立派な吸血鬼
吸血鬼になっても、俺は他人の血を吸ったりしないと思っていた。それほどまでに強く何かを願ったことなどない。だから、そんな俺が自分の周囲の人間を喰い殺すなんてありえない、とんでもないことだと思っていた。俺はきちんと自制し、多少の血液は分け与えてもらうかもしれないが、分別を弁えてそつなく社会と適応した吸血鬼になれると思っていた。俺はうまくやれると。二足のわらじを履きこなし、誰もが羨む立派な吸血鬼になれると思っていた。
まず家族を食い殺した。次に職場の人間を食い殺した。
どうせ食うなら見知らぬ他人を食えばいい、そんな理屈は消し飛んだ。顔なじみの人間の鼻っ柱から噛みついて、顔面を噛み砕きながらすする血は最高だった。吸った瞬間に思った、ああ、これは耐えられない、と。俺が軽蔑し、馬鹿にしていた吸血鬼たちは正しかった。こんなにも美味いものがあるのに、こんなにもすぐ近くにあるのに、なぜ手を出さない理由がある? そんなものはありはしない、そんなものがあるとすれば、自分を誤魔化しているだけだ。
すぐに誰も彼も食い殺して、俺のラインは一度もピコンしなくなった。全員綺麗に食い舐めた。
それでも赤の他人に手を出そうとは思えなかった。血まみれの俺を見て、恐怖に駆られて逃げ出す他人は、俺のことなんて知らない。ただの怪物だとしか思っていない。そんなつまらないものを食ったって、俺の飢えは満たされない。自販機ぶち壊してコーラ飲んだほうがいくらかマシだった。俺が膝蹴りすると、自販機は悲しそうに炭酸缶を吐き出した。暴力を振るえば望みが叶う、こんな単純な安心にどうして俺は今まで手を出さなかったんだろう? 何度も何度も膝蹴りしてひしゃげていく自販機は、かつて人間だった頃、社会に負けて屈服し自分の本心を押し隠していた俺にそっくりだった。
大切なものがたくさんあった。大切だと思いたいものがたくさんあった。
全部消えた。
空が青い。
いい天気だ。どこかで散歩している犬が吠えている。呼吸するたびに、俺の獣じみた二酸化炭素が蒸気のように宙に和えられた。心臓と肺が脈動するたびに、生きていることを実感できた。罪悪感はカバンの底に詰め込んだ、いつか使うと信じたきり忘れてしまった折り畳み傘のように存在感が薄かった。もう俺にはなにもない。帰るところもない、受け入れてくれる場所もない。未来もないし、給料だってもらえない。
それでも自由だった。
俺が占拠して誰も寄り付かなくなった公園に、黒服の男が一人、歩いてやってきた。男はサングラスをしていて、俺とよく似た没個性な髪型をしていた。俺と同じ美容院に通っているのかもしれない。
「あんまりいないんだよな」
男には主語もなかったし、前フリもなかった。理解してもらおうという気もなければ、取り繕って俺を懐柔しようという策もなかった。
「普通は、途中でやめるんだ。殺すまで吸ったりできない。だってそうだろ、満腹だもの。ちょっと吸ったら満足なんだ、普通は」
俺は犬のように唸った。
何が言いてえんだ?
「吸血鬼が血を吸う衝動は、魂に由来する。おまえの魂が、ちっとも満たされない、穴ボコだらけのスポンジみたいだから、こんなにたくさん殺しちまっても、まだそんなに飢えた顔をしていられるわけだ。おまえはちっとも反省なんかしちゃいない。俺にはわかる」
俺は腰掛けていた車止めから立ち上がった。男を殺すのは簡単だった。
見知らぬ他人よりは、食ってやろうかという気が湧いた。
「俺を食うのか? 好きにしろ。もはや誰もおまえを止められない。ゲームのルールは書き換えられた。くだらん事情は全部ナシだ。おまえは気に入らないやつをぶっ殺せるし、自分をわかってくれそうなやつから食い殺していくだろう。それでいいんだ」
それでいい。
そう言われたとき、ストンとなにかが納得した気がした。ああ、そうか。
俺はずっと、そう言われたかったのか。
吸血鬼になったとか、人を殺したとか、そんなこと、どうでもいい。
俺はずっと、あるがままでいたかった。
あるがままで、承認されたかった。
たとえそれで何人死んでも。
一人ぼっちになったとしても。
男の死骸を見下ろしながら、俺は天を見上げた。
後悔なんて、しない。