文藝新都オフ会での出来事
○登場人物
人気 作家子(にき さかこ)22歳。西都大学4年生
現実 充実(ありみ みつみ)20歳。文系大学2年生
底辺 常男(そこなべ つねお)18歳。高校3年生
○問題編
底辺常男(そこなべつねお)は一人、会話に入れずぽつんと座っていた。
底辺は、文藝新都で細々と小説を連載している高校生新都作家である。
彼は現在、日本を代表する教育研究機関である西都大学の研究棟内会議室にいる。本日から三日間はオープンキャンパス期間中の為、部外者でも入れるのだ。部外者のほとんどは近隣の高校生で、西都大学に憧れる受験生も多い。底辺も受験生だが、彼が憧れているのは西都大学というよりもむしろ、西大生でかつ文藝新都作家である人気作家子(にきさかこ)だった。人気作家子とは、何の前触れもなく新都社に登場し、作品を発表するや否や、たちまちランキング第一位をかっさらって忽然と姿を消した謎の女流作家である。その人気作家子に会えるというので、底辺は予備校の夏期講習もほっぽり出してこの西都大学にやってきた。
しかし底辺はいま、後悔している。空気作家という身分をわきまえず、無謀にもオフ会に参加してしまったことを。しかも不運なことに、参加者三名という小規模な会で、うち二名が有名人。一人は人気作家子、もう一人は現実充実(ありみみつみ)といって、こちらも出す作品出す作品全てがベスト3入りの実力派。底辺が極めて場違いな存在であることは、火を見るよりも明らかだった。
この状況に追い打ちをかけるのは、厳然たる外見レベル格差。底辺が不細工男なのに対して、作家子はスレンダーなモデル体型の和風美人だし、充実は小柄なのに胸は大きい童顔美少女。その幼い顔立ちに似合わず、充実は布地少な目の服にしっかりメイクという男慣れした風貌。作家子は弓道や薙刀が似合いそうな感じで、近寄りがたい高貴な美しさを纏っている。これで二人とも小説家としての才能に溢れているというのだから、才色兼備を体現したとしか言いようがない。
「底辺先生っ!」
声に驚いた底辺が顔を上げると、充実が目の前に立っていた。充実の大きく開いた胸元から視線を外すと、背を向けてドアの外へ出ていこうとする作家子が見えた。
「作家子先生がすごいのを見せてくれるそうですよっ」
充実が人懐っこい笑顔で底辺に話しかける。わずかに覗く、白く透き通ったような歯が眩しい。充実は人好きのする性格のようだ。どうやら、底辺が一人呆けている間に話は一段落ついたようで、これから実験室へと移るところらしい。
もともと、この文藝新都オフ会の企画が掲示板上に出されたのは夏休み前あたりだった。そうしたらちょうどオープンキャンパスの時期だというので、主催者に名乗りを上げた作家子が特別に学内の実験室を見せてくれると言い出した。伝説の人気作家の突然の再臨ということで掲示板内は話題沸騰だったが、ふたを開けてみると参加者はたったの三名。オフ会会場のイレギュラーさゆえ、なりすましによる大がかりな釣りが疑われたり、壮絶な罵り合いを繰り広げた信者とアンチが混乱させたりしたせいで、皆が参加を躊躇したのではないかと、底辺は思っている。底辺自身にも迷いはあったが、作家子への憧憬のほうが上回り、結局参加希望のメールを送信していた。
底辺は、自分の名前を覚えてもらえていた喜びを密かに噛みしめながら、いそいそと充実の後をついて実験室に入り、出入り口のドアを閉めた。室内はひんやりしている。ペンキのような臭いが鼻につき、底辺は頭がくらくらしそうだった。充実も鼻と口を手で覆っている。すると実験室の奥の方から、白衣を羽織って大仰な手袋をした作家子がすたすたと近寄ってきて、両腕で抱えて持っている金属製の筒を傾け、中の液体をいきなり底辺の手にかけた。
「つめたっ!」
反射的に手を引く底辺。豪快に笑う作家子。充実は大きな目を丸くしている。
「あはははは! ……いや、ごめんごめん。これ液体窒素なんだ」
「えっ、えっ。作家子先生、液体窒素って、バナナで釘が打てるっていうあれですよね? 危なくないんですかっ? なんか白い煙も出てるし、怖そうな気がするんですけど……」
