として覚醒してしまった、そういうことだとユウはすぐに理解した。
『まあそう考えるのが妥当だろう。残り四人頼むよ』
「お前の探知能力次第だがな」
 ユウはそれだけ言うと、通話を切る。掃除屋も後始末を終え、記憶を封じた女性を運んでいる所だった。



 暗闇の中で何度も何度も寝がえりをする。何ともいえぬ寝苦しさと喉の渇きでまどか思わず上体を起こす。
 時計に手を伸ばし、画面を発光させて時間を確認する。時刻は深夜三時を回っていた。早く寝ないと朝が辛いだろうな、と思ったまどかは一度水分を補給するために起き上がる。
 それと同時に扉の向こうで物音。部屋の扉が開く音だった。そして小さな足音が響いた。それは階段の方へと少しずつ遠退いていく。
 のどかが部屋から出てきた――。まどかの中に衝撃が走った。今がのどかと話をするチャンスなのではないか。
 まどかは静かに部屋を出ると静かにゆっくりと階段を下りていく。
 水道の水が流れる音。のどかは洗面所にいるようだった。まどかは意を決してのどかの方へと向かう。
 洗面所からは明かりが漏れている。扉は開いたままだ。
「の、のどか……?」
 そっと、まどかは洗面所の中を覗きこんだ。そして、言葉を失った。
 確かにそこにはのどかがいた。淀んでおり力のない目、頬はややこけており、口元から異様に伸びた犬歯が覗いている。髪の毛は何も手入れしていないのか、ぼさぼさで醜さが感じ取れた。それはたしかにのどかだったが、容姿は変わり果てていた。
「のど……か……?」
 まどかの呼びかけで、必死に口元をゆすいでいたのどかがまどかの方を向いた。そしてもう一度、まどかは絶句。力なくその場にしゃがみ込んで、そのまま意識を失った。
 のどかの喉元、衣服、そして水道は真っ赤な血に染めらていた。赤色が混じった水が排水される音だけが静かに響いていた。

20, 19

  

 まどかは授業中の教室の扉を開いた。生徒たちの視線が一斉に彼女の方へと集まり、教師の声がピタリと止まる。自分にクラス中の人間の視線が集まっていることを感じ、後ろから教室入るべきだったかな、と少し後悔した。
「すみません、遅刻です」
「担任には言ってあるの?」
「さっき職員室に寄って言ってきました」
「じゃあすぐ席について。教科書は三十ページね」
「は、はい」
 そそくさとまどかは自分の席へと向かう。その頃には、クラスメイトたちの視線は黒板やノート、教科書へと戻っていた。
 まどかは必要なものを鞄から机上に出すと、教科書だけを開いてすぐに窓の方へと顔を向けた。大空に広がるどんよりとした雲が自分の心の中のもやもやと重なり、まどかは不思議な気持ちになる。
 私が昨夜見たものは一体何だったのだろうか。まどかは目を閉じてそれを思い出す。
 恐いほどにやつれていたのどか。目は淀み、頬はこけ、髪は山姥のように乱れていた。そして、人間とは思えないほどの長さに伸びた犬歯。衣服についた血痕。あれではまるで怪物……吸血鬼みたいだ、とまどかは思った。
 だけど、そんなものこの世に存在するわけがない。ましてや妹であるのどかがそんなものになるなんてありえない、ありえてはならない。まどかの理性が吸血鬼という存在、そして妹がそれであるという仮説を拒絶する。
 だから、まどかは昨夜見たものを夢だったと思うように自分に言い聞かせていた。事実、朝は自室のベッドの上で目を覚ました。昨夜見たものが現実なら、その場で気を失ったから自分の部屋にいるのはおかしい。だからあれは夢なのだ、と。
 しかし、脳内のどこかにいる冷静な自分が、あの後のどかが部屋まで運んでくれた可能性もあるではないかと反論し、まどかはそれを夢だと信じきることができなかった。
 今朝、家を出る前にのどかに尋ねてみればよかったのかもしれないが、まどかは何も言わずに学校へ来た。聞けるわけがないのだ。あんなことを本人に。
 夢か現か――思考が堂々巡りしたまま、時間だけが過ぎていく。



 夜は吸血鬼が世界を闊歩する時間だ。そして、同時に怪物殺しの狩人が仕事を行う時間でもある。
 ユウは携帯電話を片手に夜の街を駆けていた。この街にいる四人の吸血鬼、その内の一人――四人の中で一番近い場所にいる――を狩るべく、葉子の指示に従い指定の場所へと向かっていた。
 狙うは昨夜邂逅した吸血鬼集団に襲われ、吸血鬼化されてしまった被害者。その者に罪はないが、どんな理由があれど吸血鬼を殺すのが狩人の仕事である。
 キィという金属が軋む音を聞き取り、ユウはその音が鳴った方へと向かう。音の発生源は小さな金属製の門だった。それが開かれたときに音が鳴ったのだろう。そして、すぐそばには少女が一人立っていた。その衣服は血に濡れている。
 まだ中学生くらいだと思われる小柄な少女。可哀想にな、と思いながら――思うだけで殺す意思に変わりはないが――十字架を取り出す。
 十字架に着いているチェーンがじゃらじゃらと音を鳴らし、少女もユウに気付く。そして十字架を視認すると同時に自分が出てきた門の中へと逃げ出した。
 十字架で確かめるまでもなかったか。ユウはナイフも取り出して少女を追いかける。吸血鬼なだけあって少女の逃げる速さは中学生とは思えないほどのものだった。
 門を通って庭に入る。すぐ近くに犬小屋と、血まみれで首元に抉ったような傷がある犬が倒れていた。この犬の血を吸っていたわけか、とユウは一人納得する。
 少女は異様な跳躍力で塀に飛び乗り、さらにそこから隣の家の屋根へと上り、駆けていく。ユウも、逃がすまいと鍛え上げられた身体で彼女の動きについていく。
 少女は数軒の家の屋根を駆け抜けた後、地上に飛び降りて小路へと入っていった。
 ユウもそれに続いて地上に飛び降りる。するとそれを待っていたかのように少女が入った小路とは別の場所から何かが撃ち出され、ユウの左腕に突き刺さった。その直後に咄嗟の判断でそばにあった自動販売機の陰に隠れる。すると何かの発射音も止まった。
 ユウは自分の左腕部を確認する。釘が三本、二の腕に突き刺さっていた。他にもコートの裾に何本が釘が刺さっている。
「そこで隠れてるんだろうハンター」
 聞き覚えのある声が、暗闇から発せられた。ユウは自動販売機の陰から声がする方を覗き見る。そこには三人の男が立っていた。昨夜逃がした吸血鬼たちだ。真ん中にリーダー格の金髪眼鏡の男。その手にはネイルガンが握られていた。これを用いて遠距離からユウに釘を発射したのだろうそして左右には仲間がマチェットを持って並んでいた。
「さっきお前が追ってたガキ。この前俺らが輪姦して血を吸ったやつじゃねえか。あいつも吸血鬼になったんだな。確かに俺が犯したときは処女だったよ」
 真ん中に立つ金髪眼鏡の男が笑いながら言う。
「まあ、あのガキのことはいい。今回はよ、俺らがお前を狩ることにした。追われ続ける立場でいるのは癪なんでな」
 狩るべき獲物が攻めに転じてくることをユウは想定していなかった。三対一という数の差。相手がただの吸血鬼だったらユウは難なく殺すことができただろう、今回は相手が三人とも武装しており、さらに内一人は飛び道具を持っている。左右の二人は昨夜の殺した吸血鬼のように身体能力が跳ね上がっていることが予想される。そしてユウの左腕の怪我、未だ残っている昨夜の戦闘のダメージ。明らかに不利な状況だった。 
「行け」
 金髪眼鏡が、左右の仲間に指示を出す。まず右にいた長身の男が全速力でユウの元に突進してきた。自動販売機ごとユウを弾き飛ばすつもりなのだろう。
 ユウは自由に動く右手でナイフを握ると、ギリギリまで引きつけてから自動販売機の陰か飛び出す。右方で自動販売機が歪みながら宙に浮く。ユウは前方を注視しながら走る。ネイルガンを構える金髪眼鏡とマチェットを持ってこちらに襲いかかる坊主の男を確認。
 金髪眼鏡がネイルガンを構えて連射。ユウは身体を低くして掻い潜るようにして回避。あえて自ら坊主の男の対面へと向かう。
 この時点でネイルガンの射線にユウと坊主の男が重なる。金髪男は舌打ちをしながらネイルガンの連射を止めた。
 ユウと坊主の男が肉薄。坊主の男は常人では視認できない速度でマチェットを横に薙ぐ。しかし、ユウはそれをスライディングの要領で回避。そのまま坊主の男の股をくぐる。
 金髪眼鏡はユウの回避方法を読んでいた。坊主の男の足元を狙ってネイルガンを連射する。しかしユウもまた、彼がこちらの回避方法を読むことを読んでいた。坊主の股の下をくぐる直前にコートを脱いでおり、くぐり抜けたと同時にそれを自分の前面に広げ、釘から身を守る盾にする。釘は次々とコートに突き刺さるが貫通することはなかった。
 ユウは広げた滞空するコートの陰からナイフを投擲。金髪眼鏡は回避行動を優先させ、釘はユウがいる場所――正確にはコートがある場所だが――から離れたところを飛んでいった。ナイフは命中しなかったが、その隙にユウは起き上がって前に飛び出すと、もう一度ナイフを投擲した。万全の体勢で放たれたそれは見事ネイルガンを直撃。金髪眼鏡の手から弾き飛ばす。
 杭を右手に持ち、ユウは金髪眼鏡に接近。止めを刺さんと杭を振りかぶる。しかし、すぐ後ろから強い殺気を感じ取り、咄嗟に左方に跳躍。直後にユウがいた空間をマチェットが縦に切り裂いた。先ほど自動販売機に突進してきた長身の男だった。
 ユウは長身の男を一瞥すると、すぐに視線を金髪眼鏡に戻した。そしてネイルガンを拾おうとしている彼を目がけてナイフを投擲。怪我をしている左手によるものだったため、命中はしなかったが、相手の動きを止めるのには十分だった。
 金髪眼鏡はユウがあくまで自分だけを狙っていることに気付いたのだろう。舌打ちをすると、ネイルガンを拾うことを諦めてこの場から逃げ出す。
 ユウはそれを追いかけるが、今度は長身の男と坊主の男の両方が同時に攻撃を仕掛けてきたために、それを断念。回避に専念した。


