Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
15.業斗と雪女郎

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 やっちまった。
 思いあまった。
 なんであんな恥ずかしいことを言っちまったんだろう――業斗は自分のベッドに仮面ごと顔を突っ伏していた。くねくねと身もだえし、足をばたつかせて、怪鳥のような雄たけびを枕でぶっ殺していた。仮面からはみ出した耳が真っ赤に染まっている。そのすぐそばで、死装束をまとった青白い少女がひそやかに囁いた。

「使うぜ、容赦なくな」

 業斗の脳味噌が一発で沸点を突き破ってフットーした。
「やめろよおおおおおおおお!! そういうのやめろよおおおおおお!!!!」
 業斗は拳を思い切り枕に叩きつけ苦悶の雄たけびをあげた。少女はそんな哀れな青年を見下ろしながらも容赦しない。
 親指で霊安室の上をくいっと指して、
「俺より強い兄貴に会いに行く」
「言ってねええええええ!!!! そんなこと言ってないからああああ!!!!!!」
「遠慮しないぜ?」
「うわああああ!!!! うわああああぁっぁっぁぁぁぁあああああ!!!!」
「次に会ったら」少し間を置いてから、
「て・き・ど・う・し?」
 少女は悩ましげに白い眉をくねらせて、はしたない流し目を放った。にやりと笑った口元から真っ白い歯がきらりと光る。
 それが見えたわけでもないのだろうが、
「うおおおおおおあっしゃっしゃっばああああああい!!」
 業斗がとうとう発狂して、さらさらの髪をかきむしりながら跳ね起きた。その拍子に仮面がぽとりとかけ布団に落ちて、慌てて拾って顔にかける。そのまま何事もなかったかのように頭からほんわかした湯気を出しながら、
「雪女郎、てめえ、俺にいったいなんの恨みがある!? ねえなんの恨みがあるん!?」
「ふん、なにを言うか」雪女郎はキメ顔をひっこめて、いつもの仏頂面に戻った。
「おぬしはわらわの獲物を喰ってしまったのじゃ。わらわが丹精込めて煉獄めぐりさせてやったあの清らかで若々しくて爽やかな魂を――」恍惚と中空を見つめていた顔をキッとこわばらせ、
「いつぞやの時、おぬしが負かして喰ってしまったのじゃろうが! おかげでわらわは空腹のあまりあわや泡沫の夢に帰してしまいそうになるしまつ」よよよ、と死装束の袖で濡れてもいない目元を拭い、ぎろっと業斗を睨む。
「挙句に乱暴で粗忽で卑怯者のおぬしの世話係じゃ。からかいでもせねばやっていられんわ」
「勝手に恨んで勝手に居ついたのはおまえだろうが……」
「なにが勝手なものか! 本来ならばおぬしなんぞカチンコチンのコッチンチンにしてやってもよいのだぞ? おぬしを氷の彫像に仕立て、その氷と魂が溶けてゆくサマを見るのはどれほどの愉悦か……ああ、溶けるからこそアイスとは美味なるものなのじゃ。それを! おぬしがおぬしの遣り残しの始末をしたらおとなしく消えるとゆうから、ついてきてやっているのじゃぞ? わらわは!」
「へいへい……あざーっす。感謝しあーっす。ちょぱねーっす」
 雪女郎がふっと息を吐くとベッドについていた業斗の手がたちまちぱりぱりと凍り始めた。
「ちょっとお!? 駄目っ! めぇっ! ……なあ待てって本当に凍ってやがる寒い寒い寒い無理無理無理はい無理ーはい無理ーはい……おい無理だって言ってんだろ!!! やめろ!!!」
「生意気をゆうからじゃ。よいか、わらわが上、おぬしが下じゃ。そもそもな、霊峰富士の雪の化身たる超大物妖怪たるわらわに対しておまえ呼ばわりとは片腹痛いぞ。おっほっほっほっほ」
「おっほっほじゃねーよ糞餓鬼! くっそこうなったら自力で……」
 ベッドと青白い氷で連結された手首をぐいぐい引っ張る。取れない。少しやけくそに力を入れて引いてみる。パキン。
 取れた。
「………………………………………………………………………………………………」
「………………………………………………………………………………………………」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああ!!??」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああ??!!」
「おまっ!」あまりのことに業斗はもげた手首を押さえてやおら立ち上がった。おまっ、おまっ、と口から漏れるものの、その後が続かない。
 雪女郎は部屋の反対側の壁にまで下がって首をぶるぶる振った。
「わらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃないわらわじゃない」
「お前だよ!!!!!!! 全身全霊でおまえだったよ!!!!!!!」
 もげた手首を振って、
「どうしてくれんだよ!! しかも利き腕じゃねーか!! もうお箸持てねえんだけど!!!」
「たっ」雪女郎は引きつった笑みを浮かべた。依然として視線は電磁石をくっつけてぶっ壊したコンパスのごとくあちこちを彷徨っていたが、それでもなお活路を見出しこの修羅場を突破するつもりらしい。手を挙げようか下げようか中途半端に振り回しながら、
「食べさせてやる。そうじゃわらわがおぬしに食べさせてやる。それならよかろ? な? いやあ別に困らなかったのぅ、利き腕一本ほんとは大したことないんだなあ」
「だなあじゃねーよ!!!! だなあじゃないんだよ!!!!」
「わ、わかった。まずは落ち着け? ちょっ、あぶっ、手をやたらめたらに振り回すな! 当たっ、当たるっ、わわっ?」
 業斗はいつものダミ声とは打って変わって澄んだ声音で言った。
「――――ふりまわしたらのびるかもしれない」
「おっ、落ち着―――――――――――はっ!」
 雪女郎が我に返ったと同時に、大車輪の活躍を見せていた業斗の両腕(なぜ左腕も振り回したかと言えば無論ノリだ)の時も停止した。二人は顔を見合わせてごくりと生唾を飲み込み、雪女郎はガラステーブルに乗っていた千両箱から見もせずに、第五回戦目のファイトソウルをひとつかみ掴みあげて、それを業斗の砕けた手首にあてがった。業斗は白ランの袖からはみ出た腕を盛り上がらせて、
「むんっ!」
 気合一発、それまで磁石にでも引きつけられているかのように手首に張り付いていた魂貨はたちまち人の手の形に伸び、広がり、ごつごつした青年の手に変質しおおせた。業斗はそれをぐーちょきぱーに三段可変させてみる。とても滑らかだ。
 二人はしばし見詰め合って、合点承知とばかりに頷きあい、雪女郎は石の床に、業斗はベッドに、それぞれ腰を下ろして顔を覆った。
 超恥ずかしかった。