「まーかけ続けたら凍っちゃって危ないけど、ちょっとならあまり心配ない」
「そうなんですか……」
そんな二人の会話を聞きながら底辺は、液体をぶっかけられた自分の手の甲を恐る恐る触ってみたが、確かになんともなかった。冷たい感じがしたのも一瞬だったし、床が水浸しになっているわけでもないしで、底辺は、驚かされた当の本人であるにもかかわらず、この出来事が幻のように感じられた。そして我に返ってみると、底辺は温かい気持ちになっていた。こうして構ってもらえたことで、二人にのけものにされているわけではないと思えたからだ。
「この液体窒素を大量に使って、NMRに使う液体ヘリウムを冷やしてるんだ。どっちも沸点マイナス二百度前後なんだけど、液体ヘリウムは高価で、液体窒素はミネラルウォーターより安いからね。なくなったらタンクから足せばいいし。あ、あれがNMR」
作家子はそう言って、金属の筒を抱えている両腕の手先だけを動かし、部屋の中央にそびえる機械を指差した。
「NMRは強力な磁場を発生してるから、腕時計とかは外しといたほうがいいよ」
この注意を聞いてすぐさま腕時計やらその他アクセサリーやらを外した充実は、関取二三人分程もある巨大な機械のほうへおずおず近づきながら、作家子に質問した。
「ヘリウムっていうのは声が面白くなっちゃうあれですよね。NMRっていうのは一体どういうものなんでしょうか?」
「ま、ヘリウムはそんな感じかな。ここでは超電導磁石の為に使ってるんだけどね。NMRってのは、核磁気共鳴っていう量子力学的な現象を使って、いろんな物質の同定をする装置」
充実、底辺の両名とも、理系大学生の作家子の話はちんぷんかんぷんであった。しかし、同定という単語の発音だけは、底辺に心にぐさりと刺さった。底辺は高校三年生にもなって未だに童貞であることを気に病んでいたからだ。
「来年の下海万博には、うちの大学も協力してこのNMRの最新のやつを出展するの。もちろん私もかかわったよ。で、みんなにもいい記念になるんじゃないかと思って、オフ会ついでに見せたかったんだ。半分私の自慢でごめんね」
作家子は誇らしげにはにかんだ。すかさず充実が発言する。
「いえ、私は文系だし、こういうの見るの初めてですごい感激してます! 作品の幅を広げるためにも、いろんな新しい経験をするっていうのはとっても勉強になりますっ!」
作家子の腕から筒が滑り落ちた。それは白い床と衝突し、金属音を実験室中に響かせた。作家子は片足を引いている。
「おっと、失敬。これ重いからもう片付けてくるか。そうそう、NMRのほうの後片付けはそっちの流し台でやるんだよ。測定し終わった試料を捨てたり道具を洗ったり」
ゆっくりと金属の筒を抱きかかえ、作家子は実験室の奥へ行った。その間に、充実と底辺は作家子が言った流し台を見物していた。シンクの上には試験管やフラスコのようなガラス器具が散乱し、シンクの下には、高さが七十センチ程度のバケツのようなものがある。バケツは透明な液体で約八分目まで満たされていて、いろいろなガラス器具が沈んでいた。液体の、底に近い部分の層は白く濁っていて、そこからガラス器具が顔を出しているような光景だ。
「底辺先生、これってつけおき洗いってことですかね?」
バケツの隣に設置されたフッ素樹脂製のトングを触りながら充実が底辺に話しかけるので、底辺もバケツの中を覗き込もうとして顔を近づけた。
「くさっ!」
強烈な刺激臭がして、底辺は思わずのけぞった。
「こら高校生、臭いをかぐときは手であおぐんでしょうが。勉強不足だねー」
戻ってきた作家子がたしなめる。
「いや、一応受験生なんでそれは知ってるんですけど、いまは臭いをかごうとしたわけじゃ……」
底辺の生意気な弁解を軽く聞き流して作家子が続ける。
「そう? ならいいや。でもそれ濃塩酸だから気をつけてよ」
「ひゃあ」
急に充実がバケツから距離をとった。
「いや、そんな怖がらなくてもいいけどさ。いろんな器具入ってるでしょ。酸で試験管とかについてる有機質を溶かして綺麗にしてるってわけ」
作家子の説明を聞いても、充実はもう流し台の一角には近づこうとしなかった。代わりに大きなオーブンのような装置に寄っていった。
