シンプルなの一つ/いそ。
---問題編---
「あーあー……こりゃひでぇな……」
浪川(なみかわ)はそうぼやきながら、ブルーのビニールシートを被さっている人間をスッと覗いた。外見の特徴は、頭がやや薄く、体格は肥満気味の中年男性。最大の特徴と言えば、その左胸部に突き刺さっている出刃包丁だろう。大量に吹き流れている鮮血が痛々しい。
「名前は浅井茂男(あさい しげお)。この料理店の店長です。死亡推定時刻は今から2時間前。午前9時から午前10時の間だそうです」
「ふーん……包丁に指紋は?」
「ありませんでした」
「そっかー……」
警官の話を聞き流しながら、浪川は厨房のあちらこちらを見回していた。壁に並んだ様々な調理道具。コンロの上に掛けられている鍋や寸胴。その中の一つを覗き込むと、中には出汁が入っていた。
「開店の準備中だったのかな……」
鼻をくすぐる良い匂いをわずかに感じながら、ふと顔を見上げると、何かが彼の目に止まった。窓だ。コンロの手前にある窓。そして、その窓の先には小さな駐車場があった。
「そこの駐車場は?」
浪川が警官に聞くと、彼はメモ帳をぱらぱらと捲りながら説明した。
「えぇっと……従業員の専用駐車場だそうです」
「何台か止まっているな」
「他の従業員たちは今、向こうで事情聴取を受けています」
「行こうかねぇ……」
面倒くさそうに言いながら、彼は検察官に後を任して厨房から出た。
「だからっ! 僕じゃありません!」
浪川が部屋のドアに手を触れた瞬間、彼の耳に入ってきたのは怒声だった。見ると、気の優しそうな青年が男性と向かい合って椅子に座っていた。彼はロングコートを背もたれにかけて、必死に目の前の男性に訴えかけていた。男性は渋い口調で唸った。
「……と言ってもねぇ。君以外に考えられな――おや、浪川くんか?」
「や、黒石さん」
浪川は黒石(くろいし)と呼んだ男に片手を上げて挨拶した。黒石はそれに答えた後、すぐに青年に向き直った。
「目撃者もいるんだから、いい加減――っ?」
突如、黒石の肩に何かが触れた。見ると、それは浪川の左手だった。彼は黒石に申し訳なさそうに言った。
「ちょっと悪いんですけどねぇ。この人の証言、一から聞かせてもらっても良いですか?」
黒石はその言葉に一瞬眉を寄せたが、すぐに彼に要望に答えた。
「えっと……それじゃ、名前と職業聞かせてもらえるかな?」
黒石と入れ替わり、陽気に尋ねる浪川とは対照的に、青年は沈んだ声で話し出した。
「名前は津田俊成(つだ としなり)です。この店の厨房で働いていました」
「津田くんねぇ。よし、それじゃ君が今日の朝から、何処で何をしていたのか、教えてくれるかな?」
「今日は、午前7時30分には起きて、8時55分には自宅のアパートから出ました。この店は自宅から自転車で30分くらいで着くので、店に着いたのは多分、9時25分だったと思います」
そこで一度、浪川は彼の話を遮り、黒石を見て言った。
「ここまでの彼の証言に、嘘は?」
「午前8時55分に自宅から出勤しているのは大家さんが目撃しているし、タイムレコーダーには確かに午前9時25分に彼の記録があった」
黒石の発言を聞いて、浪川は津田に続けさせた。
「店に着いてからは……2階のスタッフルームで着替えていました。10分ぐらいで着替えて……厨房に下りて見たら……あ、あ、浅井店長が……」
「ああ、はい。わかりました――そう言えば黒石さん」
思い出したくなさそうだったので、浪川は話をそこで無理やり終わらし、ふと黒石を見上げて言った。
「ん? どうしたんだね?」
「先程、気になる事を言ってましたね『目撃者』……いるんですか?」
「ああ、彼女なら今。例のスタッフルームで取調べを――」
「行った方が良いんでしょうねぇ……あぁ、面倒くさい」
大きくため息をつきながら、浪川は内省そうな青年に背を向けてその場を去った。
「……彼。何なんですか?」
浪川が去った後。津田は黒石に不思議そうに尋ねた。
「――刑事だよ。浪川信吾(なみかわ しんご)巡査部長。ちょっと変わってはいるが、あの年にしては中々のキレ者だよ……」
「それで、これが俺の電話番ご――」
「ちょっと待てぃっ!」