     




 ベッドに仰向けになって携帯をいじっていると、ぬっと雪女郎が頭を突き出してきて蛍光灯の光を遮ってきた。業斗は迷惑そうに身をよじり、携帯の画面を暗がりから逃がしながら言った。
「なんすか雪女郎さん。ガン飛ばすのやめてもらえます?」
「ガンなぞ飛ばしとらんわ。ふん、なんじゃおぬし、そんなもん使いおってからに。友達もおらんくせに」
「おるわ。おったわ。おかげで死んだわ。……まァ、いまメールしてんのは友達じゃないけどな」
 めーる、と雪女郎は言葉を教えてもらった幼児のように唇をすぼめて繰り返した。めーる……。
「わらわも詳しくはないが、携帯電話というのは地下では通じないのではなかったのか?」
「俺たちが使うやつはな。でもこれは紙島にもらったやつだから、霊的電波? とかいうのを飛ばしてるらしい」
 おまえの心はお見通しだ、と雪女郎はにたりと笑い、
「嘘こけ。そんなん使うとる呪い屋、見たことないぞ」
「うっせえなあ。俺だってそんな込み入った話聞いてねーもん知らねえよ。……くそ、返事来ねえ。なんだあいつ」
 雪女郎は深々と凍った塵まじりのため息を吐いて、
「馬鹿が。おぬしのようなお人よしは、いつの間にか新興宗教に入信させられててしまえ」
「もうどんな生きてる教祖サマより死後の世界にゃ物知りになったっての。それよりどけよ寒いんだよあんたの息」
「そんなこと気にしとる場合と違うわい。その、シジマ? とかいう呪い屋はおぬしの腕を増やしてくれたんじゃろ? いわばおぬしの変異した霊体についての管理人じゃ。そやつと連絡が取れんのはまずいじゃろう」
「まあなあ……体調について報告しろって言ってきたのもあいつだし」
 業斗の携帯に表示されている紙島詩織からの最後のメールは三日前を最後に途絶えている。業斗は携帯をぽすっとベッドに取り落として、
「死ぬかもなあ、俺」
 ぽつりと呟いた。
 処置なしとばかりに雪女郎が額に手をやって首を振る。
「もう死んどろうがボケェ」
 業斗はムッとして、雪女郎の身体を押しのけながら上半身を起こした。
「まあそうだけど、なんつうかさあ、こうしてるとまだ生きてんじゃねえかって勘違いしそうになるんだよな。たまに。そりゃあ肘から腕が生えたり普通の高校生はしないけどさ。でもなんか、生きてた頃より生きてるって気がしねえでもねえ」
「うーん、まあ気持ちはわからないでもない」
 雪女郎は踊るように白ウサギの椅子兼クッションに腰かけた。
「そお? 妖怪でもわかる? 俺のアンニュイなこのキモチ」
「妖怪でも、とは失礼じゃな。わらわたちだって生きておるぞ。在り方がおぬしらのような泥から生まれたものたちとは異なっておるだけじゃ。おぬしらは淀みから、わらわたちは霞みから生まれた。おぬしらは産まれた時から死と苦痛を定めとして負っており、わらわたちはそのどちらからも解き放たれている。じゃからといって生命を持っていない、などと言われるのは心外じゃな。わらわたちにも終わりはある」
「ふうん……。じゃあ、あんたたちの終わりって何さ? あれか、太陽が燃え尽きたらさすがにお手上げか」
「阿呆。わらわたちすべての終わりは、おぬしらがいなくなった時だ」
「へ? なんで」
 雪女郎は黙っていればとても可愛い横顔を晒して、
「幻を視るものがいなくなれば、わらわたちも終わり……ほれ、中学生とか好きじゃろ、なんていったかな……少し前に案内した小僧が教えてくれた……ええと、そう、観測者問題」
「すげえ。妖怪がなんか科学的なこと喋ってる」
「ふふん、わらわクラスになるとカップ麺も作れるからな。ガスの元栓ぐらいバッチコイじゃ。いつでも開けてやるわい。一酸化酸素中毒なんぞ怖いもんか。そしてわらわが一酸化酸素では死なないところが重要なのじゃ」
 雪女郎は強引な話の持っていき方を咳払いひとつで誤魔化しきって、