「これは何ですか……あ、この中にもガラス器具がいっぱい!」
「それは洗浄したあとの器具を乾燥させてるの。汚れはついてなくても水がついてると測定に誤差がでちゃうからね。特に水分に弱い試料を扱うときは、そこから出した後にヒートガンで乾かしたりするよ。ヒートガンってのはドライヤーのすごい版」
「実験室なのに普通の家っぽいものもいろいろあるんですね。こっちには冷蔵庫なんかもあるし」
底辺も、自分の後ろにあった冷蔵庫に言及して、がんばって会話に入っていった。
「中にあるのは危険物だけどね。KCNもAsも普通に入ってるよ」
作家子はいたずらっぽく笑う。
「KCNって、もしかして青酸カリ……?」と、充実。
「Asって、周期表のあれだから……ヒ素」と、底辺。
怯える二人を見て楽しむ作家子。
「誰も飲んだりしないから平気だよ。……とまあ、こんなところでこの実験室の説明は一通り終わったかな。せっかくだから、隣の会議室で紅茶でもどう? それともコーヒーがいい?」
三人は実験室を出て会議室に戻った。作家子は会議室に置いてあったCDラジカセをつけ、ポットに水を入れてお湯を沸かし始めた。充実は少し不思議そうな顔をした。作家子に砂糖が必要かどうか尋ねられると充実は、ダイエット中なのでいらないと言った。それよりも、作家魂のなせる業か、充実はもう少し実験室が見たいと言い出したが、底辺はというと、実験室の刺激臭のせいか、少し気分が悪くなってきたので、飲み物を遠慮して建物の外へ新鮮な空気を吸いに行った。三十分ほどして底辺が戻ると、会議室は無人で、洗ったカップが置いてあるだけだったので、実験室のほうに入ってみた。底辺が実験室内を見回していると、奥のほうから作家子が近づいて来て、充実は既に帰宅したと言った。底辺はそれまでずっと建物の出入り口付近にいて、充実が出て行くのは見かけなかったつもりだが、気づかないうちに通ってしまったのかと思って悔しがった。サインをもらいたかったからだ。底辺はしかし、作家子のサインだけはしっかりもらって、家路についた。帰り道、サインを飾るための額縁を買った。
オフ会を終えて帰宅した底辺は、いつものようにパソコンで新都社をチェックした。すると、なんと充実の新連載がスタートしていた。今までの話は休載するという告知もされていた。新連載はSFのようだし、やっぱり今日の珍しい体験が、充実先生の創作意欲を刺激したのだろうかと底辺は思った。一気に読み終えて、それから何度か読みなおしたあと、ついでに作家子の唯一の作品も検索して拾い読みした。パソコンを切り、受験勉強に使っている参考書を申し訳程度に読んで、底辺は布団に入った。しかし、なかなか寝付けなかった。一度起きて、飾った額縁から作家子のサインを抜き取り、ゴミ箱に捨ててから、再び布団に入った。
○解答編
オフ会翌日、底辺は早起きして再び西都大学へおもむき、研究棟へ作家子を訪ねていった。急な訪問にもかかわらず、作家子は快く底辺を迎えてくれた。
「あの、もう一度、実験室を見せてもらえないでしょうか?」
「いいけど、どうしたの?」
「ちょっと気になることがありまして……」
そう言って底辺は実験室に入り、床を丹念に調べた。床には特に汚れている部分はなく、清潔そのものだった。床に這いつくばりながら、底辺は作家子に聞く。
「実験室には、のこぎりとかなたとかは置いてないですよね?」
「そういうのは何もないなー。実験には使わないから」
さりげない作家子の返答に、そうですか、とつぶやきながら底辺は立ちあがると、今度は実験室の隅のほうへ歩いていき、流し台の下にあるバケツの前で立ち止まった。
「昨日はこのバケツはふたがされていませんでしたけど、いまはふたがしてありますね。開けてもいいですか?」
作家子の許可を得て底辺がふたを開けると、中には昨日と同じようにいろいろなガラス器具が沈んでいた。
「なにかあった?」
作家子が満面の笑みを浮かべて底辺に尋ねる。
底辺は答えず、フッ素樹脂製のトングを使って、バケツの中を漁った。しばらくがちゃがちゃやってから、底辺は、がっかりしたようにつぶやいた。
「……ありました」
「何が?」
