機械と脳
人間を機械に接続する。それはいつの頃からか、人類共通の夢となっていた。かつて機械の身体を求め旅した少年の物語は忘れ去られ、より効率的で、より生産性の高いボディを人類は欲しがった。脳味噌の中にタイマーがあれば、遅刻とも欠勤とも無縁というわけだ。それは素晴らしいことに思えた。だから私は機械工学の最高学府の頂に手をかけ、あっさりとそれを乗り越え、科学の王となった。才能というものは恐ろしく、だれも私には勝てなかった。だから私は自分が間違ったと思ったことはない。私は常に正しく、誰よりも先を進んでいる、はずだった。
私がその脳と出会ったのは九十三年の春のことだった。秘匿医院の地下三階にその部屋はあった。地熱で温められたその部屋に空調は必要なかった。それでも室温十七度、湿度が三十パーセントを下回るその部屋は、私の白衣では少し寒かったように思う。照明は青白い殺菌灯で、私は鬱血したような色のサングラスをかけてその光から視力を庇った。部屋の中央にある耐衝撃性のガラスチューブの光が乱反射し、その向こう側にある緑色の脳をロマンチックに輝かせていた。硬い革靴の底を静かに鳴らして、私は彼に近づいた。
「やあ、K。気分はどうだい」
『最悪だね』とKは震動音声で答えた。チューブに満たされた液体は、彼の脳波を読み取ってそれを声に似せた音として響かせる。
『ここにいるととても退屈だ。おれの脳に補充されるどんな娯楽も、おれの不満を癒してくれはしない』
「そうだろうね。ここにいたら、模様替えもできないものな」
『ああ、おれを活かす為の配線で、ここはいっぱいだ。わずかに漏電したmAの電流がいつもおれの神経を逆撫でする。まあ、慣れたがね』
「へえ、どんなふうに慣れたんだ? 私なら耐えがたいが」
『なあに、音楽だと思えばいいのさ。歌の下手な銅線が、おれのために騒音を奏でてくれている。そう思えば、いまいましいチリチリも愛嬌のあるビリビリに聞こえる』
「意識の捉え方次第で情報は違った入力のされ方をする。きみのやり方は正しい」
『おれは脳だぜ。使い方ぐらい分かっている』
カツカツカツ、とガラスが鳴った。Kが笑ったのだ。私はその硬質で無機質な笑い声が、嫌いではなかった。
『なあ、おい、ドクター。なにもおれとお喋りしにこんな穴倉に降りてきたわけじゃないんだろう。今日はいったいどんな発明をおれにくれるんだ? あんただけが、この退屈な小部屋でおれから退屈を消してくれる』
「身に余る賞賛で恐縮だが、いまは図に乗らせてもらおうかな」
『というと?』
「聞いて驚け」
私は悪の科学者のように白衣のポケットに両手を突っ込み、不敵に笑ってみせた。
「きみをこの牢獄から出してやる」
『ほぉう?』脳髄は興味を引かれたような声をあげた。
『おもしろいな、このおれを、わずかな直射日光でも浴びれば溶解してしまう脳味噌を外へ出す? ドクター、あんた疲れてるんだよ』
「きみは弱い」と私は言った。
「確かにわずかな環境の変化できみの脳はだめになる。壊れる、それはもっとも簡単で解決しがたい問題だ。壊れる、我々はそれをどうにもできない。どんなものにも永遠はありえない。だが、しかし、なんにでも『いまよりちょっとはマシ』な解決策があるのさ」
『じゃ、ドクター。それを見せてくれよ。おれにはまだ視力なら残ってる』
「ああ、いいとも」
私は革靴の底で床を軽く叩いた。天井のハッチが開き、そこからボルトで吊られた金属製の箱が降りてくる。
『なんの箱だ?』
「棺さ」
箱を下ろした鎖が開閉式の闇に消えていく。私は棺に近づいて、パスコードを入力した。
蓋は開かない。
「いまからこれにきみの脳を接続する。そうすれば、きみはこの棺の蓋を自らの手で開け、外に出てくるだろう」
私は脳を見上げた。
「私は君にボディをあげよう、K。考えられる限り、最高のプレゼントだと思うんだが、どうだい?」
Kはしばらく黙っていた。耐え切れないほどの感動と己の身に降りかかってきた絶望を思い出しているのだと私は思っていた。だが、違った。
Kはやがて、カツカツカツ、と笑った。
『はっはあん。なるほどな、ドクター。確かにそれは最高の贈り物だ。事故で身体を失い、こんなところに十年も閉じ込められているおれには、それは喉から手が出るほど――脳から目が生えるほど欲しいものだ』
「そうだろう、あと少し待て。いま配線を繋いであげる」
私が生命保護装置の配線を掴んで、棺のソケットにあぐらをかいて繋いでいる間、Kは黙っていたが、やがてぽつりと言った。
『よかったよ、ドクター』
「そうか、喜んでくれて私も嬉しい」
『いや、そうじゃない。あんたの人生に失敗があってよかった。友人として心から祝福する』
