あなたの願い、金の力で叶えます
2-1 : Wanna Ve a grooVy rocker
私が事務所での仕事を始めてからしばらくが経ち、どの棚にどんな書類が入っているのかをようやく覚えられてきたある日のこと。
私は新聞記事の切り抜きを作らされていた。この作業はもはや日課になっていて、報道三社の新聞をそれぞれ一種類ずつと、経済新聞を一紙……合計で四紙のうちから、先生に切り抜くように言われた記事をファイルしておかなければいけない。それと同時に、切り抜く前の記事をスキャナーに通し、資料室のパソコンに保存しておく。どうせデータ化してパソコンの中にしまっておくなら、わざわざ切り抜く必要もないようにも思える。それを先生に直接言ってみたこともあったけれど、先生は「何が役に立つかわからないから、念のためだ」と言う。それに、「新聞のスクラップって独特の雰囲気があるだろ? 本を棚にしまっておくのとは違うし、雑誌の気になるページの端っこを折っておくのとも、単に新聞を束にして保管するのともやっぱり違う。……そこが気に入ってるんだ」とも言った。結局、新聞の切り抜きは先生の単なる趣味で集めているのかもしれないし、あるいは実益のためなのかもしれない。わかったのは、先生が相変わらずよくわからない人だということだけだ。
細かくて面倒だとは思うけれど、私はこの作業が好きになりつつあった。切り抜きを作るのだから、今まで新聞なんてろくに読まなかった私が、嫌でも記事に目を通すことになる。最初はつまらなかったけれど、そのうち自然と世間の動きが頭の中に入ってくるような気がしてくる。そんなことを漏らす私に「地味なようでいて、そういうことって大切なんですよ」と柳さんは微笑んだ。
考えてみれば、お父さんが捕まってからはテレビのニュースさえもあまり観なくなった。それを観ているだけで、まるで自分までもが罪に問われているような気分になってしまうからだ。単なる現実逃避だと指摘されてしまえば否定しようがないのだけれど、それでも観たくないものは観たくないのだ。
今日のニュースはいたって平凡だった。自分の父親に関する報道なんてどこにもない。民家から火が出ただとか、またどこかの親が児童虐待をして捕まっただとか……そういう不幸なことだって確かにたくさんある。どこかで起こる非日常が書き連ねてある新聞。だけど新聞にとってはそれが日常の姿なんだから、私たちはいちいち「どこか」で「だれか」に起こっていることに心を痛めることもない。
「『有名私立大学教授、不正入学斡旋の疑いで逮捕』……か」
目に留まった見出しをそのまま読み上げてみた。隣の机で、スキャンしたデータを整理している柳さんに話しかける。
「これって裏口入学のことですよね。本当にあるんですね、こういうこと」
「いまは、いろんなものがお金と引き換えに手に入ってしまいますからね……」
マウスをカチカチいわせ、モニターから目を離さないままで柳さんは言う。
「まあ、裏口入学に限って言えば、昔からめずらしくはないのかもしれませんね。私も詳しくは存じ上げませんけれど」
「……あれ? 私はてっきり、この事務所にはそういう依頼も来るものかと思ってました」
囚人を外に連れ出せる世中先生が、裏口入学を斡旋できないとは思えない。むしろ、そっちの方が何倍も容易いようにすら思える。
「それに『お金ならいくらでも出すから、子どもをあの学校に通わせたい』なんて願い、いかにもよくありそうじゃないですか」
「うーん、確かにそうかもしれません」
そこで柳さんは作業の手を止めた。彼女は私の目をまっすぐに見つめる。
「でも、世中先生の願いの叶え方はあらゆる方面とのコネクションに頼ったものですから」
「え……っと、だから、それこそ文科省とか、大学とかに直接掛け合っちゃえば……」
柳さんは私の目を覗き込むようにして見ている。何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……先生は、教育機関とは一切のコネクションをお持ちでないので」
「え?」
思ってもみなかった事実に、声が裏返りかけた。柳さんは真に迫った顔をしている。真剣な表情をしていても微笑みが崩れないのは彼女らしいところだ。
「教育は最後の聖域……いろいろな利権が絡み合うこの世界の隙間……お金などで汚してはいけない部分なのかもしれません」
