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 画材と画板を持って、大野の病院へ行った。車椅子を押しながら、近くの川沿いの桜並木を歩いて、気にいった場所で止まっては素描を繰り返した。大野のクロッキーは恐ろしく速く正確で、俺が一枚書き上げるまでに、奴は倍書いていることもあるくらいで、とてもじゃないが真似出来るとは思えなかった。二時間くらい外を回った後、人も増えてきたので病院に戻った。俺達は二人とも人が写らない景色の方が好きだった。

 昼からは、大野は病院食を、俺は適当にコンビニで買ってきた弁当を食べて、病室で午前中に描いた中で、気に入ったものに色を付けていった。大野に教えてもらうという約束はどこへやら、俺達は時々言葉を交わすくらいで、互いに自分達の世界にのめり込んでひたすら絵を描いていた。

 けれども並んで描くというのはそれなりに意味があることで、集中力の切れた時には大野の描いていく過程を見たり、逆に大野が休んでいる時には、俺から疑問をぶつけてみたりした。俺の聞くことに対しては、実に的確な答えを返してくれたが、逆に聞かれたことはあまりうまく答えることが出来た自信はない。せめて簡潔に、俺の思っていることが伝えられていればいいと思った。

 気がついたらもう五時近くになっていた。こんなに夢中で絵を描いたのは久しぶりだった。

 楽しかった、ああ、楽しかった。こんな感覚はいつ以来だろう。

 俺の絵は相変わらず大野のものとは比べ物にならないけれど、描くって行為が俺の中で変わった気がした。前は描くのが好きで楽しくてしょうがなくて、そしてそれだけだった。でも今は何かが変わった気がする。それはまだ俺のなかで言葉にすることは出来そうになかったが、でも確かに変わったのだ。

 そろそろ帰る時間だった。朝から描きっぱなしで流石に疲れた。大野は俺のことなんかお構いなしで、ガリガリ描き進めている。

「大野、そろそろ時間」
「うわ! もうそんな時間!? 楽しい時間は過ぎるのが早くていやだな」

 一日中ひたすら描き続けてただけだけどな。会話なんてほとんどなかったのに、楽しいなんておかしなものだ。けれど不思議だ、俺も何故か絵を描くっていうそれだけのことが楽しかった。

「じゃあ俺帰るな。また来週来るわ」
「ん。バイバイ」

 コイツと絵を描くのは気楽でいい。絵の上達にもなりそうだし、何より筆が進む。どうせ春休み中は暇だからと、また日がな一日絵を描いて回る約束をした。

 荷物を片付けながら、俺はあることを思い出した。

「ところで大野、気になっていたんだが」
「何?」
「お前将来どうするつもりだ? お前くらいの技術があればプロの画家とか目指せそうなもんだが。そのために学校辞めたんだろ? どっかの専門スクール通ってきちんと勉強した方がいいんじゃないか? いらん世話だが」
「うーん……今のところ将来画家になる予定ないんだよね。僕にはもっとでっかい野望があるからさ」

 大野は少し大袈裟におどけた。

「貧弱そうなお前の形で野望とは驚きだ。教えてくれよ」
「笑顔で死ぬこと」

 大野はそれまでと変わらない人懐っこそうな笑顔でそう言った。

「なんだそれ。お前将来真面目に考えてないのか?」
「酷いなぁ。真面目に考えてるって。なかなか最後に笑って死ぬのは難しいと思うよ」
「それはそうだろうが……。そういう話をしてるんじゃなくてだな、」
「ううん、そういう話をしてるんだよ」

 俺の言葉を遮った大野の眼差しが、少しだけ真剣になる。

「和樹は僕が学校を辞めるのは絵のためって言ってたけど、それは誤解だよ。結果的にはそうかもしれないけど、別に絵の勉強がしたくて学校を辞めたわけじゃないんだ。それまで、なんとか歩くくらいは出来た脚が、四月の初めに急激に悪化してね、それから車椅子生活になったから、両親に我侭を言って好きにさせてもらったんだ。エーエルエスっていう珍しい病気みたいでね、今はまだ下半身にしか症状が出てないけど、上半身もいずれ同じようになる。実際今もどんどん力が落ちていってるしね。だからそれは僕にとっての野望だよ」

 その話を聞いてる間、大野は意外とよくしゃべるな、とか、いつのまにか和樹って下の名前で呼ばれるようになったな、そういえば初めて会ったときも最初は敬語だったのに、自然なうちにタメ語になっていたな、とかそんなどうでもいい事を考えていた。

 咄嗟に頭が理解を拒んだのだと、後から気付いた。

「……そっか、分かった。じゃあまたな」
「ん。気をつけて帰ってね」

 分かった? 一体俺は何を分かったって言うんだ? 

 大野の言っている意味が良く分からなかった。分かりたくなかった。

 扉を開けた瞬間に思い出した。ここは病院だった。

 閉めようとした扉の隙間から、大野が相変わらずの優しい笑顔で見送ってくれているのが見えた。
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