Neetel Inside 文芸新都
表紙

脳髄モダニズム
「私は学校に行かない」

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 何故私は学生時代を棒に振ったのかと今更ながらに思う。
 有り余る時間のほとんどを睡眠に費やし、途方も無い夢世界の旅人と化していたあの春夏秋冬。時に空を飛び、火を噴き、知らない禿げたおっさんに追いかけられ、とんでもなく淫らな恰好で電車に乗って興奮し、有り余る妄想を脳内で醸し出しては現実世界で絶望を迎える。何も益を生まぬ、非生産的日常である。
 高校があまり楽しくなかったのは、目標が無かったからに他ならない。
 したがって半ば強制的に出現した受験という目標を抱えた高校三年時は比較的充実したもののように思える。
 ただ、あくまで私の経験から導きだされた充実感であり、他者と比べればそれはもう陳腐なものであっただろう。
 学校そのものに充実を感じたわけではない。何かをしている自分に充実を感じたのである。
 まさにその時、生きている感覚がした。
 18年間生きてきて、ようやくそう感じたのは喜ばしいことであるのか、悲しむべきなのか。
 大学に入れば何かやることができると思っていたが、大学に入っても結局やることはなかった。
 青春は道に落ちているものだとばかり思い込んでいたので、大学時代の私はそれはもう寒いものであった。
 道さえも歩いていないのに、青春を拾えるはずがない。
 そもそも青春は道端などに落ちてはいないのだ。

 ○

 高校一年次にして、私は出席日数が足りず親が呼び出されるといった珍事を迎える。
 母は「この子は将来学者になると思っていたのに……気づいたら不良になっていた!」と号泣し、父は「そんな子に産んだ覚えはない!」と激怒した。そりゃ覚えはないだろう。私は母から産まれてきたのだから。
 両親は真面目に学校に行っていた、と思っていたのだから、なおさら悲しみに暮れていた。
 私はエアー登校をしていたのだ。
 高校までは自転車通学だった。朝、家を出るとまず住宅街を抜けていく。緩やかな坂を下り、並木道まで出ると朝露の新鮮な香りが胸いっぱいに広がる。
 本来なら交差点を右折し、駅方向に伸びる通学路へ出ると、もうすぐそこに高校はあるのだが、私はそのままふらりと左折をする日もあれば何食わぬ顔で折り返す日もあった。
 閑散とした小さなマーケットに自転車を停め、ピークを過ぎた小さな個人経営のパン屋で鶯餡ドーナッツを購入する。この鶯餡ドーナッツが曲者であり、恐ろしく鶯餡の出来が悪い時と、恐ろしく鶯餡の出来が良い時の差が激しい。出来が悪い時は匂いつき消しゴムでも食っている感覚に襲われ、風味が強いばかりで味がない。しかし、パン屋主人の秘められし能力が覚醒し時には、一口含んだ瞬間に広がる芳醇な餡の風味と、ほのかな甘さで以下略。
 制服で、平日の朝から誰もいないマーケットの正面ベンチに腰掛け、ドーナッツを頬張る贅沢さを君は知っているか。知らないだろう。君らは善良な真人間である事くらいは承知している。
 マーケット裏手に幼稚園があり、園内からは楽しげな音楽が聞こえてくる。突き抜ける空に、薄雲がかかっている。
 適当に時間を潰しながら早すぎるおやつタイム愉しみ、図書館で適当な本を借りて小川近くにある神社の境内に腰を下ろす。ちょうどそこは木陰になっており、人通りもない。朽ちた石垣に寝転がる事も出来、私だけが知っている空間で私だけの時間を過ごした。
 物語を終えるころには日が落ちかけており、私はその日のうちの本を返却し、あたかも学校で一生懸命勉強してきたような顔をして帰宅する。
 学生であって学生でない。くすぶる良心からくる罪悪感だろうか、何か違うと感じながらも、私は学校へ行かなかった。
 気づいた時には、私は不登校生徒になっており、学校から家に連絡がいった。
 ほんの短い間であったが、一般的な日常から逸脱した自分を、今思えば本当に羨ましく、また愛おしくも思う。
 それから、私はまた学生になった。

 ○

 青春を定義するのは難しい。
 学生生活に充実感を得るために必要なものは仲間だろうか。過ごした時間の密度だろうか。君ならどう考える。
 きっと、答えは道端に落ちている。

       

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