パースペクティヴ
二点透視法
二点透視法
榛と部長
桜が街をあざやかに染めている。
三崎榛は自転車を滑らせて、二日目の通学路を走っていた。街は春一色だ。通りには晴れやかな表情でスーツや制服に身を包み、新しい生活を始めようとしている人々の姿があった。その様子を見ているだけで、榛はとても幸福な気持ちになった。
「高校生かー」榛はつぶやいた。念願だった経川南高等学校に合格した榛は、昨日入学式を終えて、今日から始まる授業を楽しみにしていた。勉強が楽しみなのではなく、新しい生活にわくわくしていたのだ。入学式とそれに続くHRでは自己紹介をした。榛は照れくさく挨拶して席に着いたが、自分より前に自己紹介を終えた「中田秋斗」という男子生徒が気になっていた。
「何でもすごい人物らしい」ともっぱらの噂だった。話によれば、彼は留年して二度目の一年生を始めるところだったが、それと引き換えに無数の発明品を作り、いくつか賞をもらっているようだった。「中田秋斗だ。よろしく」とだけ言った彼の容貌は、いかにも切れ者という感じで、格好よく、榛は女子生徒と一緒に思わず見とれてしまった。そして彼と話してみたいと思っているうちその日はあっけなく終業になった。
「今日こそは」自転車置き場に真新しい自転車を入れ、榛は言った。さいわいなことに秋斗は榛の隣の席だった。きっと話もしやすいはずだ、友達になれたらいいなあ、と榛は呑気に思い、教室へ向かった。すべてが光り輝いていて、目の前には楽しいこと以外何もなかった。
榛が席に着くと、中田秋斗はまだ来ていなかった。榛は周りの生徒と朗らかに歓談し、新しい生活に胸を膨らませていた。高校ではどんな部活をやろう? と榛は思った。中学の時はへっぽこハンドボール部員で、いつもへとへとになっていた。「次は文科系がいいなあ。さぼって帰っちゃっても怒られないようなの」などと榛は言って、できたばかりの友達と笑った。榛は昔からこのように大らかな性格だったので、中学時代は部活で先輩のパシリになったりもした。命令を受け、三回まわってコケコッコーと鳴いたこともあった。ぶっちゃけいじめられていたのかもしれないが榛にその自覚はなかった。その意味で彼はずいぶんと幸運だった。新しいクラスメートは、そんな無邪気な榛を気に入ったようだった。
さて、中田秋斗は朝のHRが始まっても姿を見せず、一時間目の現代文が始まってもまだ現れなかった。風邪を引いて休んだのかな、と榛は思った。新学期のクラスの中で、一か所だけぽかりと空いた座席は妙に目立っていた。榛は廊下を見たが、中田秋斗が現れる気配はなかった。一時間目が終わり、二時間目になった。それでもやはり中田秋斗は現れない。何の気なしに、榛が窓から外を見ると、向かいの校舎の屋上に生徒の姿があった。目を凝らすと、それが中田秋斗だと分かった。榛は驚いて、あやうく変な声を出しそうになった。「屋上って生徒は上がれないはずじゃあ」彼は言った。五分間、榛は屋上を見ながら、いったい彼は何をしているのだろうと考えていた。そしてとうとう、「先生、トイレ行ってきていいですか……お腹痛くて」と言ってクラスの笑いを誘い、榛は教室から出た。
まっすぐに向かいの校舎の階段を上った榛は、屋上への扉の前まで来て、鍵が開いていることに気がついた。「見つかったら怒られるかなあ」と言いつつ、榛はそこから外に出た。ふわりとした春風が、髪をさらった。空がめいっぱい広がって、世界がいっぱいの光に満ちるようだった。榛は思わず目をつむり、それから開いた。最上階の開放的な風景がそこにはあった。思ったよりも屋上は広く、駆けまわれそうなくらいだった。春の街並が視界いっぱいに続いていた。ところどころに満開の桜の木が見える。榛の目の前で、中田秋斗はこちらに背を向けて立っていた。手元で何かをいじっている。
榛はなぜか胸がどきどきした。彼は別に同性愛者でも何でもなかったが、中田秋斗には昨日からずっと特別な雰囲気を感じていた。まして新学期二日目に、入場禁止の屋上にいるとなればなおさらだった。いったい何をしているのだろう? 榛はゆっくりと中田秋斗に近づいた。なぜ忍び足になる必要があるのか分からなかったが、ともかく慎重に、一歩一歩。あと三歩というところで、中田秋斗がこちらを向いた。榛が驚いて叫び声を上げた直後、後頭部に何かが思いきり直撃した。
「がっ」榛はよろめいて倒れてしまった。仰向けになった榛は、目の前に青空が広がっているのを見た。綺麗な景色だった。「うわあ……すごい」モンキチョウがひらひらと榛の鼻先を飛んでいった。「おお?」上から声がした。まもなく榛の視界に中田秋斗の姿がうつった。不思議そうにこちらを覗きこんでいる。「きみは誰だ? 今は授業中のはずだが」中田秋斗は言って、眼鏡の中央を押さえた。春の空を背景にすると、中田秋斗はまるで少女漫画の登場人物のように見えた。
「あ、いやその、あの」と榛は声を発し、飛び起きた。「クラスで授業受けてたら、屋上に姿が見えたんで……」榛は本能的に敬語を話した。中学時代に培われた先輩識別スキルが問答無用で発揮された。すこし悲しい力だった。
「ふむ」と中田秋斗は言って、榛の上履きを見た。「一年生か、って僕もだが」
それを聞いて榛は、「あの、同じクラスですよ! しかも隣の席です」と言った。すると中田秋斗は驚いた顔をして、「なに? それじゃきみはあのクラスの空席を二つにしてきたというのか!」そう言ってフェンスに駆け寄った。それから頭を振って、静かにこちらへ戻ってきた。「やってくれるじゃないかきみ。これでは新学期序盤における僕の神秘性が損なわれてしまうだろう!」両手を広げ、大げさな仕草で秋斗は言った。
「え、神秘性?」「そうだ神秘性だ。教師連中はすでに分かっているから構わないが、同級生にもただならぬファーストインプレッションを与えておいたほうが、今後なにかと行動しやすいってものだよきみ。我々の年齢は、そうした印象にいとも簡単に操作されるからな! はっはっはっは!」中田秋斗は高笑いした。榛は向かいの校舎から見つかるのではないかと気が気じゃなかった。ひとしきり笑うと、彼は目を細くして榛を見た。
「きみ、名前は?」中田秋斗は言った。「三崎榛です」榛は教師に訊かれているような気持ちになって答えた。「ほほう、では榛くん。今日からきみは僕の助手になりたまえ」
「はい?」榛は目を見開いた。「助手、って、何のです?」「そりゃ決まってるじゃないか。僕の研究の助手さ」「研究、ですか?」
榛が問うと、中田秋斗は「そうだ、研究だ」と言って榛の足元を目で示した。榛が見ると、小型のヘリコプターのような機械が横になっていた。「何ですか、これ?」
「ふふん」と中田秋斗は言い、手元の携帯電話を操作した。すると機械が宙に舞い上がった。弧を描いて、天高く飛んでいく。「わあ。すごい」榛は機械を見つめた。「フォンコプターだ。携帯電話の番号を登録すると、そこから発信があった時に作動させることができる」機体はくるくると器用に軌道を変え、螺旋を描いたり急降下したりして曲芸飛行を披露した。中田秋斗は携帯電話のボタンを弾むように押して、最後に機体を榛の頭に着陸させる。榛は落ちないよう、慌てて両手で機体を押さえた。「いずれこれを念じるだけで飛ばせるようにしたいんだがなあ」中田秋斗がそう言う頃には、榛はすっかり彼に魅了されていた。「すごいですね。俺だったら一生かかっても作れそうにないです」榛は言った。そして頭の上の機体をそっと手に取った。メタリックシルバーに塗られた機体がにぶく輝いていた。
「発明をして人の役に立つのが僕の夢なんだ、榛くん」そう言って笑った。「よろしく」二人は握手した。それが榛と中田秋斗の出会いだった。
榛と部長
桜が街をあざやかに染めている。
三崎榛は自転車を滑らせて、二日目の通学路を走っていた。街は春一色だ。通りには晴れやかな表情でスーツや制服に身を包み、新しい生活を始めようとしている人々の姿があった。その様子を見ているだけで、榛はとても幸福な気持ちになった。
「高校生かー」榛はつぶやいた。念願だった経川南高等学校に合格した榛は、昨日入学式を終えて、今日から始まる授業を楽しみにしていた。勉強が楽しみなのではなく、新しい生活にわくわくしていたのだ。入学式とそれに続くHRでは自己紹介をした。榛は照れくさく挨拶して席に着いたが、自分より前に自己紹介を終えた「中田秋斗」という男子生徒が気になっていた。
「何でもすごい人物らしい」ともっぱらの噂だった。話によれば、彼は留年して二度目の一年生を始めるところだったが、それと引き換えに無数の発明品を作り、いくつか賞をもらっているようだった。「中田秋斗だ。よろしく」とだけ言った彼の容貌は、いかにも切れ者という感じで、格好よく、榛は女子生徒と一緒に思わず見とれてしまった。そして彼と話してみたいと思っているうちその日はあっけなく終業になった。
「今日こそは」自転車置き場に真新しい自転車を入れ、榛は言った。さいわいなことに秋斗は榛の隣の席だった。きっと話もしやすいはずだ、友達になれたらいいなあ、と榛は呑気に思い、教室へ向かった。すべてが光り輝いていて、目の前には楽しいこと以外何もなかった。
榛が席に着くと、中田秋斗はまだ来ていなかった。榛は周りの生徒と朗らかに歓談し、新しい生活に胸を膨らませていた。高校ではどんな部活をやろう? と榛は思った。中学の時はへっぽこハンドボール部員で、いつもへとへとになっていた。「次は文科系がいいなあ。さぼって帰っちゃっても怒られないようなの」などと榛は言って、できたばかりの友達と笑った。榛は昔からこのように大らかな性格だったので、中学時代は部活で先輩のパシリになったりもした。命令を受け、三回まわってコケコッコーと鳴いたこともあった。ぶっちゃけいじめられていたのかもしれないが榛にその自覚はなかった。その意味で彼はずいぶんと幸運だった。新しいクラスメートは、そんな無邪気な榛を気に入ったようだった。
さて、中田秋斗は朝のHRが始まっても姿を見せず、一時間目の現代文が始まってもまだ現れなかった。風邪を引いて休んだのかな、と榛は思った。新学期のクラスの中で、一か所だけぽかりと空いた座席は妙に目立っていた。榛は廊下を見たが、中田秋斗が現れる気配はなかった。一時間目が終わり、二時間目になった。それでもやはり中田秋斗は現れない。何の気なしに、榛が窓から外を見ると、向かいの校舎の屋上に生徒の姿があった。目を凝らすと、それが中田秋斗だと分かった。榛は驚いて、あやうく変な声を出しそうになった。「屋上って生徒は上がれないはずじゃあ」彼は言った。五分間、榛は屋上を見ながら、いったい彼は何をしているのだろうと考えていた。そしてとうとう、「先生、トイレ行ってきていいですか……お腹痛くて」と言ってクラスの笑いを誘い、榛は教室から出た。
まっすぐに向かいの校舎の階段を上った榛は、屋上への扉の前まで来て、鍵が開いていることに気がついた。「見つかったら怒られるかなあ」と言いつつ、榛はそこから外に出た。ふわりとした春風が、髪をさらった。空がめいっぱい広がって、世界がいっぱいの光に満ちるようだった。榛は思わず目をつむり、それから開いた。最上階の開放的な風景がそこにはあった。思ったよりも屋上は広く、駆けまわれそうなくらいだった。春の街並が視界いっぱいに続いていた。ところどころに満開の桜の木が見える。榛の目の前で、中田秋斗はこちらに背を向けて立っていた。手元で何かをいじっている。
榛はなぜか胸がどきどきした。彼は別に同性愛者でも何でもなかったが、中田秋斗には昨日からずっと特別な雰囲気を感じていた。まして新学期二日目に、入場禁止の屋上にいるとなればなおさらだった。いったい何をしているのだろう? 榛はゆっくりと中田秋斗に近づいた。なぜ忍び足になる必要があるのか分からなかったが、ともかく慎重に、一歩一歩。あと三歩というところで、中田秋斗がこちらを向いた。榛が驚いて叫び声を上げた直後、後頭部に何かが思いきり直撃した。
「がっ」榛はよろめいて倒れてしまった。仰向けになった榛は、目の前に青空が広がっているのを見た。綺麗な景色だった。「うわあ……すごい」モンキチョウがひらひらと榛の鼻先を飛んでいった。「おお?」上から声がした。まもなく榛の視界に中田秋斗の姿がうつった。不思議そうにこちらを覗きこんでいる。「きみは誰だ? 今は授業中のはずだが」中田秋斗は言って、眼鏡の中央を押さえた。春の空を背景にすると、中田秋斗はまるで少女漫画の登場人物のように見えた。
「あ、いやその、あの」と榛は声を発し、飛び起きた。「クラスで授業受けてたら、屋上に姿が見えたんで……」榛は本能的に敬語を話した。中学時代に培われた先輩識別スキルが問答無用で発揮された。すこし悲しい力だった。
「ふむ」と中田秋斗は言って、榛の上履きを見た。「一年生か、って僕もだが」
それを聞いて榛は、「あの、同じクラスですよ! しかも隣の席です」と言った。すると中田秋斗は驚いた顔をして、「なに? それじゃきみはあのクラスの空席を二つにしてきたというのか!」そう言ってフェンスに駆け寄った。それから頭を振って、静かにこちらへ戻ってきた。「やってくれるじゃないかきみ。これでは新学期序盤における僕の神秘性が損なわれてしまうだろう!」両手を広げ、大げさな仕草で秋斗は言った。
「え、神秘性?」「そうだ神秘性だ。教師連中はすでに分かっているから構わないが、同級生にもただならぬファーストインプレッションを与えておいたほうが、今後なにかと行動しやすいってものだよきみ。我々の年齢は、そうした印象にいとも簡単に操作されるからな! はっはっはっは!」中田秋斗は高笑いした。榛は向かいの校舎から見つかるのではないかと気が気じゃなかった。ひとしきり笑うと、彼は目を細くして榛を見た。
「きみ、名前は?」中田秋斗は言った。「三崎榛です」榛は教師に訊かれているような気持ちになって答えた。「ほほう、では榛くん。今日からきみは僕の助手になりたまえ」
「はい?」榛は目を見開いた。「助手、って、何のです?」「そりゃ決まってるじゃないか。僕の研究の助手さ」「研究、ですか?」
榛が問うと、中田秋斗は「そうだ、研究だ」と言って榛の足元を目で示した。榛が見ると、小型のヘリコプターのような機械が横になっていた。「何ですか、これ?」
「ふふん」と中田秋斗は言い、手元の携帯電話を操作した。すると機械が宙に舞い上がった。弧を描いて、天高く飛んでいく。「わあ。すごい」榛は機械を見つめた。「フォンコプターだ。携帯電話の番号を登録すると、そこから発信があった時に作動させることができる」機体はくるくると器用に軌道を変え、螺旋を描いたり急降下したりして曲芸飛行を披露した。中田秋斗は携帯電話のボタンを弾むように押して、最後に機体を榛の頭に着陸させる。榛は落ちないよう、慌てて両手で機体を押さえた。「いずれこれを念じるだけで飛ばせるようにしたいんだがなあ」中田秋斗がそう言う頃には、榛はすっかり彼に魅了されていた。「すごいですね。俺だったら一生かかっても作れそうにないです」榛は言った。そして頭の上の機体をそっと手に取った。メタリックシルバーに塗られた機体がにぶく輝いていた。
「発明をして人の役に立つのが僕の夢なんだ、榛くん」そう言って笑った。「よろしく」二人は握手した。それが榛と中田秋斗の出会いだった。
一週間のうちに榛と中田秋斗は親しくなった。
「僕のことは部長と呼んでくれ」と中田秋斗は言った。「どうして部長なんですか?」と榛が問うと、「先月から科学クラブに在籍しているんだが、人数がほとんどいない上に幽霊部員ばかりでね。僕が部長にならざるを得ないってわけさ。一年だけど実質二年みたいなものだから、元同学年の連中に押しつけられたといってもいいか。放課後来てみないかい?」「行きます! 部長」榛は即答した。部長といると何か楽しいことが起きそうで、榛はわくわくした。新学期、教室には初々しい風が吹き抜けていた。授業合間の休み時間、生徒たちはみな思い思いに話をしている。一週間、榛はいろいろな人と話したが、部長がもっとも楽しく、一緒にいて飽きなかった。彼はあらゆる科目においてとても優秀だった。榛が一度授業で当てられてピンチになった時など、助け船を出してくれた。部長はクラスメートからも人気を集めていて、特に女子などは勉強を教わりに早くも彼のもとへ集まるようになっていた。榛は部長を素直に尊敬していた。何でもできる人だ。そんな人と友達になれて榛は嬉しかった。自分が少し特別な存在になれた気がした。榛は自分をどこまでも普通だと自分で思っていたので、何もかも非凡な部長と一緒にいることは、榛にたえず高揚感をもたらせた。
