芳賀のニガー
数分間、操縦桿を握ったまま眠っていた。空の上で気絶するなんて、と思われるかもしれないが、ある程度の高度と航空角度があればそうそう墜落なんてしない。むしろ、水平飛行から墜落することのほうが難しい。深い水の中に潜っていくのに似ている。放っておけば、勝手に浮くか、ゆっくり沈む。どちらかだ。
芳賀は風防から見える水平線がまっすぐになるように、操縦桿を倒していった。力なんていらない。手の平の付け根で押していき、飛行機を水平に戻していく。芳賀の乗る水上偵察機は、改造のしすぎでもう名前がない。元の機体とは性能も装甲も動力炉も異なってしまっている。だが、一応、オリジナルにちなんで『ニガー』と呼んでいる。芳賀のニガー。装甲は黒ではなく、むしろ青い。
風が冷たくなる程度の速度で飛行機を流しながら、空図を見る。一年前の事故以来、芳賀の側頭葉は空図を読んでくれない。何度目を凝らしても、それが何を意味しているのか分からない。だが、飛行機乗りとしては致命的というほどではなかった。大切なのは機体の振動、そして水平線の角度だ。それだけあればいくらか飛べる。
何度も瞬きしながら、芳賀は海の上を飛んでいく。そして洋上にぽつんと、羽虫のような小さな島を見つけた。しばらく、その上をぐるぐると回る。プラントはなさそうだ。古式ゆかしい太陽光発電で、数名か、あるいは一名程度の人間が暮らしている離島だろう。芳賀はそれを無視してもよかった。だが、もう燃料が尽きかけていて、その島を見過ごせば、まず間違いなく海上に墜落する。
芳賀はそのことで迷っていた。
だが結局、渋々と、つまらなさそうに機体を傾け、離島に降りていった。
そして、呆然とした。
「なにか飲むか? コーヒーは、相変わらず甘いのが好きなのか」
「……ええ」
芳賀は、不貞腐れたように顔を背けながら、その小さな海岸線を窓から覗ける部屋を見回した。その部屋の住人は、煤だらけの白衣を羽織って、ほつれた白髪頭を見せながら、コーヒーメーカーを回している。芳賀はコーヒーを作れない。だから、その背中を眺めていることしかできない。
老人は、テーブルに着いた芳賀の前にコトリ、とカップを置くと、その対面に座った。くもったメガネの奥から、懐かしそうに、芳賀を見ている。
「驚いたよ。まさか、お前が来るとは」
「俺も、驚きました。博士がまだ生きてらっしゃるなんて」
「私は死ぬのが下手なんだ」と博士は笑った。かつて、『ニガー』や『ポット』を作った指先は、化学薬品のせいで溶けて指紋が無くなっている。
「芳賀。お前は、あれからどうしてた。戦争が終わってからすぐに消えて、私は心配していたんだぞ」
「……べつに。あちこち、飛びまわってました」
「傭兵か?」
「いえ」
「根無し草か」
「もとからですから」
博士はじっと芳賀を見つめた後、カップを置いてそこに黒い漣を立たせた。
「故郷には帰らなかったのか」
「燃えましたから」
たとえ燃えなかったとしても、帰れませんよ、あそこには、と芳賀はそっけなく言った。
「それより博士、あなたのほうこそ、あれからどうしていたんです。あなたなら、戦勝国の技術顧問として、どこにいったって仕事があったはずだ」
「ああ、しているよ。いまは、電信で設計図を軍に送っている」
「そうなんだ」
「金なんかあったって仕方ないがね。この島で、すべての物は足りている。だからいわば、ボランティアだ」
「人を殺すボランティアですか」
「手厳しいな、相変わらず。……だが、いちおう言い訳をさせてもらうと、私がいま作っているのは補給船だ。戦闘機も軍艦も、もう作っていないよ。その必要も、いまのところはない」
「よかったです。そのために戦っていたわけですからね、俺たちは」
「軍人は、だろ」博士はにやりと笑って、
