Neetel Inside ニートノベル
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彼女とローリング浪人
第三章 銃と彼女

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 第三章 銃と彼女

 昨日の夜八時頃、ある銀行のATMが襲われた。ジジジッという音が鳴ったかと思えば大きな炸裂音が鳴り、驚いた銀行員がATMを設置してある部屋へ急ぐと、もうすでにATMは消滅していた。ATMと接着していた床や壁までもが綺麗さっぱり無くなっている。辺りはあちこち焦げていて、建材は剥がれ落ちていた。外に出て辺りを見回しても、重たいATMを引きずっている人間は見つからない。銀行員は未だに少しおかしい耳の具合を気にしながら、何とも納得がいかない様子で、とりあえず警察に連絡しようと銀行の中に戻ると、目の前に左手の前腕が落ちているのを見て卒倒してしまった。

「左手? バラバラ殺人とか?」
「いや、そうじゃない」

 美奈川の河岸周辺は完全に交通規制である。井田警部は腕を組みながら明け方の美奈川の水面を眺める。前腕は、パイプオルガンのパイプの様なステンレス製の物体の近くに落ちていた。また、炸裂音が鳴ってから以後、そこにいたはずの警備員が行方不明になっているとのことである。昨日の晩から睡眠を摂れていない警官が井田警部に気だるげに尋ねる。

「それって時間帯同じだったんでしょ? 強盗はウチの管轄外っすよ、警部」
「お前、アレ見ろよ」

 井田警部は川から引き上げられた数体の遺体を指差して言った。花火に爆撃されて損傷が著しい。今回の騒ぎの発端になったとされる打ち上げ船は、自身の爆撃で沈没してしまった。それに乗っていた花火師が数名行方不明であったが、身なりを元に、それらの遺体が本人であるとの確認がなされた。検死やDNA鑑定も行われるだろう。ところが遺体が一つ多いのである。中でも一番損傷の激しい遺体である。

「あの遺体、左手が無え」

 井田警部の予想は的中する。後日確認されるが、遺体と銀行に落ちていた前腕のDNAは綺麗に一致してしまう。「そんな馬鹿な」とは思いつつ、だがしかしそれですべての説明がつく。井田警部は不気味過ぎて気が気でなかった。振り出した雨風で水面に立つさざ波を見つめ、傘もささずにワイシャツを濡らしている。井田警部は想定外である事態のマズさに血の気を引かせた。







 雨が降り出した。しとしとと静かだ。

 銭湯に連れていくのもなんとなくおっくうではある。さっきまで死のうとしていた人間が湯船にさっぱり浸かれるとも思わない。しかし、黒い埃や油が彼女の顔や腕についてべとべととしていた。俺が「銭湯に行こう」といって彼女を外に連れ出そうとすると、彼女は座りながら俺の汚いジーパンを掴み、黙ったまま首を横に振った。

 頭が痛い。俺は強烈な異物であるバケツを早速処分した。冷静という言葉は冷えて静かであると書く。静かにならないと強烈な臭いもわからない。臭いが慣れたはずの俺の頭を痛めつけ、彼女をげほげほと咳き込ませる。混ぜずにこれなら、決行していたらどうなっていたか分からない。俺は触れば大火傷という危険極まりない内容物を元の容器に注意深く戻し、外の一階にある雑草しか生えていない花壇の隣にとりあえず立てかけておいた。

 窓を開けっぱなしにすると雨の飛沫がぽつぽつと入ってくる。彼女の特等席はずぶ濡れだが、換気のために仕方がない。俺が劇薬と格闘している間に彼女は疲れてしまったのか、俺が使っていた枕を盗んで、マットレスがある方の角で枕を抱いて眠ってしまった。掃除は思ったよりも早く終わったような気がしたが、時計を見るとそうでもない。劇薬を扱っていたとはいえ、部屋の中には物が少なく、作業自体は単純であったと錯覚していた。一方で、俺の頭の中は全く整理されていない。整理するのも手遅れだから全部捨ててしまおうとすらしていた程であるが、それは彼女に止められてしまった。

 することが無くなり、壁にもたれかかって座る。俺は床の上に落ちている銃のおもちゃを拾った。彼女が持って帰ってきたそれはおもちゃにしては随分と重みがある。しかし、弾が出てくる肝心の銃口が無く、メーターとダイヤルが付いていた。

 しっかりとした立脚点が欲しい。生きているのか生かされているのかは、傍から見るだけでは区別がつかない。難しい命題ではあるが、もしかすると、生かされている方がただ生きていることより幸せなのかもしれない。腫れ上がる頬はじんじんと痛むはずだが、彼女の眠りはそれより深く、彼女の寝息は小さかった。

 おもちゃを戸の方に構えて、控えめに

「ばんっ……」

 と撃つ振りをしてみた。実家にあったおもちゃと呼ばれる品物はほとんど捨ててしまったと思う。俺は度を超えた潔癖人間かもしれないと思ったのは、そのときが初めてだった。



 気がつくと雨があがって朝になっていた。彼女がいない、でも彼女がどこかへ去ってしまうのではないかとはもはや思わなかった。戸を開けて外へ出ると、彼女は下宿の一階で跳ねていた。おもちゃを持っている彼女は腫らした頬でこちらを見て嬉しそうである。

「なにしてるの?」

 彼女はダイヤルを弄っておもちゃを構えた。

 ジジジジッ ドーン!

