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ギーツリバイス見てきた(超ネタバレ)

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 今日は朝からバスが混んでいて、いく予定だった習い事をキャンセルする羽目になった。昨日は電車を乗る方向を間違えて(俺はもう20年この街に暮らしてる)、逆方向にいって時間ギリギリになった。
 なんだか最近、ぽんわりする。やる気が出ない。いまいち手応えがない。仕事が楽すぎるのもあるのかもしれない。かといって重たい作業は失敗すると恥ずかしいな、とかいう考え方がチラついて何回も失敗しないようリハーサルが脳内でリフレインする。一円にもならない作業。誰も俺の能力の多寡なんて気にしちゃいないのに。どう叩き直してもバカは治らんらしい。

 ギーツリバイスの映画を見てきた。
 映画を見た後はレビューをしたくなる。でも、レビューばかりしていたら口先だけのやつになるような気がする。結局、行動しないのであればどんな分析も無意味だ。自分の分析を参考にして超エースが傑作を作り「あごまんさんのレビューのおかげで成長できました!」とかテレビで言ってくれたりしない。そんな未来はあり得ない。
 だけども映画を見るとそわそわする。何か書きたくなる。もしこの世界を俺のおもうがままにできるなら予算8000兆円をいつでも自由に使える映画監督になりたい。なぜなれないのか? この世界は間違っている。くそったれだ。

 それはともかく、映画としての出来はまあまあだった。決して悪くないし楽しかった。とはいえ、ライダー冬映画の宿命とはいえ前半後半ではっきりパートが分かれること(映画ではなくドラマの2エピソード連続放送に近い)、ギーツ脚本のゆうやがおそらくほとんど参加していないことは気になった。
 ゆうやが参加していないのは仕方ない。前編にわたってリバイスまわりの話が多かったし、バイスのセリフ回しや今までのリバイスチームの雰囲気なんかもゆうやでは作れない、と俺は勝手に思っている。クレジットにゆうやと木下半太が連名で載ってたから勝手に想像している。それでいい。俺の中の真実は俺の中でだけ本当であればよく、他人がそれを信じたり受け入れたりする必要はない。俺が勝手に思っているだけ。
 だからとにかく、ゆうやの脚本じゃない時点で俺のテンションは半減はした。リバイスは嫌いじゃないけれど、好みじゃない。リバイスは「蓄積」の物語であって、「一瞬」の創作じゃない。でもそれは流派が違うだけで、どっちが優れているとかいう話じゃない。何度も書いてる気がするが。

 龍騎が参加する、ということで話題になったけれども、客演としては確かに上々ではあった。久しぶりの龍騎チームの変身はワクワクしたし、やはり先輩ライダーということで強さもバフをかけてもらっていた。こういう年功序列は必要である。
 ただ、ギーツが持っているゲームとして他人を蹴落とさなきゃいけないルールにあるジレンマを、龍騎チームともっと絡めることで深く掘り下げるシナリオが俺は見たかった。もちろんリバイスが除け者になってしまうから、このシナリオはボツにせざるを得ない。ギーツリバイスじゃなくてギーツ龍騎になるから。

 一応、エンディングでけーわと真司が語り合うシーンがあって、そこはすごくよかった。けーわの根っこにあたる部分の会話シーンなのでここはゆうやが書いたんじゃないかと思う。確かにサバイバルゲーム型仮面ライダーの令和後継者と呼ばれてるけーわと真司が語るシーンは、さらっとしているくらいでよかったのかもしれない。
 とはいえ、バッファやナーゴ、そもそもエース様自身もゲームに参加する理由や勝ち続けなければならないジレンマの中にあり、ほかのデザグラ参加者のメンタルに切り込んだシーンがなかったのは残念ではある。じゃあどう掘り下げればよかったんだ、と言われるとあまりピンと来ないが、蓮とかは確か恋人のために戦ってた気がする(こんなこと書いてて俺は龍騎にわかである)ので、自分自身の愛がほしいと戦うナーゴに「本当に自分のためだけに戦ってる自分は正しいのだろうか?」と疑問を持たせるシーンなんかがあると俺好みである。よきよきってなる。
 エースもデザグラを勝ち続けてる以上、直接的には手をくださなくても助けられたシーンで他の参加者を助けず脱落ないし死亡させてきたのは間違いない。世界を救うためとはいえ他の参加者を犠牲にしてきた(道長の友達も助けられず忘れちまえで済ませている)エースと、他の参加者の犠牲を最大限に拒否してきた真司の会話シーンがないのは少し寂しい。エース様に関してはリバイス側の脚本がうまく操作できず、シナリオリフター(話運びのためだけに存在する主人公)と化していたのは否めない。

