メッキの向こう
夏にいろいろ書いていたらしい。あれからいろいろあって、実家に戻ってきた。
で、ノートパソコンを買った。
中古だったんだけども、サクサク動いている。
今までノートパソコンはキーボードが死んだときにリカバリが効かない! と嫌っていたんだけれども、そもそもノートパソコンそのものがそれほど長持ちするものではなく、消耗品であることにようやく納得がいった。
「とても高い買い物だったんだから長く使いたい!」という気持ちはわかるんだけれども、結局、そんな世界は存在しなかった。
投資して、買って、ちゃんと使って、使い潰す。
人間の命だって同じように使うんだから、永遠に使えるノートパソコンなんて存在しない。それだけの話。
実家に戻ってきたらゴミ屋敷が悪化していて、俺の部屋は倉庫にされていた。
なので断捨離を決行して、もう何十袋のゴミを出したか覚えていないけれども、ようやく落ち着いてきた。
クローゼットは整理されたし、屋根裏も使いやすいようにカスタムした。
買ったはいいものの台風が直撃して行けなかった海用のシュノーケルとか、そういう淡い期待に染まったものは目に見えない場所に仕舞った。
俺の人生で何か楽しみにしていたものが、うまく機能するわけがないんだから、期待するだけ無駄だし、そもそも俺は海なんか好きじゃない。もう使うことはない。そのうち捨てる。
で、昔書いた自分の小説が出てきた。
ストーカーが女の子の目に精液をぶっかけて失明させて、そのストーカーを処刑する執行人の主人公が「別によくね? 助けてあげてよ。知り合いなんだよね」と言い出す内容。
なんだか自分の中の凝縮された呪いがぎっしり詰まっていて、とてもよいなァと読んでいて思った。
俺は偏食ならぬ偏読で、合わない小説を読んでいると具合が悪くなるんだけれども、自分の文章はよく馴染む。サクサク読めてすぐ読み切ってしまった。面白かった。
コイツこういうの好きだよな、と自分に対して思う表現が多数あったし、知りもしないことをさも知った風に書くのが本当に多いヤツだなと思った。これはたぶん「全部調べていたら間に合わない。俺は待てない」と判断して突っ走ったんだろうと思う。
それは正しい。待っていたところで、何も解決しない。
指がなまっているのか、寒いのか、タイピングがうまくできない。仕事でノートパソコンは使うんだけど、どうもエッセイみたいに考えながら反射神経でタイプするのは、若い頃ならいざしらず、もう三十半ばの俺にはちょっと全盛期のようなスピードは出せないらしい。タイプミスも目立つ。まァ、新しいノートパソコンでキータッチが今までのものと違うんだから当然でしょうという意見を理解はする。実際に、俺はブツブツ言いながらも買い替えたノートパソコンにはすぐ馴染んできた(というか、馴染まざるを得ないほどの原稿量を当時は執筆していた)から、今回もそのうち慣れるといいんだが。
あれほど書きたいことがたくさんあると思っていたのに、こうしてテキストエディタを開いてみると大した話が出てこない。
結婚するはずだった人とお別れしたり、たぶん転職することになりそうだとか、祖父の遺産相続を父親がサボったせいで遺産分割協議書を俺が作るハメになったとか、いろいろあって忙しかったんだけど、大事なことが何だったのかよくわからない。
この真っ白な原稿に向かう時のこの感じを俺は『恐怖』と呼んでいるんだけど、またこの恐怖の前に立って、俺は何がしたいんだろうと思う。もう作家になりたいわけでもなければ、特にネタがあるわけでもない。
そう、俺は小説が書きたいのか、エッセイが書きたいのか、通勤の途中でよく考える。
俺はたぶんエッセイ型の人間で、小説という媒体に人間が期待する『お約束』に従おうとしないから、ハイクオリティの小説を作ることは難しいだろう、と思う。
俺自身、誰かを喜ばせるための物語というものにそれほど興味が湧かない。それは技術と丁寧さで、誰がやっても同じ結論にたどり着く最適解があるから。
エッセイにはそれがない。間違っていようが、怒られようが、これが俺の考え方で、嫌なら消えろで突っぱねられる。
エッセイと小説に上下や優劣をつけるのはまずいと思っていて、俺の好きなエッセイマンガ家の人が「フィクションを作れない自分を責めた」と言っていた。
それはよくない。俺はその人のエッセイが好きだし、生きていて貰わないと困るのだ。その人にとっては劣等感の塊でしかないエッセイでも、俺には必要なんだから作ってもらわにゃ困る。
読みたいから。
なので、こうしてとりとめもなく文章を書き始めた。俺は自分が書いたものを『駄文』と呼びたくないから、これも一つのエッセイとして取り扱いたい。