スタッフルームには1人の男性と3人の女性。計4人の人間がいた。1人は刑事の浪川。そしてもう1人は同じく刑事の佐島(さしま)。3人目はバイト生である山野(やまの)。4人目は従業員の高崎(たかさき)だ。そして、浪川が山野に自らの名刺を差し出そうとした所、それを佐島にピシャリと断られていた。
「いや、なんで?」
不可思議そうに佐島を見つめる浪川。佐島は呆れた口調で説明した。
「なんでって……どうしてその子にだけ名刺を渡そうとしたのよ?」
その言葉に、彼は腕を組んで堂々と言い張り出した。
「いや、お前な。言っとくけど、こんなに可愛らしい女の子なんて、そうそう居ないモンだよ? そりゃ、俺だって男だし……『この機会に是非っ!』と、思うわけよ。分かる?」
「……ごめん、分かりたくないわ」
目を瞑って大きく息を吐く佐島。そんな彼女を見ながら、浪川は小さく微笑んだ。当の山野は、頬を紅くして笑って俯いていた。
「まあ、冗談はこれくらいにしてと……」
小さく咳払いをして、彼は他の2人を見比べた。
「それじゃまず、バイト生の山野さん」
「え? あ、はい」
山野と呼ばれた女性は可愛らしい声で返事をした。見た所、学生ぐらいであろう。そうだとしても、背丈は小さい方だ。
「ちょっくらお話。聞かせてもらえるかな?」
浪川は津田と同じ時間帯の話を、彼女に尋ねた。
「この店に着いたのは午前9時45分です。店に入った途端、いきなり血だらけのエプロンをした津田さんが厨房の方から飛び出してきました。なんか……すごく焦っていたみたいで『救急車! 救急車をっ!』って叫んでいました。それで異常を感じたあたしは、すぐに携帯電話で119番通報をしました」
「……なるほどね」
浪川はもっともらしく頷いて、彼女に質問した。
「厨房の中は、覗いてないんですよね?」
「あ、はい。津田さんが、すごく一生懸命でしたから……」
「……へぇ。他に気になった所は?」
彼のその質問に山野は暫く考え、やがて小さくかぶりを振った。
「……いえ、特には」
「そうですか。ありがとうございます」
彼女の話はそこで終わったと感じ、次いで浪川は高崎に話を聞いた。
「……私は朝9時に、車でこの店に来ました。到着して、すぐにこのスタッフルームで着替えた後、厨房で店長とお話をしていました」
「どんなお話を?」
「店長は『材料が無いから、買出しに行ってこい』と……」
「買出し、ですか?」
浪川が繰り返し尋ねると、高崎は大きく頷いた。
「えぇ、幾つかの調味料と、野菜です。ストックがもう無いので、買って来いとの事でした……それで、もう一度車に乗って、近くの店まで行きました。買出しが終わって、車から降りると……見えてしまったです」
「見えた? 何が?」
「従業員の駐車場からは厨房が見えるんです。そこで……そ、そこで――」
口調からして、良い事ではないなと浪川は不安を感じた。
「落ち着いてください。何を、見たんですか?」
彼は高崎を宥めながら、彼女の口からとんでもない事を聞いてしまった。
「――包丁を店長の胸に突き立てる。つ、津田さんの姿が……」
「……」
浪川は一度大きく深呼吸をし考えた。おそらく、黒石が言っていた「目撃者」とは彼女の事だろう。
「その時の時刻。分かりますか?」
「た、確か……9時35分ぐらいだったと思います」
椅子の背もたれに大きく寄りかかりながら、浪川はため息をついた。佐島は、それを心配そうに見つめていた。
「わかりました……ありがとうございます」
椅子から立ち上がると、彼は彼女たちにまだここに居るように指示を出した。そして、立ち去る寸前に佐島の方を向いて、顎で彼女について来るよう示唆した。
「寒っ!」
現在の月は1月。強烈な冬の寒風が、浪川の体を貫いた。
「あんた。防寒着は?」
「忘れた」
佐島の言葉に素っ気無く返事を返す。すると彼女は小さく鼻で笑った。
「バカじゃないの?」
「バカで結構結構……で、聞きたい事がある」
「それで、私を外まで呼んできたの?」
「いや……外には他の用事が……」
そう言いながら、浪川は何かを睨み、そして呟いた。
「確かに見えるな……厨房」
彼の独り言に呆れながら、佐島は口を強くして訊いた。
「そ・れ・でっ!? 私に聞きたいことって何かしら?」
「何でそんなに怒ってるんだよ……」
「寒いから早く中に入りたいの」
「あれで、容疑者は全員だよな?」
「うん……従業員の津田と高崎。それと、バイトの山野だけよ。他には?」
