重力井戸
重力井戸の底にはカエルの国があるという。だからというわけじゃないが、せっかくなので降りてみることにした。地球なんていまどき誰も関わらない辺境の星だが、いまのおれには、静かなほうが都合がよかった。
操縦桿を握る手がやけにぬめる。妙な液体が分泌されているが、これは単なる手汗らしい。おれは普段、汗なんてかかない。だからやけにぬめるその手は明らかに何かの異常を知らせる身体からのサインだとは思うのだが、それに応える元気がおれにはない。
マイルドウェイに宇宙船の首を突っ込み、あとは自動操縦で井戸の底まで降りる間に、おれは何度も座席を立ったり座ったりした。なにかやるべきことがあったような気がするのだが、それが思い出せない。ひめくりカレンダーをめくっていっても、二週間先とか、七十時間先とか、そういういますぐどうこうできる予定や約束が一個もなくて、それはそれでおれが望んだゆとりではあるのだが、どうもそわそわしてしまう。肘でコーヒーメーカーをひっくり返して、それを立て直す気にもなれなかった。なにかやろうと思って立ち上がったのに、いざやらなければならないことが起きると、それができない。困ったものだ。
スクリーンにはやけに目にきつい青が映っている。地球だ。以前、見た時はなかなか美しい星だと思ったのだが、いま見ると牛の脾臓みたいな色にしか見えない。おれはぐるぐるとコックピット・ラウンジの中をうろつき回っては、シャワーを浴びようとしたりそれをやめようとしたりした。そうこうしているうちに、なんだかあっけないくらい簡単に宇宙船が地球へ降り立った。
カエルの国の人たちは親切だった。宇宙船から降りてきた毛無し猿のおれを見て、物珍しそうにしていたが、銀河共通語でおずおずとあいさつしてくれた。おれもなんとか、ぼそぼそと定型句だけ返した。だけどそれでおしまい。続くセリフが思いつかなくて、やけに顔がひくひくして、わけもなく叫びそうになり、とりあえずトイレに逃げた。トイレだけはいつもおれを受け入れてくれる。もっとも、人口過密に陥っていない居住地のみに限定されるが。おれが、セントラル・プラネット・ツリーから顔を背けるようにして逃げ続けているのは、とにかく、あそこの人口が多すぎるからだ。一兆。一兆だ。少しは減った方がいいと思う。そう思い込んで小説を書いていたら、思想医師に見つかって薬剤を処方された。精神安定剤だ。けれど、それももう効かなくなってきた。トイレで残った錠剤を口に流し込み、おれはカエルたちのところへ戻った。
「地球へは、なにをしにいらしたんです?」
「え? あー、いや。ちょっと、なんていうか、あー。……いろいろあって、むずかしいな、なんて言えばいいんだろ? あ、うー、その、……すいません」
「いえ、謝らなくても……」
カエルたちは不審そう、というよりも心配げにおれの顔を覗き込んできた。くりくりと大きな目玉が顔からはみ出している。うっかり角にぶつけたりしないんだろうか。そしたらすごくいたいんじゃないだろうか。おれはカエルたちがかわいそうになって、すこし涙ぐんだ。
とにかく、おれはこの地球でなにかをしなくちゃらない。休むなら休むで、休まなくてはいけない。なにもしないのはよくない。だというのにおれは、日が暮れるまでウロウロと町を彷徨い、宿の看板が目に入っているにも関わらず素通りし、ときどき宇宙船にありもしない忘れ物を取りにいこうと振り返っては我にも返り、とにかく、時間を浪費していた。ガイド役のカエルはほんとうにおれのことが心配になってきたようだった。
「あの、体調がすぐれないのでしたら、病院へいかれます……?」
「え? あー、いや、いいんです。病気じゃないから」
「でも……」
「それより、えーと、あれなんでしたっけ」