「……なるほど」
「というのは冗談ですが」
柳さんはころっと表情を緩めた。
「じょ、冗談って……世中先生も柳さんも、冗談がわかりづらいんですよ」
「だって、わかりやすい冗談ほどつまらないものはないでしょう?」
彼女には悪びれる様子もない。こういうところ、二人とも似てるんだよなあ……。
「……教育にだってお金は必要です。そういう場所には必ず裏から見えない力が働いています。だから、お金の力が……いや、『ヒト』や『カネ』や『モノ』の力が通用しないのは経済制度が成り立っていないところだけ……もっとも、地球上にそんな都市が存在するのかは怪しいですけどね。人の集まりは欲の塊です。欲望の海の中にお金を突っ込むと……砂場に落とした磁石と、それにくっつく砂鉄みたいに、ね」
屈託のない笑顔を浮かべたまま、彼女はシビアな話をする。
「早く作業を終わらせてしまいましょう」
「は、はい」
柳さんに促されて、手にしたハサミを再び動かし始めながら考える。
もしかしたら、私は先生の力を大きく見すぎていたのかもしれない。彼がすごい人なのは確かなんだろうけど、すべての分野に太いパイプを持っているわけではないってことだろう。それは言われるまでもないほどに当たり前なことで、わかっていたはずなんだけど……。でも、釈然としない。どうして法務省はよくて、文科省はダメなんだろう。先生がたまたま弁護士だから、法律に関係する省庁とは繋がりがあるだけなんだろうか。もし先生が大学の教授とかだったら変わっていたんだろうか……。って、そもそも、柳さんは彼女の発言のどこからどこまでを指して「冗談」だと言ったのだろう? ……もしかして、全部? 考えれば考えるほどに頭の中で糸がこんがらがっていく。
そんなとき、ゆっくりと資料室の入口の扉が開いた。
「――また見つからないのか」
事務室から世中先生と中山さんが入ってきた。世中先生はどこか責めるような口調で、それに対する中山さんは申し訳なさそうにうつむいている。
「……どこを探しても見つからないもので」
この様子だと、先生は何か探し物を中山さんに頼んだらしい。会話中の先生に私と柳さんが会釈すると、先生は挨拶代わりに手を上げる素振りだけを見せて中山さんとの会話を続けた。
「見つけられたためしがないな」
「申し訳ありません」
大切なものを失くしたのだろうか。先生の目は真剣だ。先生はその目で頭を下げる中山さんをしばらくじっと見つめたあと、いきなり口の端を大きく吊り上げて笑った。
「――じゃ、罰ゲーム」
「ば、罰ゲーム?」
突拍子のない発言に思わず声を出してしまったのは私だ。何か知っていそうな柳さんを見やると、隣で彼女が「またですか……」と声には出さずに唇だけ動かすのが見えた。……「また」ってどういうことなんだろう。
「か、勘弁していただけませんか」
中山さんは弱ったような声を出した。
「いやいや、罰ゲームとは名ばかりの、影の薄い第三秘書を救うための思いやりじゃないか」
世中先生は含み笑いをこらえきれずにいるようで、頬を少しだけ膨らませている。
「……あの」
私は小声で柳さんに話しかけた。
「なんでしょう」
「先生の中山さんに対する扱いって、いつもこうなんですか?」
「……ええ、まあ」
「ひどいなあ」
「私は、先生なりの愛情表現だと思いますけどね」
柳さんは当事者二人のやり取りを眺めたままでいる。
「愛情表現にしたって、ひねくれすぎですよ」
「ひねくれすぎ……ふふ、ひねくれすぎている方が先生らしくありません?」
どうやら柳さんはこんな光景にはすっかり慣れっこのようだった。そのとき、私たちが何か話していることに気がついたのか、先生がこちらにやってきた。
「どうした?」
「え、あ……いや、中山さんがかわいそうだなー、と」
「はは、そりゃかわいそうだよなあ――名前ぐらいきっちり覚えてやらないと」
――名前ぐらい? 私のセリフのどこがおかしかったのか、先生はまた笑い始める。
「……先生、もういいでしょう。先生のせいで、私はまだ弓之辺さんにちゃんとした自己紹介もできていないのですよ」
中山さんはムスッとして先生に言った。先生はといえば、まだ笑い続けている。
「ああ! いやー、そうか、そうだったなあ……だから中山なのか、そうか」
「先生、いい加減になさってください。……弓之辺さん」