「糞が……」
 闇夜を駆け抜けながら、金髪眼鏡は悪態をついた。あのハンターは強い。そしてある程度頭も切れる。ここまでとは思わなかった。前に現れたハンターとはえらい違いだ。
 昨夜の戦いで魔眼の能力を見抜かれ、今夜の戦闘では他の二人にかけた魔眼の効力を解くために戦闘中は自分を執拗に狙ったのだ。金髪眼鏡はユウの狩人としての腕を認め、そして同時に憤怒した。
 人間を超える力を手に入れたのに、人間相手にしてやられる羽目になるなんて……!
 ふらふらと歩きながら、近くに止まっていた自転車を思い切り蹴り飛ばす。自転車はひしゃげて地面を転がった。
「まあいいか。魔眼でリミッターが外れた吸血鬼を二人同時に相手にするのはどうせ無理だろう。最初から俺が参加する必要はなかったんだ」
 金髪眼鏡はタバコを取り出すと、火をつけて一服する。先ほどまで激昂していた感情が少しずつ納まっていく。
「それよりも……」
 戦闘に入る直前にユウが追っていた少女を思い出す。数日前に仲間と輪姦して、血を吸った少女。まさか吸血鬼になっているとはな。金髪眼鏡はクククと笑い声を漏らす。
「俺が血を吸って吸血鬼になって事は、俺があのガキの主人ってことだよなァ」
 古来の吸血鬼の主従関係で言えば、金髪眼鏡は少女の親ということになる。
「手下が一人減ったところだし、ちょうどいい。それに可愛らしい顔をしたガキだったな」
 金髪眼鏡はタバコを捨てると近くのベンチに座り込んだ。そして下品な笑みを浮かべたまま静かに目を閉じた。


 意識を極限まで集中させて、ユウは二人の吸血鬼の攻撃を避け続ける。脳のリミッターが外れている二人は、単純な身体能力だけならば以前戦った真祖に匹敵した。一瞬の油断が死に繋がる状況と言えた。
 極限まで五感を研ぎ澄ませて集中力を切らさないようにしながら、ユウは冷静に相手をどう始末するか、思考する。
 現在の装備は右手に持った杭と胴体に括りつけられているナイフホルダーに収納された銀製ナイフ二本。そして銀製の十字架のネックレス。
 十字架は論外。ナイフは確実に相手の身体に損傷を与えることができるが、痛みを感じない相手には効果が薄い。部位を切断するには十分だが止めを刺すのは難しい。やはり心臓に杭を打ち込むのが確実だ。
 問題はどうやってそれを実行するか。昨夜は相手が一人だけだったために可能だったが、今回はそう簡単にはいかない。
 左右から同時に斬りかかられて、ユウは後方倒立回転、いわゆるバク転の要領で回避する。しかし直後に長身の男が肩を突き出して突進。ユウは跳躍すると、両足を相手の肩に合わせる。そして最大限まで脱力して衝撃を吸収、絶妙なタイミングで相手の肩を蹴って後方へと飛んだ。
 空中で一回転して着地。ユウは杭を左手に持ち替えると、傍らに落ちていたネイルガンを拾い上げた。
 長身の男の後ろから坊主の男が跳躍。ユウの頭上からマチェットを振り下ろす。ユウはすぐに距離を取ると同時にネイルガンを発射。坊主の男の顔面に何本もの釘が突き刺さる。何本かが彼の両目を突き破り、視力を奪った。目から血を流しながら、坊主の男はきょろきょろと頭を振る。
 さらに長身の男の顔面にもネイルガンを撃ちこもうとするが、数発発射した時点で弾切れを起こす。釘は長身の男の耳と頬を貫いただけだった。
 一人の視力を奪えただけ上出来だ。ユウは用済みとなったネイルガンを自分の後方へと投げつける。地面を跳ねる音に反応し、坊主の男はネイルガンの方へと飛び付く。
 短時間ではあるが、ユウは長身の男との一対一に持ち込む。
 長身の男は既にマチェットを振りまわしながらユウに接近していた。素早いバックステップを繰り返して剣戟を回避し続ける。
 しかし、あっという間に背中が電柱にぶつかり、これ以上後退できなくなる。ここぞとばかりに長身の男が必殺の一撃を振り下ろした。
 甲高い音が闇夜に響き渡る。ユウは身体を低くして攻撃を回避、マチェットの刃は電柱に弾かれた。馬鹿げた早さで振りまわされ続けていたマチェットの動きがそれにより一瞬止まる。ユウはその隙を見逃さない。素早くナイフをホルダーから引き抜き、長身の男の右手首を引き裂いた。
 いともたやすく引き裂かれた手は、マチェットを握ったまま宙を舞う。
 長身の男は警戒したのか距離を取ろうとする。しかし、ユウはすぐさま杭とナイフを持ちかえて投げ槍のように前方に飛ばした。そして同時に前方へ向かって跳躍。
 杭の先端は長身の男の胸部に当たる。銀製武器のようにたやすく傷を与えることはなかった。だが、ユウは飛び蹴りの要領で杭を男の胸部へと押し込み、そして貫いた。
 長身の男はその場に膝をつき、そのままくずおれた。杭を引き抜くと、その傷口から徐々に男が溶けて灰になっていく。確実に殺したことを確認して、ユウは残り一人の方へと視線をやった。
 視力を失ったため、無暗にマチェットを振りまわし続ける坊主の男。狙いは適当だが、先ほどの戦闘の音を聞いたためか、確実にこちらへと向かってきている。
 ユウはまたナイフと杭を持ちかえると、静かに坊主の男の右足首へと投擲。命中したそれが腱を裂いたのか、坊主の男は身体のバランスを完全に崩す。さらにもう一本ナイフを投擲。今度は左足首に命中し、彼は完全に歩行不可能となった。
 地面に転がりながらマチェットを振りまわし続ける坊主の男に静かに歩み寄ると、ユウは何も言わずに杭を背中から突き刺した。
 マチェットを振りまわす腕の早さが一瞬だけ早くなり、その数秒後に男は力尽き、そして灰となった。