「世界というものは、それを見ているものによって定着させられるものらしい。つまり閉じられた箱の中にいれたリンゴは、その中にある時、誰にも調べられずにいれば、ミカンだったりブドウだったりするかもしれない。あるいは、一週間家を空けて、帰ってきたとき健気に瞬いている留守番電話のランプはひょっとすると三日ぐらいサボっていたかもしれない」
「やけにリアルだな」
「わらわが案内してやった小僧がこう言っておったのじゃ。――で、だ。その小僧によればわらわたちもそういう存在なのではないかという。つまり視るものの在り方が、わらわたちを定着させている。業の字、口裂け女は知っておる?」
「知っておる」
「よろし。しかし、あの女がこの横丁に現れたのはごくごく最近なのじゃ」
「いんの?」
「いる。数十年前からな。そしてちょうどその頃、おぬしらの泥の国でもあの女の噂が流れ始めた。どっちが先だったか? わらわもあの頃ちょっと忙しかったし詳しくは覚えてないが、たぶん、『話』の方が先だった気はする」
 業斗はちょっと居住まいを正した。
「――へえ。なんだか信憑性らしきものが出てきたな」
「じゃろ? 小僧の話を聞いてわらわも膝を叩いたわ。そしてわらわたちの終わりが、なんとなく、心に染み入るようにしてわかったのじゃ……」
「なるほどなあ。でも、あんたらは子ども作るんだろ? それはべつに誰かに噂されたわけでも――うおっ」
 言った途端に雑誌のラックに入っていた週刊誌がばさめいて吹っ飛んできた。業斗は顔面を雑誌に噛みつかれてベッドにゆっくり倒れこんだ。
「なにしやがるぅ」演技にも身が入らない。
「阿呆! ばっ、おまっ、そうゆうことはな! そうゆうことなんだよ!」
「はあ? 頭湧いてんのか? フットーしちゃうのか? だいたいな、子どもを作るって言っただけでセクハラ扱いとか逆に子どもに失礼だろ」
 雑誌を顔から外して業斗が起き直ると、雪女郎は服を着ていると思ったら餃子だった時のように顔を赤くしていた。まるで餃子を服と偽ったのが目の前にいる白ランの頭の悪そうなチンピラだとばかりに、屈辱に染まった目で睨んで来る。が。やがて深々とした霧を吐くと、
「くっ……高尚な話をして得意になっているのでなければしばき倒しているところだ」
「得意になってたのかよ」
「やかましいわ。まあよい、答えてやる……つ、作るぞ。子ども。普通に。たぶん」
 たぶん?
「……。基本的には、同じ妖怪同士で、だな……」
 べつに話してくれと業斗が頼んだわけでもないのに、雪女郎は編みこんだ銀髪を指でいじりながらぼそぼそ喋った。
「たぶん、ひとのかたをした者同士なら、種族は違ってもよいと思う……。まあ、どんな妖怪でも、封をされていなければ手足を持ち胴を伸ばすことはできるから、うん、まあ、な……そうゆうことだ」
「そうゆうことか」
「くっ……ニヤニヤするなこのたわけがっ!!!」
「してねえっ! ……してんのかな?」業斗は仮面の中に手を突っ込んで懐かしい自分の顔を撫で回した。してた。
「ええと、なんじゃっけ。わらわたちはどこを目指して話をしておったのだ?」
 小首を傾げる雪女郎に業斗が肩をすくめる。
「俺が知るかよ。自分らが生きてるってことを言いたかったんだろ。べつに死んでるとか俺言ってないのに」
「違う。確かもっと言いたいことがあったはず……あれ? わからん。忘れてしもた。あっはっは」
 雪女郎が女帝のごとく笑うと、今度はその腹がぐうぅぅぅぅ……と自分の主を礼賛した。
「おお、喋ったら腹が空いたのぅ。これ業の字、奢れ」
 なんで俺が、と業斗はぶつくさ言いながら血筋譲りの綺麗な黒髪をかき回した。が、あれこれと部屋の中を動き回り、支度が終わって半開きの扉から相方が来るのを待っていたのは、後になってみれば業斗の方で、雪女郎は大急ぎで蛇革のポシェットに財布と、ひょっとしたら使うかもしれないいろいろなものを詰め込んで、飛び出すように部屋を出た。