中山さんは先生を黙らせるために咳払いをすると、私に向けて手を差し出してきた。
「改めて自己紹介をさせてください。先生の第二秘書を務めさせていただいております、中島博臣と申します」
年相応の皺が目立つ手だ。けれど腰はまったく曲がっておらず、彼は姿勢を正して直立している。深みのある落ち着いた声は、彼自身の人柄を示しているようにも思える。ただ、彼の自己紹介にはひとつだけおかしいところがあった。
「……中、島……さん?」
「中島です」
「中『島』?」
「中島です」
「先生、ひどいですよ! 初対面の私に嘘の名前を教えたんですね?」
今まで中山さんだと思っていた人が、実は中島さんだった。もちろん、先生のたちの悪いジョークのせいだ。
「どうしよう……私、何度も中山さんって呼んじゃいましたよ……」
「あいつなら気にしてないから構わないよ。……俺は『世中』だし、柳は『高遠』。あいつの苗字だけなんとなくパッとしないだろ? だから、あいつが何か失敗するごとに罰として新しい苗字をつけてやってんだ」
そう語る先生はまるで子ども。それも悪ガキだ。
「ひろおみ、なんて仰々しい名前してるのになあ」
「そういう問題じゃありませんよ、もう!」
目上の人をずっと間違った名前で呼んでいたなんて、恥ずかしいやら腹立たしいやらで先生を責めずにはいられない。
「そんなに怒るなよ、次の命名権をお前にやるからさ。『中山』も今になって考えればなんだか地味だったしな」
「いりません!」
先生に反省している様子はない。どうやら、これが彼らにとっての当然らしかった。
「しかも、勝手に第三秘書とか言っちゃって。私をわざわざ二番目に割り込ませる必要なんてないでしょう? 『影が薄いから序列を繰り下げ』なんて聞いたことありませんよ」
「肩書きなんかにこだわる男になってほしくないからな」
「もっともらしいこと言ってごまかそうとしないでください!」
先生は頭がきれるし、口も回る。そういう人間にふざけたことをやらせるとすごく面倒だ。もっと追及してやろうと私が口を開きかけると、先生はそれを遮るように言った。
「……案外、思ったことをストレートにぶつけてくる性格なんだな」
先生は突然、真面目な表情をする。雰囲気の切り替えが早いのも先生の……いや、先生と柳さんの特徴だ。いきなり真剣な目をして、私の目をまっすぐに見つめてくる。それが切り替えのサイン。こんなところまで二人は似ていた。有無を言わさぬ雰囲気は、もはや卑怯と言ってもいいくらいだ。
「初めて事務所を訪ねてきたときは借りてきた猫みたいだったのにな」
「……そう、ですか?」
「そろそろ、新しい仕事を任せても面白いかもな」
最後のはさながら独り言。まるで、私に伝えるつもりのなかった言葉が勝手に漏れ出たみたいだった。私はその発言の真意をたずねようとしたが、それはできなかった。
「おーい!」
玄関の方から呼び声がしたからだ。女の人みたいだけど、ずいぶんとドスの利いた低い声……というよりはしゃがれた声に聞こえる。
「久々に来たのかもしれないな、伊織みたいな客が」
「え……」
私たちが話している間にも、呼び声はどんどん大きく、乱暴になっていく。
「だれかいねえのか、おい!」
「伊織、行け」
「私がですか!? ちょ、ちょっと怖いんですが……勘弁してくださいよ、先生」
「いいから行ってこいって」
先生と乱暴な呼び声が私を急かすものだから、怖い人だったら嫌だなあ、なんて思いながらも急いで受付に向かった。
「す、すみません。お待たせしました」
相手の姿もろくに見ず、とりあえず頭を下げる。
「ちっ、やっと出てきたか」
品のない言葉づかいだし、声にも凄味がある。
私は新聞記事の切り抜きを作らされていた。この作業はもはや日課になっていて、報道三社の新聞をそれぞれ一種類ずつと、経済新聞を一紙……合計で四紙のうちから、先生に切り抜くように言われた記事をファイルしておかなければいけない。それと同時に、切り抜く前の記事をスキャナーに通し、資料室のパソコンに保存しておく。どうせデータ化してパソコンの中にしまっておくなら、わざわざ切り抜く必要もないようにも思える。それを先生に直接言ってみたこともあったけれど、先生は「何が役に立つかわからないから、念のためだ」と言う。それに、「新聞のスクラップって独特の雰囲気があるだろ? 本を棚にしまっておくのとは違うし、雑誌の気になるページの端っこを折っておくのとも、単に新聞を束にして保管するのともやっぱり違う。……そこが気に入ってるんだ」とも言った。結局、新聞の切り抜きは先生の単なる趣味で集めているのかもしれないし、あるいは実益のためなのかもしれない。わかったのは、先生が相変わらずよくわからない人だということだけだ。