 二階の窓から自分の部屋へと戻る。鍵をかけて、大きく息を吐き出すと、のどかはガクガクと震えながらその場にしゃがみこんだ。
 どうして……どうして私がこんな目に合わなくちゃいけないの!?
 見知らぬ男たちに強姦されたかと思えば、彼らは吸血鬼という化物で、血を吸われて自分も吸血鬼になって、挙句の果てに命を狙われる羽目になる。
 のどかは自分を追ってきた黒コートの正体は分からなかったが、十字架を持っていたこと、ナイフを持って追いかけてきたことから吸血鬼である自分を殺そうとしているのではないかと考えてた。
 吸血鬼になったことに気付いた時点で、のどかは一度精神がめちゃくちゃになった。喉の渇き、鮮血への渇望という本能がのどかの中で吸血欲求としてうごめくことで精神状態が多少まともになったが、次は命を狙われるという危機に晒されて、再び狂ってしまいそうになっていた。
 さらに、今のどかの頭の中では聞き覚えのある男の声が木霊のように響いていた。まるでテレパシーのような感覚。自分を犯した男の声。「こっちへ来い」と何度も何度も頭の中で繰り返されている。
 黒コートの男だけでなく、自分を吸血鬼にした男からも狙われている現状、のどかの精神は限界に近かった。そして、吸血欲求も。
 今までは動物の血を吸って耐え忍んできた。しかし吸血鬼は人間の血を最も欲する。この欲求は動物の血液だけで抑えきれるものではない。
 先ほどの全力疾走と極限状態による体力と精神の消耗が、のどかの吸血欲求を耐えきれぬほどに高めていた。
 また動物の血を吸いに行こうかと考えるが、今外に出たら再び黒コートの男や吸血鬼と遭遇する可能性がある。少しでも渇きをごまかそうと、のどかは一階へと降りていった。
 キッチンに向かうと、冷蔵庫を開く。血に近いもの……トマトジュースはないかと必死に探すが、あるのは麦茶と野菜ジュースだけ。少しでもごまかすことができれば、とペットボトルに入った野菜ジュースを身体に流し込む。
「のどか……?」
 心配と恐怖が一緒になったような声が、のどかの横から発せられる。そこに立っていたのは母だった。
 どうしてこんな時間に起きているの……。のどかは今の自分の姿を見られて戸惑った。
 そんな彼女の心情を見透かしたかのように、母は言う。
「のどかが夜中に外に出ていったのに気付いたから、起きて待ってたのよ」
 少しためらった後、母は一歩前に踏み出した。のどかは思わずそれに合わせて一歩後退してしまう。
「ねえ、のどか。あなたに何があったの……。お母さんに教えて。のどかの力になりたいの」
 母はまたさらに一歩のどかに近づく。のどかも一歩後退。こっちに来ちゃダメ、と心の中で叫ぶが声に出すことができない。
「ねえ、のど――ッ!」
 言葉を途中で止め、母は口を押さえて驚愕。のどかの服に付着した血痕に気付いてしまったのだ。まだ乾ききっていない犬の血に。
 のどかも自分の服を見る。真っ赤な血がのどかの頭を強く揺さぶった。多少ごまかされていた吸血欲求が再び首をもたげる。
 のどかは視線を母に移す。驚愕と恐怖に塗り固められた表情、視線はさらにその下に。キッチンの明かりに照らされた白い首元。
 ゴクリ、とのどかは唾を飲み込んだ。
 ――吸いたい。
 犬歯が伸びるような感覚。本当に伸びているのか錯覚なのか、のどかは判断できない。
 ――飲みたい。
 柔らかい肉に歯が沈み、痺れるほどに美味な鮮血が口内を満たして喉を流れていくイメージが脳内に広がっていく。
 家族に手をかけてしまうのか。理性が必死に呼び掛けてくる。しかし、限界まで抑圧された吸血欲求は理性そのものを丸ごと飲み込み、のどかの脳髄を支配する。怪物となったもう一人の自分が、身体の支配権を奪っていく。
「もう駄目……」
 涙を流しながら、のどかは一歩前に踏み出した。
 
「最悪だ」
 金髪眼鏡は吐き捨てるように言った。
 最低最悪、俺はとことんついてない。彼はむしゃくしゃしながら自分のの隠れ家へと向かって走り続けていた。夜明けが刻一刻と迫り、焦燥感に押しつぶされそうになる。
 早くしなければ陽が昇って日光が己の身体を蝕む。だが、この焦燥感の原因はそれだけではなかった。
 自分の手下二人の反応が消えたのだ。
 彼らは金髪眼鏡が吸血して己の眷属にした吸血鬼だ。先ほどのどかに対して行ったように離れた場所にいても意思の疎通――いわゆるテレパシー能力――ができる。しかし、いくら彼らにテレパシー能力を行使しても反応がないのだ。自分の言葉が彼らの脳内に届いたという手ごたえを感じられない。
 それは手下二人の死を意味していた。それによって金髪眼鏡はユウが彼らを殺したこと、そして次は自分を殺しに来るということを悟る。
 ハンターが強いのは分かっていたが、まさかここまでとは思わなかった。俺も逃げずに戦い続ければよかったのかもしれない。と、金髪眼鏡は思ったがすぐ考え直す。いや、あのまま戦い続けていたら俺も殺されていた可能性の方が高い。途中で撤退したのは正解だった。
「糞っ……」
 それでも、完全敗北という結果は先ほどまでの少し高揚していた気分をどん底までたたき落とした。ハンターを始末した後、のどかを仲間に加え、この町で悠々自適に吸血鬼生活を楽しむという計画はすぐに消えてなくなった。
 生き延びるため、この町からすぐにでも出なければならない。しかし行動できるのは夜の間だけ、もうすぐ夜明けということは次の日没までのおよそ半日は隠れ家から出ることができない。その間見つからずに済むかどうか、こればかりは神様に祈るしかなかった。
 日が沈んだらすぐにこの町から出よう――そう思ったところで金髪眼鏡の脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
「あのガキをそのままにするのはもったいない」
 のどかを自分の配下に置きたいという欲望が再び首をもたげる。自身の命がかかっているという状況にも関わらず、醜い欲望は正直にその姿を現した。
 放置すればいずれハンターに殺されるだろう。だったら攫って自分の物にしてしまうほうがよっぽどいい。しかし、問題はのどかを攫う時間の余裕があるかどうか、ということだった。
 すぐに見つかるというわけではない。自分が血を吸って吸血鬼にしたからある程度の場所は分かるが、それでも多少は時間がかかる。その間にハンターに見つかる可能性は決して低くない。
「半日も考える時間があるんだ。すぐに結論を出す必要はないか」
 金髪眼鏡は五階建てのこじんまりとしたマンションの中に入る。その中の一室が自分の隠れ家だった。 
 扉を開くと部屋の中へ。窓からはほのかな明かりが差し込んでいた。