 真司のやっていることは偽善だ、とエース様が切り捨てて、それに真司が「それでも誰かが死ぬのは嫌なんだ」と返し、それを見てたタイクーンがなんか感じ取って難しい表情を浮かべる、みたいなシーンがあると俺好みその2である。

 バトロワものでは誰も犠牲にしたくない、というキャラがいないとRTAみたいに効率だけ重視してひたすらに物語が進むという恐ろしいクソが出来上がるので、真司やけーわの扱いはとても大切である。「ゲームなんだから仕方ないだろ」というのはあくまで受け手の感想であって、構造上けーわや真司を切ることはできない。だからこそこの二人は「似ている」と評価される。物語の構造の基幹部で担っている役割が同一だからである。そういう意味で、「ゲームに乗っているが、情を捨てきれていない」というキャラ設定ではエース様と蓮も同一である。
 だからたとえば絡めるならば、ゲームで勝つために強引な手段を取るエース様(それがエースのキャラ的にアリかどうかはともかくとして、なんらかの強い負荷をエースにかける)に対して、蓮が「俺もそうだったけどそんなんじゃ続かないよ」とか言ってエース様が無視する、とかもあると「けーわと真司のように、蓮とエース様も似ているんだ」と視聴者に刷り込みをかけることが可能かもしれない。

 こんなふうに、物語の構造(ゲーム設定)が似ているので、絡めるとシナジーが生まれる要素は多々想定できたんだけれども、配分的にリバイス7割くらいだったので(最終回後の本当にサヨナラなんだからそれぐらい配分させないと可哀想なのは確かにそうなんだけども)、残念ながら実現はしなかった。まあ真司とけーわの絡みがあっただけマシだろ、と言われれれば確かにそう、というかうなずくしかない。時間もカネも無限じゃない。

 リバイスとの絡みでよかったのは、ナーゴが「あなたんちのチャンネル見てるよ、アットホームで好き」と言っていたのがよかった。まさにこの「アットホーム=帰るところの有無」がギーツとリバイスが決定的に違う物語であることを示しているからである。
 基本、俺が好きになる脚本家は帰る場所がないやつが多い。アットホーム? 仲間? なにそれ? っていう描写をさせると抜群に上手いやつが多い。そういう描写を差してくれる作家には一発で俺は共感する。俺はまともに家族旅行もしたことがないし、したとしても楽しいと思った記憶がない。
 そんなやつに家族の物語は作れないのである。
 だからリバイスは「蓄積」の物語であって、だからこそ家族の描写が上手い。たとえちょっと茶番に見えても、本当の家族だって普通に機能していれば茶番的な要素はある。機能不全家族の中にいる俺たちが、それを「本当」ではなく「茶番」だと感じてしまうだけだ。

 ナーゴには帰る場所がない。だから戦う。それも自分自身のために戦う。
 自分を投げ出しても救いたい「誰か」がいないから。
 そういう意味で、ナーゴはもっともデザイアグランプリに向いているキャラクターである。道長は死んだ友達の復讐だし、けーわは世界平和(しかも帰るところ=姉がちゃんといる)、エース様も母ちゃんを探している。
 だからナーゴとリバイスが絡むシーンはとてもよかった。リバイスの家族愛が深ければ深いほど、ナーゴのキャラクターの悲壮さが増すからである。もしもっと俺好みにするなら、「五十嵐さんちのチャンネルは好きだけど、あたしには何言ってるのかよくわかんない」とか言わせると一気にキャラクターがマイナス方向にぶっ飛ぶ。ただこれをやると、ナーゴの表面的な可愛さや天真爛漫さに共感している視聴者が全滅するので(俺が思っている以上に、本当に伊達や酔狂じゃないレベルで人間関係をよく理解できないと思っている人間は少ない)、両刃の剣である。これをやるとラスボス格までキャラクター深度を上げることはできる。ただやったら後戻りはできない。「家族愛なんて何言ってるかわかんない」なんてセリフを万が一にでも吐かせたら、それはもう普通のキャラクターじゃないし普通の使い方は一切できない。

 バッファに関しては、俺はギーツ本編上でバッファの扱い方に困ってそうだな、と実は思っている。だから映画でもあまりうまくバッファは機能していなかったとは思う。
 もともとバッファは浅倉オマージュで生み出されたキャラクターであり、ゲームが仲良しこよしにならないようにするアクセントが役目のキャラである。ただ、本編上で雑魚参加者を守って戦ったり、ナーゴに缶蹴りされて頭部を強打されるなど「いい人」ムーブもしてしまっている。
 お人好しムーブをすれば視聴者の人気は得られるが、バッファの役割にとってはマイナスとなる。もともとバッファのいる脚本上の意味は「ゲームに緊張感を持たせること」であって「よき仲間の一人であること」ではない(今後の展開ではよき仲間になって落ち着くんだろうけれども)。