細かくて面倒だとは思うけれど、私はこの作業が好きになりつつあった。切り抜きを作るのだから、今まで新聞なんてろくに読まなかった私が、嫌でも記事に目を通すことになる。最初はつまらなかったけれど、そのうち自然と世間の動きが頭の中に入ってくるような気がしてくる。そんなことを漏らす私に「地味なようでいて、そういうことって大切なんですよ」と柳さんは微笑んだ。
考えてみれば、お父さんが捕まってからはテレビのニュースさえもあまり観なくなった。それを観ているだけで、まるで自分までもが罪に問われているような気分になってしまうからだ。単なる現実逃避だと指摘されてしまえば否定しようがないのだけれど、それでも観たくないものは観たくないのだ。
今日のニュースはいたって平凡だった。自分の父親に関する報道なんてどこにもない。民家から火が出ただとか、またどこかの親が児童虐待をして捕まっただとか……そういう不幸なことだって確かにたくさんある。どこかで起こる非日常が書き連ねてある新聞。だけど新聞にとってはそれが日常の姿なんだから、私たちはいちいち「どこか」で「だれか」に起こっていることに心を痛めることもない。
「『有名私立大学教授、不正入学斡旋の疑いで逮捕』……か」
目に留まった見出しをそのまま読み上げてみた。隣の机で、スキャンしたデータを整理している柳さんに話しかける。
「これって裏口入学のことですよね。本当にあるんですね、こういうこと」
「いまは、いろんなものがお金と引き換えに手に入ってしまいますからね……」
マウスをカチカチいわせ、モニターから目を離さないままで柳さんは言う。
「まあ、裏口入学に限って言えば、昔からめずらしくはないのかもしれませんね。私も詳しくは存じ上げませんけれど」
「……あれ? 私はてっきり、この事務所にはそういう依頼も来るものかと思ってました」
囚人を外に連れ出せる世中先生が、裏口入学を斡旋できないとは思えない。むしろ、そっちの方が何倍も容易いようにすら思える。
「それに『お金ならいくらでも出すから、子どもをあの学校に通わせたい』なんて願い、いかにもよくありそうじゃないですか」
「うーん、確かにそうかもしれません」
そこで柳さんは作業の手を止めた。彼女は私の目をまっすぐに見つめる。
「でも、世中先生の願いの叶え方はあらゆる方面とのコネクションに頼ったものですから」
「え……っと、だから、それこそ文科省とか、大学とかに直接掛け合っちゃえば……」
柳さんは私の目を覗き込むようにして見ている。何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……先生は、教育機関とは一切のコネクションをお持ちでないので」
「え?」
思ってもみなかった事実に、声が裏返りかけた。柳さんは真に迫った顔をしている。真剣な表情をしていても微笑みが崩れないのは彼女らしいところだ。
「教育は最後の聖域……いろいろな利権が絡み合うこの世界の隙間……お金などで汚してはいけない部分なのかもしれません」
「……なるほど」
「というのは冗談ですが」
柳さんはころっと表情を緩めた。
「じょ、冗談って……世中先生も柳さんも、冗談がわかりづらいんですよ」
「だって、わかりやすい冗談ほどつまらないものはないでしょう?」
彼女には悪びれる様子もない。こういうところ、二人とも似てるんだよなあ……。
「……教育にだってお金は必要です。そういう場所には必ず裏から見えない力が働いています。だから、お金の力が……いや、『ヒト』や『カネ』や『モノ』の力が通用しないのは経済制度が成り立っていないところだけ……もっとも、地球上にそんな都市が存在するのかは怪しいですけどね。人の集まりは欲の塊です。欲望の海の中にお金を突っ込むと……砂場に落とした磁石と、それにくっつく砂鉄みたいに、ね」
屈託のない笑顔を浮かべたまま、彼女はシビアな話をする。
「早く作業を終わらせてしまいましょう」