『自分は作家などと呼べたものではない、なので自称するときは物書きと名乗っている』
誰かが昔言っていて、俺も「かっけぇ! 通っぽいわ~」とマネしていたけど、今では死ねバカとしか思わない。
何もしなくたって別に死ぬわけでもないのに、行動した時点で、この世界で最強なのは自分自身だけだ。
それを卑下することこそ、クソダサいよ。
家の片付けが終わらない。
リビングに家族が全員自分の衣服を集めていて、そこで衣類の着脱を行う。
そんなの部屋でやればいいじゃん、という話ではあるんだけど、俺の部屋はクローゼットごと猫部屋になっていて服を仕舞うところがない。親の部屋も同様に散らかっていて衣服を管理するスペースがない。
なので所有している服の数を減らして、きちんと夏冬で衣替えをする必要があるんだけれども、これは自分が所有する衣類が何枚で、どれくらいあればいいのか判断できる知能がないと難しい。
俺がやれたとしても、家族にそれをやるメリットとリテラシーがないから、結局はうまくいかないんだろうなと思う。
実家を出てもいいんだけれども、家賃がかからないし、俺が昔から「俺の母は禁治産者! 俺の母は禁治産者!」と叫んでいた通りに母が「使ってはいけない金」に手を出していたことが判明したので、クレジットカードとキャッシュカードを取り上げた。
「足りない」から「使わない」という判断は、身を裂かれるように辛いけれども、「足りない」から「手を出す」というのは、ほぼ動物と変わらない。やっぱり過去の俺は正しくて、俺の母は禁治産者である。
放っておくと何をするか分からんので、金の大切さと節約のやり方をレクチャーしている。
俺の母は料理が嫌いなので、冷凍宅配のナッシュを導入した。種類もたくさんあるし、コンビニ弁当より抜群に美味い。あとは炊いて冷凍した米だけあれば、バカ喰いしなければ事足りる。
ナッシュはたくさん買うと一食分が安くなるんだが、最初は700~800円くらいする。これで「割高だ!」と言い出すバカと俺はもう口を利きたくない。
大切なのは「家に帰ればご飯がある」という認識が常態化すること。
それがないから、俺の母は「家に何かあるかどうか分からないから、菓子パンを買って帰ろう。家族から文句言われたくないから、多めに買おう」とスーパーでバカ買いして食品を全ロスしたりする。俺の親父は酒飲みだからつまみにならない菓子パンなんかに興味を示さない。
なのでまずは「別にスーパーになんか寄らなくても家にご飯はちゃんとある」という状況を作ることで、スーパーにいく動機を奪った。スーパーに行くと本当にバカに優しくない作りをしている。
「家にあるかどうか忘れちゃったでしょ? そんなに高い買い物じゃないんだし、ついでに買っていきなよ」
資本主義は常にそうやってバカから搾取する。そうやって積算していった金額が給与所得を超えるという事実を誰もバカに教えてやらない。だから無限にクレジットカードを使って1ヶ月の支払いが25万円とかに到達している。すぐにクレカを奪った。
バカから無限に搾取すればそりゃ儲かるだろうよ。
家賃代わりにナッシュはいま俺が購入しているが、180食買うと一食が500円まで下がる。そのランクまでたどり着いてしまえば、もうそれ以上なにも考えなくて済む。
料理が嫌いなやつに無理にやらせたってろくなことにならない。でも食っていかなきゃいけないんだから、なるべく安く食わせてやるしかない。
この世界にはどうにもならないとんでもないバカというのがたくさんいて、それは自分自身だったり、実の親だったりする。
そんなこんなで、最近の口癖は「このクソバカタレが」になった。俺の流行語大賞である。
バカという言葉を使う頻度がすごく増えた。とても便利な言葉だと思う。
いろいろなことを覚えて、自分はバカじゃないと自尊心が芽生えつつあるが、油断しないようにしようと思う。俺自身はとんでもないクソバカで、それを無理やり抑えつけて誤魔化して就労しているに過ぎない。
両親を見捨てても生きていくことはできるんだが、このゴミ屋敷を残されて亡くなられたら特殊清掃をかけなきゃいけなくなるし、そのときに通帳とか権利書とか重要なものも区分なく廃棄される可能性があるので、結局未来の俺が困らないように、いま親の問題と戦っている。
俺の親もその親からきちんと愛されたり、道を示してもらって来なかった人たちなので、まァ無理なもんは無理だよなという達観もないわけじゃない。ただそれを受け入れたところで喉を刺すような冷たさが心に走るだけだ。
ただ、片付けはだいぶ進んできた。ここまで何十袋もゴミ袋を出してきたのにまだ出るし、結局、「いつも使っているもの」はすでに得た居場所から退去してくれないので、終わりと同時に限界も近づいてきている。それでも何もしないよりはマシだった。
