「ただーいま」
家に帰ったリナは、誰に言うともなくつぶやいた。もはや癖というべきか躾というべきか、ただいまの挨拶は靴を脱ぐのとワンセットになってリナに染みついている。同様に、いってきますは玄関のドアを開けながらだ。
ありふれたごく普通の一軒家。静かな玄関からは廊下が続く。母はその奥のリビングにでもいるのだろう、かすかにテレビの音が漏れて聞こえる。リナは洗面所に向かい、それからリビングに麦茶を飲みに行く。一言二言、母と雑談したら、二階の自分の部屋へと向かうのだ。家の中でのリナの行動パターンは、いつだって同じである。
自分の部屋に入ったら制服のブレザーを机の上に放り、ブラウスとスカートはそのままでベッドに飛び込む。大切な安息の瞬間で、柔らかいシーツの感触に包まれるとしばらくは動く気がしない。疲れているのは学校のせいではなく、片道四十分の電車通学のせいだろう。そのままだらけた格好で友達宛てのケータイメールを打ち込み、ひと通りのやり取りを終えると、あとは晩ご飯の時間までぼんやりとする。
「ねーちゃん、メシ」
ドアをノックする音と共に弟の声が聞こえたら起きて、部屋着に着替えて一階のリビングへと向かう。帰りの遅い父を抜いた三人での夕食を済ませ、弟とのチャンネル争いを(不戦勝で)勝ち取ると、あとは興味のない番組までダラダラと見続ける。やらなきゃいけない用事があるとか奇跡的に勉強する気が起きたとか理由がない限り、だいたいはそのままである。
もっとも、この日のリナには理由があった。
リナはテレビを見るのも切り上げて、そそくさと自分の部屋へと引き上げた。ふたたびベッドに寝転がる。なにか考え事をするときも、なにも考えたくないときもベッドでごろごろするのが一番だ。そして今、考えることと言えば一つしかない。あのキス魔との約束をどうやって果たしたらいいのか。パターン化した動きの中で、リナの頭の中はそればかりだった。
これからの毎日のノルマもそうだけど、まずは今日。今日の分のキスをどうしようかとリナは迷っていた。迷っているということはつまり、すでに選択肢が浮かんでいるということでもある。となりから聞こえる音や気配から、弟がリビングから戻ってきているのは分かっていた。
「まあ、無難なところでいくしかないか」
リナは身体を起こし、部屋を出た。そしてすぐとなりの部屋へと向かい、ドアをノックする。
「テル? ちょっといい?」
ドア越しに呼びかけると、奥からテルの「なに?」という声が聞こえた。「今はダメ」とか拒否する返事じゃないときは、だいたいは入ってもいいという合図だ。リナはドアを開けた。
「なんだよ、入ってくんなよ」
テルはいかにも不機嫌そうな声をだした。
彼はリナの二つ下の中学二年生で、そろそろ自分のテリトリーを他人に干渉されるのを嫌がるお年頃。最近は身長が伸び、声も低くなって、なんだかちょっぴり大人っぽい。それと同時に態度までデカくなって、妙に反抗的なのが気になるところでもある。
テルはさっきまでのリナと同じようにベッドの上に寝転がっていた。うつ伏せのまま片足だけ立てる仕草までそっくりで、このあたりはさすが血を分けた姉弟とでもいうべきか。
そう、自分たちは姉弟なのだ。意識する必要も、遠慮する必要もない。リナは優しい姉を取り繕い、彼に笑顔を向けた。
「ねえ。お姉ちゃんとキスしない?」
ひどい台詞だった。
健全な姉弟であれば絶対に言わないであろう台詞の上位にランクインすることは間違いない。オブラートなんていう薄っぺらい膜で包む素振りすらない。リナの考えに考えた最初の一言が、それだった。
「……はあ? なに言ってんの?」
テルは冷たい眼差しでリナを見た。そりゃそうだ。普通に考えれば、頭がおかしくなったと思われても仕方がない。いきなり部屋に入ってくるなり「ねえ、キスしよっ?」なんて言う姉がどこにいる。ここにいるけど、違う、自分はノーカウントだ。
大丈夫、とリナは気を強く持った。自分には魔法があるのだ。照れてないでさっさと終わらせればいい。
「だからー、お姉ちゃんとキスしよ? ね、いいよね?」
「馬鹿じゃねえの?」
テルの表情は、明らかに嫌悪感の滲み出たものへと変わった。あれえ、おかしいな。そんな表情をされると途端にリナまで不安になってくる。