     





 どういうわけか、この地下闘技場の内郭をうろついていると、そんな音もしないのに、ましてやあるわけもないのに、すぐ外で雨が降っているような心地がする。湿気のせいか。確かにじめじめしている。いかにも死人や、動物まがいの妖怪や、なんにせよよくない不埒なモノどもがなんでもない暗がりを跋扈していそうではあったし、事実そんなようなものだった。
 首筋に張りついてくるしずくを業斗は手の甲で拭った。雪女郎は鬼火のネオンを斜めから浴びながら、あちこちの屋台を冷やかしては知り合いらしい妖怪たちとゲラゲラ笑っている。業斗はそれを少し遠くから見ている。雪女郎は時折連れの方を振り返って手招きしてくるが、業斗は首を振るだけだった。どうにも妖怪は好きになれない。一方的な逆恨みにしか過ぎないと頭ではわかっているのだが、理屈で感情は制御できないし、するべきでもない気がする。
 雪女郎がオレンジ色の巨大なスライムに身振り手振りを交えて別れの文句を置き土産にして、業斗の方にととと、と戻ってきた。不満げに唇をすぼめて言う。
「なんじゃおぬし。来いとゆうたろうが」
「うるせー。俺の趣味じゃねーんだよ、あんなゲル野郎」
「おい、ゲル夫のことを悪く言うでない! あれでいて立派な鍛冶屋なのだ」
「はァ、あれでトンカチ振るうのか……まァいいや、くっちゃべってねえでメシいこうぜ。腹減ったっつったのはあんただろうが」
 あたりには軽食や服飾の屋台がずらっと並んでいる。地下まで来ても地上と同じお祭りムードだ。ゆっくり考え事もできないし、常に誰かが袖を触れ合わせてくるくらいに通りを行き交っているのでおちおち立ち話もできない。とっととどこかへ座りたかった。そんな業斗を見て呆れた表情を浮かべた雪女郎、
「ふん、そわそわしおって。ガキか」とぶうたれながらもすたすた歩き始めた。業斗はため息をついて、妖怪と視線を合わせないようにしながら、死装束の背中にくっついていった。心なしか周囲から刺々しい気配が飛んできている気がする。そしてたぶん、気のせいじゃない。中にはわざとらしく肘をぶつけてくるチンピラっぽい妖怪もいた。イルカの頭を乗せているくせにちっとも優しくなく、豹柄のヤクザ背広に覆われた肘で思い切り業斗を突いてきた。業斗は一瞬、猛烈な耳鳴りに襲われたが、前をのんきに闊歩している雪女郎を見やって、深く息をついた。
「かえりてえ」
「まァ気持ちはわからんでもないな」
 雪女郎が振り返らずに言った。そしてタイミングよく、二人の左手、腕ずもう屋と青空一卓雀屋(じゃんや)の間にある中古家電売りのリヤカーの上に乗ったおんぼろテレビまでもが業斗を非難し始めた。テレビの中には白黒の業斗が映っていた。
 魔王戦四回戦の映像だった。いやおうなしに業斗は立ち止まった。その仮面にテレビの光が水底のように反射した。
 相手は結婚して三日で夫の弟になぶり殺しにされた新妻だった。フレアスカートに、腕をまくったとっくりセーターを着た、髪の長いひとだった。顔は見えなかったが、耳の形が髪のほつれ具合とあいまって絶妙だった。それだけで合格点だった。ただ問題は、業斗の対戦相手だったこと。
 守銭奴に求められるのは生前の筋力ではない。この点を勘違いしている観客がわりと多いのだが、選手である業斗にはよくわかる。確かに自分たちは生前の筋力や体格に支配されている――あの世では痩せることも太ることもない。筋トレしても疲れるだけで、筋力は増加したりしないし、走りこみしたって一炎の利益にもなりはしない。死んだ時の状況で自分たちは完全に固定してしまっている。髪は切っても千切っても元の長さに戻るし、爪は放っておいたっておそろしく伸びたりしない。
 だから、若いうちに死んだ守銭奴、しかも男は賭けでも人気になる。しかも童貞だったりすると(本人は絶対に喋らないだろうにどこからともなくそういう情報が巷に流通してしまうのは本当に謎だった)その恨みたるやかくや――! ということで一挙に人気が跳ね上がったりする。
 だが、守銭奴に求められるのは、優れたボディバランスを維持したままくたばることなんかじゃない。
 どれだけ深い怨念を持っているか、だ。
 あの新妻は強敵だった。ふらっ――とよろけたかと思うと豹でも乗り移ったかのように一気に飛びかかってきて、試合開始十五秒もしないうちに業斗は左腕を肘の上から持っていかれた。あの、他人の指が造作もなく自分の体内に入ってくる魂貫の感触はどれほど闘っても慣れない――だが試合の最中はほとんど意識しない。思い出すのは、いつも試合が終わって、ぼやけていた記憶がまとまりを取り戻す頃になってだ。
 左腕を失っても、右腕があった。そして右腕の肘からもう一本の腕を出して、それで五分五分――とはいかなかった。半身にならなければならなかったし、片方の腕をフェイクにして残されて反対サイドから胸めがけて、若干ブーメランがかった軌道で胸を狙われたときは焦った。それでもなんとか反応して倒れこむようにかわせたのは、ひとえに業斗の培ってきた喧嘩の経験と、「ずるをしているのに負けるわけにはいかない」という気持ちだった。
 そう、業斗はずるをしている。なにを、といまさら考えるまでもない。
 守銭で腕の本数が二倍だなんていうのは、本来勝負にならないのだ。業斗は四本腕を出して、二本で相手の腕に魂貫をしかける。相手はそれを両手で防ぐ。しかし、まだ業斗には二本の腕がある。それで相手の顔を掴んで潰せばおしまいだ。
 童貞であるにも関わらず業斗の人気がいまいち低いのは、結局のところ、彼の試合がおもしろくないからなのだ。勝って当たり前、負けたら赤っ恥。最近では業斗に賭けても掛け金払い戻しにしかならないらしい。
 どうでもいい、と思っていた。業斗は賭けが嫌いだ。どうも性に合わない。だからそんなものに入れ込んでいる物好きなやつらも、守銭奴にならずに賭ける側に回っている死人にも、興味はなかった。ないはずだった。