おれは民家の屋根を指差す。『あれ』ってなんだっけ、といっても、それは『あれ』がなにか、ではなく、『あれ』が『どれ』なのかおれにもわからないからだ。そんなおれの混迷がカエルに解きほぐせるわけもなく、会話はだんだん途絶えがちになり、結局、沈黙が都合のよい落としどころになるまで、それほど時間はかからなかった。
おれは沈黙が好きだ。
でも、沈黙にもいい沈黙とわるい沈黙があって、これはいまのところ、わるい沈黙だ。なぜって、会話が止まってしまったことに、おれがそっぽをむいていることに、カエルくんがとても気を病んでいるから。おれは全然気にしていないのに、カエルくんはとてもつらそうだ。なにもかもおれが悪いのだが、それをおれにはどうすることもできない。興味のないものを指差しては通り過ぎ、おれはただただ時間が浪費されてしまえばいいと思った。いっそおれが原子にもどるまで。
そもそも、おれはなぜ地球へ来たのだろう? 観光目的か、それとも発掘調査か。いや、そのどれでもない、おれは目的がないままに地球に降りた。それはなぜだろう。なぜなのか、わからないと、これからどうすればいいのかわからない。宿をとるべきなのか、発掘現場に顔を出すべきなのか、いますぐこのカエルを突き飛ばして殺すべきなのか、いっこうにぜんぜんわからない。とにかく、目的が必要なのだ。確固たる方向性が。
「あの……?」
「ああ、いや、なんでもない。それより、おれ、どこに泊まるんだっけ?」
「まだお決めになられていないと思いますが……」
「あ、そうだっけ。あー、じゃあ、探さなきゃ」
「よろしかったら、わたしが探してあげましょうか」
「あ、ほんとですか。ありがとう。それでおねがいします」
ついにおれは選択できた。そう、おれはカエルくんを頼ればよかったのだ。親切なカエルくん。かれはすぐにおれの宿を手配してくれた。これで今日はもうなにも考えなくていいのだ。
案内された宿でカエルくんと別れ、べつにカエルくんに宿帳に名前を書かされ、部屋に入るとカエルの女の子がテーブルを拭いていた。おれはぴかぴかのテーブルに映る自分の顔をしばらくながめていた。カエルじゃない。
「あの、なにかたべものをお持ちしますか?」
「えーと、いいです。お菓子かなにかあれば」
「和菓子なら、そこにいっぱい……」
「え? あ、これ」
テーブルには和菓子の詰まったお皿があった。クリームでいっぱいだ。これをなめていれば、しばらくは大丈夫だろう。糖質も粘度も。
「ねえカエルちゃん、おれはなにをすればいいのかな?」
「え……? なにを、というと……」
「おれは、なにをすればいいのかわからないんだ」
「えと……お風呂に、入られては? 温泉が一階にありますので」
「シャワーがいいな。シャワーあります?」
「はい、そちらのとびらに」
「ありがとう。じゃあ、シャワーを浴びたら寝ます」
「そうですか」
カエルちゃんは出て行った。おれは自分の言葉通りに、シャワーを浴びて、浴衣に着替えて、布団に横たわった。
木目の天井を眺めていたらなぜか涙が出てきた。なぜだろう。おれはなにも悲しくなるようなことはしていないはずなのに、どうして涙が出るんだろう。わからない。重力井戸の底では、目から涙を引っ張る力が働くのだろうか。そうだ、きっと、それは見えないねばねばした見えない糸で、おれの涙を持っていこうとするのだ。おれはそれに耐え切れず、あたまをさげるようにゆっくりと泣いてしまう。でも涙は泣き声とセットでなくちゃ不安定だ。でも、俺は声では泣けない。
「ここどこだっけ」
天井がぐわんぐわんと揺れている。やばいクスリの影響に違いないのに、おれはなにもクスリを飲んでいない。精神安定剤など、とうに効かなくなっていて、こんなトリップは味わえなくなっていた。だから、これは、クスリのせいじゃなく、地球の引力のせいだ。重力井戸の底の底、ずっと奥深くにいる何者かが、おれの脳味噌を掴んで引っぺがそうとがんばっているのだ。がんばれがんばれ。そのまま引っこ抜いてくれたら、きっとなにかが変わりそう。