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白と黄

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 妹の依子(よりこ)が入院しているのは、都市から離れた山間部にあるこじんまりとした病院だった。ちょうどジブリ映画の「となりのトトロ」に出てくる七国山病院のような感じだ。あれに比べれば、周囲はある程度開発されていて、ずいぶんと病院の造りも近代的だけれど。彼女の療養のことを考えるなら、ここの静けさはうってつけの環境だろう。
 「兄さん、今日もいい天気ね」
 窓から青い空を見上げて、病院着をまとった依子が言った。肩の周りで切りそろえた、どこか古風な髪型は昔から変わっていない。俺は、彼女と同じように切り取られた空を見上げて、大きく頷いた。
 「私も早くよくなって、また遊歩道をお散歩したい」依子が少し寂しそうな声で言う。
 「大丈夫だよ。依子は若いんだから、すぐに直るさ」
 そうかしら、と依子は俺の言葉を疑うふうに、けれど笑いながら、ベッドの上でからだをもぞもぞと動かした――正確には、白い布団の下にある下半身を。
 依子は高校入学を控えた春に、とある事故で怪我を負ってしまった。細かい傷は枚挙にいとまがないが、特に目立つ外傷といえば、足の骨を少々面倒な形に折ってしまったことだろう。そのせいで、彼女は世間で語られる輝かしい高校生活のスタートラインにいまだ立てず、今はこの病室でいち早い回復を待っているという状態だ。
 どんな人と友だちになれるんだろう――そう期待に胸を膨らませていただけに、この時間は俺としてもはがゆい気持ちがある。けれど、当の依子はその何倍もそう感じているはずなのだ。兄である俺が懊悩していても仕方なく、むしろ気丈にふるまうべきだった。だから、俺はできるだけ未来の話をすることを心がけている。事故に記憶につながる話は、彼女のからだにとってもよくない。
 「依子は高校に合流できたら、なにがしたいんだ?」
 「そうねえ」彼女は指をあごに当てた。「庭球部に入りたいわ」
 「庭球部? おまえがか?」
 「なに、兄さん。いけなかったかしら?」依子は頬を膨らませた。彼女は元来、スポーツ全般が得意ではなく、中学のころは手芸クラブに入っていた文化系なのだ。冬には俺にマフラーを編んでくれたその繊細な手が、ラケットをきつく握りしめている光景など想像できなかった。「どうせ私には無理だと言いたいんでしょう?」
 「いいや」俺は慌てて手を振った。「ただ、意外だっただけだ」
 「そう? まあ、確かに……意外かもね」
 「だろう? おまえは玉を追いかけ回しているより、椅子に座って静かに編み物をしている姿のほうがしっくりくるんだ。それに、手芸のほうが変に筋肉つけるよりよっぽど将来の布石になるじゃないか」俺は依子の言葉にたたみかけるようにして言った。
 「ふうん。それって、私がお嫁さんになったときってこと?」
 「あ、ああ」今度は自分の言葉を拾われて、俺はぎくりとした。すると依子は見透かしたように悪戯っぽく微笑んで、ときたま見せる小生意気な表情をつくった。
 「私、絶対に兄さんよりも早くに結婚するわ」
 「……どうしてだ?」
 「だって、大事な大事な妹をとられて悔しがる兄さんの顔が見たいもの」
 「そんな、悔しがったりはしないさ」――ただ、相手の顔を殴るくらいはするだろうけど。もしかしたら、式に出られないような顔にしてしまうかもしれない。そのときのことを思い浮かべて、俺は少し憂鬱になった……ならば、この憂さ晴らしは張本人に担当してもらうのが筋だろう。「おまえはどうなんだ? 尊敬する兄が自分以外の女性を連れてきて、どう思う?」
 「兄さんのこと、べつに尊敬していないわ」依子は横をむいて、またむくれた。「どんな女の人でも連れてきてもらって結構よ」
 その薄く染まった横顔からは、さきほどの寂しげな気配が感じられなくなっている。下降気味だった気持ちは修正できたみたいだ。兄の役目をとりあえずはまっとうして、俺はほっと息をついた。それにしても、依子は照れ隠しが下手だな――と。
 「峰岸(みねぎし)さん、お薬の時間ですよ」