「…………!」

 なんだって。

 なんだいまのは。

 銃はおもちゃでなかったのである。構えた銃の先から発射される放電を纏った閃光、レーザーポインターから出る光のように伸びて、一瞬で太くなる。閃光の伸びる先には昨晩のバケツと容器がある。バケツを中心に球面状の放電領域ができたかと思うと、その内部は水と置き換わり、やがて「びしゃっ」と地面に落ちた。バケツ一式は花壇の一部も含めて奇麗さっぱり無くなってしまった。彼女は銃を持った手を後ろにやり、上目づかいで嬉しそうに二階の俺を見る。急いで一階に降りる。

「何! 今! なにしたのいま?」

 驚く俺をみて、彼女は「フフーン」とすました顔をする。バケツが無い。どこにも無い。代わりに辺りはびしょ濡れである。よく見ると小魚が跳ねていて藻が絡まっている。

「それなに?」

 俺が無意識に手を出すと、彼女は嫌がりもせずに銃を渡した。引き金の周りの形態が昨日見た時と変わっている。なるほど、これが安全装置なのか。興味津々に銃ばかり見ていると彼女は下唇を少し出して拗ね出した。彼女の方に目を向けると、彼女は顎を引いてハの字の眉毛で俺を見る。

「ああ、ごめんごめん……」
「……」
「……銭湯行こうか」



 その銃は何なのか。なにが起きたのか。なぜ花壇がえぐれて魚が跳ねているのか。



 ただ俺はこのときから、自分が置かれている本当の状況について、それとなくだがようやく認識し始めたのである。どうやら事は想像の斜め上を突き進んでいるようだ。しかし、銭湯に行こうと聞いて嬉しそうにする彼女の存在は、大袈裟でもなんでもなく、俺にある種の決意をさせるのには十分過ぎた。選択肢がそれしかなかったといっても別に構わない。なんとも頼りがいの無い用心棒で彼女が可哀想だ。彼女は手を後ろに組み、跳ねている魚のそばまで歩いて行くと、これまた正体不明の正八面体状の物体を拾い、帰ってきて俺に手渡した。



 「あっ!」 と叫んだ俺は銭湯で頭を洗っていて、隣の爺さんが心配して俺の方を見た。でもそれどころではなく、思い出した俺は驚愕していた。廃ビルの塔屋で見たエグレはあの銃で空いたエグレに違いなかった。先ほど見た花壇のエグレにそっくりなのである。あの銃は廃ビルに落ちていたのだろうか。あれこれ考えても空回りして髪の泡がしぼんでいくばかりだ。

 彼女の方が先に上がって待っていた。何回でも言うが、何回見ても、彼女の頬が腫れているのが気になる。でも本人はぼーっとして何も考えていない様子であった。彼女は先程のように時折感情を見せるが、未だに波が存在するようで、「帰ろうか」と呼びかけてもしばらく彼女は反応しなかった。それでも帰りに例の自販機の前を通り、買って彼女に渡してみると、やはりもぐもぐとそれを頬張って、機嫌が良さそうである。

 下宿に帰って八面体を眺めているとN000-007との彫り込みがあった。丁度銃のダイヤルも7に合わさっていたので、これについて彼女に聞いてみようかとも思った。しかし彼女は耳にイヤホンをはめて特等席で外を眺めている。彼女が詳しく知っているとも限らないし、話せない彼女にあれこれ聞くのも野暮ったい。その後もしばらく銃をいじっていると中本から電話が入った。

「おい! たいへんだ! お前! 気をつけろ!」
「なんだ?」
「変な奴が俺の家に訪ねてきた! 前送った人形に不備があるから見せろって!」

 ついに組織の奴らが来たようだ。俺は続けて中本に質問する。

「どんな奴だ?」
「背は180ぐらいだ! 似合わねえグラサンつけてる! 服はアレだ! 富士鷹運送って書いてあった! 箱持ってきた運送会社に間違いねえ!」
「じゃあ運送会社が回収しにきたのか」
「それが、なんか受け答えが変なんだよ! 喋りが途中で止まって、なんか怒ってるのかどうなのか分かんないし! ずっと右手でおもちゃカチャカチャ動かしてるし! 箱持ってきた時の奴らとは雰囲気が違うっぽいんだ!」

 運送会社が内部で揉めているのか。「雰囲気が違うっぽい」という話し方は中本らしい。

「おもちゃ?」
「なんかちょっと危ない奴だよ! アイツは! お前の下宿の住所言ったんだ! まず間違いなくお前の下宿にそいつが行く! 気をつけろ! どうするんだお前?」
「わかった。ありがとう。そいつと話するわ」
「本当に気をつけろよ! 警察連絡しようか?」
「いや、構わない。ありがとう」
「本当にいいんだなお前!」

 おもちゃをカチャカチャか……。俺は目の前の銃と八面体を眺めた。

 やがてすぐに玄関のベルが鳴らされ、考える時間もほとんど無く、せわしない。俺は銃を手にとって、戸の穴から外を覗いた。中本から聞いた通りの男が立っている。服装はあの時と同じ目立つオレンジ色で、中本の家に来た運送屋のユニフォームに間違い無い。男が右手に持っているそれは、俺が持っている銃と色違いなだけでそっくりである様に見える。

「ごめんくださーい。富士鷹運送ですー」

 男の声に反応した彼女は目の色が違う。彼女も立ち上がって戸の方にやってくる。俺は目線を彼女から覗き穴の向こうへと戻したが、男は何かに気づいたのか、おもちゃをこちらに向けて構え出した。

 まずい。

 ジジジっ。

 戸を中心に球面上の放電領域ができる。これに巻き込まれたら消えてしまう。俺は咄嗟に彼女を腕で引っ掛けて後ろへ飛んだ。

 ドーン!

 案の上、戸はきれいに無くなってしまった。しかし、落ちてきたのは水では無かった。鉄格子である。玄関に落ちてきたのは鉄格子の一部分であった。突然撃ってきた男は鉄格子を蹴り飛ばしてこちらに近づいてくる。物騒極まりない。俺は男の眼中に無いようで、男は真っすぐに彼女の方へと近づく。一方、彼女は男と目を合わせようとしない。

「邪魔なんだよ……おい」

 男は突然、彼女に向って理解不能なことを言い始める。勝手に戸を壊して不法侵入したあげく、彼女が邪魔だとは、まったく何を言っているんだ。彼女は部屋の隅を見て黙っている。座り込んだ男が彼女に向かって銃を構え出したので、呆然としていた俺も流石に男に話しかけた。