 ただ、やはり。
 嫌われるというのは、結構クる。

 だからなるべく自分の部屋に引きこもるようにしているのだが、おせっかいなのか新手の復讐鬼なのか、雪女郎はなんやかやと理由をつけて業斗をおもてへ引っ張り出す。一歩外に出れば、いさかいにでもならない限り業斗が霊安室にいるときとは打って変わって沈鬱になると知っていても雪女郎は懲りてくれない。
「おい、なにをぼさっとしておるのだ、この卑怯モン」
「うるせー。いまいくってんだよクソ婆ァ」
 業斗はテレビにもう一度目をやる。足払いをかけて倒れこんだ新妻に、右腕二本と、回復した左腕二本で阿修羅叩きにしている業斗が映っていた。観客は盛り上がるどころか帰っているものもいる。
 誰かのために闘っているわけじゃない。
 自分は地上(うえ)に上がらなければならない。
 すべては夢のため。たとえそれで、ひとつのゲームの基盤も醍醐味もぶち壊してしまったとしても――構わない。
「業の字ぃ」
「わーってるよ」
 業斗は足音を立てずに、その場を離れた。リヤカーにもたれて座っていた売主らしき石地蔵がよっこらしょと立ち上がって、リヤカーを引き引き、時々ゴミを轢いてリヤカーをぐらつかせながら、通りをのんびりと去っていった。



「で、どこいくんだよ、今日は」
「どこにしようかのう」と言いながらも雪女郎は腹の内ではすでに河岸を決めているようで、鬼火のうろつく明るい通りを離れ、わけありっぽい裏路地に入っていった。どこへいっても狭い通路ばかりで、業斗もだいぶ長いことあの世にいるが、いまだに頭の中に地図が出来上がらない。いま雪女郎に見捨てられたら自分の安置室までちゃんと帰れるかすら怪しい。
 えっちらおっちら尻取りしながら二人がたどり着いたのは、なんの変哲もない木戸の前だった。看板は出ていない。どうせ雪女郎にいっても、それがいいとかなんとか言うだけなのでさして尋ねもせずに、業斗はノブを押して中に入った。
 音が消えた。
 風のような気迫が仮面をしたたかにぶっ叩いてきた。

 ――番、ヒミコ伸びる、伸びる、外からぐんぐん突っ込んで来るがしかし風崎譲らないこの道入って二十四年、年季は誰より入っております風崎真吾つかさどるは天一<稀人>、墨のように黒い馬体が風崎の無骨さを表しているかのよう――