 看護婦がやってきて、ベッドを横断するように渡されたテーブルの上に、水の入ったコップと青い錠剤を置いた。俺のほうをむいて、にこりと笑う。妹さんにずっと付き添われて、お兄さんはご立派ですね――そう言いたげな笑顔だった。どうにも照れくさい。俺も妹のことを言えないな、と看護婦を見送ってから依子を見ると、彼女は唇を冷たく閉ざしていた。
 「どうした? 飲まないのか?」俺が聞くと、
 「いやよ。私、こんなお薬嫌いだわ」
 飲みたくない。そう怒ったみたいに依子は言った。
 またか、と俺は溜息をついた。彼女はいつからか、この錠剤を喉に流し込むことを厭うようになっていた。つい、といつも顔をそむけるのだ――しかし、俺もはじめこそはその態度を叱っていたものの、しだいに彼女に同調するというか、この投薬にある種の疑問を抱くようになっていた。鎮痛剤なんてもう必要ないし、どのような意味があるのか計りかねていたのだ。とはいえ、多少ぐらいの兄の情を否定するつもりもないけれど。
 俺は苦笑しながら、錠剤を上着のポケットの中に隠し、コップの水を含んだ。妹が薬を飲んだと思わせるためだ。すると、依子はきまりが悪そうにこちらを上目遣いで覗いてきて言った。
 「……ありがとう、兄さん」
 「こんなことでありがたられてもな」俺は笑ってやった。すぐに依子も表情を変えて、くすりと口元に手をやる。そのまま、俺たちのあいだに忍び笑いが漂っていく。二人して小さな悪戯を繰り返していた、幼いころに戻ったような気がした
 そう――悪戯。
 それは――誰の?
 「…………ん?」
 ふと今、なにかが脳裏をすばやく這っていったような……いや、気のせいだろう。長く病院にいるせいで、少し気が滅入ってしまったのかもしれない。俺はかぶりを振って意識を揺り起こした。そうだ。依子のことを思えば、こんなものどうってことはないのだ。
 ――それから。
 俺と依子が他愛もない話をしていると、夕食が運ばれてきた。彼女は胃が小さいので、おかずやご飯を二人でこっそりと分けるのが習慣だ。里芋の煮物を依子の口に運んでやる。過保護という気がしないでもないが、うれしそうにしているからやめようとは思わない。俺も鯖の味噌煮を自らの口に放り込んだ。
 そして日が暮れ、消灯時間になった。
 これは非常に幸運なことだが、俺は現在なにかしらの確定的な身分に縛られているわけではない。なので、ずっとこの病室で、依子のそばで夜を明かす生活をつづけていられる。
 暗闇の中、見舞い客用のソファに横になる。あくびをすると、ベッドの上から「兄さん、おやすみなさい」と依子が呟く声がした。俺もまぶたを沈みゆく意識に任せて、「おやすみ、依子」と返した。


 翌日は、夜のうちに雲が忍び寄っていたのだろう、太い雨が降っていた。
 「今日も青い空が見られると思っていたのに、残念だわ」
 依子が思い出したように言った。俺はこらと叱ってテーブルに視線を戻させる。
 「話題を変えようとするなよ。せっかく教えてやってるのに」
 「だって、わからないんだもの。きっと兄さんが下手なのよ」
 高校に合流できたときのために、俺は依子に勉強を教えてやっていた。お世辞にも勉強ができるとは言えない彼女に公式の意味を理解させるのは、なかなか骨が折れる。一度実演して自作の問題を解いてみせると、「ふうん、そうなの」とわかったようなわからないような声をもらす依子である。それでも――俺が根気よく説明をつづけようとした、そのときだった。
 看護婦が入ってきた。
 「峰岸さん。ご両親からの預かりものです」
 「ああ……ありがとうございます」大きな茶封筒を渡されて、俺は両親の顔を思い浮かべた。せっかくきたのなら、依子にあっていけばいいのに――しかし、きっと依子の治療費のために身を粉にして働いているであろう彼らのことを思うと、そう愚痴るのも悪いような気がする。
 看護婦が消えてから、依子が口を開いた。
 「なにが入っているのかしら」
 さあ、と答えて俺は中身を取り出す。それは、一冊のノートだった。灰色の表紙に、ただ「日記」とだけ書いてある。筆跡は俺のもの。……確かに、俺が以前つけていたものだが、両親がそれを寄越してくる理由がわからなかった。
 「ここでの生活を記せって意味じゃない?」依子が覗き込んできて言った。
 「どういうことだ? 俺にそうする必要があるのか?」
 「ううん、そうじゃなくって」依子は笑って胸に手をやった。「私のことを書き留めておいてほしいんじゃないかしら。ほら、二人とも忙しいから。娘が頑張っているあいだのことを、あとでもいいから知りたいと思うのは当然の親心でしょう?」