 のどかの眼前にいるのは愛すべき肉親、しかし今の彼女には美味しそうな餌にしか見えなかった。少しずつ、血を吸うべくにじり寄る。その歩みが遅いのは、ほんの僅かに理性が残っているからなのかもしれない。
 しかし、狭いキッチンの中では、いくら歩みが遅くてものどかが母のもとに辿り着くのはあっという間のことだった。
 のどかは思い切り母の両肩を掴む。吸血鬼化による怪力のせいで母の身体が大きく揺さぶられ、頭をぶつける。ゴンッ、という鈍い音と同時に母は気を失った。
 のどかは身体を震わせながら自分の口元を母の首筋へと近づける。伸びきった犬歯が肌に触れる寸前、少女の悲鳴が上がった。
 それに驚き、のどかは顔を母から離し、悲鳴が聞こえた方向へと向けた。
「のどか……?」
 キッチンの入り口でまどかが口元を押さえながら立っていた。恐怖と驚愕で、その表情は引きつっている。
 まどかの姿を見たからなのか、のどかの理性が徐々に戻っていく。吸血欲求を無理やり押さえつけ、多少は冷静に思考できるようになっていた。
「まどか……どうして……」
 心まで怪物と化した自分の姿を自分の分身とも言えるまどかに見られてしまった。理性が戻ったことにより言いようのないショック、絶望感がのどかを襲う。
 重すぎる沈黙が、場を支配する。


 どうしてこんなことになっているのだろう。まどかは倒れている母と犬歯が伸びて怪物のようになっている妹を見て、呆然としていた。
 階下の物音で目が覚め、もしやのどかが起きているのかと思い、まどかは一階に下りてきた。その考えは正解だったか、状況は思っていた以上に深刻なものだった。
 昨夜見たものは夢じゃなかった……。自分の理解を超えた状況で分かるのはそれだけ。どうしてのどかが吸血鬼のような容貌になっているのか、どうして母を襲っているのか、まどかには分からない。
 ならばのどか本人に聞くしかない。それだけしか真相を知る術はない。だが、まどかはクトを開くことができない。聞いてしまったら、もうお終いだという根拠のない感覚が彼女の脳内を覆い尽くす。
 口元を押さえて立ち尽くすまどか。頭を抱え、震えるのどか。気を失い倒れている母。
 重たい沈黙を破ったのはのどかの泣き声だった。
「もうやだ」
 その一言に含まれたのどかの絶望感が耳を通してまどかにも伝わってくる。
 私は何をしているのだろう。大切な妹がこんなにも苦しんでいるのに、突っ立っていることしかできないのか? まどかは自問自答。答えを出すよりも先に身体が動いていた。
 まどかは静かに手を伸ばし、のどかを優しく抱きしめた。のどかの身体の震えが直に伝わってくる。近くで見ればみるほど、のどかの変貌がよく分かった。特にかさかさになった肌はまだ中学生とは思えないものだった。
 かける言葉が思いつかず、まどかは無言のまま抱きしめ続ける。次第にのどかの身体の震えは小さくなり、身体の力も抜けていった。それと反対に、泣き声はさらに大きくなっていった。
「ねえまどか」
 声をしゃくりあげながらのどかはすがりつくように言う。
「どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないの?」
 のどかは答えられない。
「私はこれからどうすればいいの? 分かんない……分かんないよ」
 しかし、まどかはのどか以上に何も分からない。自分に何ができるのか、自分は何をすべきなのか。
「もう、嫌だよ。何もかもが嫌」
 のどかはまどかの服を掴むと、彼女を見上げた。やつれた頬、血走った目、乾燥した肌、伸びきった犬歯。
「お願いまどか。私を、私を――――」



 身体の節々が痛むが、ユウは自分の身体に鞭を打って探索を続けていた。先ほど殺した吸血鬼二人は掃除屋に後始末を任せて、休む間もなく仕事を続ける。
 狙うは少女の吸血鬼だった。先ほどの戦闘が終わった直後、すぐに葉子に連絡を入れ、二人の吸血鬼の居場所を探ってもらった。一番近くにいるのが少女の吸血鬼だということが分かり、夜明けまでの僅かな時間でユウは彼女を追うことにした。
 葉子の吸血鬼探知能力は陽が昇ることで精度が落ちる。できれば夜が明ける前にもう一人殺しておきたいと言うのがユウの心境だった。吸血鬼は簡単に増殖する。一つの仕事に時間をかけていられないのだ。
 葉子からの情報を元に走り続け、とある住宅街へと出た。時間が時間なだけあり、どの家にも明かりは灯っていない。当然人の気配もなかった。
 ユウは薄暗い住宅街を流し身しながら駆け抜けていく。突如、とある家の玄関の明かりが点いた。誰かが玄関から出てきて、それに反応して点いたのだ。
 こんな時間に外出する人は珍しい。もしやと思い、ユウは塀や電柱の陰に隠れながら明かりが着いた方へと近づいていく。
 そこにいたのは一人の少女だった。手には何かが入ったビニール袋を持っている。
 ユウは目を見開く。その顔には見覚えがあった。つい数時間前に見たばかり。自分が追っていた少女。つまり吸血鬼、狩るべき標的。
 目にもとまらぬ速度で、ユウは少女の目の前に姿を現す。その右手には既に銀のナイフが握られていた。
 突如現れた黒衣の男に、少女は悲鳴を上げて腰を抜かす。ユウはナイフを少女の首筋に当てた。
 そのまま首に突き刺そうとしたところで、ユウは異変に気付く。吸血鬼ならば銀製の刃が触れた時点で火傷のような症状が出る。しかし、少女は恐怖に震えているだけでナイフが触れた首筋には何の変化も見られないのだ。
 ユウは目を凝らして少女の姿を見る。先ほど追っていた少女と同じ顔なのは間違いないが、服装が違っていた。
 どういうことだ。ユウは静かにナイフを少女から離し、ホルダーへと収める。
 それと同時に、空に明るみが広がっていき、ほのかな日差しが二人を包み込み始める。
 まるで時間が止まったかのように、二人は動かなくなった。
22, 21

  