「あとは、被害者である浅井の今朝の行動はどうだって?」
「……彼はここに住んでいるの。目覚まし時計のアラーム時刻からして7時には起きて、9時からは開店の準備をしていたみたいよ」
「近所の評判は?」
「うーん……正直、あまり芳しくないみたいね。粗暴な性格で、店員にも度々、八つ当たっていたみたいよ……」
「なるほどねぇ」
「ただし、1人の例外を除いてね」
「誰?」
「バイトの山野」
彼女の名前を聞いた途端、浪川は感心して頷いた。
「ああ、まあ彼女はしょうがない」
「結構酷使していたみたいね……従業員に対しては」
「って事は、津田にもちゃんとした動機があるって事だな?」
「まあ……そうなるわね……」
佐島の話を聞きながら、浪川は辺りをキョロキョロ見回していた。
「……俺、もう一度彼に話聞いてくるわ」
「え? なんで?」
「ちょっとな……」
「津田さん」
「は……はい」
浪川と佐島は、再び津田の所に訪れていた。浪川には、どうしても気になる所があったからだ。
「高崎さんが、あなたが被害者を刺した所を目撃しているのですが――」
「そ、そんなの嘘ですっ! 私は、店長を殺してなんかいませんっ!」
彼の言葉を遮り、津田は突然立ち上がり叫んだ。そんな彼にあくまでも冷静に、落ち着いた声で浪川は言った。
「まあまあ……それと、被害者を見た後、あなた。救急車に通報しようと思っていましたか?」
「あ、はいっ! もう、気が気でならなくて――」
「その時、山野さんに会ってませんでしたか?」
「や、山野さん? ……あ、はい。彼女が通報してくれたんです」
「その時、彼女は『血まみれのエプロンを着た』あなたを見ているんです」
「えっ……?」
「あなたが本当に目撃しただけなら……血なんて付きませんよね?」
「……」
そこで、津田は黙ってしまった。
「どうなんですか? 津田さん?」
その時、浪川の隣にいた黒石が不意に動いた。それを、浪川は手で制した。
「黙っていても分かりません。あなたが本当に殺していないのであれば……話しても構わないはずです」
「……んです」
「えっ?」
聞き返したのは佐島だった。それに呼応するかのように、津田は供述した。
「厨房で、こけたんです。店長の姿を見た後、全てのコンロの火が点けっぱなしでしたので、火を止め様として慌ててて……店長の真横で転んでしまったんです」
「――そうですか。意外とおっちょこちょいなんですね。怪我はないですか?」
「あ、はい。痛かったですが、傷はありませんでした」
「それはなりより……良かったですね」
にっこりと微笑んで、浪川はすくりと立ち上がった。
「じゃあ俺。ちょっと行く所あるんで……――あ、その前に。津田さんって、もしかして左利きですか?」
「え? あ……そうですけど……」
「そうですか」
「あっ! ちょっと!」
津田からの回答を聞いて、すぐに出ようとした浪川の後ろを、佐島が慌ててついて出て行った。
「いきなりどうしたの? て言うか、あんたどこに行くつもりよ?」
「どこって……犯人の所」
「は? でも、津田は高崎に目撃されているんでしょ? それに、あんたも聞いていたけど、彼は左利きで、被害者が刺された箇所は左胸部。血だらけのエプロンを見られてるし……もう、あの人が完璧犯人じゃない」
「……お前、結構バカだな」
「はぁっ!?」
佐島の荒い声を無視して、浪川は続けた。
「――包丁の指紋は拭き取られていた。なのに、コンロの火を消そうとして転ぶヤツがいると思うか? 指紋を拭き取るなんて事をしてる限り、突発性の殺人じゃねぇよこれは。見た所、バイトの山野は確実に関係ないから、もう、犯人は1人しかいないだろ?」
「た、高崎? で、でも。彼女の話はキチンと筋道が立っていたわよ。証言から考えると、明らかに怪しいのは、津田の方じゃない」
彼女の言葉に、浪川は大きく頷いた。
「そうだな。彼女の証言が本当に合っているなら……な」
「高崎の発言が嘘だとでも言うの?」
やや苛立った口調で、捲くるような早口で浪川は言った。
「だから、それを今から確かめに行くんだろ?」」
「――証拠も、何も無いのに?」
佐島の質問に、彼は小さく鼻で笑った。
「証拠? そんなモン、必要ないさ」
「――彼女が作ってしまった矛盾が、自然と証拠を導いてくれるさ」
Q、彼女の作り出した矛盾とは何か?