「いけえええええええええ!!!!! ぶっ殺せええええええええ!!!!!!!! かぜさきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!!!!」
 カウンターに座っていた女が拳を叩きつけて吼えていた。衝撃でキャスケット帽子が一瞬浮いた。その横で、河童が組んだ両手をぶるぶる震わせて額にくっつけながら、呻く。
「頼むぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅヒミコぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
 ぎゅっと瞑った目から涙が滲む。
「頑張ってぇぇぇぇぇぇぇえええええええええ伸びてええええええええええええ差してえええええええええお願いしますううううううううう!!!!!!!」
「お嬢さま、少し声を――」
「うるっっっっせええええええええ!!!!!!!!!」
 隣に座っていた執事らしき男のわき腹に遠慮容赦呵責なにひとつないエルボーをぶち込んだ女はもはや半狂乱になっていた。
「やれええええええええ!!!!! かぜさきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!! ぶっっっっ殺せぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!! やめたげてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!」
 業斗はただ呆然とするばかり。
 なんだ、これは。

 ――さあ最終ストレート、若手の花、果たして裂くか、それとも古刀の刃に散ってしまうのか! ああ、ヒミコ伸びます、一馬身差、半馬身、首――

 金縛りにあったようにその場に業斗は立ち尽くしていた。うしろから雪女郎が何をしておるはよ入れ何も見えんぞでかぶつがとしきりに尻を蹴飛ばして来るのも気にならなかった。なにが起こっているのか見当もつかないが、とにかくその熱気に当てられていたし――なにより目を奪われていた。半狂乱になりとうとう実況を伝えるおんぼろラジオに掴みかかって台に叩きつけ始めた女にでもなく、その女を羽交い絞めにして押さえ込もうとしている執事然とした男にでもなく、ましてやとうとう宗旨変えして胸元で十字を切り始めた絶体絶命の河童であるわけもなく、
 そいつは、ひとつ離れた席で、黙ってラジオを聴いていた。
 業斗が木戸を開けた時から、仮面を覆うようにしていた右手が、とうとうその仮面を引き剥がし始めた。死人が仮面を外そうとするなんて物を食べる時くらいだったが、カウンターには空になったグラスがひとつちょこんと乗っているだけだった。
 門倉いづるは、ほんの少しはずした仮面の隙間から、やけに照っている目をすう――っと細める。
 女がとうとう河童にまで取り押さえられてラジオから引き剥がされた。一同、身を乗り出して、ラジオを頭で取り囲む。

 ――さあ鼻差、鼻差です! ゴールまでもうあとわずかっ、初めて競神に出た時はグリッドの中で札を取り落としましたヒミコセカンド、その顔つきはもうルーキーだなんて呼ばせません、立派ですっ、イロモノとも呼ばれました、女子供と蔑まれもしました、それでも諦めませんでしたなぜなら譲れないものがここにはある魂と言葉と己が腕を持って闘いますそこに女も歳も関係ありません並びました並んだ並んだどっちだどっちだヒミコかっ、風崎かっ、ああいまいまいまいまいま、



 一瞬の沈黙の後、おんぼろラジオは晴れやかな声で宣言した。

 ――若手の花が、







 咲きました――――――――






「うわああーっ!!!!! かっ、かぜさきーっ!!!!!!! 」
 女がキャスケット帽の中に指を突っ込んで絶叫した。
「あたしの、あたしのかぜさきがああああああああああ!!!!!!」
 隣の河童が思い切りカウンターをぶっ叩いてやおらスツールから立ち上がって吼えた。
「いよっしゃああああああああ!!!!! 勝ったあああああああ!!!!!!! ど、どんなもんじゃらば――――――い!!!!!!」
「ふざけんなよお! こんなのってないよお! 嘘だあ絶対うそだあこんなん八百長だ八百長! 責任者でてこいっ!」
「お嬢様、言葉使いが汚」今度のエルボーは目にも止まらなかった。みぞおちをしたたかに打たれた執事は「本望」と一言残してその場に転がった。
 一同の足元で邪魔になっている執事を足で押しのけて、それまでずうっと黙っていた半仮面の少年が立ち上がった。半仮面というのは、あまりなくても困らない仮面の口の部分だけを円形に切り取ったものだ。その少年はパチパチと手を叩いて、
「いやあお強い! かぁーっまさかヒミコのお嬢が来るとはね! ここ一番で勝ち馬を見抜いちまうんだから河童の旦那にゃあ負けますなあ。やれやれこんなんじゃあっしも、ドリンク業を畳む日もそう遠くはなさそうだ」
「僕もだぜ」と門倉がようやく口を開いた。おみくじの棒のようなものをぴっぴと振ってみせる。「配当おくれ」
「おっ」半仮面の少年は嬉しそうに、「いづるの旦那はいつものことだね。よう当てますな、ひょっとして神様ですかい? 博打の神様、へへへ、どうかあっしのことはお目こぼしくださいな」
「もうろくしたらね。――ん?」と、ここでいづるは、戸口に突っ立ったままの業斗に気づいたらしかった。片手をあげて、
「やあ、ゴーくんじゃないか! ご無沙汰だねぇ」
 業斗は、どうしたものかと一瞬悩んだ。が、痺れを切らした雪女郎にケツをドロップキックされてつんのめり、渋々ラジオ一座の方へ歩み寄っていった。


