あなたの願い、金の力で叶えます
Ex-1 : 世中先生の哲学
窓の外を眺めていた。けれど、そうしていたって面白いものが見えるわけでもない。ただ、部屋の中には誰もいないし、することもない。だから雨の降り続く外を見ていた。もしここが、あの事務所のように高層ビルの最上階だったりしたのなら少しは違ったのかもしれない。下界と五十もの層で隔たれた場所から望めるのは都心の風景。地上ではあらゆるものが目まぐるしく動き回り、遠くの空や山はピタリと止まっている。そんな画を眺めていたら、きっと退屈することはないだろう。……でも、ここは住宅街にあるアパートの二階。そんな場所からの景色なんて、たかが知れている。窓から飛び降りたって、うまく着地すれば無傷でいられる程度の高さしかない。いや、私たちみたいな一般人が住む部屋はそれで当たり前なのだけれども。
何十分かぶりに部屋の中へと視線を戻す。私が住んでいるのはごく普通のアパート。近所付き合いはもともとほとんどなかった。同じ屋根の下にいても、部屋が違えば関係ない。たぶん、都会ってそういう場所なんだろう。「仲良くする」とか「親切にする」とか、そういうことにはまったく興味がないくせに、「叩く」とか「つっつく」とか、攻撃できるターゲットにだけは関心を示す。隣人たちっていうのはそんな生き物だ。
他人の不幸は蜜の味――……巣をつつかれて、甘い不幸を啜られて。それで苦い思いをするのは私だけでいい。だから、あの「発表会」が終わった後、働き始める準備をしているときに、一緒に住んでいた母親は田舎に帰した。お母さんは精神的に参っているのが目に見えていたし、私が信頼のおける職場で働けるとなれば、お母さんの心配も最小限に抑えたまま帰ってもらえるだろうと思ったからだ。
「私だけ逃げるみたいで……」
お母さんは言った。
「私が帰るなら、伊織も一緒に行こう?」
そうも言ってくれた。やつれた顔とかすれた声で。
そもそも、お母さんはこの街に未練を持っていなかった。ただ、家を飛び出すようにして結婚を決めたから……そして、その結果こうなってしまったから、実家に帰るのが気まずいようだった。だから、こんな時期まで決断が先延ばしになったんだ。世間の目に耐えられるうちは耐えようって、頑張ってしまったから。
「……私は、まだ……」
やることがある。バカげた自己満足の代償を、自分で稼ぎ切らなければいけない。
「……もしかしたら、復学できるかもしれないから」
――だから、嘘をついた。
再び窓の外に目をやる。雨で視界が悪くなくったって、低いここからじゃたいして遠くは見えない。細い路地のはさんだ、向かいの塀。その向こうにある平屋。あとは電信柱と……ゴミ捨て場。カラス除けのための緑のネットはところどころ破れている。この、五十一階と二階の落差はなんなんだろう。物理的な高さの差はもちろんのこと、それ以上の隔たりがそこにはある。……お金があるかないかの違いなのかな。たとえ父親が罪を犯しても、お金があればこんな風にはならなかったのかな。
いつ途切れてもおかしくないと思えるほど弱々しい雨が、ずっと降り続いている。いつまで続くんだろう。雨雲だって薄そうなのに。
「もうすぐ、梅雨も明けるなあ……」
何気ないぼやきが、目の前のガラスを白く曇らせた。
何十分かぶりに部屋の中へと視線を戻す。私が住んでいるのはごく普通のアパート。近所付き合いはもともとほとんどなかった。同じ屋根の下にいても、部屋が違えば関係ない。たぶん、都会ってそういう場所なんだろう。「仲良くする」とか「親切にする」とか、そういうことにはまったく興味がないくせに、「叩く」とか「つっつく」とか、攻撃できるターゲットにだけは関心を示す。隣人たちっていうのはそんな生き物だ。
他人の不幸は蜜の味――……巣をつつかれて、甘い不幸を啜られて。それで苦い思いをするのは私だけでいい。だから、あの「発表会」が終わった後、働き始める準備をしているときに、一緒に住んでいた母親は田舎に帰した。お母さんは精神的に参っているのが目に見えていたし、私が信頼のおける職場で働けるとなれば、お母さんの心配も最小限に抑えたまま帰ってもらえるだろうと思ったからだ。
「私だけ逃げるみたいで……」
お母さんは言った。
「私が帰るなら、伊織も一緒に行こう?」
そうも言ってくれた。やつれた顔とかすれた声で。
そもそも、お母さんはこの街に未練を持っていなかった。ただ、家を飛び出すようにして結婚を決めたから……そして、その結果こうなってしまったから、実家に帰るのが気まずいようだった。だから、こんな時期まで決断が先延ばしになったんだ。世間の目に耐えられるうちは耐えようって、頑張ってしまったから。
「……私は、まだ……」
やることがある。バカげた自己満足の代償を、自分で稼ぎ切らなければいけない。