-津田(20)の証言-
9時25分:
店に到着――その後、着替えのためスタッフルームへ
9時35分:
厨房にて、被害者を目撃――全てのコンロの火が点いていた為、消火しようとした所転倒。この時エプロンに血がついた。
-山野(18)の証言-
9時45分:
店に到着――厨房から出てくる血だらけの津田を目撃し、救急車を要請。
-高崎(23)の証言-
9時00分:
店に到着し、厨房で浅井と会話
9時05分:
買出しのため一度店を離れる。
9時35分:
車で戻ってきた所、浅井を殺害しようとしている津田を目撃
()は年齢
---解答編---
スタッフルームには、数名の警官と、バイト生の山野と、従業員の高崎がソファーに座っていた。
「高崎さん」
「な、なんでしょうか……?」
浪川の声に、高崎は見当はずれな応答をした。
「あなた。本当に津田さんが店長を刺した所を見たんですか?」
「え、えぇ……確かにあれは、津田さんと店長でした」
「……どこを、刺されていましたか?」
彼は横目で入り口を覗った。気づくと、佐島の隣に黒石と、当該の津田が立っていた。
「胸を、包丁で刺していました……本当です。あれは確かに、津田さんでした」
「違うっ! 僕はそんな事していないっ!」
高崎に駆け寄ろうとした津田を慌てて黒石が抑えた。そんな彼を見ながら、浪川はゆっくりと言った。
「高崎さん。確認します。あなたは、津田さんが、包丁で、店長の、左胸を刺している所を目撃したんですよね?」
「……はい」
ゆっくりと、高崎は頷いた。
「今日は、寒いですね。俺。今日コート忘れちゃったんで、すごい寒いんですよ。ハハハ……」
調子外れの事を言う浪川に、皆首を傾げていた。
「そう言えば、津田さん。あなた、コンロの火を消していたって言ってましたよね」
「は、はい……」
「コンロの上にあった鍋や寸胴……中身が殆ど煮えてたでしょ? 俺が嗅いだ時でさえ、まだ少し温かかったですから……」
「はい。すごい煮沸してて、それで、慌てて消そうと思ったんです」
「そうなると、つまり――厨房の中は暖かかった……って事ですよね?」
「――あっ!」
そこで佐島が大きく声を上げた。どうやら、気づいたようだ。
「被害者は死ぬ前に調理の下拵えをしていたんでしょう。いろいろ出汁やお湯やらを沸かしていて、厨房のコンロ付近は湯気がたくさん出てたはずです。さて、ここで問題です――」
「――寒い日に、室内が暖かかったら……窓には何が出来ますか?」
「……曇り……ですか?」
答えたのは津田だった。高崎はと言えば、先程までの顔色がどんどんやつれていき。目の焦点は合っていなかった。
「そう。曇るんですよね窓って。多分。厨房の中は結構暖かかったでしょうから、びっしり付いたんじゃないんでしょうかね? 曇り」
「……ぁぁ」
高崎は何かを小さく呻いていた。そんな彼女に、浪川は追い討ちをかける。
「あなた。中々面白い事言いますねぇ。窓が曇っていたのに、見えたんですよね? 店長が刺されている所が……それも、場所が分かるくらいにはっきりと。そんな訳ないですよね? じゃあ、なんであなたがそんな事を知っているのか、考えるまでも無い」
「あなたが店長を殺したからです」
「……」
浪川の発言に、高崎は応答せず。ただ黙って俯いていた。
「おそらく、買出しってのが嘘でしょう。多分、あなたは店長を殺した後始末をしようと車を出したんでしょう。そして、死体を発見した津田さんに『買出し』と言う嘘で何食わぬ顔で出くわした……違いますか?」
「……」
ずっと、高崎は黙っていた。罪を認めたと思い、黒石は彼女に近づいた。
何の抵抗もなしに、高崎は手錠を受け入れた。
彼女は署に連行され、そこで初めて自分の罪を認めた。
「……動機とか、聞かなくてよかったの?」
「え? なんで?」
佐島が尋ねると、浪川はキョトンと首を捻った。
「だって、被害者の性格だけで、殺したりはしないでしょう。普通」
「まあ、なんとなくわかるし。それに、あまり聞きたくないんだ。計画性の殺人をした人って、何かしら自分を正当化しようとするから……ねぇ。それよりも……腹減ったなぁ……」
「――……お、奢るわよ?」
「え? 今なんて?」
「だから、奢るって言ってんのよっ!」
「何怒ってんの?」
「そんな事言うんだったら、奢らないわよ?」
「あぁ、嘘です! 奢ってください。お願いします」
「――それで、何処で食べるの?」
「それじゃ、あの店……行ってみるか」
「あんた。それ、彼女がいるからでしょ……」
「あ、分かる?」
「っ! もう知らないっ!」
「あぁ! おい! どこ行くんだよっ!?」
「あの店行くんでしょっ!?」
「行くのかよって、おい! 待てっ! おーい……待ってくれーい……」
-終-