底辺はトングではさんだ物体を、作家子の前に差し出して言った。
「これ、IUDの銅部分のようです」
「……銅?」
作家子の表情が固まる。
「IUDとは子宮内避妊用具、俗に言う避妊リングです。銅から排出される銅イオンが受精を妨げるタイプが安価で一般に普及しています。そして塩酸は酸化力の無い酸ですから、銅を溶かすことはできません」
「……よく勉強してるじゃないの」
「一応受験生ですから。後段は釈迦に説法でしたけど、避妊具については作家子先生もご存知なかったようですね」
「必要ないからね。君だってそういうの縁がなさそうに見えるんだけど」
気にしていることを言われた底辺は、少しむきになって返事をした。
「いまは必要ありませんが、いつか彼女ができたら使うかもしれない知識ですから、知っておくに越したことはないかと」
「それは失礼。全く童貞君は変な事に情熱傾けるんだねぇ!」
作家子は意地悪く言い放った。そして、ゴム手袋をした指でつまんだ銅片を見つめながら、作家子は深くため息をついた。
「……これじゃ言い逃れは無理か。あーあ、金歯とかボディピアスとかは確認したんだけどな。子宮までは調べなかったよ。硝酸も入れとけば良かった。いや、溶け残りがないかどうか確認すれば良かっただけか。でもそんな器具があるなんて想像もしてなかったからなー。なんか反則くさくない? こんなの知らないって普通」
「普通の貞操な女性は知らなくて当然だと思います」
「あはは。充実先生は遊んでそうだったもんね。男子はああいうタイプの子が好きなんでしょ」
作家子は銅片を実験台に置き、ゴム手袋を外して目をふせた。
「私はね、現実充実に、なりたかったんだよ……」
「作家子先生だって十分美しいです」
「いや、そうじゃなくて、新都社的に、なりたかったんだ……」
「ぼくは先生のファンですけど、でもそんな贔屓目なしに、作家子先生の作品は充実先生のより良かったと思ってます。ランキングも一位でみんなの評価も高かったし、他の先生をうらやむ必要なんて全然ないくらいに成功してたじゃないですか。それなのにどうして……」
作家子は無表情のまま、底辺のいるほうを避けながら視線を部屋の奥へと向ける。
「違うんだよ……私は、怖かったんだ。……初めから成功し過ぎちゃったのかな。読者から次回作への期待度が高まるにつれて、どんどん私は苦しくなった。半端な作品を書いたら、人気作家子という名前までもが汚される気がして。前回を上回る作品にしなければならないという重圧、なのに、筆が進まない。そして、焦る。ますます、書けなくなる……」
空気作家の底辺には、到底実感の沸かない話だった。実力のある者にのみ許される贅沢な悩みだと思った。そして底辺は、純粋な疑問をぶつける。
「だったら、別のペンネームで書けばいいじゃないですか……」
底辺の悲痛な叫びに、作家子が真摯に答える。
「正直に白状すると、ゼロから始めてまた成功できる自信はないんだ……」
茫然とする底辺をよそに、作家子が続けて話す。
「そんなとき、現実充実の存在が目に入った。彼女はコンスタントに優れた作品を出し続けてた。私も、二作目さえ、二作目さえ出してしまえば、あとはそのまま流れに乗って自然に作品を出せると思った。でも、その二作目が出ない。ゼロから始める勇気もない。つまり、永遠に立ち止まったままってこと。絶望したよ。私は一生、自分を表現できないままなんだって」
やおら、作家子が顔を底辺に向ける。
「君もわかるでしょ? わからないかな? 書きたいのに書けない辛さ」
底辺は、それなら少しはわかるかもしれないと思って、控え目に相づちを打った。
「だから私は、現実充実になることにした。充実なら、既に相当の実績を残している。私が乗り移る器に相応しかった。私の臆病さは不問のまま、名誉欲は確実に満たすことができる。これから充実の名を使って、私の新しい作品を心おきなく発表できる、そう思った。私は、ランキング上位常連の充実として、意気揚々と新連載を開始した……」
作家子はそう言って立ちあがると、窓のほうを向き、両手を上げて伸びをした。
「……すぐばれちゃったけどね」
