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 久々に美術館へ来た。平日の午後二時だと、人は全くいない。おかげで目的の物をじっくり観察することが出来た。

 改めて大野祐一の絵を目にしても、そのレベルの高さに驚かされる。けれど……なんだろう。うまく言えない。あの時は何かが欠落していると思った。それも致命的に。

 だが足りない、という表現は間違いなのかもしれない。現実よりも生々しくて迫真的な描写、一見すると信じられないくらいに完全なそれに、危うさを感じる。そしてその危うさに惹かれる。魅入られる。だからもしかしたら、この絵に欠如している何か、それこそが本当の魅力なんじゃないだろうか。

 俺はいつのまにかすっかり大野の絵に見入っていた。一体この絵の本当の魅力はどこにあるんだろうか。この鮮やかな描写のどこに、思わず背筋をうすら寒くするような危うさがあるんだろうか。そんなことばかりを考えていた。

 今日は久しぶりに絵のこと真剣に考える。前はどうしたらもっと良く絵が描けるか、そればかりを考えていたのに。それを考えるのは、子供の頃からずっと楽しくてしょうがないことだったのに。

「あの、」
「うおわ!」

 突然声をかけられて思わず素っ頓狂な声を出してしまった。夢中で考えことをしていたから、近くに人が来ていたことに全く気が付かなかった。

「あ、すいません。驚かせるつもりじゃなかったんですけど」

 声をかけて来たのは、車椅子に乗った少年だった。見た目は子供っぽいのに、落ち着いた雰囲気の少年だ。二、三歳ほど年下だろうか、男のくせにサラサラの髪の毛で、育ちの良いお坊ちゃんみたいだと思った。

「えっと……?」

 見覚えの一切ない子だったので、俺はいささか戸惑った。ずっとこんなところで突っ立って考えごとをしていたから、不審者だとでも思われたか。

「さっきからずっと熱心に見てたから、つい声をかけちゃいまして。それを描いたの僕なんですけど、どんな印象を受けたのか聞かせてもらえませんか? 」
「じゃあお前が大野祐一?」
「ええ」

 大野は人懐っこそうな笑みを浮かべて頷いた。

 しかし意外だ。学校辞めて絵の道を志す男なら、もっと傲岸不遜で荒唐無稽な奴だと思っていた。だが大野祐一は、それとはおよそ対極に位置するような人間だった。どちらかというと気弱で純真な子供を思わせる。車椅子に乗っているせいで、病弱な印象が強くなったからか。

「あー、印象ねぇ……」

 この絵の印象は大きい。けれど俺の考えていることを、そのまま言葉にして伝えていいものか迷った。感受性が強いことは自負している。ことに絵に関しては過敏と言ってもいいくらいだ。だからそんな俺の印象は他人には理解しづらいだろうし、恣意的な解釈だと採られかねない。

「あんまり強い印象はなかったですか?」
「いやそんなことはない。俺にとってはかなり印象的だった。けど、」
「言葉にしづらい、ですか?」
「ん? ああ、そうだな」

 大野祐一は不思議な人間だ。初めて会ったというのに、まるで人を緊張させない。普通突然話しかけれて、絵の印象など聞かれても、適当なことを言って立ち去るだけだろう。でも大野が持っているふわりとした柔らかい空気に触れていると、自然と話を続けたくなる。

「よく言われるんです、それ。他の絵よりも言葉にしづらいって。でももし何か思ってることがあるなら遠慮なくそのまま言ってくれませんか」

 車椅子に座っている大野は、俺を見上げる形になる。子供のように期待した目で俺に視線を向けてくるので、仕方なく話すことを決めた。

「うーん……まず迫真性が違う。描かれてる次元も全然違うと思うっていうか……。なんだろう、やっぱり難しいな。ただ見た瞬間にこの世界に引き込まれるし、見れば見るほど魅力が出てくる。温度とか、光とか、風の流れとかが、わかりそうなくらい繊細に描けてる。でも全体を見ると鮮やかだ。本当にそこにある空間と時間を切り取って、再構築したみたいだとだと思ったよ。
 ……この絵を見て随分落ち込まされたよ」
「え?」

 大野が驚いて俺の方を向いた。隣に飾ってある自分の落書きを指差して話を続ける。

「そこに掛けられてるのは俺が描いたんだ。お前にとっちゃお笑い草だろうが、俺はそれで最優秀賞を取れると思ってた。時間も労力も十分に懸けたし、俺の中では指折りで数えられるくらいの十分な出来だった。実際優秀賞をもらってもうれしくもなかったしな。

 それで最優秀賞がどんなもんかと思って来てみたら、この様だ。お前とのレベルの違いに愕然とした。

 それからはずっと何も描いてない。描き始めるとお前の絵の印象がちらついて、自分の描いている絵の拙さに吐き気がしてくる。でも時々無性に描きたくなる。すぐ投げ出すって分かってるのに。しばらく何かを描きたいまま何もかけずにいて、いやになった。本当はそんな理由で今日はここへ来た。

 結局何にもならなかったがな。どうみても俺の方が遥かにレベルが下だし、学校を辞めてまで絵を描いてるお前には勝てそうにない。

 ……と、俺が途方にくれるくらいお前の絵は良いと思う」

 大野が話の途中から本当に困った顔をしだしたので、最後はおどけてみせた。少しだけ奴の顔に笑顔が戻った。

「谷島和樹君だったんだ」

 名前を知っているのは隣の俺の絵でも見たんだろうか。大野は驚いたようなうれしいような顔をしていた。

「名前、どうして?」
「同じ学校の人が優秀賞で記憶に残っててから。それに絵もね」
「まさか。お前くらい絵のうまい奴が俺の絵如きを覚えてるはずないだろ?」

 俺は自分より下手な人間の名前なんか絶対に覚えないぞ。

「いや、はっきり覚えてるよ」

 強い断定で言い切った大野の顔は、妙に真剣だった。冗談でもお世辞でもないみたいだ。しかし分からない。一体俺の絵の何が奴の記憶に留まることになったんだろうか。

「谷島君はもう絵を描かないの?」
「分からん」
「描きなよ。描きたいからまたここへ来たんでしょ? 絶対描いた方がいい」

 その後数分間、大野はものすごい熱心に俺を説得しにかかった。何故大野がそんなに俺に描けと言ってくるのかは分からなかった。けれど、俺にとってこれはチャンスだと思った。一緒に描きながら、大野から描き方を教えてもらうという交換条件をつけて、また描き始めることにした。一人で黙々と描くのは、今はまだしたくなかった。それは弱さだ。でもそれで得られる物があるなら、俺はその弱さを今は受け入れたかった。

 それからこの美術館のどの絵が好きだとか、ほとんど絵を描かなかったせいで、勉強時間が確保出来た俺は期末試験の成績だけは上がったとか、もうすぐ桜が見頃だから描きに行こうとか、そんな取留めのないことを話した。車椅子のことは気になったが、迂闊に話題に出せるものではないと思って、何も聞かなかった。

 しばらくすると大野の母親が来て、俺達は次の土曜に病院へ会いに行く約束をして別れることになった。その直前大野が、

「僕のその絵、違和感ない?」

 と聞いてきたので、

「ある……と思う。けどそれが何なのか分からん。さっき言ったみたいに、圧倒的にリアルな描写がされてるのに、何か引っかかる。見てるとだんだん現実とは程遠い光景みたいに感じる気がする。危うい、っていうか欠落してるっていうか。とにかくそんな印象があってずっと気にはなってた」

 そう正直に答えたら、大野は「そっか」とだけ呟いた。

 その表情は何故か満足したように見えた。
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