あいつは、あの悪魔は言っていた。キスしたいと願えば百パーセント合意になると。何度も大丈夫だ、問題ない、と言っていた。その大前提がいきなり崩れているものだから、そこはリナの心中お察しいただきたい。
「ど、どうして嫌がるのよ」
「どうしてじゃなくて。おかしいだろ、こっちが聞きたいわ」
「あたしがキスしようって言ってるんだよ? キスしたくなるでしょ?」
「なるか! アホか!」
「い、いいからキスさせなさいよ!」
リナの頭は混乱と冷静がちょうどよく混ざった状態だった。混乱した頭は恫喝するような台詞を彼女に吐かせ、冷静な頭は話が通じないならさっさと唇を奪っちまおうという考えに導く。つまり、どっちも狂っていた。
一方、テルは自分の耳と姉の頭を疑っていた。暴走する姉の事情など知らぬテルは、彼女の醸し出す気味の悪さにどう対応すべきか計りかねていた。ジョークにしてはあまりに真剣で、鬼気迫る姉の表情に気圧されていた。
そうこうしている間に彼女は一歩一歩近づいてくる。この追い詰められていく感覚は本能的な恐怖感をつのらせる。天敵に捕食される寸前のようなこの状況は、まさしく蛇に睨まれた蛙である。
姉のことは決して嫌いではない。あまりに長い付き合いなものだから忘れてしまいがちだけど、容姿だって結構イケてる方だと思っている。弟として彼女を信頼しているし、家族としてそれなりの愛情もある。しかし、だからキスをされてもいいかと言われれば、そんなわけねーだろというのがテルの心の主張だった。
「お姉ちゃんの命令だ。キスさせろ」
「待って、俺なんかした? 俺なんか悪いことした?」
テルはすっかり怯えた子犬の目になっていた。もはや嫌悪した目線を向ける余裕すらない。暴君と化したリナはテルに抵抗する余地を与えぬまま胸ぐらを掴む。テルの口から、ひいっと悲鳴が漏れた。
キスの瞬間はスローモーションだった。顔がやたら近くて、彼女のぎゅっとつむった目からは長いまつげがよく見える。押し当てられた唇からは、柔らかくて少しあたたかい女性の優しい感触。そんなファーストキスのときに男の誰もが味わう幸せな感覚を、テルは今、先取りで姉に奪われたのだ。
解放されたテルはそのままベッドに崩れ落ち、しくしくと泣くような真似をした。
「ひどい……初めてだったのに……」
足を折りたたんで小さくなるテルは、まるで悪い男に乱暴されたあとの少女のようだ。
「キスの一つや二つでガタガタ言ってんじゃないよ」
リナは捨て台詞を残し、もはや用済みとなった弟の部屋から出ていった。
廊下でひとりになって、ふうと息を吐く。これで今日のノルマは達成した。それなのに感想は、解せぬの一言だ。
「……違うじゃん……全然違うじゃん……すげー嫌がられてたじゃん」
キスの魔法なんて掛からなかった。これではまるで逆レイプだ。嫌がる弟に無理やりキスをする姉なんてどこにいる。ここにいるけど、もう、こればかりはノーカウントで済まされそうにない。色んな思いが交錯する中、とにかくリナは今すぐあの悪魔を問い詰めたい衝動に駆られていた。
そして、ふと恐ろしい考えが頭をよぎる。
実はあの悪魔との出会いは自分の妄想だったのではないか。友達みんなに置いてかれて、あまりにキスしたい願望が強くなりすぎたせいで、リナの頭だけおとぎ話の世界にトリップしてしまったのではないか。そして悲劇は起こり、弟は犠牲になった。
ありうる。ありえすぎて笑えない話だった。
「はあ、そこまでキスしたかったのか。あたしって病気じゃん……」
溜め息をつきながら、リナは自分の部屋のドアを開けた。
違和感は、ドアノブを握った瞬間からあった。時が止まったような、空気が凍ったような感覚。軽く押すだけで流れるように、軋む音も立てずに開くドア。そしていた。どこか見慣れた印象の、見慣れないヤツ。
「やあ。こんばんは」
悪魔だ。ペテン師だ。ヤツはそこに存在しているのが当然とばかりに、リナの部屋になんとも厚かましく佇んでいた。
「あのお、言い忘れてたことがあるので伝えに来ました」
穏やかに話す悪魔の態度は、夕方のときとなんら変わりない。
しかしその悪魔を見つめるリナの眼差しは、あのときよりもずっと冷たいものへと変わっていた。