「おいおい。待て」
「あ?」
「お前はなんだ?」

 男はヤンキー座りのまま振り返ると、下を向いて溜息を吐き、両手を広げて首をかしげる。

「人形を回収しているのさ。わかりやすいだろ」
「さっぱりわからない」
「それはお前がついてこれていないからさ」

 早すぎる事態の展開についていけないのは間違いない。それでも男の台詞回しがおかしいという認識は譲れない。男が意外と冗長に喋り出すのではないかと考えた俺は、そのまま質問を続けてみた。

「人形じゃねえじゃん。女の子じゃん」
「本当に……」
「……?」
「本当にい、黙って動かなかったらぁ良かったのになあああ!」

 男は大声で答えた。銃を持った腕が小刻みに震えている。中本の忠告が頭をよぎる。もともと突然戸を破壊してきたことから考えても明らかに普通ではない。俺は他にも聞きたいことがあった。暴れ出す前に話を逸らす意図も含め、あえて質問を続ける。

「それ、その手に持ってるヤツ、何だよ。おもちゃかよ、それ」

 男は見開いた目玉でグラサン越しに俺の顔を睨んだ後、自分の顔の前に銃を徐に運び、今度は細めた目で銃の全体を舐め回した後、ふっと笑ってもう一度俺を見た。

「わからないだろうなあ。お前にはあ」
「わからねえよ。教えてくれよ」
「作った人間は作った責任があるとは思わねえか?」
「あ?」
「水準や格や支配、そういう基本的なところを啓蒙して回らないといけないんだ」
「戸を壊した人間には戸を壊した責任があると思うんだけど」
「お前ん家の戸なら麦鉄デパートの前に落ちてるさ」

 男の台詞は相変わらず宙を漂っている。それでも男に話を続けさせる俺の受け答えもまた異質である。男は立ち上がると、自分で蹴り飛ばした鉄格子のところまで歩いて向かう。

「なかなか下準備も大変でね。学生は気楽でうらやましいことだ」

 男は鉄格子に括り付けられていた八面体を外そうとした。彼女が俺に渡した八面体とは色違いの八面体である。しかし、男が八面体を外そうとしたことは結果的にスキとなった。 彼女は急に上体をひねって窓から007の八面体を投げ捨てた。 かと思うと、俺が後ろへ飛んだ時に落とした銃を構えて男を撃った。

「あっ! このアマあっ!」

 と言った男の周りを球面上の放電領域が包み込む。男は走ってこちらに近づいてきたが、たどり着く前に消失してしまった。床がエグれ、黒い板状の固まりと砂がドスンと落ちる。ところがもうひとつ。もうひとつ落ちてきたのはさっき彼女が投げ捨てたはずの007の八面体であった。

「…………?」

 起こった事態に驚きを隠せない。彼女は俺の袖を引っ張って、俺を玄関から外へ連れ出そうと急いでいる。しかし、俺はさっき投げ捨てられたはずの八面体の行方がどうしても気になり、彼女が引っ張る方向とは逆の窓の外へと身を乗り出した。辺りを見回して、存在するはずの八面体を目を皿にして探す。線路の向こうの道路には、さっき消えたはずの男がうずくまっている。八面体はどこにも無い。

 俺は軽い錯乱状態のまま彼女に引き摺られ、彼女と一緒に戸の無い玄関を通り抜ける。



 落ち着け。

 実は世界への帰還に失敗したのかもしれない。

 まあいい。それは構わない。

 走る足が蹴るこの世界を容認することから始めよう。

 ゆっくりでいいんだ。

 彼女と二人で走るなら構わない。



 初めは中本の先輩から始まり、頼まれてネットに書き込みをすると、富士鷹運送なる集団が彼女を連れてきた。次の日、中本の先輩は死んでしまった。そのあと三週間は何も無かった。

 昨日は花火大会があって、彼女は殴られて帰ってきた。でも彼女はあの銃を持っていた。今日は富士鷹運送を名乗る男が彼女を回収しにきたが、その男も何故か彼女が持っている銃と同じ銃を持っていた。

 下宿の戸はどうなったんだ。戸が麦鉄デパートの前に落ちているという男の言い分は何だ。戸は「撃たれ」た。男は戸を撃ち、彼女はバケツとあの男を撃った。撃たれた後で再び俺の視界に現れたのは、その中でもあの男だけだ。

 いや、むしろ「撃たれ」たものの代わりに「現れ」たものはどうだろう。水と鉄格子と黒い板状の固まり、そして八面体が現れ、男が外そうとしていたのも色違いの八面体、水が出現した時に出現したのも八面体であった。八面体が必ず現れている。

 俺の手を掴んで前を走る彼女。視界に映って揺れる彼女の髪をデスクトップに、脳内コンピュータがひとつの仮説を提示し、曰く「彼女や男が持っている銃は位置を入れ替えることができる装置でありまして、つまり、撃たれたものの位置は八面体がある位置と入れ替わるのであります」と言う。素晴らしい発想だ。素晴らしすぎて、脳味噌の歯車が本当にそろっているのかどうか、全部数えなおしたい気分だ。でも御託をねちねちと言われる前に実況見分をしたいらしい。彼女が007の八面体を外に投げる。それが線路の向こうの道路に落ちる。その後、彼女が男を撃つ。男の位置と八面体の位置が入れ替わる。男は道路の上に移動し、投げた八面体は下宿に戻ってくる。黒い板の正体は道路のアスファルトであり、砂は舗装の下の砂だ。形成される放電領域に通過貫通された物体は、中身の移動で切断・分断される。道路の上におちた八面体を中心に放電領域が形成され、それが道路を切断して移動してくる。

 なんということだ。説明できてしまうではないか。暑さでやられてしまったのか。そんなはずない。やりなおしである。

 彼女は走って逃げる。しかし適当に逃げるという発想が無い、というよりもできないのであろう。下宿から出てすぐの道を左折し、次の丁字路も左折、次を直進すれば踏切を渡って男のいる道路に出るところを、彼女は右折して線路沿いを進んだ。直線距離で男から遠くなるように逃げればいいのに。彼女は数少ない歩いた経験のある道だけを選んで俺を引っ張る。線路沿いを進んだ三つ目の丁字路で、右折ではなく直進を選択した彼女の向かう先は、銭湯やラーメン屋ではなければただひとつ、あの廃ビルに違いなかった。