(つづく)

     




 いづると業斗はカウンターから離れた円卓に腰を降ろした。よくよく見れば店内は中華料理屋のような内装をしている。あちこちに雷印が描かれていて、二人がついた円卓も真っ白なテーブルクロスが敷かれ、満漢全席が乗っていたが、残念ながら模型だった。くるくるしかできないのが少しさみしい。
 なんだかギョウザのひとつでも頼みたくなってきたが、いまカウンターはそれどころではないらしい。またノイズ混じりにぼそぼそやりだしたラジオにみんなが食い入るように身を乗り出している。末席にはいつの間にか雪女郎まで加わっていた。
「なにやってんだ、あれ」と業斗。
「競神。あの笑ってるへんなやつがドリンクやってんだよ」といづる。
「ドリンクってなに?」
「ドリンクっていうのは、競馬とか競輪で、主催者を介さないでやる博打のこと。馬券を買うと当てても控除率で25%取られるだろ?」
「知らんわ」
「取られるんだよ。でもそれを誰かの仕切りでやればさ、控除率は自由に設定できるわけ。10%でも、5%でも。その方が得でしょ、賭ける方も受ける方も。それがドリンク」
「へえ……」
 頬杖を突いて、傍目からするとビンゴにでも興じているかのように和気藹々としている連中を業斗は見やって、
「意味わかんねー……楽しいのか? あんなん」
「楽しそうではあるよね」
「おまえだってやってただろーが。他人事みたいに言いやがって」
「な、なんで怒ってるの?」
「怒ってねーよ。怒ってねーけど面白くないからむかつく」
「じゃあ怒ってんじゃん……。まァ、やってみればわかるんじゃないかな」
「その手は食わねえよ」業斗は頬杖をやめて、背筋を伸ばした。
「そうやって俺の魂貨をむしろうって言うんだろ? 俺はやんない」
「信用ないなあ」今度はいづるが頬杖を突いた。
「そんなことしないって。第一さ、レースものってのはポーカーや麻雀と違って僕ら同士の取りっこじゃないんだから、どうむしるのさ?」
「俺が負ければ、同じだろ。俺の残高が減れば、おまえの有利になる」
「どうして負けるってわかるの?」
 間髪いれずに業斗は答えた。
「俺が知るかっ!」
 いっそ清々しくさえあった。こう言われてしまえば地獄に引っ張り用もないが、いづるはそれでも少し粘ってみた。
「……でもさあ、きみの兄貴だって出てるんだし、賭けてみたら? 記念にさ」
「賭けねえって。なんで負けるとわかってるのにやるんだよ、アホくさい」
「ははは、面白い」
「なにが」
「兄貴と同じこと言ってるよ」
「――兄貴って、どっちの」
「どっちがいい? お望みの方の話ででっち上げてあげるよ」
「ふざけてんのか?」
「いや。ムカついた? ごめんね、どうも僕はまじめにやってるつもりなんだけど、人からはそう思われないらしくってさ」
「当たり前だ」
「悪かったって。――光明の方だよ。どっちが上なんだっけ? まァいいや。僕もね、あんまり競神は興味ないんだ。他人の人生にタダ乗りしてるみたいで気分が悪い」
「あ、俺が言いたいのもそれ」
「気が合うね。じゃああっちの方もムカつくんじゃない?」
「どれ?」
「守銭奴」
 一瞬沈黙が下りた。気にせずいづるは続ける。
「腕四本」
「――だからなんだよ。使うって言ったろ」
「うん、なんかすごい大袈裟に格好つけて言われ――ごめん、もう言わない。でもさ、僕としては、やっぱりフェアに――」
「フェア?」
 業斗はやれやれと首を振り、
「おまえが言うな、ギャンブル狂い」
「ギャンブル狂いだと、フェアなんて言葉は使っちゃいけないのかな?」
「そうだよ。おまえらはロクデナシの嘘吐きだって相場が決まってるんだ。下衆のやることだな。負けるのは馬鹿だし、勝つのは詐欺だ。どっちに転ぼうが、いない方がマシだな。――どうした? 怒れよ」
「ん? ああ、ごめん。ぼうっとしてた。いや、どうも、きちんとした人は僕のことが嫌いになるみたいだね。でも、だからといって、ゴーくん」
「その呼び方はやめろ」
「ゴーくん」いづるは譲らなかった。
「それでも、君は卑怯なことをしてる。それはわかってるんだろ?」
 わかっていた。業斗の胸にチクリと痛みが差す。わかっている。だが、
「それでも俺は負けられない。夢があるから」
「夢……」
 いづるは呟き、そして、ギリギリの間合いで弾かれかねない問いを放った。
「――どんな?」