「は、はい」
柳さんに促されて、手にしたハサミを再び動かし始めながら考える。
もしかしたら、私は先生の力を大きく見すぎていたのかもしれない。彼がすごい人なのは確かなんだろうけど、すべての分野に太いパイプを持っているわけではないってことだろう。それは言われるまでもないほどに当たり前なことで、わかっていたはずなんだけど……。でも、釈然としない。どうして法務省はよくて、文科省はダメなんだろう。先生がたまたま弁護士だから、法律に関係する省庁とは繋がりがあるだけなんだろうか。もし先生が大学の教授とかだったら変わっていたんだろうか……。って、そもそも、柳さんは彼女の発言のどこからどこまでを指して「冗談」だと言ったのだろう? ……もしかして、全部? 考えれば考えるほどに頭の中で糸がこんがらがっていく。
そんなとき、ゆっくりと資料室の入口の扉が開いた。
「――また見つからないのか」
事務室から世中先生と中山さんが入ってきた。世中先生はどこか責めるような口調で、それに対する中山さんは申し訳なさそうにうつむいている。
「……どこを探しても見つからないもので」
この様子だと、先生は何か探し物を中山さんに頼んだらしい。会話中の先生に私と柳さんが会釈すると、先生は挨拶代わりに手を上げる素振りだけを見せて中山さんとの会話を続けた。
「見つけられたためしがないな」
「申し訳ありません」
大切なものを失くしたのだろうか。先生の目は真剣だ。先生はその目で頭を下げる中山さんをしばらくじっと見つめたあと、いきなり口の端を大きく吊り上げて笑った。
「――じゃ、罰ゲーム」
「ば、罰ゲーム?」
突拍子のない発言に思わず声を出してしまったのは私だ。何か知っていそうな柳さんを見やると、隣で彼女が「またですか……」と声には出さずに唇だけ動かすのが見えた。……「また」ってどういうことなんだろう。
「か、勘弁していただけませんか」
中山さんは弱ったような声を出した。
「いやいや、罰ゲームとは名ばかりの、影の薄い第三秘書を救うための思いやりじゃないか」
世中先生は含み笑いをこらえきれずにいるようで、頬を少しだけ膨らませている。
「……あの」
私は小声で柳さんに話しかけた。
「なんでしょう」
「先生の中山さんに対する扱いって、いつもこうなんですか?」
「……ええ、まあ」
「ひどいなあ」
「私は、先生なりの愛情表現だと思いますけどね」
柳さんは当事者二人のやり取りを眺めたままでいる。
「愛情表現にしたって、ひねくれすぎですよ」
「ひねくれすぎ……ふふ、ひねくれすぎている方が先生らしくありません?」
どうやら柳さんはこんな光景にはすっかり慣れっこのようだった。そのとき、私たちが何か話していることに気がついたのか、先生がこちらにやってきた。
「どうした?」
「え、あ……いや、中山さんがかわいそうだなー、と」
「はは、そりゃかわいそうだよなあ――名前ぐらいきっちり覚えてやらないと」
――名前ぐらい? 私のセリフのどこがおかしかったのか、先生はまた笑い始める。
「……先生、もういいでしょう。先生のせいで、私はまだ弓之辺さんにちゃんとした自己紹介もできていないのですよ」
中山さんはムスッとして先生に言った。先生はといえば、まだ笑い続けている。
「ああ! いやー、そうか、そうだったなあ……だから中山なのか、そうか」
「先生、いい加減になさってください。……弓之辺さん」
中山さんは先生を黙らせるために咳払いをすると、私に向けて手を差し出してきた。
「改めて自己紹介をさせてください。先生の第二秘書を務めさせていただいております、中島博臣と申します」
年相応の皺が目立つ手だ。けれど腰はまったく曲がっておらず、彼は姿勢を正して直立している。深みのある落ち着いた声は、彼自身の人柄を示しているようにも思える。ただ、彼の自己紹介にはひとつだけおかしいところがあった。
「……中、島……さん?」
「中島です」
「中『島』?」
「中島です」
「先生、ひどいですよ! 初対面の私に嘘の名前を教えたんですね?」
今まで中山さんだと思っていた人が、実は中島さんだった。もちろん、先生のたちの悪いジョークのせいだ。
「どうしよう……私、何度も中山さんって呼んじゃいましたよ……」