 戸はどこへ行ってしまったのだろう。あの男だけが帰ってくるなんて不公平じゃないだろうか。バケツ君も、キョウさんも、ライム・スルファー君も俺のもとに帰ってくればいいのに。でも彼らではなく、彼らの代わりに帰ってきたのは水と鉄格子、それに加えて八面体であった。「先程の解が唯一解です」と脳内コンピュータがうるさいので、観念して採用する。この仮説を採用すると、007の八面体は川か海かに沈められていたということが考えられる。バケツ君、キョウさん、ライム・スルファー君の三人は、この地球の水態系のどこかを居心地悪く漂っているに違いない。ライム・スルファー君、自然を汚すなんてひどいじゃないか。

 じゃあ鉄格子はなんだろう。麦鉄デパートの前にこんな鉄格子はあっただろうか。そもそもなぜ八面体を川か海かに沈める必要があったのか。

 ここまで考えが及んだ俺は、もうひとつ、これまた物騒な仮説を唱えざるを得ない。ニュースで放送された内容だと、中本の先輩は突然空中に現れて轢かれて死んだという。

 八面体は移動先で人を殺すために配置しているのではないか。

 放電球面に巻き込まれ、麦鉄デパートの屋上から落ちて死ぬ俺。少し魅力的に感じたが、それはいけない傾向であり、ここが大変重要なところである。不特定多数の人様に迷惑をかけるようなことをしてはいけないのだ。ところが銃についていたダイヤルには十二までの番号が等間隔に刻んである。もし、このダイヤルの目盛が俺の予想の通り、八面体の番号すべてに対応しているのであれば、彼女が握っている007以外の十一個の八面体は未だに然るべき場所に配置されていて、つまり決行しようとさえ思えば、この銃の中には十一種類の素適な旅行プランがたっぷりと詰まっているに違いなかったのである。

 後ろを振り返ると遠くからあの男が追ってくる。しかし下りてしまった踏切の遮断機の前で彼女は立ち止る。とりあえず線路に沿って走ればいいだけのことだが、彼女は両手で俺の右袖を掴み、どうしてよいかわからない様子で辺りを見回しながら足をじたばたさせる。俺は引っ張られる役から引っ張る役に替わり、右折して線路から離れる方向へ行こうと彼女の手を掴んだ。ところが彼女はその場から動かない。

「……?」
「……」
「……。ビル? ……ビル行くの?」

 彼女はうなずく。あのビルがどうしたというのか。しかし「どうしても行くの?」と再度聞いてもうなずくので、呆れながらも「わかったよ」と言って廃ビルへ向かう。直進し、線路沿いに走って四個目の踏切が丁度時機良く開き、左折して線路を横切る。真夏の真昼は真剣に暑い。こんな日差しの強い時間帯に走るなんて中本みたいである。俺のシャツは三歳児の握力でも絞れば出てくる程の汗を湛えている。彼女も汗をかいていて、汗でシャツにへばりつく肌が見える。

 商店街に差し掛かる。普段は人が多いのが嫌で滅多に通らない道である。男は今なお目立つオレンジのユニフォームを纏って追いかけてくるが、男の顔色はそれとは対照的に青ざめていて良くない。おばちゃんのママチャリに腕が当たっても「邪魔だババア!」と怒鳴りつけてそのまま追いかけてくる。車道を隔てて向かい合う商店の数々。人の多さを生理的に嫌っていたはずの俺が、不思議と誰にでも話しかけられそうな気分だ。俺は「ちょっとどいてください」「すいません」「通ります」と、珍しくも大量の言葉を喋りかけつつ走り続けた。彼女を通すためという大義名分があった。

 商店街からビル街に移り変わる辺りに丁度例の歩道橋があって、廃ビルの場所というのは歩道橋の近く、ビル街の端の今は寂れてしまった小路の一画にある。遠くに高層ビルがたくさん建ち始めた地域があるが、ここが再開発の波に飲み込まれるのも時間の問題であろうと思われた。

 歩道橋の上を通り、人気の無い小路に入り、廃ビルの前に来る。男も全くその通り、俺と彼女の後をついてきた。しかし、男は疲れたわけでも無さそうであるのに、追いかける速さがだんだんと遅くなっていき、最後には歩きだしてしまった。唇を歪める男は歯ぎしりをしながら歩道橋を降り、グラサンの下の隙間から彼女を見る。彼女は廃ビルの中へは入っていかず、織金網の前で立ち止まって急にうつむき出す。

「なんだよ」
「……」
「もういいんだよそれは。もうちょろちょろするなよ」

 俺は再び彼女に向って銃を構える男に無性に腹が立った。俺は俺の方から男の方へ近づいていった。

「おい、待て待て! お前さっきも撃とうとしてただろ!」
「あ?」
「それどこに行くんだ! どこに繋がってんだ!」
「繋がる?」
「八面体だよ! 彼女をどこにやるんだ?」

 男は銃を下ろして手元でカチャカチャと銃を弄りながら、しかし視線は俺の方に向け、歯が欠けそうなほど歯ぎしりをしながら何かを考えていた。何か新しい情報を話してくるかと思ったが、男の口から出た言葉は、残念ながら先程とほとんど代わり映えが無かった。

「回収だよ。もとに戻すのさ」
「もとに戻すってなんだ!」



 と言おうと思ったところで、なんと俺は彼女に撃たれた。

 間違いなかった。

 もう一度言うが、間違いない。

 間違いなく俺は放電球面の中にいた。

 色々と素敵な旅行プランが脳内に浮かび上がって溢れてくる。



 素晴らしい。



 彼女の手にかかるなんて素晴らしいじゃないか。



 ところが彼女も俺に飛びかかってきた。

 俺と彼女を放電領域が包み込む。

 考える暇は欠片もない。

 俺は咄嗟に彼女の体の一部が外へはみ出てしまっていないかをチェックする。

「ああ! お! おいっ! ま! まてっ!」

 移動先はいろいろ含めて天に任せる。

 男は最後に何か叫んだが、それはきちんと聞き取れなかった。







 おそらく本来は視覚情報でないと思われる衝撃が青や緑にフラッシュバックして、俺はそれらを視覚の一部としか認識することができなかった。重力に引っ張られる重みが足のみならず全身を周回し、血液やら体液やらがそれに引っ張られて体内でぐるぐると暴れ出す。白い閃光が俺の頭を前へ後ろへ突き抜けて通り過ぎ、気をしっかりと持たないと、自分の存在が消えて無くなりそうであった。しかし、これに解放されて世界に戻って来たとき、俺と彼女は、たとえばデパートの屋上から地面へ叩きつけられるかもしれなかった。そうなれば、なんとも現実離れしたこの感覚が有機体としての最期の感覚となるのである。上下左右、奥行きも時間もわからない異世界。彼女を原点に据えない限り、定義できる物理量は無い。