「……もしかしたら、復学できるかもしれないから」
――だから、嘘をついた。
再び窓の外に目をやる。雨で視界が悪くなくったって、低いここからじゃたいして遠くは見えない。細い路地のはさんだ、向かいの塀。その向こうにある平屋。あとは電信柱と……ゴミ捨て場。カラス除けのための緑のネットはところどころ破れている。この、五十一階と二階の落差はなんなんだろう。物理的な高さの差はもちろんのこと、それ以上の隔たりがそこにはある。……お金があるかないかの違いなのかな。たとえ父親が罪を犯しても、お金があればこんな風にはならなかったのかな。
いつ途切れてもおかしくないと思えるほど弱々しい雨が、ずっと降り続いている。いつまで続くんだろう。雨雲だって薄そうなのに。
「もうすぐ、梅雨も明けるなあ……」
何気ないぼやきが、目の前のガラスを白く曇らせた。
お母さんを実家へと帰し、自分の身の回りの整理をした後。……私は世中法律事務所で働き始めた。私の仕事は書類や各種資料の整理が主で、あとはお茶くみやら何やら……つまりは雑用係だ。それが辛いなんていうことはなかった。むしろ、こんなに楽な仕事で借金を返せてしまっていいのかと不安になるくらいだ。
私が事務所に入ってから二週間、願いを叶える依頼は来なかった。先生曰く、「そんな仕事、しょっちゅう転がり込んでくる方がおかしい」のだそうだ。先生は通常の弁護士業務を行う。通常、と言っても普通の弁護士がするような、個人からの法律相談を受けて相談料を取るだとか、裁判で弁護をするだとか、そういう仕事をしている素振りはなかったし、実際、あまりしないと柳さんから聞いた。
「弁護士の仕事はコネ作りのためなんだよ」
先生はそう言う。
「財界に幅を利かせるような企業グループの顧問弁護士をいくつも掛け持ちでやらせてもらったり、中央省庁で働く官僚たちにアドバイスをやったり……もちろんそれなりの謝礼はもらえるけどな、やっぱり目的はコネ作りなんだ」
「……なんか、想像していたのとは違うなあ」
「自分の想像だけで世の中を測れると思っている方がおかしい」
先生はぴしゃりと言った。私は知らなかった世界を垣間見て、幾度とないカルチャーショックを受ける。そのたびに先生は「こんなのは当然だ」と私に教え込もうとしてくるのだ。
「……なあ、伊織。そのスーツは?」
スーツを着て出勤した私に向かって、先生はあいさつもなしにそう尋ねた。その表情はどこか険しい。確かにまだスーツは着慣れていない。もしかしてどこかおかしいところでもあったのだろうかと、私は自分の服装を確認する。
「え……あ、どこか変ですか?」
「変? 変かと言われれば、そうでもないな」
先生の方からスーツのことを口にしたくせに、返ってきたのはこんな答えだ。
「まあ、確かにどこもおかしくない。いたって普通の女物のスーツだけどな……。ただ、服にはもう少し金をかけた方がいい。それ、どうせどこかの量販店で買ったんだろ?」
「まずかったですか?」
「……ああ、まあ……まずくはないんだけどなあ」
先生は、私の依頼を叶えようとしている間だって何でもかんでも遠慮なく言ってきた。その彼にしては珍しく歯切れが悪い物言いだと思い、私は首をかしげる。……かと思えば、その本人が今度は突然にこんなことを言い出した。
「衣食住、って知ってるか?」
「いしょくじゅう?」
それが私のスーツの値段とどう関係するのかよくわからなくて、オウム返しになってしまう。「いしょくじゅう」と言えば「衣食住」のことだろうけど……。
「『いしょくじゅう』って……どの『いしょくじゅう』のことでしょう?」
「どの『いしょくじゅう』も何も、衣食住はあの衣食住だろう。……その衣食住って、いったい何なのか答えられるか?」
どうやら、先生は本当にあの「衣食住」のことを言っているらしい。改めてそれがいったい何なのか、って聞かれるとなると答えにくい。
「……えーっと、衣食住って言ったら、生活するのに必要な三つのもの、ですか?」
「そうだな。生活を構成する主要な三本の柱のことだ……と、普通の日本人はそう思ってる」
先生は口角を上げる。どうやら、先生の期待する答えとは違ったらしい。
「しかし俺が考えるに、衣食住ってのは『ビジネスで成功するために金をかけるべき順番』だな。まずは初対面の相手にも見える服装に金をかける。次は相手といい関係を築くために、一緒に行くかもしれない食事に金をかける。そして、ビジネスと関係のないプライベートな住居に金をかけるのは後回しでいいってことだ」
「うーん……だから私ももっといいスーツを買えっていうことですか……」
「そうだ」
「借金があるのに、スーツなんかにお金はかけられませんよ……」