「あいつなら気にしてないから構わないよ。……俺は『世中』だし、柳は『高遠』。あいつの苗字だけなんとなくパッとしないだろ? だから、あいつが何か失敗するごとに罰として新しい苗字をつけてやってんだ」
そう語る先生はまるで子ども。それも悪ガキだ。
「ひろおみ、なんて仰々しい名前してるのになあ」
「そういう問題じゃありませんよ、もう!」
目上の人をずっと間違った名前で呼んでいたなんて、恥ずかしいやら腹立たしいやらで先生を責めずにはいられない。
「そんなに怒るなよ、次の命名権をお前にやるからさ。『中山』も今になって考えればなんだか地味だったしな」
「いりません!」
先生に反省している様子はない。どうやら、これが彼らにとっての当然らしかった。
「しかも、勝手に第三秘書とか言っちゃって。私をわざわざ二番目に割り込ませる必要なんてないでしょう? 『影が薄いから序列を繰り下げ』なんて聞いたことありませんよ」
「肩書きなんかにこだわる男になってほしくないからな」
「もっともらしいこと言ってごまかそうとしないでください!」
先生は頭がきれるし、口も回る。そういう人間にふざけたことをやらせるとすごく面倒だ。もっと追及してやろうと私が口を開きかけると、先生はそれを遮るように言った。
「……案外、思ったことをストレートにぶつけてくる性格なんだな」
先生は突然、真面目な表情をする。雰囲気の切り替えが早いのも先生の……いや、先生と柳さんの特徴だ。いきなり真剣な目をして、私の目をまっすぐに見つめてくる。それが切り替えのサイン。こんなところまで二人は似ていた。有無を言わさぬ雰囲気は、もはや卑怯と言ってもいいくらいだ。
「初めて事務所を訪ねてきたときは借りてきた猫みたいだったのにな」
「……そう、ですか?」
「そろそろ、新しい仕事を任せても面白いかもな」
最後のはさながら独り言。まるで、私に伝えるつもりのなかった言葉が勝手に漏れ出たみたいだった。私はその発言の真意をたずねようとしたが、それはできなかった。
「おーい!」
玄関の方から呼び声がしたからだ。女の人みたいだけど、ずいぶんとドスの利いた低い声……というよりはしゃがれた声に聞こえる。
「久々に来たのかもしれないな、伊織みたいな客が」
「え……」
私たちが話している間にも、呼び声はどんどん大きく、乱暴になっていく。
「だれかいねえのか、おい!」
「伊織、行け」
「私がですか!? ちょ、ちょっと怖いんですが……勘弁してくださいよ、先生」
「いいから行ってこいって」
先生と乱暴な呼び声が私を急かすものだから、怖い人だったら嫌だなあ、なんて思いながらも急いで受付に向かった。
「す、すみません。お待たせしました」
相手の姿もろくに見ず、とりあえず頭を下げる。
「ちっ、やっと出てきたか」
品のない言葉づかいだし、声にも凄味がある。
「ここのセンセーに用があんだよ、会わせてくれよ」
そう言われて私は頭を上げた。目の前に立っている女性は、相当にガラが悪い。たぶん二十代半ばくらいで、傷みに傷んだ金髪は手入れも雑でボサボサだ。目つきは最悪で、腫れぼったい一重まぶた。さらに、目の下にはいかにも不健康そうなクマがある。化粧もしていなさそうだ。首から提げたペンダントも、手首につけたブレスレットも、指先にひしめき合っているたくさんの指輪類もすべてシルバーで統一している。確かに、彼女の雰囲気から言えばトータルコーディネートはできているのかもしれない。……ただ、おかしな柄のTシャツを着ているセンスだけはどうも理解できない。それよりなにより、百七十センチはありそうな長身が彼女の外見の怖さに拍車をかけていた。
「わかりました。こちらへどうぞ……」
彼女が今にも刺してきそうな視線で私の背中を見ているのかと思うと、案内のために背中を向けているだけで居心地が悪い。
「先生、お客様をお通ししました」
「座ってもらってくれ」
私は依頼人を先生の対面に座るように促したあと、先生の後ろ側に回った。柳さんはお客さんの前にアイスティーを置くと、私の隣に並んで立った。
「……とんでもないTシャツだな。ここが英語圏じゃなかったのはアンタの人生最大の幸運かもしれない」
挨拶も何もしない。先生が最初に口にしたのは皮肉だった。
「悪いかよ、ほっといてくれ」
「女性にしてはなかなか淑やかさに欠けるな」
「ケンカ売ってんのか?」
出会って数十秒、二人の雰囲気は早くも険悪だ。
「そんなつもりはない。アンタがどんな人間か知りたいだけだよ」