 しかし、事態は呆気なく終わってしまった。気がつくと暗い。俺と彼女はなにやら狭くて光の無い空間に出てきた。撃たれてから大して時間も経っていない。とにかくそこは狭かった。ぐるぐると回る気持ち悪さは少し残っているが、辺りは暗く静かで、重力も一方向から親しみすぎてうんざりした具合で体にもたれかかってくる。

 視覚が未だにチカチカしている分、触覚は研ぎ澄まされている。そしてなにより、重力に任せて彼女の体が柔らかく俺に圧し掛かってくる。烏の行水な俺が久しぶりにのぼせる。彼女の大きな乳が遠慮なく俺の肋骨に擦れる。話は逸れるが、男から逃げてくる間、それらが汗の所為で卑猥に透け出してきて、俺は実に肝を冷やしていた。「ぶにゅり」と鳴らないはずの音が俺の脳内にだけ下衆に響く。彼女の両太ももに左足を挟まれて、これは本気で不味いと思った俺は、体勢を変えようと手を伸ばした。そのとき「ポコッ」という間抜けな音が鳴ったのである。

 もしやと思って当たった手で壁を撫でる。辺りに響いた擦れる音は乾いている。俺は一本立てた人差し指を狭い空間の角に押し当てた。開いた穴から光が入ってくる。そこからビリビリと壁をこじ開けて外に出ると、見知らぬ部屋に出てきた。

 自分が出てきた方を振り返ると、そこに存在していたのは、見覚えのある箱だった。

「えっ」

 のそのそと四つん這い出てきた彼女は御馴染のハの字まゆげで俺を見上げる。どうやらこれも見たことがある光景である。俺と彼女が出てきた箱は、中本の家に送りつけられてきた箱と全く同じものであった。

 部屋には誰もいない。なんとも砂臭い。お菓子の箱やら使ったティッシュやらが床に転がっていて、勉強机の上に漫画が山積みにされている。玄関には解れたツーピースのグローブが転がっている。部屋干ししてあるユニフォームは実に見覚えがあり、曰く、背番号3番はUNO君らしい。部屋の外の表札にも「宇野」と書いた紙が貼ってあるのを確かめる。宇野の正体の見当がついた俺は、内股座りをしている彼女のうなじを見ながら、背番号14番のNAKAMOTO君に電話をかけた。







 ピンポーン。

「はい」
「私ね、滋和県警交通部捜査課の井田という者です」
「同じく交通部捜査課の乗本です」
「先月亡くなった小野田健さんのことで捜査してるんですが、進さんにお伺いしたいことがありましてね。進さんいらっしゃいますかね」
「……進は僕です」
「ああ、進さんね。捜査にご協力頂けませんかね。時間はそんなに取りませんのでね」

「いやあ、ほんとに小野田さんの事故は謎なことだらけで困っとるんですわ」
「はあ」
「単刀直入に聞きますが何か心当たりありませんかね」
「……なにがですか」
「小野田さん、恨まれているとかね、そういうことありませんでしたかね」
「……ああ。……そんなことは。……特に無かったと思いますけどねえ。……気のいい先輩でした」
「そうですか」
「……親しく話したこともそれほど無かったんですけど。……死ぬ前に頼まれごとをされまして」
「その話、詳しく教えて頂けますか」
「……ええ。……あの、ネットの通販なんですけど」
「ええ」
「……人形でしてね」
「ええ」
「……それが家に届いた日に先輩に電話したんですよ」
「はい」
「……電話は繋がらなかったんですけど」
「……」
「……先輩亡くなってしまったのはその次の日だったんです」
「はあはあ。なるほど」
「実はこちらで小野田さんの携帯の着信・発信履歴は調べさせて頂いたんですが、あなたからの着信はその用事だったわけですね」
「……ええ」
「先輩とはお話できなかったんですね」
「……はい、繋がりませんでしたね」
「あのね、私はこれはただの事故死では無いと踏んでるんですよ」
「……」
「何かのトリックがあるんじゃないかってね」
「はあ」

「その人形というのは」

「……先輩はダッチワイフだって言ってたんですがね。……なにか、……そんなかんじじゃなくて。……なんというか。………………なんと言えばいいかなあ。…………その。……なんと言うか」

「私ね、実は先ほど木寺君と福山君の家にお邪魔して来ましてね、その人形を見せてもらったんですわ」

「……はあ」

「あれはどちらかと言えば車の安全試験とかで乗せられるダミーの人形に近いですね」


「はい?」


「人形見せてもらってもよろしいですか」







 なんと中本の家に刑事が来たばかりだという。そして事前の打ち合わせ通り、俺は剥き出しの人形を下宿へ抱えて帰った数寄者となった。俺の下宿の住所と携帯番号も刑事に伝えたらしい。その刑事が俺に連絡を取ってくるのも時間の問題である。中本はサングラスの男の話は言わなかったそうである。

「おまえどうするんだ。これが本当に決断できる最後だぞ」

 中本が電話越しに俺に警告を出す。中本は銃の存在や、その恐るべき機能の如何を知らない。しかし中本は何よりもまず、俺の中にある繊細微妙な主観的事実を知らないのである。瓦解した思考ブロックをプレハブ的に急遽積み上げた、その土台に何が据えてあるのか。表面だけ拾って形にしても、その説明をしている間にバランスを失って崩れかねない。俺は銃を床に置いて余所見をしている彼女に問いかけた。