その日の放課後、榛ははじめて科学クラブに顔を出した。そこには三年生の女子がいて、名前を桐生(きりう)恵(めぐみ)といった。茶色がかったセミロングの髪に、黒いセルロイドの眼鏡が似合う彼女は、榛にとってはずいぶん大人びて見えた。「何、この子。部長くんの知り合い?」恵は言って、榛を指さした。榛は部長とはタイプの違う先輩に驚いた。部長も先輩ではあったが、相手を委縮させない親しさがある。部長は口をゆるやかに曲げて笑い「そうだ。僕の助手をやってもらうことになった、三崎榛くんだ。恵くん、可愛がってやってくれたまえ」先輩相手に変わらぬ口調で話す部長にも、榛はあらためて驚いた。「よ、よろしくお願いしまーす」榛は言った。恵は静かに笑った。化学室前方の教師机に三人は座る。まだ授業でも使ったことのない部屋なので、榛は思わずあたりを観察してしまった。「かわいい子ね。いいもん見つけたじゃない、部長くん」恵は言った。部長は頷いて、「きみの言うとおりお買い得物件だったとも。何せ向こうから来てくれたからな。これでとりあえず部の存続人数には足りた。おかげで部活紹介に出て曲芸を披露する必要もなくなったな」部長はにこにこして言った。榛はまんまと引っぱりこまれた気がしたものの、他に入る部を考えたところで思い浮かばなかった。恵は眠そうな目で榛を見ながら、「まーでも、あたしはあと三カ月で辞めにゃあならんしね。今年は受験だからさ。ざーんねんむねん」そう言って意味もなく榛の頭を撫でて、にやっと笑った。老獪な猫のようだった。榛は背筋がぞくっとした。「ほほ、他の部員さんはいないんですか?」榛が訊くと部長が、「みんな名義だけ借りてる幽霊部員ばかりでなあ。滅多に顔を出さない」そう言って肩をすくめた。恵が立ちあがり、廊下側にある棚をがさごそ漁りだした。どこからともなくアルコールランプ一式を取り出した彼女は、細長いヤカンを取り出し、「まあお茶にしましょう。そのほうが話もはずむわ」そう言って、何かの儀式のように湯をわかした。あやしい魔女に見えて、榛は鳥肌が立った。「大丈夫だ榛くん、死にはしない」部長は榛の肩を叩いた。榛は部長を見る。部長はにっこり笑って榛に親指を立てた。「俺やっぱりかえ――」「待ちたまえ榛くん!」
そして三人はお茶を飲んだ。赤紫色のお茶だった。芳醇な香りがした。アルコールの匂いがした。一口飲むと、榛は酔ってへべれけになった。世界は回り、万物は流転した。榛は今なら大宇宙の真理に触れることすら容易であると思った。「恵さん策士っすねえ。いや、こりゃあ入部しちゃいますよ。えへへへ」蛸のように弛緩している榛を、恵は頬を赤くしながら、楽しそうに眺めていた。「すっごい弱いのねこの子」「僕もそう思っていたところだ」部長が言った。一切表情を変えない部長はめっぽう強かった。恵は榛に、
「私は草花の研究してるのよ。ほらあれ、夏休みの自由研究なんかであったっしょ、草花の色素見たり、あんなのの延長ねー。お茶もそのひとつよ」と言ってまた得体のしれない茶を飲み、「だから誰を酔わすもお手の物ってわけねー。榛くん、呪いたい相手ができたら言うといいわよ」部長がうんうん頷いた。「三年生は彼女のことをそのまんま『魔女』と呼んでいるらしいぞ。素敵な先輩だろう榛くん」榛はすっかり夢うつつになりながら、「ふへえほへえ。そうですねえ」と言って眠ってしまった。
「去年も仮入部希望者を骨抜きにしたんだけど、あんまり効果がなかったわね。もの好きしか入部しなかったわ」恵はそんな話をし、榛はうつらうつらしながら夢を見ていた。彼はまさに春の初めにいたのだ。
そうして科学クラブに入った榛は、部長とともに刺激に満ちた高校生活をスタートさせた。部長が科学クラブの父なら恵は母で、榛は生まれたての赤ん坊のようだった。榛は部長の助手として研究協力に駆り出されたが、初めは失敗ばかりだった。部長の計測機械を故障させるわ、ビーカーを片っ端から落っことして割るわ、恵がくれた茶をクラスメートに飲ませてしまい教師に叱られるわ。とにかく清々しいまでに榛はおっちょこちょいだった。しかし榛は謝りこそすれ、まったく落ち込んだりしなかった。それは彼の天性であり、得がたい長所だった。榛は生まれてこのかた怒ったことがなかった。「榛くん、きみの堪忍袋は宇宙より大きいのかい」と部長に言われても「堪忍袋って何ですか?」と言って周囲を唖然とさせたほどだった。
五月になる頃には、さすがに榛も助手を務めるのに慣れてきた。昼休みの終わりぎわ、「榛くん、五限目はエスケープだっ」と部長が言うと、「了解でありますっ」と榛は追従し、二人して自転車で駅のほうまで遊びに行ったりした。部長いわく、真昼間の駅の人口調査という名目だったが、駅近くのデパートにある本屋やら服屋やらCDショップやらを普通に見て回り、楽しむだけのことも多々あった。留年している部長は、留年しないための出席ラインを完璧にわきまえていた。そのためのガイドラインすら作っていて、榛はそれを見て思わず笑ってしまった。部長は、「榛くん! これはのちの学生のための貴重な資料となるものだぞ! これを部の遺産として残せば、後世の諸君はきっと僕の功績をありがたく受け止めることだろう。その頃に科学クラブが残ってないかもしれないというのはもっとだが」などと自分でツッコミを入れた。
おおむね楽しい日々だったが、榛にとって唯一気になったのが恵だった。放課後二日に一日の確率で顔を出す彼女は、いつも眠そうにしていた。じっさい、何もせずに教師机で眠って終わる日も多かった。なんでも、彼女はイラストを描くのが趣味のようで、それで夜遅くまで作業しているために、つい徹夜してしまうのだという。「予備校あるんだよね、この後。寝とかないとやーってらんない」そう言って机に突っ伏すと、恵は眠りはじめる。伸びさらしの髪と、傍らに置かれた黒い眼鏡。それらに西日が当たるのを、榛はよく部長の手伝いをしながら見ていた。「彼女はああいう人なんだ。己が道に全身全霊を傾ける、というかね。いい生き方さ」と部長は言った。榛は何度か恵のイラストを見せてもらったことがある。版権アニメやオリジナルのキャラクターが描かれていた。どれも深い色から淡い色まで見事に使い分けてあり、今すぐプロになれるのではないかと榛は思ったものだった。本人にそれを言うと、「無理むり、楽しいからやってられるわけね。仕事にしちゃったらそういうのって崩れちゃうの。だからー、私は普通にお嫁様にでもなるのが夢よ」と言われたのは意外だった。
中間テストが迫ってくると、榛は気が気じゃなくなった。はっきりいって何ひとつ勉強していなかった。しかし部長は、「赤点さえ取らなきゃ問題ないぞ榛くん」と言って榛を勇気づけた。「赤点しか取れる気がしないんですよう、部長」と榛は言った。そこで部長は最低限覚えるべき項目を、小学生が使うプリント問題のようにまとめて榛に渡し、「これを各教科の前日に一時間ずつでいいからやりたまえ」と言われたので榛はその通りにした。結果綺麗に赤点すれすれでハードルを飛び越えることに成功した。ほくほく顔の榛に、「ちなみに榛くん、平均点を狙うバージョンもあるのだが、期末にでもこちらを使ってみないか」と言うと榛は何の迷いもなく首を振った。榛は勉強が好きじゃなかった。
二人はとても自由に日々を過ごしていた。学校のある日はほとんど四六時中一緒にいたし、休日も連れだって博物館に出かけたりした。映画を見ることもあった。美術館はどうかと部長が誘ったこともあったが、「あんまりそういうの興味持てないんすよね」と言って断ってしまった。榛は音楽選択だったし、美術にはほとんど興味がなかった。
ゆいいつ彼の興味を引いたのは、ある日の全校朝礼だった。部長が何気なく出していた研究結果が認められ、近くにある研究所から礼状が届いた。それが読み上げられ、化学クラブの代表として部長と榛がステージに上がった。部長が表彰される間、榛は付き添いとして傍らに立っていた。その時、すぐ近くに別の表彰を待っている生徒を発見した。女子生徒で、背が低く、髪の短いかわいい子で、一見すると中学生にも見えた。彼女こそが夏原凪だった。榛は恋のキューピットが自分のハートにちくりと矢を刺したように思ったが、凪を一目見た男子生徒はみなそのような思いを一度は抱くのである。ともかく榛は凪に見とれていた。ふと目が合った。しかしすぐにそらされて榛はショックを受けた。海より深く落ち込んだ。凪が恥ずかしがり屋であり、極度の人見知りであることなどこの時の榛は知る由もなかった。榛が凪と話すのはこれから二年以上も後の話である。
凪が美術で賞をもらい表彰されたことを知ると、榛は部長にさっそく一目惚れまがいの興奮を打ち明けた。「夏原くんか。彼女の絵は素晴らしいともっぱらの評判だ。今度僕も見てみたいものだね」と、いつもと変わらぬ調子で反応されて、榛の意気は消沈してしまった。
それを放課後恵に話すと、「へー。そんな子がいるんだねえ。一年生か」と言って、眠そうに目をこすった。「めっちゃかわいいんですよ。俺びっくりしましたよ」目の前にレディがいても平気でそういうことを言えるのが榛のすごいところであった。「部長はあんまりそういうの興味ないのかなあ」部長が生徒会の部長会議に出ている日、榛が言うと、恵はにやりと笑い、「何言ってんの榛ちゃん。部長くんの女子からの人気はすさまじいのよー。二か月前のバレンタインなんか告白ラッシュだったんだから。何でもできるし、かっこいいしね。留年しちゃったけどさ。でもそれでいっそう箔がついたと私は思うわねー。そんなわけだから、むしろ相手に迷うくらいよ、彼は」そう言われて素直に納得できるくらいの魅力が部長にはあった。あれ以降、入部希望者がちらほら現れたが、部長はなぜかそれらを断った。榛がそのことを思い出していると、「でもね、部長くんはなーんかこう隠してる領域みたいなのがあんのよね。榛ちゃんも分かるっしょそういうの? きみだってお家にエッチな本のひとつやふたつ、それでなければパソコンにそういう画像を隠してたりすんじゃないの?」と言われて榛は盛大にうろたえた。「いやはやそんなことあるはずないじゃあないっすか、やだなあ先輩ははははは!」榛は嘘がつけなかった。恵は笑い、「まあそういう風にさ。部長くんにも何かあるのよねえ。まあ私は詳しく知らないし、知ろうとも思わないけど」そう言って恵は立ち上がり、「そんじゃたまには実験しよっかなー。榛ちゃん、つきあいなさい」と言われて榛はその後二時間人体実験の餌食になった。
隠している領域と言われても、この頃の榛には何ひとつピンとくるものはなかった。部長は部長で朗らか、爽やかな人だったし、榛は見たままの素敵な人だと思っていた。部長も人並みに迷い、傷つく人間だと榛が知ったのも二年以上後のことだった。凪とつき合うようになってから、部長は榛にも自分の迷いや悩みを打ち明けるようになった。榛はその日、心底部長――秋斗と本当に分かりあえる仲になったし、それ以降も長い間彼らの友情は続いていった。一年生のこの時期に、榛が部長のそんな迷いを知ってしまっていたら、彼らは無邪気に二年間過ごすことができなかったかもしれない。そうなれば、榛はもう少し早く内面的成長を遂げてしまったかもしれない。その場合、里央が榛に惹かれたかは分からない。すべてはつながっている。
しかし、高校一年六月の榛は、部長ではなく別の人物の迷いに触れることになった。それが他ならぬ恵であった。ある日の放課後、彼女は化学室でぼんやりと自分のつくった赤紫色の液体を眺めていた。「何ですかそれ?」榛がたずねると恵は、「んー? 惚れ薬ねー。これで若い男を骨抜きにすんの」と言った。「先輩が言うとあんまり冗談に聞こえないんですけど」「んじゃ試してみるー?」そう言って恵は血圧の低そうな笑みを浮かべた。榛は全力で否定した。そして、科学クラブ用の準備室からはんだごて一式を持ってきて、練習用の基板で使い方を復習していた。先日部長に覚えておけと言われたばかりだった。榛は昔から言われたことを受け身でやることに慣れていた。金属を溶かしてはつなぐ。三回に二回失敗する。不器用だった。
「ねえ榛ちゃん、きみは将来の夢とかあんの?」出しぬけに恵が言った。梅雨の到来を思わせる、気だるい声だった。榛は作業しながら、「あんまり、というかまったく考えてないっすねー」と生返事をした。恵はしばらく黙っていたが、「榛ちゃんさ、一回どっかでそういうの考えとくといいよー。それも進路とかじゃなくね。どう生きたいかみたいなことをさあ」「とりあえず先輩の学年になったら予備校言って、受けられそうなとこ受けて、通ったらそこ行きますよ」榛はさも当然のようにそう言った。この時の彼は、あらゆるものごとをまるで疑わずに過ごしていた。だからこそどこまでも脳天気ハッピーだった。
恵は窓の外で降り始めた小雨を見ながら、「うん、まーそうだよね。誰だってそうするわさ。ところで榛ちゃん。ほんとにこれ試す気ない?」恵はウッドスプーンを使って赤紫の液体をすくいあげた。榛がちらっと見ると、スプーンからゲル状の半透明な液体がしたたり落ちるところだった。「結構です」榛はそう言って作業に戻った。
「榛ちゃん、高校生活はめいっぱい楽しみなさいよ」恵は言ったが、榛ははんだごてに夢中だった。恵は笑った。間もなく部長が化学室に入ってきた。「やあやあ諸君! 元気にやっているかね」部長は東急ハンズの紙袋をどかりと机に置いて、恵と榛の間に座った。「恵くん、何だその眠たそうな顔は」部長が言うと、恵はひらひら手を振って、「いつもこうですよー私は。ああ眠いねむい」そう言うと本当に眠ってしまった。部長は目の前のビーカーに入った液体を見て、「む、何だこれは。いい香りだな。景気づけに一杯いただくか」そう言って別のピーカーに半分ほど移し替えて、飲んだ。榛は視線を釘付けにした。「どうした榛くん?」「いえ。部長……何ともないですか、それ?」部長はいつもと変わらぬ調子で頷いた。そして、唐突に立ち上がるとただならぬ様相で榛に近づいた。「榛くん、今すぐ結婚しよう!」榛は本能的に飛びあがって、後ろに身をよけた。「ぶ、部長?」「ふはは榛くん、僕はきみが好きだ! この世の誰よりもきみを愛している!」そう言うと部長は眼鏡を外し、少女漫画顔負けのきらきらした容貌をあらわにした。瞬間、榛は心を奪われそうになる。何という精神攻撃だろう! 部長は自分のルックスが同性にもどれだけ作用するか知っているのだ! それで俺に攻撃をしかけている! 榛は頭が混乱してきた。このまま直視していたのでは陥落してしまう。榛はすんでのところで視線をそらした。「どうした榛くん! 僕を正視するのが怖いのかこの青二才め!」などと情緒不安定な言葉をまき散らす部長はどう見ても正常ではなかった。「恵先輩! ちょっとどうずればいいんですかこれ!」しかし恵先輩は完徹二日目の朝みたいな勢いで眠り続けていた。実際徹夜したのかもしれない。榛は絶望した。ほとんど四六時中部長を頼っているため、こうなるとどうすればいいのか分からなかった。
「榛くんを抱きしめたい!」部長は榛に飛びかかってきた。榛は間一髪のところで両手をかいくぐる。榛の思考回路が珍しく速く回りだした。そんなことは一年に一回あればいいほうだった。部長には運動能力では絶対に勝てない。かといってものをぶつけて怪我させるようなことはしたくない。どうする三崎榛! 考えている間に榛は壁際に追いつめられていた。部長は危険な目つきをしていた。今ならば男でもいちころだと榛は思った。じさい、禁断の領域に足を踏み入れる誘惑が、さっきから榛を揺さぶり続けていた。このまま部長と恋に落ちてもいんじゃね? いやいやダメだ、そんなの絶対にダメ!