 「ははあ、きっとそうだな。じゃあ早速書いてやるか」俺は意気込んでノートをぱらぱらとめくった――ところで、ふと最初のほうのページで指がとまった。
 そこには、新聞の切り抜きが張ってあった。俺の日記なのだから、俺がそうしたのは間違いないだろう。けれど、そんな憶えは一切なかった。
 ――どくりと心臓が一つ脈打つ。
 俺は目を見張った。そしてそのまま、動けなくなった。記事の日付は前年のものだ。いいや、そんなことはどうでもいい。重要なのは、そこに――丸く切り抜かれた枠の中に、載せられている顔写真の主が――
 「――兄さん? どうしたの?」
 声に反応して、俺は跳ねるように顔を上げた。しかし「そんなこわい顔して、なにが書いてあったの?」と不思議そうな顔をする彼女を見て、またも思考が停止してしまう。
 「依子……どうしたんだ。そこ」
 え? と彼女が見た先、療養中の足を包んでいるはずの布団に、みるみる真っ赤な染みが広がっていた。俺が狼狽する間も、今にもあふれ出しそうな染みは上半身のほうへ上っていき、今度は病院着の腰の部分が鮮やかな朱色に染まりはじめる。依子はなにも気づいていないみたいだった。すでに胸までぐちゃぐちゃに出血しているのに、「大丈夫?」と俺を心配してくる。雨音が激しく聞こえる。彼女のからだは、まるで紙くずに火をつけたときみたいだった。とまらない。とまらない。依子の全身は肉が腐ったようになっていて、顔面も半分以上が赤黒く爛れていた。
 「あ、ああ、あ……依子、依子」
 どういうことだ。あとはもう回復を待つだけじゃなかったのか。
 ――違う。
 違う? なにが違う?
 いや、そういえば――どうして。
 どうして、こんなにも長く依子は入院しているのだろう? 俺はどのくらい待っているのだろう? 依子の昔から変わらない髪型――いや、どうして変わっていない? どうして彼女の髪は伸びない? そもそも、ふつうの病院の窓が鉄格子なんかで細かく区切られているというのは、どういうことなんだ? 彼女は、妹は、依子は――
 違う。違う違う。
 本当に小さな事故だったんだ。些細な、取るに足らない小さな事故だったんだ。救急車がきて、あっさりと依子を病院に連れていっただけだ。手軽に白い救急車がきて――いや、そうじゃない。俺が目にしたのは、見たことのない救急車だった。
 運ばれたのは彼女じゃない。
 俺だ。
 それは、黄色い救急車だったんだよ、依子。


                  ◇


 モニターに映された光景を眺めて、新任の医師が低く唸った。一人の男が数人の同僚に押さえられながらなにかを喚き散らしている、監視カメラの映像だ。
 「峰岸茂樹(しげき)さんです」医師の横で看護婦が言った。
 「決してベッドで眠らない患者、か。寄りつけないんじゃなくて、寄りつかないのかな。布団が膨らんでいるな。あと、シーツの上にあるのは……ごみ箱かい?」
 「ええ。食事のほぼ半分を、毎回あの中に捨てています」
 「この状態はどういうことだ? 薬はちゃんと飲ませていたんだろう?」
 「……それが、微妙でして。私も含め、誰もちゃんとした確認はしていませんでした」
 「叫んでいるのは誰かの名前みたいだが……」医師が画面を凝視する。
 「たぶん妹さんだと思います」看護婦は表情を変えずに答えた。「彼の症状と密接に関わっている、妹の依子さんだと」
 「へえ」
 「確か新聞にも載っていましたよ。去年、駅のホームで電車を待っていた十五歳の峰岸依子さんが、いきなり小学生に背中を押されて線路に転落。すぐに撥ねられて、全身を強く打って即死だったっていう」
 「はああ、それはまたマスコミが好きそうな」
 「やったのは塾通いの男の子で、親に成績のことでこっぴどく叱られたあとだったみたいです。ほんの八つ当たりというか、悪戯のつもりだったみたいですけど」
 「怖いねえ」医師は肩をすくめて身を翻した。「まあ、とにかく駆けつけようか」
 「はい」
 看護婦は、医師とともに部屋を出ていく。都市から離れた山間部にある、世間から隔絶された病院に、重い雨が降り注いでいた。
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