「もうすぐ警察が俺のところに来るよ。どう? 君のこと全部話した方がいいかな?」

 彼女はお菓子の箱を見て反応しない。

「警察が守ってくれたら、さっきみたいな訳の分からないのは来ないと思うよ」

 彼女は箱の上フタや耳のところをいじっている。

「俺のところにいても仕方ないんじゃないかな」

 箱をいじる手が止まり、目線だけこちらに向く。まだ周りに青アザが残る中、白目の部分がだんだんと赤くなる。

「いつまでもこんな状態ではいれないよ」

 と言おうとした。



 抱きつかれた。



 お菓子の箱がぽとっと落ち、既に汗でぼとぼとのシャツに鼻水が付き、見知らぬ番号から着信を受けた俺の携帯電話が鳴る。



 俺は黙ったまま携帯をとった。



 中本にはついにことのすべてを話さなかった。宇野君の下宿をこっそりと出て辺りを見回す。知らない土地で全く見当もつかない。携帯のナビゲーション機能によると、現在位置は中本の通う大学を挟んで俺の下宿の反対側であった。ナビがあれば最短距離を辿って下宿まで帰ることも容易い。しかし俺は彼女の手を引いて、一番近い線路沿いの道に向かった。大きく緩やかなカーブを描いてこの辺りの住宅地を突き抜けている線路は、俺の下宿の前を伸びる線路の商店街側の延長、東大麦駅も越えた向こう側であった。

「この線路沿いに辿れば下宿まで帰ってこれるだろ?」

 彼女に待っていてもらう場所を探す。四時間以内には切り上げて帰ってくるつもりでいた。名前も分からない小さな川の川底にペットボトルが引っ掛かっている。その川の流れる先に少し大きめの公園があった。ベンチの上には屋根があって、自販機もある。俺はベンチの傍まで行くと、ポケットに入っていた小銭を全部渡して彼女に言った。

「ここで少し待ってて欲しいんだ。話してくるから。往復で時間かかるけど、四時間以内には帰ってくるつもりなんだ 」

 俺が指差した公園の時計を彼女も見る。銃と八面体は彼女に持っておいてもらうのがいいだろう。あの男のことも気になるが、あの男の持っている銃は、彼女が持っている赤色の八面体には対応していないはずである。彼女がこの場から動かずにじっとしていれば、少なくとも俺の下宿よりは安全に違いなかった。

「のど乾いたらあそこで適当に買っていいから。あんまり遠くに行っちゃダメだよ」

 流石に汗も乾いてきて、シャツに透ける彼女のモノも今や凝視しないと分からない。彼女が首を大きく動かしてうなずいたのを見て、俺は最短距離の道を走って下宿まで戻った。

 下宿までは走って四十分程度かかった。しかし現場は予想を上回る大事になっていて、下宿に着いた俺は、汗をぼたぼた垂らしながらも焦り出した。走っている間に何度も着信があったことに気付き、尚のこと焦る。下宿の周りにはパトカーが数台止まっていて、俺の部屋は完全に立ち入り禁止になっていた。一番傍にいた警官に「あれ、僕の部屋です」と言ったが最後、奥の方から髭の刑事が飛んできて、話が聞きたいと署に連行されてしまった。

 いろいろと詳細を詰問された。下宿へ帰る間も、パトカーで連行される間も、話すことと話さないことをずっと整理していた。それでもいざ話しだすと、それはとんでもない労力であり、俺がなるべく話さないようにセーブするものだから、刑事の方もいろいろと深めのところを遠慮なく突いてきて、かわすのが本当に大変であった。銃や八面体のことは触れず、それにかかわる内容の話は「よくわからなかった」と言い切り続ける。最後はついに諦めた髭の刑事が「以後は気をつけて、何かあればすぐに連絡下さい」と言って終了した。そのとき、既に時計は八時をまわってしまっていた。

 刑事曰く、富士鷹運送が絡むこの手の事件が複数件あり、どうやら昨日の花火の事故にも関与が疑われるらしい。「えぐれに特徴があるんだ」と言うような内容を刑事は必死に熱弁していたが、なんのことはない、あの男があの銃で好き勝手やっているだけなのではないか、と俺は考えていた。そんなことよりも四時間どころか七時間を超過してしまい、彼女を放置する形になってしまった事態に、俺は気が気でなかった。急いで例の公園に走って戻り、喉の干乾びはえずいて潤す。世間の関心は執拗で辛辣だった。







 着いた公園はすっかり夜で、彼女は電灯に照らされながらブランコを小さく漕いでいた。こちらに気付いた彼女は揺れていた足を地につけて止まる。ブランコの柵の所まで走った俺が公園の時計を見ると、九時を十五分過ぎている。壮絶な遅刻。息が切れすぎて言葉が出ず、地面に倒れ込んで肩で息をする。彼女はブランコを降りて歩み寄り、しゃがんで俺の頭側から俺をのぞき込んだ。

 俺は何よりも真っ先に謝ろうと思っていた。不安を何回撃退すれば、八時間もの時間が過ぎるというのか。相手にされないことのやるせなさ、必要とされないことの残酷さは誰よりも知っている。

 しかし、彼女はそんな様子も見せずに大人しく静かであった。彼女は渇いた息を吐く俺の頬を人差し指でつんと突く。俺が彼女に目線を向けると、彼女は人差し指をくりくりと回して俺の頬を軽くほじくる。

 時々思い出したように行動をとる彼女。下宿の窓際に居続けた彼女に、飽きたという感覚があるのかどうかはわからない。ただ、俺が彼女に見出したものは、要らない方の生き物に共通する卑小な防御反応などでは決してない。不安に曝露する時間が長すぎて思考を捨ててしまった、という叙述は、二重に重なる思考放棄のシンプルさがなんとも矮小だ。俺は、彼女の元へと急ぐあまり、この内容を彼女の形容に使いかねなかった自分の思考を恥じた。俺の周りにこれ以上俺がいるとすれば、本当に堪らないことだ。