「オールアイニードイズ榛くん!」そう言って部長が飛び上がった。絶対絶命! すいませんお母さん、僕は同じ性別の相手に初めてを捧げなければならないようです。榛が懺悔しそうになったその時、部長の頭をバスケットボールのようにわしづかみにした人物――いつの間にか起きていた恵が、部長に見事なアイアンクローをかましてノックダウンした。闘う女の子って素敵だ……と榛はわけのわからない感想を抱いた。「同性愛はいつだって社会に阻まれる……がくっ」と捨て台詞を吐いて、部長は劇的に気絶した。「ああもう眠いんだから余計な体力使わせないで」恵は言って、両手をはたいた。「でもそれ先輩がつくっ」「榛ちゃん、うるさい男は嫌われるわよ」そのようにして放課後は終わった。
寸劇のせいで、部長が来る前に恵が言っていたことを、榛はすっかり忘れてしまっていた。それをまるで大事なことだと思わなかった。高校一年と三年とでは、取りまく世界があまりにも違いすぎた。榛も高校三年だったならまた違った話もできようが、この時の榛は幸せいっぱい夢いっぱいだったのである。
だから、それからしばらく恵が姿を見せなくなっても、榛は彼女が忙しいのかもしれないとしか思っていなかった。七月が近づいて、部長が「そういえば最近恵くんが姿を見せないな」と言って初めて、先日の彼女が言っていたことを思い出したのだった。「受験生になっちゃったんですかね」と榛は言った。部長はうなずき、「そうかもしれないな。寂しくなるよ」と答えた。
「僕のことは部長と呼んでくれ」と中田秋斗は言った。「どうして部長なんですか?」と榛が問うと、「先月から科学クラブに在籍しているんだが、人数がほとんどいない上に幽霊部員ばかりでね。僕が部長にならざるを得ないってわけさ。一年だけど実質二年みたいなものだから、元同学年の連中に押しつけられたといってもいいか。放課後来てみないかい?」「行きます! 部長」榛は即答した。部長といると何か楽しいことが起きそうで、榛はわくわくした。新学期、教室には初々しい風が吹き抜けていた。授業合間の休み時間、生徒たちはみな思い思いに話をしている。一週間、榛はいろいろな人と話したが、部長がもっとも楽しく、一緒にいて飽きなかった。彼はあらゆる科目においてとても優秀だった。榛が一度授業で当てられてピンチになった時など、助け船を出してくれた。部長はクラスメートからも人気を集めていて、特に女子などは勉強を教わりに早くも彼のもとへ集まるようになっていた。榛は部長を素直に尊敬していた。何でもできる人だ。そんな人と友達になれて榛は嬉しかった。自分が少し特別な存在になれた気がした。榛は自分をどこまでも普通だと自分で思っていたので、何もかも非凡な部長と一緒にいることは、榛にたえず高揚感をもたらせた。
その日の放課後、榛ははじめて科学クラブに顔を出した。そこには三年生の女子がいて、名前を桐生(きりう)恵(めぐみ)といった。茶色がかったセミロングの髪に、黒いセルロイドの眼鏡が似合う彼女は、榛にとってはずいぶん大人びて見えた。「何、この子。部長くんの知り合い?」恵は言って、榛を指さした。榛は部長とはタイプの違う先輩に驚いた。部長も先輩ではあったが、相手を委縮させない親しさがある。部長は口をゆるやかに曲げて笑い「そうだ。僕の助手をやってもらうことになった、三崎榛くんだ。恵くん、可愛がってやってくれたまえ」先輩相手に変わらぬ口調で話す部長にも、榛はあらためて驚いた。「よ、よろしくお願いしまーす」榛は言った。恵は静かに笑った。化学室前方の教師机に三人は座る。まだ授業でも使ったことのない部屋なので、榛は思わずあたりを観察してしまった。「かわいい子ね。いいもん見つけたじゃない、部長くん」恵は言った。部長は頷いて、「きみの言うとおりお買い得物件だったとも。何せ向こうから来てくれたからな。これでとりあえず部の存続人数には足りた。おかげで部活紹介に出て曲芸を披露する必要もなくなったな」部長はにこにこして言った。榛はまんまと引っぱりこまれた気がしたものの、他に入る部を考えたところで思い浮かばなかった。恵は眠そうな目で榛を見ながら、「まーでも、あたしはあと三カ月で辞めにゃあならんしね。今年は受験だからさ。ざーんねんむねん」そう言って意味もなく榛の頭を撫でて、にやっと笑った。老獪な猫のようだった。榛は背筋がぞくっとした。「ほほ、他の部員さんはいないんですか?」榛が訊くと部長が、「みんな名義だけ借りてる幽霊部員ばかりでなあ。滅多に顔を出さない」そう言って肩をすくめた。恵が立ちあがり、廊下側にある棚をがさごそ漁りだした。どこからともなくアルコールランプ一式を取り出した彼女は、細長いヤカンを取り出し、「まあお茶にしましょう。そのほうが話もはずむわ」そう言って、何かの儀式のように湯をわかした。あやしい魔女に見えて、榛は鳥肌が立った。「大丈夫だ榛くん、死にはしない」部長は榛の肩を叩いた。榛は部長を見る。部長はにっこり笑って榛に親指を立てた。「俺やっぱりかえ――」「待ちたまえ榛くん!」
そして三人はお茶を飲んだ。赤紫色のお茶だった。芳醇な香りがした。アルコールの匂いがした。一口飲むと、榛は酔ってへべれけになった。世界は回り、万物は流転した。榛は今なら大宇宙の真理に触れることすら容易であると思った。「恵さん策士っすねえ。いや、こりゃあ入部しちゃいますよ。えへへへ」蛸のように弛緩している榛を、恵は頬を赤くしながら、楽しそうに眺めていた。「すっごい弱いのねこの子」「僕もそう思っていたところだ」部長が言った。一切表情を変えない部長はめっぽう強かった。恵は榛に、
「私は草花の研究してるのよ。ほらあれ、夏休みの自由研究なんかであったっしょ、草花の色素見たり、あんなのの延長ねー。お茶もそのひとつよ」と言ってまた得体のしれない茶を飲み、「だから誰を酔わすもお手の物ってわけねー。榛くん、呪いたい相手ができたら言うといいわよ」部長がうんうん頷いた。「三年生は彼女のことをそのまんま『魔女』と呼んでいるらしいぞ。素敵な先輩だろう榛くん」榛はすっかり夢うつつになりながら、「ふへえほへえ。そうですねえ」と言って眠ってしまった。
「去年も仮入部希望者を骨抜きにしたんだけど、あんまり効果がなかったわね。もの好きしか入部しなかったわ」恵はそんな話をし、榛はうつらうつらしながら夢を見ていた。彼はまさに春の初めにいたのだ。
そうして科学クラブに入った榛は、部長とともに刺激に満ちた高校生活をスタートさせた。部長が科学クラブの父なら恵は母で、榛は生まれたての赤ん坊のようだった。榛は部長の助手として研究協力に駆り出されたが、初めは失敗ばかりだった。部長の計測機械を故障させるわ、ビーカーを片っ端から落っことして割るわ、恵がくれた茶をクラスメートに飲ませてしまい教師に叱られるわ。とにかく清々しいまでに榛はおっちょこちょいだった。しかし榛は謝りこそすれ、まったく落ち込んだりしなかった。それは彼の天性であり、得がたい長所だった。榛は生まれてこのかた怒ったことがなかった。「榛くん、きみの堪忍袋は宇宙より大きいのかい」と部長に言われても「堪忍袋って何ですか?」と言って周囲を唖然とさせたほどだった。
五月になる頃には、さすがに榛も助手を務めるのに慣れてきた。昼休みの終わりぎわ、「榛くん、五限目はエスケープだっ」と部長が言うと、「了解でありますっ」と榛は追従し、二人して自転車で駅のほうまで遊びに行ったりした。部長いわく、真昼間の駅の人口調査という名目だったが、駅近くのデパートにある本屋やら服屋やらCDショップやらを普通に見て回り、楽しむだけのことも多々あった。留年している部長は、留年しないための出席ラインを完璧にわきまえていた。そのためのガイドラインすら作っていて、榛はそれを見て思わず笑ってしまった。部長は、「榛くん! これはのちの学生のための貴重な資料となるものだぞ! これを部の遺産として残せば、後世の諸君はきっと僕の功績をありがたく受け止めることだろう。その頃に科学クラブが残ってないかもしれないというのはもっとだが」などと自分でツッコミを入れた。
おおむね楽しい日々だったが、榛にとって唯一気になったのが恵だった。放課後二日に一日の確率で顔を出す彼女は、いつも眠そうにしていた。じっさい、何もせずに教師机で眠って終わる日も多かった。なんでも、彼女はイラストを描くのが趣味のようで、それで夜遅くまで作業しているために、つい徹夜してしまうのだという。「予備校あるんだよね、この後。寝とかないとやーってらんない」そう言って机に突っ伏すと、恵は眠りはじめる。伸びさらしの髪と、傍らに置かれた黒い眼鏡。それらに西日が当たるのを、榛はよく部長の手伝いをしながら見ていた。「彼女はああいう人なんだ。己が道に全身全霊を傾ける、というかね。いい生き方さ」と部長は言った。榛は何度か恵のイラストを見せてもらったことがある。版権アニメやオリジナルのキャラクターが描かれていた。どれも深い色から淡い色まで見事に使い分けてあり、今すぐプロになれるのではないかと榛は思ったものだった。本人にそれを言うと、「無理むり、楽しいからやってられるわけね。仕事にしちゃったらそういうのって崩れちゃうの。だからー、私は普通にお嫁様にでもなるのが夢よ」と言われたのは意外だった。
中間テストが迫ってくると、榛は気が気じゃなくなった。はっきりいって何ひとつ勉強していなかった。しかし部長は、「赤点さえ取らなきゃ問題ないぞ榛くん」と言って榛を勇気づけた。「赤点しか取れる気がしないんですよう、部長」と榛は言った。そこで部長は最低限覚えるべき項目を、小学生が使うプリント問題のようにまとめて榛に渡し、「これを各教科の前日に一時間ずつでいいからやりたまえ」と言われたので榛はその通りにした。結果綺麗に赤点すれすれでハードルを飛び越えることに成功した。ほくほく顔の榛に、「ちなみに榛くん、平均点を狙うバージョンもあるのだが、期末にでもこちらを使ってみないか」と言うと榛は何の迷いもなく首を振った。榛は勉強が好きじゃなかった。
二人はとても自由に日々を過ごしていた。学校のある日はほとんど四六時中一緒にいたし、休日も連れだって博物館に出かけたりした。映画を見ることもあった。美術館はどうかと部長が誘ったこともあったが、「あんまりそういうの興味持てないんすよね」と言って断ってしまった。榛は音楽選択だったし、美術にはほとんど興味がなかった。
ゆいいつ彼の興味を引いたのは、ある日の全校朝礼だった。部長が何気なく出していた研究結果が認められ、近くにある研究所から礼状が届いた。それが読み上げられ、化学クラブの代表として部長と榛がステージに上がった。部長が表彰される間、榛は付き添いとして傍らに立っていた。その時、すぐ近くに別の表彰を待っている生徒を発見した。女子生徒で、背が低く、髪の短いかわいい子で、一見すると中学生にも見えた。彼女こそが夏原凪だった。榛は恋のキューピットが自分のハートにちくりと矢を刺したように思ったが、凪を一目見た男子生徒はみなそのような思いを一度は抱くのである。ともかく榛は凪に見とれていた。ふと目が合った。しかしすぐにそらされて榛はショックを受けた。海より深く落ち込んだ。凪が恥ずかしがり屋であり、極度の人見知りであることなどこの時の榛は知る由もなかった。榛が凪と話すのはこれから二年以上も後の話である。
凪が美術で賞をもらい表彰されたことを知ると、榛は部長にさっそく一目惚れまがいの興奮を打ち明けた。「夏原くんか。彼女の絵は素晴らしいともっぱらの評判だ。今度僕も見てみたいものだね」と、いつもと変わらぬ調子で反応されて、榛の意気は消沈してしまった。
それを放課後恵に話すと、「へー。そんな子がいるんだねえ。一年生か」と言って、眠そうに目をこすった。「めっちゃかわいいんですよ。俺びっくりしましたよ」目の前にレディがいても平気でそういうことを言えるのが榛のすごいところであった。「部長はあんまりそういうの興味ないのかなあ」部長が生徒会の部長会議に出ている日、榛が言うと、恵はにやりと笑い、「何言ってんの榛ちゃん。部長くんの女子からの人気はすさまじいのよー。二か月前のバレンタインなんか告白ラッシュだったんだから。何でもできるし、かっこいいしね。留年しちゃったけどさ。でもそれでいっそう箔がついたと私は思うわねー。そんなわけだから、むしろ相手に迷うくらいよ、彼は」そう言われて素直に納得できるくらいの魅力が部長にはあった。あれ以降、入部希望者がちらほら現れたが、部長はなぜかそれらを断った。榛がそのことを思い出していると、「でもね、部長くんはなーんかこう隠してる領域みたいなのがあんのよね。榛ちゃんも分かるっしょそういうの? きみだってお家にエッチな本のひとつやふたつ、それでなければパソコンにそういう画像を隠してたりすんじゃないの?」と言われて榛は盛大にうろたえた。「いやはやそんなことあるはずないじゃあないっすか、やだなあ先輩ははははは!」榛は嘘がつけなかった。恵は笑い、「まあそういう風にさ。部長くんにも何かあるのよねえ。まあ私は詳しく知らないし、知ろうとも思わないけど」そう言って恵は立ち上がり、「そんじゃたまには実験しよっかなー。榛ちゃん、つきあいなさい」と言われて榛はその後二時間人体実験の餌食になった。
隠している領域と言われても、この頃の榛には何ひとつピンとくるものはなかった。部長は部長で朗らか、爽やかな人だったし、榛は見たままの素敵な人だと思っていた。部長も人並みに迷い、傷つく人間だと榛が知ったのも二年以上後のことだった。凪とつき合うようになってから、部長は榛にも自分の迷いや悩みを打ち明けるようになった。榛はその日、心底部長――秋斗と本当に分かりあえる仲になったし、それ以降も長い間彼らの友情は続いていった。一年生のこの時期に、榛が部長のそんな迷いを知ってしまっていたら、彼らは無邪気に二年間過ごすことができなかったかもしれない。そうなれば、榛はもう少し早く内面的成長を遂げてしまったかもしれない。その場合、里央が榛に惹かれたかは分からない。すべてはつながっている。
しかし、高校一年六月の榛は、部長ではなく別の人物の迷いに触れることになった。それが他ならぬ恵であった。ある日の放課後、彼女は化学室でぼんやりと自分のつくった赤紫色の液体を眺めていた。「何ですかそれ?」榛がたずねると恵は、「んー? 惚れ薬ねー。これで若い男を骨抜きにすんの」と言った。「先輩が言うとあんまり冗談に聞こえないんですけど」「んじゃ試してみるー?」そう言って恵は血圧の低そうな笑みを浮かべた。榛は全力で否定した。そして、科学クラブ用の準備室からはんだごて一式を持ってきて、練習用の基板で使い方を復習していた。先日部長に覚えておけと言われたばかりだった。榛は昔から言われたことを受け身でやることに慣れていた。金属を溶かしてはつなぐ。三回に二回失敗する。不器用だった。
「ねえ榛ちゃん、きみは将来の夢とかあんの?」出しぬけに恵が言った。梅雨の到来を思わせる、気だるい声だった。榛は作業しながら、「あんまり、というかまったく考えてないっすねー」と生返事をした。恵はしばらく黙っていたが、「榛ちゃんさ、一回どっかでそういうの考えとくといいよー。それも進路とかじゃなくね。どう生きたいかみたいなことをさあ」「とりあえず先輩の学年になったら予備校言って、受けられそうなとこ受けて、通ったらそこ行きますよ」榛はさも当然のようにそう言った。この時の彼は、あらゆるものごとをまるで疑わずに過ごしていた。だからこそどこまでも脳天気ハッピーだった。
恵は窓の外で降り始めた小雨を見ながら、「うん、まーそうだよね。誰だってそうするわさ。ところで榛ちゃん。ほんとにこれ試す気ない?」恵はウッドスプーンを使って赤紫の液体をすくいあげた。榛がちらっと見ると、スプーンからゲル状の半透明な液体がしたたり落ちるところだった。「結構です」榛はそう言って作業に戻った。
「榛ちゃん、高校生活はめいっぱい楽しみなさいよ」恵は言ったが、榛ははんだごてに夢中だった。恵は笑った。間もなく部長が化学室に入ってきた。「やあやあ諸君! 元気にやっているかね」部長は東急ハンズの紙袋をどかりと机に置いて、恵と榛の間に座った。「恵くん、何だその眠たそうな顔は」部長が言うと、恵はひらひら手を振って、「いつもこうですよー私は。ああ眠いねむい」そう言うと本当に眠ってしまった。部長は目の前のビーカーに入った液体を見て、「む、何だこれは。いい香りだな。景気づけに一杯いただくか」そう言って別のピーカーに半分ほど移し替えて、飲んだ。榛は視線を釘付けにした。「どうした榛くん?」「いえ。部長……何ともないですか、それ?」部長はいつもと変わらぬ調子で頷いた。そして、唐突に立ち上がるとただならぬ様相で榛に近づいた。「榛くん、今すぐ結婚しよう!」榛は本能的に飛びあがって、後ろに身をよけた。「ぶ、部長?」「ふはは榛くん、僕はきみが好きだ! この世の誰よりもきみを愛している!」そう言うと部長は眼鏡を外し、少女漫画顔負けのきらきらした容貌をあらわにした。瞬間、榛は心を奪われそうになる。何という精神攻撃だろう! 部長は自分のルックスが同性にもどれだけ作用するか知っているのだ! それで俺に攻撃をしかけている! 榛は頭が混乱してきた。このまま直視していたのでは陥落してしまう。榛はすんでのところで視線をそらした。「どうした榛くん! 僕を正視するのが怖いのかこの青二才め!」などと情緒不安定な言葉をまき散らす部長はどう見ても正常ではなかった。「恵先輩! ちょっとどうずればいいんですかこれ!」しかし恵先輩は完徹二日目の朝みたいな勢いで眠り続けていた。実際徹夜したのかもしれない。榛は絶望した。ほとんど四六時中部長を頼っているため、こうなるとどうすればいいのか分からなかった。
「榛くんを抱きしめたい!」部長は榛に飛びかかってきた。榛は間一髪のところで両手をかいくぐる。榛の思考回路が珍しく速く回りだした。そんなことは一年に一回あればいいほうだった。部長には運動能力では絶対に勝てない。かといってものをぶつけて怪我させるようなことはしたくない。どうする三崎榛! 考えている間に榛は壁際に追いつめられていた。部長は危険な目つきをしていた。今ならば男でもいちころだと榛は思った。じさい、禁断の領域に足を踏み入れる誘惑が、さっきから榛を揺さぶり続けていた。このまま部長と恋に落ちてもいんじゃね? いやいやダメだ、そんなの絶対にダメ!