「――私を殺して」
 のどかの言葉で、まどかは思考を停止する。殺してという言葉の意味は分かる。だが、考えたくなかったのだ。
 まどかは呆然としたまま返事をしようとしない。のどかはそんな彼女の服を掴み、激しく揺さぶって、もう一度同じ言葉を投げかけた。
「お願い、私を殺して」
 二度目の願いは、揺さぶった際の衝撃と合わさったおかげか、まどかに思考を停止させることを許さなかった。
 実の妹が殺してくれと自分に頼んでいる。死という選択をしなければならないほど彼女は追い込まれている。まどかは改めてその事実と直面する。
 殺せるわけがない。どんな事情があろうと、妹を殺すことなどできない。考えるまでもない。それがまどかの答えだった。
 まどかは首を横に振り続け、のどかの願いを拒んだ。
「駄目……早くして。早く殺して! お願い!」
 のどかは引き下がらない。必死になりながら、まどかに訴え続ける。
「まどかも見たでしょ。私がお母さんを襲っているところ。もう自分じゃ抑えが利かなくなってきてるの。早くしないと……早くしないと私は人に手をかけてしまう」
 まどかが現れたおかげでかろうじて理性と保っているが、現在のどかはいつ限界まで高まった吸血衝動に負けて我を失うか分からない状態だ。
「でも、でも」
 それでもまどかは首を縦に振ろうとはしなかった。パニックを起こす寸前の脳みそで必死にのどかを助ける方法を模索するが、まだ子供で何も知らない彼女では思いつくわけがなかった。
 のどかは何も言わず自分を抱きしめるまどかに向けて、小さく言葉を紡ぎ始めた。
「……きっかけは数日前の夜」
 それは自分が吸血鬼になりこのような惨状を招いたこと理由。まどかが尋ねようにも尋ねられなかった出来事。

 夜道で四人の男に襲いかかられ、レイプされたこと。
 その後、リーダー格と思われる金髪で眼鏡をかけた男に血を吸われたこと。
 ショックで引きこもっている内に、吸血鬼化が進行し、日中は外出できない身体になってしまったこと。
 それに伴い吸血欲求が生じ始め、日々それに苛まれるようになったこと。
 ある日、欲求に負けてペットのマルの血を吸い、そのまま殺してしまったこと。
 さらに抑えがきかなくなり、夜中になると家を抜け出して飼い犬などの動物の血を吸うようになったこと。
 吸血鬼と化したことにより、それを狩る側の人間に命を狙われるようになったこと。
 自分を吸血鬼にした金髪眼鏡の男にも狙われ始めたこと。
 それにより心身共に消耗し、動物の血では我慢ができなくなってきたこと。
 そして、母親に手をかけようとしてしまったこと。

「私はこれ以上まともではいられない。それに、いつかは黒いコートの男……吸血鬼を狩る人間に殺されるか、私を吸血鬼にした男に攫われる」
 怪物へと成り果てるか、見知らぬ人間に殺されるか、全ての元凶で憎むべき男のモノへとなるか。それが、この先待っているのどかの末路。中学生の子供が迎えるにはあまりにもひどすぎる結末。
「そうなるくらいだったら、まどかに殺されたい」
 それがのどかの最後の望み。
 しかし、全ての事情を聞いてもなお、まどかは自身の答えを言わなかった。決心がつけられないのだろう。
「……ごめんね、こんなひどいワガママを言って」
 のどかは何も言わないまどかからゆっくりと自分の身体を離した。声に落ち着きが戻ってきており、表情も何か吹っ切れたようなものに変わりつつあった。
「改めて自分に起きたことを話したら、なんだか冷静になっちゃった。私はなんでこんなひどい状況にまどかを巻き込ませようとしてるんだって」
「のどか……?」
 まどかはのどかの変わりように戸惑いを感じ、閉ざしていた口を少しだけ開いた。
「私はすごい不幸な目にあった。だけど、まどかやお母さんはどうしても巻き込んじゃ駄目なんだよね」
 のどかは喋り続けながら、何かを探し始める。
「自分で死ぬ勇気もないのに辛いことを強要してごめんね。だけど、もう大丈夫」
 キッチンの明かりが反射し、のどかの手元で何かが光る。銀色に光る刃。のどかが探していたのは包丁だった。
「覚悟は決めたよ。私は辛いことがあったから自殺をした。この件はそれでお終い。迷惑はかけるけど、これ以上巻き込めないから」
 のどかは包丁の刃を自分の首に向ける。柄を握る両手は誰が見ても明らかなくらいに震えていた。のどかはまだ中学生なのだ。死と対面して、恐怖を感じないわけがない。
「駄目っ」
 まどかは慌てて立ち上がる。それと同時に、のどかは手を動かした。
「のどか!」
 自殺を止めようと、まどかは手を伸ばす。しかし、その手がのどかに届くよりも先に、鮮血がまどかの視界を染めた。
 のどかに触れるよりも先に、彼女の生温かい血が伸ばした手にかかる。床に大きな振動が響く。
 一瞬だけ赤く染まった視界が元に戻る。まどかの眼前には首に包丁を突き刺してたおれるのどかがいた。苦痛に顔を歪めながら激しい呼吸を繰り返しているが、まともに空気を吸うことも吐くこともできず、不気味な音を喉からたてている。
 血が溢れ出る喉元を押さえながら、足をバタバタと動かしている。呼吸にならない呼吸を続けながら口は先ほどからずっと同じ動きを繰り返していた。
 いたい。
 声にすることができない状況で、反射的に何度も何度も「痛い」と呻き続けている。
 普通の中学生なら……否、大人でさえも死に至るはずの傷、出血でものどかは息絶えなかった。息絶えることができなかった。
 吸血鬼になってしまったが故の異常な生命力が、簡単に死ぬことを許さない。
 のどかは痛みに呻くだけの状態だったが、その身体は次第に生命維持のための行動を起こそうとする。
 口の動きが変わった。「痛い」ではなく別の言葉を発しようとしている。そして、その口の中から死に染まった犬歯が伸びてきた。まどかはのどかが発している言葉の意味に気付き、はっとした。
「血が欲しい」
 生命活動停止に追い込まれ、極限まで高まった吸血欲求を、のどかは口にしていたのだ。
 自分の喉から包丁を引き抜くと、のどかはふらふらとしながらも立ち上がる。視線は倒れている母親の方を向いている。
 のどかを止めようと、まどかは彼女の身体にしがみつく。だが、簡単に引きはがされ、まどかは床に尻もちをついた。
 意識のない母親の元に、のどかは肉薄する。顔が喉元に近づいていく。まるで餌を前にした獣のように口が大きく開く。
 その瞬間、まどかは落ちていた血まみれの包丁を掴むと、のどかにタックルした。
 まどかがのどかの上に覆いかぶさる形で倒れこむ。まどかはすかさずマウントポジションを取った。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 絶叫しながら、まどかは手に持った包丁をのどかの心臓に突き刺した。しかしのどかは抵抗を続ける。異常な生命力で、心臓を刺されてもなおもがき続ける。
 その様子を見て、まどかは二度目、三度目と包丁を胸に刺し続けていく。
 何度目か刺突で刃がのどかの体内の核を突き刺すと、彼女の身体は大きく跳ねた。
 のどかの目の色が変わる。それと同時に、二言分ほど口を動かすと、身体から力が抜け、抵抗が止まった。
 無数の傷口はいつの間にか血が止まっており、肉と共に灰化して少しずつ崩れていく。数分後、まどかの下には山のような灰だけが残った。
 ごめんね。
 ありがとう。
 最期にのどかの口がそう動いたのを、まどかは確かに見届けた。だが、それに対してまどかは何一つ言葉を返すことができなかった。