 彼女は俺が漸く立ちあがったのを見ると、手を後ろに回してブランコに戻った。記憶と一緒に帰る当ても無い彼女は、下の砂から少し離れただけの宙を、寄る辺なく天真爛漫に揺れる。漕いでも漕いでも元の場所にもどる。それでも彼女は詰まらなそうな素振りは見せない。それが当たり前であるとでも言うように、夏の夜の世界を華やかに見せて俺を誘う。

「きみのことは言わなかったよ」

 俺も彼女の隣のブランコに座った。今日はたくさん星が見える。公園は誰もいない。昨日今日と難儀な時間が過ぎたが、ようやく落ち着ける時間ができた。本当は何も解決していない。しかし俺は頭も体も疲れていた。全身の汚いものが汗と一緒に流れ出てしまい、あれやこれやをぐちゃぐちゃと考える力ももはや残っていない。小さく鳴るブランコ。それを鳴らしているのが彼女であり、芯まで浸かり込める早さで、静かな時間がゆっくりと過ぎていく。湿気と気温に疲れが加わって、肌が縮こまずに広がり、体の感覚が脳の支配を拒んでなんとも自由である。

「それにしても凄い銃だな」

 彼女がベンチに放置している銃は世界がひっくり返る程の代物である。彼女はそれには見向きもせず、星を見上げてぼーっと呆けていた。彼女の所為で俺の収束は失敗に終わってしまった。彼女に連れてこられたこの世界は、俺の想像よりもまだまだ広い。この銃を作った奴は一体どんな頭をしているのだろうか。あの男も、もしかすると凄い奴なのかもしれなかった。

「これからどうしようか」

 銃の機能は自由すぎる。俺にはどう使えばいいかがさっぱり分からなかった。とりあえず位置を入れ替えることができるのだから、通学場所や通勤場所に置いておけば、遅刻を大幅に減らすことができる。そして、自宅で自分を撃てば、自分の替わりに八面体が自宅に移る。帰宅するときもそのまま同じ八面体を使用することができるのである。しかし、こういう内容が始めに浮かんだ俺は、脱落したはずの社会に未だにぶら下がっている、収容された小さな人間に過ぎなかった。

 銃があればどこにだって行ける。ましてや、寝ようとした時に、電車の騒音で気分を害されることもない。八面体を好きな場所に置いておけば、そこがどんなに離れていても、瞬時にそこへ向かうことができる。直面する現実から物理的にも精神的にも逃避することができる。八面体が行方不明になれば、きっと自分も行方不明になることができた。どうして地球の重力はこんなにも重いのか。二本の足で立つ俺は、取るに足りない行動範囲においてですら、倒れないよう耐えるのに必死で、きっと遠くへは行くことができない人間であった。立ち方がわからなければ、地べたに寝そべってじっとしているしかない。

 俺は八面体をロケットに載せて打ち上げてしまいたかった。俺の大好きな宇宙空間。順応不要な何もない世界。生きるも死ぬも無い遠く遠くへ向かう世界。彼女だけを飾るのであれば、無数の星がきらびやかに降っても構わない。まわりに蔓延る人間が煩わしく俺を非難するなら、俺は彼女と一緒に遠くへ行ってしまいたかった。







「まいったな。あいつ、なんか知ってるくさいんだがな」

 井田警部は左手の指で机を叩きながら、内ポケットから煙草を出そうとした。禁煙だと言われ、くわえてしまった煙草には火をつけず、軽くしがみながら左右に動かす。

「まあでもしかし、富士鷹運送が絡んでるってのは間違いないな。例の人形は徹底的に調べにゃいかん。まだ残っているの誰だ?」
「木寺、福山、中本と済みまして、後は遠藤、宇野、高山の三人です」
「そいつらの人形の押収は波野に頼んでくれ。戸を破壊してまで無理矢理持っていかねばならん程のもんなら、必ず重大な手掛かりになるはずだ」

 麦鉄デパートの屋上から正体不明の戸が落ちてきたとの連絡が入る。大麦交差点に飛び散っていたコンクリートの成分は、井田警部が無理矢理調べさせた。成分は二通りあり、一方は歩道橋の一部として矛盾がない。しかし、もう一方のものは何の破片か不明であるという。また、銀行に落ちていた物体はスターマインと呼ばれる打上花火制御装置の筒の一部であった。井田警部はシャープペンの尻をカチカチと机に叩きつける。

「しかし本当にそんなものあるのか? 俄かには信じられんのだがな」
「ええ。ちょっとこれは洒落にならないですね」

 井田警部はシャーペンを持っていた手を離し、頭をゆっくり横に振りながら、しばらく髭を触っていた。だが、「ふー」と大きく一回鼻息を吐くと、再び机の上のシャーペンを掴み、部屋から出ようとする。

「まあいい。落ちたトレーラーもなにか関係あるかもしれない。とりあえず俺達は富士鷹運送だ。もう一度あの事務所にいくぞ」
「いや、それがですね……」
「なんだ?」
「先週から社長が行方不明だそうです」







 ブランコに座って星を見ていると警察から連絡があり、戸がデパートの前に落ちていたから見に来てほしいと言う。彼女がブランコに座ってゆらゆらと揺れている横で、俺は下らない枝葉末節の処理しようと立ち上がった。ここで彼女の存在が発覚してしまえば、今まで何をしていたのか分からない。

 ベンチの上の銃と八面体を手にとった俺は、最終確認の意味も込めて、実験を行うことにした。ダイヤルを7に合わせ、N000-007をベンチと離れる方向へ投げる。辺りを見まわしたが適当なものがない。自販機でペットボトルを買い、置いてそれを撃ってみる。ペットボトルは007の場所に出現し、007はペットボトルが元あったところに出現した。撃たれたペットボトルが007の場所と入れ替わったのである。地面の放電球面に抉られた部分も入れ替わり、異なる土の色による円形の模様が残った。確信を得た俺は続けて自分を撃ってみた。例の気持ち悪い空間をくぐった後、俺は007の場所に出現し、007は俺が元いたところに出現した。