「お前は違うよ。お前は、徴兵されたから戦っていただけだ。愛国心も、未来への希望も、お前には無かった。だから私は、お前を『ニガー』に乗せたんだ」
「使い捨ての駒として」
「自分でも思っていないことを言うのはよせ。……お前が撃墜されるわけがないだろう。自分の成績、分かっているのか?」
「成績? あんなものはね、紙切れですよ。博士がそれで俺を買っていたなら、目が悪かったんだ。……俺が死ななかったのは、もっとべつの理由です」
「まだ、気にしているのか?」
博士が、壁際にかけられている写真にちらりと目をやった。
「……第八航空隊のことを」
「気にせず生きていけると思いますか? 俺は、仲間を撃ち殺したんですよ」
「お前のせいじゃない。あの作戦は、お前たちを捨て駒にしていた。だから、なにをしようと、生きて帰ってこれただけ、よかったんだ。でなければ、全滅していたろう」
「それは違います」
芳賀は、カップを握り締めている。その水面に、過去が見える。
「俺なら、敵戦闘機隊を全て単騎で壊滅させることが可能でした。俺は、そういう人間です。ほかのことはなにもできないが、一点突破だけなら誰にも負けない。あの作戦で、俺が味方を撃ち殺さなければならなかったのは、敵戦闘機隊にずば抜けたエースがいたとか、相手の数がこちらの十二倍だったとか、そういうことじゃないんだ……俺が、『三番機』でなければ、俺は誰も失うことなく、敵機をすべて撃墜させていました」
戦闘機は、編隊を組む。だが水の上をいく駆逐艦のように、安定した触媒を持たない飛行機は――それが『液体』と『気体』に属するものの決定的な差だ――編隊を組みにくい。飛行機は、すぐに動く。逸れていく。空中給油と水上給油では難易度がまったく違う。水のほうが優しい。空は気まぐれだ。
だから、戦闘機隊は基本的に縦列隊形を組む。シンプルに、リーダー機に付随して、弟のように部下機が二、三機ついていく。リーダー機が撃ちもらしたターゲットを、後続機が落とすのだ。
そして、芳賀ほど『後続機』に乗ることが向いていないパイロットはいなかった。
「邪魔でした」
芳賀も、壁にかかっている写真を見ている。
そこにはいまも、かつての仲間たちが生きている。
皇橋、錬堂、九獲、綺羅、望陽、翔脳……誰もがいいパイロットだった。誰もがいい上官であり、同僚だった。誰もが……
「俺は、航空戦はスピードと場所取りが全てだと思っていました。いまでもそうかもしれません……脳をやられて、もう戦闘はできなくなりましたが。
博士。
俺は、一番速いやつが、リーダー機であるべきだと思っています。あるいは、それが無理なら、いっそ編隊など組まなければいい。全機縦横陣形、いわゆる『各機自由に敵を殲滅せよ』、です。それがどれほど美しい戦いになるか、分かりますか? 皆が、鳥のようになるんです。自由に、自分の恣意に沿って飛ぶんです。それが一番、敵を追い詰められる。そんな戦闘機隊の動きなんて、誰にも読めないわけですからね。自分たちにさえも。
軍は、俺のどちらの案も拒絶して、俺より遅い綺羅をリーダー機にしました。自由編隊も一笑に付しました。いまでも愚かだと思っています。俺じゃないですよ、軍がです。あそこは俺からすれば、馬鹿どもの集まりでした。どうしようもないほど、俺には動き難い場所だった……言っちゃ悪いが、綺羅――当時は、上官でした――やつの後ろで俺に翔べなんていうのは、どうかしてるってことです。あいつは上官としては親切なほうでしたが、飛行機乗りとしては致命的でした。遅かったからです。
あいつの航空速度で、自分たちの十二倍の戦力を無力化するのは、無理です。決死戦? それならなぜ、一航戦に栄転が決まっていた九獲が随伴していたんでしょうね。捨て駒にするなら、死なせたら怒られる子を出撃させたり、俺ならしません。わかりますか、博士。あの時、軍が何を考えていたか。蜂山少将が何を考えていたか。