ため息が漏れる。実のところは、借金があることで生活に不便を感じることなんてなかった。それはまだ借金を負って日が浅いからかもしれないし、単に先生が催促をしないからかもしれない。だけれど、「自分が借金をしている」という事実だけは、確実に心に重く圧し掛かるのだ。
「借金があるのに、じゃない。俺は、借金があるんだから、それを返すために服に気を遣えと言っている」
……そういえば、二、三日前にも「気を遣うことは金を使うことだ」ってこの人が言ってたなあ。
なんだか、ここで働き続けていくうちに自分が先生流の哲学に染まっていってしまいそうな気がする。それがいいことなのか悪いことなのか、判断するにはまだ私は子供すぎるのかもしれないけれど。
私が事務所に入ってから二週間、願いを叶える依頼は来なかった。先生曰く、「そんな仕事、しょっちゅう転がり込んでくる方がおかしい」のだそうだ。先生は通常の弁護士業務を行う。通常、と言っても普通の弁護士がするような、個人からの法律相談を受けて相談料を取るだとか、裁判で弁護をするだとか、そういう仕事をしている素振りはなかったし、実際、あまりしないと柳さんから聞いた。
「弁護士の仕事はコネ作りのためなんだよ」
先生はそう言う。
「財界に幅を利かせるような企業グループの顧問弁護士をいくつも掛け持ちでやらせてもらったり、中央省庁で働く官僚たちにアドバイスをやったり……もちろんそれなりの謝礼はもらえるけどな、やっぱり目的はコネ作りなんだ」
「……なんか、想像していたのとは違うなあ」
「自分の想像だけで世の中を測れると思っている方がおかしい」
先生はぴしゃりと言った。私は知らなかった世界を垣間見て、幾度とないカルチャーショックを受ける。そのたびに先生は「こんなのは当然だ」と私に教え込もうとしてくるのだ。
「……なあ、伊織。そのスーツは?」
スーツを着て出勤した私に向かって、先生はあいさつもなしにそう尋ねた。その表情はどこか険しい。確かにまだスーツは着慣れていない。もしかしてどこかおかしいところでもあったのだろうかと、私は自分の服装を確認する。
「え……あ、どこか変ですか?」
「変? 変かと言われれば、そうでもないな」
先生の方からスーツのことを口にしたくせに、返ってきたのはこんな答えだ。
「まあ、確かにどこもおかしくない。いたって普通の女物のスーツだけどな……。ただ、服にはもう少し金をかけた方がいい。それ、どうせどこかの量販店で買ったんだろ?」
「まずかったですか?」
「……ああ、まあ……まずくはないんだけどなあ」
先生は、私の依頼を叶えようとしている間だって何でもかんでも遠慮なく言ってきた。その彼にしては珍しく歯切れが悪い物言いだと思い、私は首をかしげる。……かと思えば、その本人が今度は突然にこんなことを言い出した。
「衣食住、って知ってるか?」
「いしょくじゅう?」
それが私のスーツの値段とどう関係するのかよくわからなくて、オウム返しになってしまう。「いしょくじゅう」と言えば「衣食住」のことだろうけど……。
「『いしょくじゅう』って……どの『いしょくじゅう』のことでしょう?」
「どの『いしょくじゅう』も何も、衣食住はあの衣食住だろう。……その衣食住って、いったい何なのか答えられるか?」
どうやら、先生は本当にあの「衣食住」のことを言っているらしい。改めてそれがいったい何なのか、って聞かれるとなると答えにくい。
「……えーっと、衣食住って言ったら、生活するのに必要な三つのもの、ですか?」
「そうだな。生活を構成する主要な三本の柱のことだ……と、普通の日本人はそう思ってる」
先生は口角を上げる。どうやら、先生の期待する答えとは違ったらしい。
「しかし俺が考えるに、衣食住ってのは『ビジネスで成功するために金をかけるべき順番』だな。まずは初対面の相手にも見える服装に金をかける。次は相手といい関係を築くために、一緒に行くかもしれない食事に金をかける。そして、ビジネスと関係のないプライベートな住居に金をかけるのは後回しでいいってことだ」
「うーん……だから私ももっといいスーツを買えっていうことですか……」
「そうだ」
「借金があるのに、スーツなんかにお金はかけられませんよ……」
ため息が漏れる。実のところは、借金があることで生活に不便を感じることなんてなかった。それはまだ借金を負って日が浅いからかもしれないし、単に先生が催促をしないからかもしれない。だけれど、「自分が借金をしている」という事実だけは、確実に心に重く圧し掛かるのだ。
「借金があるのに、じゃない。俺は、借金があるんだから、それを返すために服に気を遣えと言っている」
……そういえば、二、三日前にも「気を遣うことは金を使うことだ」ってこの人が言ってたなあ。
なんだか、ここで働き続けていくうちに自分が先生流の哲学に染まっていってしまいそうな気がする。それがいいことなのか悪いことなのか、判断するにはまだ私は子供すぎるのかもしれないけれど。