「……回りくどいなあ、おい。オレ……じゃなかった、アタシは依頼する側なんだからさあ、素直に聞けば教えてやるよ」
彼女は怒っているというよりは呆れているみたいだ。
「名前は?」
「馬場紅緒」
「べにお……ってのは、紅色の紅に、糸へんに者と書いて紅緒かな?」
「そうだよ」
彼女はグラスに入った紅茶を、添えられたガムシロップも入れないままごくごくと飲んだ。
「職業は……もしかして、ギタリストだったりするのか」
「惜しいね。ウチのバンドでヴォーカリストやってる。確かにギターもやるけど。今はアマチュアだけど、いつかはプロになりたくて……って、つまるところ今はフリーターってことだけどさ」
「歌ってるのか? その声で」
「うるさいな、こりゃ酒焼けしてるだけだ」
彼女は相変わらずのガラガラ声だ。
「その様子だとタバコも吸いそうだな」
「外見のイメージだけでいろいろ言われるのはムカつくんだけど……悔しいことに酒もタバコも……そんで音楽も同じくらい好きなんだよ。……そうだ、アンタどうして、私がギターをやるって知ってたんだ?」
かすれた声をどうにかしようと、彼女は何度もうんうん唸った。
「知ってたわけじゃない。爪がきれいに整えられてるのを見て、かな。その格好、どう見たって自分の体には無頓着そうなのに、なぜか爪だけは手入れされてる。その服装の人間がいかにもやってそう、って感じの楽器はギターだと思ったんだ」
「……へえ、なるほどね」
馬場さんは感心したようにうなずいた。
「……そうか、音楽……楽器か。そこにいる子も楽器をやってたよ」
先生は肩越しに私を指差した。
「え、いや、私は……メタルはよく知らないので……」
「メタルじゃねえロックだ、バカにしてんのか?」
そんなこと言われたって、私はクラシック以外にはあまり詳しくない。そもそも、どういう服装が「ロッカー」らしいのかもわからない。
「ギターだってバイオリンだって、同じ弦楽器だろう」
先生は先生で、またとんでもない理屈をこねている。
「まったく違いますよ」
「それで、先生」
私の指摘は馬場さんに遮られた。どうやら本題を切り出すらしい。
「本当に願いを叶えてくれるのか?」
馬場さんの目つきがさらに悪くなった。きっと真剣な目つきになったのだろうけど、残念ながら私にはそういう風にしか見えなかった。
「金さえ払えばな」
「……いくら?」
「そりゃ、依頼の内容による」
先生はなんだか飄々としている。私のときとは微妙に対応が違うように思えた。馬場さんは大きく息を吸い込んで、言った。
「……いま組んでるバンドでメジャーデビューしたい。だから、アンタの力で私たちをデビューさせてほしい」
――途方もない、でも素直な願いだ。願い事というよりは純粋な夢に近い。
「そういうのは、自分の力で叶えてこそ……じゃないのか」
「ああ、わかってるよ! でも、そんなことに構っていられないくらい叶えたいことなんだよ。じゃなかったら、本当かどうかわかりもしない噂を頼って、こんなビルの……しかも。隠されたみたいな最上階まで来やしないだろ!」
願いが叶うかもしれないとなって、彼女は熱くなっている。そのせいで、ガラガラの声がますますかすれていく。でも、そのかすれがかえって必死に訴えかけてくるようで、いい声にすら聞こえた。
「……それもそうか」
いかに自分がその願いを叶えたいのか、必死で伝えようとする彼女の姿。
――私も、初めてここに来たときはあんな風だったのかな。
彼女のかすれ声を聞きながら、私はずっとそんなことを考えていた。
そう言われて私は頭を上げた。目の前に立っている女性は、相当にガラが悪い。たぶん二十代半ばくらいで、傷みに傷んだ金髪は手入れも雑でボサボサだ。目つきは最悪で、腫れぼったい一重まぶた。さらに、目の下にはいかにも不健康そうなクマがある。化粧もしていなさそうだ。首から提げたペンダントも、手首につけたブレスレットも、指先にひしめき合っているたくさんの指輪類もすべてシルバーで統一している。確かに、彼女の雰囲気から言えばトータルコーディネートはできているのかもしれない。……ただ、おかしな柄のTシャツを着ているセンスだけはどうも理解できない。それよりなにより、百七十センチはありそうな長身が彼女の外見の怖さに拍車をかけていた。
「わかりました。こちらへどうぞ……」