「その後、私はのどかだった灰を庭に埋めようと思って外に出たんです」
 まどかは手に持ったビニール袋を掲げる。中にはのどかの残骸、大量の灰と赤い肉片――吸血鬼の核が入っていた。
「その直後に俺が君を見つけ、妹と勘違いして君に刃を向けた、と」
 玄関にもたれかかりながら座るまどかを見下ろしながら、ユウは言った。
 のどかと勘違いし、まどかに刃を向けてから数十分。ユウは怯えるまどかに事情を話した後、彼女からものどかの末路を聞き終えた。
 全てを話し終える頃にはまどかのユウに対する警戒も解けていた。
「あの、これを埋めてもいいですか」
 まどかは灰の入ったビニール袋を指さして言う。
「構わない。中の肉塊だけ渡してもらえばいい」
 吸血鬼の核。獲物を狩った証としてユウは葉子にこれを渡さなければならない。殺したのはユウではないが、結果として吸血鬼が死ねば彼の仕事に問題はない。
「どうしても渡さなきゃ駄目なんですか?」
 まどかはビニール袋を両手で抱き締めるように抱える。渡したくないと言わんばかりに。
「どうしてもだ。拒否するならこっちも力づくで奪うことになる。できればそんなことはしたくないし、君もそれは嫌だろう」
 ユウは表情を変えることなく、淡々と言う。
 まどかはビニール袋を抱えたまま少しの間黙りこくる。しかし、ぶれることなく見つめ続けるユウの視線を感じて諦めたのか「分かりました」とビニール袋から核を取り出し、ユウに手渡した。
「悪いね」
 ポケットから小瓶を取り出すと、中に核を入れて再びポケットの中に戻す。
 まどかが庭の隅に灰を埋めているのをユウは静かに見つめていたが、途中で我に返ったように携帯電話を取り出して、掃除屋に電話をかけ始めた。
 まどかが戻ってくるのとほぼ同時にユウは通話を終える。
「もう済んだのか」
 まどかはコクリと頷く。
「今から後始末をする。君の話だとキッチンが汚れてしまっているだろう。こっちで掃除屋を呼んだ」
「そこまでしてもらって悪いです。掃除くらいなら自分でできますから」
「キッチンの掃除だけじゃない。君と母親の記憶の方も掃除しなければいけない。掃除というよりは封印と言った方が正しいか」
「……どういうことですか?」
 解けていた警戒が再び強まる。まどかは後ずさった。
「今君が話してくれた出来事、それを全て忘れてもらう。正確には思い出せなくなるようにするわけだが、どっちも大差はない」
「なんでですか!?」
「吸血鬼は闇に葬り去らなければならない存在、だとかなんとか。俺の上司の言葉だ。まあ、俺は仕事だから言われた通りにするだけなんだが」
「嫌……それだけは嫌」
 まどかは激しく首を横に振った。
「のどかを忘れるなんてできません!」
「全部を忘れるわけじゃない。封印するのは昨夜の記憶だけだよ。吸血鬼に関する部分をなんとかできればいいんだ」
「それでも嫌……!」
「どうして?」
 ユウは大股でまどかに詰め寄り、問いかけた。
「このまま記憶をいじられたら、のどかが死んだことも忘れちゃうんでしょう? のどかがどうして苦しんでいたのか。私がいかに無力だったのか。そして、のどかの最期、私がのどかを殺したこと。忘れるなんて絶対嫌です!」
 まどかは辺り一帯に響き渡るような大声で抵抗をする。内気なまどかとは思えない気迫だった。
「のどかは行方不明扱い。私はこれから先、何も知らずにのうのうと生きていく。そんな未来は耐えられない」
「忘れてしまえば耐えるも糞もないんじゃないか?」
「だけど……」
 まどかがまた何かを言おうとした瞬間、家の前にワゴン車が一台止まった。中から黒服の男が数人下りてくる。
 ユウはまどかの腕を掴みその場から逃げだせないよう動きを封じる。
「……悪いが時間だ」
 まどかはその手から離れようと暴れるが、ユウはびくともしない。
 黒服の男の一人がユウの元に寄ってきた。
「家の中、キッチンの掃除だ。中にいる人間と彼女の記憶の処理も」
 ユウは空いている手でまどかを指さす。黒服の男は無言で頷くと、後ろにいる仲間に指示を出す。彼以外の黒服は全員家の中へと入っていった。
「お願い! 記憶だけは……」
 まどかは最後まで懇願するが、黒服に頭を掴まれてそのまま意識を失った。