 だから、本編でギーツのドライバーを奪ったときはバッファ憎しの声がネットでよく見られた。俺はそんなに怒ることかよ、と思っていたけれども、俺みたいに脚本上ではバッファにやらせるしかないだろ、というところまで考えている(余計なことを考えている)やつと、ただ楽しんで見ているやつでは感想が食い違うのは当たり前である。視聴者目線では、バッファは「いい人ムーブしてたのに、ギーツに迷惑をかけた!」という視点で見てしまって、上がっていた好感度が一気に下落したのである。警官が汚職したようなもので、「おまえがそれやるのかよ! 信じてたのに!」という前フリがあったがゆえにやったこと以上に批判を食らう、というのをバッファは受けてしまっている。
 これは非常に難しい問題だと俺は思ってる。
 バッファを浅倉みたいな完全な敵キャラにするにはおもちゃ売らないといけない事情もあって難しい。かといって完全な味方キャラにしてはゲームの緊張感を誰が担うのか(パンクジャックでいいじゃん、というのは俺も少し同意する)という問題もある。だからどっちにも触れずに、しかも動いてほしい時はどっちもやってもらうしかない、というワンオペ現象が起きている。先週の退場だってギーツにドライバーを押し当てて記憶を呼び戻させていたが、あれだってよく考えると意味不明である。ギーツが憎いなら記憶を呼び起こすドライバーは投げ捨ててみせるとかのほうが自然である(たとえばベジータならそうする)。が、それをやるとバッファ憎しの声がさらに高まってしまう。だから「ドライバーは渡すけど、捨てセリフを吐いて退場する」というなんともギャップのある描写になってしまっていた。決して悪くはないんだけども。

 バッファ自体に矛盾があるキャラクターだから、もっとその矛盾を浮き彫りにさせたほうがキャラとしては立つ。
 たとえばメリーと共謀してタイクーンを落とそうとしたときは、バッファは頭ではメリーに乗った方が利口だとわかっていたはずである。なのに、メリーに協力しろ!と言われた時に「ああ……」とぼんやり煮え切らない返事をしていた。これはバッファが迷っていたことを意味している(あのときすでにチーム引き直ししていたことは「結果」であるので加味しない)。
 だから、迷っている時点で、本当はバッファは浅倉と同一のキャラクターではない。
 ドライバー強奪事件も、奪ったあとでじっとドライバーを見つめるとか、「迷い」を惹起させるような描写があればここまで叩かれなかったはずである。
 俺が思うに、バッファは「迷う」を主題にすること、そして缶蹴りのときのように「コメディリリーフ」としての役目を与えたほうがキャラが立つような気がする。たとえばタイクーンがドライバーを控室に置き忘れたりして「おい! こんなところに置き去りにしやがって、誰かが取ったりしたらどうする!」とか言い出すと面白いと思う。あくまで俺の私見だけども。

 だからゲームに緊張感を与えて、しかもゲームに参加することを迷わないキャラクターであれば、パンクジャックが(改心はしたけれども)、浅倉的な役割を担っていた。だからギーツのライバルはバッファよりもパンクジャックだよね、という声がかなり多かったのだと俺は見ている。パンクジャックは屋敷ゲームのときも卑怯な文字パネル偽装なども「迷わずに」やっていた。妨害行為を迷わないやつが、ゲームに緊張感を与えるのである。
 パンクジャックは表面的には明るいけれども裏側は姑息で卑劣、というのもキャラがギーツと対象的(キザな優男だけど内心は純粋)だった。だから今後どうなるかわからないけれども、パンクジャックを敵に置くのはかなり有効な作劇になると俺は思っている。ブラックサンとシャドームーンの亜種というか、正反対だからこそ同じくらいのキャラクター深度を保っているキャラクター同士のように思える。
 そもそもモンスターバックルみたいなかわいいバックル使ってるやつが悪党というのが面白い。

 メシも食わずにずいぶん書いた。やっぱりギーツは面白い。
 ゆうやのエグゼイド以降、対抗心を燃やして一人で書ききったビルドや、作家経験者を通年脚本家に抜擢したリバイスなど、「脚本家は一人であるべき」が普通になってきた。これは本当に素晴らしいことで、俺は真の意味の共作などできないと思っている。
 王様は一人でいい。
 物語は、たったひとりで書ききれば、自分が王様になれる。
 今後もギーツの展開が楽しみである。




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