彼女が今にも刺してきそうな視線で私の背中を見ているのかと思うと、案内のために背中を向けているだけで居心地が悪い。
「先生、お客様をお通ししました」
「座ってもらってくれ」
私は依頼人を先生の対面に座るように促したあと、先生の後ろ側に回った。柳さんはお客さんの前にアイスティーを置くと、私の隣に並んで立った。
「……とんでもないTシャツだな。ここが英語圏じゃなかったのはアンタの人生最大の幸運かもしれない」
挨拶も何もしない。先生が最初に口にしたのは皮肉だった。
「悪いかよ、ほっといてくれ」
「女性にしてはなかなか淑やかさに欠けるな」
「ケンカ売ってんのか?」
出会って数十秒、二人の雰囲気は早くも険悪だ。
「そんなつもりはない。アンタがどんな人間か知りたいだけだよ」
「……回りくどいなあ、おい。オレ……じゃなかった、アタシは依頼する側なんだからさあ、素直に聞けば教えてやるよ」
彼女は怒っているというよりは呆れているみたいだ。
「名前は?」
「馬場紅緒」
「べにお……ってのは、紅色の紅に、糸へんに者と書いて紅緒かな?」
「そうだよ」
彼女はグラスに入った紅茶を、添えられたガムシロップも入れないままごくごくと飲んだ。
「職業は……もしかして、ギタリストだったりするのか」
「惜しいね。ウチのバンドでヴォーカリストやってる。確かにギターもやるけど。今はアマチュアだけど、いつかはプロになりたくて……って、つまるところ今はフリーターってことだけどさ」
「歌ってるのか? その声で」
「うるさいな、こりゃ酒焼けしてるだけだ」
彼女は相変わらずのガラガラ声だ。
「その様子だとタバコも吸いそうだな」
「外見のイメージだけでいろいろ言われるのはムカつくんだけど……悔しいことに酒もタバコも……そんで音楽も同じくらい好きなんだよ。……そうだ、アンタどうして、私がギターをやるって知ってたんだ?」
かすれた声をどうにかしようと、彼女は何度もうんうん唸った。
「知ってたわけじゃない。爪がきれいに整えられてるのを見て、かな。その格好、どう見たって自分の体には無頓着そうなのに、なぜか爪だけは手入れされてる。その服装の人間がいかにもやってそう、って感じの楽器はギターだと思ったんだ」
「……へえ、なるほどね」
馬場さんは感心したようにうなずいた。
「……そうか、音楽……楽器か。そこにいる子も楽器をやってたよ」
先生は肩越しに私を指差した。
「え、いや、私は……メタルはよく知らないので……」
「メタルじゃねえロックだ、バカにしてんのか?」
そんなこと言われたって、私はクラシック以外にはあまり詳しくない。そもそも、どういう服装が「ロッカー」らしいのかもわからない。
「ギターだってバイオリンだって、同じ弦楽器だろう」
先生は先生で、またとんでもない理屈をこねている。
「まったく違いますよ」
「それで、先生」
私の指摘は馬場さんに遮られた。どうやら本題を切り出すらしい。
「本当に願いを叶えてくれるのか?」
馬場さんの目つきがさらに悪くなった。きっと真剣な目つきになったのだろうけど、残念ながら私にはそういう風にしか見えなかった。
「金さえ払えばな」
「……いくら?」
「そりゃ、依頼の内容による」
先生はなんだか飄々としている。私のときとは微妙に対応が違うように思えた。馬場さんは大きく息を吸い込んで、言った。
「……いま組んでるバンドでメジャーデビューしたい。だから、アンタの力で私たちをデビューさせてほしい」
――途方もない、でも素直な願いだ。願い事というよりは純粋な夢に近い。
「そういうのは、自分の力で叶えてこそ……じゃないのか」
「ああ、わかってるよ! でも、そんなことに構っていられないくらい叶えたいことなんだよ。じゃなかったら、本当かどうかわかりもしない噂を頼って、こんなビルの……しかも。隠されたみたいな最上階まで来やしないだろ!」
願いが叶うかもしれないとなって、彼女は熱くなっている。そのせいで、ガラガラの声がますますかすれていく。でも、そのかすれがかえって必死に訴えかけてくるようで、いい声にすら聞こえた。
「……それもそうか」
いかに自分がその願いを叶えたいのか、必死で伝えようとする彼女の姿。
――私も、初めてここに来たときはあんな風だったのかな。
彼女のかすれ声を聞きながら、私はずっとそんなことを考えていた。