 どうしよう、また遅刻だ。まどかは玄関を飛び出すと、慌てて自転車の鍵を開ける。
 今朝は目覚まし時計の音に気付かないほどの爆睡。しかもそれはまどかだけでなく母親も同じで、結果朝寝坊をしてしまったのだ。
 相変わらずのどかの部屋は閉じられており、声をかけても返事はなかった。時間はなかったが、ここ数日の日課となっている。大事な妹だ、心配なのはどんな状況でも変わらない。
 自転車に飛び乗り、強くペダルを踏みこんでいく。家の前の道路を進んでいくと、背丈の高い男に声をかけられる。
「止まれ」
 男はまどかにとって見知らぬ人間だった。急いでいたことと、少し不審に感じ取ったことで、まどかは彼を無視しようとする。しかし、間髪いれずに告げられた言葉で思わずブレーキをかけて止まってしまった。
「妹のことで話がある」
 この男はのどかのことを知っている。のどかが引きこもるようになった原因も知っているのではないか。少し恐怖感があったものの、まどかは自転車から降りると自分を奮い立たせて男と対峙した。
「目を瞑れ」
 まどかは男の言葉に従う。命令口調ではあったがその言葉に威圧感はなかった。
 男の気配がぐっと近づいてきたことを感じ取る。耳元で言葉が囁かれた。意味をなさない文字の羅列。暗号めいた不可解な言葉だったが、それが鼓膜を震わせると同時に、まどかの脳内に閃光が広がった。
 蓋が開かれ、しまいこまれていた何かが溢れ出る感覚。未知の体験に、まどかは言葉を失い、困惑する。
 溢れ出た何か……それは記憶だった。脳内にリアルな映像となって広がっていく。まだ新鮮な記憶。つい数時間前の出来事。
 全てを思い出した頃、まどかの頬を涙が伝っていた。
「思い出したか」
 男の言葉で現実に引き戻される。目の前にいる彼も見知らぬ誰かではなく、思い出した記憶の中にいた人間だった。
「どうして……?」
 思い出したと同時に生まれた疑問をまどかは目の前の男――ユウに問いかける。
「どうして思い出させてくれたんですか?」
 昨夜の記憶を思い出せなくなるようにしたのはユウだった。なのに今、彼はその記憶の封印を解いたのだ。そこにどんな意図があるのか、まどかには分からなかった。
「なんでだろうな」
 ユウの返答は曖昧なものだった。
「自分でもよく分からないのが、正直なところだよ」
 私はもっと分からない、とまどかは思ったが口には出せなかった。
「俺のことを話そう。ほんの少しだけだが」
 ユウの表情から彼自身も戸惑っているのが感じられた。だから、まどかは話を聞くことに徹する。
「お前と同じで、俺も家族を手にかけたことがある」
 言葉は相変わらず淡々としている。殺人の告白をしているとは思えないほどに。
「俺の場合は姉だった。吸血鬼になった姉を、この手で殺した」
「それは、あなたが吸血鬼を狩る人間だから?」
 まどかの問い対し、ユウは首を小さく横に振った。
「その時の俺はまだ高校生だった。未来に対して小さな不安と大きな希望を抱いていた子供だったよ。今の君と大差はない」
 まどかは再びユウの表情をうかがう。いつの間にか、そこから戸惑いの色は消えていた。最初から何もなかったかのように、その表情には感情の類が一切浮かんでいなかった。
「その時のことはよく覚えている。最近は少し褪せていたが、お前の話を聞いたからか鮮明に思い出せるようになった。…………だからか」
 ユウは急に一人で納得したようなそぶりを見せた。
「俺はお前に感情移入してしまったのかもしれない」
「それが、私の記憶を元に戻してくれた理由ですか?」
「俺の中ではそれが一番しっくりくるよ。不思議なことにな」
 感情移入など、人間としては別に珍しくないことだ。何が不思議なのだろうとまどかは思ったが、すぐにユウがその答えを口にした。
「姉を殺して以来、俺は感情をなくしてしまったと思っていたが、そうでもないらしい。お前の感情に投射する感情が俺の中にある。感情移入とはそういうことだろう?」
 問いかけるような語調で言われたが、まどかは返す言葉が思いつかず、無言で頷いて返した。
「俺の話はお終いだ。笑いはこみあげてこないが声を上げて笑いたい気分だよ。不思議な感じだ」
「よく分からないけど、笑いたいなら笑えばいいんじゃないですか」
「そうだな、それが普通だよな」
 そう言ってユウは口元に笑みを浮かべた。しかしまどかはそれが笑っている表情に見えなかった。形だけの笑み。無表情と変わらないのではないか、という言葉を飲み込む。
「お前はこれからどうするんだ」
「え?」
 急な問いかけに、まどかは少し焦る。
「えっと、とりあえず遅刻しそうだから学校に行って……」
 そうじゃないだろう。話している内に落ち着きが戻り、まどかは言葉を紡ぎ直す。
「自首……しようと思います。のどかを殺したから」
「死体もないのに?」
「それは灰を持って行って事情を話して……」
「それは吸血鬼のことが表に出てしまうな。俺がそれを許すと思うか?」
 きっと無理だろう。まどかはユウの言葉を聞いてすぐにそう感じた。
「まあ、そもそも信じてもらえないだろうがな。つまり、自首は無駄だ。やめておけ」
「でも――」
 のどかを殺した自分には、のどかを助けられなかった自分には罪がある。それをどうにかして償いたい。それがまどかの率直な気持ちだった。最初に思いついたものが手段が自首だったが司法の下での贖いはすぐに拒否された。
「お前の妹は行方不明扱いになるだろう。彼女が死んだことはお前以外誰も知らないことになる。昨夜の出来事を口外することは許さない」
 ユウの冷たい眼光がまどかの目を捉える。有無を言わせぬ力強さがそれにはあった。
「お前の妹は俺が殺した。お前と母親は何も知らない。それでいいだろう」
 まどかに選択肢はない。記憶を戻してもらえただけでも十分なのだ。これ以上まどかに望むものはなかった。望むものなど思い浮かばなかったと言う方が正しいかもしれない。
 この先、まどかは一人でのどかのことを抱えて生きていくことになる。あとはまどかの問題なのだ。
「急いでいるところ引きとめて悪かったな。今から俺とお前は他人同士、お前の記憶が戻る前と同じ状態だ。もしどこかで会っても知らないフリをしろ」
 まどかが頷くと、ユウは彼女に背を向けて静かに歩きだした。まどかも学校へ向かうべく自転車に乗りなおす。
「負い目を感じているみたいだがお前が気に病むことはない」
 もう話終わったと思っていたまどかは慌てて振り返る。しかしユウは相変わらずこちらに背を向けて歩いている状態だった。
「冷たい言い方になるが、妹はただ運が悪かっただけなんだ。誰も助けることができないくらいにな」
 ユウは振り向かないまま軽く手を振った。どうやらそれが最後の言葉のようだった。
「ありがとうございました」と、まどかは頭を下げた。
 それに返辞をすることなく、黒い背中は徐々に遠退いていった。
 昼下がり、ユウは事務所へと戻ると一目散にソファへと飛び込んだ。
「仮眠をとりに来た」
「自宅で寝たら?」
「事務所の方が近くにあったもんでね」
 やれやれと言いたげな表情で、葉子は作業中のノートパソコンから目を離してユウの方へと目を向ける。
「仮眠ということはまだ見つかってないんだね?」
「本番は夜だ」
「今夜、絶対にケリをつけな。これ以上――」
「被害者が出ないように、だろ」
 葉子の言葉を遮り、ユウは静かに言った。
「分かってるならいい。しっかり身体を休めな。一晩中駆けまわるんだから」
 それだけ言って、葉子は視線をノートパソコンに戻す。同時にユウも目蓋を閉じ、眠りの世界へと入っていった。
 何事もなく時間は過ぎていき、日没が訪れる。アラーム無しで、ユウはそれと同時に目を覚ました。まるで先ほどまで眠っていなかったかのように機敏な動きで身体を起こす。
 引き続き作業を続けていた葉子だがユウが起床したのを確認すると、その手を止める。そして目を閉じて意識を集中させた。
「あるよ、微弱な反応が。さっそく行動を開始するつもりだね」
 ユウは返事をせず、黙々と準備を始める。身支度を整えると、いつもの装備を持って玄関へと向かった。
「一つ、あんたに注文がある」
 葉子は部屋を出ていこうとするユウを呼びとめた。
「あんたの報告だと、今追ってる獲物は強力な魔眼を持っている。そうだったね?」
「それがどうかしたか。確かに強力だが仕事に支障はない」
「あんたの腕は疑っちゃいないよ。獲物から情報を引き出してほしい」
「情報?」
「親の情報だ。強力な魔眼を持っているということは真祖に直接吸血されて吸血鬼になった可能性が高い」
「そういうことか。善処するよ」
 ユウは再び葉子に背を向け、事務所を飛び出していった。
 


