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教授とイーゼル

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 研究資金の懸かったコンテストで、渾身の一点が落選して、洲崎教授はとにかく落ち込んで死んだんじゃないかとぼくは思っていた。なにせあの気性だから、手当たり次第に部屋の物をぶち壊したあとに世を儚んでうっかり首でも吊りかねない。大学で洲崎教授のゼミに入って二年目のぼくにだってそれくらいは分かる(たったひとりのゼミ生でもあるわけだし)。
 ところが、慰め代わりにマックのポテトLサイズ二個という誠意と心配の気持ちを片手にぶら下げたぼくが教授の自室を訪ねると、案外あっさり教授は顔を出した。もう四十八にもなる洲崎教授の髪は灰色一色で、その目は人を疑うことしか知らない色をしていたが、ぼくを見ると「よう」とかすれもしない若い声を出してきた。
「入れよ」
 ぼくは教授に従って、ゴミだらけの部屋に足を踏み入れた。ゴミというか破り捨てられた作品なのだが、最近はその数も増えてきた。ぼくはおそるおそる教授に差し入れを渡した。教授は頷いただけだった。
 なんとも重苦しい沈黙が、イーゼルにかけられた落選作をさらに強調していた。参ったなあと思う。なにか教授は言葉にならないメッセージをぼくにしていて、無理心中とかさせられてしまうんじゃなかろうか。そうなったらぼくは教授を殴り倒して富山の実家に帰らなければならない。
「お前、俺が落ち込んでると思ってんだろ」
 コーヒーを淹れてくれている教授の背中が言った。ぼくは見られていないのに首だけ頷いて、そして教授はそれを知ってるかのように頷き返してきた。
「ばかめ、俺があんなことで落ち込むか」
「でも、あれっきり大学に顔を見せなかったじゃないですか、教授」
「ふん、馬鹿しかいねぇところにわざわざ歩いていく気がしなかっただけだ」
 教授はコーヒーを置いた。ぼくはそれを飲む。
「教授、その、賞は残念でした。でも、いいセンはいっていたと……」
「よせよせやめろ、辛気くせぇ。もうどうだっていいんだよ、あんなことは」
 教授は苦虫を喰っているような顔で自分のぶんのコーヒーをすすった。
「お前のことだからそういうとは思ったがな、本当に俺はどうだっていいんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。金なんか、べつになくったって研究はできるってことを親に愛されて育った金持ちどもに教えてやるぜ」
 教授はいまでも自分の生まれのことを気にしているのだ。
「まあでも、しばらくなんにも作れねえのは確かだ」
「でしょう。そんなんじゃ教授、気が狂っちゃうでしょ」
「そこまでじゃない。俺だって研究一筋ってわけじゃねぇ。遊びもすりゃあほかの生き甲斐だってあるんだ。狂人じゃないんだぜおれは」
「そうかなあ」
 研究に没頭しているときの教授のことを知っている身としては、悪寒を振り払うので手一杯だ。
「でも、あれですね、やっぱり教授は世間に認められないんですね」
「ああ、あれのことか」
 教授は落選作を顎で示した。そして鼻で笑い、
「ふん、どうだかな。案外連中が正しいのかもしれないぜ。これに関しちゃ確かに不備がなかったとは言えない。ま、受賞して天狗になるよりかは、おっこっちまったほうが俺のためなのかもしれない」
 教授はインフルエンザなのかもしれない。
「だがまあ、福井よ。お前も覚えておいたほうがいいよ」
「世の中うまくまわンない、ってことですか?」
「ちがうよ。連中がおれになにをどう言ったかってことをさ」
「なにをどういったか……」
 再現したらいまここで教授に絞殺されそうな言葉の螺旋だったことは確かだ。
「まあ、なんというか、人の気持ちが分かっていないというか、ひどい審査員だったというか……」
「ひどいのは態度でもなけりゃあ性格でもねえよ」
 教授はコーヒーカップのふちをキンキンと爪で叩いていた。その音色を聞きながら、
「なあ福井。おれは生きてちゃいけねぇ人間ってのは、どういう人間か自分で決めてるんだ」
「それはまた、苛烈な生き方で……」
「お前もやっとけよ、ラクだぜ。……で、おれはあいつらがおれを落としたっていうこと以外で、生きてちゃいけねえとあンとき思った」
 それはなんだろう、とぼくは思った。教授からしたら世の中死んじまったほうがいい人間だらけなんだろうけど、そのなかでもさらに、教授が落選させられたことよりも気に入らないことを言ったりやったりしたというのは、どこのだれが、なにをしたんだろう。ぼくには分からなかった。
 あいつらはな、と教授は言った。
「一度も、自分のことを喋らなかった」
「……自分のこと?」
「あいつらは俺に対して、どこぞの外国の天才外科医の論文だとか、どこぞの最先端企業が開発したとかいう画期的なシステムだとか、そんなものばかり引っ張り出して俺様の作品をこきおろしてくれたが、まあ、それは百歩譲って許してやってもいい。確かにおれは負けたのかもしれない。実はたいした才能なんてなくって、ツキとまぐれだけで博士号とか取っちゃったのかもしれない。それはあるかもしれない。認めるよ。
 だがな。
 おれにそれを認めさせるために、てめえが作ったわけでもない論文だのシステムだのを振りかざして、いったいぜんたい何様なんだって話だよな。これが素人のアンポンタンだっていうなら話はべつだぜ、だがな、あそこの審査員は全員おれと同門の学者だ。探求者なんだよ。道を探し求めるものがだ、なあ福井、わかるだろ。――自分で見つけ出したもの以外を武器にしちゃあいけねぇよ。それは自分への裏切りだし、自分自身が『無い』って言ってるのとおなじだ。正しいとか間違ってるとかそんなことじゃない、それはなんの意味も『無い』ことなんだよ」
「…………」
「正しいなんてなんの役に立つ?」
 教授はイーゼルにかかった自分の作品を眺めていた。もう興味はないらしく、製作時の情熱は消え去っていたが、それでもそれがなんであるかはその眼でまだ見えているようだった。
「正しさで道が開けるか。いままでも誰も辿り着いたことがないような場所にいけるのか? なんのために白衣着てんだよ。なんのためにボールペン浪費してんだよ。なあ? 考えるためじゃないのか、『自分』になるためじゃないのか。極端なことを言やあ『自分』以外のなにに価値がある? 自分以外は全部ゴミだって信念がなかったら、どこにいけばいいのか全然わからないじゃないか。そうだろ?」
「はい」
「こんなもの、間違ってていいんだよ」
 教授はイーゼルに近づくと、棚から取り出したアルコールランプをひっくり返して燃料まみれにしたあと、百円マッチで火をつけた。それを窓から中庭に放り捨てて周囲の学生たちが大騒ぎし始めるのを見てちょっと笑ってから、すぐに飽きて真顔になった。そして呟く。
「間違うくらいで先に進めるなら、おれはいくらでも間違うけどね」
 そんな教授が、ぼくは好きだ。






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