 業斗は黙っていた。その場で席を立たれてしまえば終わりだった。人知れずいづるは生唾を飲み込んだ。追撃するべきか迷った。だが、抑えた。会話が途絶えた。カウンターでまた誰かが勢い余ってラジオをカウンターに叩きつけ始めたが、その音も、騒ぎも、どこか遠くから聞こえて来るようだった。
 業斗が席を立った。そのまま振り向きかけた時、置き土産のように、呟きが聞こえた。
「――なりたかったんだよ」
 カラララン。
 閉まった扉で鈴が揺れている。いづるがそのままぼんやり座っていると、対面に今度は蟻塚が座った。いづるが何か言おうと喉を動かしかけると、さっと指を立てて、
「まだ女がいる」
 見ると、カウンターではすっかり相棒がいなくなったことにも気づかず、スツールに体育座りしたキャス子とおべっかのレパートリーがまったく尽きる気配のないドリンク屋と死相が表れ始めた河童に囲まれて、雪女郎が今度はチンチロリンに興じていた。サイコロがチロリンと鳴るたびに四人から悲喜こもごもの嬌声があがった。
 混ざりたくなってきた。
「おい門倉、ぼさっとするなよ」
「サー、ボス」
「――で、どうだ。盗めたのか?」
「いや?」
 いづるはどこか嬉しそうに言った。
「ガードがカタいカタい。あわよくば両替してやろうと思ってたんだけど、さすがに生きてた頃は喧嘩三昧だっただけはあるね。財布もやれなかった。何度か注意は逸らせたんだけど」
「どうするんだ。財布を盗めない相手には勝てない――おまえ確か、私に勝った後に言ったよな」
「言ったね」
 いづるはもうだいぶ長いこと、真の守銭奴になるために『スリ』に励んでいた。妖怪にしろ死人にしろ、いつも自分の身体から魂貨を引っぺがすのは気分的にあまりよろしくない(キャス子いわく、口座から直に引き落としてるみたいでなんか嫌)ので、財布に当面使う分の魂貨を突っ込んでおくことが多い。いづるはこの地下闘技場をふらふらしながら、それを気づかれないうちにスった。座っている妖怪の袖を引き裂いて頂戴し、すれ違いざまに軽くぶつかった時にはもう手の中に財布を収め、いまではもうぶつかる必要もなかった。手の届く範囲以内に財布が入ってくれば、相手の無意識の警戒心の濃淡からどこに財布があるか、どれくらいの額かさえわかる。財布を二つに分割していようが、首から鎖で下げられていようが、いづるはスれる。スれないのは靴の底のはした金だけ。それもいつか盗ろうと思っている。
 まったくもって、不名誉な才能だと自分でも思う。だが、おかげで今日まで誰かの肥やしにならずに済んでいる。
「ヅっくんにはああ言ったけど、でも僕だって弱いものいじめをやってきたわけじゃない。勝てると言ったって負けるかもしれなかったし、負けると思ってても勝ったことだってある。やってもいないうちから諦めるつもりはないよ」
「ヅっくんって言うな」
「……。みんなひどい。ぜんぶ僕が一生懸命考えたあだ名なのに」
「あのなあ門倉? そういうのは慣れてからつけるものだろう。おまえ初っ端につけるからみんな何事かと思うんだよ。ぶっちゃけると宗教の勧誘なのかなくらいに思われても仕方ないと思うぞ」
「あー今日いちばん傷ついたー。ヅっくんの言葉が僕の心を傷つけたー。いーけないんだーいけないんだーせーんせーに言って」やる前にいづると蟻塚は、円卓のそばに死装束の少女が青白い顔をして立っているのに気づいた。
「……………………」
 少女は無言でいづるを睨みつけた。蟻塚がこっそり椅子を引いてその視界から逃走を図る。いづるは金縛りにあったように動けない。
「ええと……なにか?」
 いまの話を聞かれていたのだろうか? 少女と業斗の関係は知らないが、連れをやっつける算段をしている連中を見たら、やはり気分は悪いだろう。
(氷漬かな……やっぱり……)と覚悟を決める。
「いづる殿」
「な、なんでしょう」
 少女は、黙って頭を下げた。
「――業の字を、よろしくお願いします」
 そう言って、少女もまた鈴の音を残して、去っていった。扉が閉まる時、忘れ形見のように冷気の細い筋が幾本かその場で揺らめいていた。
 呆気に取られた蟻塚は、椅子をずっていっていづるに顔を寄せる。
「なんだったんだ、いまの」
 いづるはそれには答えず、ちょっと仮面を顔から外した。久々の裸眼で、二人が出て行ったドアを睨む。
「――買いかぶりすぎだ。後悔しても知らないからな」

       

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Neetsha