 今夜の内にケリをつけろ。それが葉子の命令であったが、実質今夜獲物を見つけられなかったらそのまま逃げられることは確実だった。 
 ユウに起こせる行動は葉子の探知能力の範囲内をひたすら駆けまわることだけ。運が悪ければ見つけられない。後は葉子が獲物の居場所をある程度絞り込めるかどうかにかかっていると言っても過言ではなかった。
 狩るべき獲物を探し始めてから数時間、日付が変わるよりも前に変化は訪れた。コートのポケット内で激しいバイブレーション。ユウはすぐさま携帯電話を取り出した。
「反応アリだ」
 葉子からの電話。獲物の居場所を捉えたという連絡だ。ユウは彼女が指示する場所へと疾駆する。
 ユウの現在地とかなり離れた場所で、なお且つ反応が瞬間的なものであったため居場所の詳細な位置までは捕捉できなかったため、獲物にかなり近づくことができるとは言え確実に見つけられるとは限らない。
 運と根気の領域だが、幸いなことに今回ユウはそれに恵まれた。高速道路下の小さなトンネルで獲物を発見することができた。
 オレンジ色の光が不規則に点滅しながら不気味に広がるトンネル内。そこにはユウと違って運に恵まれなかった者が“二人”。獲物である金髪眼鏡の吸血鬼。そして見覚えのある少女。
 金髪眼鏡はすぐにユウに気付くと、そばにいた少女の首元に腕をかけ、まるで盾のように扱い、ユウと対峙した。
「どういうことだ……」
 目の前の状況に、常に冷静沈着なユウですら戸惑いを隠しきることができず、それを言葉にして目の前の獲物に吐き出す。
「どうしてその子がお前と一緒にいる」
 ユウの眼前、金髪眼鏡のそばには虚ろな目をして口を半開きにした少女。まだ記憶に新しいその顔はユウに衝撃を与えた。
 南條まどか。つい十数時間前に別れた少女がそこにいた。
「お前に答える必要はないだろう」
 金髪眼鏡の返答。その声には明らかに焦りの色が混じっていたが、ユウにはそれを感じ取る余裕がなかった。
 ユウは必死に自分を落ちつけてこの状況を分析しようとする。目の前にいるのは南條まどかで間違いない。様子を見る限り魔眼で催眠にかけられているようだった。
 だが、問題はそこではない。彼女は未だ人間なのか、それとも人間ではなくなってしまったのか。
 まどかの首を見て確認をしようとするが、金髪眼鏡の腕に隠れてそれができない。現状では判断できない。
 しかし、ユウは既に手遅れなのではないかと思い始めていた。先ほど葉子が感じた金髪眼鏡の反応は吸血行為によって生じた可能性が高い。その吸血の対象はすぐそばにいるまどかと考えるのが当然だ。
 だが、確証がない。
 まどかが吸血鬼と化したという確証を得られれば、二人まとめて殺すだけ。しかし、万が一まどかが未だ人間のままだとしたら、彼女を殺すわけにはいかない。狩人が人間を傷つけることは許されない。
 金髪眼鏡もそれを分かってまどかを盾にしているのだ。過去の戦いで自分一人ではユウに勝てないと悟っている。この場をなんとか切り抜けるには、まどかを利用するしかない。
 人であるか否か。吸血鬼であるか否か。
 非情な狩人ならば――普段のユウならば、吸血鬼であればば簡単に事が済むだろうと考える。吸血鬼であってくれと願いすらするだろう。しかし、今のユウは、できれば人のままであってほしいと願っていた。
「武器を捨てろ」
 金髪眼鏡はまどかを身体を激しく揺さぶりながら――人質であるということを強調しているのだろう――武装解除を要求した。
 従わなければまどかを殺す。まるでドラマのような状況だった。彼女が吸血鬼か否か判明していない今、ユウは従わざるをえない。
 まず手始めに杭を、次いですぐに取り出せる状態になっている数本のナイフを地面に投げ捨てる。
「コートを脱げ」
 コートの下にも武器を隠していることを金髪眼鏡は分かっていたのだろう。ユウは無言でその要求に従う。
 脱いでいる最中、コートで一瞬身体の前面が隠れる。その瞬間、ユウはある物を掴むと、コートが地面に落ちると同時にそれを投擲した。
 金髪眼鏡は慌ててまどかを前に突き出し、盾にして投擲物を受け止めた。銀色に光るそれ――十字架がまどかの肌に触れる。その部分が火傷したかのように赤くなった。
 それを視認した瞬間、ユウはナイフを手にとり、風のように駆けて二人に詰め寄った。
 まどかはもう、人質としての、盾としての意味を失った。金髪眼鏡もそれに気付き、隠し持っていた十字レンチを投擲してユウを迎撃する。
 人外の怪力で投擲された十字レンチが凶悪な破壊力を宿してこちらに迫る。全速力で疾駆するユウにその猛然たる投撃を回避する術はなかった。
 右手にはナイフ、左手は空。獲物を狩るのに必要なのは右腕のみ。刹那にも満たぬ時間でそう判断すると、迷うことなく左腕を前面に上げ、それに防御の役割を与える。
 飛来した凶器がユウの前腕に直撃。衝撃が肉に、そして骨に伝わり、容赦なく砕いていく。同時に痛覚の中を電撃が駆け巡る。激しい痛みに顔を歪めるものの、ユウは動きを一切緩めなかった。
 ユウはナイフのリーチ内まで金髪眼鏡に肉薄。刺突の動作に入った。
 金髪眼鏡は眼前にいるユウからの攻撃をしのぐため、再びまどかを利用する。先ほどの心理的な防御力を持つ盾から、その場限りの緊急回避のための物理的な盾として。
 まどかの矮躯でナイフの一撃を受け止めようとする。しかしその一撃はまどかの身体に突き刺さることはなかった。
 ナイフの切っ先はまどかの顔の横を通り抜けていく。腕が伸びきった状態でユウは器用にナイフを逆手に持ちかえる。右肩でまどかの頭を横に押しのけると同時にナイフの切っ先を金髪眼鏡の首に突き刺した。
 絶叫と同時に鮮血と溶解した肉が混じり合って金髪眼鏡の傷口から噴き出した。その身体から力が抜け、まどかから手を離す。
 ユウはナイフを抜くと同時に金髪眼鏡の腹部に前蹴りを入れて地面に倒す。そして馬乗りになるとその胴体にナイフを突き刺した。金髪眼鏡の身体が跳ねる。
 銀の刃は吸血鬼の身体をまるで豆腐のように簡単に切り裂く。ユウはその致死の刃を金髪眼鏡の胴体で走るようにかき回した。
 この世のものとは思えぬ絶叫がトンネル内にこだまする。上の道路を走る車の音ですら書き消せないほどの声量で、なおかつ日付も変わらぬ時刻だったため、いつ声に気付いて人が来てもおかしくない状況だったが、ユウは刃での蹂躙を止めることはなかった。親の情報を引き出せという葉子の命令は既に忘却の彼方へと消えていた。
 あっという間に金髪眼鏡は絶命。その身体もすぐに灰と化した。
 ナイフをホルダーにしまい、核を拾い上げると、ユウは倒れているまどかへと近づいた。金髪眼鏡が死んだことにより魔眼の効力が解け、意識が戻っていた。
「あ……」
 まどかの目がユウを捉える。同時にユウもまどかを見下ろしていた。ユウの視線の先、その首筋には吸血痕。
「ここはどこ? どうしてあなたが……?」
 彼女の意識はどうもはっきりしていないようだった。催眠が解けたばかりだから仕方のないことだが。
「ゆっくりでいい、落ちついて何があったのかを話してくれ」
 ユウの言葉に従い、まどかは静かに記憶を遡っていく。そしてゆっくりと口を開いた。
「私、許せなかったんです」
「何を?」
「色々です。でも、一番許せないのはのどかを吸血鬼にした人」
 だろうな、と思ったがユウは口に出さずに先を促した。
「あの後、色々なことが頭の中をぐるぐるしてて。それで、だんだん憎いって気持ちが膨れ上がっていって、それが止められなくて。殺したいって思うようになったんです。
 だから、夜になってから私はバッグに包丁を入れて外に出たんです。あてはなかったんですけど、向こうがのどかと勘違いして私に気付くかなと思って。そうしたら案の定、金髪の男の人が「死んだんじゃなかったのか?」って私に近づいてきて……それからの記憶がはっきりしないんです。気付いたらこうなってました」
 姉妹そろってあまりにも不幸だった。その晩、金髪眼鏡に見つからなければ、彼は殺されるか別の土地に逃げてまどかと出会うことはなかった。しかし、出会ってしまった。不幸というしかない。
 完全に俺の責任だ。しかし、ユウはこの事態の原因が一つの不幸ではなく自分の選択の間違いであると認識した。あの時、記憶を封印しておけばまどかは復讐なんて思いつかなかっただろう。
 重い沈黙。少しして、何かに気付いたのかまどかの表情が変わる。自分の首筋に触れようと左手を動かす。
 ユウは骨折した左腕を無理に動かしてまどかの手を止めた。そして素早く右手でナイフを取り出し、まどかの心臓に突き刺した。まだ吸血鬼化してまもない身体はその一撃で即死した。
 灰の中から核を拾い上げる。それをポケットにしまうと、携帯電話を取り出し、後始末の準備を始めた。
 

 全てを終え、ユウは報告と核の引き渡しのため事務所へと戻っていく。玄関の前でドアノブを掴むため右手を上げる。そして手を開くとはらりと僅かな灰がそこからこぼれ落ちた。
 ユウは無意識のうちにずっと拳を握りしめていたことに気付く。
 扉を開けずに、軽いしびれが残っている右手をじっと見つめる。
 こぼれ落ちた灰は風にのってどこかへ消えていった。



 第四夜  END
 
24, 23

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