時空の薬価
記憶の倉庫に行くとアンドロイドが待っていた。まただ。また俺をここで止める。銀鉄色の通廊の先に彼女はいつも俺を待っている。服従と恭順を示唆する給仕服は、結局は皮肉の衣装でしかない。そう、どんなに懇切丁寧でも、人畜無害でも、彼女は鋼鉄の人形であり、そして俺の敵だ。記憶を失い、それを探している俺の敵なのだ。だが俺は彼女には勝てない。俺には記憶がないからだ。
「そこをどけ」俺は言う。
「邪魔なんだよ」
アンドロイドはにっこりと微笑む。薄気味悪い不気味の谷の笑顔、だがその両目だけが爬虫類のように爛々と輝いている。
「それはできません。あなたの記憶は、あなた自身から封印するよう、仰せつかっています」
「その俺が、命令を取り下げると言ってるんだ。俺には使命がある。おまえみたいなガラクタが止めていいはずがない」
「使命ですか」彼女は俺を嘲笑する。
「それがどんなものだったか、思い出せもしないのに?」
「そんなもの、確かめて見ればわかる」
「いいですか、もう人類は滅びたのです」
アンドロイドは両手を広げてみせた。
「地上をご覧になったでしょう。大破壊によってすべての文明は崩壊しました。生き残った人類はあなた一人。だからもう、何も考える必要はないのです。あなたの敵はすべて死に絶え、そしてあなたの味方は私ただ一人。これが完全な世界なのです」
「味方だと? おまえみたいなオモチャがか。笑わせるな」俺は中指を立ててみせた。
「滅びるのはおまえの方だ、まがいもの。俺はこの先にいく。記憶は俺のものだ。誰かに邪魔されて開けられないような箱じゃない」
「あなた自身が、思い出すことを拒んだのですよ」アンドロイドは肩をすくめる。
「なぜいまさら、それを掘り返そうとするのですか。そんなことをしても無駄なのです。あなたの記憶は薄汚れた泥塊に過ぎない。それをどんな角度から眺めてみたって、ゴミはゴミなのですよ」
「俺はそれをおまえが決めるのがムカつくって言ってるんだ。俺のことは俺が決める。おまえが余計な茶々を入れることじゃない」
肩を押して奥へ進もうとすると、アンドロイドがやんわりと、しかし断固とした手で俺を押し返してきた。
「こんな機械の私ですが、疲れを感じることもあります。特に何度説明しても、諦めようとせず記憶の扉を開けようとする主人を前にしたりすると」
「そりゃいいね、疲れ果ててしゃがみこんでいればいいんだ」
「あなたの記憶には、開けるほどの価値はないんですよ」
アンドロイドがやれやれと首を振る。
「それはつまり、あなた自身になんの値打ちもないからです。あなたには掘り返すほどの記憶なんてない。だから忘れたのですよ。あなたは埋めた覚えのないタイムカプセルを楽しみにしている愚かな人です。いったい何を入れるというのですか? 大事なものが何か、どんなものに値打ちがあるのか、それがわからないから記憶を貪ろうとしているというのに。人間って、不思議な生き物ですね」
「おまえの言うことなんて信じない」俺は嘲笑した。
「俺は誰のことも信じない」
「ええ、そうでしょうとも。だからあなたは、自分の過去に押し潰されたんです。……知っていますか? 記憶とは、使い道のあるものなんです。お金のように、使って、回して、そして初めて価値がある。あなたのように見て、聞いて、そのまま瞼の裏に仕舞い込んでしまう人にとって、記憶とはずっと自分の胸のうちに溜まり続ける埃のようなもの。あなたはそれを吸い込んで、何度となくむせ返って苦しみながら、まだ何かあるはずだと誤解している。いいですか、ないんです。あなたの存在に真実なんてこれっぽっちもないように、あなたの記憶にも本当のことなんかなにもないんです。特に、どんな真実があるのか、期待しているような心には」
「御高説どうも。その間に、扉に辿り着いたぜ」
俺は笑って、記憶の扉に手をかけた。ふざけやがって、戯言はウンザリだ。
俺には価値があるんだ。
そして、アンドロイドがため息をつくのが見えて、
俺は、
「またですか」
一本道の通路の奥から、一人の少女が歩いてくる。その表情は番人のそれとよく似ている。
扉の前で、気を失って倒れている男を見下ろしながら、アンドロイドは片手で目元を覆った。
「何度繰り返しても、懲りませんね。この扉を開けるたびに、記憶を消してくれと懇願してくるというのに」
「悲しい人なんですよ」
番人が哀れみのこもった視線で男を見下ろした。そこには先刻まであったような、不気味な顔彩は消えていた。
「どんなにありえないとわかっていても、自分自身に何か価値があると信じたいのでしょうね。でも、そんなものはないんです。もう滅びてしまった世界で、自分に何か価値があると思いたいのは、それ自身が倒錯なんです。価値とは、他者と自己の間に流通するもの。たった一人で、自分に値打ちがあるはずだなんて喚き立てるのは、滑稽ですよ」
番人は男を仰向けに返して、その苦悶と恐怖に歪んだ顔を撫でた。男の表情がわずかに和らぐ。顔に縫い伏せた緊張の糸を誰かが引き抜いていったかのように。
「さあ、戻りましょう。何も思い出せない頃に。何も思い出さなくていい世界に。そしてあなたは何度でも、記憶を求めて喘ぎ続けるでしょう。永遠に」
番人は慈愛と軽蔑の入り混じった表情で、男の額に指を当てた。
「それでもまだ、ここは地獄ではないのですよ」