「オールアイニードイズ榛くん!」そう言って部長が飛び上がった。絶対絶命! すいませんお母さん、僕は同じ性別の相手に初めてを捧げなければならないようです。榛が懺悔しそうになったその時、部長の頭をバスケットボールのようにわしづかみにした人物――いつの間にか起きていた恵が、部長に見事なアイアンクローをかましてノックダウンした。闘う女の子って素敵だ……と榛はわけのわからない感想を抱いた。「同性愛はいつだって社会に阻まれる……がくっ」と捨て台詞を吐いて、部長は劇的に気絶した。「ああもう眠いんだから余計な体力使わせないで」恵は言って、両手をはたいた。「でもそれ先輩がつくっ」「榛ちゃん、うるさい男は嫌われるわよ」そのようにして放課後は終わった。
寸劇のせいで、部長が来る前に恵が言っていたことを、榛はすっかり忘れてしまっていた。それをまるで大事なことだと思わなかった。高校一年と三年とでは、取りまく世界があまりにも違いすぎた。榛も高校三年だったならまた違った話もできようが、この時の榛は幸せいっぱい夢いっぱいだったのである。
だから、それからしばらく恵が姿を見せなくなっても、榛は彼女が忙しいのかもしれないとしか思っていなかった。七月が近づいて、部長が「そういえば最近恵くんが姿を見せないな」と言って初めて、先日の彼女が言っていたことを思い出したのだった。「受験生になっちゃったんですかね」と榛は言った。部長はうなずき、「そうかもしれないな。寂しくなるよ」と答えた。
恵が部活だけではなく学校にも来ていないと分かったのはその二日後だった。それに気づいたのは部長だった。「何でも二週間以上、連絡もないまま不登校らしい」「どうして分かったんですか?」榛が訊くと、「研究コンクールの案内が来ていたから、最後にもう一度出ないか、彼女のクラスまで訊きに行ったんだ。そうしたら、しばらく学校に来ていないと分かったというわけさ」
梅雨が続いていた。暗い曇り空に、雨がしとしとと降り続いていた。二人はクラスメートから恵の家を訊いて、彼女を訪ねに行った。すぐ近くだった。雨だったので歩いた。榛の驚いたことに、彼女は一人暮らしをしているようだった。家庭の事情らしいが、クラスメートの話からは詳しいことが分からなかった。「あの子、友達を家に呼びたがらないのよ」榛と部長がワンルームマンションに着いて、オートロックの番号を押すと、彼女ではなく知らない男の人が出た。「きみたちは誰だい?」そう訊かれると、部長は流暢な会話で事情を告げた。扉が開いて、榛たちは上がることを許可された。玄関に出たのも男性だった。スーツ姿で、年齢は二十代後半に見えた。「どうも、鈴木です」と彼は言った。部長が自己紹介する。「中田秋斗です。こちらは三崎榛くん。桐生さんとは同じ部の生徒同士です」対外的な口調で話す時の部長は、ずいぶん大人びて見え、榛にはまるで知らない人のようだった。鈴木は扉を閉め、「すこし外で話しましょう」と言って、二人を外へうながした。三人は傘をさして、近くの喫茶店に向かった。
喫茶店は古びていて、ずいぶん古い音楽がかかっていた。マスターは頑固そうな老人で、ウェイターは若い青年だった。三人は紅茶とコーヒーを注文して席に座った。榛は鈴木を観察した。少し疲れた雰囲気はあったが、まだまだ若い青年だった。スーツに初々しさはないから、やはり働きだして何年か経っているのだろう。「私は恵と一緒に暮らしています」と彼は言った。「あのマンションは私が借りていて、彼女は二年近く住んでいる」
榛は驚いた。今の今まで、恵は普通の家庭に暮らしていると思い込んでいたからだ。何の根拠もなかったが、それ以外の可能性を榛は一切考えなかった。彼は子どもだった。
「彼女は家出しているんです。家を出たのは、たしか中学が終わる頃だったと思います。私たちはネットで絵を介して知り合いました。彼女が高校に上がってから頻繁に会うようになって、その年の秋には一緒に住むように」鈴木は言って、煙草に火をつけた。榛は煙がうっとうしかった。ウェイターの青年がカップを運んできた。榛と鈴木の中間くらいの歳に見えた。彼のほうがずっと明るい表情をしていた。ウェイターが去ると鈴木は、
「彼女はイラストレーターになろうとしていました。中学の頃にはもうなかなかの腕前になっていましたから。私が仕事の依頼をしたのはその頃です」
「仕事の?」部長が言った。鈴木は名刺を取り出し、「言い忘れていましたが、私は出版社で働いています。キャラクターを扱った商品に携わっているので、その方面の描き手さんに仕事を頼むことがよくあるんです」話を聞く部長は、教師と真面目に話す時のような顔をしていた。榛はそういう部長に慣れていなかったので、どこか居心地が悪かった。
「恵とは一度打ち合わせで会いました。普通ならネットのやり取りだけでも済むんですが、彼女が希望して」鈴木はテーブルの上を気だるそうに見つめ、「その時に『絵で生計を立てることはできないか』と言われました。こちらとしては一点ものの依頼だったので、それは難しいと言いました。よほど人気のある描き手さんでないと厳しいですから。彼女の絵は確かに達者ですが、同じような絵を描ける人はたくさんいます」榛は帰りたくなってきた。どうしてこんな話を聞かなければならないのかと思い始めた。しかし部長は真剣に鈴木の話を聞いていた。
「彼女は親を嫌っていました。放埓な生活をしているようで、恵にもきつくあたることが多かったようです。彼女には単発の依頼を何度かして、その後も数回会って話をしました。今すぐにでも家を飛び出したいと言っているのを聞いて、私は彼女を家に来させることにしました。あまり詳しく話すと長くなるので省きますが。……信じてもらえるか分かりませんが、やましいことはしていません」
榛は頭がぼうっとしてきた。なかば本能のように、彼の意識は現実に関する話題を遠ざけようとしていた。
「恵はそれでもイラストレーターになりたがっていました。たくさん練習していましたし、高校の間に、依頼される仕事の数も増えました。この半年では、自立していけるだけの稼ぎすら得られるようになりました」鈴木は吸っていた煙草の火を灰皿で消した。榛は頭の中が灰色になっていく感じがした。「しかし、それでずっと生活していけるかというとそうではありません。私はそういう実情を知っています。だから恵を説得しようとしました。何も本業にしなくていい。今からでも勉強して、普通に進学すればいいと。そのための費用を私が出してもいいと思いました。さいわい独身です。それに人より稼ぎもあります。新卒の頃に住んだ場所から越していないし、蓄えもずいぶんある。出張は多いですが転勤は少ない。彼女が一人きりで生きようとするよりはよほど現実的です。なんならいずれは結婚したっていい」
「なぜそこまでしてあげられるんですか?」部長が言った。表情が少し硬くなっていたのを榛は覚えている。
「彼女の気持ちに打たれるからです。恵は情熱も夢も実力もありますが、やはりまだ子どもです。しかし、私にもそういう夢を持つ時期がありましたから、そう思う彼女を理解できる」三人ともほとんど飲み物に手をつけていなかった。
「それに、大学を出ればもっと現実的な選択肢をえらぶこともできます。何も今無理をする必要はない。社会は個人が思い描いたことを叶えてくれる場所ではありませんから」
部長と榛が何も言わずにいると、「この数日は、彼女とそうした将来のことについて話し合っていました。衝突もしましたが、もっと先に傷つくよりずっといいと私は思います」
喫茶店を出ると、榛と部長は鈴木から部屋の鍵を受け取った。「私は仕事に行きます。鍵は彼女に渡しておいてください。部屋にいるはずです」
鈴木と別れた二人はマンションに戻り、オートロックを解錠して部屋に向かった。「恵くんにも迷いがあったんだな」と部長が言った。「そうですね」としか榛は言えなかった。彼はまだ帰りたい気持ちを捨てられずにいた。
「よーお二人さん」と言って恵はドアを開けた。黒い眼鏡の向こうから、いつものだるぞうな目がこちらを見ていた。「待ってた待ってた。まあ入っておくんなまし。っても私の部屋じゃないけどさ」室内は綺麗だった。家具の色調が統一され、几帳面な男性の部屋、という感じだったが、ところどころに恵のものと思しきサブカルチャーのグッズが置いてあった。彼女が描いたイラストがガラステーブルの上に何枚か置いてあった。黒いソファに榛と部長が座ると、恵はお茶の準備をはじめた。「紅茶でいい?」「ああ。すまない」と部長は言った。「いいっていいって。この前変なもの飲ましたしねー」恵は笑った。
三人分の紅茶が置かれた。今度は榛も部長も手をつけた。梅雨冷えの日に、身体がじんわりと温まった。「あの人から聞いた?」と恵は言った。部長が頷く。恵はテーブルを見つめ「そっか……。まあそういうこと。色々考えてたら学校行くの忘れてた、はははは」そう言っておどけてみせた。
「どうするか決めたのかい」部長は言った。恵は羽織っていたパーカーの袖でカップを包みながら、「うん。あの人に頼るのは悔しいけど、大学に行くよ。『イラストレーターになるとしても、他の知識を持っていることはきみにとってプラスになる』だって。優等生みたいな意見。私だって分かってるのよ。何十年も続けられるものじゃないってことくらい。でもね、私は描くことがやめられないんだ。それがなくなったら私じゃなくなっちゃーう、みたいな。部長くんなら分かるかしら?」恵が首を傾けると、部長は頷いた。
「そういうものは手放すべきではない」部長が言った。恵は力なく笑う。「部長くんも意地悪だなあ。もう分かってるよ、そんなの。それで苦しんでたのにさ」
「僕にもある。きみも知っているだろう」部長は笑っていた。
「発明か。それでダブッちゃうくらいだもんね。狂ってるよ部長くん」恵はカップを置いた。部長は危うい調子で目を細めた。「過去にはもう少し過激なこともしたぞ。僕は服従することが大嫌いだからな」
「私は部長くんほど強くなれないなー」そう言うと、恵は前触れなく榛を撫でた。榛はびっくりして飛び上がり、「なな、何すんですか!」と言った。恵はにやにやしながら、「前から榛ちゃん撫でたかったのよね。ほーれほれ」そういってもっと撫でた。愛玩動物のように扱われた榛はいつもの調子を取り戻した。「やめてくださいよ先輩!」「あははは」
部長は紅茶を飲んで、こう言った。「なに。きみは十分強いとも。だって家を飛び出したじゃないか。こうやって別の人のところに世話になることすらできない奴だっているだろう、そんな意気地無しに比べればずっと立派だよ、恵くん」
恵は結局、鈴木の援助を受けて大学へ行くことを決めた。予備校の費用なども彼が持つのだという。「正直言って、彼がいつまでそんな風に私を助けてくれるのか分からないし、先のことなんて全然見えないけどね。……でも感謝してる」夏休み前、ひょっこり部活に顔を出した恵は、少し照れながらそう言った。榛はあの場で鈴木の話を聞いている時こそつらかったが、今は恵がうまくいけばいいとだけ願っていた。きっと二人は何度となくぶつかったのだと思う。それで今がある。「榛ちゃん、私が言ってたこと、ちょっとは分かったかなー? 将来について考えておいて損はないわって話ね」恵は笑った。榛はうなずいた。
「屋上に行こう。できあがったばかりの発明品がある」と部長が行って、三人は化学室を出て階段を上がった。梅雨明け間近の空はよく晴れていた。夏の日差しがまぶしかった。遠くの街並までがきらきらと輝いていた。「恵くん、この装置を頭につけたまえ」と部長は言って、銀色のティアラのような機械を取り出した。「なあにこれ? 私をお姫様にでもするつもりかしら?」恵はそう言いながら、冠をかぶった。日頃飾り気のない彼女に、それはずいぶん似合っていた。彼女が身につけることを想定して制作したようですらあった。榛が部長を見ると、こほんと咳払いして、「とりいだしましたるは、人類の空への憧れ、機械の翼」と言って、春に見た小型ヘリコプターを地面に置いた。
「さあ恵くん。何でもいい、強く願いたまえ」部長は空に向けて手を広げた。恵はきょとんとして部長を見ていた。榛と目が合った。榛はうなずいた。恵は両手を合わせて、何かを強く願った。言葉をつぶやいているようにも見えたが、榛に聞きとることはできなかった。小型ヘリコプターがすっ、と浮上して、ゆるやかに空へと飛んでいく。「わあ」と恵は言った。部長は、「ついに完成したのだ、念力コプター!」相変わらずネーミングセンスはさんざんだったが、恵の願いは空を飛び、高いところまで舞い上がった。
「部長くんは本当にこういうの好きよねえ」恵は笑った。「榛ちゃん、またえらく長いこと付き合わされたんでしょう? これ」榛は頷いた。
「ありがとう」と恵は言った。
夏の空に、不可能なことなど何もない。
梅雨が続いていた。暗い曇り空に、雨がしとしとと降り続いていた。二人はクラスメートから恵の家を訊いて、彼女を訪ねに行った。すぐ近くだった。雨だったので歩いた。榛の驚いたことに、彼女は一人暮らしをしているようだった。家庭の事情らしいが、クラスメートの話からは詳しいことが分からなかった。「あの子、友達を家に呼びたがらないのよ」榛と部長がワンルームマンションに着いて、オートロックの番号を押すと、彼女ではなく知らない男の人が出た。「きみたちは誰だい?」そう訊かれると、部長は流暢な会話で事情を告げた。扉が開いて、榛たちは上がることを許可された。玄関に出たのも男性だった。スーツ姿で、年齢は二十代後半に見えた。「どうも、鈴木です」と彼は言った。部長が自己紹介する。「中田秋斗です。こちらは三崎榛くん。桐生さんとは同じ部の生徒同士です」対外的な口調で話す時の部長は、ずいぶん大人びて見え、榛にはまるで知らない人のようだった。鈴木は扉を閉め、「すこし外で話しましょう」と言って、二人を外へうながした。三人は傘をさして、近くの喫茶店に向かった。
喫茶店は古びていて、ずいぶん古い音楽がかかっていた。マスターは頑固そうな老人で、ウェイターは若い青年だった。三人は紅茶とコーヒーを注文して席に座った。榛は鈴木を観察した。少し疲れた雰囲気はあったが、まだまだ若い青年だった。スーツに初々しさはないから、やはり働きだして何年か経っているのだろう。「私は恵と一緒に暮らしています」と彼は言った。「あのマンションは私が借りていて、彼女は二年近く住んでいる」
榛は驚いた。今の今まで、恵は普通の家庭に暮らしていると思い込んでいたからだ。何の根拠もなかったが、それ以外の可能性を榛は一切考えなかった。彼は子どもだった。
「彼女は家出しているんです。家を出たのは、たしか中学が終わる頃だったと思います。私たちはネットで絵を介して知り合いました。彼女が高校に上がってから頻繁に会うようになって、その年の秋には一緒に住むように」鈴木は言って、煙草に火をつけた。榛は煙がうっとうしかった。ウェイターの青年がカップを運んできた。榛と鈴木の中間くらいの歳に見えた。彼のほうがずっと明るい表情をしていた。ウェイターが去ると鈴木は、
「彼女はイラストレーターになろうとしていました。中学の頃にはもうなかなかの腕前になっていましたから。私が仕事の依頼をしたのはその頃です」
「仕事の?」部長が言った。鈴木は名刺を取り出し、「言い忘れていましたが、私は出版社で働いています。キャラクターを扱った商品に携わっているので、その方面の描き手さんに仕事を頼むことがよくあるんです」話を聞く部長は、教師と真面目に話す時のような顔をしていた。榛はそういう部長に慣れていなかったので、どこか居心地が悪かった。
「恵とは一度打ち合わせで会いました。普通ならネットのやり取りだけでも済むんですが、彼女が希望して」鈴木はテーブルの上を気だるそうに見つめ、「その時に『絵で生計を立てることはできないか』と言われました。こちらとしては一点ものの依頼だったので、それは難しいと言いました。よほど人気のある描き手さんでないと厳しいですから。彼女の絵は確かに達者ですが、同じような絵を描ける人はたくさんいます」榛は帰りたくなってきた。どうしてこんな話を聞かなければならないのかと思い始めた。しかし部長は真剣に鈴木の話を聞いていた。
「彼女は親を嫌っていました。放埓な生活をしているようで、恵にもきつくあたることが多かったようです。彼女には単発の依頼を何度かして、その後も数回会って話をしました。今すぐにでも家を飛び出したいと言っているのを聞いて、私は彼女を家に来させることにしました。あまり詳しく話すと長くなるので省きますが。……信じてもらえるか分かりませんが、やましいことはしていません」
榛は頭がぼうっとしてきた。なかば本能のように、彼の意識は現実に関する話題を遠ざけようとしていた。
「恵はそれでもイラストレーターになりたがっていました。たくさん練習していましたし、高校の間に、依頼される仕事の数も増えました。この半年では、自立していけるだけの稼ぎすら得られるようになりました」鈴木は吸っていた煙草の火を灰皿で消した。榛は頭の中が灰色になっていく感じがした。「しかし、それでずっと生活していけるかというとそうではありません。私はそういう実情を知っています。だから恵を説得しようとしました。何も本業にしなくていい。今からでも勉強して、普通に進学すればいいと。そのための費用を私が出してもいいと思いました。さいわい独身です。それに人より稼ぎもあります。新卒の頃に住んだ場所から越していないし、蓄えもずいぶんある。出張は多いですが転勤は少ない。彼女が一人きりで生きようとするよりはよほど現実的です。なんならいずれは結婚したっていい」
「なぜそこまでしてあげられるんですか?」部長が言った。表情が少し硬くなっていたのを榛は覚えている。
「彼女の気持ちに打たれるからです。恵は情熱も夢も実力もありますが、やはりまだ子どもです。しかし、私にもそういう夢を持つ時期がありましたから、そう思う彼女を理解できる」三人ともほとんど飲み物に手をつけていなかった。
「それに、大学を出ればもっと現実的な選択肢をえらぶこともできます。何も今無理をする必要はない。社会は個人が思い描いたことを叶えてくれる場所ではありませんから」
部長と榛が何も言わずにいると、「この数日は、彼女とそうした将来のことについて話し合っていました。衝突もしましたが、もっと先に傷つくよりずっといいと私は思います」
喫茶店を出ると、榛と部長は鈴木から部屋の鍵を受け取った。「私は仕事に行きます。鍵は彼女に渡しておいてください。部屋にいるはずです」
鈴木と別れた二人はマンションに戻り、オートロックを解錠して部屋に向かった。「恵くんにも迷いがあったんだな」と部長が言った。「そうですね」としか榛は言えなかった。彼はまだ帰りたい気持ちを捨てられずにいた。
「よーお二人さん」と言って恵はドアを開けた。黒い眼鏡の向こうから、いつものだるぞうな目がこちらを見ていた。「待ってた待ってた。まあ入っておくんなまし。っても私の部屋じゃないけどさ」室内は綺麗だった。家具の色調が統一され、几帳面な男性の部屋、という感じだったが、ところどころに恵のものと思しきサブカルチャーのグッズが置いてあった。彼女が描いたイラストがガラステーブルの上に何枚か置いてあった。黒いソファに榛と部長が座ると、恵はお茶の準備をはじめた。「紅茶でいい?」「ああ。すまない」と部長は言った。「いいっていいって。この前変なもの飲ましたしねー」恵は笑った。