 銃のルールを把握した俺は、公園の隅、小さな川の傍でダイヤルを3に合わせ、無造作に捨てられている雑誌を目掛けて引き金を引いてみた。雑誌は消えて、ボトリと例の人形が落ちる。人形の胴体をへし折ると、中からN000-003の八面体が出てきた。行先が分からない八面体は危なくて使えない。俺はこの操作を繰り返すことで007以外の八面体もすべて回収してしまおうと思った。ところが銃を構えて連射してみると、二発目が出ない。俺は銃についているメーターの存在を思い出した。

 メーターが貯まるのを見ている間に、俺はふと大事なことに気がついた。このまま人形を置いて帰ってはいけない。粗大ゴミの違法投棄で済めば良いが、この公園で銃を使用していたことが発覚すると不味い。そもそもこの出現してきた人形が、元々どこに位置していたものかが分からない。既に宇野君の人形はもう移動してしまったが、保管していた人形が急に消失すれば、他の中本の友達も驚くに違いない。まして警察が保管していたものであったりすれば、大事な証拠を盗られてしまったと大騒ぎになってしまう。次からも当分人形が出現し続けるのではないかと考えた俺は、ダイヤルを変えた銃で、次から八面体抜去済の人形に向けて撃つことにした。人形の入れ替わりには気づきにくいだろう。八面体だけ抜き取ってしまおう。今出現した始めの一体だけ、向こうでは雑誌になってしまっているのは仕方がない。

 001から006まで、出現したものは全て例の人形であった。彼女が合わせたダイヤル005については出現した人形の損傷がひどい。俺と彼女と入れ代わりに廃ビルに落ち、男の腹癒せ材料として蹴られたに違いない。008は引き金を引いても何も起こらなかった。009と010は同じジャケットのポケットに隠れたまま、ジャケットごと移ってきた。また、011と012は辺りが砂まみれになってしまった。

 008以外の八面体を回収した俺はブランコに戻る。両手に山盛りの八面体を持ったまま、相変わらず呆けていた彼女に「帰ろうか」と言った。彼女はこちらを見ると、立ち上がって八面体を上から五個取り、胸元で両手に抱えた。

 帰り道は相変わらずの線路沿いである。枕木を挟んだ二本の軌道は相も変わらず長く伸びる。線路のこちら側の歩道は、しばらく行くと広がった車道に押しやられて無くなってしまった。降りる階段に続いて線路の下をくぐると、線路の反対側へ出る。排気ガスにまみれて少し黄色くなった雑草の横、土手の上を走る線路を尻目に舗装された川辺を歩いて、高速道路の太い影をくぐる。北野麦川と彫られた石碑を過ぎ、気が付けば街灯が思い出したように行儀よく並び始める。流れの悪い北野麦川は周りの都市部の地上からは少し落ち込んでいて、美奈川に繋がっているとは言え、他の支流に比べると随分と汚い川であった。しかし川幅は広く、歩く足元は珍しくゴミが少なかった。むしろ、諸々の有機物をどっしりと構えて湛えつつ、俺に気を遣っているのか、俺の目に入る表面だけは、ネオンの落ちた水面をキラキラと輝かせていた。彼女は前を進む。コバエの大群がいれば大変だ。しかし、俺は八面体を落としてしまわないようにゆっくりと歩きつつ、星とネオンの間を線路に従ってゆっくりと歩む彼女を、後ろからずっと眺めていた。長く伸びる線路の先はどこに続いていても良かった。

 すっかり遅くなって着いた下宿は戸が無くなっていて涼しい。いくらガムテープで頑張ったところで、これでは閉じようが無い。防犯能力が限りなく無いに等しいこの状況はなんとかしなければならない。しかし、ここの大家は以前から様子がおかしかった。この春に、門のところに貼ってあったチラシを見て、俺は一階の大家を訪ねた。部屋を借りたいのだと言うと、「あはあ。そうですか」と言う。他にもいろいろなことを質問したが、暖簾に腕押し、打てど響かずな様子で、俺の言っていることを理解できているのか、よく分からない。「借りますよ! いいですね!」と押しきっても、返事はやはり「あはあ。そうですか」であり、俺は玄関に束になって置いてあった契約書等々を適当に取った。大家の隣の部屋の住民にも尋ねてみた。出てきた金髪の男は、それで構わない、あとここに連絡してくれ、あの大家の親戚だから、と言ったきり、さっさと戸を閉めてしまった。

 こんな様子では、戸が無くなった件を相談しても「あはあ。そうですか」で終わってしまうに違いない。大家の親戚だという連絡先に連絡しても、入居時の不愛想な感じから察するに、まともに取り扱ってはくれないだろう。それならそれで、最低限カーテンぐらいはつける必要がある。そこまでは考えた。しかし、無くなってしまった戸は何とも滑稽で、何故か俺は、それを早急にしなければいけないこととは感じることができなかった。

 だが一方で物騒である事態自体は何とかせねばならず、必ずどちらかが見張りとして起きておく必要があった。彼女は帰るなり八面体を撒き散らすと、再び俺の枕を盗んでマットレスに転がり込む。そのままスースーと眠ってしまった。二日連続で無理もない。俺も早く寝たいが、今日はこのまま俺が起きていることにした。例の髭の刑事に電話し、戸を見に行くのは明日にして欲しいと頼んだ。

 強烈な睡魔が襲う。それでも高校の頃は夜な夜なネットをして起きていたものだ。眠気を紛らわすために、久しぶりに俺はパソコンを立ち上げた。それが結果的に眠気を紛らわすには抜群だったのである。むしろ、眠気なんてものは意識の彼方に吹き飛んでしまった。



 数時間前にメールが届いていた。俺はもう一度確かめた。

 例の通販、メールフォームの返信元から届いたメールに間違いなかった。

 スキャンをかけるがウイルスの類は検知されない。

 不審に思いながらも、俺はパソコンの中身を別に移し、クリックしてメールを開いた。



「8/5 26:00  歩道橋を降りたところのビル 一人で来い」



 俺は当分の間、寝不足が続くであろうことを覚悟した。


       

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