Neetel Inside ニートノベル
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キス、キス、キス
第1話 キス魔降臨

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「キス、かあ」
 学校からの帰り道。誰もいないのを見計らって、リナは小声で呟いてみた。最後の仲間だと思っていたナツミも数日前に彼氏を作って、あっという間に唇処女を卒業してしまったようなのだ。これでなんにも知らないのは自分だけ。悲しい溜め息が出た。
 彼氏なんて作ったことない。キスなんてしたことない。エッチなんか、もってのほか。それがリナの正体だ。恋愛経験が豊富だなんて一体誰が言い出したのやら。それはあいつだ、元はと言えばキョウコが悪い。
 キョウコと友達になって、なんとなく恋愛の話をしているうちに彼女は勝手に勘違いしてくれちゃって、いつの間にかリナは彼氏持ちという事になった。それに加えて他のみんなだって悪い。話に食いついて、根掘り葉掘り聞いてくるものだからリナは慌てて脳内恋愛経験を捏造し、それを披露せざるをえない状況になってしまったのだ。
「ま、一番悪いのはあたしなんですけどね」
 独り言を続けて、彼女は夕日を見上げた。
 はっきり言って、リナの容姿は学年でもトップクラスに入る。加えて彼女は人見知りするような性格でもなく、誰とでも別け隔てなく接することができる。女子の友達は多いけれど男子とだって同じくらい仲は良い。つまり彼氏なんて黙っててもすぐにできるスペックと言える。もとい、黙っていればすぐにできるはずだった。
 あまりに広まりすぎた武勇伝は男子たちのリナへの熱意をへし折ったようで、高校に入ってから受けた告白の数はゼロ。顔も名前も知らない男子から自分がビッチ扱いされてると知ったときは血の気が引いた。中学時代は三年生にもなると毎月誰かしらからラブレターを受け取ったり告白されたりしていた美少女の、見事なまでの転落人生と言えた。
 ちなみにその頃の彼女は意外にも恋愛に奥手で、全ての告白を断っていた。勇気がなかったとも言える。そういう自分をどうにか変えたいという思いと、もともと彼女の中に潜んでいたムッツリなスケベ心が融合し、今の博識な彼女は生まれたのである。
「はあ、彼氏欲しいなあ。せめて誰かとキスしてみたいなあ」
 リナは昼間に自分が挙げてみせたキステクニックの数々を思い出した。どれも悶々としながらネットを見て得た知識だ。名称も手段も知ってるのに、実感だけがない寂しさ。偉そうに知ったかぶっていた自分も思い出して死にたくなる。
「ああーっ、キスしたいよおー!」
 吹っ切るように叫んだ言葉は天に吸い込まれていった。こんな挙動はマジキチで切ないけれど、黙って下を向いているよりはマシだと思ったのだ。