三人分の紅茶が置かれた。今度は榛も部長も手をつけた。梅雨冷えの日に、身体がじんわりと温まった。「あの人から聞いた?」と恵は言った。部長が頷く。恵はテーブルを見つめ「そっか……。まあそういうこと。色々考えてたら学校行くの忘れてた、はははは」そう言っておどけてみせた。
「どうするか決めたのかい」部長は言った。恵は羽織っていたパーカーの袖でカップを包みながら、「うん。あの人に頼るのは悔しいけど、大学に行くよ。『イラストレーターになるとしても、他の知識を持っていることはきみにとってプラスになる』だって。優等生みたいな意見。私だって分かってるのよ。何十年も続けられるものじゃないってことくらい。でもね、私は描くことがやめられないんだ。それがなくなったら私じゃなくなっちゃーう、みたいな。部長くんなら分かるかしら?」恵が首を傾けると、部長は頷いた。
「そういうものは手放すべきではない」部長が言った。恵は力なく笑う。「部長くんも意地悪だなあ。もう分かってるよ、そんなの。それで苦しんでたのにさ」
「僕にもある。きみも知っているだろう」部長は笑っていた。
「発明か。それでダブッちゃうくらいだもんね。狂ってるよ部長くん」恵はカップを置いた。部長は危うい調子で目を細めた。「過去にはもう少し過激なこともしたぞ。僕は服従することが大嫌いだからな」
「私は部長くんほど強くなれないなー」そう言うと、恵は前触れなく榛を撫でた。榛はびっくりして飛び上がり、「なな、何すんですか!」と言った。恵はにやにやしながら、「前から榛ちゃん撫でたかったのよね。ほーれほれ」そういってもっと撫でた。愛玩動物のように扱われた榛はいつもの調子を取り戻した。「やめてくださいよ先輩!」「あははは」
部長は紅茶を飲んで、こう言った。「なに。きみは十分強いとも。だって家を飛び出したじゃないか。こうやって別の人のところに世話になることすらできない奴だっているだろう、そんな意気地無しに比べればずっと立派だよ、恵くん」
恵は結局、鈴木の援助を受けて大学へ行くことを決めた。予備校の費用なども彼が持つのだという。「正直言って、彼がいつまでそんな風に私を助けてくれるのか分からないし、先のことなんて全然見えないけどね。……でも感謝してる」夏休み前、ひょっこり部活に顔を出した恵は、少し照れながらそう言った。榛はあの場で鈴木の話を聞いている時こそつらかったが、今は恵がうまくいけばいいとだけ願っていた。きっと二人は何度となくぶつかったのだと思う。それで今がある。「榛ちゃん、私が言ってたこと、ちょっとは分かったかなー? 将来について考えておいて損はないわって話ね」恵は笑った。榛はうなずいた。
「屋上に行こう。できあがったばかりの発明品がある」と部長が行って、三人は化学室を出て階段を上がった。梅雨明け間近の空はよく晴れていた。夏の日差しがまぶしかった。遠くの街並までがきらきらと輝いていた。「恵くん、この装置を頭につけたまえ」と部長は言って、銀色のティアラのような機械を取り出した。「なあにこれ? 私をお姫様にでもするつもりかしら?」恵はそう言いながら、冠をかぶった。日頃飾り気のない彼女に、それはずいぶん似合っていた。彼女が身につけることを想定して制作したようですらあった。榛が部長を見ると、こほんと咳払いして、「とりいだしましたるは、人類の空への憧れ、機械の翼」と言って、春に見た小型ヘリコプターを地面に置いた。
「さあ恵くん。何でもいい、強く願いたまえ」部長は空に向けて手を広げた。恵はきょとんとして部長を見ていた。榛と目が合った。榛はうなずいた。恵は両手を合わせて、何かを強く願った。言葉をつぶやいているようにも見えたが、榛に聞きとることはできなかった。小型ヘリコプターがすっ、と浮上して、ゆるやかに空へと飛んでいく。「わあ」と恵は言った。部長は、「ついに完成したのだ、念力コプター!」相変わらずネーミングセンスはさんざんだったが、恵の願いは空を飛び、高いところまで舞い上がった。
「部長くんは本当にこういうの好きよねえ」恵は笑った。「榛ちゃん、またえらく長いこと付き合わされたんでしょう? これ」榛は頷いた。
「ありがとう」と恵は言った。
夏の空に、不可能なことなど何もない。
里央と凪
夏だった。蒸し暑い体育館の中に、シューズがこすれる音が響いている。
「はあ、はあっ」茅野里央はバスケットコートの中をイタチのような敏捷さで駆けた。アイサインでチームメイトの雪乃と意思疎通し、パスを受ける。試合終了までもう時間がなかった。四点差で負けている。シュートを二本入れてやっと同点に持ち込める。しかしそれもこの一本を外してしまってはつながらない。残り時間を考えても、チャンスはせいぜい二回か三回だ。ボールを突きながら、里央はチームメイトがどこにいるかを見た。敵チームのマークがきつく、どのメンバーにもパスを出せそうになかった。雪乃にボールを戻せば、それで敵側をゆさぶることができるかもしれない。しかし自分で切りこんでいくという手もある。考えるわずかな間に、五人目のマークがじりじり近づいてくる。里央は迷うのをやめ、フェイントから一気に敵陣の中まで切り込んだ。
五分後、里央は体育館の壁にもたれ、こうべを垂れていた。一年生同士の交流試合。里央はキャプテンに選ばれたが負けてしまった。身体じゅうを汗が伝っていた。体操着が背中に貼りついている。入学以来初めての挫折だった。ラスト二本、ともに里央が失敗してチームは敗北を喫した。試合終了直後の顧問のため息と、首を傾げる姿が目に焼きついている。期待したほどじゃなかったな、とでも言いたげだった。技巧派で協調性のある雪乃と比べられ、今回は里央がキャプテンに選ばれた。躊躇しない判断力が買われたようだった。しかし里央は肝心なところで精細を欠く傾向があり、今回もそれが出てしまった。トレードマークの長いポニーテールを垂らし、里央は思う。きっと次は雪乃がキャプテンになるだろう。
「里央」雪乃が近づいてきた。里央は笑顔をつくって彼女を見上げる。「ごめんね雪乃、私が失敗したせいで」侘びのポーズをつくってみせた里央に、雪乃は首を振った。「あれだけできれば十分だよ。負けちゃったけど……でも、私だったらあんなに一気に攻められないもの」雪乃に悪気がないのは分かっていたが、里央は自分の欠点を指摘されたような気がして、胸が苦しくなった。
「また頑張ろうね」雪乃は言った。負けず嫌いの里央は、素直に彼女に返事することができなかった。「そうね」とだけ言って、顔を伏せた。
帰り道、チームメイトが何度か里央に話しかけたが、彼女は上の空だった。もともとスタンドプレーに走りがちな里央は、一年生ではもっとも上手だったが、その反面、こうして仲間と距離ができることがあった。だいたい里央がこうして落ちこんだ時などがそうだ。クラスなどでは気の強い女子として見られている里央だったが、こうしたナイーブな面があることを部活仲間は知っていた。だから、そんな時は必要以上に声をかけたりしない。それゆえ、どうしても距離ができてしまうのだった。
相手校での試合を終え、中央線に乗って経川駅まで帰る間、里央は電車の窓から積乱雲を見つめていた。西に傾いた太陽が遠近感をはっきりさせる。雲の下のほうは暗くなっていた。きっとあのあたりでは雨が降っている。ざあざあ降りの雨。里央は、ふと泣きそうになった。しかし涙は流れなかった。人前で泣いたことがないのが里央のささやかな誇りだった。
学校に戻ってすぐ、反省会があった。「残念ながら負けてしまったが、二度目の交流戦にしてはチームの結束力があっていい試合だった。あの緊張感を今後も大事にしてくれ。それぞれに反省点をふまえて、明日以降の練習に生かすように」と顧問は言った。里央と目が合ったが、そらされた。里央は顧問に反発することがあるせいか、どうも敬遠されているようだった。実力は買われていたのでキャプテンに選ばれたが、負けた後となっては冷たい態度を向けられてもしかたなかった。
荷物をまとめて帰る前に、里央は校内を歩いた。気負い過ぎていたせいか、試合が終わった直後の今は、ついぼうっとしてしまう。屋上に行って風に当たりたかった。しかし階段の終わりまで登って、生徒が上がることは禁止されていることを思い出した。じっさい鍵がかかっていた。三日前の昼休み、科学クラブの部員たちが屋上に上がって何かを飛ばす実験をしていたのを思い出す。その光景を里央は廊下から見上げていた。彼らは許可をもらっているのだろうか。少しうらやましかった。しかたなく引き返し、今度は三階の中央棟へ歩いた。入学以来一度も来たことのない場所だった。そこには美術室しかない。選択授業で音楽を選んでいた里央は、美術室に用がなかった。
里央は廊下で足を止めた。壁に絵がかかっていた。部分的にくっきり、他の箇所はぼかして描かれた、あざやかな絵だった。知っている場所に思えたが、里央にはそれがどこかは分からなかった。おそらく実際の場所とは何かを変えている。絵は里央に、美しい風景を見た時の感情とまったく同じものを想起させた。理屈を抜かして、ただここにいることに対する喜びを感じるような。地球という大きな場所に抱かれて、優しさに触れているような。一瞬でそのニュアンスを変え、変化してしまう光。里央は最後のシュートをはずしてしまった瞬間を思い出した。あの、自分の手からボールが離れた瞬間、里央は負けてしまったことを知った。軌道はゴールリングから外れていた。悔しさが、また彼女の胸にこみあげてくる。里央は近くにあった休憩用のベンチに座ると、声を出さずに泣いた。
十分後。やっと落ち着いてきた里央は、もう一度絵を鑑賞していた。人の感情を揺らす絵だ、と里央は思った。里央は題名を見た。「虹色の世界」――夏原凪と書いてあった。夏原凪はクラスメートだ。朝礼で何度か表彰されている。クラスではあまり人と話さない。里央もほとんど話したことがなかった。いつも、人とは違う場所を見ているような雰囲気のある子で、男子にも人気のようだった。しかし誰も告白したという話を聞かない。そんな無粋な真似をするわけにいかない、と思わせる何かが彼女にはあった。
里央は夏原凪に興味を持った。明日、クラスで話しかけてみよう。
夏だった。蒸し暑い体育館の中に、シューズがこすれる音が響いている。
「はあ、はあっ」茅野里央はバスケットコートの中をイタチのような敏捷さで駆けた。アイサインでチームメイトの雪乃と意思疎通し、パスを受ける。試合終了までもう時間がなかった。四点差で負けている。シュートを二本入れてやっと同点に持ち込める。しかしそれもこの一本を外してしまってはつながらない。残り時間を考えても、チャンスはせいぜい二回か三回だ。ボールを突きながら、里央はチームメイトがどこにいるかを見た。敵チームのマークがきつく、どのメンバーにもパスを出せそうになかった。雪乃にボールを戻せば、それで敵側をゆさぶることができるかもしれない。しかし自分で切りこんでいくという手もある。考えるわずかな間に、五人目のマークがじりじり近づいてくる。里央は迷うのをやめ、フェイントから一気に敵陣の中まで切り込んだ。
五分後、里央は体育館の壁にもたれ、こうべを垂れていた。一年生同士の交流試合。里央はキャプテンに選ばれたが負けてしまった。身体じゅうを汗が伝っていた。体操着が背中に貼りついている。入学以来初めての挫折だった。ラスト二本、ともに里央が失敗してチームは敗北を喫した。試合終了直後の顧問のため息と、首を傾げる姿が目に焼きついている。期待したほどじゃなかったな、とでも言いたげだった。技巧派で協調性のある雪乃と比べられ、今回は里央がキャプテンに選ばれた。躊躇しない判断力が買われたようだった。しかし里央は肝心なところで精細を欠く傾向があり、今回もそれが出てしまった。トレードマークの長いポニーテールを垂らし、里央は思う。きっと次は雪乃がキャプテンになるだろう。
「里央」雪乃が近づいてきた。里央は笑顔をつくって彼女を見上げる。「ごめんね雪乃、私が失敗したせいで」侘びのポーズをつくってみせた里央に、雪乃は首を振った。「あれだけできれば十分だよ。負けちゃったけど……でも、私だったらあんなに一気に攻められないもの」雪乃に悪気がないのは分かっていたが、里央は自分の欠点を指摘されたような気がして、胸が苦しくなった。
「また頑張ろうね」雪乃は言った。負けず嫌いの里央は、素直に彼女に返事することができなかった。「そうね」とだけ言って、顔を伏せた。
帰り道、チームメイトが何度か里央に話しかけたが、彼女は上の空だった。もともとスタンドプレーに走りがちな里央は、一年生ではもっとも上手だったが、その反面、こうして仲間と距離ができることがあった。だいたい里央がこうして落ちこんだ時などがそうだ。クラスなどでは気の強い女子として見られている里央だったが、こうしたナイーブな面があることを部活仲間は知っていた。だから、そんな時は必要以上に声をかけたりしない。それゆえ、どうしても距離ができてしまうのだった。
相手校での試合を終え、中央線に乗って経川駅まで帰る間、里央は電車の窓から積乱雲を見つめていた。西に傾いた太陽が遠近感をはっきりさせる。雲の下のほうは暗くなっていた。きっとあのあたりでは雨が降っている。ざあざあ降りの雨。里央は、ふと泣きそうになった。しかし涙は流れなかった。人前で泣いたことがないのが里央のささやかな誇りだった。
学校に戻ってすぐ、反省会があった。「残念ながら負けてしまったが、二度目の交流戦にしてはチームの結束力があっていい試合だった。あの緊張感を今後も大事にしてくれ。それぞれに反省点をふまえて、明日以降の練習に生かすように」と顧問は言った。里央と目が合ったが、そらされた。里央は顧問に反発することがあるせいか、どうも敬遠されているようだった。実力は買われていたのでキャプテンに選ばれたが、負けた後となっては冷たい態度を向けられてもしかたなかった。
荷物をまとめて帰る前に、里央は校内を歩いた。気負い過ぎていたせいか、試合が終わった直後の今は、ついぼうっとしてしまう。屋上に行って風に当たりたかった。しかし階段の終わりまで登って、生徒が上がることは禁止されていることを思い出した。じっさい鍵がかかっていた。三日前の昼休み、科学クラブの部員たちが屋上に上がって何かを飛ばす実験をしていたのを思い出す。その光景を里央は廊下から見上げていた。彼らは許可をもらっているのだろうか。少しうらやましかった。しかたなく引き返し、今度は三階の中央棟へ歩いた。入学以来一度も来たことのない場所だった。そこには美術室しかない。選択授業で音楽を選んでいた里央は、美術室に用がなかった。
里央は廊下で足を止めた。壁に絵がかかっていた。部分的にくっきり、他の箇所はぼかして描かれた、あざやかな絵だった。知っている場所に思えたが、里央にはそれがどこかは分からなかった。おそらく実際の場所とは何かを変えている。絵は里央に、美しい風景を見た時の感情とまったく同じものを想起させた。理屈を抜かして、ただここにいることに対する喜びを感じるような。地球という大きな場所に抱かれて、優しさに触れているような。一瞬でそのニュアンスを変え、変化してしまう光。里央は最後のシュートをはずしてしまった瞬間を思い出した。あの、自分の手からボールが離れた瞬間、里央は負けてしまったことを知った。軌道はゴールリングから外れていた。悔しさが、また彼女の胸にこみあげてくる。里央は近くにあった休憩用のベンチに座ると、声を出さずに泣いた。
十分後。やっと落ち着いてきた里央は、もう一度絵を鑑賞していた。人の感情を揺らす絵だ、と里央は思った。里央は題名を見た。「虹色の世界」――夏原凪と書いてあった。夏原凪はクラスメートだ。朝礼で何度か表彰されている。クラスではあまり人と話さない。里央もほとんど話したことがなかった。いつも、人とは違う場所を見ているような雰囲気のある子で、男子にも人気のようだった。しかし誰も告白したという話を聞かない。そんな無粋な真似をするわけにいかない、と思わせる何かが彼女にはあった。
里央は夏原凪に興味を持った。明日、クラスで話しかけてみよう。
月曜日、一学期の終わりが近づいて、クラスメートの間には高揚感が広がっていた。里央は試合に負けたショックから少しずつ立ち直り、心地よい夏の空気に身を浸していた。化学の授業を受けながら、里央から離れた窓際の席にいる夏原凪を見る。静かに板書している凪は、絵画や小説の中の少女に見えた。たしかにそこにいるのに、こことは違う場所にいるような。
三時間目が終わる。短い休み時間のあいだ、里央は凪の席に向かった。「ね。夏原さん」凪はぴくっと肩を震わせて、ゆっくり里央を見上げた。つぶらな、透き通った瞳に、里央の姿が映っていた。まるで童話に登場する少女のようだった。里央は即座に思う。
(か、可愛いわ……この子。抱きしめたい)なぜ今まで話さずにいたのか不思議なくらいだった。「私ね、昨日夏原さんの絵を見たんだ。もうすごくってさ。感動しちゃって。どんな風に描いてるんだろうとか、色々思ってるうちに、話したくなってね」
凪は里央を見上げたまま、ぱちぱちと瞬きした。人形のように整った顔立ちだった。白っぽい頬がほんのりと色づいたのを見て、里央はますます凪への好意が増した。「あ、ありいが」凪はうつむいた。「ありがとう……」その様子を見て、里央は(噛んだ、今噛んだわこの子。どうしよう、可愛いわ)と思った。どうも凪はあまり人としゃべり慣れていないようだった。
「ねえ。いつも美術室で描いてるの?」里央は言った。凪は机から出した国語の教科書を両手で持ったまま、「だいたいはそう。あとはあの、お家のアトリエとか」
「家にアトリエがあるの? わあ、すごい」里央が言うと凪はますます頬を赤くさせた。その反応が里央には楽しかった。凪は小さく首を降り、「そんなことないよ。パパとママのを使わせてもらってるだけだし……」
(パパとママ! 高校生でそんな呼び方をするなんて)里央は凪の言動のひとつひとつに、新しい世界を発見するかのような興奮を覚えていた。(どこまで可愛ければ気がすむの、この子)里央は鼻血が出るのではないかとすら思った。
「ねえ夏原さん。昼休みにさ、美術室まで見に行ってもいい?」里央は両手を机に突いて言った。凪は肩を引いて、「いい、けど……おもしろくないかも」里央はぶんぶん首を振った。「そんなことあるはずがないわ(だって、夏原さんを見てるだけで楽しいんだもの!)」
昼休み、里央と凪は美術室に向かった。歩きながら、凪がおずおずと話しかけてくる。「茅野さんは部活、何だっけ?」知らないことが申し訳ないと言いたげだった。里央は姉にでもなったような気分で、「バスケ部。でもねー、こないだ負けちゃってさ。一年の交流試合で、私キャプテンだったんだけど」「きゃぷてん。すごい……」凪は尊敬する画家を見るような目を里央に向けた。里央は手を振り、「全然そんなことないよ。うちのバスケ部あんまり強くないんだ。だから私がそうなっちゃったってだけ」
「でもすごい。私、運動全然だから」凪は言った。そういえば、体育でいつもやたら一生懸命なわりに空回りしっぱなしな子がいて、それがどうやら凪だったことを里央は思い出した。そしてさらに彼女への親近感が増した。「でもほら、夏原さんはあんなにすごい絵が描けるんだから」と里央が言うと、「んー。そうかなあ」と凪は言った。どうも、自分が上手に絵を描けるという認識に乏しいようだった。「絵はただやりたいだけだから」