モノを所有する、というのは危険な行為だと痛感している。
所有すると管理しなくちゃいけない。所有していなければそんな必要もない。
いつか使うかも、もしかしたら報われるかも。
そんな淡い期待はすべて裏切られた。
自分には報われる価値などない。
この世は地獄であり、生きることは罰。
それが俺の出した結論。
そして、俺は最近、それでいいと思うようになった。罰なら罰で構わない。
料理を始めるようになったんだけれども、これがコンビニ弁当より全然美味い。
自分の好み、自分の考えを反映できる。これ以上の幸せはない。
どんなに落ちぶれようと、調味料くらいは買える。調味料も買えなくなったら、誰もが人を襲うようになっているだろうから、俺もそれに乗っかるだけだ。
こんなにも恐ろしい罰の中でも、美味い飯が食える。ニンニクぶちこんで加熱すれば、風味が出る。
それで構わない。
音楽も聞かなくなったし、漫画も読んでいない。アニメも見ていないし、映画を見る時間もない。
何もかも手に入れるのは無理だ。
それに、どうせ手に入れたところで満たされたりなんかしない。
政治家が秘書にブチ切れるのはなぜか。満たされているなら、彼らはそんなことしない。
誰かに何かをやらせて自分の手は汚さない。そんな生き方をしていれば、嫌でも気づく。
自分には本当はなんの価値もないのだと。
そのコンプレックスが人に対して辛く当たらせる。怒鳴って人に動いてもらわなければ、『何も出来ない自分』は死ぬしかない。だから生きるために怒鳴る。他人を動かそうとする。支配しようとする。
何人だろうと構わないから全員死ねばいい。
自分にできないことは、できない。
それが世界の真実で、この世の全部だ。
赤ん坊みたいに泣き叫ばなければ生きていけないなら、死ね。
死んだほうがラクになれる。
生きることの意味などない。怒鳴って喚いて金を稼いで、何になる。
本当に幸せなら、それを分け与えようとするはずだ。
それができない時点で、そいつは幸せなんかじゃない。
見せかけだけのメッキに過ぎない。
生まれてきたのが間違いだったと、この世界に救いはないのだと知れ。
そうすればラクになる。
俺はそうした。
自分が愛されるわけがない。自分に価値があるわけがない。
それでも俺は戦う。
全然それで構わない。自分に値打ちがないなんていうのは当たり前の話で、いまさら否定するいわれもない。
それでも俺は生きる。
幸せじゃない、なんていうのは、俺にとっては日常で、違和感さえない。構わない。
俺は俺でいたい。そのために親族だろうが友人だろうが蹴散らして犠牲にしなければならないなら、俺はそうする。
どんなに頭を下げても、泣きわめいても、許しを請うても、他者は俺を許さなかった。
だから俺は『許される』ことを諦める。
そんなわけがない。許されるなんていうのはありえない。俺は全部から呪われている。
全然それで構わない。それが普通のことで、逆の立場だったら、俺も俺を呪ったはずだから。
それが自然なことだと思うから。
この恐ろしい世界で、誰もが他者に過剰な期待をかけている。
俺はそれこそ恐ろしい。
推しがどうとか、尊いとか。
誰がオリンピックに出たとか、金メダルを取ったとか。
どうでもいい。
そんなやつらに応援代を払うくらいなら、自分自身にこそ投資すべきだ。
自分自身をこそ信じてやるべきだ。
自分を自身で信じてやれなかったら、誰が自分を信じてくれるんだ。
そんな「いつか、誰かが」なんていうのは叶わない。
存在しない。
俺にはそんな「誰か」なんて必要ない。
ホームズを見守っていてくれるワトソン、支えてくれる相棒。
そんなやつは存在しない。フィクションだ。
ワトソンを求めるなら、自分自身が誰かのワトソンになれるのか。
なれるわけがない。俺は誰のことも守ってやれない。救ってやれない。支えてやれない。
だから支えてもらえないのは当たり前だ。
野垂れて死ぬのが普通なんだ。
それを歪めたところで、狂うだけだ。
どうせ狂うなら、俺は俺が望んだ狂い方をしたい。
それで誰が何人死のうとも。
大切なものを、大切だと思いたかったものを全て失おうとも。
俺は構わない。
俺にしては珍しく、原稿を途中で置いて、一日置いてから続きを書いたんだけども、指が少しずつ動くようになってきた。この感覚がとても落ち着く。
タイピングしている間は、我武者羅でいられる。
余計なことを考えなくていい。他人に好かれようが嫌われようが構わない。
未来なんか興味がない。今さえあればそれでいい。
俺が傷ついてきた分だけ、誰かを傷つける文章が書きたい。
そうしなければ、何もかも上っ面だけ滑っていく、フェイクになってしまうから。