刀工・源清麿の死
弟が死んだと聞いた時、山浦真雄の脳裏をよぎったのは悲しみなどではなかった。
それは安堵であり、快感であり、慰めだった。
弟が死んだ――あの類まれなる稀代の天才が。
真雄の表情には何も浮かんでいなかったのだろう。顔に火傷や殴打の痕跡のある若い坊主頭の男は「これが師匠のご遺髪です。では、私はこれで」と茶も飲まずに去っていった。山浦家の門をくぐり抜けた時、そばに近寄っていった野良犬を力の限り蹴飛ばしていた。きっと弟にも同じようにされていたのだろう。
刀工・源清麿(みなもと きよまろ)。
元は山浦家の次男の環(たまき)だった。兄の真雄と共に若くして刀工の術を覚え、真雄は故郷に残り、弟は江戸へと旅立った。
その実態は酒乱の弟が借金を返せなくなり逃げ出したのだったが、真雄の予想を裏切り、弟は江戸で刀工家として大成した。
四谷正宗などと称され、その地鉄の強靭さと沸の華々しさから、審美家たちを虜にした。
真雄が呪いたくなるような高値で、弟の刀は取引されていることを兄は知っていた。
初めて共に刀を打った時から、真雄には分かっていた。
弟は、たとえどれほど腐った性根をしていようとも、刀工術に措いて紛れもない天才である、と。
真雄がどれほど苦労したか分からないような、鉄と炉の制御も弟は酒瓶片手にちらりと見ただけで「もう分かった」と言って、しばらく寝る。そして真雄が寝た頃に、どこかの安い下っ端を引き連れ山浦家の古い炉で、徹夜打ちした刀を真雄の枕元に置いていく。
あの朝の衝撃は忘れられない。
自分が数年かけた最高傑作が据えられた刀棚の前に、保護布で包みもせず愚虐な空気に身を晒した鉄の刀身が雑然と畳に突き刺さっていた。一目見ただけで分かった。
自分は弟には敵わない。
何か決定的な部分が、あの男とこの俺では違うのだ、と。
真雄の子分たちはみな口を揃えて、「いや、兄ィの剣の方がいい。環のやつは綺麗なだけだ」と言ってくれた。
ありがとう、そうだよな、そう真雄も迎合した。だが真雄には分かっていた。
実用刀としても、美術品としても、全てにおいて自分の刀は弟のそれに劣っている。
それが分からないとしたら、そいつは紛れもなく、『刀なんぞに興味がない』のだ。
『兄貴、あんたには生涯かかっても、俺のような剣は打てまい?』
あの大酒飲みの青い顔をした弟は、兄に向かってこう言ったのだ。
己の剣を打つという方法で。
口先だけの男じゃない。その場限りの誤魔化しをするようなやつでもない。
真雄は何度も、環が江戸へ消え失せてからも、そのときの環が打った黎明作を折ろうとした。
折れなかった。
それは誰がなんと言おうとも、
美しくて決して折れない、そんな――
――夢のような刀だったから。
葬儀にはほとんど誰も参加しなかった。
父も母も環が残していった不始末の後処理に追われ、毒を飲んだようにやつれて死んでいった。そんな両親の葬式にも環は来なかった。刀を打っていたと聞く。
もともと、江戸の鍛冶場で金主連中が小さな葬式は挙げたと聞いていたから、遺髪しか戻って来なかった実家で盛大に葬儀をしてやる謂れもない。
酒に溺れた弟は、鎚を振るうことができなくなったと悟った日に腹をかっさばいて死んだ。
だが、あの坊主頭が歯切れ悪く語った話と、江戸の刀商連中から流れてきた噂によれば、環は泥酔状態でしかも刀は打っても刀を使ったことなどないものだから、とても見苦しい死に際を晒しており、掃除が大変だったと妾がぼやいていたらしい。
(ざまあみろ、だ)
死ぬ時まで他人に迷惑をかけ抜いたのかと思うと嘲笑せずにはいられない。お似合いの最期だ。
夏に切腹し、しかも鍛冶場でやったものだから誰も環がいないことにしばらく気づかず、遺体はかなり腐敗が進んでいたらしい。あの坊主頭の弟子が運び出してやったのかもしれない。
「これでようやく、静かになりますね」