そうして話しているうちに美術室に着いた。美術室は分厚いカーテンがかかっていて、少し暗かった。凪は窓辺に駆け寄って、半分ほど開いた。初夏の光が床に射す。里央の方を振り向いた凪は、イーゼルにかかった油彩画を示した。「これが今描いてる絵」里央は窓際にある凪の絵に近づいた。彩度の高い空に、疾風のような、丸みを帯びた白い線が走っている。「夏っぽくなればいいかなって思ってるんだけど」凪は言った。里央は絵を仔細に見た。まだ地塗りが終わっただけの場所も残っていたが、完成形を想像させる力強さがそこにはあった。おそらく、いま自分が想像したより遥かに素晴らしいものになるのだろう、と里央は思った。「綺麗」
「ね、こういうのってどこから思いつくの?」里央は訊いた。何もないところから、形のあるものを生み出すということが、里央にはまるで魔法のように思われた。凪は少し困ったような顔になって、「うーん。何か、ふとした瞬間とか、素敵な景色を見た時とか……あんまりうまく説明できない」凪は口元に手を当てた。「なるほどなあ」里央は言った。「すごいなあ。私こういうの全然できないしさ」凪は手を振って否定の仕草をした。「あ、茅野さん。他のも見る?」
それから里央は凪の絵を三枚見せてもらった。凪は抽象画でその本分を発揮したが、写実画においては、誰もが舌を巻くくらい確かな実力があった。その印影からは物体の重量感が手に取るように分かったし、光のとらえ方は現在の時間を教えてくれるようだった。最後の抽象画を見ながら、里央は、「ねえねえ、この盛り上がってるところはどうやってるの?」「ここはメディウムっていう画材を使ってて、こういう風に固まるようになってるの」里央はすべての絵を丹念に鑑賞した。どれもよかったが、凪が今描いている途中の作品がいちばん気になった。「その絵、できあがったらまた見に来ていい?」里央は夏空の絵を指さして言った。凪は頷いて、嬉しそうに笑った。とても可愛らしい笑顔だったので、里央は自分の顔が赤くなるのを感じた。
その日から、二人は休み時間などによく話をするようになった。ほとんどが他愛ない話題ではあったが、どちらもそんな話をしてこなかったので楽しかった。二人はすぐに仲良しになった。凪は自分の両親が画家であることや、小さい頃からずっと絵を描いていることなどを話した。里央は小学校の後半からバスケットボールを始め、今まで続けていることを話し、それから日頃見るテレビ番組などについて話をした。凪は意外とテレビを見ていて、特に深夜のお笑い番組などが好きなようだった。「あ、それ知ってる! 夏原さんって意外とお笑い好きなんだね」「え。あ……」凪は顔を真っ赤にして、頷いた。それから、小さい頃から引っ込み思案で照れ屋なことも話した。「だから自分から話しかけるのとか苦手で」「でも、こうやって話してると全然普通だよね」里央は言った。凪は「そう?」と首を傾げた。里央が頷くと、凪はまた笑った。
休日の里央はだいたい部活で予定が埋まってしまっていた。夏休みに入ってからは、授業の代わりに練習が入っていたが、さすがに一週間すべてということはなく、休みの日があった。終業式の日、里央は凪に夏祭りに行かないかと話をした。「公園の花火大会でもいいけど。もう少し小さいのがその前にあるんだ。一緒に行かない?」里央がそう言うと、凪は迷っているようだった。「あ、嫌ならいいの。ごめんごめん」慌てて手を振った里央に、凪は、「茅野さん。私、誰かとそういうところ行ったことが全然ないの」と言った。「え、そうなの?」里央が訊くと凪は頷いた。「家族とだったらあるんだけど。中学までは、学校が終わるとすぐ家に帰って絵を描いてたから……」里央はそれを聞いて、凪と出かけたい気持ちが強くなった。「それじゃ行こう! きっと楽しいよ。ね?」
三時間目が終わる。短い休み時間のあいだ、里央は凪の席に向かった。「ね。夏原さん」凪はぴくっと肩を震わせて、ゆっくり里央を見上げた。つぶらな、透き通った瞳に、里央の姿が映っていた。まるで童話に登場する少女のようだった。里央は即座に思う。
(か、可愛いわ……この子。抱きしめたい)なぜ今まで話さずにいたのか不思議なくらいだった。「私ね、昨日夏原さんの絵を見たんだ。もうすごくってさ。感動しちゃって。どんな風に描いてるんだろうとか、色々思ってるうちに、話したくなってね」
凪は里央を見上げたまま、ぱちぱちと瞬きした。人形のように整った顔立ちだった。白っぽい頬がほんのりと色づいたのを見て、里央はますます凪への好意が増した。「あ、ありいが」凪はうつむいた。「ありがとう……」その様子を見て、里央は(噛んだ、今噛んだわこの子。どうしよう、可愛いわ)と思った。どうも凪はあまり人としゃべり慣れていないようだった。
「ねえ。いつも美術室で描いてるの?」里央は言った。凪は机から出した国語の教科書を両手で持ったまま、「だいたいはそう。あとはあの、お家のアトリエとか」
「家にアトリエがあるの? わあ、すごい」里央が言うと凪はますます頬を赤くさせた。その反応が里央には楽しかった。凪は小さく首を降り、「そんなことないよ。パパとママのを使わせてもらってるだけだし……」
(パパとママ! 高校生でそんな呼び方をするなんて)里央は凪の言動のひとつひとつに、新しい世界を発見するかのような興奮を覚えていた。(どこまで可愛ければ気がすむの、この子)里央は鼻血が出るのではないかとすら思った。
「ねえ夏原さん。昼休みにさ、美術室まで見に行ってもいい?」里央は両手を机に突いて言った。凪は肩を引いて、「いい、けど……おもしろくないかも」里央はぶんぶん首を振った。「そんなことあるはずがないわ(だって、夏原さんを見てるだけで楽しいんだもの!)」
昼休み、里央と凪は美術室に向かった。歩きながら、凪がおずおずと話しかけてくる。「茅野さんは部活、何だっけ?」知らないことが申し訳ないと言いたげだった。里央は姉にでもなったような気分で、「バスケ部。でもねー、こないだ負けちゃってさ。一年の交流試合で、私キャプテンだったんだけど」「きゃぷてん。すごい……」凪は尊敬する画家を見るような目を里央に向けた。里央は手を振り、「全然そんなことないよ。うちのバスケ部あんまり強くないんだ。だから私がそうなっちゃったってだけ」
「でもすごい。私、運動全然だから」凪は言った。そういえば、体育でいつもやたら一生懸命なわりに空回りしっぱなしな子がいて、それがどうやら凪だったことを里央は思い出した。そしてさらに彼女への親近感が増した。「でもほら、夏原さんはあんなにすごい絵が描けるんだから」と里央が言うと、「んー。そうかなあ」と凪は言った。どうも、自分が上手に絵を描けるという認識に乏しいようだった。「絵はただやりたいだけだから」
そうして話しているうちに美術室に着いた。美術室は分厚いカーテンがかかっていて、少し暗かった。凪は窓辺に駆け寄って、半分ほど開いた。初夏の光が床に射す。里央の方を振り向いた凪は、イーゼルにかかった油彩画を示した。「これが今描いてる絵」里央は窓際にある凪の絵に近づいた。彩度の高い空に、疾風のような、丸みを帯びた白い線が走っている。「夏っぽくなればいいかなって思ってるんだけど」凪は言った。里央は絵を仔細に見た。まだ地塗りが終わっただけの場所も残っていたが、完成形を想像させる力強さがそこにはあった。おそらく、いま自分が想像したより遥かに素晴らしいものになるのだろう、と里央は思った。「綺麗」
「ね、こういうのってどこから思いつくの?」里央は訊いた。何もないところから、形のあるものを生み出すということが、里央にはまるで魔法のように思われた。凪は少し困ったような顔になって、「うーん。何か、ふとした瞬間とか、素敵な景色を見た時とか……あんまりうまく説明できない」凪は口元に手を当てた。「なるほどなあ」里央は言った。「すごいなあ。私こういうの全然できないしさ」凪は手を振って否定の仕草をした。「あ、茅野さん。他のも見る?」
それから里央は凪の絵を三枚見せてもらった。凪は抽象画でその本分を発揮したが、写実画においては、誰もが舌を巻くくらい確かな実力があった。その印影からは物体の重量感が手に取るように分かったし、光のとらえ方は現在の時間を教えてくれるようだった。最後の抽象画を見ながら、里央は、「ねえねえ、この盛り上がってるところはどうやってるの?」「ここはメディウムっていう画材を使ってて、こういう風に固まるようになってるの」里央はすべての絵を丹念に鑑賞した。どれもよかったが、凪が今描いている途中の作品がいちばん気になった。「その絵、できあがったらまた見に来ていい?」里央は夏空の絵を指さして言った。凪は頷いて、嬉しそうに笑った。とても可愛らしい笑顔だったので、里央は自分の顔が赤くなるのを感じた。
その日から、二人は休み時間などによく話をするようになった。ほとんどが他愛ない話題ではあったが、どちらもそんな話をしてこなかったので楽しかった。二人はすぐに仲良しになった。凪は自分の両親が画家であることや、小さい頃からずっと絵を描いていることなどを話した。里央は小学校の後半からバスケットボールを始め、今まで続けていることを話し、それから日頃見るテレビ番組などについて話をした。凪は意外とテレビを見ていて、特に深夜のお笑い番組などが好きなようだった。「あ、それ知ってる! 夏原さんって意外とお笑い好きなんだね」「え。あ……」凪は顔を真っ赤にして、頷いた。それから、小さい頃から引っ込み思案で照れ屋なことも話した。「だから自分から話しかけるのとか苦手で」「でも、こうやって話してると全然普通だよね」里央は言った。凪は「そう?」と首を傾げた。里央が頷くと、凪はまた笑った。
休日の里央はだいたい部活で予定が埋まってしまっていた。夏休みに入ってからは、授業の代わりに練習が入っていたが、さすがに一週間すべてということはなく、休みの日があった。終業式の日、里央は凪に夏祭りに行かないかと話をした。「公園の花火大会でもいいけど。もう少し小さいのがその前にあるんだ。一緒に行かない?」里央がそう言うと、凪は迷っているようだった。「あ、嫌ならいいの。ごめんごめん」慌てて手を振った里央に、凪は、「茅野さん。私、誰かとそういうところ行ったことが全然ないの」と言った。「え、そうなの?」里央が訊くと凪は頷いた。「家族とだったらあるんだけど。中学までは、学校が終わるとすぐ家に帰って絵を描いてたから……」里央はそれを聞いて、凪と出かけたい気持ちが強くなった。「それじゃ行こう! きっと楽しいよ。ね?」
そうして高校一年の夏休みが始まった。里央はもっぱら練習漬けの毎日だったが、彼女はバスケットが好きだったから、それは嬉しいことだった。夏の体育館はすぐに汗びっしょりになる。集中力がないと、すぐプレーにミスが出るから、この暑さは自分を鍛えるためには持ってこいだった。里央は雪乃と連携の練習をした。パワーやスピードにおいては里央のほうが上だったが、シュートやパスの正確さは雪乃に軍配が上がった。それにチームをまとめ上げる力も、おそらくは彼女のほうが上だろうと里央は思っていた。里央はバスケ部員と仲が悪いわけではなかったが、チームメイト全員を思いやって言葉をかけてあげるようなふるまいはできなかった。それよりは指示を飛ばしてチームを引っ張るほうが性に合っていた。あの負けた試合からしばらく、一年生のキャプテンは里央のままだった。しかしある日、練習風景を見ていた顧問が「茅野、いったん外れて。平井中心でやってみてくれ。石原、平井がいたところに入れ」と、雪乃をセンターに据えた。里央はこの前の失敗が尾を引いていることを感じた。反発心を感じたが、自分にはリーダーの資質が欠けているのかもしれないと思うと、抗議することもためらわれた。里央はコートに入りたい気持ちをじっと我慢しながら、雪乃が中心となった一年生のチームと、先輩である二年生のチームの試合を見ていた。この紅白戦で一年側が負けるのは当然だったが、里央はしばしばパスカットから速攻を決めて点を入れていた。しかしそれはスタンドプレーに近いものがあったので、失敗した時は後味が悪いものになった。いっぽう雪乃は、里央のように大胆なことはせず、チャンスボールをすくった後でまずはパスを出した。器用な彼女のパスは、二年生の足元を抜けて、驚くほどの正確さでチームメイトに届いた。攻め上がる間、雪乃はうまくチームメイト同士の中継役を果たした。最後に彼女がパスを出し、チームメイトがレイアップシュート。見事二点を取った。自分にはできないやりかただ。里央はそう思った。里央のやり方は安定感に欠けていた。相手を揺さぶる効果はあるが、一度見切られるとその後大量に得点されることもある。その点、雪乃がいると一年生のチームは全体が一丸となる感じがした。雪乃は全体を引っ張るというより、チームの重心を適切な場所に置くためにみんなを誘導するのがうまかった。それは守りを強固にし、攻めを確実なものにした。里央は顧問が真剣な目で試合を見ていることに落胆した。きっと次の交流戦は雪乃がキャプテンになるだろう。片手を握りしめ、里央はそう思った。その日、里央がセンターに戻ることはなかった。
翌日以降、里央と雪乃が交互に一年生のキャプテンをつとめた。里央には心なしか、雪乃が入る時にチームが喜び、里央が入る時にはぎくしゃくする感じがした。それは里央の長所である決断力と行動の迅速さを鈍らせた。一度迷うと、彼女は立ち直るのに時間がかかった。一週間で最後の練習が終わる時、顧問が「一年生は来週からしばらくの間、平井を中心にチームを組む」と言ったのを聞いて、里央はむしろ納得してしまったくらいだった。「それでは解散」顧問が言って、部員たちは三々五々に散った。里央は、雪乃が自分を見ていることに気がついた。気づかないふりをして、そのまま更衣室に向かった。着替えていると、雪乃が里央を追って中に入ってきた。「里央」と雪乃は言った。日頃は仲がよかったが、雪乃が新しくセンターに入ってから今までの間に、雪乃と里央の間には見えない壁ができていた。「雪乃、おめでとう。頑張って」と里央は言った。「ねえ里央、私、里央のほうがキャプテンに向いてると思う。今から室井先生に言って――」「いいの。ねえ雪乃、私は我が強いし、みんなをまとめる役には向いてないわ。あなたみたいに皆に気配りができる人のほうがいいと思う」里央は雪乃のほうを見ずに言った。そしてポニーテールをほどいた。長い髪が力なく垂れる。まるでそれが里央の主張みたいだった。降参。雪乃はしばらく黙っていた。体育館のほうから談笑する声が聞こえる。じりじりした熱気が肌にまとわりつき、苛々を増した。
「里央……」雪乃は言った。里央は、これ以上自分が何かを言えば、彼女が泣いてしまいそうな気がした。だからすばやく着替えて、黙ったまま更衣室を出ることにした。
すべては夏の時間の中にあった。里央は落ちこんでいたが、それは二年後に彼女が抱く憂いとは種類の違うものだった。二年後の里央にしてみれば、この時間は何もかもが楽しかったのだ。傷つくことも含めて。
どうしてもう少し素直になれないんだろう。
帰り道、里央はそんな風に思っていた。昔からそうだ。人を思いやったりしないで、思ったことを言うだけ。周りには気が強いとか行動力があるとか言われるけれど、単にわがままなだけなんだ。里央は肩を落とした。駅までの道には、大きな夏の夕日が街に鮮烈な光をあてていた。夏は日常の風景がどこかファンタジックになる。里央はJRの駅から電車に乗った。色々な人が乗っている。浴衣を着た女性、スーツの中年男性、小学生の男の子と女の子。そして夏原凪。
「夏原さん?」里央は思わず大きな声を出してしまった。目の前に、キャンバスと思しき大きな包みを抱えた凪がいた。「あ、茅野さん」凪はつぶらな瞳を里央に向けた。凪の姿を見た途端、里央はさっきまでの迷いがすべて吹っ飛んでしまった。「夏原さん!」「わっ」里央は凪に抱きついた。自分でもびっくりする行動だった。「茅野さん、ここ、電車の中……」と凪は消え入りそうな声で言った。「あ。そっかそっか、ごめん」里央は笑った。乗客たちの視線が集まっていても、気にならなかった。凪はまるで小さな心臓のようにぴくぴく震えていて、里央は申し訳ないような、嬉しいような気持ちになった。
「夏原さん、学校行ってたの?」里央は凪の大きな荷物を見ながら言った。凪はこくこく頷いて、「うん。学校で描いてたんだけど、家でもやりたくって」と言ってから、「あんまり毎日描いても、乾かないからダメなんだけど」と、下を向いた。
「そっかー。いいなあ、すごいなあ」里央は元気な声で言った。凪は里央をちらっと見て、「茅野さんは部活?」「そうそう。今日も元気いっぱい走り回ってたよっ」と言って腕を回した。ちょっとオーバーだったかな、と里央は思った。「そうなんだ。茅野さん、足速いもんね」里央は、凪が自分のことをちゃんと知っていたことに少し驚いた。「え? ああ、うん。もちろんだよ」里央は胸を張った。凪はそれをどこか不思議そうに見ていた。凪の瞳を見ていると、里央は心の底を見透かされているような気がして、少し焦った。
「あ、ねえ夏原さん。明日は大丈夫そう?」「う? 明日……、大丈夫だと思う」「そっか、楽しみ」里央はそう言って笑った。
凪のほうが一駅早く下車するため、二人は手を振って別れた。「それじゃ明日ね」「ばいばい」電車が動き出すとき、里央は凪の後ろ姿を見つめていた。そして、どうして夏原さんと話すようになったんだっけ、と思い、彼女の絵を思い出した。凪の絵を見ていると、自分が存在していることに対して励ましてもらえるような、安心するような、そんな気持ちになった。美術室に着いていってしまうくらいには、里央は凪の絵に対し好奇心があった。絵を見てそんな風に思ったのは初めてだった。「夏原さんはすごいなあ」里央は言った。
翌日、里央は思いのほか早く起きてしまった。しかし、部活が休みなのですることがない。誰かに電話しようかと思ったが、昨日の今日で部活仲間と遊ぶには気まずかった。特に雪乃とは。夕方待ち合わせをしている凪のほうは、うっかりしたことに携帯番号をまだ知らなかった。どうしようか迷った結果、里央は私服に着替え、何となく経川まで電車に乗って出かけていった。
夏一色だった。空は晴れ、気温は上がり、半袖やノースリーブの服を着た人々が行きかっていた。休日なので人出が多い。「夏休みだなあ」里央はつぶやいた。高一の彼女にとって、夏の街は魔法の王国のようだった。二年後に気づく大人の世界などには程遠く、まだまだ時間もあった。自由があり、すべてがあった。里央はま、ずデパートの服を見て回った。夏物はひとしきり買っていたが、それでも別の服を着ている自分を想像するのは楽しかった。何着か試着までしてしまった。いつもの服より一つ細いジーンズが入った時には、思わずガッツポーズを取った。それから本屋に行って少女漫画を買い、スターバックスでダークモカ・オレンジのフラペチーノを飲みながらそれを読んだ。この頃部活ばかりだったので、里央は比較的小遣いに余裕があった。購入した漫画は、前から気になっていたものの、手を出さずにいたシリーズの一巻目で、里央のツボに見事ヒットした。案外彼女は少女趣味だった。しかし恥ずかしいのでそれを人に明かしたことはなかった。(ばれてしまえばお嫁に行けないわ……)とか微妙にわけのわからないことを彼女は考えていた。漫画を三十分で読み終えてしまうと「二巻も買えばよかった」里央は独り言をいった。すっかり虜になってしまっていた。昔ながらのハンサムボーイ待ち受け型恋愛物語だった。(あんな男の子が私の目の前にも現れたらなあ。でも、今時白馬の王子様を待つのってはやらないのかしら)里央は思った。その後図書館に行き、小説を読んだ。三分の一ほどしか読めず、借りると返しそびれそうだったので、そのまま棚に戻した。周りを見ると、勉強している人が多かった。里央は夏休みの宿題が出ていることを思い出す。「めんどくさいなー」と彼女はのん気につぶやいた。伸びをして、時計を見ると正午を回っている。一度家に戻ろうと思い、里央は駅に引き返した。
