罰金ザ・デイ
もう一回
ワントラックリプレイ
二十五歳になってちょうど二ヶ月が過ぎようとしていたところで、ばったり出くわしてしまった。
「あ、いいところにやってきましたねしろいぬさん。ちょうどお話をうかがいに向かおうと思ってたんですよ」
世にもうさんくさい野郎に捕まってしまった。そんなことを言って待ち構えていたに決まっている。こいつのことは苦手なのだ。なんと言っても、ぼくが鏡を覗き込んだときに見かける面(つら)と憎々しいほどにそっくりの見た目をしている。
「このあとは? どうせベッドの上でうだうだ時間を潰して眠たくなるのを待つだけでしょう。私に付き合っちゃあもらえませんか」
ぼくは図星を突かれて返答に窮した。彼は断る理由がないのなら雷同せよという伝統慣習的な暗黙の了解を、くそったれの集団催眠的な規則をぼくに強要する。しかしながらぼくは彼の申し出を断るに値する用事を、今夜の予定に入れておかなかったのである。とっさの方便すら性根がお人好しのぼくには用意がなかったのである。くそったれ。ぼくは慣習に毒されている。
「またペンネームを変えようかと企んでいるらしいですね。あなたのそのいちいち気分を変えるために形から入ろうとする癖は、本質から目を背けて逃げているようにしか、私から言わせてもらえれば見えないんですがね」
いけすかないドッペル野郎はずけずけと言った。
「あなたが言うには、名前は他人に呼ばれることで初めて意味を成すんですよね。小説がひとに読まれることで完成するように。なるほど理にかなっているように聞こえますが、そうするとしろいぬさん、しろいぬさんの名前を知る多からずとも少なくない人たちのことをないがしろにして、忘れちまおうって魂胆ですか? まああなたには、そもそもそんな度胸なんてありはしないんでしょうけれど」
野郎は鼻を鳴らして、なお続ける。
「名前がただの看板だっていうなら、あなたの本質は看板を新しくしても変わらないんだってこと。考えるまでもなく分かっているでしょう。すぐあんたはそうやって、賑やかな人たちを羨ましがるんだ。自分が話題から外れていることを何かのせいにしたがるんだ」
ぼくは野郎の横っ面を振りかぶった拳でぶちのめしてやったあと、車に乗り込んで乱暴にクラッチをつないだ。軽の箱バンはぎくしゃくと発進した。排気タービンが耳の奥に唸りを上げた。すぐに赤信号につかまる。ぼくは田舎の真夜中の赤信号をまもっている。いろいろと馬鹿らしくてため息しか出てこない。
ぼくの身の回りはここ一年で大きく変化した。転職して住む場所が変わった。住居にプライバシーがなくなった。年下が先輩になった。上司は無能だった。ぼくはそういう逆転の環境には慣れているつもりだった。ぼくは自分が思ったより打たれ弱いことを痛感させられた。
そして共通の趣味を持った人々と身近になったこと。といっても、根っから引っ込み思案が解消されたわけでもなし。趣味の悪い覗き見の人間観察とたいした違いもなかったが、小説を書いているような奇人が自分以外にも『現実に存在している』のを実感したこと。Twitterはとにかく衝撃を与えてくれて、そしてがやがや言い合いながら小説を書ける環境は、以前よりぼくが望んでいたいわば部室であり、それを得た気になって浮かれていた。
どうせ。
どうせぼくはこの車に乗ったってどこへ行けるわけでもないんだ。結局同じ場所に帰ってくるのだ。コンビニにドリンクを買いに走って、買い物の短い間にさえキーを抜いてワイヤレスでロックを掛けて、そんなみみっちいやつだ。家に帰るんだ。結局。なにがターボだ。ロールーフが偉そうに。原チャリすらミラーがつっかえるんだ。ばーか。
信号は青になった。植木屋が軒を連ねる真夜中の真っ暗な県道がうねりながらのびている。自動車保険は対人対物ともに無制限の保障がついている。どこにぶつかっても、誰をひき殺しても保険会社が一切を請け負ってくれる。前職で覚えたみみっちい処世術。保険はしっかり掛けておくこと。でも職は失う。
カーオーディオに突っ込んだ四十年前のロック音楽。ポール・マッカートニーが祈るような声で、延々と一曲を繰り返し歌っていて、情緒も感動も本人の祈りもくそったれに引っ掻き回している。れりびー、れりびー、……ぼくはライナーノートに翻訳された歌詞を信用する気がなかった。ぼくは日本語しか知らないから、ビートルズのlet it beがなにを歌っているかなんて、一生分かるはずもないのだ。ただひたすら、多くのひとの支えになるというこの歌をエンドレスにリピートして、自分の足で立てることがないように気をつけている。ピアノのリフレイン。れりびー、……
意味なんかないのだ。ぼくにとっておよそ全てのことに意味なんてない。ぼくの名前に意味なんかない。ぼくの小説に意味なんかない。そんなものは全部後付けの理由だ。他人にしか必要がない。ぼくには実体のない幽霊に思える。そのうえぼくには霊感がない。小説は低俗で価値なんてない。それを見いだすのはいつも、夢見がちな読者のほうだ。ぼくは無責任でいい。解釈なんか放り投げて、それっぽい言葉を並べ立てればいいんだ。なにも難しくなんかない。難しく考えるのはいつも、夢見がちな作者に限られているんだ。くそったれ。
「それで」
ドッペル野郎は同じ場所でぼくを待っていた。ぼくは同じ場所に戻ってきたんだ。
「どうなんです、やめますか? それとも続けますか?」
お前なんかに言われなくたって。ぼくはじきに諦めてしまう種類の人間だってことは、自分で見切りがついているのだ。勧められるまでもなく、そのうち飽きて、色んなことを忘れて、辞めてしまうだろうよ。でもね、現にぼくはひとつとして、何を成し遂げてすらいないんだ。そのことにムカムカしているんだ。
「だったら、……」
どうせこの苛立ちにもそのうち慣れて、飽きて、忘れてしまうだろう。でもすぐに思い出すんだ。今日みたいに。意味なんかはじめからないんだ。幽霊はぼくの目に映らないのだ。しらないよ。はじめから、ぼくはひとりでじめじめした話を書くばかりで、それで自分を慰めていただけだ。他人とは切り離されていて、切り離されていなけりゃいけないのがぼくのやりかただ。それを幼稚だとか意味が不明だとか、本当にもう、勝手にしやがれよバカ野郎。糞して寝やがれ。バカ野郎。