「……あのお」
 突然、背後から声がしてリナは振り返った。そして絶句、ついでに失禁しかける。
「そんなにキスしたいんですか?」
 そう話しかけるのは、明らかに人間でない姿形をした……強いて言うなら、悪魔だった。
 リナの足は固まり、地面にくっついたまま動かない。絵本やら漫画やらどこかで見たことのあるような身なりの悪魔(仮)は、怯える彼女にゆっくりと近づいた。
「あのお。キスしたいんですよね?」
「いや、その……あ、あ、あ、したくないです、結構です、軽いジョークだったんです……」
 リナは声を搾り出すように言った。
 辺りは不自然なほど静かだった。よくよく考えると、さっきから誰ともすれ違わなかったし、何の音も聞こえない。悪質な違和感に包まれ、リナは本気で震え上がった。目の前の悪魔(仮)は困ったように言った。
「そんなこと言われても、ぼく呼び出されちゃったんで。しょうがないけど契約しましょう。キスしたいんでしょう?」
 呼び出し、そして契約。その単語だけで激烈にヤバいことはリナにも分かった。どうにかして帰ってもらうしかない。でも、どうすればいいのだろうか。
「あのお、落ち着いて聞いてもらえます? ぼく悪魔って言うんですけどね、まあそんなに怯えないでくださいよ」
 ああ、やっぱり悪魔なんだ。そう納得する余裕がリナに生まれたのは、この悪魔の何とも気の抜けた話し声によるところが大きかった。
「ぼくが恐ろしいものに見えてるようですけど、それはあなたの想像する悪魔を見ているに過ぎないんですよ。悪魔と聞いてかわいいキャラみたいなものを想像できる人には、ぼくはかわいく見えてるはずなんです。その逆で、恐ろしいものだと思ってる人にはそう見えちゃいます」
 まさしく後者だった。恐ろしい姿形をした悪魔。しかしリナが本当に恐ろしく思っているのは、そういうことではない。
「契約とかってどういう意味なんですか? あたしそんなのする気ないんですけど……」
「ああ、契約。簡単なことです。あなたが悪魔の能力を使えるように、ぼくと約束しましょうねってことです」
「約束ですか」
「約束です。あなたに悪魔の能力をあげるわけですから、それなりの約束事もあるんです」
「その約束を破ったらあたし、どうなるんですか?」
「ええっと。死にます」
「すいません本当勘弁して下さい」
 リナはこの足さえ動けば、今すぐにでも土下座して許しを乞うつもりだった。しかし実際は立ち尽くしたままである。
 悪魔は再び話し始めた。
「まあ、一応最後まで聞いてください。ぼくがあなたにあげる能力というのは、キスの能力です。あなた、キスしたいって言ってましたもんね」
「言ったような言ってないような……。それで、キスの能力って何なんですか?」
「それなりにすごいですよ。キスしたいと願った相手と、好きにキスできるようになるんです。相手は確実に合意してくれるんです」
「へえー……」
 へえ、とは言ったもののリナは食指を動かしたわけではない。正直、大して嬉しくない能力だった。
「それじゃあ守らなきゃいけない約束事っていうのは?」
「それはシンプルです。一日一回、その能力を使って、誰かとキスをすればいいだけです。簡単でしょう?」
「はあ、言うのは簡単そうですけど。じゃあ、誰ともキスせずに一日が終わったらあたしは死んじゃうってことなんですね」
「そういうことです」
 悪魔は穏やかな口調で続けた。リナは少しばかり、悪魔相手に堂々としてきているかもしれない。
「もっとも、キスが失敗することはありませんから大丈夫です。一日の終わりが近づいても、駆け込みでその辺にいる人をつかまえてキスしてしまえば、一日のノルマは達成ですから」
「えー。なんかやだなー」
「それならあなたのキスしたいと願う相手とすればいいのです。何度も言いますけれど、確実に成功しますから安心してください」
「うーん。まあ契約したくないって言っても無理なんでしょ?」
「そうですねえ。してもらわないと、ぼく帰れませんから」
 こんなのに付きまとわれてもリナが困るだけだった。それに、悪魔などという非現実的なモノとこうして普通に会話していることがひどく馬鹿ばかしく思えてきて、リナはもうどうでもよくなりつつあった。
「じゃあ契約します。すればいいんでしょ?」
「よかったあ、助かります。ぼくも早く帰りたいんですから」
 そう言うと、悪魔はなにか呪文のようなものを手短に唱えた。おどろおどろしい「契約の儀式」とか、その手の魔術ではなさそうだった。びっくりしたのは最初だけで、そこから最後までなんとも肩透かしな悪魔である。
「ぼくの姿が消えたらそれは契約が成功したということです。では、さようなら」
 それきり、悪魔は姿を消した。消えたというよりも、悪魔なんていなかったというような、極めて現実的な空気感に戻ったのだ。なんとなく街に人の気配が戻り、どこからか雑音や騒音がかすかに聞こえてくるようになった。
「なんだったのよ、もう」
 リナの頭からは、悪魔の姿と形の記憶がすっかり抜き取られていた。しかしその出会いとやり取りは鮮明に残っている。忘れようと思っても忘れられない体験だった。
 リナは誰とでもキスができる悪魔の能力を得たのだ。彼女は家に着くまで、キスのことばかり考えて歩いた。冬の匂いのする秋の夕方は、もうじき色濃い夕闇に包まれようとしていた。

       

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