夕方、二人はほぼ同じ時間に待ち合わせ場所に到着した。互いにラフな私服のままだった。浴衣姿の人を眺めていた凪に、里央は「私たちも浴衣着ればよかったねえ」と呼びかけた。凪は飛び上がって、「そ、そうだね……ゆかた」何やら妄想しているようだった。顔が赤いので里央には一目でそれが分かった。「今度また二人で出かけることがあれば、その時は着ようね」と里央は言った。凪はこくこく頷いた。
町内の縁日だったので規模はさほど大きくないが、それでも神輿や打ち上げ花火も何発か上がる予定になっていた。夕陽の沈みかけた通りに屋台が並び、黄色い電球の明かりがともると、昔にタイムスリップしたような、情緒あふれる光景があらわれた。里央は心が弾んできた。小学校の頃、自治会のお祭りを手伝ったことを思い出した。その頃とほとんど変わらぬ無邪気さで、里央は凪の手を引いた。「行こう、凪ちゃん!」
里央と凪は縁日を順番に回っていった。金魚すくいやヨーヨー釣り、千本くじに射的。里央は射的で見事全部命中させ、大きなぬいぐるみを獲得した。しかし荷物になるので小さいほうを選んで袋に入れてもらい、凪にプレゼントした。「えっ、いいの……?」凪は驚いて里央を見た。縁日の明かりが瞳にきらきら反射していた。里央は微笑んだ。「もっちろん!」金魚すくいでは凪も里央もわずかしかすくえなかった。持って帰るか訊かれたが、二人とも首を振った。「きっと死なせちゃうわ」と里央が言った「こうやって遊びに使ってるだけでも勝手だもんね」凪は里央がそう言うのを聞いて頷いた。
ひとしきり遊んだあとで、二人は焼きそばやあんず飴を買って食べた。路傍に座っていると、目の前を神輿が通っていった。「すごーい。何かみんな元気いっぱいだなあ」里央が言った。凪は口をぽかんと開けて行進をながめていた。「夏原さん、こういうとこあまり来ないの?」小さくなった飴をくわえたまま里央が言った。凪は、「うん。ほとんど来たことない。……たのしいな」里央は笑う。「そう、それはよかった。私ね、小さい頃からこういうお祭りが好きでさ。すごく幻想的っていうか。ここにしかないんだよね、この空気って。だから好きなんだ」そう言って神輿の背を見送った。それから二人は、しばらく普通の、ありふれた話をした。好きなタレントの話になるとずいぶん盛り上がった。凪は案外、健康的な体育会系の男子が好きで、里央は三十代にさしかかったばかりの男性に魅力を感じると言った。「でもつき合うとなると別だろうなあ。こういうのは憧れって感じでさ」里央がそう言うと、凪は「そうだね……」と言って照れ、また赤くなる。どうも「つき合う」という言葉に反応したようだった。「ね、夏原さんって好きな人とかいないの?」ここぞとばかり里央は訊いた。「ええっ」と凪は言って、「い、いないよ……」と視線を伏せた。「ふうん」里央は膝に頬杖をつきながら凪を見ていたが、「見つかるといいねー、誰かこう、素敵な人がさ」そう言われて、凪は蒸気があがりそうなほど赤くなった。
その後、二人は歩道橋の上まで移動した。皆考えることは同じらしく、人で混んでいる。公園のほうから花火が上がりはじめると、凪と里央は並んで空を見上げた。共にほとんどしゃべることなく、色とりどりの光が炸裂しては消えていくのを眺めた。十五分ほどで終わり、二人は余韻に浸った。「終わっちゃった」「うん。すごく綺麗だった」里央は日常とだいぶ違う一日だったと思った。いつもの生活も嫌ではないが、今日は今日で素敵だった。
帰り道、里央は凪の絵を見るきっかけとなった出来事を話した。「私さ、この前の交流試合で、キャプテンだったけど負けちゃったのね。練習試合だけどやっぱり勝ちたかったから。でもうまくいかなくて。落ちこんでたら、夏原さんの絵が飾ってあるのを見て。勇気づけられた」
「そうだったんだ」凪は言った。「私の絵……」と凪は言った。「賞とかもらってもあんまり実感がなくて。未熟なところがいっぱいあるし」凪がそう言うと、里央は驚いて凪を見た。「そんな、すごくいい絵だよ! 何かこう、私は小さなことでくよくよしてたんだなあ、って思えたもん。夏原さんの絵は自由でのびやかで、見ると明るい気持ちになる」凪はその言葉にくすぐったそうな顔をした。そして小さな声で、「ありがとう」と言った。里央は、「私も頑張らなくちゃ。ねえ夏原さん、また新しい絵が描けたら見せてね」そう言って笑った。すっかり持ち前の元気が戻ってきていた。「うん」と凪は頷いた。そして嬉しそうに笑った。
ある日の部活で、里央は雪乃に謝った。「ごめん。私、つまらないことで意地を張ってたよ」雪乃は里央が謝ったことに驚いているようだった。「えっ。どうして里央が謝るの? 何も悪くないじゃない」里央は自分の気持ちを打ち明けることに少しためらった。「だって、私雪乃に嫉妬してたんだもん。負けず嫌いだから。雪乃のほうがみんなのことを分かってるのに。私は一人でふてくされた」「そんなことないよ。私、本当に里央の方がキャプテンに向いてると思うもの」里央は雪乃を見た。「ほんとにそう思う?」里央が尋ねると、雪乃はうなずいた。「里央のやり方もきっと先生に分かってもらえると思う。私にはああいう風に攻めることはできないから。今はいいかもしれないけど、里央が引っぱったほうがうちのチームは絶対強くなる」里央は雪乃に感心してしまった。どうしてここまでいい子なんだろう。「雪乃、ありがとう。私もっと頑張ってみるよ」里央がそう言うと、雪乃は笑った。
それから里央は部活に、凪は美術によりいっそう打ちこむようになった。彼女たちは学校でよく話をしたし、昼休みに、美術室で一緒に凪の絵を見ることもあった。しかし休日はどちらも忙しくなり、一緒にどこかへ出かけることはなかった。季節が秋に変わり、葉が落ちて冬になり、高校二年の春が来ると、二人のクラスは別々になった。凪は県外でも入選するようになったし、里央はその頃にはキャプテンに返り咲いていた。彼女たちの日々はとても充実していたし、それがやがて移り変わっていくことなど思いもしなかった。進級した後、たまに廊下で目が合うと、里央と凪は互いに手を振ったり、頬笑みを交わすことがあった。それは二人の間に何か特別な絆があることを感じさせたが、二年生の間、二人が話すことはほとんどなかった。どこかで彼女たちは、時間はずっと続いていくものだと思い込んでいた。このまま、色々なことが続くと思い込んでいた。だからいざとなれば、いつでも、いくらでも話す機会はあると思っていたのだ。多くの高校生が考えているのと同じように。茅野里央と夏原凪がふたたび親密な言葉を交わすのは、もう少し先、高校三年の夏のことである。
翌日以降、里央と雪乃が交互に一年生のキャプテンをつとめた。里央には心なしか、雪乃が入る時にチームが喜び、里央が入る時にはぎくしゃくする感じがした。それは里央の長所である決断力と行動の迅速さを鈍らせた。一度迷うと、彼女は立ち直るのに時間がかかった。一週間で最後の練習が終わる時、顧問が「一年生は来週からしばらくの間、平井を中心にチームを組む」と言ったのを聞いて、里央はむしろ納得してしまったくらいだった。「それでは解散」顧問が言って、部員たちは三々五々に散った。里央は、雪乃が自分を見ていることに気がついた。気づかないふりをして、そのまま更衣室に向かった。着替えていると、雪乃が里央を追って中に入ってきた。「里央」と雪乃は言った。日頃は仲がよかったが、雪乃が新しくセンターに入ってから今までの間に、雪乃と里央の間には見えない壁ができていた。「雪乃、おめでとう。頑張って」と里央は言った。「ねえ里央、私、里央のほうがキャプテンに向いてると思う。今から室井先生に言って――」「いいの。ねえ雪乃、私は我が強いし、みんなをまとめる役には向いてないわ。あなたみたいに皆に気配りができる人のほうがいいと思う」里央は雪乃のほうを見ずに言った。そしてポニーテールをほどいた。長い髪が力なく垂れる。まるでそれが里央の主張みたいだった。降参。雪乃はしばらく黙っていた。体育館のほうから談笑する声が聞こえる。じりじりした熱気が肌にまとわりつき、苛々を増した。
「里央……」雪乃は言った。里央は、これ以上自分が何かを言えば、彼女が泣いてしまいそうな気がした。だからすばやく着替えて、黙ったまま更衣室を出ることにした。
すべては夏の時間の中にあった。里央は落ちこんでいたが、それは二年後に彼女が抱く憂いとは種類の違うものだった。二年後の里央にしてみれば、この時間は何もかもが楽しかったのだ。傷つくことも含めて。
どうしてもう少し素直になれないんだろう。
帰り道、里央はそんな風に思っていた。昔からそうだ。人を思いやったりしないで、思ったことを言うだけ。周りには気が強いとか行動力があるとか言われるけれど、単にわがままなだけなんだ。里央は肩を落とした。駅までの道には、大きな夏の夕日が街に鮮烈な光をあてていた。夏は日常の風景がどこかファンタジックになる。里央はJRの駅から電車に乗った。色々な人が乗っている。浴衣を着た女性、スーツの中年男性、小学生の男の子と女の子。そして夏原凪。
「夏原さん?」里央は思わず大きな声を出してしまった。目の前に、キャンバスと思しき大きな包みを抱えた凪がいた。「あ、茅野さん」凪はつぶらな瞳を里央に向けた。凪の姿を見た途端、里央はさっきまでの迷いがすべて吹っ飛んでしまった。「夏原さん!」「わっ」里央は凪に抱きついた。自分でもびっくりする行動だった。「茅野さん、ここ、電車の中……」と凪は消え入りそうな声で言った。「あ。そっかそっか、ごめん」里央は笑った。乗客たちの視線が集まっていても、気にならなかった。凪はまるで小さな心臓のようにぴくぴく震えていて、里央は申し訳ないような、嬉しいような気持ちになった。
「夏原さん、学校行ってたの?」里央は凪の大きな荷物を見ながら言った。凪はこくこく頷いて、「うん。学校で描いてたんだけど、家でもやりたくって」と言ってから、「あんまり毎日描いても、乾かないからダメなんだけど」と、下を向いた。
「そっかー。いいなあ、すごいなあ」里央は元気な声で言った。凪は里央をちらっと見て、「茅野さんは部活?」「そうそう。今日も元気いっぱい走り回ってたよっ」と言って腕を回した。ちょっとオーバーだったかな、と里央は思った。「そうなんだ。茅野さん、足速いもんね」里央は、凪が自分のことをちゃんと知っていたことに少し驚いた。「え? ああ、うん。もちろんだよ」里央は胸を張った。凪はそれをどこか不思議そうに見ていた。凪の瞳を見ていると、里央は心の底を見透かされているような気がして、少し焦った。
「あ、ねえ夏原さん。明日は大丈夫そう?」「う? 明日……、大丈夫だと思う」「そっか、楽しみ」里央はそう言って笑った。
凪のほうが一駅早く下車するため、二人は手を振って別れた。「それじゃ明日ね」「ばいばい」電車が動き出すとき、里央は凪の後ろ姿を見つめていた。そして、どうして夏原さんと話すようになったんだっけ、と思い、彼女の絵を思い出した。凪の絵を見ていると、自分が存在していることに対して励ましてもらえるような、安心するような、そんな気持ちになった。美術室に着いていってしまうくらいには、里央は凪の絵に対し好奇心があった。絵を見てそんな風に思ったのは初めてだった。「夏原さんはすごいなあ」里央は言った。
翌日、里央は思いのほか早く起きてしまった。しかし、部活が休みなのですることがない。誰かに電話しようかと思ったが、昨日の今日で部活仲間と遊ぶには気まずかった。特に雪乃とは。夕方待ち合わせをしている凪のほうは、うっかりしたことに携帯番号をまだ知らなかった。どうしようか迷った結果、里央は私服に着替え、何となく経川まで電車に乗って出かけていった。
夏一色だった。空は晴れ、気温は上がり、半袖やノースリーブの服を着た人々が行きかっていた。休日なので人出が多い。「夏休みだなあ」里央はつぶやいた。高一の彼女にとって、夏の街は魔法の王国のようだった。二年後に気づく大人の世界などには程遠く、まだまだ時間もあった。自由があり、すべてがあった。里央はま、ずデパートの服を見て回った。夏物はひとしきり買っていたが、それでも別の服を着ている自分を想像するのは楽しかった。何着か試着までしてしまった。いつもの服より一つ細いジーンズが入った時には、思わずガッツポーズを取った。それから本屋に行って少女漫画を買い、スターバックスでダークモカ・オレンジのフラペチーノを飲みながらそれを読んだ。この頃部活ばかりだったので、里央は比較的小遣いに余裕があった。購入した漫画は、前から気になっていたものの、手を出さずにいたシリーズの一巻目で、里央のツボに見事ヒットした。案外彼女は少女趣味だった。しかし恥ずかしいのでそれを人に明かしたことはなかった。(ばれてしまえばお嫁に行けないわ……)とか微妙にわけのわからないことを彼女は考えていた。漫画を三十分で読み終えてしまうと「二巻も買えばよかった」里央は独り言をいった。すっかり虜になってしまっていた。昔ながらのハンサムボーイ待ち受け型恋愛物語だった。(あんな男の子が私の目の前にも現れたらなあ。でも、今時白馬の王子様を待つのってはやらないのかしら)里央は思った。その後図書館に行き、小説を読んだ。三分の一ほどしか読めず、借りると返しそびれそうだったので、そのまま棚に戻した。周りを見ると、勉強している人が多かった。里央は夏休みの宿題が出ていることを思い出す。「めんどくさいなー」と彼女はのん気につぶやいた。伸びをして、時計を見ると正午を回っている。一度家に戻ろうと思い、里央は駅に引き返した。
夕方、二人はほぼ同じ時間に待ち合わせ場所に到着した。互いにラフな私服のままだった。浴衣姿の人を眺めていた凪に、里央は「私たちも浴衣着ればよかったねえ」と呼びかけた。凪は飛び上がって、「そ、そうだね……ゆかた」何やら妄想しているようだった。顔が赤いので里央には一目でそれが分かった。「今度また二人で出かけることがあれば、その時は着ようね」と里央は言った。凪はこくこく頷いた。
町内の縁日だったので規模はさほど大きくないが、それでも神輿や打ち上げ花火も何発か上がる予定になっていた。夕陽の沈みかけた通りに屋台が並び、黄色い電球の明かりがともると、昔にタイムスリップしたような、情緒あふれる光景があらわれた。里央は心が弾んできた。小学校の頃、自治会のお祭りを手伝ったことを思い出した。その頃とほとんど変わらぬ無邪気さで、里央は凪の手を引いた。「行こう、凪ちゃん!」
里央と凪は縁日を順番に回っていった。金魚すくいやヨーヨー釣り、千本くじに射的。里央は射的で見事全部命中させ、大きなぬいぐるみを獲得した。しかし荷物になるので小さいほうを選んで袋に入れてもらい、凪にプレゼントした。「えっ、いいの……?」凪は驚いて里央を見た。縁日の明かりが瞳にきらきら反射していた。里央は微笑んだ。「もっちろん!」金魚すくいでは凪も里央もわずかしかすくえなかった。持って帰るか訊かれたが、二人とも首を振った。「きっと死なせちゃうわ」と里央が言った「こうやって遊びに使ってるだけでも勝手だもんね」凪は里央がそう言うのを聞いて頷いた。
ひとしきり遊んだあとで、二人は焼きそばやあんず飴を買って食べた。路傍に座っていると、目の前を神輿が通っていった。「すごーい。何かみんな元気いっぱいだなあ」里央が言った。凪は口をぽかんと開けて行進をながめていた。「夏原さん、こういうとこあまり来ないの?」小さくなった飴をくわえたまま里央が言った。凪は、「うん。ほとんど来たことない。……たのしいな」里央は笑う。「そう、それはよかった。私ね、小さい頃からこういうお祭りが好きでさ。すごく幻想的っていうか。ここにしかないんだよね、この空気って。だから好きなんだ」そう言って神輿の背を見送った。それから二人は、しばらく普通の、ありふれた話をした。好きなタレントの話になるとずいぶん盛り上がった。凪は案外、健康的な体育会系の男子が好きで、里央は三十代にさしかかったばかりの男性に魅力を感じると言った。「でもつき合うとなると別だろうなあ。こういうのは憧れって感じでさ」里央がそう言うと、凪は「そうだね……」と言って照れ、また赤くなる。どうも「つき合う」という言葉に反応したようだった。「ね、夏原さんって好きな人とかいないの?」ここぞとばかり里央は訊いた。「ええっ」と凪は言って、「い、いないよ……」と視線を伏せた。「ふうん」里央は膝に頬杖をつきながら凪を見ていたが、「見つかるといいねー、誰かこう、素敵な人がさ」そう言われて、凪は蒸気があがりそうなほど赤くなった。
その後、二人は歩道橋の上まで移動した。皆考えることは同じらしく、人で混んでいる。公園のほうから花火が上がりはじめると、凪と里央は並んで空を見上げた。共にほとんどしゃべることなく、色とりどりの光が炸裂しては消えていくのを眺めた。十五分ほどで終わり、二人は余韻に浸った。「終わっちゃった」「うん。すごく綺麗だった」里央は日常とだいぶ違う一日だったと思った。いつもの生活も嫌ではないが、今日は今日で素敵だった。
帰り道、里央は凪の絵を見るきっかけとなった出来事を話した。「私さ、この前の交流試合で、キャプテンだったけど負けちゃったのね。練習試合だけどやっぱり勝ちたかったから。でもうまくいかなくて。落ちこんでたら、夏原さんの絵が飾ってあるのを見て。勇気づけられた」
「そうだったんだ」凪は言った。「私の絵……」と凪は言った。「賞とかもらってもあんまり実感がなくて。未熟なところがいっぱいあるし」凪がそう言うと、里央は驚いて凪を見た。「そんな、すごくいい絵だよ! 何かこう、私は小さなことでくよくよしてたんだなあ、って思えたもん。夏原さんの絵は自由でのびやかで、見ると明るい気持ちになる」凪はその言葉にくすぐったそうな顔をした。そして小さな声で、「ありがとう」と言った。里央は、「私も頑張らなくちゃ。ねえ夏原さん、また新しい絵が描けたら見せてね」そう言って笑った。すっかり持ち前の元気が戻ってきていた。「うん」と凪は頷いた。そして嬉しそうに笑った。
ある日の部活で、里央は雪乃に謝った。「ごめん。私、つまらないことで意地を張ってたよ」雪乃は里央が謝ったことに驚いているようだった。「えっ。どうして里央が謝るの? 何も悪くないじゃない」里央は自分の気持ちを打ち明けることに少しためらった。「だって、私雪乃に嫉妬してたんだもん。負けず嫌いだから。雪乃のほうがみんなのことを分かってるのに。私は一人でふてくされた」「そんなことないよ。私、本当に里央の方がキャプテンに向いてると思うもの」里央は雪乃を見た。「ほんとにそう思う?」里央が尋ねると、雪乃はうなずいた。「里央のやり方もきっと先生に分かってもらえると思う。私にはああいう風に攻めることはできないから。今はいいかもしれないけど、里央が引っぱったほうがうちのチームは絶対強くなる」里央は雪乃に感心してしまった。どうしてここまでいい子なんだろう。「雪乃、ありがとう。私もっと頑張ってみるよ」里央がそう言うと、雪乃は笑った。