妻のセキが小さく呟いた。葬儀が終わって、山浦家に静寂が戻ってきていた。
「あの人は、生き方を間違えたのです」
「そうか?」
「そうです。あなたのように、きちんと大地に根を張って、生家のために刀鍛冶になるのならともかく、あんな……行く先々で揉め事を起こしながら、言い訳のように刀だけ置いていって。そんな生き方をする人に、いい刀が作れるものですか」
近所からもおしどり夫婦として知られる二人だったが、セキはそれを知っていてなおかつ満足しているような、充実した笑顔を浮かべていた。真雄にはそれが、エサをきちんと与えられることを覚えた従順な犬のように時折見えた。
「あなたは大慶直胤(たいけい なおたね)殿の刀との荒試しにも打ち勝った、立派な刀鍛冶です。殿様お抱えの刀鍛冶なのですよ。それに比べて環さまは、誰にもお仕えなさらなかったそうじゃないですか」
それはそうだろうな、と真雄は思う。あの男に主取りができるはずがない。
その代わり、あの腕に惚れ込んだ金主が、環が望むだけの炉と炭と鉄と人を与えていた。
それは真雄がどれほど望んでも、誰も与えてくれない贅沢だった。
「大慶直胤、あの人も気の毒だ。なまじ官位を授かり有名になったばかりに、贋作や代打ちに手を染めた」
「代打ち? 代打ちとはなんです」
刀鍛冶の嫁がそんなことも知らんのか、と真雄は思いつつ答える。そういう不満を出さないように、妻を娶ってから努めていた。
「あれだけの注文を一人でさばけるわけがない。弟子に打たせて『直胤』と銘を切らせたり、あるいは同業が贋作を作っても、いくらか金を包んでくれば見逃す、そういうことをやっていたはずだ。本当に直胤が一人で刀を打っていたなら、あの人の腕は三十本近くある計算になる」
「まあ……でも、仕方ありませんわね。生きていくためですもの」
「そう、生きていくためだ。仕方あるまい」
そしてこの世には、それを「仕方ない」で決して諦めないやつがほんの僅かだけいる。
ほんの僅かだけ。
「本当にあの荒試しで、大慶直胤が打った刀が出てきていたら、折れなかったはずだ。あんな古鉄の兜を斬っさばく程度の刀、ある程度の経験さえあれば誰でも打てる」
「でも、世間はそうは思いません。折れたのは直胤の刀、折れなかったのは山浦真雄の刀。それでいいじゃありませんか」
「そうだな」
その通りだ。そのおかげで自分は藩内有数の実力者に抱えられ、藩主一門直々のお抱え刀鍛冶として出世した。
誰もが羨むような門構えの屋敷に、どんな刀鍛冶でも満足できる高温炉。
丸太でも持たせればどこへでも打ち込みにいけるほど大勢の手下。
名家の妻に、俊才の息子。
自分は全てを手に入れた。弟には手に入れられなかったもの全てを。
弟には何もなかった。酒と刀と女。それだけだった。
だが、それでも。
弟にはあったのだ。
刀というものが。
『誰と勝負しても絶対に俺は負けない』
そう信じられるほどの、美と靭を兼ね備えた才能が。
自分にそれがあったか?
大慶直胤との荒試しの場で、「どうか折れてくれ、あいつの刀が折れてくれ」と情けなく天に祈っていたこの俺に。
いったいどんな誇りがあるというのだ。
そんなものは、何もない。
何もないのだ。
「あなた?」
セキが心配そうに顔を覗き込んでいる。もう年増だというのに、今でも彼女は美しい。
「少し疲れた。もう休む」
「そうしてください。あとのことはやっておきますから」
「頼む」
そう言っておきながら、真雄は蔵に忍んでいった。
線香くさい空気から遠ざかり、泥と時間の匂いの中に紛れ込む。
暗がりの中に、その剣はあった。
あの頃のまま、雑な布にだけ包まれて。
刀工・山浦真雄自身の手によって、油を塗りたくられ守られて。
真雄の頬に冷たさが走った。
嗚咽が止まらない。
弟が死んだから悲しいのではない。
この苦しみを、この恐ろしさを。
もう、誰も理解してはくれないのだ。
永遠に。