どっちでもいい、ですよ。
どうせ死ぬだろうが、勝ちゃあ儲けものだし、なんとかなればその時は移動予定の九獲に箔がつく。子飼いのパイロットの栄光は、面倒を見た上官の面子にもなります。だから、蜂山少将にとって、あの作戦はどっちでもよかった。勝っても負けても。ただ負けるのは『しゃく』だから、勝った時に夢を見られるように九獲を出撃させたんです。あいつはいいやつでした――ちゃんと育ててやれば、いいパイロットになったはずです。
でもね博士、俺がなにより許せないのは、蜂山がなぜ、『勝つかも』と考えていたのか、その理由なんだ。俺にはそれが、分かってた。あの時、第八航空隊の中には撃墜王がいました。出撃させればかならず戦果をあげてくるズルいやつです。そいつがいれば、なんとかなるだろう。あいつはそう思っていた。
この俺で、『タカ』をくくったんです。
芳賀ならなんとかするだろう。
エースだからなんとかするだろう。
……ええ、なんとかしてやりましたよ。俺は見事、生還した。敵機をすべて撃滅した。
邪魔な『味方機』を即座に全滅させて、空に隙間を作ってね」
もう、コーヒーは冷えていた。
芳賀の嘔吐じみた吐露に、博士はなにも答えず、じっと耳を澄ませていた。細い目が、眠るようにわずかに閉じられている。芳賀はそんなことには気をやらず、続けた。
「俺には死ぬこともできました」
「……芳賀」
「諦めて、死ぬことが、俺にはできました。それはきちんと選択肢として、俺の手の中、操縦桿の向こうにありました。でも、俺はそれを拒否した。
生きていたいんじゃなく、死ぬのがしゃくでした。
だから生きようと思った。そのために、邪魔なやつらはみんな撃ち落してもいい、と」
「それが、戦争なんだろう、な」
「ちがいます。俺の戦争です。博士が言ったことです、『芳賀には愛国心がない』。ええ、そうです。俺には国なんかどうだっていい。VIP待遇で観測機の操縦者にでもしてもらえるなら、喜んで敵国にいったと思います。俺には家族が、分かりませんでした。俺には友が、分かりませんでした。俺には師が、分かりませんでした。俺には……何も、分かりませんでした」
「それはちがう。お前は……ただ、目がよすぎたんだ。いろんなものを、見てしまっていただけなんだ……」
「だからなんです? それを見なければ、空中戦では生き残れない。よちよち歩きのチェス勝負なんかとは違うんですよ。一瞬です。一瞬で、わずか一ミリ足らずの翼対接触で飛行機は落ちるんですよ。俺の戦争は、あんたたちが舐めていたような飴玉とはちがう。俺の怒りも、俺の憎しみも、なにも受け皿にはなってくれなかった。俺は、それを空にぶつけただけです。俺は空を殴りたかったんです」
「……芳賀……」
「俺の言いたいことは、それだけです。博士、コーヒー、ありがとうございました。それから燃料も。二度とこの空域には来ないと思いますが、博士がこれからも平穏無事に生きていけるように祈ってます。ほんとに」
芳賀は立ち上がり、部屋を出て行こうとした。その汚れた背中に、博士は机を叩いて叫んだ。
「芳賀っ! ……お前は、これからもそうなのか。お前は、ただ飛行機に乗ることしかできないのか。なにか理由をつけて、自分を誤魔化しても、ちがう生き方を――ちがう考え方を――」
「俺には忘れることができません」
去り際に、閉められかけた扉の向こうで、芳賀は幽霊のような顔をして言った。
「――仲間を『邪魔』だと思った、経験は」
芳賀はすぐに出て行った。
『ニガー』は水蒸気の糸を幾筋も引きながら、追加した燃料で膨れた腹の重みを感じさせず、青空に吸い込まれていった。
空に喰われたのかもしれない。