それから里央は部活に、凪は美術によりいっそう打ちこむようになった。彼女たちは学校でよく話をしたし、昼休みに、美術室で一緒に凪の絵を見ることもあった。しかし休日はどちらも忙しくなり、一緒にどこかへ出かけることはなかった。季節が秋に変わり、葉が落ちて冬になり、高校二年の春が来ると、二人のクラスは別々になった。凪は県外でも入選するようになったし、里央はその頃にはキャプテンに返り咲いていた。彼女たちの日々はとても充実していたし、それがやがて移り変わっていくことなど思いもしなかった。進級した後、たまに廊下で目が合うと、里央と凪は互いに手を振ったり、頬笑みを交わすことがあった。それは二人の間に何か特別な絆があることを感じさせたが、二年生の間、二人が話すことはほとんどなかった。どこかで彼女たちは、時間はずっと続いていくものだと思い込んでいた。このまま、色々なことが続くと思い込んでいた。だからいざとなれば、いつでも、いくらでも話す機会はあると思っていたのだ。多くの高校生が考えているのと同じように。茅野里央と夏原凪がふたたび親密な言葉を交わすのは、もう少し先、高校三年の夏のことである。
榛と秋斗と里央と凪
秋が始まった。光は黄色くなり、空が高くなり、夏は遠い場所に変わる。木々が色づいて、風が少しつめたくなる。
経川の街はすっかりせわしくなった。学校や会社へ行く人々が、少しずつ長袖を着るようになり、秋らしいブラウンやパープル、チェック模様などのアクセントを服装に加えるようになる。榛は相変わらず予備校に通っていたが、以前より少し前向きに勉強するようになった。たまに思いきり抜け出して、喫茶店で音楽を聞きながら小説を読んだりしている。時々里央からも呼び出しが来て、ウィンドウショッピングにつき合わされる。たまに本当に買うこともある。秋斗からはある日告白を受けた。告白といっても、それは同性愛を打ち明けるものではなく、彼がずっと榛に隠してきた迷いに関するものだった。秋斗は榛に「部長」は自分で作り上げた一面でしかないことを話した。そして謝った。しかし榛は何も気にせず、むしろ嬉しいくらいだった。榛は何となく「部長」はそんな人なのではないかと思っていた。だから思ったままを彼に伝えた。「それでも俺と部長の二年間は何にも変わりませんよ。すごく楽しかったし、それは部長のおかげなんです」部長、いや秋斗は、その時はじめてまことの友を得たのだった。秋斗と榛は真剣に進路について話し合った。秋斗は少し意識が変わり、真剣に医学部を目指そうと思っていると榛に告げた。「僕が発明をやっていた時間は永遠のものだ」と彼は言った。しかしそれにもかかわらず、榛は発明を続けるべきだと大真面目に主張した。彼がそんなにはっきりと自分の考えを伝えるのは珍しいことだった。「何を言う榛くん。それがどれだけ困難なことか、今のきみなら少しは分かるだろう。二年前に恵くんがどれだけ苦しんでいたか、今のきみなら察することもできるはずだ。それなのに僕にそんな夢みたいなことを言うのか?」「だって部長はエジソンを超えるんでしょう? 終わらせちゃったら、もうずっとそんな日は訪れませんよ。俺はそんなの嫌です。発明しない部長なんて部長じゃありません!」榛と秋斗は三時間近く意見をぶつけ合った。榛はやはり発明をしている秋斗が好きだった。どんなに時間が減っても、榛は秋斗の発明品がこれからも見たかった「きみって奴は……本当に無垢だよな」と秋斗は言って頭をかき、しまいには「医学部に行くよ。でも発明はやめない」とまで告げた。そんなことが本当に実現するかは問題ではなかった。榛と秋斗は精神の深い部分でたしかにつながっていた。高校の間、どれだけ多くの友人を持っていても、彼らのように未来にも続くほどの絆を得た生徒は、おそらく少数だっただろう。それはまぎれもない友情であり、愛だった。ただひとつ、その力だけが、どんな場所にも時間にも光をともすことができると彼らは知っていた。秋斗と榛は握手した。
「凪ちゃん、秋斗さんにべた惚れで薔薇色乙女状態なの。ねえ榛くん、聞いてる?」
ある日、里央は榛に言った。肩を叩かれ、榛は飲んでいたホットコーヒーでむせそうになった。里央と榛は公園に来ていた。秋の日だまりの中で、温かい時間が流れている。
「聞いてるよ。夏原さん、すっごい一途っぽいもんねえ」榛は悠長に言った。里央といれば榛は何もかも幸せだった。そのうえ凪と秋斗が幸福とくれば、もうなにも言うことはなかった。しかし里央はそうではないらしく、「でも榛くん、分かってる? あの二人は美術と医学で進む道が全然ちがうのよ! 離ればなれになる定めにあるのよ! ロミオとジュリエット状態だわ」悲劇的に頭を抑える里央に、「でもべつに家柄で離れるわけじゃないような……」と榛が言うと、「いいえ! そんなことないわよ。現代の自由がむしろ二人を引き離すんだわ。ああ、神様! 私、初詣とかあんまり行かない罰あたりな人間ですけど、あの二人がうまくいくようにお祈りします!」里央は両手を合わせて願った。
この前、里央の家におじゃました榛は、本棚いっぱいに少女漫画が入っているのを見て、里央の隠れた一面を知ったのだった。いわく、少女趣味。そういえばあの夜の自転車デートといい、海辺で泣いた日といい、やたらムーディだったような気がする。「茅野さんロマンチストだったんだなあ」榛は頭を押さえた。「それより俺たち二人がうまく行くように祈ってよ……」榛があきれがちに里央を見た。里央は榛に怒るような笑うような顔を向けて、「だって私たちは全然大丈夫じゃない。こんなに好きなんだもの!」店内にも関わらず、里央は榛の頬に口づけした。榛は真っ赤になって、地蔵のように動けなかった。
学校では凪にもよく会った。目が合うたびに、なぜかいつも視線を外されることに榛は小さく傷ついていたが、やがてそれが凪の癖なのだと分かってきた。「こんにちは」と凪は挨拶した。いつもどぎまぎしているのが可愛らしく、榛はこんな妹がいたら毎日卒倒ものだろうと思った。「お、お兄ちゃん。朝だよっ、起きて……」パジャマ姿の凪を思い浮かべて榛は目まいがした。「あの、どしたんですか?」目の前の凪に言われて、榛は頭を振った。「ああ、何でもないよ! それより新しい絵は進んでる?」榛は、この前美術室に行った際、見せてもらった新作の話をした。凪はまた絵を描けるようになっていたのだ。まだ名前はついていなかったが、一目見て榛はそれが秋の風景を描いたものだと分かった。午後のあたたかい光だとか、紅く染まっていく葉だとか、そういう美しいイメージが大胆な構図で描かれていた。「順調です。それに、いますっごく楽しいんです。生まれ変わったみたい……」と凪は言った。凪についての話を榛は秋斗から聞いていたが、この様子を見る限り、もう屋上から飛び降りるような真似はしないだろうと思った。「そっか。完成がすごく楽しみだよ」榛が言うと、凪は嬉しそうに笑った。絵を描き始めてから、凪は笑顔を見せるようになった。みずみずしい花がぱあっと開くようで、その破壊力たるやすさまじいものがあった。秋斗に「凪くんブロマイド、二千円」を見せびらかされて、榛は危うく買うところだった。しかしまっさきに里央の爽やかな怒りが思い浮かび、榛は我に返ったのだった。「いのちだいじに」
十月半ばのある日曜日。四人は昭和記念公園の大きな広場に集まった。夜明けまで降っていた雨が芝生に露を残し、草木の葉はところどころが光っていた。空は乾き、うろこ雲が白い橋のようにかかっていた。秋斗が発明品を地面に設置している。広場には家族連れやサークル仲間、老夫婦にカップルなど、様々な人がいて休日を楽しんでいる。それを見ていた里央は、「いい天気ね。一年中こんな日ばかりならいいのに」そう言って伸びをした。凪は近くにある樹が落とす影を見ていた。秋の日差しが、その隙間で儚く揺れた。「こんな場所を、きっとみんなが必要としています」凪は言った。榛は「みんなが見つけられるといいなあ」と言って、芝生におおわれた広場を見渡した。遠くにはコスモスが咲いていた。もうすっかり秋だ。夏は遠くに去り、やがてつめたい冬が来る。
「きっと見つけられる」秋斗が言って、立ち上がった。「さあ諸君! 今回のこれは、僕が中学生の頃に作った品を再調整したものでね。今からすれば、ずいぶん稚拙で恥ずかしい作品だが、むしろこの場所にふさわしいような気がしたので持ってきた」仰向けに置いた、扇風機の羽根のような装置だった。透明な天盤に大小さまざまな穴があいていて、模様のようになっている。秋斗は三人を見た。四人はそれぞれに視線を交わして、頷いた。「それじゃスイッチ、オンだ」秋斗は装置の端にあるスイッチを入れた。羽根が回りだすと、無数のシャボン玉が、螺旋を描きながら上空にあがっていく。七色の泡はやがて、まるで透明な柱のようになった。「きれい……」「わあ! すごい」「部長、案外メルヘンチックな時期があったんですね」「うるさいぞ榛くん!」部長は珍しく照れた。「『願いの泡』と名づけた。たくさんの願いがこうして存在している。泡はいつか消えてしまうが、とても美しい。しかし、泡が消えても願いは残る」
「部長」と榛は言った。「それ、ほんとうに部長がつけたタイトルですか?」秋斗は口の端に動揺を示した。「実を言うと今回のリメイクにあたり凪くんの協力を――」「前はどんなタイトルだったんですか!」「榛くん、きみは嗜虐趣味に目覚めたのかね! 僕がこれを作ったのは中学二年生だぞ! その頃考えるタイトルなんて黒歴史もいいところだろうが。いやだ、絶対に教えないからな」「ええー、知りたいですよ。教えてください!」
凪が里央に耳打ちした。里央はくすくす笑い始めた。「凪くん! 言わない約束だったじゃないか薄情ものめ!」秋斗は髪をくしゃくしゃにして言った。「夏原さん、俺にも教えて!」榛が両手を合わせた。凪は、「どうしようかな……」と言って秋斗と榛を交互に見た。「ダメだ!」「教えて!」交互に懇願する男子二人をもてあそぶのは、凪にとって新鮮な喜びとなったようだった。里央と一緒に、彼女は笑った。
無数の願いの泡が、空に向けて舞い上がっていった。秋の光がそれを包み込んだ。
〈了〉
秋が始まった。光は黄色くなり、空が高くなり、夏は遠い場所に変わる。木々が色づいて、風が少しつめたくなる。
経川の街はすっかりせわしくなった。学校や会社へ行く人々が、少しずつ長袖を着るようになり、秋らしいブラウンやパープル、チェック模様などのアクセントを服装に加えるようになる。榛は相変わらず予備校に通っていたが、以前より少し前向きに勉強するようになった。たまに思いきり抜け出して、喫茶店で音楽を聞きながら小説を読んだりしている。時々里央からも呼び出しが来て、ウィンドウショッピングにつき合わされる。たまに本当に買うこともある。秋斗からはある日告白を受けた。告白といっても、それは同性愛を打ち明けるものではなく、彼がずっと榛に隠してきた迷いに関するものだった。秋斗は榛に「部長」は自分で作り上げた一面でしかないことを話した。そして謝った。しかし榛は何も気にせず、むしろ嬉しいくらいだった。榛は何となく「部長」はそんな人なのではないかと思っていた。だから思ったままを彼に伝えた。「それでも俺と部長の二年間は何にも変わりませんよ。すごく楽しかったし、それは部長のおかげなんです」部長、いや秋斗は、その時はじめてまことの友を得たのだった。秋斗と榛は真剣に進路について話し合った。秋斗は少し意識が変わり、真剣に医学部を目指そうと思っていると榛に告げた。「僕が発明をやっていた時間は永遠のものだ」と彼は言った。しかしそれにもかかわらず、榛は発明を続けるべきだと大真面目に主張した。彼がそんなにはっきりと自分の考えを伝えるのは珍しいことだった。「何を言う榛くん。それがどれだけ困難なことか、今のきみなら少しは分かるだろう。二年前に恵くんがどれだけ苦しんでいたか、今のきみなら察することもできるはずだ。それなのに僕にそんな夢みたいなことを言うのか?」「だって部長はエジソンを超えるんでしょう? 終わらせちゃったら、もうずっとそんな日は訪れませんよ。俺はそんなの嫌です。発明しない部長なんて部長じゃありません!」榛と秋斗は三時間近く意見をぶつけ合った。榛はやはり発明をしている秋斗が好きだった。どんなに時間が減っても、榛は秋斗の発明品がこれからも見たかった「きみって奴は……本当に無垢だよな」と秋斗は言って頭をかき、しまいには「医学部に行くよ。でも発明はやめない」とまで告げた。そんなことが本当に実現するかは問題ではなかった。榛と秋斗は精神の深い部分でたしかにつながっていた。高校の間、どれだけ多くの友人を持っていても、彼らのように未来にも続くほどの絆を得た生徒は、おそらく少数だっただろう。それはまぎれもない友情であり、愛だった。ただひとつ、その力だけが、どんな場所にも時間にも光をともすことができると彼らは知っていた。秋斗と榛は握手した。
「凪ちゃん、秋斗さんにべた惚れで薔薇色乙女状態なの。ねえ榛くん、聞いてる?」
ある日、里央は榛に言った。肩を叩かれ、榛は飲んでいたホットコーヒーでむせそうになった。里央と榛は公園に来ていた。秋の日だまりの中で、温かい時間が流れている。
「聞いてるよ。夏原さん、すっごい一途っぽいもんねえ」榛は悠長に言った。里央といれば榛は何もかも幸せだった。そのうえ凪と秋斗が幸福とくれば、もうなにも言うことはなかった。しかし里央はそうではないらしく、「でも榛くん、分かってる? あの二人は美術と医学で進む道が全然ちがうのよ! 離ればなれになる定めにあるのよ! ロミオとジュリエット状態だわ」悲劇的に頭を抑える里央に、「でもべつに家柄で離れるわけじゃないような……」と榛が言うと、「いいえ! そんなことないわよ。現代の自由がむしろ二人を引き離すんだわ。ああ、神様! 私、初詣とかあんまり行かない罰あたりな人間ですけど、あの二人がうまくいくようにお祈りします!」里央は両手を合わせて願った。
この前、里央の家におじゃました榛は、本棚いっぱいに少女漫画が入っているのを見て、里央の隠れた一面を知ったのだった。いわく、少女趣味。そういえばあの夜の自転車デートといい、海辺で泣いた日といい、やたらムーディだったような気がする。「茅野さんロマンチストだったんだなあ」榛は頭を押さえた。「それより俺たち二人がうまく行くように祈ってよ……」榛があきれがちに里央を見た。里央は榛に怒るような笑うような顔を向けて、「だって私たちは全然大丈夫じゃない。こんなに好きなんだもの!」店内にも関わらず、里央は榛の頬に口づけした。榛は真っ赤になって、地蔵のように動けなかった。
学校では凪にもよく会った。目が合うたびに、なぜかいつも視線を外されることに榛は小さく傷ついていたが、やがてそれが凪の癖なのだと分かってきた。「こんにちは」と凪は挨拶した。いつもどぎまぎしているのが可愛らしく、榛はこんな妹がいたら毎日卒倒ものだろうと思った。「お、お兄ちゃん。朝だよっ、起きて……」パジャマ姿の凪を思い浮かべて榛は目まいがした。「あの、どしたんですか?」目の前の凪に言われて、榛は頭を振った。「ああ、何でもないよ! それより新しい絵は進んでる?」榛は、この前美術室に行った際、見せてもらった新作の話をした。凪はまた絵を描けるようになっていたのだ。まだ名前はついていなかったが、一目見て榛はそれが秋の風景を描いたものだと分かった。午後のあたたかい光だとか、紅く染まっていく葉だとか、そういう美しいイメージが大胆な構図で描かれていた。「順調です。それに、いますっごく楽しいんです。生まれ変わったみたい……」と凪は言った。凪についての話を榛は秋斗から聞いていたが、この様子を見る限り、もう屋上から飛び降りるような真似はしないだろうと思った。「そっか。完成がすごく楽しみだよ」榛が言うと、凪は嬉しそうに笑った。絵を描き始めてから、凪は笑顔を見せるようになった。みずみずしい花がぱあっと開くようで、その破壊力たるやすさまじいものがあった。秋斗に「凪くんブロマイド、二千円」を見せびらかされて、榛は危うく買うところだった。しかしまっさきに里央の爽やかな怒りが思い浮かび、榛は我に返ったのだった。「いのちだいじに」
十月半ばのある日曜日。四人は昭和記念公園の大きな広場に集まった。夜明けまで降っていた雨が芝生に露を残し、草木の葉はところどころが光っていた。空は乾き、うろこ雲が白い橋のようにかかっていた。秋斗が発明品を地面に設置している。広場には家族連れやサークル仲間、老夫婦にカップルなど、様々な人がいて休日を楽しんでいる。それを見ていた里央は、「いい天気ね。一年中こんな日ばかりならいいのに」そう言って伸びをした。凪は近くにある樹が落とす影を見ていた。秋の日差しが、その隙間で儚く揺れた。「こんな場所を、きっとみんなが必要としています」凪は言った。榛は「みんなが見つけられるといいなあ」と言って、芝生におおわれた広場を見渡した。遠くにはコスモスが咲いていた。もうすっかり秋だ。夏は遠くに去り、やがてつめたい冬が来る。
「きっと見つけられる」秋斗が言って、立ち上がった。「さあ諸君! 今回のこれは、僕が中学生の頃に作った品を再調整したものでね。今からすれば、ずいぶん稚拙で恥ずかしい作品だが、むしろこの場所にふさわしいような気がしたので持ってきた」仰向けに置いた、扇風機の羽根のような装置だった。透明な天盤に大小さまざまな穴があいていて、模様のようになっている。秋斗は三人を見た。四人はそれぞれに視線を交わして、頷いた。「それじゃスイッチ、オンだ」秋斗は装置の端にあるスイッチを入れた。羽根が回りだすと、無数のシャボン玉が、螺旋を描きながら上空にあがっていく。七色の泡はやがて、まるで透明な柱のようになった。「きれい……」「わあ! すごい」「部長、案外メルヘンチックな時期があったんですね」「うるさいぞ榛くん!」部長は珍しく照れた。「『願いの泡』と名づけた。たくさんの願いがこうして存在している。泡はいつか消えてしまうが、とても美しい。しかし、泡が消えても願いは残る」
「部長」と榛は言った。「それ、ほんとうに部長がつけたタイトルですか?」秋斗は口の端に動揺を示した。「実を言うと今回のリメイクにあたり凪くんの協力を――」「前はどんなタイトルだったんですか!」「榛くん、きみは嗜虐趣味に目覚めたのかね! 僕がこれを作ったのは中学二年生だぞ! その頃考えるタイトルなんて黒歴史もいいところだろうが。いやだ、絶対に教えないからな」「ええー、知りたいですよ。教えてください!」
凪が里央に耳打ちした。里央はくすくす笑い始めた。「凪くん! 言わない約束だったじゃないか薄情ものめ!」秋斗は髪をくしゃくしゃにして言った。「夏原さん、俺にも教えて!」榛が両手を合わせた。凪は、「どうしようかな……」と言って秋斗と榛を交互に見た。「ダメだ!」「教えて!」交互に懇願する男子二人をもてあそぶのは、凪にとって新鮮な喜びとなったようだった。里央と一緒に、彼女は笑った。
無数の願いの泡が、空に向けて舞い上がっていった。秋の光がそれを包み込んだ。
〈了〉