私は最後の配線を繋ぐのに一瞬、躊躇した。それを終えて、あとは導線を活かすだけになってから、私は立ち上がってKを振り仰いだ。
「なんだって?」
『あんたの作戦は失敗だ。それは、おれのボディにはなれない』
「なにをムカツクことを。まだ見てもいないくせに」
『見なくても分かるさ。どんな身体だろうと、その箱からは金属のにおいがする』
「きみに臭覚の入力器官はない。直接に信号を撃ち込まれない限りはなにも感じないはずだ」
『そんなことはないさ。おれは感じるんだ』
「ジョークはやめてくれ」
私は脳を睨んだ。
「このボディを作るのにどれほどの時間がかかったと思っている? ただ動かせるだけじゃない、このボディはきみの神経と完全な接合を果たす。いままで誰もが電気信号しか伝達できなかったが、私の作品は違う。電気信号とは違う、きみの魂だって、このボディには充填できる。これはきみなんだ、きみになれるんだ。なぜそれを拒む?」
『拒んでいるわけじゃないさ。怖いわけでもない。ただ無理だと思うだけ』
「もしきみの精神的な脆弱さが影響して完全な結合が果たせなかったとしたら、それは私のせいじゃないぞ」
『べつにプライドを傷つかせることはないよ。誰にだってできないことはある。それだけのことだろう』
「私にできないことなど、ない」
『ドクター、そういうところは好きだよ。あんたを見てると勇気が湧く』
「ならその勇気をいまだけ出せ」
『いやだね』
「なら、無理やり繋いでやるだけだ」
私は棺桶のボタンを押した。それでこの中のボディとKの脳は接続されたはずだ。
だが、私が見たのは棺の隙間から噴き出した白煙だけだった。そこからKが新しい身体を起こすことはなかった。
「…………」
『どうなった?』とKが笑いながら聞いてきた。私は舌打ちして、パネルに表示されたエラーコードを読み取った。
「基盤が焼損している。これではもう元通りにはならない。大破だ」
『あらら。悪かったな。おいくら?』
「蔵が立つほどかな。……教えてくれ。なぜ上手くいかないと思った?」
『それはね、ドクター。おれが人間だからだよ』
緑色の水泡の中で、脳が笑う。
『おれは人間だ。マシンにはなれない。ドクター、あんたはそれを分かってなかった』
「分かっていたさ。分かっていたから、繋げようとしたんだ」
『繋げられるわけがない。人間は機械を使うことはできるよ。でも、機械になることはできない』
「機械になるわけじゃない」
『脳味噌を直接繋がれてもか?』
「義手と同じだ。なんの不思議もない」
『ちがうね』
「なにが言いたい?」
『おれはあんたみたいに頭がよくないから、上手く言葉にはできない。おれ自身、よく分かっていないのかもしんない。でもなドクター、こんなボディにおれを詰め込もうとするっていうのは、あんたがおれを人間だとは思っていないからなんだ』
私は何も言えなかった。
「……きみを人間だと思って、いない?」
『ああ。あんたはおれをばけものだと思ってる。不自然な存在だと思ってる。生物的には死んでいなければならない存在だと思っている。科学の力のおこぼれにすがっている哀れな残骸だと思ってる』
「思ってない」
『思ってるよ。そしてあんたも、ほかの連中と一緒だ。おれを哀れんでる。そして同時に、生きることから逃げてる。でなければ、機械になろうなんて発想はない……わからないのか?
おれは、機械になんてなりたくない。お断りだ。
あんたは「なにをいまさら」と言うだろう。そんな脳だけの身体でなにができるんだと。
確かにそうだ。おれはなにもできない。あんたらのお情けで生かしてもらってるだけの脳に過ぎない。身体はない、人生ももうない。死んでるのも同然だ。でも……
いったいなにがマシだっていうんだ?
おれのボディはもうない。たとえそれがどんなに辛い現実でも、否定したくても、それは変えられない事実なんだ。ほかのもので代用なんかできないんだ。あんたに用意された幸福なんか、おれはいらない。おれの意見も聞かずに、勝手にそんなものを与えられたって、嬉しくともなんともないね』
「なら、望みどおりにしてやろうか?」
私の手には配線があった。
それを引き千切れば、すべてが終わる。
「おれはもう死んだ、それがきみの答えなら、いまここでそれを叶えてやるよ」
『そうしてくれて構わない。おれはこの身体にされて、一度だって「死にますか」なんて聞かれたことはない。お前らが勝手におれを生かしていただけさ』
私は配線を引き抜いた。途端にケースの中の液体が烈しく泡立ち始め、水泡の中にKの脳が隠れていった。崩壊のさなか、Kが低く太い声で囁いていた。
『おれは機械じゃない……おれは……』
ケースの中になにもなくなったあと、私はその部屋を後にした。
いまの時代に、彼のような脳の居場所はない。