それから作家子は白衣を脱ぎ、軽く畳んで実験台の上に置いた。いつのまにか、表情の緊張感は消えていた。
「ね、最後に一つ聞いていい? なんで私だってわかったの?」
姿勢を正して底辺が答える。
「それはぼくが、作家子先生の熱狂的なファンだからです。充実先生の作品も読んでましたし、文章の雰囲気が作家子先生風に変化していることにはすぐ気が付きました。自分で良い小説が書けないからといって、人の作品の魅力を読み取れないとは限りません」
「ふふ……。それって、君の無能ぶりを見込んでオフ会参加者に選んだ私に対するあてつけかい?」
「いや、そんなつもりは……。ていうか、やっぱりそうだったんですね。道理で話題性の割に参加者が少ないはずです」
底辺はいったん納得した顔をしたが、また悲しい疑問符のついた顔に戻り、作家子に質問する。
「ぼくも教えて欲しいことがあります。オフ会のとき、ぼくが実験室を離れた時間は確か三十分くらいだったと思うんですけど、そんな短い時間でどうやって……」
「液体窒素で冷やしたバラがどうなるか知ってる?」
底辺はかつてテレビで見た映像を想い浮かべ、瞬時に納得した。
「まあ、人間はバラの花ほど粉々にはならないけど、私の場合はバケツに入るくらいの大きさに砕ければ良かったからね。液体窒素を入れてた金属の容器覚えてるかな。あれを思いっきりぶつけたんだけど、思ったより固くて重労働だったよ。体重かけたりしてなんとかがんばった」
「それで、刃物もないのに、そして血痕も残さずに、解体できたというわけですか。あとは塩酸で丸一日かけてじっくり溶かす、と。でも、そんなにすぐに溶けてなくなるものなんでしょうか」
「高校とかにある薄いのじゃなくて、濃いやつだからね。結構強力よ。最後のほうは硫酸も追加したし。さすがに骨とかは時間かかるけど、溶けかけたら細かく砕いたりヒートガンで加熱したりして。ちょっと煙出て焦ったけどさ。あと、あの子ダイエットしてるって言ってたから、カルシウム不足で溶けやすかったかもね」
「……殺すのには、青酸カリかヒ素でも使ったのですか?」
「別に首しめたっていいけど、せっかく毒物あるから両方適当にコーヒーに入れといたよ。味で感づかれても面倒なんで、実験室にはクロロホルムを充満させといた。感覚を鈍くするためにね。昨日君も気分が悪いって言ってたでしょ。ペンキみたいな臭いがしたって。私みたいに普段から溶剤使ってれば、あれくらいの濃度なら大丈夫になるけどさ、初めてじゃきついよね」
「それで体調悪くなったぼくが外に出てる間に、犯行に及んだのですね。でも、もし、ぼくが会議室内で休むって言ったらどうしたんですか? 作家子先生は充実先生と二人きりになる必要があるのに」
「そうならないためにCDかけたんだ。モスキート音。若い子にしか聞こえない不快音ってやつ。ただ、これはおまじない程度の意味で、失敗したっていくらでも他に方法はあった。例えば、『空気作家は遠慮して』って言って追い出すとか。でもできたら自然なほうがいいし、こんなこと言って君のトラウマになったら悪いでしょ」
「作家子先生、心にもないことを言われると悲しいです。そもそも、罪をなすりつけようとしてぼくを参加させたくせに……」
「いやいやそれは誤解だよ、完全犯罪狙ってたんだから。万が一ばれたときのための保険……って、やっぱりなすりつけてるか(笑)」
ここまでさも日常的な会話のように話す作家子の人間性が、底辺には信じられなかった。驚き呆れ、不信感が嫌悪感に変わる。しかし、
「ごめんね」
と言って急に泣きそうな表情をした作家子を見たら、底辺の心も平静を取り戻してしまった。逆に、申し訳ない気持ちにさえなった。
「……まあ、こんなちんけな嘘をあばいて得意になってる暇があったら、君もとにかく作品を書き続けなさい。そうしたらいつか面白い小説が書けると思うし」
底辺は、強がる有名作家のアドバイスをかみしめた。そうすることが、底辺の大好きだった作家子先生の、最後のプライドを尊重することだと思った。
「あ、でもこの事件のことはダメだよ。あとで私が書くんだから」
そう言い残して作家子は、さっそうと実験室を出て行った。
その後、充実先生の新連載が更新されることはなかった。